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そして、その最大の目玉が新科目「現代国語」の設置であった

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(1)第3部 高度経済成長期の 高度経済成長期 の 「 国語科」 国語科 」 像 ― 益田勝実国語教育論を 益田勝実国語教育論 を 視座に 視座 に ―. - 102 -.

(2) 第 10 章. 「 現代国語」 現代国語 」 設置による 設置 による高校必修科目二分化 による 高校必修科目二分化の 高校必修科目二分化 の 問題点 ― 益田勝実「 益田勝実 「 現代国語」 現代国語 」 観 の 機能 ―. 第1節. 科目二分化の 科目二分化 の 時代へ 時代 へ. 小中学校の『昭和 33 年版学習指導要領』は、一般に経験主義から能力主義・系統学習 への転換点として捉えられているが、同時に「言語生活主義の一つの到達点」であったと もされている 1。続く 1960(昭和 35)年の高等学校改訂は、小中学校との一貫をはかるた めに行われた。したがって、高等学校においても言語生活主義の国語教育を実現していく ねらいがあった。そして、その最大の目玉が新科目「現代国語」の設置であった。 その背景には高度経済成長下における「基礎学力の向上と科学技術教育の充実」が求め られており、高校の教育課程もそれに見合ったものとして再編され 、「国語科」は「現代 国語 」( 7 単位 )、「古典甲 」( 2 単位 )「古典乙Ⅰ 」( 5 単位 )「古典乙Ⅱ 」( 3 単位)の科目 構成となった。このうち「現代国語」と 、「古典乙Ⅰ」または「古典甲」が必修科目であ る。 このように高校「国語科」が「現代国語」と古典科目の二つに大きく腑分けされる教科 構造をとったのは 、「国語科」史上初の試みであり、画期的な教育課程の出現であった。 そして、この二分化の構造は 、「国語Ⅰ 」「国語Ⅱ」が登場する昭和 53( 1978)年の改訂 まで継続することになる。 しかし、その問題点はこれまでのところ十分に検討されてはいない 。「現代国語」とい う科目がなくなった今日においても、高校「国語科」には根強くこの二分化のイメージが 定着している。あらためて「現代国語」と「古典」科目との二分化という教科構造上の問 題点について検討する必要があろう。 そのためのいわば分光器として 、「現代国語」に対する益田勝実の批判的言説や教科書 編集・教材化の営みを具体的に取り上げていく。後にみるように、益田は当初から二分化 に対して批判的であった。また筑摩書房の教科書編集を通じて独自の「現代国語」論を実 践していった人物であり、現場へ与えた影響も少なくなかった。では、益田はなぜ二分化 を批判したのか。その観点と論理はどのようなものであったのか。それらを明らかにしな がら考察を進めていく。 第2節. 「 現代国語」 現代国語 」 の 新設とその 新設 とその批判 とその 批判. 1 .「現代国語」への批判 先行研究によると、この 35 年改訂に対しては「現代国語」の設置自体よりも、コース 別の教育課程編成を可能とするために弾力化された「古典」の単位数をめぐっての批判が 多く寄せられた 2。 また 、「 昭和 31 年版 」に引き続いての学習指導要領委員長であった時枝誠記は 、昭和 37 年に行った講演で「 現代国語 」新設に寄せられた批判的意見を二点に分けて紹介している 。 それは、第一に「文学教育を軽くみて、言語技術教育に偏している」という批判、第二. - 103 -.

(3) に「国語科における人間形成を否定するものである」という批判である 。「現代国語」の 内容は 、「現代文および話し方、作文を中心とし、文学的な内容だけに片寄ることなく、 論理的な表現や理解を重んじること」とあるように、言語文化の現代的分野のみを対象と しているのではなく、小中学校の延長・発展としての「言語生活の向上」をも目指してお り、その両者の調和が求められていた。そのうち、特に後者のクローズアップに対して批 判が強かったというわけである。 これらに対する反論として、時枝は言語過程説に基づく国語教育観、および言語生活史 の研究との接点から「現代国語」批判への反論を展開している 3 。言語を形式と内容に分 離し、二元的に捉えるのではなく、表現や理解の行為そのもの、それら行為の機能として みる言語観に基づく時枝の国語教育観が 、 「 現代国語 」新設の基盤にあった 。したがって 、 たとえば文学教育等の内容教育が人間形成につながるという考え方を退け、言語能力の習 慣化のための技術の獲得がすなわち言語の獲得であり、また人間形成につながるという一 元的な把握を時枝は行っていたのである。 また、時枝は、高校「国語科」の教育内容を時間軸上の分離によって「現代国語」を科 目として独立させたことの根拠について「現代国語が現代生活に対して、単に文学的、教 養的な面において、あるいは趣味的な面において交渉するだけでなく、全面的に現代生活 を成り立たせる重要な機能を持っていることを認めるならば、古典教育とは別の意味にお いて現代国語の重要性が認められなければならないことは当然である」と説明し、言語の 社会的な機能、主として表現活動を考えたときの必然であることを強調している 4。 しかし 、「現代国語」に対する批判には次のようなものもあった。 2 .〈「 現代国語」/「古典」科目〉二分化への批判 次の引用は 、 1960 年代の古典教育をめぐるシンポジウムでの 、 ある発言の一節である 。 近代・現代の文学の教育がどういうように高等学校で行われるかという点が明らか でないために、逆に古典の、文学中心の教育というものが浮いてしまっている。今日 の近代・現代の文学伝統ないしは文学環境ととっくもうとする学習者の主体性をのば して、そのまま古典にとっくんでいけるような、相互流通関係が 、「総合国語」の段 階にはまだ保証されていたのですけれども、今はなくなっているのではないかという 点が一つ心配ですし、現場での不便でもあるわけです。 5 すなわち「現代国語」の新設は、裏を返せば「古典」の切り離しでもある。この両者の 「 相互流通関係 」の不在ないし切断という問題点を明確に指摘したのは益田勝実であった 。 では、そこにはどのような問題性があるのだろうか。当時の教科調査官藤井信男によれ ば 、「現代国語」と「古典」科目の関係はあくまでも相補的であり 、「国語科の現代性と いうことは、聞くこと・話すこと・書くこと・読むこと・それぞれの活動が充実するとい うことでありまして、それら全体を含めて言語生活の向上」にあるが、それだけでは「非 常に浅薄なものになり 、発展性のないものとなる 」ので 、一方の「 古典 」科目が「 歴史性 」 を保証し 、「歴史性と現代性というものが、互いに助け合って、国語科を立体化し、奥行 きの深いもの、あるいは、全体として機能的なものにしていく」と説明されている 6 。つ. - 104 -.

