長唄正本とその版元
はじめに
江戸時代の歌舞伎では、様々な音曲を伴奏に所作事が演じられた。およそ享保年間
(l七l六〜一七三五) の初め頃から'その上演にあわせて、音曲の詞章を記した本が
出版されるようになった。通常半紙二〜三枚程度の木版摺‑で'一曲一冊の単位で出
版された。これらの本を「正本」あるいは「薄物正本」と呼ぶ。
音曲
の正
本は
その
形態
から
、「
絵表
紙正
本」
、「
稽古
本」
、「
段物
集」
の
三つ
に分
類さ
れ
る事が通例となっている。「絵表紙正本」は芝居の上演に際して出るもので、表紙に役
者の姿絵や興行に関する情報が掲載され、上演資料としても重要である。芝居上演後
には実用的な「稽古本」が出た。また浄瑠璃では芝居上演と関係のない「歳旦」「追善」
などの曲があり'これらも「稽古本」 に分類される。「段物集」は流派ごとのレバー‑
(‑)リーを集めた詞章集である。
しかし長唄正本の場合、必ずしもこの分類では十分に説明できない部分がある。豊
後系浄瑠璃では絵表紙正本は少な‑'稽古本の数が圧倒的に多い。常磐津節、富本節
では原則として'絵表紙正本の出版は上演時に限られている。ただし清元節では上演
時の絵表紙正本を後に再版する事があり'注意が必要である。しかし長唄正本は'ほ
とんどが絵表紙正本といってもよい。長唄では、上演後かなり時を経てから出版され
た稽古本の多‑に、上演時と同じような絵表紙がついている。つまり、どれが上演時
の正本か'上演後の稽古本か'その区別がつきに‑いのである。絵表紙には上演時の
芝居の大名題や場立などが書かれており、そこから上演年代を推定する事ができるが'
これはその曲が何時、何処で上演されたかという曲の典拠を示すもので'正本の出版
年を示すものではない。長唄に限らず音曲正本では、本の出版年を記したものは少な
いが、特に長唄の場合'正本に書かれている情報だけでは、それがいつ出版されたか
を特定する事はできない。
また正本を出版している版元については'常磐津節には伊賀屋勘右衛門'富本節に
は蔦屋重三郎という'流派ごとに決まった専属の版元があった。しかし長唄正本の場
合は、一つの曲に対して'様々な版元から多数の正本が出版されている例も多‑'そ
吉 野 雪 子
の正本出版の仕組みが極めてわか‑に‑い。実は長唄正本には豊後系浄瑠璃とは違う、
長唄独自の正本出版システムがある。本稿では、長唄正本と'正本を出版する版元と
の関係を通して、長唄正本出版の流れを明らかにしたいと思う。
T
t長
唄正
本出
版の
シス
テム
音曲正本の出版には、ジャンルごとに一定のシステムがあった。多‑の場合専属の
版元があるが'音曲の種類、流派'また時代によっても'その専属関係が異なる。
豊後系浄瑠璃では演奏家個人'または流派との関係で専属の版元が決まる場合が多
かった。芝居上演時には、上演時の役者絵'上演時の大名題'場立、劇場名、演奏者
連名、版元、狂言作者・役者・振付師などが記した「絵表紙正本」が出た。これは半
紙二〜三枚程度に収めるために文字が非常に細かく、かなり読みにくい。上演後には
同じ版元から'版を改めて読みやす‑した'実用的な稽古本が出た。豊後系浄瑠璃の
場合は'「絵表紙正本」と「稽古本」 の区別がはつき‑している。また、版木(版権)の移動も、比較的わか‑やすい。
それに対して長唄の芝居上演時の絵表紙正本は'豊後系浄瑠璃のように演奏家個人
や流派との関係ではな‑'上演される劇場と特定の関係にある版元から出版された。
この点が、浄瑠璃正本との大きな違いである。常磐津節、富本節などの豊後系浄瑠璃
が歌舞伎に出演する場合、いわゆる「ゲスト」として'場面ごとの契約で出演した。
しかし長唄は'歌舞伎芝居の中ではいわば劇場付きの音楽部門という役割を持ってい
た。長唄嚇子方連中は一作品ごとの「ゲスト」 ではな‑、一年契約で劇場に所属して
いた。毎年十一月に出る顔見世番付にも、役者とともに長唄嚇子方の連名が掲載され
た。原則として、契約した一年間は'所属する劇場以外に出演することはない。この
ような劇場との契約関係の違いが、正本出版の違いにも現れている。
江戸
三座
(中
村座
'市
村座
、森
田座
)
では
およ
そ宝
暦年
間(
1七
五1
‑1
七六
三)
に
、
11J[劇場ごとに長唄正本を出す特定の版元が決まった。その結果'芝居上演時の長唄正本
は'中村座'市村座、森田座それぞれ特定の版元だけが正本を出す権利を持ち、他の
版元が勝手に出版する事はできな‑なった。この原則は、宝暦頃から幕末まで変わら
ない。ただしその特定の版元は'劇場により'時代により交替した。特に天明から寛
政期(l七八1‑一八〇〇)に起こった劇場の退転が、長唄正本の出版に大きな変化
をもたらす事になった。これもまた'他の音曲の正本にはない'長唄だけに見られる
特色である。
次に'長唄正本とその版元の動向について'劇場退転の前後に分けて検証する。
なお本稿の最後に、「芝居上演時の長唄正本を出す版元」として、劇場別に芝居上演
時の長唄正本を出版していた版元名の一覧を示してあるので、参照されたい。
二㌧劇場退転以前の長唄正本
宝暦頃(1七五1‑1七六三)'中村座上演の長唄正本はいがや(伊賀屋勘右衛門)〜
