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H 吉社領讃岐国杵田荘の荘域復元

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H 吉社領讃岐国杵田荘の荘域復元

田 中 健

はじめに

筆者は、本誌『香川大学教育学部研究報告』

第I部第89号 (1993年9月)において、「讃岐の 郷名荘園について」と題して、讃岐国における

『和名抄』の郷名を負う荘・保・御厨などの郷 名荘園について考察し、これらのなかば以上は 中世的郷を単位としてその全部あるいは一部が そのまま荘園化し、旧来の郷にとって代わった

「郷」型荘園と呼べるものであること、讃岐国 の荘園の全体数からみれば、その三分のー以上 は、このような特異な形態をもつ「郷」型荘園 で占められており、当国では郷の荘園化が広範 に進行したといえることを明らかにした。

本稿では、鎌倉時代前期に近江国日吉神社の

く に た

社領として立荘された豊田郡杵田荘について荘 域を復元し、「郷」型荘園の典型を示す。

1.  讃岐国杵田荘の立荘

杵田荘が宣旨により立荘を公認されたのは、

建 長8年 (1256) 8月29日の日吉社領讃岐国四 至膀示注文(『続左丞抄』所収文書、『鎌倉遺文』

8025号)に、「去る三月十四日 宣旨により、

国使を引率し、四至を堺し、膀示を打ちおわん ぬ。」と見えるように、同年 3月14日のことで あった。

立荘の経緯については、鎌倉時代末期の元応 元年 (1319)10月、日吉社領の由来と領主を書 き上げた「日吉山王新記」(『続群書類従』第二 輯 下 神 祇 部 続 群 書 類 従 完 成 会 ) に 「 讃 岐 国

杵田庄 二宮十禅師大行事長日御供。十禅師不断経 二季大般若料所。後嵯峨院御寄付。」と見える。

同記には杵田荘の領主の地位をめぐる、日吉 社祀官祝部氏一族の権禰宜成貰とその弟成顕の 子成盛との争いが記されている。そこに引用さ れた成盛の申状には「当庄(杵田荘)は、後嵯峨 院御寄付の地として、建長年中成茂宿禰に仰せ 付けられて以来、成材、成顕、成盛ら相伝相違 なきの地なり。」と見える。これ以前の弘安6 年 (1283)ころには、成貰は成盛の父成顕と杵 田荘の領有をめぐって争っていたことが、年欠 の祝部成顕申状(『兼仲卿記』紙背文書、『鎌倉 遺文』 14963号)に見える。それによれば、成顕 は父成材の遣領杵田荘を領有することを院宣と 日吉社貰首の下文により認められており、成貫 が杵田荘の地頭弘家と結んで、庄家に乱入し、

成顕の代官仏縁法師を殺害したことを朝廷に訴 えている。

以上の記事からみて、杵田荘は後嵯峨上皇よ り日吉社へ寄付され、建長8年3月14日の宣旨 により立荘が公認されたと判断される。ところ が、これ以前の建長2年11月日の前関白入道九 条道家の初度惣処分状(九条家文書、『鎌倉遺 文』 7250号)には、嫡孫の九条忠家に譲られた

「新御領」の中に「讃岐国笠居御厨大神宮領」と並 んで「朴田庄 H吉申日御供に寄せらる。」が見えて いる。讃岐国内には、「朴田」という地名は検 出できないのでこの荘名は「杵田」の誤記とみ てよい。後嵯峨上皇による日吉社への寄付以 前、杵田荘は九条道家より同社へ寄進されてい たのである。

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田 中 健 ―

『香川県史2中世』 (1989年、香川県)第1章 第4節で詳述したように、承久の乱後の朝政を 主導した九条道家は寛喜元年 (1229)より建長 4年 (1252)に死去するまでの間、讃岐国を知 行国主として経営しており、興福寺領寒川郡神 崎荘、石清水社領三野郡本山荘などの荘園を寄 進・立荘している。前出の「新御領」とは道家 の代に集積された家領である。四条天皇の外祖 父、鎌倉将軍頼経の父として権勢を誇った道家 であるが、執権北条氏に幕府転覆の嫌疑を掛け られ失脚した。道家死去の翌年建長5年の正 月、讃岐国は後嵯峨上皇の院分国とされた。

おそらく、九条道家による杵田荘の寄進・立 荘は宣旨を得るなど正式な手続きを経たもので はなく、知行国主としての私的なものであろ う。道家の死後、日吉社より後嵯峨上皇に対 し、杵田荘の社領としての存続が申請され、あ らためて寄進・立荘の手続きが取られたものと 推定する。

宣旨により杵田荘の立荘が認可されると、立 券・荘号のため、日吉社の社家(社務の執行者)

の使は、太政官の担当事務官である右史生中原 久景ら官使とともに讃岐国へ下向した。国府へ 至った彼らは、讃岐藤原氏などからなる在庁官 人を国使として現地へ向かい、収納使・惣追捕 使・図師などを指揮して、立荘予定地の検地を 行なった。