(4) まり、両者の交差による「相互流通関係」の機能が前提として期待されていたのである。 しかし、益田の批判点は、切り離したことによる機能不全に向けられている。はからず も藤井が述べた「現代性」だけでは「浅薄なもの」になるという「現代国語」成立の根拠 に対する疑念である。また、現代と切断し、言語文化の独自領域となった古典教育の「原 典主義」による文法・語釈・現代語訳に傾斜していくことへの危惧である 7 。つまり、益 田にとっては、切り離したりつなげたりすることができないものとして「ことばの教育」 が想定されているのである。 換言すれば 、益田は「 現代国語 」の中にも「 歴史性 」を見ていたのでり 、また「 現代性 」 と切り離されたところに古典教育は成立しないという古典観をもっていた。 「古典」という固定したものがわれわれ以前にあるわけではなく、われわれの方が われわれ以前に強く求めていくから、古典が発見されるのである。したがって、文学 の古典は前近代の文学とはかぎらない 。こちら側の現代意識によって 、近代の中でも 、 古典は次々と発見されるし、前近代の文学作品でも、現代人の生命力を強く更新しえ ないものは、古典ではありえない。 8 渡辺春美は、こうした益田の古典観を「ア、古典は、ことばの芸術である。/イ、古典 は、主体的に、ことばの契機をとおし、文学として機能させることで、現代を生き抜き、 未来を開拓するエネルギーを得る時出現する 、関係概念・機能概念である 。/ウ 、古典は 、 主体的な関わりを介して 、出現し 、文化伝統の形成に強力に参加する 。」の三点に整理し 、 その古典教育論の特徴を浮かび上がらせている。詳しくは章をあらためて検討するが、益 田の考える古典とは、ことばの芸術であり読み手の主体的な関わりによって出現する関係 概念である。こうした古典観は 、「内言」を豊かにする古典教育論として、戦後古典教育 史における独自の位置を占めるものとなった。ただし、益田のいう「内言」とは、思考を 含む言語活動の根幹を支えるものである。益田は古典や文学教材を、その「内言」を育て るための主な武器とした 9。 当時、定時制高校の教師であった益田の実践者としての嗅覚は、このような必修科目分 化が、現実的にことばの「現代性」も「歴史性」も形式的で中身の薄いものにしてしまい かねない危惧を嗅ぎ取っていたのである。 以下、そうした益田の「現代国語」観を、氏が編集に関わった筑摩書房教科書『現代国 語』の特徴に着目しながら明らかにしていく。 第3節. 益田勝実の 益田勝実 の 「 現代国語」 現代国語 」 観. 1.益田勝実と国語教育 初期益田の国語教育に対する発言は 、きわめてラディカルな趣を持ったものであった 。 10. 1952 (昭和 27 )年 10 月、益田は、新学習指導要領の言語生活主義とともに、文学を言語 としての面からのみ把握する時枝誠記、その双方への批判を行った上で 、「話す、聴く、 読む、書く」という言語教育を 、「考え、感じとり、新しい精神文化を創り出す」方向へ と延長する人間形成の国語教育を唱えた. 11. 。これは、日本文学協会の第7回大会、はじめ. - 105 -.

(5) て国語教育の部を設けたときのことである 。 それは、時代・社会状況と対峙し、現実変. 年 年齢 論文等 1953(昭28) 30歳 「文学教育の問題点」 1955(昭30) 32歳 「しあわせをつくり出す国語教育 について(一)(二)」 1958(昭33) 35歳 筑摩書房教科書編集員として参画 1961(昭36) 38歳 「一つの試み」 1966(昭41) 43歳 法政大学着任(助教授) 1979(昭54) 56歳 「〈 内なることばの国〉建設のた めに」 1981(昭56) 58歳 「古典教育とよばれるもの」 1989(平1) 65歳 法政大学退職 表.1 益田勝実略年譜. て次第に独自の深化を遂げていく. 12. 革に向けて文学を機能させようとする、あ る激しさを持った文学教育論であった。1950 年代までの発言には、文学の機能に対する 過剰なまでの信頼と、現実変革に直結させ ようとする性急さが滲み出ている 。しかし 、 1960 年 代初頭からはそうした自己の国語教 育論を相対化し、反省的に捉え直そうとし. 。そしてその数年前から、西尾実を介して筑摩書房の. 教科書編集委員を務めることになる。常に学習指導要領には批判的だった益田にとって、 検定教科書の編集は矛盾を抱えた仕事であったが、その矛盾が独特の教科書作りに繋がっ ていった。 しかし、 1981(昭和 56)年を境に、益田は国語教育への公的な発言をやめ、教科書編 集からも手を引くことになる。再び総合時代を迎える『国語Ⅰ 』『国語Ⅱ』の教科書奥付 に、益田勝実の署名はない。 2.教科書編集者としての活動 益田の教科書編集に関する先行研究には 、同じ編集委員を務めた鈴木醇爾の論文がある 。 益田さんは、教科書編集を、単に営利事業と考えず、編集委員会総体がうちだす新 しい国語科教育運動を担うものと考えていた。教科書が、いつも戦後国語科教育その ものの展開にとって、有効な触媒であることを、求めつづけていた。その戦後国語科 教育のイメージでは、検定制は不要のものであり、学習指導要領が、学習内容につい て拘束力を持つことにも反対なのであった。教科書がよって立つこれら制度に反対で ありながら、その教科書を、新しい教育運動の媒材とすることを模索する、という自 己矛盾を、益田さんは激しく生きた。. 13. 鈴木によれば、益田提案によって教材化されたものには、菊村到「原子の火ともる 」、 森鴎外「舞姫 」、柳田国男「椿は春の木 」「清光館哀史 」、宮本常一「梶田富五郎翁を訪ね て 」、アルセニエフ「ウスリー紀行 」、ヴァンデルポスト「カラハリの失われた世界 」、宮 地伝三郎「アユの生活 」、坂田昌一「科学の現代的性格 」、坂口安吾「ラムネ氏のこと 」、 井伏鱒二「黒い雨 」、吉田満「戦艦大和の最期」等がある(「 古典」教材は除く )。後にみ るように、こうした多彩な教材発掘は検定教科書の編集や「現代国語」の新設という、益 田にとってみれば矛盾の渦の中に身を置くことでなされた、その克服と掴み直しの跡でも ある。特に、 1966 年に職場を大学に移してからは国語教育に関する活躍の場は教科書編 集が中心となる 。 「 自己矛盾 」を生きながらの「 運動 」は 、国語教科書づくりに向けられ 、 特に筑摩書房のPR誌『国語通信』で編集方針の解説や持論の展開などを旺盛に行ってい った。. - 106 -.

(6) 3 .『国語通信』にみられる「現代国語」観 益田国語教育論の転機となる 1960 年代以降、すなわち「現代国語」設置以降、活躍の 主な舞台の一つとなったのが『国語通信』であった. 14. 。筑摩書房国語教科書PR誌という. メディアの中で、独自の、また幅の広い国語教育論を展開し、奮闘する益田の姿を垣間見 ることができる。初登場の第 8 号( 1957.12 )から第 231 号( 1980.11)まで、延べ登場回 数 88 回を数え 、その内訳は座談会等 47 本( 53.4 % )、論文等単独署名記事 41 本( 46.6 % ) となっている。座談会等では司会役を兼ねることも多く、鋭い問題提起と出席者の個性を 引き出す巧妙さが特徴 的である 。 高校現場を離れて以後 、『国語通信』という媒体は、益 田にとって現場との接点をつくるための主たる実践の場であったといえよう。 では、益田の「現代国語」観とはどのようなものだったのか。述べてきたように、新科 目「現代国語」は益田にとって批判的対象であった。しかし同時期に益田は、それまでの 自己の教育実践を反省的に捉え返しながら 、「〈 考える国語教育 〉」のための体系的な指導 を構想し 、「思考力」の育成に焦点をあてた具体的指導の提案を行ってもいる. 15. 。この点. は学習指導要領のねらいとも一致し、内発的な教育実践意識が基盤にあったことがうかが える。その上で、益田は筑摩書房『現代国語』の編集の過程で、自身の「現代国語」観を 深めていったと思われる。以下 、『国語通信』所載の記事から 、「現代国語」観をうかが い知ることができる発言を年代順に挙げる。 ⅰ 「そ れから『現代 国語』で、 今までよりもっと、文学とかそういうものよりも、 論理 的な文章がど んどん読め て、現代的に思考を深く進めていく人間を作らなけ ればいけないということがかけ声として出ているのですけれども 、(中略)しかし 今日 の言葉を教え るというこ とだけで用が足りるかどうか、日常の中でいつもい つも 障害にぶつか りながら、 教師としてのぼくらは感じているわけです。ところ がわ れわれに『現 代国語』を 教えろという側には、そういう懸念みたいなものは まるでないということです 。(中略)学校教育という場を〈民族の言葉を鍛えると いう 場〉として考 えるという ようなものはないんじゃないか、という心配がある わけです 。」( 座談会 「 考えることと感じること- 〈 現代国語 〉 論- 」『 国語通信 』、 1963.4) ⅱ 「ほ んとうに『現 代国語』で 困るのは、今年から『古典』は『古典』で切り離さ れて 、『現代国語』は現代のことばで書かれた文章を対象としてやっていくという こと になったこと で、その困 り方の内容は複雑だと思うんですけれども、現代の 文章 も読めばわか るものとい うものから、柳田国男の『清光館哀史』なんかのく めども尽きせぬというものがあって 、(後略 )」(座談会「『 現代国語』三ヶ月 」『国 語通信 』、 1963-6 ) ⅲ 「強く国語の現状に拘泥する、ということは、今日の国語の内蔵する矛盾を深く悩 み、 国語の新しい 創造のため に実際に泥にまみれていく、ということである。国 語を 作り変えてき た過去の歴 史を受け継ごう、とすることである。コミュニケー ショ ンをごく表層 で捉えた言 語生活教育主義が西欧的近代化ルートであるのは、 それ がアメリカか ら輸入され たからだけではなく、口と耳とをつなぐコミュニケ. - 107 -.

