村 落 階 層 構 造 の 史 的 展 開
一地主・小作関係を中心に−
波 平 勇 夫
1.はじめに
藩政時代から近代期にかけた鹿児島県大島郡徳之島の地主・小作関係は、広く知られている
(1)
とおりである。報告書もいくつかある。にもかかわらず、今回、このようなテーマをとり上げ たのは、一つには、沖縄本島並びにその周辺離島との制度的比較をしたいというねらいが込め られている。筆者らは、かねてから資産家(ウェーキ)と隷属者(イリチリ、シカマ、小作人 など)の形成、展開、崩壊に関して、沖縄本島、与論島、沖永良部島を調査しており、その概
(2)
要の一部はすでに報告されている。地主・小作関係が、長期的にみてどのように展開してきた か、地理的偏差はどうなっているかみたいのである。第2のねらいは、南島文化研究所による 徳之島総合調査の一環としての位置づけに求められる。このテーマが、調査全体のなかでどの ような有機的関連をもつかは定かでないが、入口がどこであれ、それぞれの立場から入ってい くことにより、全体を連結する大きな鉱脈に出会うかも知れないという、寛容な態度が前提と なっているように思われる。
個人的事情により、調査期間中、予期しえなかった調査日程の変更などが生じたため、計画 どおりの調査はできなかった。今回は、概要的報告にとどめたい。
2.地主の形成・展開・解体
これまでの研究・調査報告からみると、奄美地域の地主は二つの系譜に分れているように思 われる。一つは島役人を開祖とする地主であり、他は藩政末期から近代にかけての新興地主で ある。前者は、政治的社会的地位を利用して、下人(家人)などの労働力により私有地(開墾 地)を拡大して経済力をつけるとともに、藩庁への砂糖献上によって、権力を増幅させた人び
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とである。時期的には、18世紀後半以降とみられる。彼らの権力主要基盤は、下人労働による 経済力にあったため、明治4年の下人解放令によってその地位が大きく動揺したようである。
それを契機に没落する地主もあったが、なかには寄生地主化として生きのびたものもある。後 者(新興地主)は商業資本によって土地を集積し、寄生地主化していった人びとである。
運の二つの系譜に関する事例をとり上げる前に、その背景となる近代農民層全体の動きをみ ることにする。全国的にみて、50町以上の耕地所有大地主が目立って増加するのは、大正3年 以降であり、ピークに達するのは大正13年である。『鹿児島県統計書』によると、鹿児島県50町 以上の地主も同様な動きを示している(表1)。
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表150町以上耕地所有農家数一鹿児島県
大 正 昭 和
年 度 1 1 1 2 1 3 1 4 1 5 2 3 4 5 6 7 8 9 1 0 1 1 1 2 1 3 1 4
戸数│576264504952515759424333192325363421
『鹿児島県大島郡統計書』をみても、大島郡で10町以上の耕地所有者が増加するのは明治末
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から大正にかけてであり、もっと限定すれば、大正3年以降といえそうである。しかも、戸数 では大正5,6年がピークで、それ以降は減少している。このことは、逆に、小作率の推移に よっても裏づけられる。すなわち、小作率は地域により多少の偏差はあるものの、おしなべて、
(5)
大正12年以降減少に転じている。
『鹿児島県統計書』は、奄美大島郡に関する詳細を欠いているが、大正15年以降大島郡内50 町以上の耕地所有者をみると、大正15年3、昭和5年1、昭和10年3,昭和14年1となって、
増減不明である。50町以上の規模内容も明らかでないが、昭和期に入ってからの大地主の数そ のものは、案外少ない。
こうしてみると、奄美地域の大地主は、隷農労働を基盤とし、封建的特権階層から派生した 藩政期から明治前半までの手作地主と、明治後半から大正期を中心とした寄生地主とに分けた 方がよさそうである。両者は連続する場合もあるが、構造的に異なる。前者は役人層、旧家層 など、封建的身分を成立基盤とするが、後者は近代以降の商業資本をベースにした新興地主で ある。前者は、所有地の全体または一部を家族的隷農者労働力により耕作する自作農であるが、
後者は農業経営には直接参加せず、所有耕地は他人に小作させる、いわゆる寄生地主である。
徳之島の大地主も、この2類型に分けられよう。もちろん、この分類は系譜と時点の2軸か ら典型を求めた理念型的なもので、明確な区分線があるわけではなく、前者の寄生地主化段階、
後者の手作り地主段階が認められる事例もある。
(1)平家
平家は、稀にみる地方名望家である。始祖は琉球王府統治時代の島主「首里之主」とされ、
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大正14年の鹿児島県多額納税者平正之までで14代である。その系譜関係をみよう。初代から、
首里之主一東之主(3代島主、2代島主は兄の西之主)−佐武良兼(長男)−松之主(長男)一大 山(長男、山用人)−東名指(3男、諸田から糸木名へ移される)一福里(2男、糸木名外2ヶ 村捷、阿権宮積家の元祖。同家は平、栄、柏田、島岡、周、常の6家に分れる)−福政(長男、
兼久目指)一宮積(長男)−福政(4男、伊仙、津ロ横目)一平福憲(長男、兼久暖与人、勧功に より郷士格を与えられ、平姓を賜わる)−平福世喜(3男、大資産家)一平利正(長男)−平正之
(長男、多額納税者)となっている。この系譜は、大地主平福世喜を経由する1部に過ぎず、
その前後周辺には多数の系譜関係が展開している。しかも、その多くが村の役人を経験してお
り、伊仙村や兼久村の戸長も輩出していることから、明治初期まで、一族は政治経済上の支配 的地位を占めてきたと思われる。
平家の蓄財の基礎がいつからはじまったか明らかでない。ただ、政治と経済が機能的に表裏 不可分の時代にあっては、役人層は政治や経済の変動に敏感に対応できた。また性格上、彼ら は私的蓄財を必然的なものにしていた。というのは、彼らは単に農民から貢租を取立てるだけ でなく、凶作により貢租に不足が生じれば一時的な肩代わりをしたり、飢謹の際には救済した りした。そのためには、当然、資力が必要である。(もちろん、時代が移り、地方役人が中央か ら派遣されるに及んで、役人の性格は大きく変わり、士豪的役人から政治(行政)と経済が分 離された近代的な官僚へと変わっていく。)例えば、福政の長男福憲は、文政3年(1820年)の 飢謹に際し、自米10石をもって貧民を救済し、天保9年(1838年)には米1石をもって蘇鉄苗 を買入れ配付し、また種子籾5石3斤を村に施すなどの献身的な行為により、嘉永2年(1849