検地をもとにして作成されたのが、次に掲げ る日吉社領讃岐国杵田庄四至膀示注文(『続左 丞抄』所収文書、『鎌倉遺文』 8025号)と同実検 田畠在家目録(同前、『鎌倉遺文』 8026号)であ る。この2点の文書とそれに添えられた「指図」

すなわち杵田荘の絵図にもとづき、中央におい て杵田荘の立券・荘号を認可する手続きが取ら れるのである。

日吉社領讃岐国杵田庄四至膀示注文

注進言上す、日吉社領讃岐国杵田庄四至を堺 し、膀示を打つこと。

ー、四至

東は限る、紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷 堺。以南は姫江庄堺。

南は限る、姫江庄堺。

‑2‑

西は限る、大海。海面は伊吹島を限る。

北は限る、坂本郷堺。両方とも田地なり。

その堺東西行くの畷まさにこれを通す。

ー、膀示四本

一本 艮角、五条七里一坪。紀伊郷ならび に山本郷・坂本郷・当庄四の辻こ れを打つ。

一本巽角、井下村。東南は姫江庄堺。

その堺路の巽角これを打つ。路は 当庄内なり。

一本 坤角、浜上これを打つ。海面は伊吹 島を限る。南は姫江庄内埴穴堺。

北は当庄園生村堺。

一本 乾角、海面は参里を限る。北は坂本 郷。南は当庄。鈎洲浜上これを打 つ。ただし艮膀示の本と古作畷の 末と、連々火煙を立て、その通ず るを追い、その堺を紀(記)しこ れを打つ。

、田畠以下取張(帳)目録ー通。

ー、指図一帖。

右、去る三月十四日 宣旨により、国使を 引率し、四至を堺し、膀示を打ちおわんぬ。

よっで注進言上くだんのごとし。

建長八年八月二十九日 国使散位布師 散位藤原「朝臣資貝」(裏花押)

散位藤原「朝臣長知」(裏花押)

官使右史生中原「久景

J

同実検田畠在家目録

(朱)「この一紙各々破損す。」

(注進す、)建長八年田畠・(在)家・網代・荒 野等目録(こと。)

(合)

(一、)作田百二十三町二段百二十歩 去る建 長四年

□ □ □

(一、)作畠四十二町二段百七十歩

在 家 五 十 宇 上 八 宇 中 六 宇 下 十 七 宇 下々十九宇

網代寄庭二所一所九町余り。一所五町 余り。

荒野百余町 林野江海池溝淵河などなり。

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日吉社領讃岐国杵田荘の荘域復元

右、太略注進くだんのごとし。

建長八年八月二十九日 主I

図師ロニ 惣追捕使若[コ 田所

収納使亡二 国使

I  .  書(生)亡二 大使散位藤原亡二 社家

I  官 使 小 使

大使右史生(中原久景)

まず、荘域の東西南北の境界である四至を 定め、その4つの角に境界標識である膀示を打 ち、四至膀示注文のもとになる資料が作成され る。つづいて、田畠以下について検地を行うの であるが、田地については建長四年の検地によ る確定面積が用いられた。それらを集計して土 地台帳に当たる田畠在家目録が作成されてい

る。別に図師により絵図も作成されている。

上に掲げた2点の文書から、立荘当時の杵田 荘の範囲を描いてみる。

まず、四至を見ると、杵田荘は東側で紀伊 郷・姫江荘と境を接するが、紀伊郷と姫江荘は

「苅田河」を境界としている。杵田荘の遺称地 である観音寺市杵田町は、『倭名類緊抄』(『和 名抄』)に見える杵田郷の地に当たり、その所 属郡は刈田郡である。「苅田河」という河川名 は現在残っていないが、郡名を追う河川であ り、三豊平野において財田川に次ぐ流域を持つ 河川として杵田川を当てるのがふさわしいであ ろう。位置的にも適当である。なお、刈田郡に ついては、平安時代末期成立の『伊呂波字類抄』

に「刈田郡国用豊田字」と見え、同時期以前に 郡名の変化が生じていた。南側は姫江荘と境を 接し、西は「大海」すなわち煽灘に面していた。

北側は坂本郷と境を接している。

『和名抄』の刈田郡は、山本、紀伊、杵田、

坂本、高屋、姫江の6郷からなっていた。これ ら6郷のうち杵田荘の四至には紀伊・坂本両郷・

姫江荘が見え、艮角すなわち東北の角に打たれ た膀示に山本郷が見える。これらは、いわゆ る『和名抄』郷が中世的な所領単位としての郷・

荘に変化したものである。『和名抄』に見える 刈田郡所管の郷のうちあらわれないのは高屋・

杵田両郷である。

これら6郷の遺称地を記すと以下のようであ る。山本郷は三豊市山本町山本、紀伊郷は観音 寺市木之郷町、杵田郷は同市杵田町、坂本郷は 同市坂本町、高屋郷は同市高屋町、姫江郷は同 市大野原町中姫および同市豊浜町姫浜である。