(7) ーシ ョンとして、 口からこと ばが出るまで、耳からのことばが体内に残っていく こと を重視してい ないからで ある。個々人のことばの意味概念を深めたり、ひろ げた りすること、 個々人のこ とばの構造・機能を変革していくこと、内から外へ のこ とばの成長・ 発展コース を重んじないで、また、それが民族のことばを新し くし ていく営みで あることも 信じなくて、外的なコミュニケーションの便宜を主 としている点が、問題なのである。」(「 現代国語の必要とするナショナルなもの (一 )」『国語通信 』、 1967.3) ⅳ 「『 現代国語』という科目が新設された時、わたしたちは鴎外の文語文の小説『舞 姫』を教材とした 。『舞姫』はこんにちでこそ教科書古典化しているが、それは一 つの通俗的『現代国語』観への抵抗であった 。〈明治百年〉というあの鳴り物入り の歴 史把握には同 調できない が、近代百年の日本人の苦悩・葛藤の連続を抜きに したところで 、〈現代〉を捉え 、『現代国語』の『現代』に代入する考えには賛同 しがたい 。」(「 文章の教育 」『国語通信 』、 1967.7-8) ⅴ 「『 現代国語』でわたしたちが教えるべき内容は固定したものであるはずがない。 (中略 )『現代国語』の内容は、わたしたちがたえず作り出し、作り変えていかね ばならない 。(中略)既成通行の『現代国語』に第一に欠けてしまったのは、学習 者に 、 国語を 、 しっかりしたひとつのことばの構造体だとイメージさせるような 、 国語内部の有機的連関性を教えることである 。」(「『 現代国語』の発展(一 )」『国 語通信 』、 1969-4 ) ⅵ 「『 現代国語』の『現代』の意味を、近代百年の言語的格闘時代の意味に、真に時 間を 押しひろげ、 一見すでに 古めかしいかに見える、五十年、八十年まえの文章 につ きあい馴れる 必要がある ことは、まえに言いました。同じ『現代』を、一九 七〇 年代の現時点 の、多様な 日本人の言語的発明苦心に空間的に押し広げる必要 があ るとも、すで に言いまし たけれども、若い学習者たちとわれわれ自身の教育 の環 境、体制化し 、慣習化し ているところの、多くの自己の分身と、あらためて 向き合ってみなければならないように思います 。」(「 なにが国語教育か 」『国語通 信 』、 1974.9) ⅶ 「こ の『現代国語 』を、わた したちは、高校国語教育をめぐる大状況から目をそ らさ ずに、しかも 、大状況に 溺れ込んでしまわないように、懸命に編んできた。 ( 中略 )わたしたちは 、 〈 全入 〉状況に迎合して 、一途にレベル・ダウンに荷担し 、 民族百年の計からみて総白痴化を促進するようなことは、断じてしたくない 。(中 略)その中で『日本語を考える』などは 、〈全入〉状況に対応し、レベル・ダウン と逆 方向に突出し ていく手が かりの教材た りうるのではないか - ひとつのわた したちの基準としたい、と密かに決意しているものである 。」(「 高校国語教育の分 岐点で 」『国語通信 』、 1976.5 ) 以上の発言からは、概ね次のような「現代国語」観をうかがい知ることができよう。 第一に 、「古典」と切り離された「現代国語」は、表層的、外的なコミュニケーション の教育になっていくということ。本来両者は切り離すことはできない一体のものであり、. - 108 -.

(8) したがって、相互の連関をはかる必要があること。 第二に 、「現代国語」の概念を拡張して捉えること。まずは 、「現代」を「近代百年」 という歴史的連続の中で捉え拡張して考えること。そしてまた、歴史性のみならず、同時 代の多様な言語的取り組みを広く視野に入れて掴み直すこと。 第三に、表層的なコミュニケーションの教育から、内なることばを深め、鍛え直してい く教育に読み替えていくこと。 このような「現代国語」観をもつ益田の教科書編集への関わり方の特徴を、次にみてい くこととする。 第4節. 筑摩書房『 筑摩書房 『 現代国語』 現代国語 』 の 特性. 1.編集意図 戦後の検定教科書を編集や作成に携わったある特定の個人の著作物とみることは正しく ない。言うまでもなく、それは、編集会議の合議として形成されるものであり、また採択 のための戦略や各会社の個別の事情などもふまえて作られるものだからである。しかも、 筑摩書房『現代国語』の代表著者は西尾実であり、次にみるとおりその編集方針には、西 尾の言語生活論が色濃く反映していることは論をまたない。しかし、その上でなお、益田 の関与による教科書としての特性を見ることができる。 『現代国語1. 学習指導の研究』の冒頭に示された西尾実署名の「『 現代国語』の学習. 指導について」には、次のように端的に編集方針が述べられている。 「現代国語」は、言語生活における専門的発達領域としての言語文化の理解と創造 を根幹として学習者の言語生活の向上を図ろうとする点で、小・中学校における日常 生活としての言語生活の向上を飛躍的に前進させなくてはならない。と同時に、大学 の一般教育における「文学」などのような、学習者の国語教育の完成としての言語文 化の創造力(共同研究における討議、および記録・報告、並びに論文の作成)の育成 陶冶の準備たらしめなくてはならない。 これまでの高等学校の国語教育が、文学に偏し、したがって、古典文学への学習に 傾倒しがちであったのと違って、これからの国語教育は、文学・評論はもとより、宗 教・哲学・芸術・科学などのあらゆる言語文化の各ジャンルに渡って、まず理解力と 批判力をしっかり身につけさせるとともに 、そういう問題についての話し合いができ 、 報告書や感想・意見などが書ける文章力を得させなくてはならない。 この『現代国語』は、以上のような方針をもって編成し、しかも、民主社会を実現 し、民族文化を創造することのできるような人間像の造型を立場として、教材を選択 し、配列してある(下線部―引用者 )。. 16. いうまでもなく西尾の「言語生活」は「言語文化」を包括したものであり、対立概念で はない。小中学校の発展段階としての「言語生活の向上」と、飛躍的に増大した大学進学 率を背景に、大学教育との接点をも視野に含めて構想されている。これは、科目設置の趣 旨にも合致した編集方針であるといえよう。しかし、下線を施した引用文最終段落におけ. - 109 -.