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年)代々郷士格を与えられ、平姓を与えられているが、こうした行為の背景には、私財が当然 必要である。福憲は、当時、すでに相当な資産を有していたことになる。
これと合わせて、福憲の功績として、鹿浦開港工事(天保14年=1843年)、道路開通、蔵敷地 造成、倉庫新築などの公共工事に注目したい。彼は、資材米600石6斗2升5合を投じ、弘化3
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年(1846年)までの4年の歳月をかけて竣工したという。鹿浦は、伊仙、東阿三を通って急勾 配の坂を降りた谷間にある◎鹿浦川をはさんで少しばかり平坦になっているが、すぐ急な上り 坂になっている。しばらくいくと、坂道は二つに分かれており、直進すれば犬田布、右折すれ ば阿権部落に着く。阿権までの道程も長い上り坂となっている。地形からみて、道路や港湾と
も、難工事だったと思われる。
しかし結果的に、交通不便な地域にあって、旧藩時代、鹿浦が藩庁の砂糖積出港として大い に役立ったことはいうまでもない。しかも、近代に入ると、平家の小作糖の積出港として利用 されたことを考えると、歴史の連続性を思い知らされる。資産形成における福憲の功績はかな
り大きいといわなければならない。
聴取り調査によれば、平家の資産形成者は福憲の3男福世喜という(長男福憲、2男福千祐 もそれぞれ顕著な経歴と資産、家系を残すが、ここでは省く)。坂井友直も『首里之主由緒記』
で、「一代にして巨万の富を築上げ名、世に高まるに及ふも尚貧を忘れず常に美衣美食を用ひず
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以て世人に範を示せる質実剛健の人格者なりしと云ふ」と紹介している。
日本各地の豪農が地域近代化の推進者だったように、福世喜も徳之島ではじめて瀧水を利用 した水車圧搾機を用いて白下糖製造を試みている。また鹿児島商人の横暴をおさえて、砂糖販
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売にも成功している。鹿浦港に運搬される砂糖は、ほとんど平家の小作糖であった。こうして、
生産(小作料)から販売に至るまで平家およびその一族の傘下に置かれたのである。
その他、貸金業が資産形成の主要手段だったと思われる。後述するように、福世喜の孫平正 之は大正14年鹿児島県多額納税者であるが、彼の職業は「貸金業」である。利息は年3割で、
取立てが厳しかった。返済できない人は、担保物件(土地)を取上げられ、小作人に転落して、
もとの所有地を小作した。水田の小作料は米で支払われた。納入期になると、籾俵が直接平家
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へ運ばれたのである。屋敷内には4本柱の倉があった。平家は、米の小売りもしていた。小作 料を納めて、自家用が不足すると、平家から買っていたのである。
明治中期頃までは、家人やヤテー(年季奉公)を使って耕作もしていたようであるが、大正 期以降になると、田畑はほとんど小作させたようである。しかし、それでも「暇売り」(日雇い)
を使って、家の内外の作業をさせていた。
平家の正確な田畑面積は明らかでない。聴取りでは、全盛期に100〜120町歩前後あったとも いう。間接的ながら、大正14年鹿児島県多額納税者名簿にもとづき、福世喜の孫正之(明治11 年生)の納税額の内容により考察しよう。大正13年から14年までに平正之が納付した地租は225 円87銭である。この額は、後述する糸重徳の地租の約半分である。これは、糸家の田畑は平家 のそれよりはるかに広かったという聴取り調査とも一致する。営業税は、大正13年172円、大正 14年250円となっている。所得税のうち、土地に関して納付したものは998円88銭(大正13,14 年同額)、商業に関し納付したもの999円81銭(大正13,14年同額)となって、どちらかといえ
ば、商業収入の占める比率が一般の地主に比べて高いように思われる。近代期の典型的な寄生 地主へ転化した事例とみることができよう。
琉球王府時代から、島津藩政期、そして明治維新後の近代資本主義社会へと勢力を維持して きた平家にとって、最大の試練は復帰後の農地法適用であった。この法的措置により、平家が どれほどの土地を解放したか調査されていないが、農地法適用に先立って、小作地は大部分小 作人に売却されたようである。(農地法の適用については後述。)
(2)糸家
糸家の位置する糸木名村落は、伊仙町役場のある伊仙から西まわりに西伊仙、東阿三、鹿浦 を経由し、東犬田布からつづら折りの坂を登って平坦地にさしかかった所にある。天城町平土 野と徳之島町亀津を結ぶ交差点にあって、交通の便は島内ではややいいものの、全体が高台に あって溶土が大部分を占めているため、農業に適しているとはいいがたい。
村落は散村の形態をなし、その中央部の傾斜地に糸家の屋敷が残っている。地形的に、屋敷 は西高東低になっていて、西側を走る道路からは屋敷全体が見下され、老木が2,3本屋敷の 北側に立っている。大部分がススキでおおわれ、内側に入ると、雑草の中に水道管が露出し、
最近まで使用していた様子がうかがえる。その他、建物の礎石やトタン葺の物置きが身の丈ほ どの雑草に覆われている。
聴取り調査によれば、糸家の先祖は馬根出身で(墓地が残っているようである)、富健の代に 糸木名へ移住した。彼自身も蓄財には貢献したようであるが、糸家を不動にしたのは、その子 の米健であった。そして、米健の子重徳(明治28年生)の代に糸家は絶頂期を迎えるが、地主 としての地位崩壊も彼の時代において生じた。重徳の母も妻も亀津出身で、地域的に勢力を拡 大することにより、彼は県会議員を1期つとめている。その後は農地経営に専念したとみられ る。しかし、存命中に戦後の農地改革に会い、農地放出を余儀なくされた。彼の没後、家屋敷 はそのまま放置されていたが、昭和58年、建物だけは近親者が購入し、犬田布岬に移して改装
してある。観光客相手の小料理屋にする計画という(昭和59年2月現在、まだ開店されてなかっ た)。重徳の子重光は、大蔵省官僚出身の俊才で、現在、東京で弁護士をしているようである。