その位置関係からみて、坂本郷のさらに北部に 位置する高屋郷が杵田荘の四至に見えないのは 当然であろう。

残る杵田郷については、杵田荘が周辺に位置 する4か郷のすべてと境を接していること、杵 田郷についてはまったく記されていないことか ら考えて、全域が荘園化されたとみてよい。そ のため、田畠や在家(住宅)のほかに林野・江海・

池溝.淵河などからなる「荒野百余町」が荘内 に取り込まれているのである。

杵田荘は『和名抄』の郷名を負う荘園である が、実際には中世的な所領単位としての杵田郷 の郷域をそのまま荘域として立荘したものとい える。

つぎに膀示を見ると、荘域はほぼ四角形とな るから、それぞれの角に当たる地点に打つこと になる。時計回りに順に示せば、艮(北東)・巽

(南東)・坤(南西)・乾(北西)の4箇所である。

艮の膀示は、紀伊・山本・坂本3郷と当荘と の四つ辻に当たる刈田郡5条7里 1坪に打た れ、典のそれは、当荘内井下村のうち、姫江荘 との境界となっている道のさらに東南の角に打 たれている。道は当荘内に含まれていたためで ある。坤の膀示は、姫江荘内埴穴と当荘内園生 村との境となっている浜の上に打たれた。乾の それは、北側の坂本郷と南側の当荘の境となっ ている鈎洲浜に打たれた。この場所は、浜辺で あって境界線の確定が困難なため、次のような 方法が取られている。

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田 中 健 二

まず、内陸部に位置する艮の膀示の本と以前 確定ずみの境界である古作(耕作放棄地)のあ ぜ道の海側の末端とで火をたき、浜からその 2点を見通して重なるところを求め、その境を 決定して膀示を打つという方法である。境界線 が確定ずみの 2点に見通しの棒代わりに火を燃 やし、浜上にその延長線を求めているわけであ る。

杵田荘の範囲は陸地部においては以上のとお りであるが、海面についても境界が示されて いる。四至においては、「西は限る、大海海 面は伊吹島を限る。」とあり、膀示においても、

坤の膀示について「海面は伊吹島を限る。」、乾 のそれについて「海面は三里を限る。」と注記さ れており、当荘の西に広がる煽灘について沖合 3里まで、あるいは伊吹島までの海面が四至内 として立荘されているのである。さらに、実検 田畠目録には、 9町余りと5町余りの面積を持 つ「網代寄庭二所」が設定されていたことが記 されている。保立道久氏は「中世前期の漁業と 庄園制」(『歴史評論』 376号 1981年8月 歴 史科学協議会)において、これらの記事から、

杵田荘においては、地先水面が四至内として領 有されていたこと。そこには「網代」=漁場が 設定されていたことを指摘している。

なお、伊吹島については、「八幡祀官俗官井 所司系図」(『石清水八幡宮記録』所収文書、『香 川県史8古代・中世史料』 1986年 香 川 県 ) に 見え、鎌倉時代には石清水社領となっていた。

2. 木乍田郷の郷域について

作田荘は、『和名抄』郷名を負う中世的所領 単位としての杵田郷の郷域をそのまま荘域とし て立荘された荘園であることを指摘した。そこ で、杵田荘の荘域を復元するためには、まず、

立荘以前の杵田郷の郷域を復元する必要があ る。さいわい古代の当郷については、日野尚志 氏の「讃岐国刈田郡における官道(南海道)と条 里・郷との関連について」(『東北地理』第28巻 第3号 1976年7月 東北地理学会)において、

詳細な考察がなされている。その研究成果と讃

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岐国全体についての考察をふまえて、金田章裕 氏は、『香川県史1原始・古代』 (1988年 香 川 県)第 6章において、刈田郡における郡界線と 南海道のルート、条里プランについての概観を 示している。本稿では、両氏の研究成果にもと づきながら、杵田郷の郷域を復元する。

まず、杵田荘の四至のうち艮の膀示が5条7 里1坪に打たれ、その地点が紀伊・山本・坂本

3か郷と当庄の四つ辻に当たることに注目した い。艮の膀示は当荘の東北隅に打たれたのであ るから、これらの郷・荘の遺称地の位置関係か らみて、この地点の東北は山本郷、東南は紀伊 郷、西南は当荘、西北は坂本郷の地域となって いたはずである。

