国際私法の起源から国際租税法の連結点考察までの 過程
その他のタイトル Conecting Factors from the Statuten Time to Recent International Tax Law
著者 本浪 章市
雑誌名 關西大學法學論集
巻 53
号 4‑5
ページ 1162‑1196
発行年 2004‑02‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/12319
次 一 抵 触 法 の 方 法 論 と 連 結 点
① 国 際 私 法 的 発 想 の 起 源 と 法 規 分 類 学 説
②法律関係の本拠説と連結点の導入︵以上本号︶
③ニューアプローチの出現と方法論の変革による影響
括
︱
︱
4
︱︱抵触法学者の関与の時代
① ニ ボ ワ イ エ と そ の 時 代 背 景
②ビール︑グッドリッチからレフラーに至る州際課税への関心
括
︱
︱
3
三国際租税法の連結点に関するプースの所説を中心として
① 居 所
② 日 常 の 居 所
③ 住
所 目
︵以 下次 年度
号︶
本
国際私法の起源から 国際租税法の連結点考察までの過程
浪 四 0 四
章 ︵
一 ︱ 六 二
市 ︶
国際私法の起源から国際租税法の連結点考察までの過程 日常の居所
四 0 五
︵ 一
︱ 六
三 ︶
﹁公法抵触と国際租税法の端著と進展︵その
2 )
﹂において︑筆者は国内租税法の解釈と連結点という表現を用い
てブース
N e i l
D .
B o o t h
の著述に触れ︑﹁居所
それらはどうしても正確な定義を寄せ付けず︑しばしば由々しい誤解を受けてきた︒ブースの著書﹃居所
び連合王国租税法﹂はこれら上記の概念の意味を十分に調杏探索し︑個人︑パートナーシップ︑信託ないし有限責任
会杜が︑租税目的上︑連合王国に居所︑日常の居所および︑または住所を有するか否かを確定するのに適用されるペ
き基準を︑徹底的に論究している﹂という寸評を引用した︒然るに︑国際私法そのものが︑国内法たる自国国際私法
を国際私法と呼ぶ現況よりすれば︑連合王国の一国的な租税法の規定であるとしても︑国境を超える事案に対応する
連結点の考察は︑国際租税法規則の探究と呼ぶのが至当であろう︒
次に︑曝々言及しているように︑私法抵触にあっては︑国際私法の本体はあくまでも法律選択規則であって︑その
前提たる管轄権選択は時としてそれ自体が主たる争点となることはあっても︑原則的には別途に論議されるぺき事項
とされる︒これに対比して公法抵触の回避を意識する場合には︑管轄権の自己制限をしない限り︑二国間ないし多国
間の二重課税防止条約の形式を採って行く以外に方法はないであろう︒上記のような状況を最近のベルギーの国際私
法学者の著作は︑ いみじくも以下のように記している︒﹁国際租税法は︑各国がその固有の租税法の適用範囲に従わ
せる︑それぞれ独自の基準を決定することを目的としている︒この事柄が多数の国際条約の締結を生じさせる理由と
なっている︒そうした条約は︑極めて多くの場合︑二重課税の回避を指向するが︑ごく稀には租税逍脱を防止するた
序 説
住所およ
住所は連合王国租税制度の基礎をなすものであったが
ます重要性を増しつつある︒鳥廠的視野に立っての二重課税︑移転価格税制︑
第四に︑とにかく国際間における租税秩序の構築は知的財産権制度の整備と共に︑国際取引法の分野においてます
ユニタリータックスヘの言及︑および
りながら解明することもまた重要である︒ 用範囲とは課税管轄権の及ぶ範囲の決定である︒
第五三巻四•五号
めに︑諸国の行政機関の協力について規定することを目指している﹂と︒但し︑この場合︑前記のように租税法の適 従って︑課税管轄権における連結点の確定は︑国際私法における裁判管轄権の帰属あるいは準拠法決定操作におけ
る連結点考察に劣らぬ重要性をもつことは否定できない。むろん州際課税における公租•公課の管轄権を裁判管轄権
( 4 )
︵
5
)
と同様に最小限度のコンタクトによって創設したインターナショナル・シュー判決およびその後の展開の有意義さに は傾聴すべきことは多々あるにせよ︑州際事件の原理は必ずしも国際課税にまでは敷術ないし類推できない︒
第三に︑先進的な大斗ニボワイエによって二重課税の調整原則として提唱され︑また州際課税に関しては︑合衆国
( 9 )
︵
1 0
)
において二十世紀前半の最大の碩学ビールを始めとする尖鋭な幾人かの学者によって︑殆ど体系化された抵触解決方 法に近似する諸規則は︑租税需要の激増に伴う租税法自体の発達や租税制度の複雑化によって︑国際租税ではフォー
律抵触の概説書からは︑ ゲルのように抵触法の関与に対して否定的見解が底流として存在するまでになり︑州際課税についても︑合衆国の法
( 1 1 )
︵
1 2 )
レフラーの取り扱ったノースウエスターン・ポートランド・セメント事件を最後として︑租 税法の抵触解決的原則に関する記述は殆ど影を消して行った︒そうは言っても国際課税や州際課税の問題は当初から
( 1 3 )
国際私法の埒外だときめつけるのは簡単であるが︑国際課税の解決方式が何故抵触法的処理を基軸として形成されて 行き︑時代の進展に伴ってやがて霧散して行ったかの沿革を︑ニボワイエおよびビールの足跡とそれ以後の経過を辿
関法
四 0 六
︵ 一
︱ 六
四 ︶
( 1 ) 国際私法の起源から国際租税法の連結点考察までの過程
四 0 七
︵ 一
︱ 六 五 ︶
専門的角度からの移転価額税制の分析は我々をまさに鼓舞する成果である︒最近これらの作業を達成した曽野︑河村
両教授は共に商法に精通しているのに対し︑筆者は当初からの国際私法研究者でしかないが︑国際法関係に信頼しう
る友人︑知己や優れた後輩たちに恵まれたおかげで︑トリーティオーヴァーライドやタックスヘイヴンに典味をいだ
くことも可能となり︑前者については既に開拓中であるが︑後者は判例研究よりむしろ行政的な対応に適した領域と
考えるに至った︒それと並行して東京都の外形標準課税に見られるように国家と地方団体間の垂直的法律選択問題
︵もちろん︑わが国ではこの種の課税によって現実に垂直型重複課税が発生する可能性があるかは明言しえないにせ
よ︶が︑私法のみならず︑租税法の領域でも生起することが予測されるが︑これは租税法固有の事案であろう︒その
挙句︑残されるのはブースの所説を中心としながら租税法の連結点を探究するのが︑我々抵触法学者にとって国際租
税法への最も適切な関与の仕方であろうとの結論に達した︒
しかし︑それに先立ち︑連結点という限り︑沿革的に︑国際私法上果たしてどのような思索を辿りこの概念が発展
し︑紆余曲折を経て定着してきたかを検討するのも興味をそそられる課題であるし︑あるいは法目的の考慮や統治利
益分析などのニューアプローチのもとで連続素の考慮は全く無用のものとなったかも︑併せ考察するのも依然として
有意義であろう︒従って︑本稿は英国国際私法の視点を踏まえながら︑国際私法の方法論の歴史を概観し︑次いで偉
大な国際私法学の先達たちが何故に税法抵触に関与をもち︑また美事なルールを構築したかの過程を跡づけると共に︑
その努力がやがて終焉を迎えて行った経緯を略述した後︑ブースの所説を中心としつつ︑連合王国租税法上の連結点
である居所︑日常の居所および住所の疑念を要約し︑併せてそれをめぐる判例を紹介することがその目的となる︒
拙稿︑関西大学法学論集五 0 巻三号四 0
頁 ︒
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応) Booth=Davies, Residence, Domisile and U. K. Taxation.