市村座と森田座の上演の長唄正本は和泉屋権四郎から出ていた。いずれも浮世絵など(,‑・)を手広‑扱う地本間屋であり'長唄以外の音曲正本も出版している版元である01・‑)中村座では宝暦九年二七五九)から'村山源兵衛版となった。この版元は一般的
な書物を扱う本屋ではなく'中村座の各種番付類を専門に扱う版元で'正本に関して
は'すでに享保二十年(1七三五)からせ‑ふ正本を出していた。この村山源兵衛の
ような劇場系の版元が長唄正本の出版も手がけるという事は'長唄正本が芝居の上演
関連資料としても重要な意味を持っているという事でもある。長唄を伴奏とした所作
事の情報は'必ずしも番付類に掲載されるとは限らない。むしろ掲載されない場合の
方が多い。前述のとおり豊後系浄瑠璃は「ゲスト」出演であるので'上演ごとに番付
に出演者の連名が載るが'長唄の場合'その年に劇場に所属しているメンバーは顔見
世番付で名前を公表してあり、誰が出演するかは既にわかっている。したがって上演
ごとの長唄連名は'通常番付類には掲載されない。曲名すら掲載されない場合が多い。
このように'番付類には掲載されない所作事の情報を'長唄正本で補う事ができるの
である。長唄正本が劇場と関連のある版元から出版されるのは'芝居の内容と探‑関
わり合いを持つ長唄という音楽の特質を考えれば'当然の結果ともいえよう。
長唄正本は'同じ劇場系の出版物である番付類と同様'新作が上演されるたびに次々
と出版されたが'特に明和年間(一七六四〜一七七一)頃までは'上演後に同じ版元二1ヽが同じ曲の稽古本を出版している例は少ない.基本的には'上演時1度限りの出版と
いう性質のものであったように思う。
しかしこの時代、長唄正本に「稽古本」が全‑無かったというわけではない。役者
の姿絵を措いた絵表紙正本であっても、芝居の大名題や版元名を削‑、そこに「中む
ら」「市むら」などの座名を書き入れた古正本が残っている。これらの正本は上演時と
同時代か'あるいはそれほど時を経ない時期に出たいわゆる「海賊版」ではないかと
考えられているが、これらがいわば「稽古本」の役割を果たしていたものと考えられる。 また「唄い出し」 の詞章を表紙に載せた字表紙の長唄稽古本も残っている。これらの正本には'版元名が記されていない場合が多い。版元名を記さないのは、上演時の正
3i
・1 E
本を出版した版元に配慮した結果であろう。
森田座では明和一年(一七六四) から'また中村座でも安永六年二七七七) から、
上演時の長唄正本は'劇場系の版元と、もう一軒の版元との「相版」という形で出版
(‑)されるようになった。劇場系の版元とは、森田座の金井半兵衛へ 中村座の村山源兵衛
である。そしてもう一軒の版元は'中村座'森田座ともに度々変わるが'正本を実際
に制作して販売する版元である。すなわちこの時代の相版は、劇場側の版元と'いわ
ばその下請けの版元という、役割の異なる二軒が連名で出す相版という事になる。こ
れは浄瑠璃正本などによ‑見られる'版木の移動による相版とは意味が異なる。なお
長唄正本にも版木の移動による相版もあるが'それに関しては後述する。なお市村座
は'この時代も相版の形はとらず'劇場退転まで、和泉屋権四郎単独で出版を続けた。
この時代の森田座'中村座の相版は'劇場系の版元がお墨付きを与え、実際には専
門の本屋が正本を作って販売するという形である。同じ頃'常磐津節は伊賀屋勘右衛
門'富本節は蔦屋重三郎が太夫直伝の版元として正本を盛んに出版しており、長唄正
本も単に劇場内だけの出版物というだけでな‑'もっと広‑愛好者に向けた出版活動
が求められた結果ではないかと思う。劇場ごとに正本を出版する具体的な版元名につ
いては'「資料 芝居上演時の長唄正本を出す版元」を参照されたい。
明和1年(l七六四)'明和四年(一七六七) の森田座で、劇場系版元の金井半
兵衛との相版を組む伊勢屋吉十郎は、長唄の詞章集﹃めりやす豊年蔵﹄ (宝暦七年
(一
七五
七)
刊)
'﹃
歌撰
集﹄
(
宝暦
九年
(一
七五
九)
刊
)
で知
られ
る版
元で
ある
。こ
版元は、もとは吉原細見の売弘所であった事からもわかる通り'芝居町とは関連の薄
い'吉原の遊里を拠点とした版元といえる。﹃めりやす豊年蔵﹄も長唄の詞章を集めた
本であるが'劇場系の薄物正本とは7線を画した'遊里の愛好者向けの詞章集という
性格を持っている。このような版元が劇場系正本に関与するのは、かな‑珍しい例で
はないかと思う。伊勢屋害十郎は宝暦九年(一七五九)以降'河東節専属版元として﹃十
寸見要集﹄を出版するようになるが'明和1年(1七六四) 二月の森田座に河東連中
が出演し'「三燕桜瀧夜(助六)」を上演している。おそら‑この河東節の出演を契機
に森田座との関係が生まれ'金井半兵衛との相版という形で長唄正本の出版に関与す
る事になったものと思われる。
また安永六年(一七七七) から天明二年(一七八二) まで'中村座、森田座の両座
で下請け版元として登場するのが本屋儀兵衛である。本屋儀兵衛は、この時代の上演
時の長唄正本は相版で出版し、それとは別に単独の名前でも、様々な長唄稽古本も出
(‑Jll版している。前述の通り'劇場退転前の時代の長唄稽古本には版元名を記さない場合
が多いが、本屋儀兵衛の登場する安永頃になると'版元名を明記して長唄稽古本を出
版する版元が出て‑るようである (図版A・2参照).
