社 会 主 義 国 際 経 済 法 の 新 展 開
欠目
序 説
社会王義国における外国貿易国家独占制度
H
一九
三0年代のソ連外国貿易国家独占制度の形成
口ソ連の通商代表部制と東西貿易 口 一 九 七
0年代の社会主義国の外国貿易制度
四経済管理制度の改革にともなう国家と国有企業の財産責任の分離
固GATT︵ガット︶と社会主義国
社会主義国における外資導入法
日東西合弁企業成立の背景
□東西合弁企業設立に関する法源
口当時者間の﹁合意﹂の法的意義
四各国別合弁企業法の特色︵以上本号︶
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輝
3‑1‑1 (香法'83)
年代においてはむしろ緊急な課題とさえなっていた︒
社会主義国際経済法は社会主義法研究において確立した法学分野とはまだなっていないが︑最近ではしばしば西側
(2 )
での社会主義法研究にも使われる用語となった︒
法学国際協会の一九五七年シカゴ学会が﹁法の支配﹂をめぐる資本主義法と社会主義法の比較を東西の学者の参加
をえておこなってから久しいが︑今日まで東西の学界の間に予期した法の一般原則が見い出されたというわけではな
学会では会議の主題を東西貿易における国際取引法に限定して﹁計画経済国と市場経済国﹂の法という新しい区分に
(3 )
よる比較法分析を試みている︒法学国際協会の成果はその後の比較法国際エンサイクロペディアに結集されるが︑そ
(4 )
の内容は計画経済と市場経済の相違を前提とする経済法領域が中心である︒
比較法が実用法学的性質を強くもつことはすでに指摘されている︒東西比較法︑特にオストレヒト研究としての歴 史をもつドイツにおける社会主義法研究の例では当初は実用法学的関心からソ連との通商問題を解決することを主た
(5 )
る課題としていたほどである︒
その例を参照するまでもなく一九六二年に法学国際協会が提起した問題は︑東西経済協力関係の発展した一九七〇
一九
七
0
年代の社会主義憲法(‑九七七年ソ連憲法︑一九七六年ポーランド改正憲法など︶では国際関係は明確に(6 )
社会王義国間の兄弟的関係と体制の異なる諸国のそれ︵主として東西関係︶に二分されて平和共存が規定されている︒ い︒しかし法学国際協会は一九五七年のシカゴ学会︑一九五八年ワルシャワ学会の反省から︑一九六二年のロンドン
序
説
3‑1‑2 (香法'83)
社会主義国際経済法の
新展開(‑) (鈴木)
しているのである︒ 体制を同じくする諸国との間には共通の一般原則は明確に存在するが︑体制を異にする諸国との間には先例から推論
(7 )
そこに東西比較法が精徹ちに作業をする必然性が生まれてくる︒
通常︑社会主義国際経済法という場合︑従来の伝統的法分類による国際経済法に対抗する意味あいから特殊︑社会 主義的国際経済法と理解されて︑社会主義体制下での国際経済法︵主として経済相互援助会議
1
いわゆるコメコンを1
中心とする社会主義国間国際経済法︶
と理解されていた︒しかし本稿では︑今日の社会主義国の国際経済環境が社会 主義経済圏内でのアウタルキーから脱してきわめて高度な東西経済関係に依存している現実をふまえて社会主義国際
経済法を社会主義国の全国際経済関係を規律する法関係と理解する︒
つまり︑社会主義国際経済法の前提となる社会主義国の国際経済関係は一九七
0
年代においては︑通常の東西貿易 間の歴史的な合意であり︑ という形態からさらに多様な法形態による協力関係を発展させており︑法学に対する実用的要請が歴史的条件として形成されていた︒そして一九七五年の全欧州安全保障協力会議︵いわゆるヘルシンキ会議︶は︑それを象徴する東西
その最終文書は︑東西間の経済協力関係を欧州安全保障を維持する基本的条件として規定 今日の国際社会における外国貿易のはたす重要性についてはいうまでもないが︑革命当初のロシアにあってはその
経済発展の後進性を考慮すればなおさら︑
その重要性はいうまでもないことであった︒外国貿易の国家独占体制はそ
れを背景として形成された制度である︒その際︑重要と思われる点は︑
ソビエト新政権の諸策に対しては内外で武力 干渉も含めたさまざまな圧力があったこと︑国家独占制度はそれにもかかわらず︑国際的承認を通商協定を通じて獲
得していったという点である︒したがって問題を検討するにあたっては国内法と国際法の両側からのアプローチが必 される一般原則はない︒
3‑1 3 (香法'83)
治的対決を生んだのであるから︑ る ︒ るので本稿では︑ 要である︒
しかし問題アプローチの二面性は︑
地位にある世界市場における自由な通商という伝統的原理との調和の問題でもあったのである︒これは今日の問題と してとらえるならば比較法研究が直面している資本主義法と社会主義法との比較についての原初的問題提起である︒
東西経済関係が急速に発展する一九七
0
年代においては︑古典的な通常貿易形態からさまざまな形態の取引が東西 間では実践されていた︒これは体制を異にする東西間にあっては通常の商品交換によって成立する貿易はともかくと して︑資本取引を含む高度な経済協力については体制の相違を前提としながらも実質的には高度な経済協力を実現す る形態を模索する必要があったからである︒その主要な形態は産業協力という︒
産業協力
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) には直接投資を含む資本協力を内包する場合もあるが法形式的には混乱が生ず
一応︑産業協力には直接投資は含まないものとする︒
社会主義国における外資導入は東西経済協力の歴史においては産業協力の次に登場した高度な経済協力方式であ
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ソビエト政権がめざした完全な国家による外国貿易の独占制度とそれと対決的 そもそも社会主義体制の世界史への登場は伝統的な資本主義世界の私的所有制を否定することにより︑政
