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翁久允「安孫子久太郞翁と私」自筆原稿の翻刻と解説須田満

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(1)

い かな と 思 った り して

、 父 と散 歩 しな が ら 口す さ んだ 歌 や 詩に つ い て思 い 出し た りし て い た。 そ の 中で 父 が在 米 中 に求 め た 晶子 の 歌集

『 火の 鳥

』 を父 か ら 贈ら れ て読 ん だ 時の 感 動も 浮 か び、 ふ と絵 を 描 くこ と は 止め て

、国 文 学 への 移 行が 迫 って 来 た。 それ か ら が大 変 で、 国 文 入試 の ため の 塾 に通 っ たが

、 戦 時中 の 昭 和十 八 年の 受 験率 は 国 文科 は 三 十人 に 一人

、 英 文科 は 二 人に 一 人の 割 合だ っ た

。そ ん な こと か ら東 京 女 子大 の 国文 科 には 入 れず

、青 山 学院 の 女子 専 門部 入 学、 そ の後 は 他大 学 の 講義 を も聞 い た りし て 国文 の 勉 強に 励 み

、戦 後 にな っ て 早稲 田 大学 に 入 り卒 論 に『 み だ れ髮

』 に つい て を書 き

、 父の

「 高志 人

」 から 出 発 した

「 晶子 研 究

」は 他 誌 へも 移 って

、 方々 へ の

「与 謝 野 研究

」 連載 が 著 書と な っ て今 日 の研 究 に辿 り つ いた の も 父の 一 言に よ る もの だ った と 回 顧し て いる

。 こ れま で 父に つ い て多 種 多 様に 書 いて き た が、 未 だ書 き 足 りな い こと も 多 々あ る の を心 に 秘め て 大切 に 守っ て ゆき た い。 父に つ い て前 記 した

『 夢 二と 父

』は 平 成 期に 書 いた も の だが

、 そ れ以 前 の父 に つい て の 著書 に は

『わ が 父翁 久

允―

翁 久 允 と 移 民 社 会

翁久 允 と移 民 社 会

〈 1

〉移 植 樹

あ った

。最 後 の 父の 研 究と し て甥 の 須田 満 と 共 編 の 父の

「 年譜

」 と

「書 誌

」完 成 を 大空 社 刊行 と して 待 つ ば かり で ある

。 出 版間 際 に満 の イ ンタ ー ネッ ト の恩 恵 に よ り、 父 の在 米 時代 の 未発 表 の 作品 や 生

の原 稿 が 現 在 の ア メリ カ から 続 出 した た め、 そ の 整理 に 追わ れ

、 そ の 上 コ ロナ に よる 弊 害 もあ っ て益 々 遅 れ、 生 存中 に 必ず 果 た され る こと を 念ず る ばか り であ る

。 も う一 つ 今年 で 二十 年 目の

『鉄 幹 晶子 全 集』 四 十 巻( 二

〇 一

~二

〇 二一 刊

) も同 じ コロ ナ 被 害で 勉 誠出 版 刊 行 を 待 つ のみ

。 それ 以 前 の講 談 社版

『 与 謝野 晶 子全 集

』二 十 巻( 昭 五 十六

)。 二 人の 書 簡集 は 八木 書 店刊 の「 天 眠 文 庫 蔵

」一 巻

( 昭四 十 八

)と

「 書簡 集 成」 四 巻

(平 十 五)

。 二 人 の歌 集 全 釈に 鉄 幹 一冊

、 寛二 冊

、晶 子 六 冊。 二 人の

「 評 伝」 二 回( 昭 五十

・平 二十 四

)、 更 に 私 の 歌集 刊 行と 父 の 研究 も 含め て 二 十五 冊 の著 書 刊 行 が

、こ れ 迄の 私 の人 生 の 歩み の 一部 分 だっ た と言 え よう

翁 久 允

「 安 孫 子 久 太 郞 翁 と 私

自 筆 原 稿 の 翻 刻 と 解 説

須 田 満

はじ め に 本稿 は

、 日米 新 聞社 社 長 であ っ た安 孫 子 久太 郎

(一 八 六 五― 一 九 三六

) の伝 記 を 出版 し よう と 考 えた 在 米の 岡 繁 樹( 一 八 七八― 一九 五 九

)か ら の依 頼 で 翁久 允

(一 八 八 八― 一 九 七三

) が一 九 五 六年 九 月に 執 筆 した 三 十一 枚 ペ ン書 き 原稿

安 孫 子久 太 郞翁 と 私

」の 初 めて の 翻刻 と 註 釈で あ る。 安孫 子 久太 郎 は

、新 潟 県 水

( 現・ 妙 高 市) で 生ま れ

、一 八 八 五年

、 二十 歳 でサ ン フ ラン シ ス コ福 音 会の 援 助 で渡 米 し

、新 聞 経営 と 同時 に 日 本人 移 民 の永 住 を目 指 し た農 業 コミ ュ ニテ ィ 作り を 目指 し た人 物 であ る

。 岡繁 樹 は

、高 知 県安

(現

・ 安芸 市

) 生ま れ で、 一 八 九九 年

「 萬朝 報

」に 入 社し

、 幸 徳秋 水

、 堺利 彦 と知 り

合 い

、 一九

〇 二年 に 渡 米。 サ ンフ ラ ン シス コ で金 門 印刷 所 を 経 営す る 傍ら

、 平 民社 の メン バ ー とし て 在米 社 会主 義 者 の拠 点 と

な った

。第 二次 世 界大 戦 中は

、日 本人 収 容 所 に 入 った が

、一 八 年 にア メ リカ 政 府 の要 請 でイ ン ド

・ ビ ル マ 戦線 へ 行き

、 ビ ラを 巻 いて 日 本 軍の 降 伏工 作 を行 っ た

。 翁 久 允の 最 初の 渡 米 は一 九

〇七 年 で あり ワ シン ト ン 州 の シ ア ト ル やブ レ マ ー ト ン で 学 僕

を し な が ら邦 字 新 聞 に 小 説や 評 論を 発 表 して い たが

、 一 三年 に 一時 帰 国 し て 結 婚 した 翌 年か ら は 定職 を 求め て 南 下し て カリ フ ォル ニ ア 州 サン フ ラン シ ス コ周 辺 のコ ミ ュ ニテ ィ での 生 活を 開 始 し

、雑 誌 や新 聞 の 編集 に 関わ り な がら 著 作の 幅 を広 め て いっ た

。 一五 年 に 開催 さ れた パ ナマ

・ 太 平洋 万 国博 覧 会 の前 後 に翁 は 二人 と 知り 合 うこ と にな っ た。 久 允 は、 安 孫子 の 追 悼文

「 安孫 子 さ んの 思 ひ出

( 一

( 四)

」を 日 本か ら

「日 米

に 寄稿 し

、ま た 岡繁 樹 の 追 悼 には

「『 井 伊大 老

』と 其 著者 の 思い 出

を 書い て い お り

、二 人 との 深 い交 友 があ っ たこ と が判 る

。 本 原 稿に 関 して

、 久 允は 一 九五 六 年 九月 六 日付 の

「 太 稚 庵 日誌 に〈

「 安孫 子 久太 郎

」の 原 稿〉 と 題し て 次の よ う

(2)

に 記し て いる

。 在 米の 岡 繁 樹が 日 米 新聞 社 長 だつ た

「安 孫 子 久太 郎

」 とい う 本 を出 す の で、 そ れ に交 友 及感 想 を 書い て く れと 原 稿 用紙 を お くつ て 来 たか ら 早速 書 き 出し 三 十 枚ば か りで ま とめ る

