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権藤成卿と大川周明-大正デモクラシーから昭和ファシズムへの転回

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(1)

権藤 成 卿 と 大 川周 明

‑ 大正 デモ クラ シ ー か ら 昭 和 ファ シ ズ ム へ の 転回

四 三 二 一

目次

天皇論

アジア

権力論

美 紀彦

(2)

一、はじめに(1)権藤成卿は従来右翼思想家としてとらえられと‑わけ「血盟団事件」や「五二五事件」の黒幕としてその名が(2)知られている。そうした従来の権藤成卿のとらえ方に対して私はかねてから異論を唱えて

本論文ではそうした今までの私の権藤成卿研究から一歩踏み出し'権藤成卿を大正デモクラシー「晩期」の思想

家として位置付けてみたい。

大正デモクラシーを代表する思想家は言うまでもなく吉野作造である。吉野作造の思想のキーワードは「民本主

義」であるが'この吉野の「民本主義」よりもラディカルな思想を権藤は有していた。それは「君民共治」や「人

心」をキーワードとする思想であった。

こうしたラディカルな思想を持っていた権藤は私の解釈によると「血盟団事件」や「五・一五事件」等をきっか

けに政府権力によって歴史の表舞台から遠ざけられていったと考える。

昭和七年の「五・1五事件」は戦前日本の軍部の台頭・議会政治の終幕を象徴する出来事であるが、この事件を(3)(4)めぐって権藤成卿と大川思想的に対立した事実はあまり知られてい

この思想的対立を契機に権藤は思想や歴史の表舞台から消えてい‑が'それに代わって台頭したのが大川周明で

ある。大川周明は「五二五事件」後その政治犯として服役するが'釈放後は戦時体制へ向かう戦前日本の「統制

経済」体制の推進者として、また対英米戦争へと国民を駆‑立てるプロパガンダの思想家としてまさにこの時期

昭和ファシズム期‑を代表する思想家になったのである。

本論文はこの二人の思想の交代をこの時代の歴史の転回を象徴するものとして論じょうとするものである。

その比較の分析視角として①日本史論②天皇論③アジア観④統制経済論⑤権力論の五つを設定し'この五つの側

(233)2

国際経営論集 No.21 2001

(3)

面からこの時代の歴史的・思想的転回を描いてみたい。

(‑)権藤成卿(一八六八〜一九三七)九州久留米出身。生家は医家。福岡の国権的・大陸指向的思想環境で育つ。二

〇代後半に朝鮮金賛島でコミューン運動を起こす。三〇代半ばから黒龍会にかかわる。一九二〇年﹃皇民自治本義﹄'

同年自治学会創設。1九二七年(昭和二年)﹃自治民範﹄出版。1九三二年「血盟団事件」で留置。このころ自治農

民運動に積極的に関与。同年﹃君民共治論﹄出版。その他﹃自治民政理﹄冒辰村自政論﹄等の著作がある。(2)拙稿「権藤成卿の変革論・上」(l九八七年・﹃政治文化﹄第一〇号所収)、拙稿「権藤成卿の変革論・下」(I九

八八年・﹃政治文化﹄第号所収)、拙稿「権藤成卿における政理」二九九二﹃政治文化﹄第二一号所収)等参刀口=○(3)大川周明(一八八六‑一九五七)山形県出身。生家は医家。一九一九年北一輝・浦川亀太郎等と猶存社を結成。

1九二九年東亜経済調査局理事長。1九三一年の「三月事件」「十月事件」に参画ol九三二年(昭和七年)神武会

結成。同年「五・一五事件」に連座して禁固九年の判決を受ける。一九三七年仮出所後'東亜経済調査局最高顧問'

法政大学大陸部長。太平洋戦争・戦時統制経済体制のプロパガンダとして活躍。敗戦後'A級戟犯容疑で逮捕され

るが'精神障害を起こして入院、免訴され釈放される。(4)前掲拙稿「権藤成卿の変革論・下」参照。

二、日本史論(‑)昆野伸幸は「大川周明の日本歴史観」において、ファシズム期民衆の「自発性」を喚起すべ‑日本史の歴史書が

必要となったが'1次大戟後「伝統」・「正史」の「下勉上」(ヘゲモニー争い)が生じ、大川周明の歴史書はファ

シズム期においてその「正史」の位置を獲得でき、それが﹃日本二六〇〇年史﹄の成功にあらわれているという見

3 (232) 権藤成卿 と大川周明

(4)

(2)方を提示

こうした見方を権藤成卿と大川周明の関係に引き付けて使えば、「伝統の下魁上」のなかでまさに大川周明の歴

史書が国民にひろく受け入れられ'逆に権藤の歴史書がその下魁上に敗れて歴史の背後に埋もれていったという解

釈が可能であろう。

昆野の指摘する通‑、確かに大川周明の歴史書には国民の支持を獲得する要素があった。

一方そうした歴史書の内容とともに時の政府がその書物を支持したかどうかという視点も重要である。戦前の思

想統制下において時の政府の施策の方向にそった書物の方がそうでないものよ‑はるかに国民の目にとまる機会を

得やすいからである。大川周明の著作は前者にあたり、権藤成卿の著作は後者にあたる。

ここで少し‑権藤、大川の日本史に触れてお‑ことにしよう。

権藤の歴史書にあらわれる日本史の歴史観はふたつのキーワードでまとめられる。ひとつは「社稜体統」であり、

もうひとつは「君民共治」である。権藤の日本史は「社稜体統」「君民共治」が日本の伝統であるという前提で記

述される.彼によれば'古代より鎌倉まで「自治」(民衆主体の政治)・r官治」(官主体の政治)と交互に漸進的に(3)進んできた。室町から江戸までは「官治」の政治が行なわれたが、民衆の間に「自治」の気風が残っていた。とこ