(9) る「しかも」以下の一文は、それまでの叙述内容からは明らかに飛躍がある。具体的に言 えば、さまざまなジャンルの言語文化の「理解力と批判力」の育成、および話し合いや報 告書・意見文を書く力の育成と 、「民主社会を実現し、民族文化を創造することのできる ような人間像の造型」との間には、ある距離感が介在する。だが、そこに示された人間教 育の「立場」こそ、先にみた益田の「現代国語」観と合致するものであり、こうした視座 からの教材発掘こそ、益田の関与による筑摩『現代国語』の特性の在処といえる。 2 .『国語 『国語. 高等学校用総合』との比較 高等学校用総合』から『現代国語』への移行は、単に古典教材を取り除いただ. けではない。 そのまま引き継がれている旧教材も『現代国語一』に限ってみると「誕生日を迎えた娘 に 」「夕づる 」「昆虫の本能」と決して多くはないことがわかる。また、当然のことなが ら「従来とかく古文の指導に片寄りがちであった弊を改め 」、「自己の思想を明確に表現 し、伝達するための作文教育を重視する 」(学習指導要領解説)という科目設置の趣旨に 見合うように言語生活関連の単元が大幅に増えている。ここまでは各社に見られる傾向で ある。益田の「現代国語」観が反映されているのは、なんといっても「梶田富五郎翁を訪 ねて 」「清光館哀史」といった民俗学から発掘した新教材であろう。先に述べたとおり、 益田の教材発掘は多方面にわたるが、とりわけ益田の専門研究領域との関連からみても、 これらの教材化には、益田の「現代国語」観が色濃く反映しているといってよいだろう。 3.教材化という実践 1963(昭和 38 )年から発行された同社『現代国語 』(一~三)には、各巻冒頭の口絵に続 いて「学習の計画」が付されている。これは縦軸に「学習の流れ 」「単元と資料 」「おも な学習の目標」の項目をとり、横軸に、単元・教材毎の解説が述べられた一覧表である。 これを見ると 、「聞くこと 」「話すこと 」「読むこと 」「書くこと」の各言語活動形態に応 じた単元構成・配列が丁寧になされていることがわかる。特に「おもな学習の目標」は技 能に焦点をあてた記述となっている。例えば 、『現代国語一』の「三、ことばの生活」は 「1.文章を段落に分け、段落の中の文と文とのつながり方を的確にとらえる。/2.文 章の内容の展開のあとを、簡単なことばや記号ではっきり説明できるようにする。/3. 人間とことばの関係を理解し、ことばの本質や価値について理解する。/4.ことばの生 活のすがた、ありかたについて、おおまかな見通しを持つ 。」とある。 ここで注目しておきたいのは、そうした言語生活主義を前面に出し、技能中心の目標観 に立脚しながらも、教材によってはそうした目標観にはおさまりきらない広がりと力を持 つものがあるという点である。例えば、同じ1学年用の「四、対談」には益田が発掘した 新教材「梶田富五郎翁を尋ねて」がある。これは宮本常一の民俗学への導入であり 、「民 族のことば 」との 、日常とは異なる出会いを期した教材である 。同様に 、3学年用の「 一 、 随想」にある「清光館哀史」も「学習の計画」に示された目標を超えて、民衆の「生活」 の深層を照射することばの在処を指し示している。とりわけこの単元では成立の時点を異 にする「浜の月夜」と「清光館哀史」とを組み合わせて教材文としている点に独自の工夫 がみられる 。これらの教材化の意図を、益田は次のように述べている。 17. - 110 -.

(10) わたしたちの教科書は、誤って〈反近代主義〉と識別されたことのある柳田国男の 「 清光館哀史 」や 、その影響に育った宮本常一の「 梶田富五郎翁を尋ねて 」のような 、 民俗的教材を尊重している 。(中略)民俗的なもの、日本の根生いの民衆生活を掘り 起こすもの、在地の日本人の思想・感情・言語を相手どらなくて、どうして国語の土 壌を耕すことができようか。. 18. すなわちこれらの単元は、先に述べたように「理解力と批判力」の育成を超えて 、「民 主社会を実現し、民族文化を創造する」人間形成を強力に志向している教材化の営みであ る。また、こうした教材発掘は、次のような益田の国語教育観に基づく必然であった。 ことばは体内に蓄えられなくては 、水源涵養林を失った河川のように痩せ細ります 。 こうしたことばの土壌・ことばの養分としての各人が保有する内言群のことを考えれ ば、明治以降の近代のことばの歴史の諸段階のすぐれた文章にふんだんに接触させる ことこそ、第一の喫緊の要務なのです。近代を浅く狭く捉えないで、古典もまず近代 のなかにおいて多様に発掘すべきものではないでしょうか。. 19. すなわち、これらは「現代国語」における「古典」の位置を占める教材であった。また 言語文化を時間軸で截然と二分化したことによって失われた「相互流通関係」を確保し、 学習者の内側のことばを鍛えようとする益田の批判的実践意識による教材化の試みであっ たといえよう。 第5節. 必修科目二分化の 必修科目二分化 の 問題点 - 益田勝実「 益田勝実 「 現代国語」 現代国語 」 観 の 実質的機能. 益田が捉えた「現代国語」と「古典」科目との分化の問題点は、両者を截然と切り離す ことによる「相互流通関係」の喪失であり、その結果、ことばの学習の形式化、古典学習 の空洞化を招来するという危惧にあった。そうした問題意識から益田は『現代国語』の教 科書編集に果敢に関わり独自の教材化を推し進めていった。 だが、益田の言説や取り組みは、その意図とは別に、一方で言語生活的領域の学習指導 を形式的な技術指導として軽視する現場の意識と響き合い、現在にまで及ぶ読解指導中心 の「現代文 」「古典」の「国語科」という強固なイメージ形成に結果として貢献する役割 を果たした側面も持っていた。新科目「現代国語」の登場は、高校国語教師にとっては、 文学や古典のみを扱うという自明の前提を崩し、戦後十数年に及ぶ小中「国語科」の成果 を取り入れながら教科構造を検討しなければならなくなった時期の試みとして必然性を持 っていた。しかし、同じ科目・教科書の中で文学作品や各種評論等の言語文化的領域と実 用的・日常的な言語生活的領域とを同居させれば、実践の経験知が低く、指導方法が難し い言語生活系の単元・教材は実質的に淘汰されてしまう。高校現場では、そうした単元へ の苦手意識や、その裏返しでもある軽視・蔑視が依然として根強かったからである 。 20. また、古典を切り離したことで、言語文化の扱いに位相の異なる領域としての意識をも たらした。益田は常々古典教育はその本質が「古典文学教育」でなければならないと主張. - 111 -.

(11) し 、「現代国語」との切り離しによって現場が語釈や現代語訳指導にますます傾斜してい くことを危惧したように、結果的に二分化は学習者にとって古典学習をますます遠いもの にし、古典嫌いを加速させることにつながったとも言える 。「現代国語」登場以前、 1950 年代の国語教科書では古典教材も現代の文章と併置されて単元化されることは決して希な ことではなかった 。 21. したがって 、〈「 現国」/「古典」科目〉の二分化の問題点とは、すなわち次の二点に 集約できる。第一に、実用的な言語生活的領域は十分に理解されず、技術的なものとして 軽視され、現場の実践からは消去されていった。第二に 、「現代国語」と「古典」科目は 両者の連関のないまま、それぞれが別個の領域として、読解指導だけが現場の実践で中心 化していった。 その後、昭和 53 年改訂で「国語Ⅰ 」「国語Ⅱ」が登場し、選択科目として別途「国語表 現 」やその後の「 現代語 」が設定される時代になっても 、現場の意識には根強く「 国語科 」 とは〈現国/古典〉の読解練習であるという「枠組み」が温存され、それ以外の領域は消 去されていったといえる 。そのような意識構造の形成に 、約 20 年間にわたる「 現代国語 」 が果たした役割を軽視することはできない。こうした意識構造の形成は、大学受験の一般 化に伴う入試問題への対応といった外在的な理由によるものだけでなく、国語教育実践者 の思考傾向、とりわけ教科構造論の欠如とも抜きがたく関わっていよう。 益田の「現代国語」観は、一方で実用的なレベルでの言語生活教育が行われるとき、そ れを相対化する機能をもっている。そのとき、自己のことばを深め、鍛え直していくとい う教育観が力を発揮する。しかし、そうした反措定を欠いたまま一方が強調されたとき、 その真意は果たしてどれだけ理解され、そしてまた実践されるのか。後年、はからずも益 田は現場の保守性への恨みごとを口にすることになる。それは、 1981(昭和 56)年、益 田の国語教育に対する発言としては最後となる座談会. 22. においてであった。. 言語生活的領域の学習指導が高校「国語科」内部に明確に位置付き、それとの照応関係 として「思考力」や「認識力」を育てる「内なることば」の教育が実践されるとき、益田 が葛藤の中から描いた「現代国語」観が力を発揮していくだろう。そのためにはまた古典 を言語文化の中の特殊なものとせず、現代につながりその土台をつくっている連続体とし て接合し直し 、現代語訳に埋没していく教室の実態から解放していくことが不可欠となる 。 そのときこそ総体として豊かな「国語科」が構築されていくといえよう。 注 1. 田近洵一「国語科教育課程史上の転換点―『読む』の教育を中心に― 」(『 国語教育 史』第1号、 国語教育史学会、 2002.3 )、 79 頁. 2. 斉藤義光『高校国語教育史 』(教育出版センター、 1991.5)参照。. 3. 時枝誠記「言語生活史の研究と『現代国語 』」(『 教室の窓』東京書籍、 1963.1)、ただ し引用は『時枝誠記国語教育論集Ⅰ 』(明治図書、 1984) 290 頁. 4. 「『 現代国語』の意義 」(『 高等学校国語教育実践講座第二巻. 聞くこと話すことの指. 導と実践 』学燈社 、1962)、ただし引用は浜本純逸編『 現代国語教育論集成時枝誠記 』 (明治図書、 1989) 332 頁 5. 「シンポジウム. 古典教材は現状でいいか 」(『 言語と文芸 』、 1965.7 ) 66 頁. - 112 -.