寛政三年二七九一) 以降の中村座では、沢村屋利兵衛が下請け版元として登場す
るが、この版元は次の控櫓の都塵時代を経て、再興後の中村座で長唄正本を山手に引
き受ける版元となった。
この他に、黄表紙で知られる西宮新六や'たけたや(武田屋) ゑん十郎などの長唄
1 q
・
\
稽古本も残っているが'いずれも数は少ない。
三、劇場退転後の長唄正本
天明から寛政期(一七八一〜一八〇〇) になると、江戸三座ともに様々な理由から
休座を余儀な‑され'控櫓となった。この劇場の退転を期に'長唄正本の専属関係、
また権利関係が大き‑変わった。劇場の退転とともにその劇場と専属関係にあった正
本の版元も退き'退転以前に初演された曲に関して'様々な権利関係が一度すべて白
紙になったらしい。上演時の正本を出した版元がどこであれ、自由にこれら稽古本を
出版できるようになったのである。その結果、およそ寛政 二七八九〜一八〇〇) の
初め頃から、劇場退転前に初演された長唄の稽古本が'様々な版元から出版されるよ
うになった。ここで7 つ注目す''(き事は'前時代の正本の版木が移譲されたり'流用
された‑した形跡がほとんど見られないという事である。劇場退転以降の版元はいず
れも'新し‑版木を作って出版している。
上演時の絵表紙正本に関しては、控櫓の時代も'また劇場再興後も'退転以前とは
違う新しい劇場専属版元が登場し、同じように出版を続けた。したがって芝居退転後
の長唄正本は'上演時の絵表紙正本と'それ以前の曲の稽古本の二本立ての状態で推
移する事となった。
中村座の場合'控櫓の都座時代は、劇場系の桐屋伝左衛門と'下請け版元の中嶋屋
伊左衛門'沢村屋利兵衛らの相版の形をとり'再興後の中村座では'沢村屋利兵衛が
単独で長唄正本を出版している。
市村座は'劇場退転前は和泉屋権四郎であったが、天明四年(7七八四)十7月か
ら天明八年(一七八八)十月の控櫓の桐座時代は'富士屋小十郎となった。天明八年
(一七八八)十一月に市村座が再興してからは'控櫓の時代を含めて劇場系版元と下請
け版元の相版の形に変わった。控櫓の時は「山本重五郎」、市村座の時は「市村(福地)
茂兵衛・山本重五郎」を含む相版で出た。これらはいずれも劇場系版元である。文化
十年(一八一三)までは、これに富士屋小十都が下請け版元として参加する相版となっ
C S>
vT森田座・河原崎座は、寛政二年(一七九〇)以降'小川半助が独占的に長唄正本を 出している。
このように上演時の長唄正本は、劇場退転後も相変わらず、特定の版元だけがその
出版権を持って独占的に正本の出版を行っている。中村座と森田座には'前時代の相
版ではな‑、単独の正本版元がついた。これとは逆に市村座は'単独の正本版元から
劇場系と下請けの相版の形に変わった。また劇場退転以前とは異なり、初版を出した
版元が'表紙の絵を何度も変え、また本文も読みやすく大きな文字に変えるなどして、
再版本を繰り返し出版するようになった。
文化年間(一八〇四〜l八一七)頃になると、宝暦から安永(l七五1‑一七九〇)
頃の'いわゆる長唄の「名曲」 の稽古本が様々な版元から出版されるようになった。
その多‑は、上演時の正本と同じような役者の姿絵'上演時の芝居の大名題'長唄連名'
役者名などが記されているが'全体的に文字を太‑、大き‑するなど'前の時代とは
( 3)
違う特色を備えている。また前時代のように版元名削ったような稽古本は少なく、版
元名が明記されるようになった。この頃に出た長唄稽古本でよ‑目にするのは'「富士
屋小十郎」「森田屋金蔵」「沢村屋利兵衛」 の三軒の版元である。このうち富士屋小十
郎は市村座、沢村屋利兵衛は中村座で、上演時の正本に関与し、同時に退転以前の稽
古本も出している版元である。
富士屋小十郎は'天明四年二七八四) から天明八年二七八八) の桐座上演時の
正本は富士屋小十郎単独名で出しているが、その後は市村座、控櫓の桐座ともに'上
演時の正本は、福地茂兵衛・山本重五郎等の劇場系版元との相版の形になる。一方稽
古本
はつ
ねに
富士
屋小
十郎
単独
名で
出版
され
た(
図版
A‑
3,
C‑
1‑
C‑
3参
照)
0
森田屋金蔵は、上演時の正本には関与しない版元であるために'活動時期の特定が
難しい。しかし表紙の絵を措いている絵師や筆耕者などが沢村屋利兵衛などと共通し
ている事や'出版している曲のレパートリーなどの点から、富士屋小十郎や沢村屋利
兵衛と同じ文化年間頃と考えてよいだろう(図版Aふ参照).
沢村屋利兵衛は、中村座上演時の正本も稽古本もどちらも単独名で出ているので、
区別がつきに‑いが、上演時の正本には末尾に刊記と「沢村蔵板」とあ‑'ここで区
別する事ができる。沢村屋利兵衛は'富士屋小十郎'森田屋金蔵に比べて活動期間が
( EJ )
長い
ため
'現
在残
って
いる
正本
の数
も非
常に
多い
(図
版B
‑1
,B
‑3
‑B
‑4
参照
)。
またこの時代に長唄正本出版に参入して‑る版元には'蔦屋重三郎(富本節)'浜松
屋幸助・多田屋利兵衛(義太夫抜本)'伊賀屋勘右衛門(常磐津節) のように'別の音
3 順E
曲の正本をすでに扱っている版元もある。
文化・文政期(一八〇四〜一八二九) 以降には、「お座敷長唄」と呼ばれる劇場とは
離れて演奏のみを聴かせる長唄が盛んになるが、これらの曲の正本では、劇場系とは
違っ
た流
れが
みら
れる
。例
えば
四世
杵屋
六三
郎(
後の
杵屋
六翁
)
は、
「老
栓」
(
文政
三
年二
八二
〇)
)'
「吾
妻八
景」
(
文政
十二
年(
一八
二九
))
な
ど数
多‑
の「
お座
敷長
唄」
を残しているが、その多‑は伏見屋善六 (池の端仲町通) という版元から正本が出て