富健とその子米健が、いつごろからどのようにして土地集積したか明らかでない。しかし、
前者の時代からすでに貸金業を営んでいたようである。
小作料は地域差があり、一定しなかった。方法として、特定の畑は面積と肥清により小作料 金が設定された。仮に平均を求めるとすれば、砂糖の場合、畑1反当り1挺が昭和14年頃の相 場であった。当時、平均として1反当り5挺ほど生産していたので、約20%が小作料というこ とになる。小作料は現物納付で、樽砂糖にして前泊港へ運搬された。前泊港は、糸家の砂糖積 出港で、阿権の平家が鹿浦港を利用したことと類似している。運搬された砂糖は、小作料とし て支払われると同時に砂糖商(昭和になると野村という鹿児島出身者であった)に引渡された。
米であれば、「仕分け」(収穫物を地主と小作人とで分配する法)があり、1対2とか半々の比 率で納められた。
「仕分け」に近い方法で、家畜(牛)が飼育されることもあった。地主の牝牛を成牛になる まで飼育し、繁殖するようになると、その子牛を地主と飼主で交互に分ける方法である。
農業以外に事業をした形跡はないので、以上が大正から昭和にかけた糸家の主要財源という ことができよう。大正14年「鹿児島県多額納税者名簿」によると、糸重徳の税額は、地租が435 円55銭(伊仙村)と21円55銭(亀津村)、営業税148円、所得税のうち土地に関するもの4,046円 73銭(大正13,14年同額)、商業に関するもの907円10銭(大正13,14年同額)となり、土地関 係の所得が突出している。この結果は、阿権の平家の数字と比較すると興味深い(先述)。土地に 関して両者を比較すると、地租に関して約2倍、土地に関する所得で約4倍、糸家が平家より 大きい。糸家の田畑面積は、平家のそれと比較にならないほど広大であったことは、聴取り調 査でも確認された。それを表す口碑として、「亀津まで行くのに他人の土地を踏まないで済む」
というのがあった。事実、伊仙町西部地区、つまり、木之香の一部、糸木名、東犬田布、西犬 田布、崎原など、さらには亀津(徳之島村)、兼久(天城村)にまで所有地はまたがっていた。
(11)
ただ、大正13年頃の糸家の土地を170町余とか、太平洋戦争直後約200町歩という報告があるが、
他の統計資料からみて、この数字は再検討する必要があるかも知れない。
大正から昭和にかけての糸家は、寄生地主とみられるが、富健あるいは米健の時代に手作地 主の形跡がある。約3町歩の苗代田があり(実際の植付面積は不明)、また部落の水源地から水 路をつくって水を引き、部落民にも利用させたという。部落民は、耕作面積に応じて、例えば 1反当り何メートルというように、年に2回、水洩れの修理をしたり、水路の掃除などをした。
地主としての糸家の解体要因は、いくつか考えられる。そのうち最大要因は、いうまでもな く本土復帰(昭和28年12月)後の農地改革である。徳之島における農地法の適用過程は後述す るとおりであるが、それによって大部分の田畑を手離し、地主としての地位を喪失したのであ る。もう一つの要因は、地位継承の断絶である。近代以降、地主の子弟が高等教育をうけ、国 家エリートや全国的企業エリートに補充されていったことは、全国的に共通している。糸家の 場合、長男も二男も大学を卒業して現在東京で弁護士をしている。先述したように、長男はも
− 釦 一
と大蔵省官僚である。近代日本でみられるように、地主と企業は拮抗する面が多分にあるし、
地主と国家も、前者が後者の庇護に依存するようになると、ときには国策上犠牲を強いられる というように、実際上は対立することもあった。こうして、地主と国家エリート、企業エリー トは構造的には対立関係を内包する。糸家の子弟が、地主解体に直接手を貸したわけではない が、地主の子弟が国家レベルのエリート層へ移動することは、地主自体からみれば逆機能(dys
functional)であったといえる。
(3)林家
け ど <
徳之島町花徳は、大地主が比較的多く形成された村落である。ここは、現在、徳之島町の行 政区域になっているが、町村合併する昭和33年までは東天城村であった(なお、東天城村が自 治体として独立するのは大正4年であり、それ以前は明治41年の島喚町村制施行以来、天城村 の行政区域であった)。花徳は、上花徳、前川、新村の小字に分れており、前川が中心をなす。
林家は、前川の中心部からやや奥まった所に丘陵を背にして位置している。屋敷は、裏山や 周辺を会わせるとかなり広大である。屋敷内には松やいぬまきなどが植えられ、中央部に母屋、
やや新しい風呂屋、炊事屋、倉がある。住人はなく、建物は風化しているが、管理人によって 整備されている。屋敷の裏山は傾斜地になっていて、その頂上は墓地である。林家の人名・没 年は、その墓標にもとづく。
口碑によれば、林家の初代は鹿児島出身で、沖縄と焼物(壷)を取引きしていたようである。
いつ、どのように花徳にきたか明らかでない。林家の基礎を確立したのは、林為喜祐(明治33 年11月没)である。享年70歳だから、かぞえ年で計算して天保2年(1831年)生まれというこ
とになる。彼はマーラン船を有し、交易を営んだ。それによって蓄財し、貸金業を営んだよう である。その勢力範囲(商圏)は、東天城全域、亀津(徳之島村)、浅間(天城村)まで拡大し た。
為喜祐については、資産形成のこと以外あまり聞かれないが、その子息(養子)の元俊は、
資力を背景に代議士になった。彼は明治37年10月死去し、享年48歳であるから、安政4年(1857 年)の生まれということになろう。元俊が代議士に立候補したとき、為喜祐は1万円の選挙資 金を準備したという。
元俊の子息為良も明治31年から35年まで代議士であった。彼は明治17年生まれで、早稲田大 学商学科を卒業している。国政から離れた後、大島電器株式会社の重役として活躍したが、早
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世した。大正14年「鹿児島県多額納税者名簿」によれば、彼の職業は商業となっている。税額 をみよう。地租は125円95銭(東天城村)、6円7銭(名瀬町)、8円16銭(天城村)、計150円18 銭である。所有地の分布は、東天城村を中心としていることがわかる。営業税は、324円16銭(大 正13年)と330円40銭(大正14年)。所得税では、土地に関して納付したもの442円38銭(大正13, 14年同額)、商業に関して納付したもの856円69銭(大正13,14年同額)、所得税合計1,299円7 銭(大正13,14年同額)となっている。所得税から注目されることは、土地による所得よりも 商業による所得が約2倍大きいということである。(既述のとおり、伊仙村の糸家では逆に、土