(12) 6. 討論座談会「国語教育における古典と現代 」(『 言語と文芸 』、 1963.1 ) 4 頁. 7. 注6. の引用した発 言の後に「 私は古典教育における今までの教材は、現代人が日 本の民 族古典に体当 たりして読 んだものが、いくつかあり、それを参考にしながら 原典に近づこうとする姿勢を持ったところにとてもいい特色があったと思うのです 。 それか 今度なくなっ て原典主義 になったところにやはり問題がある」と批判してい る。. 8. 「古典文学教育で今なにが問題なのか 」(『 季刊文芸教育』明治図書、 1975.4) 11 頁. 9. 渡辺春美『 戦後古典教育論の研究―時枝誠記・荒木繁・益田勝実三氏を中心に― 』 (渓 水社、 2004.3)参照。. 10. この時期の益田については、浜本純逸(『 戦後文学教育方法論史』明治図書、 1978) や田近洵一(『 戦後国語教育問題史』大修館書店、 1991)の論及がある。. 11. 「文学教育の問題点 」(『 日本文学の伝統と創造』岩波書店、 1953.5). 12. こ うした 益田 の国 語教育 観の変遷につ いては. 拙稿「益田 勝実国語教育 論の軌跡―. 文学教育における『戦後』― 」(『 日本文學誌要』法政大学国文学会、 2003.3)参照。 13. 「益田勝実教科書編集の歩み 」(『 日本文学 』、 1991.8) 45 頁. 14. 筑摩書房熊沢敏之現編集局長によれば 1960 ~ 70 年代の発行部数は約2万部とのこと である。. 15. 「一つの試み―十年目の報告― 」(『 日本文学』 1961 年8月)で、益田は十年間にわ たる定時制高校での実践を振り返り 、「実に無方策・無体系なやり方」であったと自 己批判を展開し「国語そのものの〈ことばの持つ考える機能 〉〈ことばの考えていく 生きた 力〉に即して 、国語教育 を展開する必要がある」と、今後進むべき方向性を 見定めた上で 、 自己の課題の焦点として 「 思考力 」 育成の体系的な指導の一端を 「 一 つの試み」として打ち出している。. 16. 西尾実「『 現代国語 』の学習指導について 」 (『 現代国語一学習指導の研究 』筑摩書房 、 1964) 2 頁. 17. 述 べたと おり 、こ れらの 教材化は益田 の「現代 国語」論の 特質を端的に 示すもので あるので、別稿を用意してある。. 18 19. 「現代国語の必要とするナショナルなもの(一 )」(『国語通信 』、 1967.3) 3 頁 「近代の厚みを再認識することが先決」(『 教育科学国語教育』明治図書、 1967.9 ) 7-8 頁. 20. 例えば、 1961 年に実施された「現代国語」に関する現場へのアンケート(『 國文學』 第六巻第二号、 1961.1 ) では 、「聞くこと・話すこと」の領域で「具体的にどんな教 材でど のように指導 したらよい でしょうか」という質問に対する、次のような現場 からの回答が紹介されている 。「話し合いができるという根底に、人間ができている ということがなくてはならない 」「読書論・芸術論・文学論・人生論等につき、先人 の著作 を読みそれを 出発点とし て各自の見解を開陳しあう」とする教養主義的な立 場に立 つもの。一方 で指導方法 については「日常の授業の際、たえず質疑応答など の機会をとらえて一人一人について言語発表の仕方の不備を指摘する 」「活用出来る ものを 教科書の中に とり入れて ほしい」等と、具体的なビジョンや明確な自信のな. - 113 -.

(13) い発言が目立つ。 21. いくつか例をあげる。好学社『高等文学一上 』( 1952)では「一. 詩と人生」の単元. におい て「春の朝. 伊勢物語/文学の. おもしろさ. ブラウニン グ/雀と人生. 桑原武夫/千曲川旅情の歌. 編 二 』( 1953)にお ける古典単元 「三 /二 22. 源氏物語. 紫式部/三. 北原白秋/都鳥. 島崎藤村 」。教育図書『高等標準国語文学. 古典 の鑑賞」では 「一. 中古の文化. 枕草 子. 清少納言. 村岡典嗣 」。. 座談会「国語教育への提言 」(『 文学』岩波書店、 1981.9)「私は高等学校教科書をず っとつくってきましたけれども、ここのところで、もう絶望してやめたんです。師 と仰いでいた西尾先生が亡くなられたのを機会にして、一切もうこれから関係しま せん、といって降りたんです。/一つには、文部省の新指導要領では、表現、表現 という けれども、実 際に文章を 書かせてそれを点検する時間については手当をして いない 。 それに対して 、 日教組は七十万人が 、 一日もストを打ちはしない 。 私には 、 そうい うことに対す る現場教師 への不信感がだんだん募っていった、ということが あります 。」. - 114 -.

(14) 第 11 章. 益田勝実「 益田勝実 「 現代国語」 現代国語 」 論 の 特質( 特質 ( 1 ). ― 「 清光館哀史」 清光館哀史 」 教材化の 教材化 の 歴史的意義― 歴史的意義 ― 第1節. 益田勝実による 益田勝実 による「 による 「 清光館哀史」 清光館哀史 」 の 教材化. 前章において、益田勝実の「現代国語」観の特徴を明らかにした。それは次の三点に整 理できる。 第一に 、「古典」と切り離された「現代国語」は、表層的、外的なコミュニケーション の教育になっていくということ。本来両者は切り離すことはできない一体のものであり、 したがって、相互の連関をはかる必要があること。 第二に 、「現代国語」の概念を拡張して捉えること。まずは 、「現代」を「近代百年」 という歴史的連続の中で捉え拡張して考えること。そしてまた、歴史性のみならず、同時 代の多様な言語的取り組みを広く視野に入れて掴み直すこと。 第三に、表層的なコミュニケーションの教育から、自己のことばを深め、鍛え直してい く教育に読み替えていくこと。 益田による「清光館哀史 」(柳田国男)の教材化は、以上のような「現代国語」観に基 づく象徴的実践であったと思われる。本章では、より具体的に単元のねらい・教材観・学 習指導構想等を検討し 、「清光館哀史」教材化の歴史的意義を明らかにしたい。 第2節. 「 清光館哀史」 清光館哀史 」 について. 1.柳田国男における「清光館哀史」の位置 筑摩書房高校国語教科書に約 40 年にわたって採録されている柳田国男の「 清光館哀史 」 は 、「浜の月夜」と「清光館哀史」という二編の文章からなる。 「浜の月夜」は 、「東京朝日新聞」 1920 (大正 9)年 8 月、 9 月に連載された「豆手帖か ら」の最終回。 1928 (昭和 3)年 2 月刊行の『雪国の春 』(岡書院)に収録された 。「清光 館哀史」は 、『文藝春秋』 1926(大正 15)年 10 月に発表され、同じく『雪国の春』に収 録された。 朝日連載の「豆手帖から」は、柳田が貴族院書記官長の官職を辞し、三年間は自由に旅 をさせてもらえるという条件で朝日新聞社の客員となってから、初の大仕事であった。 淋しい三陸海岸の旅の途中 、偶然眼にした盆踊りの光景に 、民衆のエネルギーをみた「 浜 の月夜」から六年後、同じ浜の村を訪れるが 、「私」がそこで発見したものは六年の歳月 にこの村が遭遇した厳しい生活条件との格闘と、それらによる変動であった。そしてその 認識から「私」は盆踊りの唄の意味に思いを馳せ、人びとの踊りの享楽的エネルギーの源 について考えるのであった。旅人としての「私」の見たもの、感じたものが、思考の流れ に沿って展開する随想的紀行文である。 2.最近の「清光館哀史」批判 このいわば日本の中の異文化体験を綴った文章は、しかし近年さまざまな方面から批判. - 115 -.