会主義国においても所有形態は多元化されうるということであった︒
そのことで当然ながら社会主義法体系にもかな
l)
りの修正が加えられているという点は指摘しておこねばならないだろう︒
社会主義法における所有形態の多元性を承認することをめぐっては︑
意見の対立があるといわれるが︑
この基本原理をめぐっては多くの議論が展開されている︒
すでに外資導入法を制定した東欧のユーゴスラビア︑
さしあたりの解決は︑社 それぞれの国の立法政策当局内部においても
四
3‑1‑4 (香法'83)
社 会 主 義 国 際 経 済 法 の 新展開(一)(鈴木)
( 3 )
( 2 ) 社会主義法については社会主義経済における芙約について︑
ポーランドと外資導入をいまだに決定していないソ連との間には明らかに立法政策上の相違がある︒
東西比較法の立場からもソ連学界の動きには注目しなければならないところである︒
( l
) 社会主義同際経済法についての論品は東ドイス・ホーラントなどて活発である︒この点については以ド参照︒
の組織的発展にみる社会︑E
義 国 際 経 済 法 い 形 成
1 1国家い財弗的責任をめくって
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( 4
)
比較法国際エンサイクロペデアの成立の背景についてはダヴィド︑
五
エ ル シ ら の や り と り を 含 め て ハ ザ ー ド が 東 西 比 較 法 が 期 待 で き る 分 野 は 東 西 の 平 和 共 存 の 前 提 と な る 異 な る 体 制 間 の 法 認 識 の 一 般 的 交 流 で あ り
︑ 法 り 統 一 や 調 和 に い た る 作 業 は さ し あ た り 目的としないことを述べている︒その例として︑社会主義国の国有企業長と資本主義国の公企業長あるいは私企業長の間に企業管 理をめぐって共通の関心︑問題があることを指摘する︒
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278ー.
30 2. )
編集された比較法国際エンサイクロペデアではまず︑ダウイドの序論につづき各国のナシ
J
ナルリポートが報告され︑さらに個別
の共通テーマについての東西の専門家による報告がよせられている︒ 一九六二年九月二四\二七日の会般については以ド参照︒ 合
の 論 理 と 現 実
﹂ 平 田 屯 明 編
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3‑‑‑1‑‑5 (香法'83)
( 6 )
対する政府と個人の責任についてエルシ︒社会主義企業法についてソ連のラプチェフなど︒
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など
︒︶
( 5
)
鈴木輝二﹁東西比較法序説﹂︵上︶︑法学新報︑第八五巻︑第一0︑第一︱︑第︱二号八六頁以下︒
一九
年代の社会主義憲法においては国際関係は多元化し︑発展する対外関係として憲法上︑整備された条文として規定されて七0
いる︒﹁ソ連の対外政策の目標は⁝⁝ちがう社会体制の国家との平和共存の原則を一貫して実現することである︒︵第二十八条︑
九七七年ソ連憲法︶また︑社会主義国際関係について﹁ソ連は社会主義世界体系すなわち社会主義共同体の構成部分であり︑社会
主義的国際主義の原則にもとづいて︑社会主義諸国との友好︑協力および同志的相互援助を発展︑強化し︑経済統合および社会主
義的国際分業に積極的に参加する︒﹂︵同第三0条︶︒同じように一九七六年ポーランド憲法︵改正法︶は﹁ポーランド人民共和国
はその政策において⁝⁝□異なった社会体制の国との関係を平和共存と協力の原則にもとづいて維持する︒﹂︵第六条︶
と規
定し
︑
国際関係を明確に社会主義国間のそれと区別している︒︵稲子恒夫訳﹁新ソ連憲法・資料集﹂昭五十三年および稲子・鈴木訳﹃ポ
ーランド人民共和国憲法﹄宮沢俊義編﹁世界憲法集﹂第三版一九八0
年 ︶ 最近の社会主義憲法が国際関係を社会主義国間と他の異なる体制国との関係を区分したことに対する疑念は一九七六年のポーラ
ンド憲法起草過程で問題となった例があるが︑国際関係が社会主義"的であるか否か︵社会主義的国際主義を承認し︑
法レベルの原則とするか否か︶は国際関係の比較分析をめぐる理論の上では大きな問題である︒特に普偏的な国際関係と社会主義
国際関係の相違がなにかをめぐっては明確な理論的説明がなされていないのが現状である︒ それを憲
しかし国際関係が二分されたことによる具体的メリットは異なる体制間の法的共存体制が社会主義国関係とは別に憲法上明確に
されるという点であろう︒
つま
り︑
そのことから社会主義国際関係はイデオロギーを同じくする兄弟国間の結束による同志的協
力関係という特殊なカテゴリであることに法的根拠を与えたことである︒︵鈴木輝二︑﹁社会主義法理論における国際法と国内法
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3‑1‑6 (香法'83)
社会主義国際経済法の
新展開(‑) (鈴木)
ユーゴスラビアを除いて︑ の関係﹂︑法律時報︑
いわゆるソ連型社会主義体制をとるルーマニア︑ハンガリー︑プルガリアにおいては︑外資導入法は︑
( T )
同様の趣旨で社会主義国際経済法をあつかったものとしては︑ドイツのレーバーのものがある︒
( 8 ) 国際経済の分野で東西関係の重要性を主張する見解は西欧においても根強いが︑
その代表的なものとして︑
七
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る︒
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19 76 .)
