著者 森 万数子
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 46
ページ 150‑169
発行年 1994‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011198
『百練抄』は、全篇十七巻からなる編年体の歴史書である。巻初の一巻から三巻までは散逸しており、現存する四巻から十七巻には冷泉天皇の安和元年(九六八)から亀山天皇即位の正元元年(’二五九)に至る一一九二年間の記事が編纂されている。編者と成立年は共に不明である。『百練抄』の名は、白居易の『白氏文集』『新楽府’百練鏡』に由来するとされる。平安時代には、『新楽府』巻三、四が特に(1)愛好され、広く流布した。『百棟抄』には、建保六年六月一二日条に『白氏文集』について次のような記載がある。於二禁裏一有二白氏文集論義壬六番云々。
また、『百練抄』は江戸時代以来、『百錬(錬)抄』と書き慣ら
されてきたが、太田晶二郎氏によって、古くは「百棟」が通行しており、正確には『百練抄』と書くべきであることが明らかにさ(2)れているので、本稿においても「百練抄』という名称を用いる。 法政史学第四十六号〈研究ノート〉
はじめに
『百練抄』の性格と編者について
さて、『百練抄』の研究をふりかえってみると、益田宗氏や平田俊春氏の次のような研究がある。益田氏は、『百練抄』について、編者未詳、亀山天皇の在位中(正元元年〈’’’五九〉l文永十一年〈’二七四〉)の成立と推定できるとし、記事を編修する際には多くの貴族の日記が利用されたらしい痕跡があり、末尾の部分には、編者自身の日記を利用(3)しているのではないかとする説があると述べられている。これに対して平田俊春氏は、『百練抄』の成立時期を文永十一年(’’’七四)以後、嘉元二年(’’’’○四)よりもかなり以前、おそらく後宇多天皇の時代であろうと考えておられる。また、編纂の材料として、平安時代の部分は『本朝世紀』からの抄出を主として、それに『小右記』『春記』『士右記』『或記』『台記』『外記日記』など、それに『但記』『大記』『永昌記』の勧修寺流三代の日記などからの若干の書き入れがあるとしている。平親範の『親範記』を間にはさんで鎌倉時代の部分には『吉記』『自暦記』「吉黄記』、それに吉田資通、あるいは高経ら、やはり動修寺
森万数子
’五○『百練抄』の性格と編者をさぐる手がかりとして、記事の年間記載日数、干支の有無など外観上の特徴を比較、検討する。現存する『百練抄』の第四巻から第十七巻には、前述のように安和元年(九六八)から正元元年(一一一五九)までの二九二年間の出来事が記述されている。その間の記載記事の総件数は、月日では五二八一件、特定の日付のない件数は一○○件、合計五一一一八(5)|件となっている。また、改行(刊本では「」」で表されている)による記事も一件とすると五○九件増え、延べ件数は五八九○件となる。一一九一一年間のうち、万寿二年(一○二五)を除けば(6)毎年何らかの記事が←のる。毎年の件数は末尾に載せた表5の通りである。この表から次のことが明らかである。年間の記述件数は、第七巻の後半、二条天皇紀から次第に増大 流吉田家の流れをくむ日記類が使われている、としたうえで、なお今後の考究を期するとされながらも、その編者を吉田俊定ある(4)いは万里小路一曰’一房あたりと考えておられる。鎌倉幕府側からの歴史書である『吾妻鏡』に対して、『百棟抄』は朝廷側からの歴史書として、様々な研究に、ある部分は唯一の史料として重要視され、また活用されてきた。その『百棟抄』の内容や文型、各巻ごとの特徴や前後巻とのつながり、あるいは編纂史料との関係などを検討し、前述のような説を考慮しながら、『百練抄』の性格と編者について考察してみたい。
二『百練抄』の外観上の特徴
『百練抄』の性格と編者について(森) し、後嵯峨天皇践詐の前年、仁治二年(’二四一)まで続いている。同天皇践詐の仁治三年からはさらに増え、この傾向は同天皇在位中続き、その後の後深草天皇紀になると半減する。このような増減の原因として以下のことが考えられよう。単なる意味のない偶然であるか、編者の興味や嗜好の変化を示すものである。編纂が複数の編者によるものであるか、|人の編者による異なった時期の編纂によるものであるのか。あるいは、編纂材料の傾向を示すものであるのか。記事の内容を検討しながらこれらの問題を考えてみたい。さて、年間記載件数は天皇紀により、また巻によって異なる、という特徴がみられたが、その他にも次のような外観上の相違があげられる。各天皇紀の記事の区切りは、後堀何.四条を除いては同じである。すなわち、その始めは践詐の翌年、即位による改元の年の年(7)初からであり、終りは譲位の年の末までである。改一元年の年頭に新天皇の抄記を載せ、その後に在位中の記事を続けている。|巻が一天皇紀からなる場合も複数の天皇紀からなる場合も、この記事の区切り方は同じである。抄記は、即位前抄記・皇代抄記・大嘗会前抄記・大嘗会及御元服前抄記があり、その内容は一定していないが、いずれの抄記にも父母・践昨(受禅)・即位については記されている。大部分の天皇紀の記事の区切り方と異なる第十三巻後堀河天皇紀は、その譲位によって終り、第十四巻四条天皇紀は践詐の前日で終っている。続く第十五巻は後嵯峨天皇の践詐から記事が始
一
五
一
表 年干支表 本的には書かれていない。例外は表1のとおりである。 部分的に書き方が違っている。まず元号年の後にくる干支は、基 次に、各年・日付の後に書かれる干支についてみると、やはり はこの区切り方が第十三・十四・十五巻のみにみられるのであ 略」『扶桑略記』などにみられる編纂の方法である。『百棟抄』で 詐、あるいは譲位の時点を各紀の区切りとする方法は、『日本紀 各紀の区切り方を六国史以後の歴史書でみると、このような践 +まっている。 (8)
る○
六国史以後の他の歴史書『日本紀略』『扶桑略記』『本朝世紀』『帝王編年記』と『吾妻鏡』などには元号年の後には干支がはいっており、この点からみると、他の歴史書に較べて『百練抄』
巻 法政史学第四十六号
天皇-
11し年
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表2 年日干支有無表
