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一 E白人と同居形態一支那人独立形態一総一

ドキュメント内 長崎居留地貿易時代及び其後の諸問題 (ページ 33-38)

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スミスが指摘しているように︑白人の中にば文那人一L一結託して密口幼をたすものもあった︒また支那人がr

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で︑俵物役所の買上値段より高い値段で︑邦人から密買して︑輸出した場合もありうる︒銅銭は出向貿易時代からオ

ランダへ輸出された︒また買弁と同時に独立の常業を兼務する者も居った告であるから︑外入居留地の支那人のすべ

てが独立の営業者ではなかった口山人の家庭内で家事労働に従事する﹁召使﹂から︑独立営業者にいたるまで︑荷々

の段階があって︑身分上の区別は容易につけにくかった︒

開港当初︑外人居留地の埋立が完成するまでの問に川人の中にも広馬場︑十善寺郷等の一之那入居留地の中に居住す

るものがかなり居った︒広馬場附近は円︑支雑居の状態であった︒しかも支那人の数が出倒的に多かった︒かかる状

態の中で支那人の身分を識別することは極めて困難であっ亡︒日人のほパの召使と﹁外国人附属白人﹂との区別は容易

につけにくかった︒文久二年から慶応元年頃︑大浦にはグラパ!とオlルト粁営の茶製所(円

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が二つあり︑そこで支那人が働いていた︒彼等は﹁外国人附属山人一とされていたが︑実質は臼人の使用人にす

ぎない︒従って附属唐人にも種々の段附があった︒また業種にも庫々あり︑仕引い何一︑料引人︑弟子臣︑妾等右の何れ

にも属さない者も居った︒乙の点についてパスク・スミスは什人の使用人の名目で居留地に支那人の居住を認めた乙

とは︑白人にとって金儲の一手段であったことを述べ引つづき︑

えず紛争の源であった︒何となれば︑彼等の身元を証明することは極めて困難でみのったから︒日本人は支那人ギルド

の商人を保護するために︑この種の支那商人の泌密の取引を阻止しようと欲した︒しかし真の召使と偽の召使との問 ﹁この間開の支那人の行為は奉行と領事達にとってた

に区別をつけることは殆んど不可能であった︒結川︑日本人は外川人に一服Pれている支那人に対して︑各国領事から

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それぞれ特別の身元証明書を交付させた︒しかし支那が条約国になるまでこの料害は多年にわたって続い

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普から長崎は支那人が白人よりも圧倒的に多かった︒文久二年から明治三年までの問︑外入居留地だけでさえ支那 人はその居留地住民の五

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汚から六六%を占めていた︒明治一万年に外人と支部人心両目留地を

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む長崎七体での刊人

と支那人との比は︑白人一九五人に対し支那人七四三人で一対三・八に当る︒外入居留地も一事実

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立支那人居留地の

観を呈していた︒多数の白人の中での少数の支那人でゐったならば︑取締がよくできて身元証明書ち効力があったに 相違ないが︑倒幕運動が盛んな幕末動乱期の長崎奉行の警察力でほとうてい居留地の多数の支那人の取締ができる警

はなかった︒身元証明書の効力がなかったのは当然で一ぬる︒パス勺スミスの記述はその当時の真相を伝えるものでみ

る年月を経るに従って︑附属の形式をとらないで貿易を営む支那人も多数出たに相違ない︒明治三年以後ほ附属の形

式をとる支那人は居らないようになった︒事実上において附属の形式をとる必要がなくなったと見るベ︑きである︒ま

ろう

︒ た翌四年七月には日清聞に条約が成立する機運に際会しては尚更その形式が無視されるようになったこと止当然であ

菱谷武平︑長崎居留地における華僑進出のが梓について(長崎大学学芸学部︑社会科学論護︑第引号)九一ページ

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菱谷︑向上書九二ページ

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間森永種夫編犯科帳(十一)  

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長崎居留地貿易時代及び其後の諸問賠

経 営 と 経 済

一 ム ハ (10)  (9) 

菱谷︑向上書九二ページ

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11 菱谷︑向上書︑九四ページ

第三節

俵物輸出独占権をめぐる問題

欧米諸国から多数の商人達が来朝した当初ギルドを中心とする支那商人の根強い勢力に直面し︑著るしく困難を生

じたことは事実である︒パスク・スミスは﹁支那人は長崎奉行の直接の折揮によって︑毎年六︑000ピクルの銅と

それと同じ量の飽︑煎海鼠と称する商品とを供給︑JUれに︒これらの三つの商品は他の外国人に売ることは禁ぜられて

居り︑その値段は相対売買で定められるのではなか川た︒:::以上の事は要するに長崎

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外国貿易は支那人の手中に

あった︒それはギルドの特権が続く聞は存続した︒﹂と述べている︒唐貿易に対しては幕府は寛保二年(一七四

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に一年間の入港隻数を一O隻に限り︑銅は同じく一五O万斤の輸出を許した︒尚その他翌年には銀一︑000貰日に

相当する俵物替の輸出を許した︒この俵物輸出の独占権は長崎の文那商人の手に握られ︑開港後も長崎では慶応元年

(一八六五)八月まで存続した︒

英国公使パlクスは幕府に対して︑俵物貿易独占の廃止を︑安政六年(一八五九)七月八日と二二日の二回にわた

って要求した︒かくて遂に長崎では慶応元年(一八六五)八月二日に︑この俵物(いりこ︑干飽︑ふかのひれ)の特

権は廃止され外人に直接売波すことが公許された)しかし相館でばアメリカ白克一

些求により︑開港後翌午の万延元

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年二

月一

O日(ト八六C・一二・二)に︑知館奉行は干紅︑いうこは︑長的俵物万から前金受取分を除︑三︑外悶人へ自

りL由販売を許した︒長崎俵物役所に全国から佳子︒俵物りっち︑その三分の一は北国地万の産でゐったむ支那商人は北問

産のものは品質がよいので︑それを最も強く希望した︒海産物主産地の中心である箱館でアメリカに許した以上は︑

戸 註

J各国との通商条約は何れも最忠国条項を規定しているから︑各国民平等に取扱われるようになるのは当然であって︑

特権廃止は時期の問題にすぎなかった

c長崎でその特権廃止が箱館より五年もむくれたのは次の事情によるつ

(註)日米聞の神奈川条約には規定はないが︑その後締結された日蘭(九条)︑日露ご六条)︑日英(一一一一一条)︑日仏(一九条

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尚︑安政六年(一八五九)から文久三年(一八六一二)までの商館からの俵物輸出高表は次の通り︒函館では毎年長

崎俵物役所へ全国から集められる俵物のうち︑大口の数量を送荷することを請負っていた︒その前金は俵物役所から

函館の請負人に送っていた︒従って︑左の数量は右の請負高以外の分である︒

函館港俵物輸出高表(単位・斤):・

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畏崎居留地貿易時代及び其後の諸問題

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慶応元年八月からは長崎に於ても俵物貿易の独占権が廃止され︑

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る全国の俵物輸出高及び輸出金額は次表の通りである

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前表と比較すれば︑年度は少しずれているが︑函館が全国に

一般に相対売買が許された︒慶応二︑一二年におけ

おいて俵物輸出貿易に占めている比重が如何に大であるかは大体において明かになる︒

表(斤)

煎 海 鼠

干鮫・鮫鰭

鹿応二年

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ドキュメント内 長崎居留地貿易時代及び其後の諸問題 (ページ 33-38)

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