ろが'明治になって為政者・被為政者双方から「自治」的な気風が失われてしまった。明治政府は「普魯士式国家

主義」を採用し「官治」の極になってしまった。以上が権藤の日本史のあらましである。

権藤の日本史が「正史」たり得なかった大きな理由にこれらの歴史を記述する彼の術語と表現の難解さがあった。(4)(5)(6)(7)冒王民自治本や﹃自治民の内容を後に平易に記した﹃君民共治や﹃自治民政を出版したが、それ

でもその難解さを解消できなかった。また、それが解消されたとしても'国民の間にこの時期あった強いナショナ

(231)4 国際経営論集 No,21 2001

(5)

リズムの風潮の中で、その徹底した明治政府批判はラディカルに過ぎ、時の政府でな‑ても「危険思想」に見えた

のではないだろうか。彼の言葉「社稜体統」は国家よ‑も「社稜」(村落のような社会の生活の最小単位)の政治

を重視するという見方であり'「君民共治」はそうした「社稜」の自治を基本として国家の政治を考えるといった

それは国家をこえ既成の体制をはるかに超える政治や国家のありかたを提示していたからである。(8)これに対して'大川周明の歴史書の基調は「皇室尊重盛衰史観」と位置付けられよう。彼の歴史観は日本の歴史

上為政者が皇室を尊重してきたか否かという視点でまとめられている。まず天皇の地位が位置付けられるが'彼に(9)よると日本では神武天皇の直結が主権者として決まってお‑、その天皇と国民の関係は父子の関係にあると

こうした前提で日本史が整理されるが、例えば'聖徳太子の一七条憲法は天皇を日本全体の支配者と位置付けたも

のという解釈から始まり'藤原氏の支配に対して皇室回復を試みたのが院政であるという解釈、源頼朝を「勤皇家」

とする解釈'「建武の中興」を「王政復古」とする点'信長が日本の国家は皇室中心にあらねばならないと考えて

いたという解釈等すべて皇室・天皇が尊重されていた時代をよしとし逆の時代を悪しき時代としているのである。

そうした悪しき時代の典型が徳川時代であるが、彼によると徳川幕府は皇室から政治権力を奪うという「変態政治」

を行なったのだという。そして明治維新こそがその徳川政権の「変態政治」をただし「皇制復古」(傍点筆者)を

果たしたものだとしてして高‑評価する。

こうした歴史観が時の当局者の耳にここちよ‑ないはずがない。とりわけこの明治維新の解釈は時の政権に好都

合のものであったろう。というのも明治政府は日本を「君民一体」の体制として形成し、天皇を中心として強固に(10)まとめあげようとしていたからで

あ る 。

()大川周明の史観はまさにこの時代の「正統性」を獲得する「正史」にな‑えたので

5 (230) 権藤成卿 と大川周明

(6)

(‑)昆野伸幸「大川周明の日本歴史観」(﹃日本思想史学﹄第三二号二一〇〇〇年九月)(2)﹃日本二六〇〇年史﹄は五〇万部の発行を数えたという。そしてこれは国民のこの書に対する支持の表れとする。(前掲書一六六頁)(3)権藤は「漸化」と名付ける。(4)冒王民自治本義﹄(大正九年)(5)﹃自治民範﹄(昭和二年)(6)﹃君民共治論﹄(昭和七年)(7)﹃自治民政理﹄(昭和二年)(8)「皇室尊重盛衰史観」は大森の造語。(9)﹃日本二六〇〇年史﹄五四二ハ二頁。(10)「君民一体」の思想は明治l年元田永字の「数学大旨」において仁義忠孝の必要性が説かれて以来'明治国家

体制の基本に置かれた.これよ‑明治二二年の「大日本帝国憲法」、翌年の「教育勅語」、明治四一年の「戊辰詔書」、

明治四五年の天皇機関説事件における上杉慎吾の論説'昭和一〇年の「国体の本義」に至るまで明治以降の日本の

国家体制の一貫した国民統治の基調であったと言える。(11)「君民一体」という言葉は大正一〇年の﹃日本文明史﹄に早‑も見られる。

国際経営論集 No.21 2001 (229)6

三㌧天皇論

前章において'権藤と大川の日本史論を比較したが'本章においてはその「天皇論」にスポッーをあててみた

0

i

「天皇論」において'大川は一貫して「君民一体」論で明治以来の日本政府の統治方針と一致していたことは前

(7)

章でも触れた。これに対して権藤はあ‑までも「君民共治」と言っている。それは大川の主張とは似て非なるもの

であった。

権藤の思想の基本は「社稜体統」である。つまり自然的な村落のような共同体における「自治」がすべての発想

の原点である。権藤の思想がこのレベルで終わるならば'それは単に「自治主義」「農本主義」「アナキズム」であ

り従来の権藤評価で事足りる。

しかし、権藤は「君民共治」論においてそうした社稜と国家との関係を論じているのである。「君民共治」は(‑)「国初以来の政で「官治」政治に抗して日本で存続してきたものである。それは「民政」を重視する治者の政

治を被治者の「人心」が支えるという関係の政治である。これは暴力を手段とする支配‑従属の関係とは違う。そ

こでは手段としての暴力にあたるものは「人心」である。「人心」が離れると治者はその地位にいることができな

い。「人心」の変化による「革正」‑これが彼の変革論である(後述)

ところで「君民共治」という言葉は権藤だけが使っているわけではない。「国体明徴運動」にまきこまれた美濃部達吉は﹃憲法撮要﹄第四章「帝国議会」において「立憲君主ハ君民共治(2)ノ政体ナリ」と言ってこの場合、立憲君主制はもちろん「天皇機関説」の文脈で使われている。(3)この議論は過激な国体論者蓑田胸書に「一君万民」である「日本国体国憲」を破壊するものであると非難された。

上杉慎吉もこれより先美濃部の「君民同治」を「君主独‑国権を総撹する」わが立憲政体とは相容れないもので(4)あると批判して

一方、吉野作造は「民本主義と国体問題」の中で「君民同治」という言葉を使っている。

‑「君民同治を理想とする所の民本主義の政治は'正に此の君主と人民との人格的関係を益々滴養するものでは

7 (228) 権藤成卿 と大川周明

(8)