『百練抄』では、第四巻から第九巻までと、第十一、十三巻には干支は一切記されていない。これらを除く第十巻以後では、干支が記されている日が大部分である(表3)。巻毎に日干支をみると次のとおりである。 は特異であると言えよう。日付に続いてくる干支は、『日本紀略』『本朝世紀』『吾妻鏡』では、稀に抜けていることはあるが、基本的には全てはいっている。『扶桑略記』では、干支のはいっている日とない日が混在している(表2)。
五 十九八五四 巻
同同士安高後同 花 御徳倉三条山 門条
天皇
寛和二年丙戌永延元年丁亥長徳四年戊戌延久元年乙酉嘉応元年乙丑養和元年辛丑正治元年己未同二年庚申元久元年甲子
年
即位改元年
即位改元年即位改元年即位改元年即位改元年 摘要 日本紀略扶桑略記本朝世紀帝王編年記吾妻鏡百練抄 書名
×○○○○○ 的に) (基本 年干支
△○×○△○
たまにぬけている有無混合ところどころない。性格違うせいもある
奇、、力ほとんどない。ほとんどぬけはな
巳loIv基本的にはないが、年によってははいっている。 日干支(基本的に)
「百練抄」巻による日干支の有無表 日干支無表 表3
表4 二件である(表4)。
は、次の表の他に関東に関するもの四件、寺社など三件の合計十 一九八)十一月十八日までの全巻に干支が記入されている。例外 第十巻天暦元年(二八四)正月一日辛卯から建久九年(’
’'1薑
『百練抄』の性格と編者について(森)
○○○○×○×○
内容
建久年間の賀茂祭、吉田経房に関する記事については、後の章
で他との関連をみながら内容を検討する。第十二巻建暦元年(’二一一)正月一日から承久一一一年(’一一 一一一)十二月二十七日までの全十一年間のうち、承久元年正月か ら同三年十二月二十七日までの承久三年間には干支が書かれてい
る。第十四巻貞永元年(’一一一一一一一)十月二十七日から仁治一一一年(’二四二)正月十九日までの全巻には、基本的に干支が記入さ
れている。第十五巻全体の約八分の一には干支が記されていない。寛元 元年(一二四一一一)七月五日より八月十五日の間は連続して干支が 記入されていないが、その他は平均的に干支のない日が散在して いる。記事の内容も天皇・中宮・女院。関白・寺社など、表面的
には際立った特定の主題はみられない。第十六巻基本的には全巻に干支は記されているが、宝治元年 (一二四七)五月・六月・七月の一一一カ月間に集中して干支のない 日が続いている。その記事の内容は、吉田経俊が係わる熊野新宮 遷宮に関するものが主である。同年八月八日と二十八日にも、先 頭記事ではなく同日二番目の記事として経俊に関する記載があ る。いずれも熊野新宮遷宮に関するものであり、干支は先頭記事 に伴って記入されていると考えられる。すなわち、この両日の経 俊の記事も先の干支のない五月からの一連のものとしてよいと思 われる。第十六巻に含まれる吉田経俊の記事は以上が全てであ
り、あたかも後から意図的に付け加えられたかのような印象をう五
十十十十十十十十四 七六五四三二_’
九 巻
○○○○×○×○×XXX
× ×
承久元~三年には有
全体の約八分の一は無く、有と混在。宝治元年五・六・七月に無しが集中。無が所々に混在。 日干支の有無
建久四年八月四日建久五年四月十八日建久七年四月十四日建久九年四月十八日同年十一月十八日 日干支のない月日
吉田経一房賀茂祭賀茂祭賀茂祭吉田経一房 内容
ける。これについても後章で検討する。第十七巻は、干支のない日が散在し、記事の内容は、上皇・中宮の富小路殿・北山第への行幸、勧修寺八講や吉田経俊など、勧修寺流に関するものが多い。以上みてきたことをまとめると、次のようになる。『百練抄』は巻によって記載されている日数が大きく異なる。特に後嵯峨天皇紀は最も多く、その後の後深草天皇期に移ると半減している。各天皇紀の区切りは、第十三巻後堀河天皇紀と第十四巻四条天皇紀のみが、六国史以後の他の歴史書と同じ様式、すなわち、践昨、あるいは譲位の時点をその紀の終りとしている。また、干支に関しては、年の後に書かれた干支は、二九二年中わずか九件のみである。基本的には年の後に干支は書かれていないと言ってよく、他の歴史書と大きな違いをみせている。日付に続いて書かれる干支は、第九巻までと第十一・十三巻には一切はいっていない。その他の第十巻以後には干支は基本的に書かれており、その中に干支のない日が散在している。この点について、また詳しく検討するが、ある特定の主題が認められるものが多く、あたかも後からつけ加えられたかのようである。結論として、『百練抄』全体を通してみた時、各巻の外観的な差異は顕著であり、『百練抄』が一人の編者によって短期間に編纂されたと考えることは難しい。すなわち、複数の編者によるか、|人の編者が異なった時期に編纂したと考えられるのではないだろうか。 法政史学第四十六号
それでは『百棟抄』はどのような編者によって編まれたのであろうか。まず、平田俊春氏が編者に近いと考えておられる勧修寺流吉田家の人々と『百練抄』との関係について検討してみたい。まず初めに、勧修寺流と賀茂祭との係わりについて検討してみる。賀茂祭は『百練抄』全篇にわたって記載のある行事の一つである。賀茂祭に関する記事は、長元一一一年、長久二年、承保三年、永久四年、保延六年、久安六年、久寿二年、保元三年の各年に記載がある。ここまでの内容は、賀茂祭に際しての衣裳過差禁制や従者数に関する事件や闘乱など、賀茂祭にまつわるエピソードだけである。仁安一一一年(’’六八)四月十八日条では、皇后宮便吉田経一房・近衛使藤原修範の名がはいり、朧の人名も記されている。平田氏は、ここに経房の名があることをもって「『百練抄』の編者が仁安ころから『吉記』を引抄していることを意識的に示したもので(9)あろう」とされている。しかし、この条文と同じように安元一元年二一七五)四月日条にも中宮使少進信広の名をあげて「袷将曹之条希代之事」とある。経房は信広と同じように、将曹を袷うことが希代であったことにより、使としてその名を記され、朧の詳細まで述べられているのではないであろうか。天暦元年、文治元年、同三年、建久元年、同四年にある賀茂祭の記事も、行事の単純な報告的なものか、それにまつわることで 三『百練抄』の編者について 一五四