地による所得が商業による所得より約3.5倍大きい。)
大島々庁『大地主土地経営調』(大正11)によると、為良の所有地は、田21町2反1畝5歩、
(13)
畑15町9反4畝22歩、計37町1反5畝27歩、小作人数182名となっている。
林家の動揺は、意外なことから起こった。年代は不明だが、為良の頃、大川某と裁判沙汰を 起こし、相当な土地(現在の天城空港周辺、名瀬や鹿児島鴨池の土地など)を売却せざるをえ なくなったという。しかし、その具体的な面積、それによる影響の大きさはわかっていない。
他の地主と同様、林家も戦後の農地法の影響をうけたと思われるが、そのことは後述する。
(4)中村家
徳之島には、大正14年現在、4名の多額納税者がいる。伊仙村の平正之、糸重徳、東天城村 の林為良と蔀富豊である。後者2人は花徳出身で、一つの小村落から2人も多額納税者がでた
ことになる。
蔀姓は、現在、中村に改姓されている。多額納税者中村(蔀)富豊(嘉永6年生)の系譜を みよう。彼は、大地主中村資寿の孫に当たる。資寿がどのようにして蓄財したか不明だが、恐 らく貸金業で土地集積したのであろう。資寿には長男富盛と2男元俊(林為喜祐の養子)があっ た。富盛には長男富明、2男富豊(多額納税者)3男行富があったが、妻に先立たれたため、
後妻を迎えて4男富重と5男資宜を産んだ◎中村家の財産は、この5人の子に分けられたよう であるが、多くは本妻筋の富明と富豊が相続したという。多額納税者中村富豊には長男資寿と 2男資盛がおり、資寿の子息は歯科医として、現在本家屋敷で開業している。2男の資盛は、
相続した資産をバックに平土野で酒造業を興し、現在は子息の明秀が引継いでいる。
以上が、多額納税者中村富豊を中心にしてみた中村家の系譜関係である。富豊の資産規模は、
先の『大地主土地経営調』によれば、田18町2反1畝25歩、畑14町2反8畝6歩、計32町5反 1歩、小作人数178名となっている。他方、間接的ながら、大正14年現在の納税額によって考察 することにする。「鹿児島県多額納税者名簿」によれば、富豊の職業は「金銭貸付業」となって いる。地租60円24銭、営業税234円76銭(大正13年)と199円20銭(大正14年)、所得税のうち土 地に関するもの216円30銭(大正13,14年同額)、商業に関するもの632円23銭(大正13,14年同 額)、所得税合計848円53銭(大正13,14年同額)となっている。所得税でみると、商業収入に 対する税額が、土地収入に対する税額より約3倍も大きい。
富盛後の中村家は、子息それぞれ分家して、各様の経緯をたどった。どちらも地域の大地主 ではあったが、貸金業を中心にするもの、砂糖商に手をだすものもあった。また昭和期に入る と、どちらも小作料を中心にする寄生地主的性格が強いが、大正の中頃までは手作地主であっ たようだ。例えば、中村富明や中村富重の屋敷に畜舎、米倉の跡があり、事実、富重の家には その頃7,8名のヤテー(下男、後述)が働いていたという。『大地主土地経営調』によれば、富 明の資産は田8町7反1畝19歩、6町1反5畝7歩、計14町8反6畝26歩、小作人77名、富重 の場合、田11町4反7歩、畑7町3反8畝20歩、計18町7反8畝27歩、小作人126名とな
っている。
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地主としての中村家に急激な地位変動があったとは思われないが、詳細はこれからの研究課 題である。少なくとも富豊の系譜からみると、地主から企業家への転換が定着しているようである。
大地主は、全農家の0.5%にも満たないごく少数者であるが、地主間の結合は強かったようで ある。その象徴的なものが婚姻関係である。徳之島町花徳の場合、中村資寿の2男元俊は林家 の養子であった。花徳の資産家重安元(今回の調査報告では割愛した。)の2男も、林家から嫁 を迎えている。他方、林家は、上花徳の士族福家から嫁を迎えている。東天城村10代村長直島 直治は、もと林家の大番頭で、林家の婿である。
伊仙町(昭和37年町制施行)平家の婚姻関係をみよう。まず、族内婚姻が多いことに気付く。
平一族といっても、多くの支流に分れているし、7代福里の子孫だけでも平、栄、柏田、島岡、
周、常の6家に分れ、いずれも名家である。つまり、数が多いこと、上層を占めていることが 族内婚の一因であろう。平一族12代正美(柏田福代基)4女まつは、糸家の基礎をつくった糸 米健の妻であり、糸健の娘も平家へ嫁いでいる。
(5)地主解体と「自作農創設維持事業」
大正9年以降の戦後恐慌、労働問題や小作争議の噴出は広く知られているとおりである。景 気はその後も回復せず、昭和初期にかけて農村は不況のどん底にあえぐのであるが、こうした 背景から窮民救済、小作問題の未然防止を目的として制定されたのが「自作農創設維持事業」
である。
政府の長期低利資金を利用して、弱小農民に耕地を購入させ、自作農の育成拡充を図るとい うのがこの事業の目的だったため、地主の協力が必要であった。この事業で、徳之島の地主が 果たしてどのくらい土地を手離したか、興味ある問題である。
大正13年から昭和12年までの鹿児島県「自作農創設維持事業成績概要」をみると、この期間 に創設維持した耕地総面積は2,306町8反2畝6歩、宅地31,121坪2合8勺、貸付資金総額371 万9,400円、転貸市町村、産業組合は延228市町村組合、創設維持延人員6,118人となっている。
このうち、徳之島関連だけ抜粋すると、昭和4年、天城村48人、田12町8501、畑3町6402(以 上創設)、昭和11年天城村63人、田5町7811、畑20町5612(以上創設)、昭和12年天城村創設69 人、維持6人、田10町5114(創設)と4反321(維持)、畑15町2718(創設)と3町829(維持)、
伊仙町創設59人、維持5人、田3町6403(創設)と3反208(維持)、畑20町5408(創設)と2 町2623(維持)となっている。東天城村や亀津村(徳之島町の前身)は含まれていない。とい
うことは、この地域への影響はなかったことになる。
全国的にみて、この事業の効果は軽微であったと指摘することもできよう。事実、上述のと おり実施されなかった地域もあるくらいである。半面、地域によっては地主に方向転換を迫る ようなある種のインパクトを与えたケースもあるかも知れない。昭和12年、伊仙村における自 作農創設面積から(田約3町、畑約20町)、こうした効果は読みとれないだろうか。