『三豊郡史』 (1921年香川県三豊郡)に見え る旧高屋村(現観音寺市高屋町)の坪付小字名 にもとずき現地調査を行った日野氏は、その小 字名から知られる坪並に従い、刈田郡の坪並を 東北隅を1の坪、西北隅を36の坪とする千鳥式 であることを確認した。この刈田郡においての 坪並の原則からいって5条7里1坪の東端と北 端の区画線に里界線が通るのである。この膀示 から海岸部の乾の膀示に向けて引かれた直線が 当荘と坂本郷との境界線となっていたことはす でに指摘ずみである。

条里呼称の原則、平行式であれ千鳥式であ れ、 1の坪から 6の坪に進む方向で条数が昇 り、 1の坪で始まる列から次の7の坪で始まる 列に進む方向で里数が昇る、に従えば、 5条7 里1坪の北端の境界線は4条と 5条の里界線に

当たる。さらに、同1坪の東北隅が山本郷と一 点で接していることは、この坪の東の境界線を 南北に延長した区画線が坂本・山本両郷および

当荘• 紀伊郷の境界になっていたことを示して いる。同じく条里呼称の原則に従えば、 5条7 里1坪の東端の境界線は6里と 7里との里界線

に当たる。

艮の膀示が打たれた5条7里1坪の地点を特 定するためには、刈田郡の条里の条の起点とな る三野郡との郡界線と、杵田荘の東側の境界線 を確定する必要がある。

三野・刈田郡境については、日野氏により推

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日吉社領讃岐国杵田荘の荘域復元

図1 三野・刈田郡境と南海道 2万5千分の1地形図「観音寺」より作成

定が行われており、図1に示すように、七宝山 の一角 (301.9m)と山本町河内川西の独立丘陵 (50.7m)を結んだ線に沿っている。金田氏も論 拠は示していないが、ほぽこの線を踏襲してい る。この郡界から4里南に隔たった地点に4条 と5条の里界線が引かれたはずである。

杓田荘の東側と北側の境界線についても、日 野氏は検討し、旧杵田村付近の条里地割の分布 と里界線に注意しながら刈田郡の旧村境を条里 地割の分布図に記入することにより、以下の諸 点を明らかにした。

①  三野・刈田郡から条里施行地域や台地を 通る官道・南海道が郡境より旧杵田・中姫 村境の接する土井ノ池の南までごく一部を 除いて旧村境になっている。

②  旧杵田村と旧出作・坂本両村境が条里の 里界線による整然とした境である。

③  官道から以東の旧池之尻村と旧木之郷村 境が旧杵田村と旧出作・坂本両村境を東に 延長した里界線を利用した直線状の境で、

この村境は羽上山頂(92m)に達している。

以上の諸点から、日野氏は、三野・刈田郡境 より 4里を隔てた東西の里界線と官道の通る南 北の里界線がほとんど旧村境として利用されて いたことを指摘し、刈田郡域の条里の基準線と して、さらには郷域の境として利用されていた ものが、後世に村境に利用されたものであろう と結論付けた。

②の点については、大正10年 (1921)に絹纂 された『三豊郡史』に「古来より坂本郷および杵

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田 中 健 二

田庄(郷)の間には溝ありて郷界とせり、(井下 文書)右の田道はこの溝に添ひて今尚存する所 あり、」との注目すべき記載がある。坂本・杵 田両郷間には溝があって、それを郷境としてい たというのである。この溝が里界線であろう。

金田氏もまた、杵田郷・杵田荘の遺称地であ る観音寺市杵田町の境界は北側が4条と5条の 里界線およびその1本北側の坪界線を、東側は ほぼ推定南海道を踏襲していること、条里プラ ンの里界線が荘園などの境界線として利用され た場合、それがさらに町村の境界線に踏襲され る可能性が大きいことから、 13世紀の荘園の境 界もこの付近であった可能性があるとしてい

る。

おもに日野氏の指摘にもとづき南海道と4条 と5条の里界線が交わる地点を図lに示すと、

杵田町の観音寺池と出作池を隔てる堤防の西南 側に当たる。図2は国土基本図より付近の詳細 をしめしたものである。図に見るように、この 付近では、現在の出作町・池之尻町・木之郷町・

杵田町の境界線が交互に接しており、かつての 坂本・山本•紀伊・杵田の四郷の郷境が四つ辻

として交わる場所にふさわしい。

なお、杵田川右岸の下出・中出・上出集落に かけての耕地の地割が条里のそれと大きく異 なっているのは、『角川日本地名大辞典37香川 県』 (1985年角川書店)の「杵田町」の項に見 るように、昭和18年、この付近から粟井町にか けて海軍の飛行場が設営され、太平洋戦争終結 とともにもとの田圃にかえり区画整理が行われ たためである。

次に、巽の膀示が打たれた地点では、東と南 が姫江荘と境界を接している。艮の膀示では、

条里の坪をもって膀示を打った箇所が示されて いたが、巽の膀示の場合は、杵田荘に含まれる 道路が境界となっていることに注意したい。日 野氏が指摘しているように姫江郷においては条 里地割は検出されない。この付近は条里が施行 されていなかったのではないか。そこで、道路 をもって境界が示されたものとみたい。