ある。建久六年四月十七日条は、関白の賀茂詣の記事であるが、この前後、建久五、七、九年の賀茂祭の記事には前述したように、日付の後に干支が記されていない。これらの賀茂祭の記事には、使・朧などの名がはいり、特に建久五年四月十八日条では、行列の内容を過去の例なども引用しながら詳述している。建久七年四月十四日条では、典侍とその名が初めて記されている。典侍は藤原光雅女光子である。建久九年四月十八日条も、皇后宮便と近衛便
の名、及び朧の名まで記されている。仁安三年、安元元年の例と
同じように近衛便左少将雅親が「被し聴二禁色一父為二納言一其例稀也」と稀な例により記されているとも考えられるが、雅親はまた後述する後嵯峨天皇の外曽祖父、土御門通親の甥であるから、そのためにここに取りあげられているとも考えられよう。この建久五、七、九年の賀茂祭の記事の中には、五年に葉室大納言入道光頼男、宗頼の名が、七年には同孫、宗方と光雅女の名がみられる。建久九年十一月十八日条には新大納言経房の拝賀儀が先例二例の折中によって行われた、と記されている。その二例中の一つは、葉室入道大納言によるものである。この+|月十八日条も日付の後に干支がない条の一つである。経房が氏長者以後初人寺した建久四年八月四日条にも干支が記されていない。前章で述べたように第十巻中で日付後に干支が記されていないのは、関東に関するもの四件、寺社など三件、経一房一一件、賀茂祭三件であり、経房や賀茂祭の記事は、その前後の記事に較べて詳述されている。これらの条はすでに存在していたものに後からある意図『百練抄』の性格と編者について(森) をもってつけ加えられた、と考えられるのではないだろうか。先に述べた八月四日条は、経房の氏長者としての行動を記すために『百練抄』に加えられた、と一一一一口えよう。しかし、建久五、七年の賀茂祭や同九年十一月十八日条からは、平田氏が言われるような勧修寺流吉田家の優位よりもむしろ葉室家に力点が置かれているように思われる。建保元年四月十四日条は、中宮便・近衛使・典侍の名がはいり、また朧の名も記されているが、参内儀・出立所儀にみえるのは吉田家、葉室家両方の人名である。典侍が入道参議定経卿女(経房孫)であり、同時に按察使光親卿(光頼孫)室であることを考えあわせると、両家はこの時点では並び立っていると言えよ・つoこの後、賀茂祭は建保四年(’二一六)四月十四日以降、第十七巻正元元年(一二五九)四月一一十四日までの問に十八回の記載がある。寛元三年、宝治元年、正嘉二年については、朧の名まで記されているが、その他の年は賀茂祭にまつわる上皇などの記事もあるが、毎年「賀茂祭也、近衛使何某」とほぼ同じ文体が使われている。寛元三年四月一一十一日条は、近衛使右少将公寛春宮使蔵人左衛門権佐兼大進経俊龍殿下左府生久員有同右府生頼峯中宮便頭右中弁兼亮時盲同朝臣とあり、吉田経俊のみが朧の明細まで記されている。ちなみに吉
一五五
田経房が仁安三年四月十八日の賀茂祭で皇后宮便を務めた時の官位が、「皇后宮便蔵人左衛門権佐兼大進経一房」と経俊のそれと全く同じである。経房のほうは「雛二五位一給二将曹一之条希代也」と小書があり、両者の対比か、あるいは経俊が曽祖父と同じ官位で春宮便になされたことを示すために箙まで記したのかも知れない。
宝治元年四月十四日条では、近衛便左中将隆兼朝臣と朧の名が
記されている。正嘉二年四月十八日条では、「左近中将具忠朝臣為し便」と「中宮使亮高経朝臣」の両者に対する熊の名がある。前者は土御門通親の孫であり、後者は経房のひ孫である。以上、賀茂祭と勧修寺流との係わりをみてきたが、安元元年までは「希代事」がある場合、賀茂祭の便に対して職など詳細が記されている(第八巻まで)。建久五年以降、建保元年(第十巻から第十二巻)までは、賀茂祭の記事のうち、詳細が記されているものは、他の日と異なり日付の後に干支がない、などの特徴がある。後から挿入された、とみることもできよう。そして、賀茂祭の詳細が記されたものには、吉田家というよりもむしろ葉室家の人々が多く登場している。しかし、寛元三年(第十五巻)以降は、賀茂祭が記されている年数が多い割には全体として日報的な操返しが多く、詳細が記されている年はわずか三年と少ない。それに登場するのは、吉田経俊・高経兄弟、源具忠、四条隆兼である。第十五巻以降は、葉室家より吉田家の人々に関する特記が多いと言えよう。また、賀茂祭に関して、源雅親・具忠と土御門通 法政史学第四十六号親の関係者もその詳細部分に現われている。さて、第十六巻中で干支の記入のない日は、宝治元年(’二四七)五月、六月、七月の三ヵ月に集中していることは前章で述べた。それについてここでさらに検討してみたい。その記事の内容は、主として吉田経俊が後嵯峨上皇の院司として熊野新宮遷宮に係わるものである。第十六巻に含まれる吉田経俊の記事はこれらが全てである。平田氏は「とくに経俊のことが(旧)特筆されている」と一一一一口われるが、そうとは一一一一口い難い。なぜならば、「宝治元年十一一月、右少弁となって、いわゆる三事兼帯の栄(Ⅱ)職をになった」時の}」とは、ただ「十一一月八日丁亥、京官除目也」と記述されているだけで、具体的にとりあげられていないのは釈然としない。第十六巻で「京官除目」の記載のあるのは、建長二年(’’’五○)十一一月一一十四日、同三年十一一月二十一一日、同四年十一一月四日、同五年十二月五日条であり、宝治元年の「京官除目」の記載は経俊に関して特別の意味はないと思われる。次に経俊の名が現われるのは、七年後の第十七巻建長六年(’二五四)正月二十六日条においてである。すなわち、これらのことから考えられるのは、第十六巻に関しては、土台としてあったものに熊野新宮遷宮に関する吉田経俊の記事が後から挿入されたのではないか、ということである。次に、氏の結束を示す勧修寺八識の記事を拾いだして勧修寺流の中における吉田家の存在を検討してみたい。勧修寺八講は、八月の初めに開かれるが、これが初めて『百棟抄』に現われるのは建久四年八月四日条である。
一
五六
