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遠藤周作と世田谷(2)―昭和女子大学との関わりから―

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(1)

昭和女子大学は東京都世田谷区太子堂にある。管見によれば、遠藤周作

は公に二度、この女子大学と関わりを持った。

は「私

記」と

(一 九 六 四)

誌「新

潮」

( 61 -2号)

時、二

後、昭

(一 九 八 二)

会、女

養講座に講師として登壇した時である。この二度の関わりからは、遠藤の

文学批評に対する毅然とした姿勢がうかがえる。以下、具体的に追ってい

くことにする。

「私

)1 (

」で

る。そ

容は次の通りである

(前後の文章は引用者の要約)

  向 う の 国 の 作 家 は 現 在 か い て い る 小 説 の 下 書 き ま で 附 け く わ え て、よ く 日 記 を 発 表 す る。が、興 味 を 引 か れ る の は、友 人 作 家 と の 交 流 や 自 作 に つ い て の 解 釈、

遠藤周作と世田谷

(二)

――

昭和女子大学との関わりから

――

 

 

 

学苑 ・ 近代文化研究所紀要   第九五九号   (二七) ~(四〇)   (二〇二〇 ・ 九)

Shusaku Endo and Setagaya (2)

Topics Related to Showa Women’s University

Mika Fueki

Abstract

This paper introduces an essay and a lecture related to Shusaku Endo and Showa Women’s University (SWU) in Setagaya, and examines Endo’s views about literary criticism.

The essay, “Watakushi no Nikki” (My Diary), was published in Shincho in February 1964. In it Endo confesses that he writes lies in his diary and mocks the approach of SWU students who collect tips about the authors’ private lives in order to interpret those authors’ works. Endo, at that time, advocated a theory called “Criticism of Metaphysics” which asserts that readers and critics must interpret literary works based only on the works themselves, not on facts or ideas about the authors’ lives. This was sharply opposed to the approach advocated by SWU’s Kindai Bungaku Kenkyu Sosho (The Serial Study of Modern Literature, 77 vols, The Institute of Modern

Culture, SWU, 1956-2001).

The lecture, “My Literature and Life,” was delivered to students of SWU on 22 October, 1982. No record is left of the lecture itself, but a printed description of a student’s impressions allows us to guess what he talked about. In this lecture Endo seems to have mentioned the unreliability of his own diary but also points out that in his work he pursues truth rather than facts. This seems to be a criticism of the above-mentioned ongoing study in  which efforts were made to demonstrate causal relationships between authors’ lives and their works, but at the same time seems to be an encouragement to the students to pursue truth.

Key words: Shusaku Endo (遠藤周作), Criticism of Metaphysics (メタフィジ

ック批評), truth (真実), fact-based literary research (事実に基づ

いた文学研究), The Serial Study of Modern Literature (『近代文学

(2)

み た 夢 な ど の 記 載 で、そ れ は 作 家 自 身 の 作 品 の 秘 密 を 解 き あ か し て く れ る 鍵 に も な る こ と が あ る か ら で あ る。日 本 に は こ の よ う な 日 記 は な い の で は な い か。荷 風 の 日 記 も 荷 風 の 創 作 し た 作 品 で あ る。私 は 作 家 に な っ て か ら 比 較 的、日 記 を つ け て き た。自 分 の 私 生 活 は 第 二 に し て、先 輩 や 友 人 か ら 耳 に し た 文 学 の 話 や 彼 自 身 の作品解釈に役に立つような発言を書きとめてきた。   いつか江藤淳氏にこのことを話しながら、例によって私はふざけて、 「その日記の中には、本当の箇所とウソの箇所とがあるんだよ」   と言うと、江藤氏は、 「ウソの箇所って」 「つ ま り そ れ は ぼ く の 創 作 で す。今 日、×× さ ん に 会 っ た。×× さ ん が 自 分 の 創 作 方 法 に つ い て こ う 言 っ て い た と …… 半 分 は 本 当 の 通 り に 書 い て、あ と の 半 分 は 彼 が 言 い そ う だ が 実 際、言 わ な か っ た こ と や 意 外 な こ と ま で を、ぼ くが作りあげて書いてあるのさ」 「やア、面白いなあ」 「面 白 い だ ろ。後 に な っ て 昭 和 女 子 大 学 の 学 生 の よ う に、何 で も 作 家 に つ い て 書 か れ た こ と を 集 め る 連 中 が 出 て く る と す る。そ の 連 中 が、ぼ く の 日 記 を 偶 然 み つ け た と す る。彼 ら に と っ て は 作 品 そ の も の の 価 値 よ り、作 品 成 立 の 要 素 や 過 程 や 誰 々 が 庶 子 だ っ た と か 私 生 児 だ っ た と か こ ん な 女 が い た と い う こ と が 大 事 だ か ら、ぼ く の ウ ソ を 本 気 で 信 じ て、論 文 か く だ ろ。そ う な れ ば どうなる」 「やア。それは面白い。やれやれ」と江藤氏はけしかけた。   も ち ろ ん、こ の 江 藤 氏 と の 対 話 で 言 っ た こ と は 冗 談 で あ り、私 の 日 記 に は そ ん な 出 鱈 目 は な い の で あ る。本 当 に 私 が 先 輩 か ら 聞 い た 話、友 人 が 自 分 の 作品について、ふと洩らした言葉をそのまま記述しているわけだ。   そ の 日 記 に は そ れ ぞ れ の 作 家 の 特 色 が に じ み 出 て い て、書 き と め て お い て よ か っ た と 思 っ て い る。そ の ほ か、 「狐 狸 庵 日 乗」を 読 み か え す と、さ ま ざ ま な 思 い 出 が甦ってくる。