( 9 )
産業協力は当初︑社会主義国が体制の異なる諸国との経済協力を東西貿易より発展した形態で進めるために提言した用語であっ た︒その特色は体制上の相違を問題とせず︑当事者間の合意によるさまざまな経済協力を実現することにある︒しかも最近では東 西間だけでなく︑南北間の協力にもしばしば使われる用語となっている︒
東西間の産業協力を分析したものとしては国連欧州経済委員会の報告が最も秀れている︒
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l ( 1 0 )
国連欧州委員会が一九七六年に作成した産業協力芙約の起草ガイドラインは︑産業協力による契約形態について最も練合的に分
析したものである︒
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24 , 19 76 .)
また︑産業協力のうち第三国での産業協力を分析したものとしては︑鈴木輝二編﹁東西間の第三国産業協力﹂
それのケーススタデーとしては︑西ドイツの例を中心に分析した以下のものがある︒
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) ( 1 1 )
社会主義法体系論からみて注目されるのは最近のポーランドの国有企業法(‑九八一年九月二五日法︶ が
ある
︒
( 7
)
鈴木﹁東西比較⁝⁝﹂前掲七四頁以ド︒ 一九六九年
4 1 巻一月号︑三六頁以下︒︶
一九八一年があり︑ アドラー・カールソン
3‑1‑7 (香法'83)
一九
三
0
年代のソ連外日貿易国家独占制度の形成
社会主義国における外国貿易国家独占制度
九八二︑一四七頁以下︒︶ 産としての意味をもつように思われる︒ 国内の社会主義国有企業一般とは異なる特別法によって規定されているのであるが︑企業一般のカテゴリーのなかに外資との合弁企業を位置づけている︒
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26 .
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19 81 .)
( 1 2 )
この点については︑社会主義法における﹁法の継承﹂問題も再検討されねばならないであろう︒人民民主主義体制四
0
年近い経験 のなかで東欧においてはこの問題は最近では法学理論の焦点とはなっていなかったが︑人民民主主義諸国が程度の差はあれ東西 関係での相互依存を高めている︒その対外的条件は国内法にも反映することは必須である︒
﹁法の継承﹂を国家法レベルで論じる場合はそれはすでに解決済みの問題としてあっかえるようにも思えるが︑経済法︑
民法の領 域では旧会社法の継承あるいは形式的には失効した旧会社法の存否は新しい国有企業法の起草作業においても重要な法文化的遺 なお︑法の継承論についての現況は稲子品文参照︒︵稲子但大︑社会主義諸国における﹁法の継承﹂比較法学︑第一六巻︱
‑ 0
号︑
一
レーニンが一九一八年に宣言した外国貿易の国有化は︑商業が商人間の自由な取引として成立した中世以来の伝統
に対する大きな挑戦であった︒
ソ連の外国貿易国有化は︑さらに国家による外国貿易の独占へと進展する︒だが︑国家による貿易の独占制度は︑
ソ連において初めて制度化される国際的に先例のないものであり︑国際的承認なしには実行性のないものだけに政治
一九八一年のポーランド国有企業法は国有
八
3‑1‑8 (香法'83)
社会主義国際経済法の
新展開(‑) (鈴木)
どることも無意味ではないようだ︒ 的決議によってただちに実現できる性質のものではなかった︒
今日
︑ われわれが知るところの国家による貿易独占制度の原型は︑
の人民民王主義諸国の国家による外国貿易独占の原刑となるものであった︒
革命
後︑
ソ連は︑干渉戦争と列強諸国による対ソ経済封鎖によって︑
九
つまり︑新政府としては外国資産
ソ連における一九二
0
年代を通じてのさまざま な国際取引の実践および内外の政治的緊張のなかで法制度として形成されたもいである︒
しかもそれは第二次大戦後 しかし最近においては社会主義国の経済 改革と束西貿易の拡大によって再び国家貿易分権化論が間かれるようになった︒外国貿易り国家独占り形成過程をた
ほぼ外国貿易を停止せざるをえなかった︒連 合国側の最高経済会議がソ連への経済封鎖を解き貿易再開を決議したのはようやく一九二
0
年一月である︒しかしこ の際︑連合国側は︑ソ連の貿易の国有化︑国家機関による直接の貿易を認めず︑さしあたり︑従来から存続していた 全ソ協同組合︵セントロサユーズ︶との交渉︑取引のみを認めるとする条件を提案した︒
人民委員会外国貿易部長のクラシンをその交渉代表として任命し︑ロンドンに派遣している︒
のソ連と英国の貿易は︑
セントロサユーズを通じて ロンドンなどにすでに駐在している旧職員を暫定的に継承して業務をおこなったもので︑
ントロサユーズと新政府との法的関係などは未解決なままの暫定的処置であった︒
の国有化にともなう外国の旧債権者による新政府に対する賠償請求権あるいはそれに関連して新政府の国際取引に対 する外国の妨害の可能性を警戒しなければならぬ状況から︑国家貿易制度を決議したとはいえ︑さしあたり非政府機 関による貿易が残された唯一の可能な方法として承認せざるを得なかったのである︒
したがって︑新政府が国際法上の未承認の時代においては︑外国貿易は︑
国の国内法にもとづく現在法人を︑
セ セントロサユーズのほかには現地に当該
ソ連の全面的出資か︑あるいは合弁で設立して︑実質的な取引関係を実現する方