四日、民部卿経房、氏長者以後初人寺、盧従人左大弁宰相定長、権右中弁定経朝臣、蔵人左京権大夫光綱、蔵人右衛門権佐長一房、勘解由次官清長、前駈六人、共侍舟余輩、右佐随兵二騎、この条文は、すでにみたように、前後の条文と異なり、日付後に干支のないものの一つである。すなわち、吉田家がからむ後からの挿入とも考えられるものである。以後、勧修寺八讃に関する条文は次のとおりである。(正治元年八月)四日、大納言経房、l後初人寺、属従人新宰相定経、宮内少輔能元同車、右中弁長一房朝臣、蔵人勘解由次官清長、左衛門権佐光親、参河守資経八人、後騎左兵衛尉重継、共侍三十二人、左佐随兵三騎、(仁治二年)八月四日己未、勧修寺八講結願也、頭左中井定嗣朝臣人寺、丹波守高雅屋従、侍十人、所衆六人、瀧口七人召具云々、(建長七年)八月一日乙丑、勧修寺八講初日也、大理顯朝卿入寺令レ具二一員((康元元年)八月一日、勧修寺八講初日也、氏長者後民部卿
忠高、始入寺、勘解由次官高俊一一千石高朝雇従、舸樒一「仏
(正嘉元年)八月一日、時々雨降、勧修寺御八講初日也、頭左大弁経俊朝臣人寺、儀先御蔵小舎人石、弁侍左、二行、次官掌二行、次車、次蔵人所左、瀧口右、二行、次侍十人也、平田氏は、勧修寺流の主流として、経房・定経・資経と続く吉田家を重視されているが果してそうであろうか。みてきたように『百練抄』の性格と編者について(森) 氏の結束を示す勧修寺八講の記事のなかに一貫して記されているのは、長一房・定高・忠高・高俊の流れである。康元元年、正嘉元年の条は、それぞれ前後の条には干支があるのにこの日には干支が記されていない。特に正嘉元年の条は、吉田家の儀式が詳述されていることからも後のつけたしと考えてよいだろう。経俊については、すでにみてきたように、熊野新宮遷宮に係わる一定期間、集中的にその記事が挿入されていると思われるが、ここでも同様に挿入が行われているのであろう。同様のことは、正嘉二年十一月一日条の経俊が奉行した任大臣節会や、同年十一月四日条の経俊の直衣始の記事についても指摘できよう。確かに『百練抄』には吉田家に関する記事が作為的に挿入されたと考えられる部分がある。がしかし、それをもって『百棟抄』は吉田家の人の手によって編纂された、とすることはできないであろう。さて、「百練抄』には全巻にわたって死亡記事が記載されている。そこで、その分析を通して編者の地位や立場を考察してみたい。死亡記事は、第十四巻までは上皇・天皇・皇后・女院・法親王など皇族関係のもの、正二位以上のもの、関東関係、僧、往生者、事故によるもの、あるいは記事の前後関係でその死亡に言及されたもの、などに区分できる。たとえば、次のような例がある。(承久二年)九月二十八日甲寅、民部卿入道親範卿覺、年八十四、
一五七
顕隆
鰯
隆殿FFr-コ
光房隆方憲光竃憲
法政史学第四十六号
大蔵卿殿
高藤l定方l朝頼l為輔l官一孝l隆光l隆方l為房
顕能1重方l能頼I光時 顕長 顕頼
雷6 定経女一一 定女光為経資
高経定兼経
F1可、-1-F引定
女忠女女資高経為一盲
壜醗f'i三lRi苣旱プ 高一宣経経俊経経経
俊房世継定長藤任
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藤隆定経為為 房長房守俊方
兼隆 長定資親
兼房頼俊
典lliL喜上ム 朝朝~要雫㈱
頼親
定嗣
は、『尊卑分脈」によると、贈左大臣正一位となってい る。これをとると前述の区分では、「正一一位以上のもの」 に含まれる。また、八十四歳で蔓じたことを考慮すれば、 「往生者」に含めてもよいことになろう。 ところが、第十五巻後嵯峨天皇紀からは、前述の区分に はあてはまらない例が多くみられる。「正一一位以上のも の」に含まれない人々、すなわち、「正三位以下」の人々 の死亡が多く記載されているのである。例をあげると、三
位にはまず、長房(寛一兀一元年正月)十六日癸巳、海性山民部卿入道入滅
年七十四、(寛一兀四年十月)七日壬辰、前浜棚櫛経費卿葵、 (建長一一一年七月)十五日、入道太宰大敵資経、自二去春 比一病悩、遂以莞、雄卑七土、臨終為二正念「 (同三年八月十日)戊戌、(中略)前参議入道長朝卿莞、 などがある。長房は、定高の父であり、勧修寺八讃でもみ たとおりである。経賢(本名I兼)は、資経の弟である。 為経(正二位)は、資経の子であり、定高の女婿でもある が、康元元年六月九日条で「戊辰、入道中納言為経卿襲四
十七、」とその死が記されている。以上の三人は勧修寺流である。長朝は、三条長兼男である。長兼の日記『長兼卿記』 は、第十一巻土御門天皇紀の中で抄引されているが、これ は『百棟抄』で具体的に日記名が記されている最後のもの
一五八である。四位以下のものは次のとおりである。典薬頭基成朝臣(和気、正四位上)、陰陽権助兼権天文博士季尚朝臣(安倍、正四位下)、陰陽頭安倍忠尚(正四位下)、左大史小槻季継宿祢(正五位)、典薬頭清成朝臣(不明)、中将氏道朝臣(不明)、刑部大輔知仲(源、従五位上)、内匠頭知成朝臣(和気、正四位下)、天文博士安倍家氏(正四位下)、大夫史小槻淳方(宿詐)、賀茂神主久継、大判事中原章行(不明)、少将源師行朝臣(不明)、直講清原隆尚(不明)これらの官名のほとんどは明法家である。中原章行(不明)は、後嵯峨上皇によって補された文殿衆十名のうちの一人ででもあったから、あるいはそのあたりのことによって記されているのかも知れない。がしかし、それならばなぜこれらの人々が、第十四巻までの原則からはずれてとりあげられたのであろうか。それは、第十五、十六、十七巻の基礎材料となった書物の著者、そしてそれをとりあげた『百練抄』の編者の位階がこれに近い四位、五位あたりであったからではないだろうか。それでは、『百練抄』の編者の位階が四位、五位あたりとすると、どのような官職にあったのだろうか。それを推測するため、飛躍的に年間の記載日数が増える第十五巻以降と、それまでの比較的記載日数の少ない第十四巻との内容を検討してみたい。第十四巻では、平野・春日・賀茂・稲荷・杜本・当宗・梅宮・園弁韓神祭や、伊勢・宇佐・熊野・平野社・大嘗会などの神事、