3.地主・小作関係
「寄らば大樹の陰」の逆を表す里諺が、伊仙町でよくきかれる。「ふいぎぬちや−にくわ−ぎ はたたん」とか、「ふいきいすうなんやひじゃ−ぐやすだたん」(大木の下に小木育たず)がそ れである。特に大正期以降の伊仙村には、平一族や糸家を頂点にした大地主と、わずかばかり の中地主がおり、その周辺に多数の零細農あるいは耕地非所有者がいたと思われる。
大地主を中心とする上層農と同様、下層農の系譜にも目を向けなければならない。下層農の 底辺部は明治4年以前の下人層(家人)の流れをくむ人びとで、明治4年の解放令後はヤテー
(またはヤティ、年季奉公)、日雇(「暇売り」と称している)、小作人と労働形態を展開してき た。小作人でも日雇を主とし小作を従とするもの、逆に、小作を主とし、日雇を従とするもの とに分化していたと思われる。村落によっては、最近まで、日雇部落といわれるくらい、日雇 を主な生活手段とするところもあった。この人びとは、一般農家から多少蔑視されていたよう
である。
大部分は、所有地5反以下の零細農民であった。もちろんこれだけでは自立できないため、
大なり小なり小作しなければならなかった。しかし、自・小作率あるいは小・自作率も含めて、
(14)
小作率が一般に増加したのは大正期以降である。昭和16年の調査資料によると、伊仙村崎原の 小作率は64.5%、阿権46.5%、木之香42.0%、糸木名38.2%、東犬田布38.0%などとなって、
(15)
かなり高率を示している。
いうまでもなく、小作率増加は地主の土地集積過程と表裏をなす。端的にいって、金銭の貸 借関係で負債が膨張し、それが返済できずに土地をとり上げられ、その土地を小作するという 経緯で土地が集積されていったようである。具体的事例をみよう。
Y氏(明治43年生)は、もとある地主の小作人で、現在、伊仙町阿権に住んでいる。軍隊で 過ごした3年間を除けば、ずっと阿権にいる。本土復帰(昭和28年)するまで自己所有の耕地 はなく、3反ほど小作していた。もちろん、これだけでは生活できないため、砂糖の荷作り係 として産業組合で働いた。戦後になって出稼ぎにいったが、生活は決して楽ではなく、その間、
そてつの幹を食べたことも幾度かあった。
地主から、小作料を上げるという圧力が絶えずかかった。その背景には、小作人が競争して 土地を借りたという事情があった。何しろ、土地がなくてはどうしようもなかったため、小作 人同士の競合となったのである。例えば、ある小作人がどこそこの畑を300斤(砂糖による年間 小作料)で借りたいといえば、他の小作人は400斤で貸して欲しいと願う始末であった。樽砂糖 にして1樽120斤、(樽の重量を含めて)だから、3〜4挺の小作料になる。このような小作率
だと、小作人の取前は2〜3挺しかなかった。
小作料は1反当りの計算ではなく、特定の畑に何斤と割り当てられた。田畑を認定するのに 面積ではなく、小作料が基準になったという。仮に面積を基準に割りだすと、1反当りの小作
料は100〜150斤(砂糖)だったようである。
水田の小作料は、「仕分け」と称して、収穫米(籾)を地主と小作人で分ける方法もあった。
一 剥 一
6〜7月の収穫期になると、籾俵(1俵80〜100斤)にして牛車で地主宅へ運んだ。そのときは、
多数の小作人や検査受領人で地主の屋敷は混雑した。小作料を納めた後、自家用米が不足すれ ば、小作人は地主から買うこともあった。
小作料の砂糖は、小作人が直接鹿浦港へ運んだ。港には平家の倉庫があり、砂糖を収納した のであるが、産業組合がそれを引取って大阪へ出荷した。小作料の清算は、受領書をもとに産 業組合と地主間でなされた。
米にしても砂糖にしても、契約どおり納付できればよいが、台風や旱紘などによる凶作によ り不足が生じた場合、その分は2割の利息付きで翌年の小作料に加算された。この点、地主は 厳格であり、不足分が大きかったり、凶作が続くと、土地を手離さざるをえなくなった。こう した例は多数あり、Y氏もその1人である。こうして島外への出稼ぎも増加し、昭和12年頃に は島を出た労働者がピークに達した。
戦後しばらくはそれまでの地主、小作関係が続くが、本土復帰(昭和28年)が確定すると、
地主側から小作人に対して、小作中の田畑を買うように持ちかけてきた。現金の持合わせがな い場合は、貸借関係に切換え、土地は名義変更することもできた。多くはこのようにして、農 地法の適用前に土地を購入した。Y氏も、このとき7反余の畑を買い、4年かかって代金は返
済した。
E氏(大正11年生)は、伊仙町崎原に住む上層農で、町議会議員を16年もつとめ、農業委員 長も歴任した地域リーダーの一人である。しかし、ここに到るまでの道は平坦ではなく、戦前 期あるいは本土復帰前までの生活苦は筆舌に尽し難いものがあったようである。
E氏の先祖は、鹿児島出身の遠島人であったようだ。その孫が、どういう事情からか、寄留 商人野村商店に7円の負債があった。この金額は、当時の財産をすべて処分しても払えるもの ではなかった。野村商店は、昭和12年に徳之島から引揚げたが、貸借関係は村役場に引継がれ た(税金の肩代わり)。村役場は、その取立てを迫るが、土地はすべて小作地で、差押さえもで きなかった。牛も地主のものではあったが、とられるかも知れないという懸念から、あちらこ ちら場所を変え隠しまわったという。E氏は、借金に追われながら尋常小学校高等科2年を卒 業すると、直に砂糖運搬をはじめ、1挺から10センずつ稼いで7円の借金を返済した。
田畑は、すべて小作地であった。小作料は一律ではなく、畑に応じ(面積も勘案して)何斤 と決めた。これ以外にも、出来高(収穫高)に応じた「仕分け」法もあった。この場合は、地 主と小作人で2対1とか、半々という取り決めをした。小作料は籾で何斤と納めるが、ひどい 場合になると、干してから納めさせることもあった。また米俵に不良籾でも混入していると、
うけ取らなかった。不足分、あるいは今年払えない分は翌年にまわされるが、利息2割の複利 計算で加算された。
崎原は珊瑚礁地帯のため、土地は岩盤まじりで地層が薄く、清士が多い。農業には適さない。
それでも窪地に天水を溜めて水田をつくったので、農民の苦労は想像を絶するものがあったよ
うだ。
直接間接に農民を苦しめたのは、もちろん地主である。しかし、小作人でありながら、地主
の手先となって他の小作人を監視したり、取締りする人びともいた。彼らは、小作料を真面目 に納付したとして地主の寵愛をうけ、籾をもらったりして手なづけられていた。「手当り」と称 して、砂糖きび畑を棒でついてまわる「まわり番」もいた。