いる
また四世杵屋六三郎と並ぶ名人と称される十世杵屋六左衛門 (前名は四世杵屋三郎 。
助)
の
場合
、い
わゆ
る「
外記
節三
曲」
と呼
ばれ
る「
猿」
(文
政七
年(
一八
二四
))
、「
石橋
」
(文
政十
三年
(l
八三
〇)
)'
「塊
偏師
」
(天
保七
年(
1八
三六
))
の
正本
は、
中村
座上
演
時の正本を出している沢村屋利兵衛から出ているが、「巽八景」 (天保十年二八三九))
以降
'「
秋の
色種
」
(弘
化二
年(
1八
四五
))
'「
鶴亀
」
(嘉
永四
年(
1八
五l
))
な
どは
伊
賀屋勘右衛門 (神田鍋町、鍛冶町) に変わった。この二人に関しては、浄瑠璃の場合
のように'四世杵屋六三郎と伏見屋善六'十世杵屋六左衛門と伊賀屋勘右衛門という'
演奏家個人と版元との専属関係が成立していたものと考えられる。
幕末近‑になると、長唄正本に再び転機が訪れた。中村座の専属版元である沢村屋
利兵衛は、安政五年二八五八) 頃まで中村座上演時の正本を出版しているが、その
後の動向はよ‑わからない。おそら‑文久年間(一八六一〜一八六三) 頃までに、沢
( ー 4
⁚ )
村屋利兵衛の版木は丸尾鉄次郎(丸鉄) やその他の版元に移譲されたとのみられる。
沢村足利兵衛から丸屋鉄次郎に移った正本は'「原板沢村屋利兵衛'求版丸屋鉄次郎」
として明治期にも多数出版されている。
市村座では、弘化二年(一八四五)、嘉永一年(一八四八) に伏見屋善六が'また嘉
永四年(一八五一) には伊賀屋勘右衛門が、それぞれ山本重五郎との相版で'市村座
、h
ご
の上演時の正本を出している。前述のとおり伏見屋善六や伊賀屋勘右衛門は、上演時
の正本には関与せず'もっぱら稽古本を扱っていた版元であるが、幕末になると劇場
系の長唄正本にも進出するようになった。伏見屋善六は'明治期には新富座上演の長
( S)
唄正本を出している。
森田座・河原崎座の正本を扱っている小川半助は'他の版元に比べると比較的長‑'
明治期まで残っている。ただし幕末以降になると森田座・河原崎座の正本だけでな‑'
様々な稽古本も扱うようになった。小川半助版は明治十七年(一八八四) 頃に'清田
虞書(溝田吉五郎) へ移る。江戸中期以降に活躍していたその他の版元も、幕末の動
乱の時期に次々と姿を消してい‑ことになる。
以上のように'芝居上演時の長唄正本の出版は、特定の劇場系版元によって行われ
るtという原則は江戸時代を通じて変わらないが、劇場の退転という出来事によ‑'
その前と後では'長唄正本の出版活動は大き‑変化した。また江戸末期になると、そ
れまでの劇場系版元が姿を消す一方で'当初は稽古本のみを扱っていた版元が上演時
の正本を扱う例も出てきた。江戸の歌舞伎の盛衰とともに'長唄正本を扱う版元も変
化してい‑事がわかる。 四へ長唄正本の相版
長唄正本には複数の版元名を並べて表記した「相版」がある事は前にも述べたが、
ここでもう一度「相版」について整理しておきたいと思う。
長唄正本の場合は大き‑二種類の異なった性格の相版がある。第1は'芝居上演時
の長唄正本を劇場系の版元と'他のもう一軒の下請け版元が連名で出版する相版であ
る。中村座の場合'劇場退転前の安永六年(一七七七)から寛政五年二七九三)'寛
政五年(一七九三) から寛政九年(一七九七) の控櫓の都座時代'そして中村座再興
直後に、この相版の正本が出版された。森田座も中村座と同様に'劇場退転以前が相
版の時代であった。それに対して市村座は劇場退転後'天明八年(一七八八) に市村
座が再興されて以降幕末近‑までが相版の時代となる。
もう一つの相版の形は、版木の移動を示す相版である。「原板沢村屋利兵衛へ求版
丸屋鉄次郎」のように'版木の前の所有者と次の所有者の名前を並べることによって、
その正本の由来、出所を明確にする。この場合、実際に正本を出版するのは後者の版
元である。長唄正本の場合このような相版は劇場退転以前には極めて少なく'およそ
( S>
文政年間(l八1人〜l八二九) 以降、明治期までみられる.
例えば市村座退転以後'控櫓の桐座で初めて登場する冨土屋小十郎は'福地茂兵衛・
山本重五郎との相版で市村座上演時の長唄正本を出版している。これは前者の、劇場
系版元と下請け版元による相版の形である。この富士屋小十郎は、文化十年(1八二二)
までは三軒相版の形で上演時の長唄正本に名を連ねているが'文化十一年二八一四)
以降になると姿を消してしまう。その後富士屋小十郎の版木の多‑は'伊賀屋勘右衛
門へ移ったとみられる。市村座上演時の≡軒の名前の後に'さらに伊賀屋勘右衛門を
加えた四軒相版の正本が出版される。伊賀屋勘右衛門を含むEl軒相版の正本は'1見
三軒相版の正本とあまり変わ‑がないが、これは上演時の正本ではな‑'伊賀屋勘右
衛門
によ
る再
版の
稽古
本と
いう
事に
なる
(
図版
C‑
1‑
C‑
:︺
参照
)0
おわりに
以上のように、長唄正本には実に様々な種類がある。前にも述べたが'歌舞伎の舞
台で上漬された長唄の所作事は、芝居番付にその曲名や演奏者の名前などが掲載され
ない場合が多い。特に「めりやす」「髪枕」などの場面は'長唄正本でしかその存在を
確認できない。このような意味でも、長唄の上演時の絵表紙正本は、上演関連資料と
しても重要である。しかし上演資料として長唄正本を利用する場合は、まずその資料
が上演時に出版された長唄正本でなければならない。後年の再版本では'芝居の大名
題や演奏者の連名'役者名・役名が省略されていた‑'間違っていた‑する事がある。
また詞章の内容も、初演時とは変わっている事がある。また時代による詞章の変遷な