(5)ない

大正デモクラシー期の吉野にもあらわれているように「君民共治」及びそれに類する言葉やその思想は明治以来

反権力の側から繰り返し出てくる言葉と言えるのである。

ところで'美濃部においてはもちろんのこと、吉野においても、彼らの思想は明治の国家体制そのものを否定す

るものではなかった。(6)美濃部の「天皇機関説」は久野収が指摘しているように明治国家体制の「密教」であったし、吉野の「民本主義」

は議会という代議政治を前提にしており、代議士というエリ1‑が政治の担い手として想定されていることからも(7)わかるように政治主体を民衆とするところまではいかなか(8)しかし'権藤の「君民共治」は政治主体を民衆においているのでこの点において、彼の思想はこの時代際

立ってラジカルなものとなっている。大川周明と比較してみよう。

大川は天皇を「天神にして皇帝」というふうに言っており、家族国家論的に子が父母に尽‑すのが「孝」'日本

国民が天皇に尽‑すのが「忠」であ‑、日本の天皇は家族の父、部族の族長から発展しているもので「国祖」と言(9)える'日本人はこれを神として仰ぎみなければいけないと言って

こうした「天皇」をいただ‑日本の現状を支えそして変革してい‑主体は大川周明にとっては軍人それもエリー(10)ー軍人であった。大川は拙稿でも指摘したようにその思想に「英雄史観・エリート史観」があり、エリーIや英雄、1‖)中でもと‑わけ「軍人」に期待した。事実彼の行なった「三月事件」「十月事件」「五・一五事件」ではその実行主

体と想定されたのは「エリート軍人」だった。この点同じ軍人に期待したといっても北の場合とは違う。北も変革

の主体として軍人をおいたが、大川ほど英雄史観が強‑なかった。たとえば﹃日本改造法案大綱﹄の革命主体は

227)8 国際経営論集 No.21 2001

(9)

(12)「在郷軍人会」であった。

こうした大川の「英雄史観・エリート史観」を見ると権藤の「民衆史観」が一層際立って‑る。権藤の「社稜体

統」論では民の気持ちから離れた為政者はたとい天皇であっても批判をまぬがれることはなかった。たとえば天武(EJj天皇の時代を権藤は「組織的官治主義」の時代として称徳の時代まで九朝九七年間を批判的に論じて

また、官治政治の極である「軍人国家」をさびし‑批判している点は大川と好対照である。この点で面白いのは

日露戦争に対する双方の見方である。大川はそれをアジア諸国に欧米に抗する希望を与えたものとして絶賛してい(z)るのに対して、権藤は「軍人国家」の形成を促進したものとして厳し‑批判しているので権藤の頭の中には「軍人国家」化が進むということは民衆の生活の苦しみが増大すると考えられていたのだろう。(14)権藤の日本史は﹃自治民範﹄以来「衣食住男女の調和」が政治的価値の最上位に置かつま‑民衆の生活の

安定が第一におかれるのである。それに対して大川の政治的価値の第lは「天皇」であり、そうした天皇中心の社

会の理想は「エリー‑軍人」によってもたらされると考えたのである。彼において「民衆」は政治の客体にしかす

ぎなかった。

そうした権藤から見れば、昭和期の政治は民衆からまったく離れたものと見えたであろう。権藤は日中戦争がま

さに始まった年にこの世を去ったが'彼にとって日本の現状と未来は暗涯たるものと映ったのではないだろうか。

(‑)前掲﹃自治民政理﹄二六頁。(2)美濃部達吉著m忍法撮要﹄第四章「帝国議会」(昭和八年)(3)蓑田胸喜著﹃原理日本﹄(昭和一〇年・原理日本社)

9 (226) 権藤成卿 と大 川周明

(10)

(4)上杉慎吾著「国体に関する異説」(﹃太陽﹄明治四五年・第一八巻・第八号)(5)吉野作造著「民本主義と国体問題」(1九l七年・﹃大学評論﹄)(6)久野収・鶴見俊輔著﹃現代日本の思想﹄(一九五六年・岩波新書二四七頁)(7)三谷太一郎著「思想家としての吉野作造」等参照(﹃新版大正デモクラシー論﹄二九九五年・東京大学出版会所

収)。(8)﹃君民共治論﹄の次のような言葉は権藤のこうした思想を端的に表している‑「此社会は結局自分のもの、民衆

のものなのであるから民衆自身が考えて行かなければならないのです。」二六七頁)。(9)大川周明著﹃国史概論﹄(昭和四年・行地社)等参照。(10)英雄史観・エリート史観が大川において強‑なったのは大正二年の﹃復興亜細亜之諸問題﹄以降である(拙稿「大川周明におけるアジア観の転換」参照・﹃政治文化﹄第二二号・一九九六年)0(11)昭和一五年の﹃亜細亜建設者﹄ではアジア解放の英雄が軍人である事実が強調された(拙稿「大川周明における

アジア観の転換」参照)。(1)北一輝﹃日本改造法案大綱﹄(大正十二年)(﹃北一輝著作集第二巻﹄みすず書房二九五九年)(13)﹃自治民範﹄九三頁参照。(14)前掲拙稿「大川周明におけるアジア観の転換」参照。(14)﹃自治民範﹄三頁。

国際経営論集 No.21 2001 (225) 10

Eltアジア観

本章ではまず満州への植民地政策に関して、権藤成卿の批判を紹介しよう。

権藤は昭和七年七月の﹃農村自政論﹄で次のように日本の対満州植民化政策を批判している。

(11)

‑「満蒙は未だ従来の版図主たる中華民国政府より、其独立を允許せるものでもな‑'列国の公認せるものでも

な‑'我国の藩属でもな‑附庸でもない。而も其在留民は、従来の満蒙四五百万なるに'漢人の漸人は三千万

に近‑、これに朝鮮人百四五十万と、我満鉄従事員等二〇余万人、其数字は固より正確とは思われぬが'大膿

漢人が大数(ママ)を占め、随て農商地盤を造れるに対し、我国が××××(ママ)資力を以て鉄道を管理し'