「ヤテムリ」と称して、地主からよく見られようと労賃もとらずに地主の仕事を手伝う人び ともいた。小作人にそのような義務はなかったが、地主の気嫌をとるため、自主的に労働を提
供したのである。
復帰にともなう農地法の適用は、小作人の地位を一転させた。借金ではあったにせよ、多く の小作人が、それと前後して、自分の土地を持つようになったのである。E氏も、復帰後、兄 弟と一緒になって6町歩の土地を買った。ひと月5分利息の借金をかかえることになったが、
現在でも土地に対する信頼をもち続けている。
M氏(大正4年生)は、徳之島花徳に住み、父の代からの小作人である。資産家あるいは地
ぷ ぎ ん し や
主は、「分限者」と称するが、彼らと一般農民との間は断絶しており、後者の無知無学につけ込 んで、さまざまな収奪がなされたようである。
小作料の取立ては厳しく、払えない分は年3割の利息で翌年に持越された。複利計算のため 負債は倍加するばかりで、払えなくなると畑を取り上げられ、それでも不足すると牛馬も持去 られた。金目のものは、何でもとり上げられた。ついには娘を連れ去り、1年奉公あるいは2
年奉公として働かされた。
取立ては、地主の一方的判断に委ねられた。例えば大正の頃まで、小作料として支払われる 黒糖に○(上)、□(中)、△(下)の印をつけて等級分けしたが、これはすべて地主側で処理
されたという。
小作料(砂糖や籾)は、小作人が予め量って持参するが、地主宅で納入する段階で不足が生 じる場合があった。地主は、大ばかりのおもりを取換えたり、測定技術が巧妙で(例えば、は かりでは、おもりを先端部から前へ移動させる場合と、その逆方向に移動させる場合とでは、
2〜3斤差が生じるという)、あらゆる段階で収奪の限りを尽した。
「青葉買い」と称して、製糖前の砂糖きびを担保に前借りをすると(ときには、担保物件を 当て込んで肉などの物品を売りつける悪徳商人もいたという)、製糖期になれば、地主は腕力の ある人を雇って製糖小屋を巡回し、樽詰めされた黒糖を持ち去った。債権者が何人もいるので、
先を争って分捕ったのである。小作人のとり前は残らなかった。
小作人は小作料を完納することが精一杯で、米を口にすることはなかった。常食はいもであ り、それも不足すればそてつを食べた。実を食べるのはいい方で、多くは幹を調理して食べた。
米や砂糖に対しては、特に監視の目が厳しく、M氏の小学校の頃まで、砂糖きびを口にして道
を通ることは許されなかった。
小作人が、自らの意志を表明でき、:大なり小なり自分の土地が持てるようになったのは、や はり復帰後、農地法が適用されてからである。花徳の場合、後述するように、農地法による地 主への影響はそれほど大きくはなかったようである。しかし、小作農の地位は大きく変わった。
以上は、3地域の小作人を事例としてとり上げたが、地主・小作関係に大きな差はなさそう
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である。いずれも地主による一方的な抑圧、苦渋に満ちた小作人の姿しかでてこない。では、
小作人の抵抗はなかったのだろうか。母間騒動(1816年)や犬田布騒動(1864年)Iま広く知ら
(16)
れている。近代に入ってからも、鹿児島藩士伊知地清左衛門による家人解放運動、これに勢い
(17)
づけられて、伊仙町阿権出身の前安という人による解放運動もあったようだ。大正7年、住用
(18)
村西仲間では米騒動も起きている。
しかし、大正・昭和戦前期をとおして、少なくとも調査された地域に限っていえば、組織的 な農民運動はなかったようである。大正中期後、平利文(多分に社会党員だったという)が来 島して、島民の農民運動の必要性を呼びかけたが、警察が絶えず監視して、組織的な運動にま で到らなかった。こうして、農民運動の雰囲気はあったものの、小作人が徒党を組むようなこ
とはなかったようだ。
個人的な抗議行為はあった。事件の発端は各様に伝えられているが、要するに、小作人に対 する地主の強権的な態度が根底にあったようである。大正7,8年頃、小作人による地主家族の殺 害事件が起きた。この事件はこれ以上発展せず、一つの刑事事件として処理されたが、周囲に 複雑な反響をまき起こした。いまでも、人びとは語りたがらない。
地主に対する不平不満は、私的には語られていたようである。ときには、冠婚葬祭のとき、
ある地主には協力をしないということも語られていたようである。その結末は不詳だが、冠婚 葬祭を持ちだしたところに、共同体社会の特徴がみられる。
農民運動が芽生えなかった背景には、極端な収奪があった。農民が最も恐れたのは「土地を とり上げられたら生きていけない」という極度の不安があった。地主側もそのことをよく見越 していて、何かにつけて、土地をとり上げると脅迫した。このことは、調査された地域で等し く聴かれたことであり、それがまた後述すように、戦後の農民運動の展開にも影響した。
間接的要因としては、共同体社会、つまり個人がその集団から離れて生産しえず、絶えず集 団維持機能が優先する社会の構造とかかわっているように思われる。村落の約40%の小作人は 地主によって苦しめられていくが、突出して集団を混乱させられないブレーキが、この種の社 会には伝統的に保存されていたのである。これがまた、地主や権力者の思うつぼでもあった。
もう一つの構造的要因は、農民の階層構造とかかわっていると思われる。運動の展開として は、地主と小作人が両極分解するとともに、小作人が絶対多数を占め、利害意識で結合したと きに条件は整うはずである。ところが、いくつかの点で、彼らはこの条件を満たしていない。
まず、たびたび述べてきたとおり、徳之島の小作率は高いが、その内容を自・小作と小作に分
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けると、伊仙村でさえ、純然たる小作率は最高約17%(昭和16年)である。つまり、自・小作 等の方が高いのである。換言すれば、小作人(作人と称される)といっても断層があり、利害 関係は必ずしも一致しなかったのである。たとえ小作人に結合形態があったとしても、それは 経済的利害関係から生じたものではなく、共同体社会意識によるものであり、先述のごとく、
これが農民運動の発展に反作用を及ぼすことにもなったのである。
小作人のなかには、地主にうまく手なずけられて、地主に代わり他の小作人を監視するもの もあった。支配の末端機関は彼らだったのである。
小作人と別性格の農民に「暇売り」(日雇)があった。農繁期や臨時に、地主または自作農に 雇われて生計を立てたのである。昭和10年代、伊仙村阿権だけでも7〜8軒の「暇売り」がい
た 。