5条7里1坪に打たれた艮の膀示の位置につ いての検討から、杵田郷の東の境は、 7里の東

‑6‑

側の里界線となっている南海道であることが明 らかになっている。巽の膀示が打たれた道は、

おそらく南海道であり、同1坪の東端の区画線 を南へ延長した場所に位置すると推定できる。

問題となるのは杵田郷の郷域の南限である。

『三豊郡史』には、杵田・姫江両荘の境につ いて「この両庄境界は古来堀切両端に土手あり しに元禄以後田地となり現今わずかに少なき溝 存するのみにして、ほぼ大野原村・杵田村両境 と一致せり。(井下文書)」との注目すべき記載 がみられる。

この記事に着目した日野氏は、図3に示した 空中写真を用いて、杵田町南部の土井ノ池南方 から西方へ伸びる直線上の区画線を見出した。

その一部は旧山田尻村と坤の膀示の注記に見え る「姫江庄内埴穴」の転訛とみられる旧花稲(は ないな)村の村境と、旧杵田村と旧大野原村の 村境に利用されている。図4は国土基本図より その区画線を示したものである。

これらの事実から、日野氏は杵田・姫江両荘 境が近世になって村境に利用されたものと考 え、この直線状の区画線を杵田・姫江両郷の郷 境と判断している。

その東側の始点となる箇所には南海道と推定 される直線状の道路が南北に延びており、旧杵 田村と旧中姫村の村境に当たる。中姫は姫江荘 の遺称地の1つである。日野氏も指摘するよう にこの付近の官道は10mほどの道幅を持ってい たから、それを含むか、いなかで荘域の面積と 道路についての権益とが異なるため、最大幅を 取って道の東端を荘域に含めて立荘が行われた のである。

国土基本図より、杵田荘と姫江荘の東西方向 の境界線と南北に延びる推定南海道とがT字形 に接続する地点を示したのが図5である。この 場所で、現在、杵田町と大野原町大野原、同中 姫との境界線が1点で接続している。この付近 が巽の膀示を打った場所とみてよい。

この境界線は、南海道とは直角には接続せ ず、すでに知られている東西方向の里界線とも 平行ではない。条里が施行されていないため、

別の基準線が用いられたものであろう。

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日吉社領讃岐国杵田荘の荘域復元

図2 艮の膀示付近図

5千分の1国士基本図 W‑FE ‑84・94より作成

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日吉社領讃岐国杵田荘の荘域復元

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図5 巽の膀示付近図

5千分の1国土基本図 N ‑FE ‑93・94より作成

3. 杵田荘の荘域の復元

杵田荘の前身である杵田郷の郷域について、

以下に述べる諸点が明らかになった。

①  杵田郷は北側で坂本郷と郷界を接し、そ の境界は4条と 5条との里界線である。そ の界線は旧坂本・出作両村と旧杵田村との 村境として利用されていた。大正10年のこ

ろまで、境界に添って溝が残っていた。

②  杵田郷の東北隅は郷界線が十字に交わっ ており、時計回りに山本・紀伊・杵田・坂 本4郷が位置した。旧池之尻・木之郷・杵 田・出作4村の境界部である。現在の杵田 町出作池の西南に当たる地点である。

③  杵田郷の東端は7里の東側の里界線であ る。この界線は官道の南海道となっており 杵田荘の立荘に際して荘域に含められた。

旧木之郷・中姫両村と旧杵田村の村境とし て利用されていた。杵田川(古くは苅田河 と呼ばれた)以北は紀伊郷、以南は姫江郷 と境界を接していた。

④  杵田郷の南東隅は、すべて姫江郷と境界 を接しており、旧中姫・大野原両村と旧杵 田村との村境となっていた。

⑤  杵田郷の南端は姫江郷と境界を接してい た。その界線は溝の痕跡を残し、旧山田 尻・花稲両村、旧杵田・大野原両村の村境

として一部が利用されていた。

以上の諸点から、杵田荘について内陸部の荘

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田 中 健 ―

500  500 

図6 杵田川流域の地形

2万5千分の1沿岸海域土地条件図「観音寺」を使用 域を復元することが可能となる。立荘に際して

膀示が打たれた地点は、艮の膀示が②、巽のそ れが④である。残る問題は沿海部に打たれた 乾・坤2本の膀示の位置である。乾の膀示につ いては①、坤のそれについては⑤の境界線上に それぞれ求めることができる。

まず、沿岸海域土地条件図より、杵田荘推定 地付近の沿海部の地形を示したのが、図6であ る。杵田川の流域についてみると、下流右岸は 谷底平野であり、河口部は三角州となってい る。左岸は河口部を除き台地である。三角州に 小規模な砂堆がある。