経済上の枢機を撞‑居るのであるが'我国民は未だ農業土着の拠点を造る迄になって居らぬ。而も幸に満州新

国が確乎不抜とな‑、我植民に安全なる土着が公認されざる限‑は、農業土着の拠点は容易にでき得られぬか(‑)と考えらる

ここでは'満州国は国際的に認められていないこと'日本人の人口比が小さ‑農商地盤が確立されていないこと、

安全性が確立されていないことの三点があげられ'満州移民に反対の意見が述べられている。

さらに'権藤は移植民政策の1般的成功条件を提示してこの意見を補完している。

‑「要するに移植民の恒例は、第一'祖国との関係親善にして、交通往復便宜なるを要し'第二、風土気象衣食

住居の差違あるも、子孫の蕃殖に支障なきを要し'第三'敵国の津関遮断乃至優勢民族の圧迫な‑'祖国援護

の及ぶべきを要するものとしてある。若し以上の三綱に惰わざれば'移植民の成功が覚束ないのみならず'三(2)四代にして子孫絶滅するのは'其考左甚だ明瞭である。」

権藤は移植民成功の条件として①祖国と移植民先の関係が良好である②移植民が風土気候の差を乗り越えられる

③反対する周辺諸国があっても祖国が援護できる態勢があるということの≡条件をあげ'満州移民に異を唱えてい

る。「王道楽土」「五族協和」をスローガンに国をあげて満州国建設を促進しているこの時期にそれに冷水をあびさ

ll(224) 権藤成卿 と大Jl周 明

(12)

(3)せるような言動を権藤はしていたのである。この時期、満州国経営に表立って反対していたのは石橋矢内原(4)

わずかな人々であったが、石橋や矢内原の仕事に匹敵する意味のある言論であると思う。権藤は昭和二一年(5)の浜田国松の「腹切‑問答」の国会演説草稿を書いたと言われていそうした死の直前までもち続けた批判精

神はここでもおおいに発揮されている。

こうした権藤のこの時期希有な議論に比較して大川の対アジア論は貝して侵略的なものであった。

大川のアジアに対する関心はサー・ヘンリー・コッーンの﹃新インド﹄との出会いに始まる。この書によって大(6)川はイギリスのインド植民地支配の悲惨さを知るように

ついで1九一八年大川は南満州鉄道株式会社の東亜経済調査局に勤務するようにな‑'アジア研究の仕事にたず

さわることになるが、大川のアジア研究はしかし'アジアを悲惨な植民地支配から救うという方向には行かなかっ(7)むしろインドのようにならないように日本が強国にならねばならないという方向に進んだ。つまり国内の強権

体制化の方向とそれと連動した日本の植民地保有路線の方向である。

日本が植民地保有国となるための研究として結実したのが、一九二六年に東京大学で博士号を取得した﹃特許植(8)民会社制度研に他ならない。ここで大川はヨーロッパの植民地獲得競争における「特許植民会社」の果たした

役割を明らかにしたのである。そして、この研究の成果は対満州植民地化に役立たせることになる。

ところで、大川のアジア観はなぜアジアを救うという方向にいかなかったのであろうか。それは彼の史観が「エ

リート史観」であったからではないだろうか。つま‑'アジアの民衆の悲惨さを真に解決しようとせずに、その関

係を固定化したまま、アジアにおけるエリート国になる方向に日本を舵取りしたのである。そうした意味で大川の

アジア観は「脱亜論」的であったといえる。

(223)12

国際経営論集 No.21 2001

(13)

一方、権藤成卿においての基礎的アジア観は郷土久留米という大陸に近い地域における大陸指向的傾向や国権運

動がさかんであった思想風土の影響下に形成されたと思われる。その地域の特徴は東京という日本の中央よりも大

陸に目が向‑環境であるから朝鮮や中国に対する関心は自然と形成されたであろうが、権藤においてアジア観形成

に決定的だったのは何と言っても朝鮮全章島におけるコミューン運動の体験であり、朝鮮合邦運動の挫折であった

ろう。つまり、彼はこうしたコミューン運動や合邦運動の体験を通じて朝鮮や満州の国情に対して正確な認識をも

ち得たのではないか。それが満州移植民政策に対する鋭い認識や満州国建国の軍部のうごさに反対する視点をもた

らしたのではないだろうか。

さて'大川は満州に対する植民地化の方法を模索しながら、国内の改革をそれと連動させて行なおうとした。つ

ま‑対外的発展のためにまず国内を強固に統1しなければならないと考えた。

大正一五年の﹃日本及日本人之道﹄以後'大川は国内をまとめるべ‑「君民一体」の国家を作ろうと次々に著作

を発表する。それが昭和四年の﹃国史概論﹄、昭和五年の﹃日本的言行﹄'昭和六年の﹃国史読本﹄等である。

﹃日本及日本人之道﹄では天皇と国民の関係が道徳的に定められている。そこではすべての生命を統一する最高

の生命が日本の国家においては天皇によって表現されていると言う。そしてそうした認識を前提に全編に渡って新

しい国家を作るべ‑日本人にとって道徳や宗教が大切であると主張してお‑、逆に制度や機構の改革についてはそ

れが表面的にすぎないと言って批判している。彼の社会主義批判の文脈はこうした制度や機構をかえても真の改革(9)ができないというもので

大川の議会政治批判もこうした文脈である。すでに、大正二年の﹃復興亜細亜の諸問題﹄において議会政治批

判が展開されているが、それによると民主主義の政治的特質は多数を絶対とすることにあるのだという。しかし、

13 (222) 権藤成卿 と大川周明

(14)

大川によると「真理」は「質」であり「量」ではない。「明朗透徹なる魂」のみよ‑認識しうる。今日の民主的議B耶円会政治は国家を機械的地理的に分割して代表者を選出するがゆえに'国家生活を有機的に代表してい