レーニンはこれを受入れ︑
3‑1‑‑9 (香法'83)
あったとも伝えられている︒ 外国貿易の国家独占をめぐっては︑ 一
九二
四年
には
︑
また︑新政権の米国に対する通商関係は︑ レ
ノ ︑
J ニューヨークなどに開設している︒ この先例としては︑ 法もとられた︒
一部には私企業の活動 コンスタンチノープル︑リガ︑ ロンドンに一九二
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年に設立された
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) がある︒この場合は︑
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%出資である︒同社は︑その後︑事業範囲を拡大し︑支店をベルリン︑持することの矛盾を表明している︒国家計画委員会︵ゴスプラン︶
(5 )
易の国家独占に反対の立場が決議されている︒ ヽ︶
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一九三三年まで国交がなく︑未承認時代が最も長かったケースであるが︑
ソ連
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%出資による
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(4 )
の接渉の機関となり︑実質的にはソ連政府の通商代表部の役割をはたしていた︒
ソ連は経済の深刻な事態の改善をめざして︑
論争がおこり︑国家独占批判論も強く打ち出されていた︒なかでも政治局員であるミリューチンは︑
の立場を逆転させ︑反国家独占論を展開し︑
(5 )
この論争の背景には︑ネップを実施する最高国民経済評議会︵ヴェシェンハ︶ ソ連の一〇
ソ連の米国における貿易の唯一
いわゆる新経済政策︵ネップ︶を実施する︒ネップは︑
国有化政策などの実施を一時的に停止し︑部分的には旧体制のいくつかの制度を復活させて︑
を承認するなどの政策をとるが︑そのことは外国貿易の国家独占政策にも影響をもった︒
一九
ニ︱
年︑
一九ニ︱年\一九二二年にかけて党と国家の経済指導部の内部において活発な
かつての賛成論
一時はスターリンも貿易の国有化が実現しないのに︑国家独占制度を維
においても一九二二年︵二月︱︱日︶には外国貿
と人民委員会外国貿易部との対立が
外国貿易を国家が完全にコントロールする方法として伝統的には間接的手法として輸出入手続に対する国家の行政
1 0
ヴィ
3‑1‑10 (香法'83)
社会主義国際経済法の 新展開(‑) (鈴木)
ン報
告︑
ソ連における外国貿易の国有化と独占化はこのいずれの方法をとることもなく︑
人の財産的基盤を国有化によって国家に移転させ︑さらに外国貿易行政を強度に集権的なものに改革したことである︒
しかし国有化はすみやかに実現したわけではない︒さらに伝統的な市場での信用に左右される国際取引においては 新政府に対する政治的な経済封鎖に加えて︑国際市場でのソ連外国貿易関係者の信用失墜は事実上︑ソ連の外国貿易 を不能状態におとしいれていた︒そこで外国貿易制度の現実的な手直しが一九二
0
年代の当初におこなわれている︒一九二二年の全ソ中央執行委員会決議︵一九二二年三月一三日︶
国貿易部の許可のもとに国有企業︑地方執行委員会貿易部︑セントロサユーズがおこなうとしながら︑それと同時に 人民委員会︑私企業︑外国資本の参加を可能とする株式会社の設置を認め︑これが外国貿易をおこなうこととし︑外
(6 )
国貿易国家独占の枠内での間接的形態までも承認したのである︒
つ経験ある貿易活動︑資金力︑経済力︑
レーニンが革命時における外国資本に対する内国民なみの国有化政策から一変して外資導入という基本的な政策の
変更を実施するにいたったのはソ連の対外的な経済活動の維持拡大が当時の状況からみて必須であったからである︒
つまり︑当時︑設立されてまもない国家貿易制度として機能する人民委員会の商工部あるいはセントロサユーズの脆 弱な対外経済活動ではソ連の必要とする最低限の輸出入取引さえも維持できない現実をふまえて︑資本主義企業のも
および技術は︑ソ連の対外経済協力活動と国内の資源開発に大きく貢献する
であろうことを期待し︑これを国家資本主義の政策の一環として承認しようとするものであった︒︵第四回コミンテル
一九二二年︱一月一三日︶︒
的関与および関税による輸出入の物量的調整の方法があった︒
まず外国貿易に関与ずる法人・私 は︑外国貿易の手続を輸出入業務は人民委員会外
しかし党内においては外国貿易の国家独占をめぐって一九二二年から一九二三年頃まで論争が継続され︑最終的に
3‑1‑11 (香法'83)
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一九二五年にいたって︑人民委員会のもとで国内輸
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は一九二二年末の中央委員会におけるレーニンの立場がトロツキー︑
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スターリン︑
( [ 1 )
する︒それは一九二三年の第︱二回党大会で採択された決議によって承認される︒
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一九三六年