乾の膀示は、坂本郷と杵田荘の境界に位置す る「鈎洲」と呼ばれていた浜に打たれた。艮の 膀示から見て西北方向に位置する浜に打たれて いることから、財田川の河口部に形成された三 角州上に打たれたものとみられる。もともと財 田川の支流であったと推定される一の谷川の現 河道と艮の膀示からの里界線が交わる箇所であ

る。「鈎洲」の地名は現存しないが、『三豊郡史』

には、坂本・杵田両郷の間には溝があって郷界 となっていたとの指摘に続き、次の記事が見え る。

古の田道は此溝に添ひて今尚存する所あり、

今此溝の線上にて常磐・杵田・観音寺三町村 より少しく北にかたより観音寺町内に加喜多 と称する小地名あり、加喜多は鈎田にして鈎 洲の海岸の漸次陸地に変じ田地に化したる後 鈎洲の洲を改めて鈎田に転ぜしものと察せら る、

常磐村は明治23年(1890)に流岡・村黒・植田・

出作の4か村が合併して成立したもので、上の 記事付近は、旧出作村に当たる。旧出作・杵田 両村が村境を接する付近の北側で『三豊郡史』

編纂当時の観音寺町内といえば、旧坂本村であ る。

日野氏も、刈田郡の郡家の所在地との関係か ら、坂本町内の加喜多の小字名に注目し、その

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日吉社領讃岐国杵田荘の荘域復元

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図7 加喜多付近図

5千分の1国土基本図 N‑FE‑83より作成

位置を条里の里坪では、 4 条 9 里28~34坪、 4 条 10里 3~10坪に当たるとみた。

国土基本図より、小字加喜多付近を示したの が図7である。この地域では、 1町(約109m) 四方からなる里坪の詳細な復元が可能であり、

坪の界線に添って小河川の「加儀田川」とその 支流が流れていることがわかる。さらに現在の 坂本・植田・出作・杵田・昭和5町の境界線を 記入すると各町の境界線が一の谷川に添った地 域およびかつての飛行場の跡地を除き、坪の界 線を踏襲していることがわかる。

金田氏は現在の杵田町の境界の北側は4条と 5条の里界線およびその1本北側の坪界線を踏 襲していることを指摘している。また、『三豊 郡史』には、坂本郷と杵田荘の間には溝があっ て郷界となっていたとの記述も見えていた。こ れらの指摘にもとづき、国土基本図より、現在 の杵田・坂本両町の境界付近を示したものが図

8である。

観音寺市立中部中学校の校舎の北西側から観 音寺警察署の北側に伸びる水路に注意された い。図7に見るように、この水路は坂本町と杵 田町の境界の一部をなしていた。この水路こ そ、『三豊郡史』の指摘に見る杵田荘と坂本郷 との境界となっていた溝であろう。同時にそれ はこの水路が4条と5条の里界線であったこと を意味する。

この水路は、一の谷川に近づくにつれて角度 を変え里界線とは異なった傾きとなる。かつて の浜に至ったのである。この付近の浜上に乾の 膀示が打たれたとみる。「鈎洲」は加喜多(鈎田)

の地名からみて、おそらく「かぎ」と呼ばれる 地名が先にあり、この付近の州浜の呼称となっ ていたと推定できる。

坤の膀示は、「浜上」に打ったとされるから、

巽のそれから西へ延びる境界線が海岸に達した

(12)

田 中 健 ―

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図8 乾の膀示付近図

5千分の1国土基本図 N‑FE ‑83より作成

地点に打たれたはずである。国土基本図より、

その付近を図示したのが図9である。旧山田 尻・花稲両村の村境が直線になっている箇所が かつての杵田・姫江両荘の境界であった。この 境界線が浜に達した地点に膀示が打たれたので ある。

この境界線の北方約400mの地点に「境八幡 神社」が位置することに注目したい。『香川県 神社誌」 (1938年、香川県神職会)によれば、

字濱ノ内に鎮座する旧村社境八幡神社は杵田・

姫江両郷の境に祭られたものという。図 6から 知られるように、砂堆上に成立した山田集落の 南端に当社は位置している。実際の郷境はさら に南方に当たるが、浜であって神社のような永 続的な使用に耐える建造物を設けることには困 難があったのであろう。

山田集落の北部の砂堆上に成立した黒渕集落

には、延長 5年(927)完成の『延喜式』に見える、

いわゆる式内社の山田神社がある。この地域の 砂堆は海岸部の微高地として古代より開発が進 められ集落が成立していたとみてよい。

杵田荘の陸地部について、 4本の膀示が打た れた地点と周囲の郷・荘との境界線が確定した。

つづいて、その荘域の内部を検討しよう。

立荘時の実検田畠在家目録によれば、杵田 荘には、作田(現に耕作されているかいなかを 問わず水田とみなされている場所) 123町あま りと畠(陸田) 42町の計168町(約168ha)ほどの 耕地があった。日野氏の推定では、杵田荘の面 積は条里の里で 5~6 里あり、すべてが耕作さ れていたと仮定すれば200町前後の耕地があっ たとしている。農地として開発可能な地域につ いてはかなり開発されていたとみてよいであろ う。田・畠以外は「林野・江海・池溝.淵河」