(15) を受けている。端的にいえば 、「なにヤとやーれ、なにヤとなされのう」という盆踊りの 唄の意味を「要するに何なりともせよかし、どうなりとなさるがよいと、男に向かって呼 びかけた恋の歌である」と「解釈」した柳田の他者理解の問題である。 例えば高橋敏夫は、初出から単行本への本文の異同を詳細に辿りながら 、「長年の謎で あった盆踊りの歌を恋の歌と『解釈』しつつ、南から北まですべての人々を一様に覆いう るという『我々の伝記』を作り上げてしまった特権的な『民俗学者』誕生の物語として、 わたしたちは『清光館哀史』を読むことができる」 1と手厳しい。 また、村上呂里も作品の語り中に潜む「オリエンタリズム」を喝破し 、「この作品を柳 田国男の権威を背景に教材化するとは、そのオリエンタリズムを再び読み手=学習者の内 に再生産することに他ならないのではないだろうか」 2と問題提起をしている。 たしかに現在、民俗学という学問の方法をめぐる問題、柳田の一国民俗学への批判、等 々は、ポストコロニアリズム批評からの格好の的であり、とりわけ「清光館哀史」は、長 年にわたる教科書教材でもあることから批判的問い直しの対象としての注目度も高い 3 。 しかし、1960年代半ば、高等学校新科目「現代国語」の教材として教科書に採録さ れた当時の歴史的な意義は、これら近年の批判を視野に入れつつも、別途の検討を要する だろう。 第3節. 単元のねらいと 単元 のねらいと教材観 のねらいと 教材観. 1.単元のねらい 『昭和 35 年版学習指導要領』を受けて誕生した「現代国語」に対して益田は批判的で あった。それは、古典と切り離すことによって、ことばの歴史性を失い、またことばの現 代性をも痩せ細ったものにしかねないという危惧に基づいた批判であった。 そうした事態を益田は「相互流通関係」の欠如と呼び、自らはまた筑摩書房教科書編集 委員として 、「現代国語」と「古典」との通路を保障した教材発掘、教科書作成に果敢に 取り組んだ。そして益田の発掘した「清光館哀史」は、 1965(昭和 40)年発行『現代国 語. 三』の冒頭単元「一. 随想」に置かれることになる。. 先に述べたとおり、この単元は成立の時点を異にする「浜の月夜」と「清光館哀史」と を組み合わせて教材文としているが、益田はこの単元のねらいを次のように述べている。 二つの文章に盛られている作者の考えには、大きな食い違いさえある。その内容に おいて等質ではないのである。いや、等質でないからこそ、ここにあわせて学習する のである。一つの文章では、かれは民衆のもつ生活享楽のたくましさに驚き、次の文 章では、その苛烈な生活条件の中を生き抜かねばならないゆえの、民衆の求める人間 性解放の願いの切実さに気づいていく。前の素朴な驚嘆は、深く知ることによって、 はるかに複雑な理解へと進まざるをえない 。そういう作者の発見の質的相違は 、また 、 二つの文章の文体の違いにもなっている。 4 こうした教材化の意図を、益田はまた次のようにも述べている。. - 116 -.

(16) わたしたちの教科書は、誤って〈反近代主義〉と識別されたことのある柳田国男の 「 清光館哀史 」や 、その影響に育った宮本常一の「 梶田富五郎翁を尋ねて 」のような 、 民俗的教材を尊重している 。(中略)民俗的なもの、日本の根生いの民衆生活を掘り 起こすもの、在地の日本人の思想・感情・言語を相手どらなくて、どうして国語の土 壌を耕すことができようか。 5 このように 、「清光館哀史」の教材化は 、〈現国/古典〉に二分化された高校国語科の 「相互流通関係」を保障し、学習者のことばの厚みを作り出す国語教育論の実践であった といえる。 2.教材観の特徴 すでに上の引用にも示されているが、益田はあくまでも「浜の月夜」と「清光館哀史」 の二つの文章を併置して教材化することに力点を置いた。そこには、読み手の認識の深化 が期待されていた。 その際、二つの文章をつなぐ「ハマナスの花」という細部の表現に着目し、両者の「発 見」の質的相違を問題にしようとしている。益田は、丁寧に叙述の細部を追いながら書き 手の思考の展開を浮き彫りにする。そして、次のように二編の教材価値をまとめている。 「浜の月夜」は、一言につづめていえば 、〈驚き〉の文章であろう 。(中略 )〈夜の 驚き〉と〈朝の驚き〉が重ね合わされて、都会人士の知らぬ民衆の生命力の躍動に触 れたために呼び醒まされた、問題意識をくっきりと浮かび上がらせている。 だが 、「浜の月夜」の認識が精確なものでなかったことを思い知らされたのが 、『清 光館哀史』である。先に作者が抱いた問題意識はなお一面的であり、皮相であった。 現実にはその奥があったのだ 。『清光館哀史』は単なる後日譚ではない。それは自己 の認識の更新であり、前の文章の書き改めでさえある。 6 つまり、そうした発見や認識の更新に出会うことによって、学習者の認識もあらためら れ、深められていくものとして教材価値が見いだされているのである。 第4節. 学習指導構想の 学習指導構想 の 検討. 益田は、本単元を 、「民衆の生活に対する開眼」を期し、独特の深い思索と発見に読み 手を導いていく密度をもった文章に「〈 読みひたる〉学習」を構想し、具体的には次のよ うな指導計画 7を示している。 なお 、全体は三時限で構成されており 、基本的な学習の観点は 、教材末の「 学習ノート 」 及び「学習の手引き」における各課題を活用している。. 第一時 1. 「 浜 の 月夜」 月夜 」 での発見 での 発見. 本年度の学習のしかたについて 。( 15 分). - 117 -.