カメニェフらの支持によって結着 つまり︑外国貿易の国家独占原則は現実の困難さを認識した上で維持されることが承認されたのである︒
ネップ期においては革命政権の直面する経済課題からみて貿易の国家独占による集権化に対する有効性が問題とさ レーニンらの国家独占制確立への強い支持にもかかわらず︑その制度の実際の運用にあたっては︑貿易相手国か らの圧力もあり︑妥協的運用が必須となり︑国家独占政策は理論と実践の両面からさまさまな先例のない試線に直面 実際の貿易活動においてはこの当時︑
セントロサユーズの活動がめだっ程度であった︒
(8 )
レベルの通商協定の締結が進んだこともあって︑支店綱を︑
織さ
れて
︑
セントロサユーズは︑政府
ヽニューヨーク
コンスタンチノープルなどにも拡張し外国貿易を積極的に発展させた
(9 )
法によりセントロサユーズの外国貿易機能の停止が決定されるまで継続された︶︒
( 1 0 )
さて︑ネップ期におけるこのような多元的な外国貿易形態は︑
リガ
︑ プ 出製品買いつけ機関として機能したゴストルグの出資による輸出専門の株式会社六社と輸入専門の株式会社六社が組
ようやく国家独占化への方向が示される︒法的にはともかく︑政府の経済政策として実践的に輸出入業務 が新設の株式会社に集中することによって︑輸出入業務の集中化と専門化が実現した︒当時の最大の会社は︑木材を
一九二七年のソ連の木材輸出の七
0
%を独占していた︒このような国家資本による 専門化と独占化が進展し;貿易はモスクワでへの合い言葉が実現したのは一九三三年の外国貿易企業法などが制定さ れた一九三
0
年代前半である︒3 ‑ 1 ‑12 (香法'83)
社会主義国際経済法の
新展開(‑) (鈴木)
社が組織された︒ に協力していた︒ して機能していたが︑
実際
には
︑
さて一九二
0
年代
後半
︑
発生
し︑
ゴストルグは︑人民委員会の外国貿易部のもとで︑輸出製品︑輸入のための唯一の窓口と
一九二六年
( ‑
0
月 ︶いわゆるネップマンという旧私企業者たち︑
から
一几
一じ
﹂年
︵九
月︶
それに協同組合が補助的
のゴストルグの国内取引中では協同組合が約一九%
であり︑ネップマンが七%であったという︒ゴストルグの従常員は三千人余りであったということからして︑下部機
構との国内での多尤的協党は必須いことであったりであろう︒
ソ連で最初の五か年計画が実施された一九一1八\一九三三年の期間は急速な工業化に必要な資本財の輸入が活発に
おこなわれた時期である︒しかし一九三一年からあいつぐ農業不振によって一九三一\一九三二年の輸入超過問題が
その支払手段の解決のためかつてレーニンが提起した生産の余剰を輸出するという政策がくずれ︑ある種の
飢餓輸出によって貿易収支をおぎなわなければならなかった︒
すでにネップの修正の方向については一九二九年四月の第一六回党大会においてあきらかにされており︑経済計面
( 1 3 )
の集中化と機能の集権化がはかられ︑各国有企業の自主権限が国家中央への集権化のなかで明確にされている︒
一九
三
0
年二月︑この方向での最初の具体的決定がおこなわれ︑人民委員会外国貿易・国内商業部のもとで﹁全ソ外国貿易国有企業﹂という新しい形態が従来の外国貿易に関与した株式会社あるいはゴストルグなどを母体にして三〇 人民委員会外国貿易・国内商業部は再び外国貿易部と国内商業部に分割され︑外国貿易部は一九三一年一月の外国
の商業組織と私人との間の取引に関する人民委員会の輸出入取引の受理についての布告(‑九三一年一月ニ︱日︶
もとづき外国貿易の国家独占を法的に実現する最高の執行機関と規定された︒
さらに一九三五年布告(‑九三五年七月二七日︶
その
もと
で︑
↓ )
は一九三
0
年に設立された外国貿易国有企業が外国の商業組織と3 ‑‑1 ‑13 (香法'83)
さらに外国貿易国有企業は従来の外国貿易が通商代表部を介してその承認のも
( 1 4 )
とにおこなわれたのに対して外国貿易国有企業は単独で契約の当事者となりうることが規定された︒
いう国家法上の規定は一九三六年憲法ににおいてさらに明確になった︒︒その後人民委員会外国貿易部は一九四六年の
なったのもこの形態である︒
( l
) 商人達はヴェニスやハンザの諸都市を中心に国内取引であれ︑国境を越えた取引であれ︑自由に取引を実現するルールを商人間の
いわゆる商人法
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自国の資本主義の未発達からしてこれら国際的な商人によって外国貿易ばかりでなく国内商業活動は大きく影響をうけざるをえ
なかったのである︒
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19 69 ,
邦訳﹁ソ連経済史﹂石井︑奥谷︑村上訳︑
( 2 )
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24 , 19 59 ,
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24 4‑
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‑‑
( 3 )
人江啓四郎︑ 人民委員会による外国貿易の国家独占が具体的には国有外国貿易企業の取引として実現すると
として成立させていた︒
ソヴエト貿易国営制と国際法︑比較法学第五巻第一第二合弁号一頁以下 ( 4 )
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97 8, p p
337ー.