『百練抄』の性格と編者について(森) 小朝拝・即位・諒闇儀などの公事、天皇・公卿などの動向、勘間・勘申、御卜、相論・訴訟・群議など、第十三巻までと分類的には同様のことが記載されているが、この巻の特徴は、ある行事を行ったり、行わなかったりと何かを決定する際に、諸道勘申したり、何時の例であると具体的に前例をあげるなど、結果だけでなく、その過程や根拠を記していることである。例えば、(貞永元年十一月)十九日己丑、五節舞姫参入、御即位以前五節、安和、保元等例也、永観、寿永被し止し之云々、(天福元年四月)廿一一一日T酉、賀茂祭也、上皇召一一摂政車一御見物、御同車也、保延二年例云々、(同年十一月)七日丁未、故女院御忌日也、佃不レ被し立二春日祭使一依二応徳例一当日不し被し立者、などである。また、これらの先例にのっとらない時や軌範にあわないと感じられた場合には、(天福元年六月)十六日己丑、(中略)大嘗会以前僧事宣下如何、
(文暦元年七月)十八日乙卯、今日、院御所酎繊駒潤上棟也、
前相国以二土佐国一被二造営「御不予之間不レ被し憧二比事一如何、(嘉禎元年)四月三日乙丑、故摂政凶礼也、祭以前有二比事一先例如何、とか、文暦元年九月十日条では「無一一先規一事也」と記している。さらには、「世以驚レ目」「末代之法也」「其例希云々」「先例希一五九
云々」「希代例也」「希代事也」「未曽有事也」と事実を述べるだけに止まらず、事あるごとに感想を記している。嘉禎元年十二月一一十四日条では、「依三春日御賢木著。御宇縣一京官除目定考今年不し被レ行、尤不快也」と官人としての感情をそのまま記している。延応元年二月一一十一一日の後鳥羽法皇崩御の報には「去承久三年已後及二十九年一天下貴賎誰不一一傷哀一哉」と感傷的に記している。また、この巻では最勝王経・孔雀経・愛染王経。|切経・五壇法・大般若経・如法経・七仙薬師法など、具体的な経名が多くみられるが、維摩会に関する記載があるだけで、最勝会や季御読経など仏事についての記載はみられない。以上のように、第十四巻は「上卿の指揮のもとで朝儀・公事を(旧)奉行し、その記録にあたり、先例を調査上申」する立場にある外記が、あるいはかって外記を務めたことのある者が、外記の業務に対して、自分の意見や感想を述べている、とみてよいであろう。そして、これは公的な立場で書かれているというより、個人的な日記の形に近いものであるといえよう。第十五巻以降の後嵯峨・後深草天皇紀になると、第十四巻と同様に外記の業務に対する記述が主であるが、内容は批判的な記述や感想が次第になくなり、業務に対する公的な日報、あるいは事務的とも言える書き方に変っている。そして、後深草天皇紀になると、後嵯峨天皇紀では記載にバラつきのあった正月一日の行事、賀茂祭、除目、五節舞姫など年中行事的な記載は定期的に現れてくるようになり、その文型も定型化している。 法政史学第四十六号
正月一日の例をあげると、宝治元年正月一日乙卯、摂政家拝礼也、又院井中宮拝礼也、小朝拝節会如レ恒、宝治二年正月一日庚戌、四方拝、小朝拝、節会、院摂政家拝礼等如レ常、など、後深草天皇紀十三年間のうち十二年に記載がある。最も年間記載日数の多い後嵯峨天皇紀でも、正月一日の行事は毎年記載されているわけではない。除目は、建長元年までは県召除目、京官除目が年によって片方だけの記載であったり、両方であったりとバラつきがあるが、建長二年以降、正嘉元年までは両方の除目が記されている。特に第十七巻になると、毎回執筆者名が記されている。行事の執行者、あるいは担当者氏名が記されているのは第十七巻の大きな特徴である。奉幣使や祭使の氏名、内弁を勤めた者、五節舞姫の割当、それまで件名だけが記載されることの多かった軒廊御卜も、件名とそれを行った公卿名が記されるようになっている。これらの傾向は、第十六巻の建長年間に現われだしたのだが、第十七巻では確実なものとなっている。また、第十七巻では、文末に「云々」と書かれている記事が非常に少なくなっている。上皇に関して四件、園城寺二件、事件など三件、合計九件のみである。第十六巻まで「云々」は様々な場合に使われている。「云々」が使われていないのは、第十七巻の特徴である。益田氏が、『百棟抄』末尾の部分には、編者自身の日記を利用しているのではないかとする説がある、と述べておら 一・六○
れるゆえんの一つでもあろう。その他、第十五巻以降の記事が、日記的な書き方より、公的日報のような傾向を示す例として、順徳院崩御の記事をあげることができよう。後嵯峨天皇紀の仁治三年十月七日条の同院崩御の報に際し、先の後鳥羽法皇の時のように感傷的ではなく、「佐渡院去月十二日於二彼国一崩御之由披露云々、御年四十六、大礼之問、人々成二不審一難し然遠所御事、先例公家無二被し行事一之由、沙汰切云々」と極めて事務的に記している。第十四巻の後鳥羽法皇崩御を伝える記事には、昔を知る高齢の編者の哀感が読みとれるが、ここには事実だけを伝える編者の客観性が感じられるだけであ
る。結論として、第十四巻から第十七巻までの史料として、外記あるいは外記を務めたことのある者が記した記録が用いられている、と言えよう。第十四巻は、朝儀・公事に関して先例を引いたり、あるいは先例の無いことを指摘したりしているが、一方では私日記のように個人の意見や感想を自由に述べている。第十五巻以降になると、朝儀・公事について定型的な文体で、もっぱら事実のみを記録するようになっている。行事に関係した貴族や担当官人の名前の列挙も多く、外記局の日報をそのまま使用しているかのようである。このようにみてくると、第十四巻以降は巻によって視点は異なるが外記あるいは外記を務めたことのある者の手で編纂されたと考えられよう。
『百練抄』の性格と編者について(森) 前章では、『百棟抄』の編者を考察するために第十四巻から第十七巻までの特徴を挙げてみたが、ここでは『百棟抄』の平安時代にあたる部分の編纂の材料を比較、検討してみたい。まず、第四、五巻の中で『或記』となっているものや、『百棟抄』には日記名が記されていないが、他の日記に同様の、あるいは類似の記事がみいだされる例を挙げる(傍点筆者、以下同様)。『百練抄』では『或記』と記されているもので、材料がわかっている例を挙げる。『百練抄』『小右記』(寛弘二年十一月)廿(寛弘二年十二月)十日、甲申、頭七日、遷.幸東三条院「中将示送云、神鏡昨奉移、但開旧御
或記云、十二月九日、韓横、将奉納新辛憤之間、忽然有如
奉レ移二神鏡於東三条日光昭耀、内侍・女官等同見、神験院一開二旧韓積「将猶新、最是足恐驚者レ奉レ納二新調韓積一之間、忽然有下如二日光一照濯』内侍女宮等同見、神験猶新&最是足二恐驚一之、『百練抄』『、氷昌記』(天永元年)四月廿一(天永元年一一一月)四日壬寅院尊勝日、仰二諸道一進二勘文一院羅尼供養、(中略)事未終参御鳥 四『百練抄』編纂の材料’一ハ一