(17) 2. 「浜の月夜」を指名して朗読させる。. 3. 「清光館哀史」の同様な朗読。. 4. 「学習ノート」一の予習について、二名に発表させる。 ― それらに内在する問 題点を教師が指摘しておく。. (※「学習ノート」一. この作品を読んで、いちばん印象的であった箇所を一つだけ. 取り上げ、次のように分けて、短い文章にまとめておこう。イ、どこがいちばん心に 残っているか。ロ、それはあなたの心の中に、どんなイメージを思い浮かべさせてい るか。ハ、なぜそれが、あなたの心を引きつけるのだろうか 。) 5. 柳田国男と「豆手帖」の旅について 。(小講義) ― 特に文章の苦心について。. 6. 「学習の手引き」一について、数人に発問。. (※「学習の手引き」一. 「どの娘の顔にも少しの疲れも見えぬのはきついものであ. った 。」とも、筆者 は書いてい る。第一回の旅で筆者が発見して驚いた、北の海べの 村人の生き方は、どういうものだったのか 。) 7. 「浜の月夜」を範読しつつ、鑑賞。. 8. 次時の予習について。. 9. 今時の宿題提出。. ☆家庭での学習 1. 「清光館哀史」を指名した者に、朗読させ、テープに録音させておく。. 2. 「学習ノート」三・四・五の発表分担者を指名、準備させる。三は答えを模造紙 に大きく書いて来て張り出すこと。. 3. 「 学習の手引き 」二・三・四・五を 、一つのグループに命じて 、研究させておく 。 その他の者も、各自で考えておくこと。. 第二時. 「 清光館哀史」 清光館哀史 」 での発見 での 発見. 1. 「清光館哀史」朗読録音の鑑賞。. 2. 「学習の手引き」二の担当グループ発表(と教師のその批評). (※「学習の手引き」二. 「だから誤解の癖ある人々がこれを評して、不当に、運命. のいたずらなどと言うのである 。」 ということばがある 。 では 、 ①いったい 、 ここで 、 筆者はどう考えているのだろうか 。 ②筆者が 、 この小さな漁村の六年間の変化を 、「 運 命のいたずら」と見ないで、こう見ているということが、もっとよくうかがえるとこ ろはないか 。) 3. 「学習ノート」三の担当者発表。. (※「学習ノート」三. 六年後、ふたたび小子内を訪れた筆者は、清光館の没落を知. り、寂しい思いをする。が、筆者がこの第二回目の旅で新しく発見したことはなかっ ただろうか 。) 4. 「学習の手引き」四の担当グループからの発表。 ― 前の「学習ノート」三の発 表と組み合わせて批評。. (※「学習の手引き」四. 筆者は第二回の旅で、北の海べの村の女性たちの生き方に. ついて、前回よりもどのように深くつかむことができた、と思うか 。). - 118 -.

(18) 5. 「学習ノート」四の担当者発表と教師の補正。. (※「学習ノート」四 みよう。. 次のことばの意味するものを、もっとわかりやすく説明して. イ 、「こんな軽い翻弄をあえてして 、」. ロ 、「忘れても忘れきれない常の. 日のさまざまの実験 、」) 6. 同五の担当者発表。. (※「学習ノート」五. 「この晩わたしは八木の宿に帰って来て、……なにかわれわ. れの伝記 の一部分のよ うにも感じ たからである 。」とあるが、①その後の「仮にわれ われが…… 」以下の文章は 、いつ 、どこでの筆者の感慨だろうか 。さらに 、②この「 四 」 の節と、その前後の「三」や「五」の節との続きぐあいは、どうなっているのか 。) 7. 「学習の手引き」五の担当グループからの発表。. (※「学 習の手引き」 五. その村 の女性たちの秘められた生き方は 、「二」で問題に. した北の海べの生活環境と、どういうふうな関係があるだろうか 。) 8. 同三の発表。. (※「学 習の手引き」 三. 「痛み があればこそバルサムは世に存在する 。」とは、ど. ういうことを言おうとしているのだろうか 。) 9. 次時の予定と、そこへの学習の発展のさせ方について注意。. ☆家庭での学習 1. 「学習の手引き」六を各自ノートにやって来る。. 2. 同七を別紙にやって来て、提出する。. 第三時 1. 二つの 二 つの文章 つの 文章の 文章 の 文体について 文体 について. 「学習の手引き」六についてのノートの記載を三名に読み上げてもらう。. (※「学習の手引き」六. 最初にあなたがこの文章に接した時と、学習を終えた今と. 比べて、あなたのこの文章に対する見方は、イ、どんな点が変わってきたか。ロ、ど んな点は変わっていないか 。) 2. 「清光館哀史」を文体中心に教師が鑑賞。. 3. 二つの文章の違いと共通点をめぐってグループごとに話し合い ― その結果を二 箇所発表。 ― 教師の批評。. 4. 自由な文章様式としての随想の意義 。(小講義). 5. 「学習の手引き」七の宿題提出。その中から三つを抽出して、内容を披露する。. (※「学習の手引き」七. この文章の内容と関連して、あなたが今、新しく考えはじ. めていることはないか。あれば、それはどんなことか 。) 6. 次の単元の学習準備について。. 益田は 、第一時で「 学習ノート 」の「 一 」を位置付け 、学習者の初読の印象を大切にし 、 そこから出発しようとしている。 しかし同時に 、 「 この初印象は 、もちろん学習の全期間を通じて尊重したい 、と思うが 、 尊重するとは、それを固守することではない 。『学習の手引き』六は、その見方の変化の. - 119 -.

(19) 自覚を求めている」として、あくまでも読みの深まりを目指して計画が練られているとわ かる。そして、二つの文章の個別の読解に終わるのではなく、第三時における両者の比較 から「学習の手引き 」「七」の課題化を通して 、「民衆の生活への開眼」を目論んだ指導 展開としていることがわかる。 第5節. 「 清光館哀史」 清光館哀史 」 の 実践例. こうした教材化の意図を正面から受け、その精神を生かした現場の実践には次のような ものがある。 1.玉木睦の授業計画 指導書に掲載された山形県の高校教師玉木睦は 、「生徒は一回の読みで、全編に漂うく らい詩情を 、きびしい 、さびしい 、まずしい 、わびしい 、という感覚でとらえる 。しかし 、 肝心の゛哀しい゛という語が少ないのは意外である。これら直感的な形容詞に重さと深さ を付加していくのが授業であろう」として、次のような授業計画を紹介している 8。 一. 一斉黙読. 二. 感想文と疑問の提出. 三. 研究問題の作成. 四. 話し合い. 五. 鑑賞. 「三. 研究問題作成」は、各版ごとに問題を作らせ、それらを集約したプリントをもと. に「四. 話し合い」がなされる。その際、玉木が押さえる読みのポイントは以下の叙述に. 詳しい。 ここで、盆踊りというひとつの現象から、さらに広く民衆がつくりあげてきた文化と 、、 、 いうもの(その裏側に秘められたもの、それを見透す目)へと普遍化していきたい。 作者の透徹した目がこの随想を支えているのであり、この二編を併せ置くゆえんとな っており、また、最初の謎解きの論理でもある 。(中略)現象の奥、表の裏側に目を 向かせることが、この教材のひとつの目的であろうし、教科書からひとりだちして思 考しはじめる現国の好ましい学習のすがたであろう。最後に、作者の推理なり、解釈 が、はたして納得できるものであったかどうかを自由に話し合わせてみたい。批判精 神をもたせて。 玉木の場合も、ねらいは単なる読解ではなく、民衆の文化という「普遍」へ向かう意欲 と深層への読みの志向性におかれている。. - 120 -.