36 0.
年︑八頁以下︶ 慣
習法
︑
の国家独占制の基礎形態となった︒また東欧人民民主主義諸国が外国貿易を国有化し︑
一九
八
しかしロシアのように遅れて近代化を始めた国においては
国家独占とする際のモデルと 大臣会議決定で名称は外国貿易者に改められたが
︵一
九四
六年
三月
一五
日︶
その実態に変更はなく︑
さ て
︑
この
よう
に︑
の直接取引の当事者となりうること︑
今日の外国貿易
一 四
3 ‑ 1‑14 (香法'83)
社会主義国際経済法の 新展開(一)(鈴木)
( 5 )
( 7
)
( 1 3 )
( 1 4 )
( 1 2 )
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. p p
46.
ー
47
( 1 0 )
組織形態別の割合である︒ 別
表は
︑
ヴェシェンハについては︑A.ノープ・前掲﹁ソ連経済史﹂︑
( 6
) 当 時
︑ 一九二四\二五年におけるソ連の外国貿易実積の
o p .
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, p .
34
外資導入の形態はその後の法的措置によって二つの方式によって実現された︒︱つは︑前述のコンセッションによる特定資源関連
の開発への一
00
%の外資導入であり︑外資による合弁会社の設立を認め︑それに特定の事業活動とくに対外経済活動を許可する
ことであった︒
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28ー29
( 8 ) 初期のソビエト政府との通商協定には英国との一九ニ︱年 る ︒
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ドイツとの一九ニ︱年五月六日協定があ ( D
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)
レーニンは党中央委大会に外導導入政策を提案し︑
ソ連のネップ期 (1924‑1925会計年度)
における貿易組織と実績 一
五
組 織 の 種 類 輸出(%) 輸入(%)
国家機関および国有企業 47.3 86.6
国 営 株 式 会 社 31.6 6.4
協 同 組 A ロ 12.5 3.8
外 資 と の 合 弁 会 社 5.5 1.3
外 国 企 業 1.1 1.3
私 企 業 お よ び 私 人 0.7 0.3
そ の 他 1.3 0.3
計 100.0 100.0
(出所) J. Quigley, The Monopoly,
Soviet Foreign Trade op. cit, p.211より。
これが採択されている︒
五二頁以下
︵一九ニ︱年︱二月二八日中央委大会︶
3‑1‑15 (香法'83)
ら内容が規定されている︒
ソ連の外交使節の不可分の部分としたのは つまりソ連国内法と国際法の両面か ソ連の外国貿易国家独占を実施する最高の行政機関は当初の人民委員会外国貿易部︑今日の外国貿易省である︒の海外における代表機関として形成されたのが通商代表部である︒
当初︑人民委員会外国貿易部の分身としての機能をもった通商代表部であったが︑現行の通商代表部の権限・機能
は一九ニ︱年以降の国内法およびそれと平行して進展した関係国との通商条約︑
通商代表部の用語がソ連法上最初にあらわれたのは一九ニ︱年五月二六日人民委員会布告﹁海外におけるソ連機関
についての暫定規定﹂においてで︑
われた表現である︒ その際は﹁通商使節二
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̀ ﹂であった︒同様の表現は︑
初期のエストニア︑トルコ︑ドイツ︑スエーデンなどとの通商協定に使われている︒また︑﹁人民委員会外国貿易部使
節﹂はエストニアとの通商協定︑﹁ロシア通商代表
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﹂
通商代表部が人民委員会外国貿易部い海外代表という性質に加えて︑
は英
国︑
九二二年の全ロシア中央執行委員会および人民委員会決議(‑九二二年︱
0
月一
六日
( ︶
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部は国際法上の外交特権をもつ外交使節の一員となることの国内法上の根拠をもった︒
九月︱二日中央執行委員会および人民委員会評議会決定︶
:ソ連の通商代表部制と東西貿易
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19 61 .