このように『或記』となっている場合にも、『小右記』や『永昌記』といった具体的な日記名を挙げることもできる。寛弘二年十一月二十七日条は、少なくとも実資と頭中将源頼定、内侍、女官などが同じことを見、知っていたのであるから、『或記』や『小右記」以外の記録があってもおかしくない。一方、天永元年四月二十一日条の内容は、記者の感想である。このことを考えれば、『或記』は『永昌記』ということになる。この条は、『永昌記』からの採用と考えて間違いないであろう。また、『百練抄』には日記名は記されていないけれども、他の日記の中に『百練抄』と同様の、あるいは類似の記事がみいだされる例もある。『小右記』『水左記』『永昌記』から、その例をいくつかあげて比較してみる。『百練抄』(寛和)元年二月十一一一日、太上皇幸二雲林院辺一子日野遊、左右大臣已下陪従、京洛野辺見物車如レ雲、 或記云、三月五日雪下、寒気甚、苛政甚之故也、 法政史学第四十六号
『小右記』(寛和元年二月)十一一一日、戊子、已時許参院、今日御子日也、御々車令向紫野給、左右丞相・大納言為光・朝光大将、(中略)公卿皆騎馬、着直衣・下重、以桜拍挿、左大臣追候野口、太上皇於野口乗御々馬、右衛門尉惟風・左馬允親平等為御馬朧、殿 羽、依陀羅尼供養事也、自暁雪降、積庭陸寸、辺山過尺、寒気如冬、後漢之末盛夏有寒、非時殺人、苛政之甚也、
(嘉承元年)十二月廿四日、公家供。養園城寺金剛頂院「 (承暦四年)閏八月五日、諸卿定。申高麗国王申医師事一以二権左中弁匡一房朝臣{可し令し書二宰府返牒{云々 (同)五月廿一日、信濃国所し献之白雄、候二蔵人所一之間一足折、放二北山一畢、 (寛和元年)三月廿六日、上皇御.覧臨時祭一公卿侯二御車辺「
(同二年)五月三日、 上侍臣皆悉布衣、京路野辺見物車如竈「(同年三月)廿六日、庚午、降雨、(中略)依請院可御覧臨時祭之由有其告、佃馳参、於後院御門御覧也、源大納一一一一口・左右大将・藤中納言・左衛門督両三位参入、候御車辺、還御之後、於院公卿有酒事、(同年五月)廿一日、乙丑、剋限参内、入夜参院、候宿、被放信濃国之所献白唯於北野奥山、以右近将曹秦興蔚、看督使布勢信茂等被遣放、『水左記』(承暦四年閏八月)五日甲子自夜雨下、朝間如沃、午剋以後快晴、已剋許令申博陸云、今日高麗国申医師亭可令定申也、而右大臣内大臣共称有檸不被参、(後略)『永昌記』(嘉承元年十二月)廿五日壬午天晴(中略)比日公家被供養薗城寺内金剛頂院、偏被追羅喉院供養例也、(後略)(同一一年五月)三日戊干天晴、今 一一ハーー
以上、ここまで『百練抄』の編者、『百練抄』の性格と編纂材料、について考察してきたが、最後に『百棟抄』の編纂時期にっ 今年朔旦冬至相。当日日御物忌、奏文書等、次参殿下祗候蝕一可し勘。申准拠例一御前、已及二時、執申条々事、次参之由、被し仰二諸道一左府、宣下来十一月朔旦冬至相当日蝕、仰紀伝、明経、明法、算、陰。。。・・。(ママ)陽、天文、暦道等、及太宰権師、大江朝臣宜勘申准拠例者、又大法師深算申、(後略)以上、第四・五巻の記事の一部をみてきたのであるが、平田氏は「このように『百棟抄』の根幹が『外記日記』であることは、こののち花山、|条、三条、後一条の各天皇記についても同様に(旧)論証できる」とされているが、この花山天皇紀の寛和一兀年の記事は、前述のように『小右記』にもみられるのである。後朱雀天皇紀の長久元年十二月四日条に、外記記云、十月廿一一日、左大臣室従一一位源朝臣供。養三井寺堂行堂一云々、但不レ見二諸家記一可し勘し之、とあるように、『外記日記』も他の日記類も併せて、その中から記事を採録していったとみるほうが自然ではないだろうか。もちろん、『日本紀略』の場合と同じように『百練抄』成立の基礎として『外記日記』があったことは否定されるべきではない(M)が、〈「亡心れてならないのは、その他多くの記録の存在であろう。
五「百練抄』の編纂時期lむすびにかえてI
『百練抄』の性格と編者について(森) いて検討し、結びとしたい。まず、記事の中心となる事柄を巻ごとに比較、検討し、その違いについて述べる。第十巻では元暦元、文治元、二年頃の部分は、武士に関することを述べながら、神仏行事の開催などについても細かく記している。官庁内のことだけでなく、当時の状況を感情を交えずに簡潔な文章で記述している。簡潔な文章という点では、第十七巻に通じるが、第十七巻にみられる官庁の内からだけの視点で見、記述するという視点の低さや狭さはない。視野の広さや深さを読みとることができるように思う。また、第十一巻では、上皇や寺社の記事は多いが、官人の活動や氏名の記述はない。第十二巻では、上皇・天皇の記事は多いが藤原氏に関する記述はない。このように巻によって特徴がみられる。また、年間記載件数の多少によって、明らかに記事の内容が異なっている。つまり、第十五巻以降、年間の件数が多い巻では、外記の業務についての記述が多くなり、|つ一つの行事や儀式についてもその手順や役割が詳しく記されている。このように巻によって視点や関心が異なっているのは、『百練抄』が『外記日記』のみを主材料として編纂されたのではなく、他の公記録や公家の日記などを使って、複数の人の手で編纂されたからではないだろうか。そしてすでに編者の官職が外記、あるいは外記であったろう、と述べたが、年齢的な幅や視点の相違などを考慮すると、その作業が可能な複数の人々がいる所として外記局があげられよう。『百棟抄』は外記局の宮人達によって編纂
一一ハーーー