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(M) Francois Rigaux, Droit International Prive, T. 1 (1987) p. 36.
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Lorebours‑Pigeonniere et Loussouarn,
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412.
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早ギ冨゜(r:‑‑) Niboyet, "Doubles impositions an point de vue juridique" Recueil des Lours (1930) t. I. 1, p. 8 et seq.
(oo) Beale (Joseph
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(S)
Leflar, Ameriean Confliets Law (1968) pp. 619‑643.
(二) 358 U. S. 450 (1959)
虚)幸索『回経忘涵坦吐写』
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三王置
『匝経函坦』姦追H
く犀゜ほ) Fawcetl (james J.) and Torre, mans (Paul), "Intellectual Property and Private International Law" Oxford University
Press, pp. 1‑741.
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キば皿応委ヒ゜国際私法の起源から国際租税法の連結点考察までの過程
四 0 九
︵ 一
︱ 六 七 ︶
国際私法的発想の起源と法規分類学説
( 1 )
プロフェシオユリス
p r o f c i o i u r i
s 即ち︑属人法宣言という事象の意義を︑決して軽視することはできないにして
一義的には︑異法地域間の法律の場所的空間的抵触の解決を企図する規範である限り︑その発祥は
( 2 ) ( 3 )
中世イタリアのコムーネ
c o m m u n
いわゆる自治都市の成立を契機とし︑ことに後期注釈学派のバルトルス e
B a r t o l u s
( 1 3 1 4 ‑ 5 7
) によって完成された法規分類学説をもって塙失とすると提言することに一応の真実があろう︒宗教的︑文
化的︑地理的︑経済的︑人種的︑軍事的連帯感と︑皇帝や領主の支配を受けず︑上位者を認めない支配地域をもつと いう共通性と同時に︑それぞれの都市が個別的統治形態に起因する独自のスタチュータ
s t a t u t a 条例をもつという均 質性の中の異質性が︑商工業の発達に伴う都市相互間の人々の取引や往来の激増につれて︑スタチュータの適用関係
( 4 )
の考察の必要性を認識させる誘因となった︒以下英国国際私法の立場から当時の情況を概説する︒
その頃アルプス北部の平地一帯では多数の封建領主が支配し︑すべての人およびすべての法律行為は例外なく絶対
( 5 )
的な属地主義に服させられ︑領土外の法制のもとで取得された権利は一切否認された︒アルプス南部の諸都市でも当
初の属人主義が徐々に属地主義にとって代わられたが︑それは封建制によるものではなかった︒
( 6 )
︵
7
)
︵
8
)
︵
9
)
︵
1 0 )
封建領主よりむしろ教会司教区と密接に関連しつつ出現したフィレンツェ︑ミラノ︑ピザ︑ボローニャ︑パドヴァ︑
( 1 2 )
ジェノバ︑ヴェネチアのように繁栄した諸都市では︑ローマ法にそれぞれの都市による変型を施した地域法が行われ
ていたから︑そうした実質法の多様性が諸都市の住民間の取引の活性化と相侯って︑窮局的に国際私法学の勃興がう も︑国際私法が︑
( I )
抵触法の方法論と連結点
第五三巻四•五号 ながされた︒法律大全
C o
r p
j u s
r i s
にはいかなる法律が適用されるべきかという問題について孤立した規則は見出し うるものの︑
ローマ法自体には抵触規則は稀少であった︒それと同時にイタリア学派を特徴づけるものは︑①
ぞれのスタチュータの共通の底辺をなし︑ことに発達した商取引を規制する都市の法たる要素を多分に有していた 口ーマ法への傾針︑②
f o
r u
m という原則に示されるような︑註釈の成果の変化しつつある中世の実社会への適応性の高さであった︒プラッ
クネットに依れば﹁典拠に対する畏敬が法律大全のような指針となる古代の原文の保存を必要としたが︑日常生活の
実際上の要請が︑等しくその制度をそれだけで作動させる註釈の存在を必要としたのである﹂︒
註釈が認めないものは裁判所もこれを認めない
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l o
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こうして︑十二世紀の注釈学派は法律大全の原文に付加した解説書や注釈書によってローマ法の復活に貢献したが︑
ち︑ボローニャ︑パドヴァ︑ 法律抵触の調整に科学的な論究方法を適用するために︑最初に真剣な努力を行ったのは十三世紀の後期注釈学派︑即
ペルジア︑パヴィアの法律学校に所属する法学者たちであった︒後期注釈学派の方法論
の重要性は法律大全の原文に解説書を添付するに止まらず︑原文で取り扱われた理論に入念かつ熟考した論稿を書き
綴ることであった︒敬意を払うべき原文である法律大全と︑当代の評釈との関連が時として余り明白でない理由を説
明する要素は︑注釈学派や後期注釈学派の典拠重視と注釈遂行という矛盾した考え方である︒この過程でユスチニア
ヌス法典は法律抵触学の根源ではありえないけれども︑そうした目的のために選定された原本となった︒われわれが
今日国際私法と呼ぶものを書いた注釈学派は法律大全に自分たちの論説を着床させたのである︒イタリア学派の理論
は︑ローマ帝国の総ての国民にキリスト教信仰を順守するよう強制している︑法律大全の三位一体とカトリック倍仰
( 2 0 )
︵
2 1 )
の要約の章に存在する
C o
n c
t o
s p o p
u l
o s
の節の︑注釈において詳細に説明されている︒深遠な宗教上の教義と法規の
関法
四一〇
︵ 一
︱ 六
八 ︶
それ
国際私法の起源から国際租税法の連結点考察までの過程