こうした認識は大川の議会政治批判として1貫してお‑'こうした認識に基づいて大川は1連の国内改革(「三

月事件」「十月事件」「五・一五事件」)を敢行していったわけである。

こうして国内を強化し植民地保有国をめざした大川のアジア観がアジアの連帯を求めるようなものとは程遠いも

のであることは当然であろう。そもそも初期アジア観では大正一四年の「亜細亜・欧羅巴・日本」にも表れている

ように大川は日本がアジアで「最強国」になってアメリカと最終戟を戟うと想定していた。こうした「アジア最強

国論」はアジアにおいて日本が(盟主)となるというものである。こうした視点は太平洋戟争の最後まで変わらな

かったと思われる。昭和五年の「ロンドン会議の意義」'昭和六年の「満蒙問題の考察」では、アメリカとの「満

蒙の争奪」のための戦いや「東洋平和の確立のための支那事変の解決」等を主張したが、日本がアジアの(盟主)

であるという視点には変化がなかった.そして、「支那」との戟いに歩が悪‑なった状況の中で'昭和一八年には/I)﹃大東亜秩序建設﹄を出「東亜諸民族が日本と協力連携する」と「支那」にむかって連帯を呼び掛けるように3洞Eなったが、その連帯も日本が(盟主)になるという文脈で主張されているのである。

なぜこうしたアジア観が形成されたかは'多‑の背景があるだろうが'その一つの原因として大川がアジア研究

の当初からアジアの解放には「自国の精神」が大切であって、アジア諸国が共通の精神で結ばれるという発想をも3漸Eたなかった点が考えらつま‑、「自国の精神」中心の考え方を前提とLt大川はアジアの諸精神の中で「日

本精神」こそが最高の精神であり、それをもつ日本こそがアジアの(盟主)となり欧米と対抗できると考えたので

ある。ここで「自国の精神」ではな‑普遍的な理念‑例えばアジア諸国をまとめるべ‑アジア全体に貫通する共通

(221) 14 国際経営論集 No.21 2001

(15)

の理念‑の模索をしていれば諸アジア精神のなかで日本精神が至高のものであるといったような発想は生まれなか

ったのではないかと思われるからである。

(‑)冒辰村自政論﹄二二六頁(昭和七年)0(2)前掲書二三七頁。(3)石橋湛山著「満蒙問題解決の根本方針如何」(昭和六年)等を参照(﹃石橋湛山評論集﹄岩波文庫二九八四年所

収)0(4)矢内原忠雄著﹃満州問題﹄(昭和九年)等を参照。(5)滝沢誠﹃権藤成卿﹄(一九七一年・紀伊之国屋書店)一八四頁。(6)サー・ヘンリー・コットンとの出会いについてはすでに多‑の研究者が取り上げているが'拙稿「大川周明にお

けるアジア観の転換」においても触れている。(7)﹃印度に於ける国民的運動の現状及び其の由来﹄(昭和五年刊)(8)﹃特許植民会社制度研究﹄(昭和二年刊)

13 12 ll 10 9

﹃日本及日本人之道﹄(大正一五年刊)﹃復興亜細亜の諸問題﹄(大正年刊)﹃大東亜秩序建設﹄(昭和一八年刊)

前掲拙稿「大川周明におけるアジア観の転換」参照。

前掲﹃復興亜細亜の諸問題﹄参照。

15 (220) 権藤成卿 と大川周明

(16)

五、統制経済論

大正デモクラシーの疋の成果である「普通選挙法」が「治安維持法」とセットに成立したのは大正一四年であ

った。

これ以後'日本では労働争議が多発するようになり、社会主義運動が過激化していき、それに対して政府が弾圧

を強めてい‑0

そして'昭和二年の金融恐慌・翌々年の世界恐慌で致命的になった政治経済体制の動揺に対処すべ‑日本の政府

がとった政策は満州で実験活の「統制」的国家体制であった。それはソビエーの社会主義ともドイツのファシズム

とも違う「民有国営」論とも言える「(辛)社会主義体制」であった。その立案の担い手は満鉄調査部の宮崎正義

らに代表される満州国の「新官僚」達であった。

こうした視点から行なわれている一九三〇年代から一九四〇年代の日本の政治経済体制の研究に小林英夫・岡崎(‑)(2)哲二・米倉誠一郎の﹃「日本株式会社」の昭和史﹄と野口悠紀雄の﹃1九四〇年体制﹄がある。

彼らの研究によると'この時期に①一九二七年の「銀行法」等の金融制度②1九三一年の「重要産業統制法」を

はじめとする業界統制③近衛内閣の「統制会」等に表れている事業法④i九三七年の企画院設立を初めとする政府

組織の改編⑤給与所得の源泉徴収制度をはじめとする税制の改革等が国家体制の「統制化」を図って次々に行なわ(3)れていったという。その結果、日本は急速に統制的国家体制に移行してい

1万この時期、経済的統制とともに軍事費の増強に見られるように国内的にも対外的にも「軍事国家化」が急速

に進んだ。そうした意味で経済的統制と政治的軍国主義化がこの時代の特徴である。そうした意味でトータルにこ(4)の時代を表現する言葉として高畠通敏の「強権的統合」の時代とするのが適切であるかもしれ

(219)16 国際経営論集 No.212001

(17)

ところで'1九三〇年代から1九四〇年代に日本の政治経済体制を作ったのは満州でその仕事の基礎を作った「新官僚」と呼ばれる人々であった。そうした「新官僚」の中で注呂すべき人物は小林英夫がと‑わけ注目し研究

対象としている宮崎正義である。(5)宮崎の﹃満州経済統制は満州国の経済体制の指針となったものであるが、前半の国内・国外の経済分析に続

き、後半では「統制経済」の具体的方向について論じられている。それによると日満経済体制は「私的営利事業」

と「資本家的営利事業」を廃して「強度ノ統制ヲ加工テ、自由奔放ナル資本主義ヲ抑制シ、国民全体ノ利益ヲ基調(6)ースルノ原則ヲ実現」しなければならないと手っ。

こうした前提に基づいて宮崎は具体的に統制のあり方を論じる。それによると統制の及ぶ範囲に軽重をつけ、「半官」的な満鉄をあしがかりに統制を強化していくべきであるとされる。