された、と考える。また、『百練抄』の編修は、文型やその他の外観上の相違から考えると、巻ごとに手分けして作業されたと考えるより、各人が何年分かを分担し、後に巻ごとにまとめられたと考えるほうが自然であろう。そして、本稿では明確に区分することはできなかったが、編纂の時期は前後に大きく分けられるのではないか、と考える。第十巻あたりを境として、後半は後嵯峨院政期、前半をその後の一二七○年以後と考える。前半・後半の文型や各天皇紀の記事の中心となる事柄が異なる、という以外に次のことを検討してみる。『百棟抄』の編纂時期を考える手がかりとして、全巻を通じて記載のある「正二位以上」の死亡記事について検討する。ここで天皇関係者と並んで取りあげられている人々は、主として摂政経験者である。反対に摂政経験者でありながら記載されていない人達もいる。藤原師家と九条兼実である。両者の摂政・氏長者停止の後、それに代ったのはいずれも藤原基通である。師家のその後の消息は、貞永元年(’二一一一一一)九月六日条に「前摂政師家、於一天王寺一出家」とその結末が示されている。停止から約五十年後である。しかし、兼実の場合は、建久七年(一一九六)十一月二十五日条で関白・氏長者停止を記されているのを最後に、後の消息は一切記載がない。兼実が土御門通親の政敵であり、何らかの理由で政治の表舞台から消えたことと考えあわせてみることはうがち過通観ぎであろうか。通親の死は、建仁一一年十月一一十一日条に「内大臣 法政史学第四十六号
源雅通
通土親御
通資l雅親市鱗1通清
帯、早奎蕊弄需煎T;
通雅通通通顕顕通通具具具具通任土持家頼成&㈱=il洲童子T認
基教具定後嵯峨 一六
さらに、第十 ないだろうか。 なずけるのでは れているのもう の消息が無視さ 実の摂政停止後 と考えれば、兼 を後嵯峨院政期 抄』の編纂時期 であるが、『百練 天皇の外曽祖父 通親は後嵯峨 の人である。 記載のない唯一 の最後について でありながらそ は、摂政経験者 ている。兼実 の死は無視され 二○七)の兼実 る承元元年(’ 一巻中に含まれ ある。同じ第十 葵去」と記載が 四
六・十七巻には通親の子や孫に関する記事が多数みられる。宝治元年九月二十八日定通薑、同二年正月十八日通光覺、同月一一十日俊定出家、建長元年十一一月四日雅親薑、同二年十一月二十四日通忠勇、同三年三月四日具実出家、同七年四月十一一日顯定出
家、正嘉元年三月一一一日親子趣蝋出家、などである。
以上のことから、第十巻位から第十七巻までの編纂時期を後嵯峨院政期と考える。後嵯峨院政期の中でも、西園寺実氏が出家して、入道と記されていることから、文応元年(’二六○)十一月三日を上限として、文永六年(’二六九)頃までを後半部分の成立時期とみたい。一方、『百練抄」後半部分の海外への言及のなさに比して、第四・五巻では年間記載日数の少なさにもかかわらず、常に一定してそのことがとりあげられている。’二七○年代以降は、海外の動向が京都にも不安をもたらしていた時期である。そのような状況を反映して、『百練抄』前半部分は嘉元二年(二一一○四)を下限として、この間に編纂されたのではないだろうか。ここで思い出されるのが『吾妻鏡』のことである。八代国治氏は、『吾妻鏡』の編纂時期を、将軍前一一一代記は仁治一一一年(’二四一一)七月以後、下限は文永一一年(’二六五)’’一月二十八日から同十年(’二七一一一)五月十八日の間とされている。また、将軍後二代記は正応一一一年(一一一九○)二月十一日から嘉元一一年(一一一一○四)七月十六日の間とされている。そして、『吾妻鏡』を鎌倉幕(旧)府の編纂物であると位置類つけておられる。『百棟抄』が幕府と直接関係して編纂されたとは言えないが、『吾妻鏡』編纂に触発さ『百練抄』の性格と編者について(森) れたことも考えられるのではなかろうか。そして、後嵯峨院政期に一旦できあがった土台を基に、勧修寺流部分の書き加えがなされたのではないだろうか。その時期がいつであるか、前半部分と同時期であるかどうかも本稿では考察できなかった。もちろん、第十七巻にみられるように勧修寺流lそれが吉田家であれ葉室家であれ’の名前が多く登場するのは、橋本義彦氏がいわれるように、この時代は中流貴族である彼らがまさに実務家的官人として大いに活躍していた時代であったからであ(略)ろう。そして、他の幸早でみたように、いくつかの記事は、すでにあった『百練抄』に本来とは異なった主旨で後につけ加えられたと考えるのであるが、そのことによって『百練抄』が吉田家の歴史を語るものとは言い得ないであろう。むしろ、『百練抄』各巻の奥書にある金沢貞顯書写校合が、吉田定一房や万里小路三房の本をもってなされたことや、後の彼らの朝廷、幕府間での活躍を考えあわせてみるとき、書き加えは自流の重さを示そうとした一つの手段と考えることもできよう。さらに今後、『百練抄』と『吾妻鏡』や鎌倉幕府との関係などもあらためて考えられなければならないと思う。
ニノ、
五
表5「百練抄」日数合計表
政史学第四十六号一ハーハ
巻 代天皇 〕U 号 西暦 日数 合計 巻 代天皇 兀 号 西暦 日数 合計
44444
63冷泉 64圓融
65華山
66-条
67三条 安和元 ---2-
天禄元
2 3 天延元
2 3
貞元元
2 天元元
2 3 4 5 永観元
2 寛和元 ---2_
永延元
2 水iii乍元 正暦元 2 3 4 5
長徳元
2 3 4 長保元
2 3 4 5
寛弘元
2 3 4 5 6 7 ---8_
長和元 2 3
968
970
973
976 978
983
985
987
989 990
995
999
1004
1012
184163 j*く十 l+6262195543-89 112111211111’一11l+++++++++++++’+++0098597637527994793054726346-1111
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58+2
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_」83土lfL-
444
68後一条
69後朱雀
70後冷泉 4 5
寛仁元
2 3 4
治安元
2 3 万壽元
2 3 4 長元元
2 3 4 5 6 7 8 ---9-
長暦元 2 3 長久元
2 3 4 寛徳元 ----2-
永承元
2 3 4 5 6 7
天喜元
2 3 4 5
康平元
2 3 4 5
1017
1021
1024
1028
1037
1040
1046
1053
1058
l+95 121-『-1-1221-十十一十十十十十十十十9573441203642403131475298953092667154665698965
-111
27+4
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11 liil…■ 34297洲一