どを知るためには、様々な稽古本が有効であるが'これにも資料の年代特定が必要と
なる
しかし長唄正本を扱う上で難しいのは、芝居上演時の正本も'後年に再版された稽 。
古本も、同じようを体裁の絵表紙正本であり'しかも刊記が記されていない場合が多
いために、その正本を一冊見ただけでは出版年代を特定できないという点である。し
かし多数の長唄正本を見ていると、漠然と古いものと新しいものの区別がつ‑ように
なる。しかし漠然とした印象ではな‑、はっき‑とした出版年代を特定しなければな
らない。その為には'芝居番付'長唄や浄瑠璃の芝居上演時の絵表紙正本など、年代
を特定できる資料を縦軸として、その周辺に登場する様々な版元の動向を詳しく知る
事が必要である。表紙の絵を措いている絵師の動向や'版元の住所の変遷が年代の特
定に繋がることもある。もちろん、音曲関係以外の近世の版元研究が大いに参考にな
(⁝
柑)
るのは言うまでもない。
私は昭和六十三年から平成八年までの八年間'国立音楽大学音楽研究所近世邦楽研
究部門において'早稲田大学'東京芸術大学'東京大学をはじめ'主要大学'公共図
' 1. i : )
書館など等での網羅的な正本の調査に参加した。また同時に'国立音楽大学附属図書
( 州3 )
館竹内道敬寄託文庫目録の長唄正本を担当し'多数の長唄正本に触れる機会を得た。
この膨大な資料調査の結果'長唄正本には他の浄瑠璃とは違う独特の出版システムが
あり'そのシステムを解明するためには'長唄正本の版元研究が不可欠である事がわ
かった。長唄正本とその版元に関しては'平成二年に「長唄正本とその版元の動向に
ついての1考察」、また平成四年には「江戸音曲正本出版のメカニズム ー 河東節'長
:ォ 5サ :
唄正本を中心として ‑ 」と題して発表したが'その後も数多‑の資料にあたり、現
時点で解る限り大幅に改訂したものである。現在でもまだ新たな資料が出てきており'
この版元研究もさらに改訂を重ねてゆ‑べきと考えている。
長唄の絵表紙正本は、絵の美しきや楽しさもあ‑'近年様々に利用されるようになっ
ているが'資料として正しく扱うには難しい点が多々ある。まだ十分に研究され、利
用されているとは言い難い。しかし幸いな事に'各機関でも資料の整理が進み'資料
の利用が可能になってきている。このような版元研究によって'少しでも長唄正本研
究が進展できる事を切に願っている。
注(
‑)
﹃
図説
江戸
の演
劇書
﹄
(早
稲田
大学
演劇
博物
館編
、八
木書
店刊
)一
九1
ペー
ジに
は'
音曲正本全般に関して'その成立から資料の特色などが概説されてお‑、参照された
\ 0
̲>(2)宝暦以前の長唄正本は、元浜町のいがや(伊賀屋勘右衛門、この時代は平仮名で「い がや」と記す)'和泉屋権四郎'中嶋屋伊左衛門などが出版していた。しかしこれらの版元が出していたのは長唄だけではな‑'せ‑ふ'宮古路節、一中節、河東節、義太夫節、大薩摩節など'多岐にわたる。享保から元文(1七二ハ〜l七四〇)頃までは'太夫と版元'また劇場と版元という専属関係はまだ希薄で、様々な版元から出版された音曲正本が残っている。寛保(l七四1‑l七四三)頃になると'中村座上演の音曲はいがや'市村座上演の音曲は和泉屋権四郎と決まるようで'その他の版元は見えな‑なる。出版される正本は長唄に限らず'当時芝居で上演された様々な浄瑠璃正本を扱う。劇場と版元との関係が明確に示された最初は、寛延一午(一七四八)四月市村座上演の義太夫節「花曇恩愛の鏡」 (都立中央図書館・加賀文庫蔵) で、本文の末尾に「市村座はんもとたちばな町二丁目いづみやごん四郎」とある。これ以降の和泉屋権四郎版正本には、しばしばこのような記述が見られ、市村座と和泉屋権四郎の専属関係がはっきりして‑る。なお長唄正本では、宝暦三年(一七五三)正月市村座「花笠娘雛形」(都立中央図書館・加賀文庫蔵)が最初である。ただし'いがや版には「中村座版元」という記述はな‑'いがやと中村座の専属関係は確認していな/i a,>(3) 伊賀屋勘右衛門は'常磐津文字太夫の専属版元として有名だが'宝暦頃までは、中村座上演の長唄やその他の浄瑠璃正本の他、宮古路節'河東節'一中節などの様々な正本を出していた。宝暦九年二七五九)頃から、中村座上演時の正本は村山源兵衛が担当するようにな‑、それと同時に伊賀屋勘右衛門も長唄正本の出版からは離れる。五十年ほど時を経て'文化十年(一八一三)頃から、再び長唄正本を出すようになる。この時代は芝居上演時の正本ではな‑'稽古本が中心。桐座'市村座の上演時の正本を出していた「富士屋小十郎」 の版権を譲‑受ける。富士屋小十郎版の再版のうち'市村座初演のものは、「福地茂兵衛'山本重五郎'富士屋小十郎'伊賀屋勘右衛門」 の四軒の相版となる。伊賀屋勘右衛門単独名で出た正本も多数ある。その他、十世杵屋六左衛門のお座敷長唄の正本を出すが'これは伊賀屋勘右衛門初版とみられる。嘉永四年(1八五こ九月市村座の長唄﹃誓縛素﹄は'山本重五郎との相版。(これは上演時の長唄正本の可能性がある)。伊賀屋勘右衛門の長唄正本は、幕末から明治になると丸屋鉄次郎(丸鉄) へ移る。和泉屋権四郎の方は'享保から天明四年二七八四)十月まで、市村座の辻番付'役割番付'正本類を出す。数は少ないが'市村座以外の長唄正本もある。
(4
)
村山
源兵
衛は
、享
保二
十年
(1
七三
五)
か
ら明
治六
年(
1八
七三
)
頃ま
での
中村
座の版元として番付類の出版に関与する。現在確認している範囲では'顔見世番
付は享保二十年(一七三五) から文久三年(l八六三)まで。役割番付は明治五年(一八七二) 三月まで。絵本番付は、寛政五年(一七九二) の退転までと'明治一年(一八六八)〜明治六年(一八七三) 四月頃まで。なお退転以降の絵本番付の版元は村