以上が宮崎の満州における統制化のシナリオだが'私がなぜ宮崎の﹃満州経済統制策﹄に注目するかと言えば、

大川周明が昭和七年に出している﹃経済改革大綱﹄がこの宮崎の﹃満州経済統制策﹄ときわめて似ているからであ

る。

詳し‑は拙稿「革命思想家から統制思想家へ‑大川周明における革命思想の転換」に譲りたいが、大川が宮崎の

議論に似た議論を行なうようになった背景には「五・一五事件」の政治犯としての過去がある大川がこの時期体制

に樟差す形で言論活動を始めざるを得なかったこと'それを可能にした大正八年より在籍した満鉄調査部での宮崎

等「新官僚」からの影響があったであろうことをあげておきたい。

1万の権藤はこの時期どのような発言していたであろうか。(7)権藤成卿は昭和二一年﹃制度の研究﹄第三巻で「電力統制に関する座談会答間抄」という文章を載せて

17 (218) 権藤成卿 と大川周明

(18)

ここでは、急速に進む日本の「統制経済」について「電気事業法」改正を材料にきびし‑批判している。「電気

事業法改正」とはそれまでの電気事業における管轄官庁への「届出制」が主務大臣の「認可制」に改められたとい

うものであるが'権藤はこの改正の過程で強調された「公共的事業としての責務を尽さしむるように事業監督力の

拡張充実」という言葉を取‑上げ'それが「非常時という呼声の下に国家‑官僚統制を強化せしめる」傾向がある

ことを指摘し、その改正を「ファッショ的統制案」であると見倣した。この翼賛体制形成の初期の段階において電

気事業法改正という施策を手がかりに早‑も後の「統制経済」「強権的統合」体制への歴史的進行を見抜‑ものと

して権藤の視点を評価したい。権藤が批判した「ファッショ的統制案」の方向こそが大川の推進していた方向に他

ならなかったのである。

ところで、権藤の思想の核心にある言葉に「官治」や「普魯士式国家主義」があるが'「官治」はまさに官僚支

配を意味し、その明治以降の具体的有‑様が「普魯士式国家主義」ということになるのである。こうした視点は

冒王民自治本義﹄や﹃自治民範﹄以来権藤の中で一貫して主張されていることであるが、昭和初期において進行す

る「統制経済」体制を見て'権藤は彼の言葉である「官治」の体制が一層強まったと見ていたのではないだろうか。

昭和の「統制経済」「強権的統合」体制こそが権藤の批判していた「官治」であり「普魯士式国家主義」の最たる

ものでなかったか。

‑「由来官治組織は'中央機関を宏大壮麗にして、統帥権を強くするのが定式であ‑、自治組織は、中央機関を

簡約質素にして、地方民衆の福祉を増進するのが定式である。官治は中央が地方を提げて居る形ちで'自治は(8)中央を支持擁護して居る形であ

権藤の議論はあ‑までも社稜の自治が基本になってその上に郡県や国家が形成されるというものであった。

国際経営論集 No.212001 (217)18

(19)

‑「本来自治を、中央集権の分離、即ち分権と看るのは、本末転倒である。大学に、修身・斉家・治国・平天下こ二レバヲスルと云うことが有って「本末'終始'近道英」と説いて居る。人類は素と、衣食住即ち社稜11]Hl)Ill)を基礎として、村落の自治とな‑、村落の自治を拡張して郡県の自治となり'責に一国を建設するの必要を生M弧爪じたものであ

ここでは、﹃大学﹄の「修身・斉家・治国・平天下」をあげ「社稜」の自治が国家形成の基本にあることが述べ

られている。権藤のこうした主張は昭和二年の﹃自治民範﹄以来貝して主張されており'大川が推進しょうとし

た「統制」的・「強権的統合」体制とまった‑あい入れない方向であった。

1万、大川の「地方自治」論は次のようなものであった。大川は﹃経済改革大綱﹄の中で地方自治について触れ

ている。

‑「地方行政区ーシテハ、古ノ道ヲ復活シ、道長官ヲ置ク。ソノ下二府県ヲ置キ'府ハ大都市ーシ'県ハ古ノ国(9)トス。府県ハ地方自治体ノ首位二置ク

ここでは'「道長官」が地方行政のトップに位置し、その下に府県・地方自治体が置かれるべきであると論じら

れてお‑'完全な中央集権的な地方自治体制が構想されており、権藤の議論とは好対照をなしている。

しかるに現実の日本の歴史は権藤の主張した方向からこの後急速に離れていき'大川の推進した方向に急速に旋

回していくのである。

権藤成卿 と大川周明

(‑ )

小林英夫・岡崎菅二・米倉誠一郎著﹃「日本株式会社」の昭和史﹄二九九五年・創元社)

(2 )

野口悠紀雄著﹃一九四〇年体制﹄(一九九五年・東洋経済新報社)

19 (216)

(20)

(3)前掲二書参照。(4)高畠通敏の「強権的統合」論は﹃ファシズム期の国家と社会6運動と抵抗・上﹄所収論文「強権的統合と大衆運

動」参照(東京大学出版会二九七九年)0(5)宮崎正義著﹃満州経済統制策﹄(昭和七年・経済調査会第一部・極秘文書)(6)前掲﹃満州経済統制策﹄第一章第五節。(7)雑誌﹃制度の研究﹄は松沢保和編集人兼発行人で昭和l〇年一〇月から昭和一年1月まで全部で1六回発行さ

れた。(8)前掲﹃自治民範﹄101頁。(9)大川周明著﹃経済改革大綱﹄(昭和七年稿・調査部第二課・極秘文書)の「政治改革6地方自治」の項参照。(10)前掲﹃自治民範﹄五二九頁。