また 本 原 稿の 最 終ペ ー ジ には

、 次に 引 用 する 岡 繁樹 宛 の 手紙 が 添え 書 きさ れ てい る

岡 繁 樹君

原 稿 用紙 が 届け ら れた の で、 十月 頃 に出 版 とき い て い たし

、 お くれ る と 迷惑 さ れ るだ ら うと 思 ひ

、早 速 書 き出 し た が、 ま と まり も つ かな い よう な も のに な つ た。 し か し、 私 の 見た 安 孫 子久 太 郞 とし て 一隅 に の せて く れ 玉へ

本 が出 來 たら 一 部お く つて く れ玉 へ

他 から も いろ

の見 方 が届 く であ ら う。 し か し

、 書 く よう な 人々 が 多く 亡 くな つ た。

記 事中 ま ち がつ た と ころ で もあ れ ば 訂正 し て 下さ い

九 月八 日

十月 十 一日 着

本 原 稿を 含 む岡 繁 樹 が依 頼 した

『 安 孫子 久 太郎

』 用 の 原 稿 は

、岡 の 病気 と 五 九年 の 死に よ っ て公 開 され る こと が な く

、岡 の 死後 カ リ フォ ル ニア 大 学 ロサ ン ゼル ス 校図 書 館 に寄 贈 されShigeki Oka Papers, 1914-1957(sic.)

と し て保 管 され た

。 そ の 原稿 の 存在 を 広 く知 ら しめ た の は、 岡 繁樹 の 甥 で カ リ フォ ル ニア

・フ ァー ス ト・ バ ン ク日 米 資料 室 室長 で あ っ た 岡 省三 が

、一 九 八

〇年 に 叔父 繁 樹 が残 し た資 料 を基 に

「 在 米日 本 人の 今 日 ある を 夢見 そ の 生涯 を 捧げ た 先覚 者 安孫 子 久太 郎 伝」 及 Issei Pioneer With a Dream" び"Biography of Kyutaro Abiko:

を「 北 米 毎日 新 聞」 に

連 載 し た こ とに よ る。 こ の 評伝 に は本 稿 原 本の 一 部が 引 用 さ れ て いる

。 岡 省 三 の 評 伝 の 存 在 は

、 翁 久 允 の 英 文 評 伝

の 著 者 で あ る 鳥 本幾 子 氏か ら の ご教 示

、本 原 稿 の複 写 物は 水 野 真 理 子 氏 から ご 提供

、 ま た翻 刻 作業 に は

、逸 見 久美 氏 から 助 言 をい た だい た

。各 位 に感 謝 申し 上 げる

。 表記

に つい て 本稿 で は

、原 則 とし て 原 本の 記 載、 形 式 をで き る限 り 再 現し た

。 原本 が 執筆 さ れた 一 九 五六 年 頃 は新 旧 仮名 遣 い

、新 旧 漢 字が 混 同し て いた 時 代 であ り

、 翁久 允 も新 仮 名 遣い

、 新 漢字 で 書こ う と試 み て いる が

、 結果 と して 混 同 が生 じ てい る

。 本稿 で は、 仮 名 や漢 字 の新 旧 の いず れ か への 統 一は 敢 えて 行 わず

、 原本 表 記を 優 先し た

。 一 漢 字 は

、旧 字 体の も の も含 め て、 フ ォ ント の 可能 な 限 り原 本 記載 の 通り 表 記す る

。 二 変 体 が な・ 漢 字で 難 読 と思 わ れる も の や越 中 人で あ る 翁久 允 の

「い

」 音と

「 え」 音 の 混同 と 思 われ る 部分 に は

] 内に 仮 名を 付 した

。 三 か な 遣 い、 送 りが な

、 拗音

・ 促音 の 表 記は 原 本記 載 の 通り と す る。 た だし 濁 点が な く 難読 の お それ が ある 場 合 は濁 点 を補 う

。 四 お ど り字 は

、原 本 記載 の 通り と する

。 五 振 り がな

・ 傍点

・ 傍線 は 原本 記 載の 通 りと す る。 六 補 い う る脱 字 並び に 空 白箇 所

、補 足 事 項は

] で 補 う。 ま た、 単 純な 誤 字と 思 われ る もの に は、

を 附 す。

七 筆者 に は判 読 不能 な 文字 は

、□ と する

( 文 中 には

、 今日 の 人 権意 識 に照 ら し て不 適 切な 表 現 が み ら れ るが

、 時代 背 景 や記 録 の性 質

、 著者 や 登場 人 物が 他 界 し てい る こと な ど を鑑 み

、原 本 通 りの 記 載と す る。

) 安 孫 子久 太 郞翁 と 私

翁 久允

千 九百 十 五年

、 桑 港

に 世界 大 博覽 會

が 開催 さ れ る と 言ふ の で、 そ の 頃ま で シヤ ト ル

に いた 私 達に ハ 桑 港 は 大 きな 魅 力で あ つ た。 そ して 遂 に その 魅 力に 誘 ハ れ て 私 も南 下 した の だが

、第 一に 訪 ふた の ハ新 世 界新 聞

の 松 原木 公

君 であ り

、次 ぎ に日 米 新聞 の 山中 曲 江

君 で あ つ た。 二 人と も シ ヤト ル 時代 の 先 輩で

、 木公 さ ん は 新 世 界 の、 曲 江さ ん は 日米 の 主筆 で あ つた

。 何よ り も最 初 に 感 じた こ とハ シ ヤ トル に 比べ て 桑 港の 同 胞社 會 ハ老 成 し て いた こ とで あ り

、そ れ だけ 日 本 化し

、 そし て 風俗 習 慣 にも 日 本 的情 實 が 濃厚 で あつ た

。そ れ ハ カリ フ オル ニ ヤ 州全 体 の 同胞 労 働 者農 民 の年 齡 ハシ ヤ ト ルを 中 心 と

(3)

に 記し て いる

。 在 米の 岡 繁 樹が 日 米 新聞 社 長 だつ た

「安 孫 子 久太 郎

」 とい う 本 を出 す の で、 そ れ に交 友 及感 想 を 書い て く れと 原 稿 用紙 を お くつ て 来 たか ら 早速 書 き 出し 三 十 枚ば か りで ま とめ る

また 本 原 稿の 最 終ペ ー ジ には

、 次に 引 用 する 岡 繁樹 宛 の 手紙 が 添え 書 きさ れ てい る

岡 繁 樹君

原 稿 用紙 が 届け ら れた の で、 十月 頃 に出 版 とき い て い たし

、 お くれ る と 迷惑 さ れ るだ ら うと 思 ひ

、早 速 書 き出 し た が、 ま と まり も つ かな い よう な も のに な つ た。 し か し、 私 の 見た 安 孫 子久 太 郞 とし て 一隅 に の せて く れ 玉へ

本 が出 來 たら 一 部お く つて く れ玉 へ

他 から も いろ

の見 方 が届 く であ ら う。 し か し

、 書 く よう な 人々 が 多く 亡 くな つ た。

記 事中 ま ち がつ た と ころ で もあ れ ば 訂正 し て 下さ い

九 月八 日

十月 十 一日 着

本 原 稿を 含 む岡 繁 樹 が依 頼 した

『 安 孫子 久 太郎

』 用 の 原 稿 は

、岡 の 病気 と 五 九年 の 死に よ っ て公 開 され る こと が な く

、岡 の 死後 カ リ フォ ル ニア 大 学 ロサ ン ゼル ス 校図 書 館 に寄 贈 されShigeki Oka Papers, 1914-1957(sic.)