山源兵衛ではな‑沢村屋利兵衛である。その他に'延享一年二七四四) から延享四年(一七四七) には、森田座の顔見世番付も出している。
(5)寛保二年(一七四二)市村座初演の「おもひの非桜」は、和泉屋権四郎の住所が「たちばな丁四丁め」と記した正本(芸大所蔵の写本)と'「たちばな丁二丁め」と
記した正本(演博安田文庫本) がある。和泉屋権四郎の住所の変遷から'寛保二年二七四二) 当時は橘町四丁目の住所で、橘町二丁目は延享四年(一七四七) から明和八年(一七七一) の間の再版といえる。表紙、本文ともに別版である。この時代の
上演時の正本が再版されている例は珍しい。その他に、長唄連中の連名の一部が改刻されたりしている例もあるが、数は少ない。
(6) この種の版元名のない古正本について'以前は、役者が晶展に配った正本ではないかという説があったが'現在はこれをとらない。(7) この相版は、長唄正本だけではな‑、浄瑠璃正本にも見られる。安永七年(1七七八)
三月中村座初演の富本節「夏柳夢睦言」 の正本は'「中村座坂元村山源兵衛・正本坂元新吉原五十間蔦屋重三郎」 の相版。同じ‑安永七年(一七七八) 四月中村座初演
の常磐津節「好借用傍柳」も「中村座板元村山源兵衛・正本牧元いかや勘右衛門」 の相版の形をとっている。
(8) 本屋儀兵衛版は'上演時の正本は劇場系版元との相版'稽古本は単独版が基本だが、い‑つか相版の稽古本も残っている。
「鞠
小弓
椎遊
」
(明
和六
年(
一七
六九
)
秋市
村座
初演
)、
「白
たゑ
」
(天
明二
年
(一七八二)十一月市村座) の和泉屋権四郎との相版は'おそら‑上演時の正本ではなく、後年の再版であろう。
(9
)
西宮
新六
(茅
場町
薬師
生前
)、
たけ
たや
(武
田屋
)
ゑん
十郎
(神
田佐
久間
町)
の
長唄
稽古本は'ともに明和未から安永(一七七〇〜一七八〇)頃ではないかと考えている。
たけたやゑん十郎は'明和八年(一七七こ七月中村座上演の豊名賀志妻太夫正本「瀧寵扇辻占」 の正本を出している。
(S) 富士屋小十郎は、天明八年(一七八四) の桐座の時代に登場し'長唄正本と辻番付を出す。富士屋小十郎の長唄稽古本には'桐の葉を図案化した飾‑枠のついた字表紙
稽古本が多数残ってお‑'桐座との関係がうかがわれる.文化十年(1人1三)十月まで市村座の上演時の正本に関与するが'その後見えな‑なる。﹃歌舞伎年表﹄ によると、文化十年十一月二十九日に高砂町よ‑出火があり、中村座・市村座両座とも消
失している。この火事に'何か関係があるかもしれない。なお富士屋小十郎は、薄物正本の他に ﹃東風流(あづまぶ‑)﹄という長唄詞章集も出している。「初編」 (文化
三年
)
「次
編」
(
文化
五年
)
の二
冊が
ある
。
(3) この時代に出た絵表紙稽古本では'長唄二二味線の連名が'簡略化されて掲載され
る事が多い。役者の衣裳も初演時の姿ではな‑'正本が出版された時代の流行を取‑入れたような姿に変えられている場合もある。(1)沢村屋利兵衛は、寛政三年(一七九l)一月以降'安政五年二八五八) 四月まで'中村座'控櫓の都塵'再興後の中村座の上演時の正本に関与する。寛政十年
(一七九八) 三月までは、劇場系版元との相版、それ以降は単独版である。また寛政 九年(1七九七)十l月の中村座再興から万延l年(1八六〇)三月までは中村座の絵本番付も出す。沢村屋利兵衛版の長唄正本は、上演時の正本も稽古本も'表紙の絵を度々替えながら再版を重ねる。天保十三年二八四二)に中村座が猿若町に移転してからは、沢村屋利兵衛も「猿若町壱丁目」に移るらしい。上演時の正本にはこの住所を記したものもあるが'ほとんどの稽古本は「さかい町」のままで最後まで出版されたようである。(1)蔦屋重三郎の長唄稽古本は'ほぼ文化文政期(1八〇四〜1八二九)に限られる。住所でいえば通抽町と小伝馬町時代のものが残っている。浜松屋幸助は、薄物正本の他に'横本の長唄詞章集﹃三つの友﹄(文化元年九月刊)を出している。多田屋利兵衛については'その出版年代はよ‑わからない。これらの版元が出す長唄稽古本はいずれも、宝暦から安永頃に初漬された長唄の中でも人気の高い曲いポピュラーな曲であるが'曲の種類も'現在残されている正本の数もあま‑多‑ない。伊賀屋勘右衛門については、(注3)を参照されたい。(3)沢村屋利兵衛版の多‑は丸屋鉄次郎へと移るが、その他に大黒屋金之助(築地大金)'岩戸屋久兵衛にも版木が渡ったとみられ'それぞれ沢村屋利兵衛との相版の正本が残っている。丸屋鉄次郎(通称「丸鉄」)は、沢村屋利兵衛だけでな‑'伊賀屋勘右衛門などからも版木を移譲されるようで'明治期に入ってからも江戸の名残を残した絵表紙の稽古本を多数出版している。明治二十三年(一八九〇)頃からは小林鉄次郎の名前で、歌舞伎座上演の長唄正本を出している。明治三十二年(一八九九)頃からは小林直次郎、大正二年(一九一三)には丸鉄書店の名で出版活動を続けている。(2)弘化二年(l八四五)一月市村座﹃春大和笑獅鳥追﹄山本重五郎・伏見屋善六の相版
素永1年二八四八)l月市村座﹃梅柳対花道﹄山本重五郎・伏見屋善六の相版
嘉永四年二八五一)九月市村座﹃誓縛索﹄山本重五郎・伊賀屋勘右衛門の相版
(S)明治十一年(1八七八)六月月新富座﹃新石橋﹄伏見屋善六
明治十二年(1八七九)十月新富座﹃筑摩川﹄伏見屋善六
伏見屋善六は'幕末から明治を経て大正三年(1九一四)頃まで出版活動を続けてい
SI
(」)前にも述べているように'劇場退転時には三座とも、版木の移譲はみられなかった。