(215)20

国際経営論 集 No.21 2001

六㌧権力論

鶴見佑輔は、昭和三年の﹃英雄待望論﹄において「不戦条約」に触れて次のように述べている。

‑「従来の世界を支配したる最後の力は'武力であった。国際間題の最後の審判延は'戦場であったのである。

1切の政治はこれを基礎として作られていたのだ。しかるに今や全世界の強国は‑露国を除き

武力を最後の

審判官たる祭壇より引き下ろして、武力以外の力をもって、国際間題を決定しようと'厳粛に約束したのであ

る。於叢、国際間の基本哲学が一変したのである。将来の人類的活動は、この新原則の上に樹立せられなけれ

ばならない。将来この武力に代るちからが'正義という観念であるか、金力という現実な力であるか、民衆と

いう多数の力であるか'確約という形式的法規の力であるか、それは今日に於て予想することは出来ない。し

‑‑‑‑‑‑ー

(21)

かし、従来は学者思想家の空論に止った﹃不戦﹄という国際原則が、現実世界の支配者達の調印によって'地

上に引き下ろされたのであるから、現実世界の行動の基本準則が革命せられたIと言うのが言いすぎと見える

ならばI少なくとも革命の端緒に就いたと見なければならない。於琴将来の人類の活動の目標が、経済上の(‑)共存共栄と,文化の建設ということに集中せられてゆ‑ものと見ることが出来(傍線筆者)

鶴見は「不戦条約」成立当時の時代状況において政治における「最後の力」を「武力」「正義」「金力」「民衆と

いう多数の力」「修約という形式的法規」と五つに分けて'「共存共栄の原則」と「文化建設の目的」を「東亜国民

連盟」の準則として置‑ことを主張している。鶴見ははっきりと「武力」の力を否定してはいないが、「武力」以

外の「最後の力」があることをここで提起し「武力」以外の力が「将来の人類の活動」の基本に置かれねばならな

いとしている。

鶴見が「最後の力」を五つにわけたのは重要な問題提起であった大正デモクラシーの時代の余韻があったこの

時期にはそうした議論が行なわれる余地があったのである。

これ以降日本は「武力」にたよる国内・国際政治の道を歩んでい‑わけであるが'鶴見の分類に従えば、本論で

扱っている権藤成卿は「民衆という多数の力」を基本に政治を考えた思想家で、大川周明は「武力」を基本に政治

を考えた思想家ということになる。

こうした整理にしたがって、権藤と大川の政治論を考察したい。

大川の政治論がその国内政治も国際政治も「武力」を「最後の力」として考えていたととらえることについては

異論がないと思う。

そうした大川の思想は昭和六年から七年に起こったあいつぐ政治的事件I「三月事件」「十月事件」「五二五事

21 (214) 権藤成卿 と大Jl周 明

(22)

(2)件」‑への関日本が強国となるべ‑満州植民地化をめざす彼の思想に良‑表われている。

ところで「五二五事件」の上申書において大川は次にように述べている。

‑「私の著書は殆どあらゆる場合に於て発表した私の意見を其の内容として居‑ますが故に、之を通して容易に

私の思想を知‑得るのであ‑ます。然らば私の執れの著書に、また執れの箇所に'私は暴力以外国家改造の途

なしと言うが如き思想を述べて居るか、乃至は隠約の間にでも之れをほのめかして居るか。若し有るならば明(3)瞭に之を指摘して欲しいのでありま(4)彼の著書の中の暴力による国家改造の記述については拙稿でも論じ'大正一〇年の﹃日本文明史﹄において(5)明確に日本の政治史を「争闘史観」で措いており、さらに大正一四年の「亜細亜・欧羅巴・日本」において世界史

の過程は東西対決の歴史であ‑、そうした戦争によって歴史は進歩する、そして最終的な東西の戦いは日本とアメ(6)リカによって行なわれると言う歴史観と観測を明確に記述しているので

こうした認識に従って、「三月事件」「十月事件」「五二五事件」を大川は起こし'また日本が強国になるべ‑

満州における植民地経営の研究を満鉄で行なったわけである。彼の思想も実際の行動も鶴見の分類で言えば「最後

の力」を「武力」においているのである。

さて、1万の権藤成卿であるが'私は権藤は「最後の力」を「民衆多数の力」とする政治論をもっていたとした

が、もう少し細かい検討が必要である。というのは権藤は「民衆多数の力」を政治論の基底においたことは間違い

ないが、彼の言葉で言うと「民衆多数の力」は「人心」ということになるからである。

権藤は「人心」をその政治論の核心においた。彼にとって「革命」とは「人心」が移ることによって為政者の交

替がおこることであ‑、「人心」は「暴力」よりも力をもつもので'歴史変革のパワ

を有するものであった。

国際経営論集 No.212001 (213)22

(23)

「人心」がそうした性格のものである故に、彼の改革論は非暴力的で漸進的なものになる。﹃自治民範﹄から「人心」を表現する代表的な箇所を引用しょう。

‑「然し今日は、法律制度の改革よ‑も、更に一層切実なる急務がある。他に非ず、即ち人心の改革である、人

心すらも緊粛して居るならば'如何なる悪法律悪制度も、或る程度までは、必ず之を善用することが出来る筈(7)のものである。」

この﹃自治民範﹄結論部のところの箇所は権藤が政治の要諦として「人心」をいかに重視していたかがよ‑出て

いるところである。

権藤は「人心」を直裁的に定義しているわけではない。しかし、その使い方から筆者が考えるに「民衆の集合的

な意思」といったような意味付けが出来ると思う。この「民衆の集合的な意思」が為政者を支持したり離れた‑'