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日吉社領讃岐国杵田荘の荘域復元

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図9 坤の膀示付近図 5千分の1国土基本図

であるが、これらはすべて地種を「荒野」とさ れ100町ほどと認定されている。原野のみなら ず河川や用水路、ため池、入江、 9町と 5町の 面積を占める漁場2か所などが領有の対象とさ れていたのである。

園宅地を含む住居を指す「在家」は、 その規

N‑FE‑93を使用

模により、上中下下々の4等級に分類されてお り、計50戸であった。戸令為里条に見るよう に、令制の里(郷)は、 50戸をもって編成され ていた。鎌倉時代の前期においては郷の戸数に ついての規定は形骸化していたともみなされる が、杵田荘が杵田郷をそのまま荘園化したこと

‑13‑

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田 中 健 二

の一つの論拠となろう。

最後に、杵田荘の荘園支配の拠点について明 らかにしたい。

弘安6年 (1283)ころの祝部成顕申状(『兼仲 卿記』紙背文書、『鎌倉遺文』 14963号)で、日吉 社の祀官成顕は兄の成貰が杵田荘の地頭弘家と 地頭代政行を味方に引き入れて「庄家」に乱入

し、成顕の代官仏縁法師を殺害したことを朝廷 に訴えている。

この地頭弘家については、姓は不明である。

のち、南北朝時代の貞和4年 (1348) 5月27日 の讃岐守護細川顕氏遵行状(根岸文書、『香川 県史8古代・中世史料』)に杵田荘地頭として 名の見える岩田五郎頼国・同兵庫顕国や、嘉慶 元年(1387)11月26日の細川頼有譲状(細川家文 書、同前)に「くにたのちとうしきゆわたのそ うりやうふん」(杵田の地頭職岩田の惣領分)

と見える岩田氏の先祖とも推定されるが、実態 は不明である。

上に見える「庄家」が杵田荘の現地での支配 機関であり、いわゆる荘所・荘政所に当たるも のとみてよい。その所在地としてまず考えられ るのは荘内の字山王に鎖座する旧村社日枝神社 である。

『香川県神社誌』が指摘するように、当社は 杵田荘が日吉社の社領となったことを契機とし て分祀されたものとみてよい。編纂当時の氏子 は、字下野・八町・油井・大畑・上出在家の 390戸で、旧杵田村内の神社としては、式内社 とみられる山田神社の915戸に次ぐ規模を持つ。

立荘後あらたに荘政所が設けられたとみるなら ば、荘園領主である日吉社を分祀した山王の地 が候補の第一となる。

杓田郷が日吉社領として立荘される以前の郷 の支配の様相についてはほとんど知ることがで きないが、旧杵田村内の大字上出に「公文明」

との小字があることが注目される。『香川県神 社誌』によれば、字公文明には、荒魂神社が祀 られていた。現在の大字上出の公文明神社であ る。

「公文明」の地名は、『香川県史2中世』第4 章第2節で、三豊市三野町大見の字「九面明」

が中世の高瀬郷の公文名の遺称地と推定されて いるように、公文名の転訛とみてよい。公文名 とは、郷や荘などの官人である公文に職分とし て給付される給田畠からなる名(名田)の呼び 名であり、その近辺に公文が居住していたと推 定される。

讃岐国の郷・荘に官人として公文がいたこと は、たとえば、弘安4年 (1281) 3月29日の園 城寺下文案(東京大学史料編纂所所蔵文書、『鎌 倉遺文」14274号)に「讃岐国金倉上庄公文職」と、

永和4年 (1378)9月2日の預所左衛門尉某安 堵状(善通寺文書、『香川県史8古代・中世史 料』)に「宇(宇足郡)井上郷公文職」と見えるよ

うに明らかである。

図10に日枝神社と公文明神社の位置を示す。

図に見るように公文明神社の所在地は、南海道 より 1~2 坪の地点にある。日野氏も、公文明 の地名に注目し、この地が官道と杵田川右岸に 沿うことから杵田荘の荘所と推定し、『延喜式』

に見える杵田駅がここにあり、駅家址が荘所に 転用された可能性を指摘している。立荘後も既 存の施設を荘政所として用いたとみるならば、

この地も候補に上げられよう。

問題は、杵田荘の東側の境界線がほぼ南海道 の路線を踏襲しているにもかかわらず、讃岐国 内の他の荘園での四至の例から知られるような 南海道についての特徴的な表記である「大路」.