従って判決されるべきでない︒なぜなら︑勅法彙纂は 決のごときは︑
四
︵ 一
︱ 六 九 ︶
ローマ皇帝の支配的に服している ( 2 2 )
多様性から発生する抵触問題の解決とは︑何の関連もありそうにないが︑そうした注釈を書いた最初の人はトコのカ
( 2 3 )
︵
2 4
)
ロルス
K a r o l u d s e T o c c o (
t e n
1 2 0 0
) であり︑これを踏襲したのが有名なアゾーの高弟アックルシゥス
A c c u r s u i s
1 ( 1 8 2 ‑ 1 2 6 0 ) で 本
3
る︒ところが
C u n c t o s p o l u l o s
という成文法は明らかに皇帝の規則に服する人々に限定され︑他の
( 2 5 )
人々に拡張して適用されなかった︒そのことはローマ法も他の諸法も適用されていたことを示している︒つまり適用
法規が限定された余白の利用可能性の多い部分だと推察される︒従って︑相異る法制度に服する二人の争訟にいずれ
の法律が適用されるぺきかという議論を︑この特殊な成文法に添付するのは適切なことであった︒
もともと帝国の統一法指向型のローマ法には法律抵触の法理などは皆無であり︑内外法の平等を前提とする抵触解
ユスチニアヌス法典の予見するところではなかったから︑そこには本来典拠となるべき規定などは存
在しなかったのであるが︑法学者たちは彼らの独自の思索を︑あたかも法律大全に潜在する規則を発展させたかのよ
( 2 6 )
うに偽装したと指摘されている︒採用された方法の一例としては︱ニニ八年という初期の頃に上記のアックルシゥス
がこの勅法彙纂中の
C u n c t o s p o p u l o
s 法に添付した次の注釈を挙げることができる︒
もしボローニャの市民がモデーナで訴えられたとすれば︑彼は自分が服していないモデーナでのスタチュータに
( C a n c t o s p o p u l a
s 法において
) ; ' q u o n o s r t r a c e l e m e n t i a e r e g i t t e m p e r a m e n t u m "
﹃我々の慈悲深さという適切さが支配する﹄即ち︑
( 2 8 )
民︶と記述しているからである︒
︵ 総
て の
人
このアックルシゥスの注釈はユスチニアヌス法典とこれに対する注解とを取捨選択した綜合要約の書として優れた
( 2 9 )
実用価値を発揮し︑﹁標準注釈書﹂として尊重される程のものであったから︑それに続く後期注釈学者たちは常に自
係に連結する以下の理論を発展させたのである︒ ニに︑そうした地域法とドイツ皇帝およびにロンバルト王のすべての巨民に影響を及ぼす立法︑ 指すのに用いられた︒その起源において︑法規分類学説の目的は︑第一に︑多数のイタリア諸都市の地域法間に︑第
( 3 5 )
︵
3 6 )
間に発生する抵触を解決するにあった︒この学説はそれぞれの法規をその性質に応じて分類し︑その正当な適用範囲
を定める方法を採り︑人に関する法か︑物に関する法かに従って︑個々の法規を出発点として︑これを具体的法律関 われていた一般法︑即ち︑ 第五三巻四•五号
分たちの国際私法に関する注解を勅法彙纂の
C u n c t o s p o p u l o s に関する注釈として取り扱ったのである︒
そうとは云え︑法律大全の規定の用語に関する注釈を法典の嵩本の行間に入れて説明する方法に違いはないにして
1 3 3 6
) の影響を受け︑ アックルシゥスの後に暫時これそ継承した注釈学派と︑ツールーズやオルレアンを中心に膨拝として起こり︑
( 3 0 )
︵
3 1
)
ジャック・ド・レヴィニ
( 1 2 7 4 ‑ 1 2 9 6 )
ピエール・ド・ベルペルシュ
( t e n
1 3 0 8 )
たち先駆者に率いられたフランス
( 3 2 )
学派や︑プランケンチヌスと縁由の深いモンペリエで仏伊の架け橋となったピストアのチノ
C i n u s d e P i s t o i e
( 1 2 7 0
ー
( 3 3 )
かつ偉大なバルトルスの業績を踏まえその後継者バルヅス
B a l d u s
( 1 3 2 7
ー
1
4 0 0 )
を擁した後期注 釈学派とは︑少なくともローマ法学者によって完全に峻別される︒前者は形式論的で︑系統的な研究態勢を欠き︑歴
情に即応し︑ 史に通じないと指摘される程単純な誤謬まで犯しているのに反し︑後者は法と時代思潮との関連を重視し︑社会の実
( 3 4 )
スコラ哲学の演繹法を適用して体系を築き︑使用可能な法律を作り上げた︒いずれにせよ︑後期注釈学 派の創唱した法規分類学説は︑その後数世紀の間︑法律抵触部門の中心的思潮であり続けた︒
︵ 一
︱ 七
O )
中世においてスタチュータと云う言葉は︑制定法にせよ慣習法にせよ︑都市独得のものであり︑イタリアで広く行 も
ヽ関法
ローマ法やロンバルト法とは対照的に︑イタリアの都市において実施されていた地域法を
四
いわゆる﹁普通法﹂
国際私法の起源から国際租税法の連結点考察までの過程 よれば︑﹁﹃死者の財産は長子に蹄属する﹄ もちろん︑バルトロスは既に当初から物法と人法の区制を文法的解釈にかかわらせる用意があったと思われるが︑ それが多くの概論書に掲載され︑指摘される以下のような周知の批判を招くことになった︒例えば︑江川英文教授に
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o g
e n
t i
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)
する法規であって属地的の効力のみをもつに反し︑﹃長子が相続する﹄
関する法規であって属人的の効力をもつものとした︒この区別は甚だ形式的であるから︑後世の学者はバルトルスの 法とし何を物法とするかの基準に困乱が発生した︒ 契約の方式および効力に関する原則を提示したことから発展した第三の範ちゅうを本来指すものである︒人法は人の 身分や能力に関する法規であって︑これを制定した主権者の領土内に住所を有する人に適用され︑その人が別の主権
( 3 8 )
者の領土内に在るときにもなお適用される︒物法は物を規律することをその主目的とする法規であって︑本質的に属
地的であり︑その適用はこれを制定した主権者の領土内に限定される︒混合法はこれを制定した主権者の国内におい
( 3 9 )
てなされた法律行為が他国において訴訟を提起されることがあるとしても︑そうした行為のすべてに適用される︒そ
して︑混合法が物法と同様の解決に服すべきことは早い段階で決着していたと思われる︒これらの分類は単純かつ実
効的な解決を提供すると考えられ︑その後︑この方法論は数世紀にわたって踏襲されたが︑法律事実の多面性と当事