と し て保 管 され た

。 そ の 原稿 の 存在 を 広 く知 ら しめ た の は、 岡 繁樹 の 甥 で カ リ フォ ル ニア

・フ ァー ス ト・ バ ン ク日 米 資料 室 室長 で あ っ た 岡 省三 が

、一 九 八

〇年 に 叔父 繁 樹 が残 し た資 料 を基 に

「 在 米日 本 人の 今 日 ある を 夢見 そ の 生涯 を 捧げ た 先覚 者 安孫 子 久太 郎 伝」 及 Issei Pioneer With a Dream" び"Biography of Kyutaro Abiko: を「 北 米 毎日 新 聞」 に

連 載 し た こ とに よ る。 こ の 評伝 に は本 稿 原 本の 一 部が 引 用 さ れ て いる

。 岡 省 三 の 評 伝 の 存 在 は

、 翁 久 允 の 英 文 評 伝

の 著 者 で あ る 鳥 本幾 子 氏か ら の ご教 示

、本 原 稿 の複 写 物は 水 野 真 理 子 氏 から ご 提供

、 ま た翻 刻 作業 に は

、逸 見 久美 氏 から 助 言 をい た だい た

。各 位 に感 謝 申し 上 げる

。 表記

に つい て 本稿 で は

、原 則 とし て 原 本の 記 載、 形 式 をで き る限 り 再 現し た

。 原本 が 執筆 さ れた 一 九 五六 年 頃 は新 旧 仮名 遣 い

、新 旧 漢 字が 混 同し て いた 時 代 であ り

、 翁久 允 も新 仮 名 遣い

、 新 漢字 で 書こ う と試 み て いる が

、 結果 と して 混 同 が生 じ てい る

。 本稿 で は、 仮 名 や漢 字 の新 旧 の いず れ か への 統 一は 敢 えて 行 わず

、 原本 表 記を 優 先し た

。 一 漢 字 は

、旧 字 体の も の も含 め て、 フ ォ ント の 可能 な 限 り原 本 記載 の 通り 表 記す る

。 二 変 体 が な・ 漢 字で 難 読 と思 わ れる も の や越 中 人で あ る 翁久 允 の

「い

」 音と

「 え」 音 の 混同 と 思 われ る 部分 に は

] 内に 仮 名を 付 した

。 三 か な 遣 い、 送 りが な

、 拗音

・ 促音 の 表 記は 原 本記 載 の 通り と す る。 た だし 濁 点が な く 難読 の お それ が ある 場 合 は濁 点 を補 う

。 四 お ど り字 は

、原 本 記載 の 通り と する

。 五 振 り がな

・ 傍点

・ 傍線 は 原本 記 載の 通 りと す る。 六 補 い う る脱 字 並び に 空 白箇 所

、補 足 事 項は

] で 補 う。 ま た、 単 純な 誤 字と 思 われ る もの に は、

を 附 す。

七 筆者 に は判 読 不能 な 文字 は

、□ と する

( 文 中 には

、 今日 の 人 権意 識 に照 ら し て不 適 切な 表 現 が み ら れ るが

、 時代 背 景 や記 録 の性 質

、 著者 や 登場 人 物が 他 界 し てい る こと な ど を鑑 み

、原 本 通 りの 記 載と す る。

) 安 孫 子久 太 郞翁 と 私

翁 久允

千 九百 十 五年

、 桑 港

に 世界 大 博覽 會

が 開催 さ れ る と 言ふ の で、 そ の 頃ま で シヤ ト ル

に いた 私 達に ハ 桑 港 は 大 きな 魅 力で あ つ た。 そ して 遂 に その 魅 力に 誘 ハ れ て 私 も南 下 した の だが

、第 一に 訪 ふた の ハ新 世 界新 聞

の 松 原木 公

君 であ り

、次 ぎ に日 米 新聞 の 山中 曲 江

君 で あ つ た。 二 人と も シ ヤト ル 時代 の 先 輩で

、 木公 さ ん は 新 世 界 の、 曲 江さ ん は 日米 の 主筆 で あ つた

。 何よ り も最 初 に 感 じた こ とハ シ ヤ トル に 比べ て 桑 港の 同 胞社 會 ハ老 成 し て いた こ とで あ り

、そ れ だけ 日 本 化し

、 そし て 風俗 習 慣 にも 日 本 的情 實 が 濃厚 で あつ た

。そ れ ハ カリ フ オル ニ ヤ 州全 体 の 同胞 労 働 者農 民 の年 齡 ハシ ヤ ト ルを 中 心 と

(4)

し たワ シ ン トン 州 より も 十 五年 乃 至二 十 年 ほど 高 く、 そ し て布 哇

移 民 が多 か つ たか ら 農園 の 地盤 な どハ 北 方 より も 堅く

、 そ の為 め 排日 の 嵐が 强 く

、排 日 問 題の 中 心地 で も あつ た か らで あ る。 だ から シ ヤ トル か ら 見る と 苦労 人 型 の人 が 多 いよ う に見 受 けた が 同 時に 文 化 程度 と 言う か 知 識程 度 とい う か

、さ う いつ た も のが シ ヤト ル 地 方の 連 中 より 低 いよ う に受 取 れた

桑港 に ハ 御三 家 とい う も のが あ つて

、 そ れは 日 本を 背 景 とし た 一 大勢 力 で、 卽 ち総 領 事 館、 三 井 物產

、 東洋 汽 船 會社

三 代表 者 であ つ た。 あと か ら正 金 銀行

など も 同格 に な つた が

、こ れ らの 殿 樣 的な 存 在 は加 州 同胞 を 領 民的 に 見 下ろ し てい た

。か う し た日 本 の 封建 的 な感 情 を 色づ け た グル ー プを 背 景と し て 在米 日 本 人會 は 加州 各 地 域の 日 本人 會 を 統一 し てい た

。 そし て そ の會 長 はポ テ ト・ キ ン グの 牛 島謹 爾

あ つた

。牛 島 は バー ク レー に 豪 壯な 邸 宅 を構 え

、ス タ クト ン 河 下の 開 拓 者と し て全 米 的 に著 名 な 人物 で あつ た し在 米 同 胞社 會 か ら見 る と傑 出 し た成 功 者あ つ た。 彼 は「 別天 地

と 號し て 漢詩 を 嗜

、 その 詩 篇 を 蒐

め て 上 梓

し た ほど だ か ら 思 想的 に ハ 全く 東 洋 人で あ つた

。 風貌 も 立 派で あ つ たし

、 ジヨ ウ

・ シ マと 言 つ たら 米 人 と 相

ん で も 遜色 が な かつ た

。 総 領 事 館ハ 勿 論の こ と 御三 家 御四 家 と ハ密 接 な関 係 が あ り

、在 米日 本 人會 は

、だ か ら 日本 の スパ イ でな い まで も

、 日 本 の 御用 機 関化 し て いた

。 それ ハ 會 長牛 島 の人 柄 に適 し て いた も ので あ つた

ポ テ ト・ キ ング で あ つた 牛 島謹 爾 は 同時 に ジヤ パ ニ ー ズ

・ キ ング で もあ つ た

。日 本 から の 高 名な 陸 海軍 大 將格 や 総 理 大臣 以 下の 大 官 を初 め 大實 業 家

、学 者

、其 他 當時 の 欧 米視 察 者 もし く ハ硏 究 家で こ の牛 島 謹 爾を 訪

ハ な い も の ハ殆 ど なか つ た

。し か し、 彼 ら ハ牛 島 と接 し て そ の 尨 大 な農 園 を見 せ ら れた り

、邸 宅 で 晚餐 の 歡迎 を 受け た り は した け れど

、 日 米関 係 や日 本 移 民の 運 命や

、 排日 問 題 へ の對 策 やに つ い ては 彼 から 何 を も聞 く こと が 出來 な か つた

。 さ うし た 問 題に つ いて 是 非逢 つ て 見な け れば な ら ぬ人 物 ハ 他に あ つ た。 そ れは 日 米新 聞 社 長安 孫 子 久 太 郞

