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長崎居留地貿易時代及び其後の諸問題
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幕府を始め各藩によって購入された艦船ば七四隻︑四三七万ドルに及ぶ一)元治元年(一八六四)の分は隻数は不明で
あるが金額は一O
九万ドルである︒従ってそれを加算すれば︑文久三年から慶応三年までの五年間に五四六万ドルの
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長崎居留地貿易時代及び其後の諸問題
七 五
経 営 と 経 済
七六 艦船の輸入がなされたことになる︒隻数は元治元年の分は明かでないが︑右の金額から判断すれば︑十数隻の購入に なる筈であるから︑少くとも八五・六隻の輸入がなされたことになる︒元治元年は除いて︑文久三年から慶応三年ま での四年間に︑長崎港における主な艦船の購入者と隻数︑金額(万ドル位未満切捨)は次の通りである︒
金額(単位万ドル)
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以 下 略
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10.出
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輸入隻数は文久三年一二隻︑慶応元年に二ニ隻であったものが︑慶応二年︑三年に夫々二五︑二四隻に飛躍的に増 大しているととは︑やがて来るべき明治維新の動乱に対して︑各藩が急速に備えようとしたことを物語るものである︒
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また次表に見られるように︑動乱の形勢が逼迫した慶応二・三年になると︑大藩どけでなく︑小城藩︑宇和島藩︑
大州藩などの小藩も争って艦船の購入に努力したようすを知ることができる︒
これらの艦船や銃砲︑火薬等の近代兵器の輸入は専ら外国商人の手を経て行われた︒彼等はそれによって巨利を収 めた︒彼等のうちで最も有力なのはグラパーである︒幕末から明治初年にかけて外人と邦商との聞の訴訟事件記録中 にも︑艦船や小銃の取引に関する事件が多い︒これらは莫大な金額に上る艦船や武器︑軍需品の取引の極めて一部分 にすぎない︒いわば氷山の一角にすぎない︒それらの商人の中にはオ
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ル(米)等の名が見える︒彼等の中で最も活躍したのはグラバーである︒
慶応二{一半年長崎に於ける艦船購入者(単位弗︺
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額長崎居留地貿易時代及び其後の諸問題 彼は艦船︑小銃等の輸入や︑海産物︑生糸の輸出をなすほか︑多方面に活躍した︒彼は自己所有の汽船によって海運
七七
経 営 と 経 済
業を経営していた︒慶応元年に薩摩藩の留学生である五代友一陣︑寺内宗則︑森有礼等の一行一九名が英国へ渡航する
に際し︑ゲラパi所有の汽船で鹿児向から香港へ渡航した心底応元年頃︑伎は上海から蒸汽機関車を輸入し︑大浦海
岸に鉄道を敷設して︑これを走らせた︒我国汽車鉄道の起源である︒この機関車は後で大阪に移されて逆転された︒
明治元年に佐賀藩の鍋島侯と相謀り︑英本国からも出資者を求め︑共同出資で長崎治外の高山炭鉱を開発経営した︒
七 入
更に五代友厚に協力し︑薩摩藩の小松市万︑某貿易商社と共同出資で小菅ドックを建設した︒幕末当時長崎に来てい
た明治維新の志士の中の桂小五郎︑高杉山作︑井上聞多︑伊藤俊介︑坂本竜馬等を幕府の迫及から逃れさせるために
居留地の宏荘な自宅にかくまっていたこともある︒
長崎に来往した外国商人は︑本国から直接来航したのではなく︑上海から渡来した者が多い︒彼等はヨーロッパか
らはるばる東洋へやって来た冒険商人の子孫達である︒グラパl
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一八三八年(天保九)にスコッ
トランドのアバディlンの近くで生まれた︒父は海軍将宵で家は造船業を営んでいた︒二O才の時に上海に来て商業
を営み︑間もなく一八五九年(安政六)に長崎に来た︒イlウエンス(悶︿ωロ
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の長崎支屈の責任者である︒蘭商クニフラ
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は一八五九年(安政六)に︑パタピアから長崎に来た︒
彼等は豊富な資本力を利用して︑輸出入貿易だけでたく︑孜国の沿岸航路に従事していた︒沿岸航路の例としては
英商コキンは明治二年頃︑函館︑長崎閥の辺送業務を行っている︒慶応四年に幕府滅亡後︑民後の長崎奉行が長崎か
ら江戸へ引揚げる時には米国汽船を利用している口明治八年の独商レlマンと会津藷足立泉との間の小銃取引に関す
る訴訟事件当時にも︑関係者の一人の松永が米国郵何船で東上している︒また蘭商クニフラーは安政六年五月にオラ
ンダ商船シキルレル号により神奈川へ上っている︒長崎のほか更に横浜でも商館を開設する目的であったことは明か
であ
る︒
(後述)右の諸事実はその当時我国での沿岸航路に英・米・蘭等の外国汽船が活躍していたことを物語って
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彼等は豊富な資本力と艦船︑銃砲︑火薬及び其他の軍需品等の輸入によって収得した巨額の利潤とによって︑従来 ︒
支那商人が手をつけ得なかった鉱山開発︑海運業等の新生面で縦横に活躍した︒阿片戦争(一八四
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四二︑天保一一ー二ニ)後︑唐船の入港数が大幅に減少すると共に︑支那商人は次第にひっ息せざるを得なかった︒唐船の入港数
は安政年間には次のように著るしく減少している︒
安政元年::・二隻
安政
四年
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四隻
安政二年:::五隻
安政
五年
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:・
三隻
右の事情は︑当時の内外人聞の訴訟事件記録を通じても知り得られるところである︒当時︑外国商人が華僑よりも 安政三年:::一隻
貿易其他各種の事業分野において︑はるかに優勢な地位に居ったことはたしかである︒
註 (5) (4) (3) (2) (1)
同M・ω
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同︾・4
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ノ ノ
菱 谷
︑ 前 掲 論 文
︑ 九 八 ペ ー ジ 長 崎 市 制 五 十 年 史 一 四 七 ペ ー ジ 石 井 孝
︑ 幕 末 貿 易 史 の 研 究
︑ 二 六 七 i八ページ 長 ゆ ) 問 何 ) 居
土留也 貿 易
代時
及 じ¥
其 後 の 諸問 題
ゲ
二二三l四ページ
//
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一九二ページ
ノ/
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一九四ゲ
//
七九
(9) 経 営 と 経 済
7又
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一
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(11) (10)
一
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間
一四
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一五 七ゲ 土屋喬雄︑日本経済史概要︑二九Oゲ
山口和雄︑幕末貿易史二O三ゲ石井向上書五二ゲ
ゲ
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(13)
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ゲ
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(16) (1日
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U司
石井向上書一四七i一六Oゲの諸表により作製
石井ゲ一五六︑一六Oゲ
長崎市小学校職員会編︑明治維新以後の畏崎二八七ゲ
長崎居留地貿易時代の研究︑二七七︑一四九ゲ
大日本古文書︑向上書三一一一一︺一九四ゲ
箭内健次︑畏崎二OOゲ
( 18) (21) (20) (19)
第六章
外人の長崎からの退去と貿易衰退の傾向
外国商人は開港後間もなく長崎から退去して︑横浜︑神戸へ移住しているものが多いが︑それは英国領事が当初憂
えたように︑支那商人との競争に敗れた故ではない︒ヒンタlランドの関係で︑外国貿易の中心が横浜︑神戸へ移動
したことによるものである︒現在でもそうであるが︑交通不便な当時では︑特に広大なヒンタlランドの有無は決定