地主への従属度の強い隷農者として、ヤテー(ヤティ、ヤテというところもある)がいた。
ヤテーにはいくつかの系譜がある。一つは、主に家人である。明治20年代になると、それまで 地主に固定的に拘束されていた家人は、制度的には解放されているものの、その多くが主家に
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年給制で雇われた。当初は1年雇用が普通で、「イッカネンヤテ」と称された。借金が積って返 済に窮し、息子や娘を年季奉公にだすケースもあったが、この場合は1年とは限らず、2年以 上が多く、2年ヤテー、3年ヤテーなどと称された。なかには稼ぐために雇われたものもあっ た。事実奉公後何年か経て畑を買う人も稀ではなかったという。ヤテーには、住み込みと通勤 の両者がみられた。その背景には、上述の系譜関係や実家との距離が作用していたかも知れな
い。
最下層の農民は、家人の問で生まれた子どもで、「膝素笠j'(地域によっては「ナスンキ」と
もいう)と称し、生涯主家に隷属した。主家は、この子らの誕生を喜ばなかった。仕事の邪魔 者として誕生間もなく川に捨てて流したとか、溜池に投げ込んで殺したといったケースが伝承 されている。また、この子らの成長までの食費、養育費などが加算されて、奉公期間が延長さ れたという。なかには、下層身分であっても、地主や資産家(ブギンシャ)あるいは旧家(主 人はシュウ)に仕えているという意識があって、却って誇りにさえする者もいたという。
4.戦後の農民運動と農地改革
敗戦後、地主・小作関係は、それ以前とくらべて変化はなかった。小作人の生活苦に堪えか ねて、伊仙村では復員した青年4,5名が中心になり、この苦境を打開しようと話し合った。敗 戦の結果、アメリカが何とかするだろうという淡い期待もあったが、当てにできないため、自 力で何とかしようということになり、昭和21年暮れから23年の夏場(梅雨明けの頃)まで運動
を展開した。
まず組織らしいものをつくり、会長江田栄三、副会長稲葉重次の役員構成で臨んだ。そして、
「小作地を自分の土地にしよう」、「たとえ自分のものにならなくても、地主の圧迫を少しでも 緩和しよう」、「みんなで国に働きかければ何とかなる」と、5,6人で伊仙村内の8つの学区を まわり、約7ヶ月間演舌会を開いて訴えた。その間、地主側は政治家を通して、「君達は赤だ」
と圧力をかけたり、暴力団を雇って集会を解散させようともした。しかし、聴衆の数が大きい だけにどうしようもなく、ついには警察の手をかりて演舌会を監視させ、集会ごとに弁士を思 想調査させた。警官は大島郡出身ばかりであった。江田氏も4,5回警察に呼びだされた。
この運動は、有志を中心としたものであり、伊仙村青年団本部を根拠地にして展開した自主 的な運動であった。順序として、各小学校をまわって演舌会を開き、オルグ活動をした。そし て農民組合への参加を呼びかけて署名捺印させた。約400名ほど登録したようである。その後大
一 認 一
きなイベントは、農民組合の結成大会開催である。各小学校区単位でオルグ活動をした後、い よいよ結成大会を伊仙小学校で開いた。集まったのは小作人だが、なかには地主側から派遣さ れたものもいた。後者はもとより、地主側近の小作人は、組合への登録を拒否した。参加者は 約100名であった。演舌がはじまるとヤジもなく、主催者側の計画通り進行した。弁士は江田栄 三(字崎原)、久林武恒(字八重竿)松田清二(字阿権)、叶明勇(字阿権)であったが飛び入
り弁士も何人かいた。しかし、東部(面縄方面)出身者は少なかったようである。
結成大会後、各部落単位で土地解放の方法論が座談会形式で討議された。そのつどリーダー は呼びだされて参加した。討議の結果、組合の要求が受け入れられなければ、組合員同士で小 作地すべてを地主に返還しようと約束してあった。これは無謀な決定ではあったが、土地を全 て返還すれば地主も困るだろうとの読みがあったようである。
小作人の動きは、当然、地主側の警戒を誘発したが、集会での妨害を除いて、きわだった動 きはなかった。却って、彼らの態度に好転の兆候がみえはじめた。まず、低姿勢になった。つ ぎに算定基準が田畑(面積)ではなく、出来高に変わった。
しかし、それ以上の成果をみないまま、運動は継続不可能となった。その第1の要因は、こ こでもやはり組合員の生活苦である。特に、各地域をまわってオルグするリーダー達に、生活 の余裕がなかった。オルグ活動に追われて、生活苦が重くのしかかってきたのである。あきら め切れない組合員もいたが、現実はどうすることもできず、運動は自然消滅した。しばらくす ると、農地法による土地解放(鹿児島県ではすでに施行)の話題がもち上がってきたのである。
奄美群島の本土復帰は、昭和28年12月25日である。復帰後は、日本の制度が施行されるわけ であるが、性急な適用は混乱を招くおそれのあること、施政権分離後約8年間の空白を漸次う め合わすための特別措置が必要なことから、一定の猶予期間が置かれた。例えば、復帰にとも なう法的措置として、鹿児島県当局は政府に対して「当分の間適用を見合わせられたいもの、
年度途中の適用を避けられたいもの、適用上特例を認められたいもの」の3項を分類し、その
(22)
1項の具体的内容として農地法、農業委員会法、教育委員会法、精神衛生法を要請している。
この要請は、現地の要望を踏まえてなされたようである。「農地法の施行を半年ぐらいの猶予 をおいてもらいたい。現在の田4千町歩畑1万2千町歩、合計1万6千町歩のうち2反以下の 零細農が35%をしめしている。所有反別の最高は50町歩で徳之島に2名いる現在農地法をみこ して土地売買の動きが強く、地価調査によると水田で反あたり2万5千円から3万円(B円)、
畑1万2千円から2万円となっているが、実際には買手が少な哨》これが本土復帰約3週間
前の現地の動きであった。
しかし、復帰の日程がいよいよ目前に迫ると、農地法と食管法の適用をめぐり、現地では深 刻な動揺がまき起ったようである。当時の南日本新聞はつぎのように報じている。「まず第一に 農地法適用については徳之島を中心に各離島の地主階級が争って土地を売り急ぎ先祖伝来の田 畑を投げ売り手ぱなしている。奄美地方庁の調べによると同郡1万6千町歩のうち50町歩以上 の私有地(2)10町以上(16)1町以上(2,788)で自作農創設の主旨から大体1町歩以上が農 地取上げの対象になると見られ地域別には徳之島がその影響はもっともひどい。その他喜界、
沖永良部各離島におよんでおり、最近の傾向は金詰から物々交換が大部分で砂糖など物納し、