者の多極化︑複合的な法律関係が錯綜する係争問題の出現︑法規自体の規定様式の相違ないし複雑化が進展するにつ
れ︑﹁上記の三つのカテゴリーに帰属せしめられる法規﹂の適用関係に疑惑が生じた︒換言すれば︑必然的に何を人 ろフランス学派のダルジャントレ
( 1 5 1 9 ‑ 9 0 )
先ず︑すべてのスタチュータは人法︑物法および混合法の三つのジャンルに区別される︒この混合法の名称はむし
の創唱にかかると云われるが︑これもバルトルスが前記の区分の他に︑
ニ
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)
四 一 三
と云う場合には物に関
と云う場合には人に
︵ 一
︱ 七
一 ︶
( 1 5 0 0 ‑ 1 5 6 6 )
第五三巻四・五号 は︑それを構成する財産所在地に拘らず︑
︑ ︑
︑ ︑
バルヅスは遺言相続への属人法の適用を主張した︒
ロサーテ
︵ 一
︱ 七 二 ︶
( 4 0 )
学説を評して文法的の学説であるとした﹂のである︒それにも拘わらず︑碩学ビールが好意的で寛容な次のような弁
「このことは偉大な巨匠の最も独創的で巧緻な発見ーー—彼の同時代の誰もがなしえなかった、また彼の後継者たち が五百年もの間その重要性を理解できなかった発見の︱つであった区分の︑単なるある不幸な例示に過ぎない︒
それでも区分は必要なのである︒あるスタチュータが︑人の身分を決定すると解釈され︑あるいは財産相続に影響を
( 4 1 )
与えると解釈されるのはもっともなことである︒﹂
バルトルスの後約二世紀の間︑方法論は変更されないままであったから︑この学問に余り大きな進歩はなかった︒
古い土壌に新しい規則を作り出す試みは次第に国難となった︒例えば︑主要なローマ法の相続規則は被相続人の遺産
一体として処分されることとなっていた︒この一体性を保持するために︑
( 1 3 6 3 ‑ 1 4 1 2 )
ぶ か
い ス
ノ い
ス ノ
の 卸
E
( 4 2 )
釈論を通じて︑すぺての相続は被相続人の本源地国法によって規律されるぺきであると主張し︑
ア学派に先鞭をつけたと云われる︒むしろ︑注目されるのは人法とか物法というより︑法律関係がある程度︑細目化 され︑準拠法らしきもの︑即ち︑属人法とか本源地法といった概念が芽生えているような印象を与えることである︒
( 4 3 )
︵
4 4
)
法規分類学説に属するフランスの学者にはわが国はじめ多くの概説書に記載されている︑後に触れるデュムーラン
( 4 5 )
︵
4 6
) ( 1 5 1 9 ‑ 1 5
9 0
) ︑フランス
際劣私法の著述で屡々取上げられるギー・コキーユ O O
( 1 5 2 3 ‑ 1 6 0 3 )
: t i l t '
が 本
3
るが︑本稿の目的は学説史への言及ではないので別の機会に譲り︑次節で取上げるサヴィニーが
およびダルジャントレ
時代は徐々に流れているのが看取できよう︒ 明ないし讃辞を呈しているのは感動的でさえある︒
関法
︵ ↓
e n
1 3 5 4 )
とサリケト 四︱四
マニチニの新イタリ
国際私法の起源から国際租税法の連結点考察までの過程 最も意識し︑批判の対象としているフーベルに代表される︑
法規分類学説のさらなる発展はオランダの法律学者たちに負っていると指摘される程であるが︑イタリアの都市国 家と異なり︑当時のオランダは各地域に封建領主が並存する状況であったから︑その基本原則は国家の排他的主権で あり︑居住地主義が濃厚であったのは云うまでもない︒
ヴォエット
︵ ヤ
ン ・
フ ッ
ト ︶
かつ英米国際私法に深甚な影響力を及ぼしたオランダ学 フーベルと並び称されるポール・ヴォエットの子ジョン・
は領土主権のより赤裸々かつラジカルな表明を行っている︒即ち︑﹁物法であれ︑人法
であれ︑また混合法であれ︑あるいは別途にどのように呼ばれるにせよ︑
四 一 五
︵ 一
︱ 七 三 ︶
一国の法律はその主 スタチェータに関する総ての事件において
は︑次のことが正当な規則であると考えられる︒即ち︑立法府の領土外ではスタチェータは一切の規範力を絶対に喪 失し︑従って︑他の土地の裁判官は自分自身の国内に所在する物について︑どのような法律上の必要性を以ってして
( 4 8 )
も︑自国自身以外の法律を順守し︑または正当と認めるよう拘束されない﹂︒しかし︑語調の激越さとは別に︑これ は当然のことに言及したに過ぎない︒むしろ︑ヴォエットが英オとされる所以は︑主権者は適切な諸事案にあっては
﹁諸国家の礼譲に相応じるために︑かつ関係外国主権者が︑同様の情況下で返礼することを期待して︑自国裁判所に
( 4 9 )
おける外国法の適用を容認するであろう﹄と考えた点にある︒
まして以下に掲げるフーベルの三大公理は確かに領土主権を基調とはしているが︑その本質は当時としてむしろ斬 新で先駆的な国際主義の宜明そのものである︒彼の著作については当然わが国の第一人者である妹場教授の著作に依
( 5 0 )
︵
5 1
)
︵
5 2
)
拠すべきであり︑わが国の概説書もいち早く︑これに準拠する見解を採択しているが︑英米の学者は彼の公理は努力
( 5 3 )
︵
5 4
)
︵
5 5 )
目標というより︑むしろ端的に義務的なものをして把握する見解を採っているようである︒① 派
に 移
る ︒
第五三巻四•五号 権者の領域内においてのみ絶対的効力を有し︑すぺての臣民を拘束するが︑それ以上には及ばない︒② 者たると一時的滞在者であるとを問わず︑主権者の領域内にある者は総てその臣民と見倣され︑その法律に拘束され
主権者は礼譲にもとづき領域内において既に実施されている各国の法律が他の国の主権者の権力ないしその
臣民の権利を害しない限り︑ いかなる場所においても効力を保持することを承認するよう努める︒
( 5 6 )
両者はともに領土主権を基盤としつつも︑外国法適用を容認する根拠として﹁諸国家の礼譲﹂を援用した点で共通
一国は礼譲に基づき︑また自国臣民のために相互的待遇をえたいとの利己的な願望 から︑絶対的属地主義の緩和に同意したと非難されるし︑同じく礼譲という言葉や友好的配慮・譲歩の精神をもって
( 5 8 )
努力するものとするというフーベルの第三公理に対してさえ︑事案の解決が不純な動機に左右される裁判官の専断に
委ねられるとの批判が向けられれたが︑
オランダ学派は正義に基づき自らが定めるところに従って︑外国法を適用す ペきことを表明したに他ならないとの擁護説にこそ正統性が認められよう︒
当時のオランダは英国との間に極めて密接な商業的︑文化的および工業的関係を有しており︑ジョン・ヴォエット
( 5 9 )
の注解書がウイリアム三世に献呈されたという経緯さえある︒その上︑スコットランドとオランダの法律家たちの間 にもやはり着実な交流が進捗していた︒こうした事情が︑傑出した裁判官マンスフィールド卿をして有名な判決