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2 7
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年代イタリアとの通商協定で使
である︒これにより通商代表
現行の通商代表部に関する基本法は一九三三年の﹁ソ連の海外通商使節および通商機関に関する規則﹂(‑九三三年
である︒同規則によると︑通商代表部の機能は大別して外
一 六
3 ‑ 1 ‑16 (香法'83)
社会主義国際経済法の
新展開(‑) (鈴木)
議参加国はソ連側の主張を承認したわけではなかった︒
通商代表部の法的地位が確定するプロセスはその後の国際法上の実践によるところが大きい︒その意味で一九ニニ 年のドイツとのラッパロ条約にはじまる二国間通商協定に規定された通商代表部の法的地位は実質的な法的内容をと
もなう内容を示すものである︒
二国間協定に規定される通商代表部の地位はソ連国内法の内容をそのまま承認するケースからその存在をまった<
認めない場合などさまざまである︒
通商代表部が設置されない相手国においては︑外交使節として大使館に直属する商務官が︑通商代表に準じた行為 をおこなう慣行が確立している︒しかし︑それはソ連国内法にもとづく権限であり︑当然に相手国において外交使節 の一員として通商問題を担当する場合は直接的に商取引に関与する権限をもつものではない︒
米国とソ連の間には一九三三年に国交が樹立されているが︑この際︑
なかった︒したがってアメリカとソ連の間には外交使節の交換はあっても通商代表部は設置されていなかった︒しか
し︑これに代わって前述のアメリカ・ニューヨーク州法にもとづく法人
Am to rg L t d . が一九二四年に設立されている︒
古く
は︑
国貿易に関する一般的監督としての市場調査などの情報活動と商業活動の直接的行為に二分される︒
商業活動の一環として通商代表部員は外国貿易の取引の直接の当事者となることが規定された︒
しかし︑このようにソ連において初めて概念化された国家の外交代表が同時に直接対外取引の当事者となるという 通商代表部は︑国家が民商法行為の直接の当事者とならないという伝統的国際慣行とは異なり︑国際的な承認がただ
一九二二年のゼノア会議においてソ連の国家貿易独占制は西欧諸国の提起した疑念の焦点であったし︑会
ちにえられたわけではない︒
アメリカ政府は︑
一 七
つまり︑後者の
ソ連の通商代表部を承認し
3‑1‑‑17 (香法'83)
根拠はもってない︒ これはソ連の外国貿易銀行︑セントロサユーズおよびその職員が出資者となるソ連側の一
00
%出資によるニューヨ
(5 )
ーク州法にもとづく非営利の通商に関わるサービス機関として設立されたものである︒
しかし︑一九七二年に締結された米ソ通商協定(‑九七二年一
0
月一八日︶では米ソそれぞれ通商代表部の存在を 認め︑双方がモスクワとワシントンにそれぞれ通商代表部を設置することを承認している︒
一九七二年通商協定は最恵国待遇条項について米国側の議会の承認を条件としたことで︑その承認がえられず協定 全体の発効は停止されたままであるが︑通商代表部開設についての合意はその後別途の実施協定が一九七三年に調印 されることで︑
一九七三年末にはそれぞれの通商代表部が開設されている︒だが一九七二年米ソ通商協定では通商代 ところで通商協定で通商代表部を承認した場合でも相互主義にもとづき当事者双方が通商代表部を開設するケース
は︑ソ連と社会主義国との関係を除いてはまれである︒市場経済国の場合には外国貿易といえども国家が行政的に全 面的にコントロールすることはまずありえないので外交使節に加えて通商代表部を設置する意義をもたないからであ る︒したがってソ連との通商協定でソ連の通商代表部を承認した場合でも大半はソ連側だけの片務的内容となってい
(8 )
るのが実情である︒
今日︑国内法で通商代表部を規定している外国貿易国家独占国はソ連だけである︒他の社会主義国では外交使節の なかに通商部をもつことは慣行となってはいるが外交使節が直接︑外国貿易に関する取引の当事者となる国内法上の 社会主義国の対外経済活動の実態をみると外交使節における通商部の役割が重大さをまして︑通商代表部あるいは
大使館通商部の相手国市場の情報サービス活動はさらに期待される分野となっているが︑通商代表部が直接︑取引の 表部の直接の商行為は認められていない︒
一 八
3 ‑ 1 ‑18 (香法'83)
社会主義国際経済法の 新展開(‑) (鈴木)
当事者となるという一九ニ︱年以来の国家貿易の直接的役割は今日ではほとんど意味をもたなくなっている︒
最近の通商協定の実践からみても国家代表が同時に商行為の当事者能力をもつという状況はますます実態のないも その意味で人民委員会外国貿易部の海外使節とした形成された通商代表部の国家貿易代表としての役割は一九三五
年法で国有外国貿易企薬が法的地位を確立することで歴史的役割をはたしたとみるべきであろう︒今日︑
( 2 )
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5, 1 97 5, p p
261ー.
27 2.
大半の取引で直接の取引となるのは国有外国貿易企業であり︑
その実質的内容はむしろ国際法による︒最近のソ連の通
(9 )
商行為の直接当事者能力のない通商代表部を承認する傾向にあるのはそのことを裏づけている︒
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ソ連の国家貿易独占制度か︑欧米諸国の国内機関によって承認される過程については︑以下参照︒︵城山正幸︑﹁欧米諸国の判例に
みられる国家貿易独占制度の承認﹂︑﹃ソ連東欧諸国の外国貿易国家独占制度の展開﹄
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2.
58
‑2 59 .
( 4
) 日ソ通商条約︵一九五七年︱二月六日調印︶はソ連国内法で規定する通商代表部を承認し︵同第一一条︶その附属書において通商 代表部の法的地位としてほぼソ連国内法に規定される内容を認めている︒︵同附属書︑
商協定が 通商代表部の法的地位を規定する法源は国内法であるが︑
一 九
一九五七年︱二月六日調印︶︒ 一
九八
0
年︑二0
二\ニ︱三頁︶ 通商代表部それに関連する監督︑サービス機関として機能しているのが実態である︒ は法形式的には商行為の直接の当事者となりうるが︑ のとなっている︒( 3 )
通商代表部
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ソ連の
3 ‑ 1 ‑19 (香法'83)
(三) ( 5 )
( 6
)
( 7
)
( 8 )
一九
七
0
年代の社会主義国の外国貿易制度
であってはならない︒ 委任がなければならない︒しかも契約締結に際しては通商代表部員二名の究名により︑かつ取引額が四
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万ルーブルを越えるもの
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評議会
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が設定されている︒
︵一九五九年六月
これは両国経済人間の情報・業務サージスを目的と な お
︑ 米 ソ 間 に は 一 九 七 三 年 に 両 国 間 の 急 速 な 通 商 関 係 に 対 応 し て 両 国 の 出 資 に よ る ニ ュ ー ヨ ー ク 州 法 に も と づ く 法 人 米 ソ 経 済
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する非営利団体であるが︑米ソそれぞれが五
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%出資し︑数と権限で参加し︑貿易振興活動をおこなう米ソのジョイント・ウェンチャーである︒
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265~266. .