(20) 2.大河原忠蔵の実践 具体的な指導過程は明らかではないが、大河原忠蔵の実践の特徴はなんといっても現地 取材にある。氏の状況認識の文学教育論はよく知られているところだが、この場合も、実 際に小子内へ赴き、現地の光景を写真に収め、唄の肉声を録音するという、そのものの資 料化とそれらを使った授業である点に独自性がある。 しかし、その点を除くと大河原の場合もきわめてオーソドックスな授業であることがう かがえる。 「清光館哀史」の場合は、それ自体が事件の構造を持っている。本文から、事件の 構造を取り出していくのが、授業のねらいになる。それと同時に、わたしが昭和四十 年に小子内に出かけ、そこで取材活動をした話を、一つの事件の形にして、本文にダ ブらせていくことにしている。 9 そして、大河原はその「事件の構造」の核心として「明朝の不安」という表現に着目さ せる。それが「未来」や「将来」の不安ではなく、あくまでも「明朝の不安」であること に学習者の想像力を広げせようとする。その際 、「浜の月夜」と「清光館哀史」の二編に おける「とらえ方の変化」に、目を向けさせる「一つのポイント」があるとしている。 3.住田金三郎の実践 『 国語. 総合 』時代に採録されていた同じ柳田の「 椿は春の木 」以来 、柳田の教材に「 魅. 力」や「やり甲斐」を感じてきたという住田金三郎の学習指導過程は概ね次のようになっ ている 。 10. イ)全編通読. 、、、、、、、、、、、、、 ロ )「浜の月夜」と「清光館哀史」それぞれの「もっとも印象の深かった箇所」の指 摘. ハ )「浜の月夜」の鑑賞 二 )「清光館哀史」の再読 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 ホ )「柳田さんが小子内を再訪して発見したものは何か」の小作文執筆 ヘ )「清光館哀史」の鑑賞と小作文の紹介 二編の読後印象の確認に始まり、それぞれを読み深め 、「発見」の中味を問うていくこ の指導過程は、ほぼ益田のそれと重なるといってよいだろう。 以上みてきたように、三氏の授業における読みの枠組みはすべて益田の学習指導構想の 範疇にあるといっていいだろう。しかしこの後、学習指導要領の改訂に伴って教科書教材 としての「清光館哀史」は微妙な変化を見せることになる。 第6節. 「 清光館哀史」 清光館哀史 」 教材化の 教材化 の 変遷. 1 .「現代国語」から「国語Ⅱ」への移行. - 121 -.

(21) 第二 次『現代国 語 』( ソフ トカバー版 ) から、教材の後に、編集委員書き下ろしの コラム「柔軟に学び取って、新しい視点か ら問題 を投げ返す 【批判を貫く ① 】」 が付 される。現場とのコミュニケーションによ ってもたらされた一つの結果であろう。 ここでは読者が主体的に読むとはどうい うことかについて「清光館哀史」を例に次 のような解説がなされている。 盆の夜、明けがた近くまで踊りぬく、 北の海べの村の民衆の快楽が、実は、 「やるせない生存の痛苦、どんなに働 い てもなお迫 って来る災厄 」(一八 ・ 12)の不安と心の戦いと表裏するもの だということを、六年後の偶然の機会. ◆「清光館哀史」教材化の変遷 発行年 教科書名(筑摩) 変更点 昭40 現代国語3 冒頭単元に初登場 42 現代国語3改訂版 48 現代国語3二訂版 51 現代国語3 ソフトカバー化。教材の後 に書き下ろしコラム「柔軟 に学び取って、新しい視点 から問題を投げ返す」が付 加。「学習ノート」→「予習 ノート」 52 現代国語3改訂版 55 現代国語3二訂版 57 国語Ⅱ 冒頭単元から「五、随想」 へ。「生きる顔つき」(水上 勉)とセット。「浜の月夜」 削除。 「予習ノート」消える。 60 国語Ⅱ改訂版 「拾う」 (辻まこと) 「道」 (竹 西寛子)との三本立て。 64 国語Ⅱ二訂版 平 7 国語Ⅱ 「現代文(二)」の中。「浜 の月夜」復活。 11 国語Ⅱ改訂版 「現代文(三)」の中に。 17 展望現代文 「学習の手引き」→「学習」. に、筆者は気づかされている。筆者の 洞察力の鋭さ、人々に寄せる思いやりの深さを、わたしたちは痛感するとともに、そ の感動の底からいろんな問いがわき出て来るもの、押しとどめえないだろう。この現 実をどうすればよいのかから、この人々の心底の思いを描くには、筆者の文章は美し すぎはしないかなどまで(中略)それは筆者に問うているのであり、自分に問うてい るのであり、この「清光館哀史」を越えて考えていこうとしているのであるかもしれ ない。 このコラム教材は、文章の細部、表現にこだわり、丁寧に読み込むと同時に、文章の読 み取りを超えて、読み手の思考や認識が発展・成長していくような読み方、あるいは教材 本文を対象化しながらもそれを貫く批判的な読み方を求めており、強烈なメッセージ性を 持っている。 ところが次の改訂(昭 53 版)により「現代国語」がなくなり 、「国語Ⅰ 」「国語Ⅱ」の 総合国語時代を迎えると、ある変化が起こる。 桑名靖治による指導書の記述からは、基本的に益田の教材化の精神を引き継ぐものであ ることが示唆されているが、実際にはその方向性を大きく覆す教材化となっている。それ は 、「浜の月夜」の削除である。 その理由は次のように述べられている。 『国語Ⅱ』に「清光館哀史」を収めるにあたって 、「浜の月夜」は割愛することに した。二つの文章を同時に読ませる学習は、たしかに多角的であり、さまざまな展開 の余地がある。一つの見識であった。だが、三学年でなく二学年で扱っても、同じよ うな学習活動が可能だろうか、ということがまず問題となった 。『国語Ⅱ』は四単位 を標準とする。かりに増加単位を加えるとしても 、『現代国語』と『古典』が科目と. - 122 -.

(22) して独立していた旧課程より、時間的な余裕があるとは考えられない。また、二つの 文章を併載した従来の教科書では、学習者に重複した感じを与え、編集が予期したよ うな学習活動が行われない場合もあるという意見があった 。(中略)また 、『清光館 哀史』には、二度にわたる小子内訪問の体験が書かれており、これだけで両者を比較 検討することは可能で(「 学習の手引き二」は、その学習への手がかりである 。)、学 習を立体的に発展させる上でなんら支障はない。以上の理由で 、『国語Ⅱ』では「清 光館哀史」だけを採ることにした。. 11. すなわち、使用学年の問題、単位減、文章内容の「重複」という三点の理由があげられ ているが、最後の文章内容の「重複」についてはまさに「清光館哀史」教材化の根幹に関 わる問題であろう。すでに「現代国語」の終焉とともに編集委員を降りた益田不在の編集 委員会は、これを一編だけでよいと判断したのである。教材化当初のねらいは、 1980 年 代に入り、もはや理解されにくいものとなっていたのであろう。 しかし、次の指導要領改訂に伴う第二次『国語Ⅱ』で「浜の月夜」は復活し、元の教材 編成へと戻ることになる。ただし、その理由が指導書には明記されていない。 先にみた玉木、大河原、住田の実践に見られるとおり、この単元に意欲的な現場は、や はり二編の教材化を必須としていたのだと思われる。 2 .「国語Ⅱ」から「現代文」への移行 2005(平成 17)年版『展望現代文』の指導書では教材のねらいを「①筆者の描く村の 人々の生活と心情を、表現と文体をよく味わいながら理解する。/②清光館の思い出を通 して筆者が捉えようとしたものは何かを考察し、あわせて民俗学について関心を持つ 。」. 12. の二点としている。 1960 年代の半ばに始発した益田の教材化のねらいは、ここへきて相当薄まっていると いってもいいだろう 。「表現」や「文体」への着目も、佐藤和夫による指導書の記述から は紀行文としての巧みさというジャンルの読解として規定され 、「発見」の内容も文章読 解の枠を出ず、そこで得た理解も民俗学への導入という位置付けとなっている。佐藤は次 のように述べている。 日本民俗学の創始者として大きな業績を多方面に残した柳田国男は、また紀行文の名 手としても優れた日本語の書き手であった。その深い味わいを「浜の月夜」と「清光 館哀史」の両編を通して生徒たちが感受し、そしてさらには民俗学という世界に関心 を深める一つの契機になればと思う。 第7節. 13. 教材化の 教材化 の 歴史的意義. 現行「現代文」の教科書は、各社とも「小説」と「評論」の二大ジャンル化へと傾斜し つつある。 グレーゾーンともいえる「随想/随筆」は、場面やストーリーの展開に即して人物の心 情や作品のテーマを追求する小説教材とも、論理構成を浮き彫りにしながら筆者の主張を. - 123 -.

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