で あつ た

在 米 日本 人 會長 な ど 言ふ 位 置は 當 然 この 安 孫子 久 太 郞 の よ う な人 を 据え て お くべ き であ つ た が、 彼 にハ 據 大な 理 想 があ り

、思 想が 進 步的 で あ つた 為 めに 所 謂御 三 家や

、 そ し て 布哇 移 民的 保 守 系に ハ 餘り に も 飛躍 し てい た 為め

、 一

般的 に ハ 容れ ら れな か つ た。 し かし

、 進 步的 な 靑年 達 ハ 安孫 子 の 膝下 に 集つ た

。日 米 新 聞は そ の 為め 發 展し

、 新 世界 新 聞 ハ創 立 が古 る かつ た け れど 逆 に これ に 及ば な か つた

。 この 二 つ の新 聞 の流 れ が 加州 に お いて ハ 對立 の 姿 とな り

、あ と か ら多 少 の変 化 が あつ た けれ ど 日 米新 聞 は 反御 三 家的 と なり

、 新世 界 は支 持 派と な つた

反御 三 家 的な 思 想ハ 當 然 反日 本 的に 解 さ れた

。 安孫 子 ハ クリ シ チ ヤン で あつ た

。そ し て 在米 の 保 守的 移 民の 多 く ハ佛 敎 徒 であ つ た。 そ して 在 米 日本 人 會 を初 め とし て 各 地域 日 本 人會 の 幹部 級 ハ殆 ど こ の佛 敎 徒 的保 守 派で 占 め られ て いた

。 こ れに 反 して 基

[ 督] 敎 徒で な く ても 進 步 的な 靑 壯年 達 ハ 議論 は 上手 で あ り、 筆 も達 者 で あつ た が

、實 力 的 にハ 佛 徒的 保 守派 に 叶 はな か つ た。 世 界の ど こ でも 人 情 ハ一 つ で、 金 のあ る 方 へは 愚 象 がつ い てゆ く も ので あ る

。安 孫 子久 太 郞の 日 米 新聞 は 發 展し て 行つ た が 社長 自 身は い つ も貧 乏 だつ た

。 その 貧 乏も 日 米 の財 政 か ら言 つ たら 貧 乏 な筈 が なか つ た のだ が

、理 想 家 であ つ た 彼ハ 金 が出 來 れ ばい つ もそ れ の 二倍 も 三倍 も の 計画 を 立 てる の で あつ た

。そ れ ハ 私慾 的 なも の で はな く

、日 本 民 族將 來 の發 展 と言 つ たと こ ろに 眼 目が あ つた

恰 度 私 が 南 下 し た 千 九 百 十 五 年 の 二 年 前 は 日 本 人 土 地 所 有禁 止 と言 つ た排 日 法案

制 定さ れ

、そ れの 實 施 前 に リ ビン ク スト ン の 荒野 を 買ひ 込 み

「ヤ マ ト・ コ ロ ニ ー

稱 して 所 謂新 ら しい 村 作り の 計画 を た てゝ 進 步 的 な 靑 壯年 を 選ん で 開 拓さ し たの で あ つた

。 かゝ る 計画 ハ 當 時 の御 三 家的 な

、 そし て 保守 的 な 在米 移 民の 頭 には 無 鐵 砲 なこ と であ つ た

。彼 ら ハ日 米 戦 争を 豫 想し て いた し

、 又米 國 へ 來た の ハ 稼ぎ に 來た の で永 住 す るつ も りハ な か つた の で あつ た

。 しか し 安孫 子 ハ米 國 へ 來た 以 上は 米 國 の土 と 化 する

。 そ して 日 本民 族 の根 を は やす と 言 ふ の が 考え 方 の基 本 であ つ た。

牛 島 は土 地 を借 り て 農園 を 開拓 し

、 それ で 儲け て 富 を 作 る と いう の が主 義 で あつ た が、 安 孫 子ハ 土 地を 自 分の も の に して そ こに 根 を おろ す

。そ の 為 め十 年 内外 ハ 苦労 せ ね ばな ら ぬ

。苦 労 を 凌

い だ ら他 日 必 ず成 功 者と な れ る と い う主 義 だつ た

。 が、 最 初ハ そ の說 に 惚 れ込 ん で 靑 壯 年 達 ハ入 植 した が 中 々終 り を完 了 せ 得な か つた

。 中途 で ボ ロ

か け て行 つ たり

、 又 堪え ら れな い 苦 労に 悩 ん だ 結 果安 孫 子を 恨 む聲 も 出て 來 た。 さ うな る と、

「 そ れ見 た か

」 と借 地 で一 時 的 な百 姓 をや つ て いる 人 達や 保 守的

(5)

し たワ シ ン トン 州 より も 十 五年 乃 至二 十 年 ほど 高 く、 そ し て布 哇

移 民 が多 か つ たか ら 農園 の 地盤 な どハ 北 方 より も 堅く

、 そ の為 め 排日 の 嵐が 强 く

、排 日 問 題の 中 心地 で も あつ た か らで あ る。 だ から シ ヤ トル か ら 見る と 苦労 人 型 の人 が 多 いよ う に見 受 けた が 同 時に 文 化 程度 と 言う か 知 識程 度 とい う か

、さ う いつ た も のが シ ヤト ル 地 方の 連 中 より 低 いよ う に受 取 れた

桑港 に ハ 御三 家 とい う も のが あ つて

、 そ れは 日 本を 背 景 とし た 一 大勢 力 で、 卽 ち総 領 事 館、 三 井 物產

、 東洋 汽 船 會社

三 代表 者 であ つ た。 あと か ら正 金 銀行

など も 同格 に な つた が

、こ れ らの 殿 樣 的な 存 在 は加 州 同胞 を 領 民的 に 見 下ろ し てい た

。か う し た日 本 の 封建 的 な感 情 を 色づ け た グル ー プを 背 景と し て 在米 日 本 人會 は 加州 各 地 域の 日 本人 會 を 統一 し てい た

。 そし て そ の會 長 はポ テ ト・ キ ン グの 牛 島謹 爾

あ つた

。牛 島 は バー ク レー に 豪 壯な 邸 宅 を構 え

、ス タ クト ン 河 下の 開 拓 者と し て全 米 的 に著 名 な 人物 で あつ た し在 米 同 胞社 會 か ら見 る と傑 出 し た成 功 者あ つ た。 彼 は「 別天 地