ただし、寛政十一年(1七九九)十1月から寛政十二年(一八〇〇)に中村座で上漬
された「室のゑがほ」、「牛飼室梅花」「帯曳花農小林」「江戸花五枚錦絵」に関しては'
「沢村屋利兵衛・森田屋金蔵」相版の正本が残っている。なぜこの時期の曲だけに沢
村屋利兵衛・森田屋金蔵相版の正本が残っているのか'今のところよ‑わからない。
しかし沢村屋版と森田屋版の正本には'同じ版木を用いているように思われるものも
あり'この二軒の版元には何らかの繋が‑があったのではないかと思われる。
(。Ol)井上隆明著﹃増補改訂近世書林板元総覧﹄(日本書誌学大系76'青裳堂書店)は、近
世の版元研究にとっては'第Tに参照すべきT冊であろう0(2) 「国立音楽大学音楽研究所近世邦楽研究部門」は、竹内道敬元国立音楽大学客貞教授
のもと'根岸正海氏、鈴木英1氏'竹内有一氏、吉野雪子の四人が研究員として活動した。そして'早稲田大学の古井戸秀夫教授、立命館大学赤間亮教授に'多大なるご教示、ご協力を頂いた。国立音楽大学音楽研究所における成果は、「正本による近世
邦楽
年表
(稿
)」
(
﹃国
立音
楽大
学音
楽研
究所
年報
第十
l集
別冊
﹄一
九九
五年
)と
して
発表
した
。
(8)国立音楽大学竹内道敬寄託文庫では'昭和六十年から平成十二年までに'各種正本を中心とした資料目録を十冊刊行したo長唄正本は'そのうち「その三 江戸長唄の
部」
(1
九九
二年
)'
「そ
の十
追
加編
三
江戸
長唄
の部
」(
二〇
〇〇
年)
の
二冊
であ
る。
絵表紙正本を中心に約二三〇〇冊'曲数にすると五百曲の長唄正本を所蔵している。
(n) 「長唄正本とその板元の動向についての一考察」(﹃国立音楽大学音楽研究所年報第八集﹄平成二年三月)。「江戸音曲正本出版のメカニズム ー 河東節'長唄正本を中心に
して
‑
」
(
﹃国
立音
楽大
学音
楽研
究所
年報
第九
集﹄
平成
三年
三月
)
[資
料]
芝居上演時の長唄正本を出す版元劇場ごとに、芝居上演時の長唄正本を出版する専属の版元一覧を示す。
①中
村屋
・都
座
*中
村座
享保〜宝暦六年二七五六)頃 いがや(伊賀屋勘右衛門'元浜町)が多い宝磨九年(一七五九)一月「舞扇子姥桜」〜 村山源兵衛
安永六年(一七七七)一月〜天明二年(一七八二)七月村山源兵衛
天明二年(一村山源兵衛
天明六年村山源兵衛
(沢
村庄
五郎
(高
砂町
)・
七八二)十一
(高
砂町
)・
七八六)十一
(高
砂町
)・
(さ
かい
町)
本屋儀兵衛(江戸橋四日市) の相版
月〜天明四年二七八四)三月
松本
屋万
舌(
長谷
川町
)
の相
版
月〜寛政二年(1七九〇)十1月
沢村
庄五
郎(
さか
い町
)
の相
版
単独版もある。単独版は再版か)寛政三年(1七九l) l月〜寛政五年(l七九三)十月
村山
源兵
衛(
高砂
町)
・沢
村利
兵衛
(さ
かい
町)
の
相版
・退転・・・・・
*都
座
(控
櫓)
寛政六年二七九四) 二月〜寛政六年(1七九四)七月 中嶋屋伊左衛門・沢村屋利兵衛の相版寛政六年二七九四)十一月〜 桐屋伝左衛門・沢村屋利兵衛・中嶋屋伊左衛門の相版 寛政七年(T七九五)十7月 坂元桶屋伝左衛門・売所中嶋屋伊左衛門の相版寛政九年(一七九七) 三月〜寛政九年二七九七)九月
板元桐屋伝左衛門・売所沢村屋利兵衛の相版
*中
村座
寛政九年二七九七)十一月〜寛政十年(一七九八) 三月
村山
源兵
衛(
高砂
町)
・沢
村利
兵衛
(さ
かい
町)
の
相版
寛政十7年二七九九)十小月〜天保十三年(7八四二) 沢村屋利兵衛(さかい町)天保十三年(1八四二)十1月〜安政五年(1八五八) 四月 沢村屋利兵衛(猿若町
住所
変更
)
文久二年(一八六二)三月 「壮花四季の振事」 大こ‑や金之助
明治一年(一八六八)九月 中村座・守田座合同「今様百夜車」 丸屋鉄次郎
明治
l年
(一
八六
八)
九月
中
村座
・守
田座
合同
「松
竹梅
井筒
活分
」
東金
屋新
三郎
明治
二年
(1
八六
九)
二
月
中村
座
「釣
狐春
廼曽
我菊
」
丸屋
鉄次
郎
②市
村座
・桐
座・
都座
・玉
川座
*市
村座
享保十九年(1七三四) 三月〜天明四年(1七八四)十月 和泉屋権四郎退転
*桐
座
(控
櫓)
天明四年(1七八四)十一月〜天明八年(l七八八)十月 富士屋小十郎(ふきや町か
し通
‑)
*市
村座
天明八年(一七八八)十一月〜寛政五年(一七九三)十月市村茂兵衛・山本重五郎・冨土屋小十郎の相版
[寛
政l
年(
一七
八九
)十
l月
「神
楽月
梅見
丹前
」'
寛政
二年
(l
七九
〇)
三
月「
吾嬬
鳥娘
道成
寺」
は、
市村
茂兵
衛・
山本
重五
郎の
相版
]
*桐
座
(控
櫓)
寛政五年(一七九三)十l月〜寛政十年(一七九八)十月 山本重五郎・富士屋小十郎
の相版
*市
村座
寛政十年(1七九八)十1月〜文化十年(l八l三)十l月福地茂兵衛・山本重五郎・富士屋小十郎の相版
文化十一年(一八一四) 〜文化十二年(一八一五)十月
福地茂兵衛・山本重五郎の相版
*桐
座(
控櫓
)
文化十二年(1八1五)十一月〜文化十四年(1八1七)十月 山本重五郎
*都
座(
控櫓
)
文化十四年(l八l七)十1月〜文政1年(1人l八)十月 山本重五郎
*玉
川座
(
控櫓
)
文政l年(l八1人)十1月〜文政四年(l八二1)十一月 山本重五郎 相版
・ 退 転
*河原崎座 (寛政二年(1七九〇)十一月〜寛政九年(1七九七)十月)
*市村座 (文政四年(一八二l)十l月〜慶応三年
文政四年弘化二年
嘉永一年嘉永四年
安政六年文久一年
文久一年文久四年
(一
八二
l)
(一
八四
五)
(一
八四