年賦償還のかたちによる譲渡がほとんど全部である。その相手方は返還納了の関係から小作人 相手は少ない。
そして地主階級のなかでもその動揺は不在地主階級が最もつよく主に親戚への名義書きかえ などに追われているが、同郡の地理的関係から、戦時中、占領中にひきつづき内地へ移動して いるもの、勤務関係で他島にいるものなど不在地主の数はきわめて大きく復帰のよろこびの裏
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にひそむ悲哀は大きい。」
農業委員会法が施行されたのは昭和29年であった。それに基づいて大島郡の第1回農業委員 選挙が7月20日行われ(大和、宇検、西方、早町、住用、天城、東天城の7村は無投票当選)、
徳之島1町3村の当選者はつぎのとおりであった。亀津町(定員10名)泉世喜治・古勝福文・
鎌島寿蔵・宮上秀応・幸野徳道・伊地石喜富・小倉嘉富・福島武・永吉禎芳・久林秀俊、東天 城村(定員10名)木場富広・平山真良・仲田豊彦・熊元佐和宝・平島義信・山本元親・林義忠・
浅田誠二・和田茂久・武島現口、天城町(定員10名)永井徳秀・新田武彦・益満光男・西松明 憲・三原幸雄・芝実・溝畑直口・稲村良雄・盛山恒良・柏隆徳、伊仙村(定員10名)美延純雄・
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徳島栄・上木豊・清水清田・有島直良・赤崎義輝・寿清一・明和徳次郎・福山徳慶・清亀山。
委員のうち、地主、自作、小作の各層を代表する構成内容は明らかでない。
委員会の過去の主な任務として、「農地法施行に伴う農地改革により不在地主の調査、小作料 の改定、農家台帳の作成、農地保有面積の制限、開拓農地120町歩の配分、農業構造改善事業推
進への協力、営林局所管土地の所属替な笛)があるが、農地法施行にともなう業務がわれわれ
の当面の問題である。
農地法施行にともなって、農業委員会から農家向けの特別な指導はなかった。施行前に、「農 地は2町歩以上もてない」とか、「大地主の土地は国がとり上げる」とかの噂が流布して、地主 の対応がすでになされていた。その主なものは、小作人優先に時価で売却する方法である。先 述した南日本新聞記事は、「小作人相手は少ない」となっているが、聴取り調査では、やはり多 数の小作人がこのとき、自分の土地をもてるようになったという。代金が直ちに払えないとき は、名義変更して借用証を入れ、貸借関係を結んだ。砂糖などによる物々交換もあった。地主 は砂糖を受けとって、闇商人に売却していたようである。
伊仙村のある地主の場合、子息が役場にきて、自分たちは近じか東京へ引揚げるので、耕地 を購入したい人はこの4,5日中に登記を済ませるように各部落へ連絡して欲しいと申しでた。父 と自分の印鑑をもっているのであらゆる便宜を図りたいということであった。そこで、役場の 関係者は、各部落に行って小作人に連絡したという。そのときの時価は高いという印象はなく、
小作人は平均4,5反は買ったようである。すぐ払えない人は、借用証を入れた。伊仙村西犬田 布の場合でも、約2,3割の人がこうした状況下で土地を購入したという。
農地法適用前のもう一つの地主の対応策は、書類上の名義変更である。限度以上の土地は親 戚の名義にしたらしい。このことは特に、東天城村(現徳之島町)できかれた。いうまでもな
く、この場合は、農地法による直接的な影響はないわけである。
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農地法によって甚大な影響を受けたのは、皮肉にも弱小不在地主であった。彼らは、狭い農 地に見切りをつけて京阪神の工業地域へ移住した零細農民であった(大正5年以降急増した。)(27)
農地改革という歴史的な大事業が、所期の目的を達成したかどうかは疑問の余地があろう。
しかし、農地法によって、農地の再配分がある程度可能になったことも事実である。また、農 地改革も含めた戦後の民主化政策によって、地主・小作関係が大転換をしたことは評価されな
ければならない。
最後に、農地法適用後、土地所有形態がどう変化したかみることにする。既述のとおり、農 地法適用を契機として、農地の再分配がなされた。取得後、借金返済に窮して土地を手離した 旧小作人もいたであろう。また、小型製糖工場をつくって失敗したもの、闘牛に手をだしてつ まづいたものもあり、農地法適用後、土地の異動は続いた。それから約30年後の今日、農地所 有形態はどのように変化しただろうか。
農地改革後の土地異動について、南日本新聞はつぎのような社説を掲載している。「最近は全 国的に農地の移動が目立ち、とくに今年になってから急激に増加の一途をたどっている。農地 移動を通じてうかがえることは、5反未満の零細農家が、経営の苦しさから転業資金、生活資 金をうるため、農地を手離す場合が多いことで、その反面、これら農地は7反以上、1町歩前 後の中農層に集中していることである。(略)
いま鹿児島県農地部の調べによると、25年に1千件台にすぎなかった農地の移動が、26年に
表 2 経 営 耕 地 規 模 別 農 家 率
−
児 疋 外 3 反 3 〜 b へ
豊 家 未 満 5 反 7 反 計
JhI1王 30000000000003J●●●●●●●●●●●●●●● 943565201−1−32211− 0333119120124529783333222222113111 ●●●●●●●●●●●●●●●●●● 747118444295412583 042513912139857206222222122211111111 ●●●●●●●●●●●●●●●●●● 625923970282627105 588891454741111112111112 ●●●●●●●●●●●●631662795774233223 500969●●●●●● 111111111122114850 543598476802 ●●●●●●●●●●●● 669461802169 11111121111122
1
279531343537187820 ●●●●●●●●●●●●︒●●●●a 1665570261902398701
311043555594499148 ●●●●●●●■●e●●●●●●●a毎次L炉乱しRjO飼廻︺内ⅡUnⅡU勺84︑〃全n〃﹄︑ⅢU戸句U︵x︺︵x︺n判︾︵uJn叩﹀冗屯J戸﹃皿 0.90.1 0.2 0.1 0.5 0.3
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−
J7I1
−
州(】王 29︐ 乢1 260
−
〔注)1970年と1980年の単位は反がa、町がha。