( 6 0 )
︵
6 1
)
︵
6 2
)
R o
b i
n s
o n
v B
l a
n d
において︑どうして英国裁判所にオランダ法学者の著述を流布させるという大きな責務を果させ
( 6 3 I 6 4 )
たかを説明する︒これを契機として︑
マンスフィールド卿の判決は確かに英国の法曹や大西洋の彼方アメリカの法曹
( 6 5 )
によって見逃しえないものとなったから︑オランダの法学者たちの著述は広範な読者や心酔者を獲得することとなっ
た︒こうして礼譲理論が︑ある時期は抵触法論の十分な根拠とされていたようであり︑ しているが︑ヴォエットの方は︑
93
ヽー9
る ︒
関法
一九一八年当時において英国
四 一 六
︵ ︱
‑ 七
四 ︶
永続的居住
国際私法の起源から国際租税法の連結点考察までの過程
四 一 七
( 6 6 )
で は
R e F r a n c k e a n d R a s c
h において︑否定的であるにせよ︑そうした論議が見られる︒もちろん︑次節で述べるサ
ヴィニーの攻撃を免れなかったが︑国際間の黄金律である礼譲は一国が他国の法律に効果を付与する理由に用いられ けれども︑外国法への送致︑即ち︑外国法適用によって︑何故︑主権が侵害されないかの説明には︑必ずしも礼譲
理論は役立たない︒必然的に求められる根拠としては︑既得権理論と見られるものがフーベルの第三の公理に内在し ていたとする見解である︒既得権理論とは一国の裁判所は決して外国法を適用するのではなく︑単に外国法のもとで 取得された権利それ自体を取扱うに過ぎないのであって︑その権利は法廷に提示され︑事実として証明されなければ
( 4 8 )
︵
6 9 )
ならないとする︒後に英国ではダイシイ︑合衆国ではビールによって丹念に仕上げられ︑抵触法革命まで堅持されて
一国の裁判所は外国法を強制するのではなくて︑外国法のもとで取得された権利を
執行するだけであって︑そうすることで一国裁判所は自国の主権を損うことはないとの着想はフーベルに帰せられる︒
このフーベルの卓抜さは計らずも︑こうした既得権理論の発展によって証明されることになる︒
そして前記のような緊密な政治的関係からもオランダ学派を継受して法規分類学説の影響を色濃く反映していたス コットランドを含む英本土の視角に立っても︑十八世紀中葉までに︑欧州大陸で丹念に仕上げられた制度の主たる特 徴には︑明らかに未だサヴィニー学説の洗礼を全く受けていない時点であるに拘らず︑外国法尊重および法律選択的 ないし連結点操作型の規則設定に近似した手法が観取される︒もっとも︑ウエストレーク自身がサヴィニーの手法を よく認知していたということもあろうが︑欧州の分類学派の中には既に現代型ルールに︑転換移行する素地の醸成が
予感されつつあった証明であるかもしれない︒それは以下のようなものである︒ きた学説であるが︑少なくとも︑ こ ° t
︵ 一
︱ 七
五 ︶
( 6 ) する︒即ち各官憲の所在地法による︒ ( 5 ) ( 4 ) 契約から生じる債権債務関係は契約地法によって規律される︒
( 3 ) カの問題に関してである︒ ( 2 ) ( 1 ) 第五三巻四•五号
物について対処するスタチェータは物法であり︑物の所在する場所の現行法であるスタチェータが︑所在地法 として︑他の法域においてさえ適用されるぺきものとされる︒動産に関する限り︑この所在地法主義は動産は人 に従うとの法諺によって大巾に修正される︒そうした財産がそれ自身の所在をもつことに反撥したのである︒
人について対処するスタチェータは人法であり︑人が住所を有する場所の現行法であるスタチェータは︑他の 法域においてさえ︑住所地法として適用されるぺきものとされた︒これが主として適用されるのは身分および能 物法であるか人法であるかが明確でないスタチュータは混合法であり︑本質において物法と人法のいずれに近
接していると考えられるかに従って︑あるときは所在地法としてまたあるときは住所地法として︑現行法として 実施されている法域とは別の法域においても︑それらに効果が与えられよう︒そのほか物法にも人法にも明確に は送致しえない問題は︑法規分類学説の圏外のいずれかの法諺に基づいて判決されよう︒
文書の方式は行為地法によって規律され︑諸種の手続の有効性はあまねく司法当局その他の官憲のもとに遍在 訴訟手続を規律するのは法廷地法である︒法廷地法が同時に契約地法としての性質のものであるときは︑多分
に相異なる法律のもとで発生している数個の請求が︑
一度に裁定されなければならない情況から提起される問題︑
例えば︑支払不能者の財産に対する債権者の順位の問題は法廷地法による︒
ある意味では︑こうした原則は分類学説と解離していると受取られるかも知れないが︑分類学説の存続期間である
関法
四一八
︵ 一
︱ 七
六 ︶
国際私法の起源から国際租税法の連結点考察までの過程
四一九
以上そこから派生した抵触規則であることに違いなく︑しかも既に相当に近代的な事案を想定していてかなりの進歩 を遂げている︒それにもまして注目すべきは︑法規分類学説の内部において突然変異による遺伝子が形成され︑その 形質が現代の高度経済社会においても一層適合する様相を呈している事実である︒最近の欧州共同体の債権契約の準 拠法条約にも採入れられている意思自治の原則を提唱し︑国際私法における契約自由の理論的布石を発案した︑法の 天オの一人であるデュムーランが︑夫婦財産制に関して以下のような例証を行ったのも分類学派のもとでの発案で あった︒慣習によって規律されている地域内に住所を有する人々の間で明示の夫婦財産契約なしに婚姻が挙行された 場合に︑その慣習は両当事者の黙示の採択によって契約としての効力を付与され︑その結果︑そうした事案で所在地 法に賛成する当時の有力な意見に反して︑別の慣習法のもとに所在する夫婦の不動産についてさえ適用されると主張 した︒所在地法主義に対する明白な挑戦の端緒である︒この意見は即刻ダルジャントレの辛辣な反論に遭ったが︑当 事者の意思を連結点とする準拠法の指定という表現さえ導かれうるこの論理は︑果してそうした云い方が妥当である か︑あるいはそれに代替する表現として︑どのような言葉を使用するのが適切であり︑相当と考えられるかは暫くお き︑それが分類学派の所産に他ならないことを忘却してはならないであろう︒
(1)
久保正幡『西洋法制史研究』岩波書店、三三一頁•三四八頁。
( 2
)
清水慶一郎﹃世界大百科事典﹄五 0 四ー五 0 五頁︒なおコンタードについても参照せよ︒
(3)N•
O t t k a r , S t u d i co mm na li
e f i
o r e n t i n i F , i r e n z e
1948
p .