と 號し て 漢詩 を 嗜

、 その 詩 篇 を 蒐

め て 上 梓

し た ほど だ か ら 思 想的 に ハ 全く 東 洋 人で あ つた

。 風貌 も 立 派で あ つ たし

、 ジヨ ウ

・ シ マと 言 つ たら 米 人 と 相

ん で も 遜色 が な かつ た

。 総 領 事 館ハ 勿 論の こ と 御三 家 御四 家 と ハ密 接 な関 係 が あ り

、在 米日 本 人會 は

、だ か ら 日本 の スパ イ でな い まで も

、 日 本 の 御用 機 関化 し て いた

。 それ ハ 會 長牛 島 の人 柄 に適 し て いた も ので あ つた

ポ テ ト・ キ ング で あ つた 牛 島謹 爾 は 同時 に ジヤ パ ニ ー ズ

・ キ ング で もあ つ た

。日 本 から の 高 名な 陸 海軍 大 將格 や 総 理 大臣 以 下の 大 官 を初 め 大實 業 家

、学 者

、其 他 當時 の 欧 米視 察 者 もし く ハ硏 究 家で こ の牛 島 謹 爾を 訪

ハ な い も の ハ殆 ど なか つ た

。し か し、 彼 ら ハ牛 島 と接 し て そ の 尨 大 な農 園 を見 せ ら れた り

、邸 宅 で 晚餐 の 歡迎 を 受け た り は した け れど

、 日 米関 係 や日 本 移 民の 運 命や

、 排日 問 題 へ の對 策 やに つ い ては 彼 から 何 を も聞 く こと が 出來 な か つた

。 さ うし た 問 題に つ いて 是 非逢 つ て 見な け れば な ら ぬ人 物 ハ 他に あ つ た。 そ れは 日 米新 聞 社 長安 孫 子 久 太 郞

で あつ た

在 米 日本 人 會長 な ど 言ふ 位 置は 當 然 この 安 孫子 久 太 郞 の よ う な人 を 据え て お くべ き であ つ た が、 彼 にハ 據 大な 理 想 があ り

、思 想が 進 步的 で あ つた 為 めに 所 謂御 三 家や

、 そ し て 布哇 移 民的 保 守 系に ハ 餘り に も 飛躍 し てい た 為め

、 一

般的 に ハ 容れ ら れな か つ た。 し かし

、 進 步的 な 靑年 達 ハ 安孫 子 の 膝下 に 集つ た

。日 米 新 聞は そ の 為め 發 展し

、 新 世界 新 聞 ハ創 立 が古 る かつ た け れど 逆 に これ に 及ば な か つた

。 この 二 つ の新 聞 の流 れ が 加州 に お いて ハ 對立 の 姿 とな り

、あ と か ら多 少 の変 化 が あつ た けれ ど 日 米新 聞 は 反御 三 家的 と なり

、 新世 界 は支 持 派と な つた

反御 三 家 的な 思 想ハ 當 然 反日 本 的に 解 さ れた

。 安孫 子 ハ クリ シ チ ヤン で あつ た

。そ し て 在米 の 保 守的 移 民の 多 く ハ佛 敎 徒 であ つ た。 そ して 在 米 日本 人 會 を初 め とし て 各 地域 日 本 人會 の 幹部 級 ハ殆 ど こ の佛 敎 徒 的保 守 派で 占 め られ て いた

。 こ れに 反 して 基

[ 督] 敎 徒で な く ても 進 步 的な 靑 壯年 達 ハ 議論 は 上手 で あ り、 筆 も達 者 で あつ た が

、實 力 的 にハ 佛 徒的 保 守派 に 叶 はな か つ た。 世 界の ど こ でも 人 情 ハ一 つ で、 金 のあ る 方 へは 愚 象 がつ い てゆ く も ので あ る

。安 孫 子久 太 郞の 日 米 新聞 は 發 展し て 行つ た が 社長 自 身は い つ も貧 乏 だつ た

。 その 貧 乏も 日 米 の財 政 か ら言 つ たら 貧 乏 な筈 が なか つ た のだ が

、理 想 家 であ つ た 彼ハ 金 が出 來 れ ばい つ もそ れ の 二倍 も 三倍 も の 計画 を 立 てる の で あつ た

。そ れ ハ 私慾 的 なも の で はな く

、日 本 民 族將 來 の發 展 と言 つ たと こ ろに 眼 目が あ つた

恰 度 私 が 南 下 し た 千 九 百 十 五 年 の 二 年 前 は 日 本 人 土 地 所 有禁 止 と言 つ た排 日 法案

制 定さ れ

、そ れの 實 施 前 に リ ビン ク スト ン の 荒野 を 買ひ 込 み

「ヤ マ ト・ コ ロ ニ ー

稱 して 所 謂新 ら しい 村 作り の 計画 を た てゝ 進 步 的 な 靑 壯年 を 選ん で 開 拓さ し たの で あ つた

。 かゝ る 計画 ハ 當 時 の御 三 家的 な

、 そし て 保守 的 な 在米 移 民の 頭 には 無 鐵 砲 なこ と であ つ た

。彼 ら ハ日 米 戦 争を 豫 想し て いた し

、 又米 國 へ 來た の ハ 稼ぎ に 來た の で永 住 す るつ も りハ な か つた の で あつ た

。 しか し 安孫 子 ハ米 國 へ 來た 以 上は 米 國 の土 と 化 する

。 そ して 日 本民 族 の根 を は やす と 言 ふ の が 考え 方 の基 本 であ つ た。

牛 島 は土 地 を借 り て 農園 を 開拓 し

、 それ で 儲け て 富 を 作 る と いう の が主 義 で あつ た が、 安 孫 子ハ 土 地を 自 分の も の に して そ こに 根 を おろ す

。そ の 為 め十 年 内外 ハ 苦労 せ ね ばな ら ぬ

。苦 労 を 凌

い だ ら他 日 必 ず成 功 者と な れ る と い う主 義 だつ た

。 が、 最 初ハ そ の說 に 惚 れ込 ん で 靑 壯 年 達 ハ入 植 した が 中 々終 り を完 了 せ 得な か つた

。 中途 で ボ ロ

か け て行 つ たり

、 又 堪え ら れな い 苦 労に 悩 ん だ 結 果安 孫 子を 恨 む聲 も 出て 來 た。 さ うな る と、

「 そ れ見 た か

」 と借 地 で一 時 的 な百 姓 をや つ て いる 人 達や 保 守的

(6)

な 人 達 か ら ハ 嘲

け ら れ た

。 そ し て 世 界 大博 覽 會 が 桑 港 に ある と い う華 や かな そ の年 で も

、安 孫 子 の財 政 的窮 狀 ハ その 極 に あつ た ので あ つた

。 し かし

、 彼 ハそ の 窮狀 を オ クビ に 出 さな つ かつ た

。そ し て いつ も 楽 天主 義 を振 り 舞 いて い たの で あ る。 そ の餘 り に も楽 天 的な の に 彼の 膝 下 に集 ま つた 有 能 な靑 壯 年達 の 中 でも 見 切つ て 日 本へ 歸 つ たり