ニューヨークとモスクワに開設される事務所には米ソの職員が︑平等の しかし政策的には相互主義を認め日ソ間のように日本商社代表をソ連側が実質的にソ連通商代
表部に相当するあっかいをする例が多い︒
( 9 ) 通商協定のなかで通商代表部の直接当事者能力を否定する例としては米ソ適商協定のほかにソ・モロッコ協定 もっとも一九二二年法により通商代表部員が商行為の也接ヤー事者能力をもっとはいえ︑実践的には国有外国貿易企業︵いわゆる公
団︶か取引の主要な当事者となるのであるから︑通商代表部員が海外の取引で代表となる場合でも酋該の国有外国貿易企業からの
ソ連貿易の機構と運営︑
10
一 頁
︶
二
0
3 ‑ 1 ‑20 (香法'83)
社会主義国際経済法の 新展開(‑) (鈴木)
考慮されなければならなくなったのである︒
外国貿易の国家独占制度においては国家は外国貿易機能を完全に︵直接にか間接に︶管理する︒しかしそれは伝統 的に私人間の商行為として法的に規定される国際的商取引を国家が法的主体となって実現することを必ずしも意味し 社会主義国の法においては最高の憲法において外国貿易の国家独占は宣言される︒しかしその実施にあたる外国貿
易機関は一九三
0
年代以降のソ連において確立した﹁ソ連モデル﹂においては外国貿易を専門とする国有企叢である︒国有企業は外国貿易省の行政的管理下にあるとはいえ︑それぞれの国内法において独立した法人格を有することが認め られ︑国家機関とは異なる︒国家と企業の法的分離は明らかである︒しかし独立した法人は計画経済のもとでは国家 法体系のさまざまな義務的指標によって規制されるので市場経済の企業とは法的内容は全く異なる︒
外国貿易の国家独占はまた︑市場を否定することにより外国貿易と国内商業が自動的にリンクするメカニズムを失 う︒これは外国貿易が世界市場によって動くのではなく国家の経済政策によって運用されることを意味し︑
ソ連にお
いては永い間︑外国貿易と国内商業が分断される経済政策がとられていた︒これはレーニンの主張する国内経済への 対外的経済要因の排除︑すなわちソ連の輸出入は必要とする物資︑商品を適切に海外市場で買いつけることであり︑
不必要なものまで輸入することではない︒また︑
ソ連の輸出はソ連経済における必要を満たした余剰を海外市場の要 請によって輸出することを意味するとする説にもとづいている︒
しかしながら外国貿易と国内経済との分離孤立化は︑
アウタルキー経済が成立しない今日のような国際的な相互依 存︑とりわけ東西貿易の拡大によって大きな修正をせまられている︒すなわち世界市場における外的な経済諸要因は
もはや社会主義経済にとって排除すべきものではなく︑社会主義国の国内経済に対して積極的に協働する要因として な
かっ
た︒
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多くの社会主義国で一九六
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年代後半において開始された経済管理制度の改革の一環として国家貿易独占制度も改
正に着手されているが︑
そこでは社会主義国有企業の世界市場での競争力強化のため︑外国貿易に内外の経済的諸要 因︑とりわけ生産と輸出入の関係が総合的に機能するような政策および制度の改正がもりこまれている︒とりわけ国 民経済における外国貿易依存度の高い東欧諸国においては外国貿易制度は経済管理制度の改革作業のなかで重要な地
位を占めているように思われる︒
外国貿易の国家独占制度はそのコロラリーとして外国貿易の輸出入が計画化される︒外国貿易はさらに支払手段と
しての為替管理が集権化されることで二重の管理をうける︒
外国貿易における市場メカニズムの導入はたんに国有外国貿易企業の運営が経済計算制にもとづくだけでなく︑対 外的により自由に行動しうる財産基盤の分権化と︑支払手段である通貨の管理体制の改善を中心的課題にしている︒
このような問題はいずれの社会主義国でも先例のない立法政策上の課題となっているが︑
ソ連においては資本主義 から社会主義への移行の初期としての一九二
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年代のネップの経験があり︑半の人民民主主義体制の初期において旧資本主義体制との混合した諸原理︑制度との共存の経験がある︒それらの旧
また東欧諸国においては一九四
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年代後 制度︑旧法の部分的活用あるいは機能的活用という問題は︑今日の共存のルールとして再検討されてしかるべきであ
しかしながらこれらの旧体制におけるさまざまな法機能が部分的に復活するからといってこれを資本主義法の復活 とみるのは正しくない︒市場メカニズムが部分的に活用される経済の実態を前提とするのであれば︑市場経済のもと で豊かな経験をもつ資本主義法の一部が法機能的に社会主義法に移入されるのはきわめて当然だからである︒
しかし制度的にきわめて類似した制度︑法が社会主義法体系に導入され︑あるいは復活
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したとしても︑それら
るように思う︒
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