5.
清水•佐藤訳『中世の都市コームネ』六頁。清水慶一郎『イタ
リア中世都市国家研究﹄五九頁︒
( 4
)
Ch es hi re
&
No rt h P r i v a t e I n t e r n a t i o n a l L aw 11 t h e d .
(
19 87 ),
p .
15
e t s e g .
( 5
)
I b i d . ,
p .
16 .︵ 一
︱ 七
七 ︶
( 7
)
( 8 ) ( 9 )
( 6 )
清水慶一郎『イタリア中世の都市社会』三一—四三頁。
日高達太郎﹃世界地名大事典﹄一〇六ニー六三頁︒
フィレンツェ
( f i r e n z e )
イタリア中部︑トスカナ地方︑アペニン山脈前山の粘土質丘陵地をおおうオリーブ園地帯内︑広い谷を形成するアルノ川 の両岸、標高四九メートルに位置する町。人口約四五•八万人(-九六九)。
その美しい立地︑歴史︑史跡建築物︑そして特にその美術史上の地位と町に残る貴重な蒐集品によって世界に知られてい る。行政上同市を主都とする同名の郡は面積三、八八 0
平方キロメートル、人口約一0 九•八万人(-九六七)。
アルノ川中流域を含む農場地帯︑平野の穀類栽培をはじめ丘陵面ではブドウ︑オリーブ栽培が行なわれ︑牧草栽培による
牧畜もさかんである︒
同市は一八六五年から同七一年まで統一イタリア王国の首都の役目を果たしたが︑この際に古い城壁をとりはらって大通
りとし︑急に膨脹した人口吸収のために︑アルノ川沿いの西北方地区と︑北部丘陵斜面に新しい街づくりを行なった︒主都
をローマに譲った後は︑トスカナ全域の活発な商業中心︑さらに大学および美術アカデミーを有する文化中心であるが︑特
に第一︑第二次両世界大戦間に街の西北部セストフィオレンティノ
S e s t o F i o r e n t i n
o
地区に向って工業地区も発達︑陶器︑
繊維︑精密機械︑化学工業のほか皮革加工︑靴製造なども行なわれる︒︵以下略︶
﹃世界地名事典﹂一〇六ニー六三頁︒︵日高達太郎分担︶
前掲﹃世界地名大事典﹄︱二八八ー九〇︒︵日高分担執筆︶︒
前掲書︑一
0 1
︱ ︱
六 頁
︒
戸倉廣﹃羅馬法の世界的使命﹂厳松堂︑六九頁︒
伊太利に於ける最古の大学はボロニャのそれであり︑実に近世大学の低である︒一体ボロニャ大学は︑紀元五世紀即ち四
三三年︑東羅馬帝国皇帝テオドシウスニ槻に依って設立を認可されたと云う古き伝説を有するが︑其の真偽を実証すること
が出来ない︒何れにしろ︱︱五八年の初頭︑皇帝
Fr ed er ic k Ba rb ar os sa
(在位︱︱五ニー一︱九
0 )
から勅諭が下ったとこ
ろから観れば︑当時既にボロニヤ大学が存在していたことは歴史的に確実である︒其の当初はボロニヤ大学も単科大学︑即 ち法科大学であった。他の分科即ち医科·文芸科•神学科等が増設されたのは比較的後のことである。併し法律家を育成す 関法
第五三巻四・五号
四 二
O
︵ 一
︱ 七
八 ︶
国際私法の起源から国際租税法の連結点考察までの過程
四
一般に伊太利の各大学の主要なる特色は法科に中心を置いて居る るための法科は依然として当初の重要性を失はなかった︒
と云うことであった︒
前掲﹃世界地名大事典﹂︱二三ニー三三頁︵日高分担執筆︶を参照されたい︒
( 1 0 )
前掲書︑九七九頁︒
パドヴァ
( P a d u a )
イタリア東北部︑ヴェネト地方の主都︒バソキグリオーネ
B a c c h i g l i o n e
川に臨み︑標高︱ニメート
ルに位置する町。人口約ニ―•一万(-九六六)。
北イタリアでは最も古い町の︱つで︑古くから商業が発達︑大学もあって文化・芸術の中心でもあった︒ミラノとヴェネ
ツィアの連絡路とボローニャからアルプスに向う道との交点にある商業の町に︑最近製糖を中心とする食品工業︑化学︑人
造繊維工業なども発展している︒⁝⁝中略⁝・:大学はフリードリッヒニ世により︱ニニニ年に創設され︑ダンテ︑ペトラル
カ︑タッソーなどが学んだので有名︑古くから理学部ならびに医学部が広く知られ︑その十六世紀の中庭が美しいことも有
名︒史跡建築物も多い︒⁝⁝以下略︒
( 1 1 )
前掲書︑五九七ー五八一頁︒
( 1 2 )
前掲書︑一七四ー一七五頁︒
( 1 3 )
C o r p s J u r i s
︹法大全︺旧英米法辞典一 0
二頁︒いくつかの法の集成を︑更に包括した書︒ローマ法大全
( C u r p s J u r i s C n r l i s )
と寺院法大全
( C o r p s J u r i s C a n o n i c i )
はその主要なもの︒⁝⁝本稿は
C h e s h i r e
&
N o r t
h に依拠したので︑ローマ
法大全の意味に使用している︒
( 1 4 )
船田享二﹃羅馬法﹄第一巻公法・法源︑岩波書店
10
七 頁
︒
( 1 5 )
P l u c k n e t t , o C n c i s e L e g a l H i s t o r y , r 3 d e d . , p . 6 0 3 .
( 1 6 )
S c h m i t t h o f f , E n g l i s h C o n f h i t o f L a
w s ,
(1 94 8)
p .
15 .