、 他に 轉 じた り した も のが あ つた

私ハ 初 め て安 孫 子久 太 郞 とい う 人物 に 逢 つた の ハ山 中 曲 江夫 妻 と 共に 一 夕晚 餐 に呼 ば れ た時 で あ つた

。 若い 時 に は何 で も 働ら い て來 た と言 つ た よう な 大 きな ガ ツチ リ し た手 で 私の 手 を握 り

、柔 和 な笑 を 両眼 の 目尻 に 湛

、 口 髭も 頭 髮 も半 白 にな つ た 小肥 り の堂 々 た る偉 丈 夫的 な 紳 士で あ つ た。 そ し て夜 更 くる ま で 大和

植 民地

論 を聞 か さ れた の で あつ た

。シ ヤ トル の 書 生生 活 か ら、 初 めて 桑 港 に下 つ て 來た 私 にハ そ の所 論 や 趣旨 ハ よ く呑 み 込め な か つた

。 し かし 山 中曲 江 ハも う 六 七年 も 前 から 來 てい る の だか ら

、社 長 の 理想 と する と こ ろが 解 つ てい た し、 そ れ に共 鳴 して 每 日 の論 說 など も 書 いて い るの だ か ら、 私

の わ から な いと こ ろを 補 足し て くれ た りし た

。何 かし ら

、 私 は この 人 物 にハ 尊 敬 すべ き 大き な も のが あ るよ う な 感 じ を も つて わ かれ

、 そ して 加 州で ハ 最 初の 職 業地 で あつ た ス タク ト ン

に行 つ たの で あつ た

ス タク ト ンに 佐 伯便 利 社

とい う のが あ つて

、新 世 界 の 松 原木 公 の推 薦 でそ の 社が 出 版し て いる

「 太 平楽

と い う 雜誌 の 編集 者 と して や つて 來 た ので あ つた

。 佐 伯 社 長

ハ 鄕里 廣 島で 印 刷所 を もつ て おり

、そ こ で發 行 す る 雜 誌 を 加 州 に 散 布 し て い る 廣 島 縣 人

に 賣 り 込 む 為 め ア メ リカ で 編集 す る と言 つ たも の で あつ た

。そ こ へ 行 つ て み ると

、 サン オ ー キン 河 の所 謂 河 下と い うと こ ろは ポ テ ト

・キ ン グ牛 島 の 大農 園 であ つ た

。と こ ろが

、 その 河 下 の 一 部 に 農 園 を 経 営 し て い た 林 甚 之 丞

と 言 ふ 短 身 小 躯

で はあ る け れど

、 この 地 方の 進 步的

、 文 化的 な 靑 壯 年 の 中心 と なつ て い る人 に 逢つ た

。 彼ハ 安 孫子 久 太郞 黨 で あ つた

。 そこ で 日 米支 社 や、 敎 會 を中 心 とし て 私達 が 一 つ のグ ル ープ を つ くつ た

。そ う し たグ ル ープ を たど つ て 桑港 か ら いろ

な人 が や つて 來 たが

、 そ れが 所 謂 日 米 系 の人 達 だつ た

。だ ん

わか つ て來 た こ とは

、 シ ヤ ト ル 時代 に ハ殆 ど 觸 れて い なか つ た 思想 囘 訪が 加 州 の 一

部に 潛 行 的だ つ たこ と で あつ た

。シ ア ト ルの 若 い連 中 は 文学 的 だ つた が

、桑 港 を中 心 と した 加 州 は文 学 的と 言 ふ より か 思想 的 だつ た

。そ れハ 幸 德秋 水

と か片 山 潛

と か河 上 淸

など の 影響 が あつ た ので あ る。 そ し て安 孫 子 さん ハ 社 會主 義 者で は なか つ た が、 彼 ら の進 步 的な 議 論 を容 れ て いた の であ る

。だ か ら 彼ら の 出 入り も 許し て い た。 さ うい う 雰 囲氣 が

、保 守 派 方面 か ら 疑の 目 をも つ て する と

、安 孫 子 一派 と いう も の ハ祖 國 に反 逆 心 でも 抱 い てい る よう に 見え た ので あ つた

當時 在 米 同胞 社 會に も 日 本の ス パイ 的 な 存在 が あつ て

、 社 會主 義 的 傾向 の ある も のを 密 告 して 彼 ら の何 か の為 め に しよ う と して い た。 そ れに よ つ て日 本 で ハブ ラ ツク リ ス トが 作 ら れ、 総 領事 館 から 各 地 の領 事 館 へ手 配 され て い た。 安 孫子 社 長 はそ の 統領 の よ うに 沙 汰さ れ て いた の で あつ た

。し か し

、安 孫 子自 身 に も、 彼 を中 心 と した 進 步 的な 靑 壯分 子 にも 祖 國へ の 反逆 心 どこ ろ か、 只 管

日 本 民 族の 海 外 發展 策 が眞 劍 に考 え ら れて い た ので あ つた

。 と かく 日 本 人は 内 地で も さう だ が

、進 步 的 な思 想 をも つ た もの を す ぐ國 賊 的に 判 断す る 頑 迷な 保 守 性が あ つた

。 在 米同 胞 社會 で の さう し た一 黨 と 言ふ か 一 派と 言 つた も

の ハ ロク に 英 語も し や べれ な いし

、 英字 新 聞 さへ 讀 めな い 連 中で

、 日 本の 講 談 本を 耽 讀し た り、 日 本 から お く つ て く る 新聞 や 雜誌 し か 讀ん で いな か つ た。 そ して 物 の 考 え 方 ハ 日本 中 心主 義 で

、世 界 と言 つ た もの に 目を 開 かう と し な かつ た

。さ う い つた 意 味で 安 孫 子久 太 郞は 彼 の時 代 の 同 胞中 で も米 人 と 膝を 交 えて 自 由 に會 話 する こ とも 出 來

、い つ も 進步 的 な 英書 や 雜誌 な どよ ん で いた

。 家庭 で も 余 奈 子 夫 人

ハ 津 田 梅 子 女 史 の 妹 さ ん で あ り 英 語 は 自 由 であ つ た。 米 人 の有 名 な牧 師 や 学者 や 政治 家 な ど が 來 て 講演 な どや る 時 ハ夫 婦 で必 ず 聞 きに 行 つた

。 桑 港 に ハ そん な 家庭 は 一つ も なか つ た。

安 孫 子さ ん ハ所 謂 親 日家 と 稱す る 米 人の 實 業家 や 政 治 家 や 其 他の 人 々と 交 際 ハし て いた が

、 その 人 達に 心 服は し て い なか つ た。 そ れ ハ彼 ら ハ日 本 と 結ん で 何か の 利益 を 得 よ うと し てい る も のか

、 たゞ 漫 然 と日 本 が好 き だと 言 つ た贅 沢 な 連中 だ つ たか ら であ つ た。 だ か ら彼 ハ 寧ろ 排 日 政治 家 と 往來 し て 彼ら の 意見 を 質す る に 努め て い た。 そ し て 排日 家 の言 ひ 分 にハ 米 人と し て の眞 劍 さが あ り

、 彼 ら の說 を 理 解し て 日 本及 在 米問 題 が 反省 す べき だ と言 う の が 結論 で あつ た

。 さう い う議 論 や 態度 と 言ふ も のハ

(7)

な 人 達 か ら ハ 嘲

け ら れ た

。 そ し て 世 界 大博 覽 會 が 桑 港 に ある と い う華 や かな そ の年 で も

、安 孫 子 の財 政 的窮 狀 ハ その 極 に あつ た ので あ つた

。 し かし

、 彼 ハそ の 窮狀 を オ クビ に 出 さな つ かつ た

。そ し て いつ も 楽 天主 義 を振 り 舞 いて い たの で あ る。 そ の餘 り に も楽 天 的な の に 彼の 膝 下 に集 ま つた 有 能 な靑 壯 年達 の 中 でも 見 切つ て 日 本へ 歸 つ たり