「作道」・「大道」などの表記はまったくなされて いない点である。

たとえば康治2年 (1143) 8月19日の太政官 牒案(安楽寿院古文書、同前)には、寒川郡富\

田荘の四至に「西は限る、石田郷内東寄り艮角、

西船木河ならびに石崎南大路南」と見え、また、

弘長3年 (1263)12月日の讃岐国留守所下文写

(善通寺文書、同前)には、多度郡生野郷内善 通寺領の四至に「東は限る、善通寺南大門作道 通り」、「北は限る、善通寺領五嶽山南麓大道」

と見えている。

弱の膀示を打った地点では、単に「道」との み書かれて、上に見るような表記はなされてい ないのである。とくに、南海道と見られる道が 荘内に取り込められていることに注意すべきで

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日吉社領讃岐国杵田荘の荘域復元

5,000 

,oo  100  '"  ',,m 図10 日枝神社と公文明神社付近図

5千分の 1国土基本図 N‑FE ‑93・94より作成

あろう。もし、この道が官道として存続してい たのであれば、近辺の郷荘に取り込まれる可能 性はないはずである。

金田氏も、杵田荘の東側の境界が推定南海道 のルートであるにもかかわらず、単に紀伊郷界 などとしか記されていないことに留意すべきこ とを指摘しており、南海道の主要機能は、 13世 紀中ころに、おそらくすでにほかのルートヘ移 動していたものと考えている。

一方で、『香川県史1原始・古代』第6章第

4節で示されているように、南海道は多度・三 野両郡境を大日峠で越えていたのであるが、鎌 倉時代末期以降、それとは別に両郡境を鳥坂峠 で越える「伊予大道」が存在し、しかも幹線道 路として用いられていたことを示す事例が見出

される。

南北朝時代の貞和3年 (1347)4月日に作成 された三野郡高瀬郷の地頭秋山氏による所領分 割の際の源泰忠・同泰長連署和与状(秋山家文 書、『香川県史8古代・中世史料』)に「讃岐国

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田 中 健 二

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図11 伊予街道と南海道

明治39年測図5万分の1地形図「観音寺」より作成

高瀬郷、伊予大道より下地頭職」と見え、「伊 予大道」が存在したことを確認できる。同時に 作成された分帳(秋山家文書、同前)に書き上 げられた田畠の所在地から、高瀬郷を「上」(山 手)と「下」(海手)に二分する「伊予大道」は、

ほぽ現在の国道11号線に沿っていたことがわか る。鳥坂峠を西へ越えてすぐの旧三野町には

「大道」の地名も存在する。つまり、この道は、

近世の伊予街道の前身で、多度・三野両郡境を 鳥坂峠で越えていたと推定できる。

また、鎌倉時代の最末期、元弘3

(1333) 6月17日の伊予三島社祝安親軍忠状(三嶋家文 書、同前)によれば、伊予国の後醍醐天皇方の 武士たちは、「讃岐国鳥坂山」において合戦を

行っている。相手は讃岐守護であった北条氏方 の軍勢であろう。鳥坂で幕府方・反幕府方双方 が戦ったのは、そこが伊予から讃岐へ通じる交 通上の要地であったからにほかならない。

以上のように、遅くとも鎌倉時代末期には、

多度・三野両郡境を鳥坂峠で越える幹線道路が できており、それは「伊予大道」と呼ばれてい た。この道こそが本来、南海道が果たしていた 讃岐・伊予間をつなぐ幹線道路としての機能を 継承した道であろう。

図11は明治39年 (1906)の側図である。鳥坂 峠を越えた伊予街道は、図の右上に位置する旧 高瀬町字六松において、大日峠を越えてきた南 海道と合流し、財田川の渡河地点で南海道と別

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日吉社領讃岐国杵田荘の荘域復元

れ、南西方向へほぽ直線状に讃岐・伊予両国境 に向かって伸びている。途中、山王にある日枝 神社のすぐ西側を通る。

杓田荘の立荘後に分祀された日枝神社が近世 の伊予街道に沿っていることは偶然ではあるま い。交通上の便宜のため、かつての南海道に代 わって幹線道路となっていた「伊予大道」に沿っ て日枝神社の位置は決定されたのである。立地 からみて杵田荘の荘政所はこの地にあったとい えよう。

おわりに

杵田荘の荘域は、中世的郷である杵田郷の郷 域を受け継いだもので、耕地のみならず、山野 河海まで含みこんでいた。また、周辺の郷・荘 との境界線は、郷界線を踏襲していたことが明 らかになった。境界は、条里施行地域において は、里界線や官道が用いられており、施行され ていない南方の姫江庄と接する地域においては 里界線とは別の基準線が用いられていた。

杵田郷は、杵田荘の立荘に伴い消滅し、その 領域支配は杵田荘に引き継がれた。その拠点で ある庄家(荘政所)は、荘内を南北に貫く「伊予 大道」に面した日枝神社の所在地字山王に設け

られたと想定できる。

参照

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