( 1 7 )
前掲︑世界地名大事典︑一︱七六ー七頁︒
ペルジア
( P e r u g i a )
イタリア中部︑ウンブリア地方︑テヴェレ川とトラジメノ湖間にそびえる岩山上︑標高四九三メー
トルに位置する町︒人口約︱︱一・六万(‑九六九︶︒一三 0 七年創設された大学があり︑外国人のための夏季講習は広く知ら
れている︒ウンブリア地方の主都︒⁝⁝以下略︒
︵ 一
︱ 七
九 ︶
( 2 2 ) ( 2 3 )
( 2 1 )
船田享二︑前掲書︑五五七頁︒
ロムバルド国の首府パヴィア(Pavia) の法学校は第十•十□世紀の頃に相当に活躍したものの如く、恐らくはこのパ
ヴィアにおいて
O t t o
三世時代︵九八三
‑ I
0
0 二乃至三年の頃に法学校の教授によっていわゆるパヴィア法書 二年︶に当時の要求に応ずるために一法書が作られたともいはれ︑又一〇 0
( l i b e r P a p i e n s i s )
が作られたとも伝えられる︒この法書
はロムバルド王の諸勅令を集録すると共に︑羅馬法を単に比較のために参照するに止まらずに法学提要・勅法彙纂及びユリ
アヌスの抄録のみならず殊に学説彙纂から得た理論を用いて勅令を解釈しロムバルド法に羅馬法の思想を加味した注釈を含
む︒以下︑但し書きは原典に当られたい︒
前掲︑世界地名大事典︵日高分担執筆︶
パヴィア
( P a v i a )
イタリア北部︑ロンバルディア地方︑ミラノ南方約三四キロメートル︑ティチノ川とミラノからの運
河の合流点︑本流のポー川に合流する少し上流に臨み︑標高七七メートルに位置する町︒人口約七・五万(‑九六六︶︒交通
の要衝︑地方商業中心︑大学(‑三六一創立︶所在地︑同名の郡︵面積二九六五平方キロメートル︑人口約五ニ・八万︵一
九六七︶︶の主都︒以下略︒
( 1 9 )
S c h m i t t h o f f , o p . i t . c , p . 1 5 .
( 1 0 4 )
De
s u m m a T r i n i t a t e e t f i d e C a t h o l i c a
﹃ ロ
ー マ
法 大
全 ﹄
( C o r p u s J u r i s C i v i l i s ) ︹ 本 文 中 で は
t h e C o r p u s J u r i
s ︺の一部をなすユースティーニアーヌス帝﹁勅法
彙 纂
﹂
( C o d e x J u s t i n i a n u s )
︹
C h e s h i e r
"
N o r t h , p . 1 8
で は
t h e C o d
e ︺竿中一巻第一章に採録されている諸勅法は︑その冒頭の
句にしたがって︑ De
s u m m a T r i n i t a t e e t f i d e C a t h o l i c a
(至高なる三位一体およびカトリック信仰について︶と総称される︒
︵ 本 学 ︑ 市 原 靖 久 教 授 の 御 教 示 に よ る ︒
︶
C u n c t o s p o p u l o s
( 1 8 )
ユースティーニアーヌス帝﹁勅法彙纂﹂第一巻第一章第一節に採録されている勅法は︑その冒頭の二語にしたがって︑
C u n c t o s p o p u l o s
( 1 " '
べての人民が︶と呼ばれる︒︵市原靖久教授の御教示による︒︶
C h e s h i e r
&
N o r t h ' s P . I .
L .
1 1 t h e d . p . 1 8 . S c h m i t t h o f f , o p . i t . c , p . 1 5 .
関 法
第五三巻四•五号
四 ニ ニ
一 八
0 )
( 2 5 )
( 2 6 )
( 2 7 )
( 2 8 )
( 2 4 )
国際私法の起源から国際租税法の連結点考察までの過程 アゾ︵︱‑五 0 戸倉廣︑前掲書︑七二頁︒
頃 ー
ニ ︱
︱ ︱
1 0
頃︶はボロニャの法学教授者中最も著名なる註釈学者にして︑有名な摘要書を初めとし多く
の著作をなした︵彼の著作中最も人口に謄炎されているものは
6五
s u m m a c o d i c i s e t i n s t i t u t i o n u m "
にして︑此の書は他の一
切の摘要書に優るものである︒其の他彼の著作にして驚異に値するものは﹁学説彙纂﹂に関する厖大なる説明書である︶︒
彼の著したぷ
u m m a
"
が影響を及ぼした所は︑習に伊太利のみならず広く欧羅巴の天地に及んだ︒例えば英国に於ても︑第
十三世紀ヘンリー八世時代の大法律家にして﹁英国普通法の祖﹂と言はるるブラクトン
( B r a c t o n )
は︑其の不朽の名著の
中にアゾの
(
s
gu m m a
"
を自由に参照し又屡々引用している︒されば此の点に於ても亦彼は羅馬法に関する世界的の註釈学者 で あ っ た
︒
戸倉氏はその著書の各個所において︑このようにローマ法と英国の関係に相当の力点を置いて書いて居られる︒その結果︑
英国人は独得の法制度によってローマ法を水際で撃退したと誇っているが︑ローマ法が英国に与えた影響と知的交流は少な
くないことが判明する︒英国と大陸との緊密かつ緊張的な関係は現在の英国と
E u
とのそれを見る上でも興味深い︒
船田享二︑前掲書︑五六 0
頁 ︒
アツォは始祖イルネリウスに亜ぐ名誉を博し︑同氏の書を持たずに法廷に出るな
( C h i n c n h a A z o
n o n v a d a a
p a l a z N o )
の諺さへ作られ︑精密な論理と奔放なオ気とを以て巧みに理論を表現してその作品は単に文章のみからいって当時の伊太利
文学を代表する名作の一とされ︑是等三学者の頃に註釈学派は隆盛の極に達した︒︵別の二人は英国でローマ法を講じた
ヴァカリウムとフランスでローマ法を普及させたプランケンチヌスである︒︶
C h e s h i r e
&
N o r t h , o p . i t . c , p . 1 8 . W o l f f , r P i v a t e I n t e r n a t i n a l L a w , p .
26 .
柴田光蔵﹃ローマ法概説﹄玄文社︑二
0
0 頁 ︒
﹃ 勅
法 彙
纂 ﹂
( C o d e x )
‑ー̲﹃旧勅法彙纂﹄ののちに︑﹃学説彙纂﹂と﹃法学提要﹄の編纂によって修正が必要となったた
めに︑五三四年にあらたに制定された︒第一巻は︑教会法法源・官制︑第二し八巻は︑私法︑第九巻は︑刑法︑第一〇し一
二巻は︑行政法をそれぞれ扱う︒
P i l l e t M a n u e l d e d r o i t i n t e r n a t i n a l p r i v e i i p .
33 8.