、 他に 轉 じた り した も のが あ つた

私ハ 初 め て安 孫 子久 太 郞 とい う 人物 に 逢 つた の ハ山 中 曲 江夫 妻 と 共に 一 夕晚 餐 に呼 ば れ た時 で あ つた

。 若い 時 に は何 で も 働ら い て來 た と言 つ た よう な 大 きな ガ ツチ リ し た手 で 私の 手 を握 り

、柔 和 な笑 を 両眼 の 目尻 に 湛

、 口 髭も 頭 髮 も半 白 にな つ た 小肥 り の堂 々 た る偉 丈 夫的 な 紳 士で あ つ た。 そ し て夜 更 くる ま で 大和

植 民地

論 を聞 か さ れた の で あつ た

。シ ヤ トル の 書 生生 活 か ら、 初 めて 桑 港 に下 つ て 來た 私 にハ そ の所 論 や 趣旨 ハ よ く呑 み 込め な か つた

。 し かし 山 中曲 江 ハも う 六 七年 も 前 から 來 てい る の だか ら

、社 長 の 理想 と する と こ ろが 解 つ てい た し、 そ れ に共 鳴 して 每 日 の論 說 など も 書 いて い るの だ か ら、 私

の わ から な いと こ ろを 補 足し て くれ た りし た

。何 かし ら

、 私 は この 人 物 にハ 尊 敬 すべ き 大き な も のが あ るよ う な 感 じ を も つて わ かれ

、 そ して 加 州で ハ 最 初の 職 業地 で あつ た ス タク ト ン

に行 つ たの で あつ た

ス タク ト ンに 佐 伯便 利 社

とい う のが あ つて

、新 世 界 の 松 原木 公 の推 薦 でそ の 社が 出 版し て いる

「 太 平楽

と い う 雜誌 の 編集 者 と して や つて 來 た ので あ つた

。 佐 伯 社 長

ハ 鄕里 廣 島で 印 刷所 を もつ て おり

、そ こ で發 行 す る 雜 誌 を 加 州 に 散 布 し て い る 廣 島 縣 人

に 賣 り 込 む 為 め ア メ リカ で 編集 す る と言 つ たも の で あつ た

。そ こ へ 行 つ て み ると

、 サン オ ー キン 河 の所 謂 河 下と い うと こ ろは ポ テ ト

・キ ン グ牛 島 の 大農 園 であ つ た

。と こ ろが

、 その 河 下 の 一 部 に 農 園 を 経 営 し て い た 林 甚 之 丞

と 言 ふ 短 身 小 躯

で はあ る け れど

、 この 地 方の 進 步的

、 文 化的 な 靑 壯 年 の 中心 と なつ て い る人 に 逢つ た

。 彼ハ 安 孫子 久 太郞 黨 で あ つた

。 そこ で 日 米支 社 や、 敎 會 を中 心 とし て 私達 が 一 つ のグ ル ープ を つ くつ た

。そ う し たグ ル ープ を たど つ て 桑港 か ら いろ

な人 が や つて 來 たが

、 そ れが 所 謂 日 米 系 の人 達 だつ た

。だ ん

わか つ て來 た こ とは

、 シ ヤ ト ル 時代 に ハ殆 ど 觸 れて い なか つ た 思想 囘 訪が 加 州 の 一

部に 潛 行 的だ つ たこ と で あつ た

。シ ア ト ルの 若 い連 中 は 文学 的 だ つた が

、桑 港 を中 心 と した 加 州 は文 学 的と 言 ふ より か 思想 的 だつ た

。そ れハ 幸 德秋 水

と か片 山 潛

と か河 上 淸

など の 影響 が あつ た ので あ る。 そ し て安 孫 子 さん ハ 社 會主 義 者で は なか つ た が、 彼 ら の進 步 的な 議 論 を容 れ て いた の であ る

。だ か ら 彼ら の 出 入り も 許し て い た。 さ うい う 雰 囲氣 が

、保 守 派 方面 か ら 疑の 目 をも つ て する と

、安 孫 子 一派 と いう も の ハ祖 國 に反 逆 心 でも 抱 い てい る よう に 見え た ので あ つた

當時 在 米 同胞 社 會に も 日 本の ス パイ 的 な 存在 が あつ て

、 社 會主 義 的 傾向 の ある も のを 密 告 して 彼 ら の何 か の為 め に しよ う と して い た。 そ れに よ つ て日 本 で ハブ ラ ツク リ ス トが 作 ら れ、 総 領事 館 から 各 地 の領 事 館 へ手 配 され て い た。 安 孫子 社 長 はそ の 統領 の よ うに 沙 汰さ れ て いた の で あつ た

。し か し

、安 孫 子自 身 に も、 彼 を中 心 と した 進 步 的な 靑 壯分 子 にも 祖 國へ の 反逆 心 どこ ろ か、 只 管

日 本 民 族の 海 外 發展 策 が眞 劍 に考 え ら れて い た ので あ つた

。 と かく 日 本 人は 内 地で も さう だ が

、進 步 的 な思 想 をも つ た もの を す ぐ國 賊 的に 判 断す る 頑 迷な 保 守 性が あ つた

。 在 米同 胞 社會 で の さう し た一 黨 と 言ふ か 一 派と 言 つた も

の ハ ロク に 英 語も し や べれ な いし

、 英字 新 聞 さへ 讀 めな い 連 中で

、 日 本の 講 談 本を 耽 讀し た り、 日 本 から お く つ て く る 新聞 や 雜誌 し か 讀ん で いな か つ た。 そ して 物 の 考 え 方 ハ 日本 中 心主 義 で

、世 界 と言 つ た もの に 目を 開 かう と し な かつ た

。さ う い つた 意 味で 安 孫 子久 太 郞は 彼 の時 代 の 同 胞中 で も米 人 と 膝を 交 えて 自 由 に會 話 する こ とも 出 來

、い つ も 進步 的 な 英書 や 雜誌 な どよ ん で いた

。 家庭 で も 余 奈 子 夫 人

ハ 津 田 梅 子 女 史 の 妹 さ ん で あ り 英 語 は 自 由 であ つ た。 米 人 の有 名 な牧 師 や 学者 や 政治 家 な ど が 來 て 講演 な どや る 時 ハ夫 婦 で必 ず 聞 きに 行 つた

。 桑 港 に ハ そん な 家庭 は 一つ も なか つ た。

安 孫 子さ ん ハ所 謂 親 日家 と 稱す る 米 人の 實 業家 や 政 治 家 や 其 他の 人 々と 交 際 ハし て いた が

、 その 人 達に 心 服は し て い なか つ た。 そ れ ハ彼 ら ハ日 本 と 結ん で 何か の 利益 を 得 よ うと し てい る も のか

、 たゞ 漫 然 と日 本 が好 き だと 言 つ た贅 沢 な 連中 だ つ たか ら であ つ た。 だ か ら彼 ハ 寧ろ 排 日 政治 家 と 往來 し て 彼ら の 意見 を 質す る に 努め て い た。 そ し て 排日 家 の言 ひ 分 にハ 米 人と し て の眞 劍 さが あ り

、 彼 ら の說 を 理 解し て 日 本及 在 米問 題 が 反省 す べき だ と言 う の が 結論 で あつ た

。 さう い う議 論 や 態度 と 言ふ も のハ

(8)

頭 から 排 日 家だ と 言え ば 敵 視し た り、 彼 ら の議 論 を理 解 し よう と し ない 連 中に と つて は 國 賊的 に 見 え、 又 スパ イ 的 に見 え た ので あ る。 し かし