逆に為政者が「民衆の集合的な意思」を汲んで善政を行なうのが権藤の描‑政治のイメージであったのである。

ところで彼の「人心」による非暴力的な政治論は国内政治に限らなかった。以下は﹃農村自政論﹄における記述

である。

‑「へIグの平和会議'ベルサイユ講和会議以来引続ける列国の会商に於て、一層具体的に軍国主義を否認した

ることは、世界進歩の目的が那辺にあるかを暗示するのであって、其謂ゆる国際連盟の前途には尚お幾多の暗

礁があるとしても、若‑は軍備制限が今日尚お事実的反対の歩調に在るとしても、升は新主義を以て旧主義を

革めんとする場合に、如何なる時代に於ても、常に免れざる所の保守的反抗よ‑来るもので'若し新主義にし

て新時代の要求に合するものならしめば、最後の帰着は知れ渡って居るのである。軍国主義や官僚主義が未だ

世界の人心の幾分を支配し得るものとの考から、中央政府に莫大の権力を集めんとするが如き、憐れむべき時

23 (212) 権藤成卿 と大川周明

(24)

8)代後れの思想が'最早何時迄も継続すべき命脈はないのである(傍線筆者)

ここでは国際政治における「軍国主義」「官僚主義」が明確に否定されている。そしてこうした認識に基づいて

実際に彼の行なった連動は漸進的で非暴力的なものであった。(9)「血盟団事件」や「五・一五事件」においての権藤の位置は拙稿でも論じたように'その関わ‑はきわめて薄い(

1

0)ものであった。権藤が当時力を入れていたのは非暴力的な農民運動であ

っ た 。

その農民運動以後は成幸学苑等での

教育運動や各地の講演活動に専心した。その実際の運動はその思想と矛盾のない漸進的で非暴力的なものであった。

日本の満州植民地化政策に対しても前述したように'その客観的可能性を分析して批判的な論説を行なっていたの

である。

ところで、大正デモクラシーを代表する思想家である吉野作造は「憲政の本義を説いてその有終の美を漬すの途

を論ず」の中で次のように「民意」という言葉を説明している。

‑「民本主義は一般人民の意常を重んずるというけれども'しかし一般人民の意響、即ちいわゆる「民意」なる

ものは本来実在するものではない。少な‑とも衆愚は被動的に少数野心家の扇動に乗って彼方此方に妄動する

ことはあるけれども、能動的に或る疋の目標に向って意識的の活動をなすものではない。故に民意を取って

政策決定の標準となすというが如きは畢菟空論であると。この論は民本主義の理論上の基礎たる「民意」の実

在に対する疑いである。そもそも民意なるものの果たして実在するや否やは哲学上社会学上大なる問題であろ

う。もちろん民意という大なる意思を有って居る人格者が眼に見えて存在して居る訳ではない。故に目に見ゆ

(211)24 国際経営論集 No.21 2001

る個々の具象のみに執着するいわゆる懐疑派に属する学者が'多数人民の雑然たる集団に意思の主体たるの資

格を認めざらんとするのはもとよ‑怪しむに足らぬ。しかれども社会万般の事象を洞察達観するものにとって

(25)

は、この見えざる意思の主体を認識することは決して困難ではない。もっとも我々の社会においては'同一の

問題についても各種の意見が色々行なわれて居るもので'何が多数の輿論なりやは容易にこれを決することは

出来ないものである。けれどもこれらの雑然たる社会の議論は恰も時計の振子の左右に動揺して止まざる如‑

ほとんど安定するの日なしといえども'しかしながらこれらの議論が自ら或る疋の中心に向ってその周囲に

(傍線筆者)

ここで吉野は「民意」など実在するはずがないという「懐疑派」に属する学者に反論し、「社会万般の事象を洞

察達観するものにとっては、この見えざる意思の主体を認識することは決して困難ではない」と言い、その実在を

主張している。そしてその「民意」は社会の議論が正の中心に向かうことによって形成されるのだという。吉野

の「民本主義」の言わば核心にある「民意」というのはこのように考えられていたのである。吉野はこうした「民

意」の動きを「最後の手段」とする政治を考えていたのではないだろうか。

こうした吉野の「民意」は権藤の「人心」に近いものではなかったか。大正デモクラシーに達成した「民衆の多

数の力」の概念は吉野によってこのように発展させられていたが、そうした吉野の議論は同時平行的に権藤によっ

て深められていた。そして'権藤においてはそれがきわめてラジカルな形で結晶していたのである。

大正デモクラシーの最大の意味はそれまでの特権的藩閥政治に対して「民衆多数の力」を意味付けようとした点

である。そして、その「民衆多数の力」のあり方を様々に模索した。そこには「議会の多数」という考えもあった

ろうし、「マスコミで掬い取られる輿論」という見方もあった。

吉野が「民意」という形で発見し'権藤が吉野とは違った方法で発見し発展させた「人心」といった「民衆多数

の意思」もそうした思想的格闘のひとつであったろう。大正デモクラシーはそうした「民衆多数の力」の概念の発

25 (210) 権藤成卿 と大川周明

(26)

兄等においていまだ我々の前に様々なことを教えて‑れる意義のある時代経験であったのである。

(1)鶴見佑輔﹃英雄待望論﹄(昭和三年・大日本雄痔合講談社二二六三⊥二六四頁)(2)大川と「三月事件」「十月事件」「五二五事件」のかかわ‑については'﹃現代史資料・四・国家主義運動三一

九六三年・みすず書房)等参照。(3)大川周明「上申書」(昭和八年一二月二〇日)(r今村訴訟記録第四巻「五・1五事件」(1)﹄昭和五二年・専修大

学今村法律研究室発行・所収)(4)拙稿「革命思想家から統制思想家へ」参照。(5)﹃日本文明史﹄(大正一〇年)(6)「亜細亜・欧羅巴・日本」(大正一四年)(7)﹃自治民範﹄五五一頁。(8)冒辰村自政論﹄八八頁(昭和七年・文聾春秋社)(9)拙稿「権藤成卿の変革論」参照。(10)拙稿「権藤成卿の変革論」参照。(1)吉野作造「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの遠を論ず」(大正五年)(岩波文庫富野作造評論集三九

七五年・七五頁)

(209)26 国際経営論集 No.21 2001

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