四二三
︵ 一
︱ 八
一 ︶
( 2 9 )
ピストヤ 関法
( P i s t o i a )
のチ J 第五三巻四•五号
一 八
二 ︶
Ch es hi se No rt h, o p . i t . c , p .
1 8 .
戸倉廣︑前掲書︑七三頁︒
アゾの門弟にアックルシウス︵一︱八ニー︱二六
0 )
なる碩学が居った︒彼は甚だ有名となり︑後にはボロニャ大学に約
四十年間も奉職し︑其の間には恩師アゾと同僚となった︒アックルシウスの著
"
g l o s s a o r d i n a r i s "
は一般に﹁大註繹書﹂と
呼ばれるが︑之は註釈学派の手になる研究著作中にて最も傑出せるものである︒アックルシウスは此の﹁大註繹書﹂の中に
﹁勅令集﹂﹁學説彙集﹂及び﹁法學提要﹂に関する過去百五十年間の諸註釈を克明に輯録し︑且つ彼自身の註釈を付加した︒
此の﹁大註繹書﹂は実に半世紀間以上も︑羅馬法典の原本よりも権威あるものとして認められた︒︵なお︑戸倉氏は﹁大註
繹書﹂としておられるが︑原田慶吉﹁ローマ法上巻﹂有斐閣三八頁では﹁標準註解﹂が用いられているので︑極めて僭越で
あるが︑統一のため一応本稿では標準註解書とさせて頂いている︒︶
( 3 0 )
N i b o y e t , a M nu el de dr o i t i n t e r n a t i o n a l p r i v e , p .
38 9.
船田享二、前掲書五七三頁•五八三頁•五八六頁を見よ。
南仏地方と北伊地方とは凡ゆる点において密接な交渉関係を有していたばかりでなく︑アックルシウスの注釈書の補訂そ
の他の業績を遺したその子
F r a n c i s c u s Ac cu rs iu s
(―ニニ五—九三年)はボロニャの政変のために遁れて南仏を遍歴し、殊
に︱二七三年にはツールーズ
( T o u l o u s e )
でジャック・ド・レヴィニと有名な論争を試みて居る︵と伝えられるように︶︑
註釈学派の業績と仏蘭西法学の特徴とを併せて伊太利における後期註釈学派の先駆をなすに至った学風は︑ジャック・ド・
レ ヴ ィ ニ
( J a c q u e s de Re vi gn y, a I co bu s d e R av an is )によって始められたといはれ︑氏は︱二八 0 年前後にツールーズ及
びオルレアンで羅馬法を講じ︑︱二九六年ヴェルダンの僧正として死亡し︑学説彙纂・法学提要及び勅法彙纂に関する註解
の 他 に 封 建 法 に 関 す る 要 約 書 や 質 疑 録
( q u a e s t i o n e s )及 び 殊 に 法 律 用 語 の 意 義 の 解 説 書
( l i b e l l u s de ve rb or um s i g n i f i c a t i o n i b u s )を作り︑最語の書はアルファベット順に各種の用語に関して単なる定義的説明に止まらずに理論を展開
せしめたものであって︑諸民族の為に天啓を示す光明
(l um en ad re v e l a t i o n e m g e nt iu m)
とまで呼ばれて尊重された︒
( 3 1 )
前掲書︑五八五頁を見よ︒
品︶前掲書︒
(C in o [ C i n u s ] S i g i s b u l d i ,
︱二七一ー三三六年︶も仏蘭西各地の大学に遊びその学者たちの 四二四
国際私法の起源から国際租税法の連結点考察までの過程 四二五 影響を受けつつ而も独自の立場をとって一三︱二乃至四年には勅法彙纂講義
( l e t t u r a a l Ca di ce )
を作り︑その他学説彙纂
の一部に関する説明書や特殊問題に関する研究書を発表し︑是等の学者の影響により北伊には再び法学が盛となるに至った︒
( 3 3 )
前掲書
羅馬法学者たると同時に教会法学者であって︑教令集に関する註解と共にユスチニアヌスの法の各種の部分に関する註解
を作り︑多くの新説を樹てたけれども︑時に真理を愛するよりも寧ろ新奇を好んだ学者であるとも評される︒なお︑後述注
( 4 2 )
を 見
よ ︒
( 3 4 )
川上太郎国際法学会編﹃国際私法講座第一巻﹄九三頁︒
( 3 5 )
Ch es hi re
&
No rt h, o p . c i t . , p p .
16
‑1 7.
( 3 6 )
妹場準一国際法学会編﹃国際関係法辞典﹄四三三頁︒
( 3 7 )
川上太郎前掲書九五頁︒
( 3 8 )
Ch es hi er
&
N o r t h ' s P .
I .
L ・ , o p . c i t . , p .19 .
( 3 9 )
I b i d .
( 4 0 )
江川英文﹃国際私法﹄有斐閣︑三 0 頁︒川上太郎︑前掲書二四頁︒
( 4 1 )
B e a l e ,
A
T r e a t i s e on h t e C o n f l i c t o f La ws , p p .
18 90
ー9
1.
( 4 2 )
Ku hn (A rt he r
K . ) ,
C
om oa ra ti ve Co mm en ta ri er
on
r P i v a t e I n t e n a t i o n a l L aw , p .
9.
( 4 3 )
川上太郎﹃前掲書﹄九五頁︒しかしデュムーランは﹁ローマ法の註釈を基礎としており︑大体においてイタリア学派の学
説を継承している故︑未だ新学説を開いたとは云えない︒﹂
(44)丸岡松雄﹃国際私法における夫婦財産制﹄木鐸社︑八二頁︒
近来稀な大作である︒とくに八二頁の注
( 3
) は重要である︒確かに︑黙示意思の探究が婚姻住所地法に行きつく現象は否
定できない︒しかし︑デュムーランが国際私法上の意思自治の提唱者であることに変わりはない︒ (45) 溜池良夫『国際私法講義』四三—四四頁。
( 4 6 )
We is , o p . c i t . , p p .
34 1' 2.
( 4 7 )
Ch es hi re
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N o r t h ' s P .
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o p . c i t . , p .
2 0 .
一 八
三 ︶
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(尊)
Schmitthoff, English Conflict of Law, p. 19.
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Ibid.
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111f!rn<0 図 Cheshire and North, op. cit.,
Schmitthoff op. cit., p. 19.
Bentwick, Westlake's Private Intenational Laws, p. 9.
Binchy, Irish Conflict of Laws, p. 9.
(苫)
Lorenzen, "Huber's Conflictum Legum" in Selected Articles on the Conflict of Laws, pp. 164. et seq.
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(~) Schmitthoff op. cit., p. 19.
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Binchy, op. cit., p. 8.
(呂)〔
1554‑177 4] All E.
R.Rep. 177, 2 Bull 1077.
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