、 安 孫子 さ ん ハ日 本 の政 治 が 墮落 し

、外 交 に 方針 な く、 た ゞ 軍部 が 威 張つ て るだ け の 狀態 に 對し て は 眞面 目 な憂 慮 を 抱い て いた の で あつ た

。 だ から と 言つ て 日 本に 革 命を 起 こ すよ う な運 動 を やら う な ど言 ふ 氣 もち が あつ た の でな く

、在 米 同 胞ハ さ うい つ た 祖國 に た よら な いで

、 在米 同 胞 自身 の 手 によ つ てこ の 移 民地 で 成 功し

、 移民 地 を植 民 地 化す べ き だ。 在 米同 胞 が 日本 を 賴つ て い るか ら 排斥 さ れ るの で

、 米國 に 同化 し た ら農 園 経営 で も 各種 の 労働 で も 他民 族 より 優 れ てい る 日 本人 だ から 必 ず排 斥 を喰 え

と める こ とが 出 來る

。そ れ を やら ね ばな ら ぬと 言 ふの が 持論 だ つた の だ。

と こ ろ が 在 米 同 胞 の 大 部 分 ハ 相 変 ら ず 出 稼

根 性 で あ り

、永 住 の 觀念 が なく

、 儲 ける 金 ハ正 金 と か住 友 其他 の 銀 行機 関 を 通じ て 日本 へ 送金 し

、 殘つ た 金 で生 活 して い る から 同 胞 社會 の 日常 生 活は 貧 弱 であ り

、 それ が 排日 の 種 とも な つ た。 日 本で ハ 米國 で の 稼ぎ 金 を 少し で も送 ら せ よう と して お り

、そ し て諸 銀 行 の支 店 がそ の 手 先き と な り、 領 事館 な ど ハ在 米 同胞 の 為 めに な るこ と よ りも

日 本 の 利益 に なる こ と 以外 何 も取 扱 ハ なか つ たの で あ つ た

。 そ れが 安 孫子 さ ん の不 平 であ つ た

。日 本 人會 ハ さう し た 領 事館 を 中心 と し てそ の 下部 的 な もの に 化し て いた か ら さ うし た 機関 に ハ 最初 ハ たず さ わ つて い たが 遂 にハ 顏 出 しし な か つた

。 そ して 牛 島謹 爾 を中 心 と して 旧 態依 然 と した 日 本人 會 が續 け られ た ので あ つた

私 ハ スタ ク トン に い て時 々 桑港 に ゆ き、 又 林甚 之 丞 君 な ど を 通じ て 加州 の 同 胞社 會 の實 情 を あら ま し知 り 得た

。 ス タ ク トン か ら一 時 間 餘り の 電車 で サ クラ メ ント に 行け た が

、そ の 中 間に フ ロリ ン

と 言ふ 村 があ り

、こ の 農 地 は 日 本 人土 地 問題 で 騷 ぎを 起 こし た と ころ だ つた

。 サ ク ラ メ ン トは 州 廳の あ る とこ ろ で、 そ の 市や 河 下地 方 を中 心 と し て三 四 千の 同 胞 がい た

。ス タ ク トン よ りも 多 かつ た

。そ こに 日 米新 聞 の支 社 があ つ たが

、鷺 谷 南 强

と い う 人 が 長を し てい た

。 彼ハ 安 孫子 幕 下 の偉 才 だつ た が

、 前 に 言 つた 思 想的 に 密 告さ れ

、幸 德 秋 水一 派 のも の とさ れ た

。 祖國 の 官憲 筋 が 彼の 身 元を 調 査 する や ら内 偵 する や ら し

、そ れ が日 米 新 聞、 强 いて ハ 安 孫子 社 長の 身 邊に も 累 を及 ぼ す と言 つ た ほど 緊 迫し て 來た の で 彼ハ 桑 港か ら メ キシ コ に 飛ん だ の であ つ た。 當 時 メキ シ コに は 内 亂 が

起 こ つ て い た が 彼 ハ カ ラ ン ザ 將 軍

の 幕 僚 と な つ て 活 躍を や つ てい た が、 病 を 得て 歸 つて 來 た のだ

。 歸つ て ハ 來た が 元 の日 米 本社 に 行く と 前 の関 係 も あり

、 と言 つ て 安孫 子 社 長ハ 彼 を何 と かせ ね ば なら ず

、 そし て サク ラ メ ント へ 廻 はし た のだ が

、彼 ハ さ うし た 來 歷の 持 主で あ る から 一 般同 胞 か ら見 る と頭 拔 け た風 格 をも つ て いた

。 頭 腦ハ 明 晰で あ り 筆力 も 爽か で あ り、 話 術 にも 長 けて い た

。日 米 支 社を 中 心と し てい ろ ん な連 中 が 集つ た が、 そ の 中で も 鷲津 尺 魔

と言 ふ 偉丈 夫 があ つ た。 彼 ハ 安孫 子 久 太郞 と 同 縣の 新 潟人 で

、安 孫 子 の性 格 ハ 呑み 込 み、 文 章 が達 者 で

、多 く は安 孫 子の 代 筆 をや つ て いた が

、何 處 で 勤め た と 言ふ こ とも な く、 何 を 働ら い た と言 ふ 形蹟 も な かつ た がい つ も 酒に 浸 つて い た

。そ し て暇 と 相 手さ へ あ れば 碁 を打 つ てい た し、 そ れで い て何 處 へ行 つ て[ も

] 尺 魔尺 魔 と 言つ て 人か ら 慕 はれ

、 金に 窮 し たら 安 孫子 か ら 貰つ て い た。 南 强ハ 尺 魔の よ う なだ ら し なさ は 少し も な く、 常 に ネク タ イを き しり と し め服 裝 な ども 整 えて い た

。日 米 本社 ハ 山 中曲 江 によ つ て 編集 は ガ ツチ リ と固 め ら れ、 各 地域 の 支 社ハ そ れぞ れ 傑 出し た 人物 を 配 され て い たか ら 日米 新 聞 の勢 力 は桑 港 世 界博 以 來同 胞 社 會に 大

き な 地盤 を 作り 出 した

そ れ は千 九 百十 五 年 から 七 八年 か け ての 時 代で 第 一 次 大 戦 の 眞最 中 であ つ た

。日 本 ハ聯 合 軍 とし て 米國 と 結ん で い た から 排 日運 動 も 鳴り を 静め て い た。 そ の間 に 日米 新 聞 ハ 益々 發 展し た が

、當 時 朝鮮 と か 満洲 な どに も 日本 の 新 聞社

あ つた が

、さ う し た海 外 同胞 社 會 の新 聞 と し て ハ 日米 は 信用 の 上 から も 財力 の 上 から 第 一位 と 稱せ ら れ て いた

。 安孫 子 社 長ハ 人 生と し て 働ら き 盛り の 頂上 に 來 て いた

。 そし て 彼 の願 望 であ る リ ビン グ スト ン の大 和 植 民地 を 完 成し よ う とあ せ り初 め

、其 他 各 方面 に 手を 伸 ば した

。 そ れハ 日 米 の財 政 から 見 ると 無 理 な計 画 ばか り で あつ た

。 しか し 社 員ハ 社 長の 理 想 を完 う させ よ う と し て 忠 實に 働 らき 応 援 した が

、戦 争 も 終り

、 再び 排 日 運 動 が 抬頭 し て來 て 社長 の 意図 が 狂ひ 初 めて 來 た。

私 は スタ ク トン か ら オー ク ラン ド の 日本 人 會幹 事 と し て や つ て來 た とき ハ オ ーク ラ ンド の 支 社長 を やつ て いた の ハ 島 内 逆 浪

と 言 う た 佐 賀 人 で 日 露 戦 役 の と き ハ 中 尉 と か 大尉 と かだ つ た と言 う 硬骨 漢 で 安孫 子 の參 謀 役 だ つ た

。彼 ハ リ ビン グ スト ン の外 に ソー テ ツ植 民 地

を 始 め た の で社 長 の理 想 を 實現 す べく 去 つ たあ と へ私 に 來 て

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