十『百練抄』の性格と編者について(森)
六七
5555 71後三条
72白河
73堀河
74鳥羽
67元234暦治
延久元 2 3 4
5 承保元
2 3 承暦元
2 3 4 永保元
2 3 応徳元
2 3
寛治元
2 3 4 5 6 7
嘉保元
2 永長元 承徳元 2 康和元
2 3 4 5 長治元
2 嘉承元
2 天仁元
2 天永元
2 3
1065
1069
1074
1077
1081
1084
1087
1094
1096 1097 1099
1104 1106
1108 lllO
11++3429791 1-lllll+|++++++8227一24178909-44685111lll-1 11++615901717175564938577111-1111-61022
111
154+8
49+I
118+6
_」94士』1-- 6
777
75崇徳
76近衛
77後白河
78二条 元2345元2元234久永安、水元保 元2元2345元元23元23456元治治承承延治天大天長保氷 元2元元23456元23元2治養安平寿康天久仁久 -工23-兀保 元元元2治暦保平永応
1113
1118 1120
1124 1126
1131 1132
1135
1141 1142
1144 1145
1151
1154
1156
ll59 1160 1161
lll+++86781867981110
1 11113l+++++++5263612847-585
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10 8 6 10
8+I 9 7 8 21+1 14
9 10+1
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14+1 8 12+1
17 17 6 13
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136+6
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I
法政史学第四十六号9
戸 「ml ukll
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六八|:|I
◎今月7
8
79六条
80高倉 元2元寛万長永 元23安仁 元2元234元2元23応安元承嘉承安治 ノ
1163 1165 1166
1169 1171
1175 1177
16 15 19 11+1 25 15
21121132++++++++820827939695222232-3423Fj
103
51+I
378+13 13
86後坑|河 23456元23久承 元2元元2元2元23元応仁禄貞喜永貞元嘉安寛貞
1219
1222 1224 1225 1227 1229
12
2324077554344315 21l+++715662611111138-29221
454
193+4 9 81安徳 養寿 和、水 元元2
1181 1182
43+2 16+2 56+4 115+8 10 82後鳥羽 元文建 勝治久 元元2345元23456789
1184 1185
1190
38443- 62401122780022566
28()
11 83士御門 正建元建承 治仁久永元 元2元23元2元元234 1199 12()1
1204 1206 1207
958-61987917221233322333
361 12 8/111頂徳 建他 暦保 元2元 1211
1213
798434
14
87四条
元元元元23元元元23永福暦禎仁応治貞天文嘉暦延仁
1233 1234 1235
1238 1239 12'10 '242
119175999161535323224
358
15
88後嵯llMi
3元234治元仁寛
1243 106+’
109+1 70 128+2 119+I 532+5
16
89後深草
元2元2345治長宝建
1247 1249
21++071848326647781
531+3
17 後深草
67元元2元元嘉元康正正
1256 1257 1259
+692540877661
1 476+1
合計 5281+100
注(1)太田次男・小林芳規『神田本白氏文集の研究』一二八頁(勉誠社、一九八二年)。(2)太田品二郎「「百練抄」か「百錬抄」か」(『(新訂贈補)国史大系月報』二七、一九六五年)(3)『国史大辞典』「百錬抄」の項(溢田宗氏執篭)。(4)平田俊春「百練抄前篇の批判」「百練抄後篇の批判」S私撰国史の批判的研究』国書刊行会、一九八二年)。
(5)編緬国史大系百錬抄』凡例二頁「月の上には○、日の上には
○、是月、是春、是年、今年、近日などの上には◎を加えて」に従い、○・○・.各一つを各々|件として数えた。(6)平田俊春「私撰国史の系譜I外記u記を通してI」(前掲注4所収)一二二七頁に全年代、とあるが万寿二年は欠けている。(7)白河天皇即位の時は、即位の翌々年に陽九井三合災による改元を行い、延久六年八月二十三日をもって承保元年とした。(8)記事の区切りが特殊なものは次のとおりである。/■、〆~、/~、/ ̄、/-,
131211109
、-、=〆、_ノ、_〆、=〆
『百練抄』の性格と編者について(森) ■天皇I注(4)前掲論文一○四○頁。『国史大辞典』「外記」の項(楠本義彦氏執筆)。注(4)前掲論文七六六頁。 注(4)前掲論文一○六八頁。 注(4)前掲論文九六七頁。 記事始 〔付記〕本稲は、’九九三年一月法政大学通信教育課程文学部史学科に提出した卒業論文に一部加筆したものである。本稿の執華にあたって御指導頂いた中野栄夫先生、仁平義孝氏に、末筆ながら深謝の意を表したい。 (u)木本好信二外記日記』について」(『米沢史学』二号、のち『平安朝日記と逸文の研究』桜楓社、一九八七年)。(旧)八代国治『吾妻鏡の研究』(芸林舎、一九一三年)。(旧)橋本義彦「勧修寺流藤原氏の形成とその性格」(『平安貴族社会の研究』吉川弘文館、一九七六年)。
一六九
151413 巻
儘窒簾
|蛾河天皇
貞応元・正・3貞永元.m・町仁治3.正・加 記事始
貞永元・川・川仁治3.正・旧寛元4.胆・別 記事終