八)
(1
八五
l)
(一
八五
九)
二八六一)(一八六二
二八
六四
)
十11月
一月九月
七月
七月
九月二月
月〜 福地茂兵衛
「春
大和
笑獅
鳥追
」
「梅
柳対
花道
」
「誓
緒索
」
「勧
進帳
」
「月
の緑
」
「吾
住森
野辺
乱菊
」
「春
橘櫓
の栄
」
(一
八六
七)
)
山本重五郎の相版 これより'寛政二年
享和二年
慶応三年明治一年
明治一年明治七年明治七年 森田座'河原時庭ともに'小川半助
(一
七九
〇)
二八
〇二
)
(一
八六
七)
(一
八六
八)
(一
八六
八)
(一
八七
四)
(1
八七
四)
十一月上手和二年(一八〇二)十月 小川半助(長谷川町)
十一月〜慶応1年(1八六五) 小川半助(田所町住所移転)
七月 守田座
九月 中村座
九月 中村座
十月 守田座
十月 守田座
「和漢竺組上燈寵」 杵屋弥十郎守田座合同 「今様百夜車」 丸屋鉄次郎
守田座合同 「松竹梅井筒活分」東金屋新三郎
「木
下蔭
」
小川
半助
正銘
(
田所
町)
「閏
の莱
」
小川
半助
正銘
(
田所
町)
山本重五郎
山本重五郎山本重五郎山本重五郎
山本重五郎版元名なし
版元名なし 伏見屋善六の相版伏見屋善六の相版伊賀屋勘右衛門の相版
③森
田座
・河
原時
庭・
守田
座
*森田座 〜享保十九年(一七三四) 不明
*河原崎座 享保二十年(l七三五)閏三月〜寛保三年(l七四三)十1月不明
*森田座 (延享一年(一七四四)十一月〜天明八年(一七八八))
宝暦十l年(一七六一
明和一年明和二年
明和四年明和七年
明和八年安永一年相版
安永七年安永七年
(一
七六
四)
二七
六五
)
二七
六七
)
(一
七七
〇)
二七七一)
(一
七七
二)
(一
七七
八)
(一
七七
八)
) 〜宝暦十二年二七六二) 和泉屋権四郎二月「鐘桜黄昏姿」 金井半兵衛・伊勢屋舌十郎の相版十1月「染分鞍馬昔巴金井半兵衛・大坂屋喜右衛門の相版十一月「丹前雪見月」 金井半兵衛・伊勢屋吉十郎の相版
1月
、十
1月
金
井新
兵衛
(単
独)
九月「菊八重七人化粧」 磯田屋(堺町横通人形町)
7月
〜安
永六
年(
1七
七七
)
八月
金
井半
兵衛
・上
村青
石衛
門の
七月 金井半兵衛・千本藤七の相版十一月〜天明二年(1七八二) 三月 金井半兵衛・本屋儀兵衛の
草 * 4 」
" r 塵
喜 . . . 宵 * ‑ ョ 蝣 * : 蝣 蝣 ; )
tl 〜..̲、
A‑2 「英執着獅子」稽古本。本屋儀兵衛(江戸橋四日市)版。
上下二冊本の上の表紙 A‑1のいがや版とよく似ているが、
「中村座」ではなく「中村」としている。本屋儀兵衛の活動 時期は、安永6年(1777)から天明2年(1782)まで確認。
El立苦楽大学附属図番館竹内文庫所蔵本O
A‑4 「英執着獅子」稽古本。森田屋金蔵(神田平永町)版。
一冊本。森田屋金蔵の活動時期は特定できないが、およそ文 化年間1804‑1817 と思われる。中村宮十部の姿絵の 髪型、衣裳などが、上演時のものとは異なる。国立音楽大学 附属図書館竹内文庫所蔵本。
A‑1 「英執着獅子」宝暦4年(1754) 3月中村座。上 演時の正本(推定)。いがや(元はま町)版。上下二冊本 の上の蓑就.早稲田大学演劇博物館安田文庫所蔵本。 (イ
ll‑1212‑3
A‑3 「英執着獅子」稽古本O雷土屋小十郎(ふき屋町か し通り)版。一冊本。富士屋小十郎は、天明4年(1784) 11月から文化10年(1813)まで活動を確認。演奏者連 名が省略されている。国立音楽大学附属図書館竹内文庫所 蔵本。
‑ m ‑ ' ■‑ ‑■ Lm ∴ ‑I
‑ ■
*サ
'
‑蝣
*‑
*五
有患入りと‑‑朝川リー貰急払
登部跡熟
B・2 「五大力」寛政9年(1797) 1月桐座。上演時の正本o 富士屋小十郎、山本重五郎の相版O国立音楽大学附属図書館 竹内文庫所蔵本。
B‑4 「五大力」稽古本。沢村屋利兵衛(さかい丁)版。 8‑3と 同じ沢村屋利兵衛であるが、これはおそらく天保年間(1830
1843)以降と思われるO大名亀、場立、産毛を削り、表紙 の絵の構図が変わる。国立音楽大学附属図書館竹内文庫所蔵 本。沢村屋利兵衛版「五大力」は、これ以外の表紙の稽古本も
B‑1 「五大力」寛政7年(1795) 1月都座。上演時の正 本。桐屋伝左衛門、中嶋屋伊左衛門、沢村崖利兵衛の相版。
国立音楽大学附属図音館竹内文庫所蔵本。
B‑3 「五大力」稽古本。沢村屋利兵衛(さかい丁)版。 8‑1の 寛政7年(1795)都座上演時の大名誼、連名等を記すO版元 の沢村屋利兵衛は、 B‑1の上演暗には相版であったが、この稽 古本では単独名である。出版年代は、およそ文化文政期(1804
蝣1829)頃か。国立音楽大学附属図書館竹内文庫所蔵本.
C‑1 「七枚続花姿絵」文化8年(1811) 3月市村座。上演時の正本。上「猿廻し」、中「老女」、下「汐くみ」の三冊本。福地茂兵衛、胃土屋小十郎、
山本重五郎の三軒相版。国立音楽大学附属図書館竹内文庫所蔵本。
C‑2 「七枚鏡花姿絵」稽古本。上「猿廻し」
と中「老女」を一つの表紙にまとめた二冊本。
版元はC‑1と同じ福地茂兵衛、富士屋小十丘臥 LLl本重五郎の三軒相版O早稲田大学演劇博物館 安田文庫所蔵本. (イ11‑1212‑37)
C‑3 「七枚続花姿絵」稽古本。版元は福地茂 兵衛、富士屋小十部、山本重五郎に伊賀屋勘右 衡門(大伝馬町二丁目)を加えた四軒相版。こ れは、晋土屋小十郎から版木を譲られた伊賀屋 勘右衛門が出版したもの。出版年代は、伊賀屋 の住所から、文政8年(1825)から天保3年 1832)頃と思われる。国立音楽大学附属図書 館竹内文庫所蔵本。