が、

「ふ

て」

、「冗

談」と

ものの、名指しでの揶揄となっているのである。しかし、遠藤は理由なく

他者を非難する作家ではないし、ましてやこれは公の刊行物である。持論

に確固たる根拠や正当性がないかぎり、そのようなことをするはずも

)2 (

ここから、昭和女子大学を名指しにしたのは、作家の単なる気まぐれでは

なく、公にするだけの何らかの主張や思想があったと考えられるのである。

さて前置きが長くなったが、まずは「私の日記」掲載の詳細を確認する。

は、

「新

潮」の

集〈作

眼〉の

た。

〈作

眼〉は、昭

(一 九 六 〇)

( 57 -1号)

(一 九 六 八)

( 65 -12号)

き、一

が、

つ、約

(一 ペ ー ジ あ た り 三 段、二 十 字× 二 十 五 ~ 六 行、タ イ ト ル 分 除 く)

筆、大

が、ほ

た。

〈作

眼〉が

で設けられたのか、連載スタート時には特に明文化して掲げられていない

が、第

( 57 -1号、昭 35(一 九 六 〇) ・ 1)

目、三

の「カ

フカ的」の冒頭に次の様に記されている。

  作 家 の 目 で 見 る と、何 の 變 哲 も な い も の が 面 白 く 見 え、世 間 で 面 白 が る も の が H 色 に も 見 え る と い ふ 迷 信 は、か な り 廣 く、今 日 ま で 行 は れ て ゐ る。と

(3)

ころがこんな迷信は外國にもあるらしい。

ここから、作家ならではの眼で世の中の事象をとらえて書くのが、この

コーナーの方向性であるとうかがえる。

の〈作

眼〉に

り、

「私

記」は

篇である。

  

「ここにも日本人社會が」

( 57 -5号、昭 35(一九六〇) ・ 5)

  

「人間と物と」

( 58 -8号、昭 36(一九六一) ・ 8)

  

「九官鳥の話」

( 59 -1号、昭 37(一九六二) ・ 1)

  

「ある場所の話」

( 59 -7号、昭 37(一九六二) ・ 7)

  

「飜譯者への注

( 60 -2号、昭 38(一九六三) ・ 2)

  

「心苦しい善意」

( 60 -5号、昭 38(一九六三) ・ 5)

  

「私の日記」

( 61 -2号、昭 39(一九六四) ・ 2)

  

「浪人時代」

( 61 -6号、昭 39(一九六四) ・ 6)

  

「本當の鵜飼」

( 61 -11号、昭 39(一九六四) ・ 11)

  

「切支丹時代」

( 62 -4号、昭 40(一九六五) ・ 4)

  

「手紙と作

( 63 -5号、昭 41(一九六六) ・ 5)

  

「輕井澤」

( 63 -10号、昭 41(一九六六) ・ 10)

  

「慶應病院で」

( 64 -8号、昭 42(一九六七) ・ 8)

で、

「私

記」の

は、

「飜

」で

る。こ

は「

IRENE

INNOCENTE

寸、ひ

た」

(傍 線 引 用 者)

り、

劇団側の台本の訳の不足を指摘し、翻訳家は「語學的に

正確

0 0

に譯すことよ

りも

學的に正當に譯すことがまず彼に要求されるのではないか」と指摘

している。が、この文章では「ある劇團」と劇団名は伏せられている。劇

団名を公開すると、翻訳家が特定されるので、配慮しているのであろうが、

こうした事情を踏まえると、

「私の日記」における昭和女子大学の扱いは、

やはり特異と言えよう。

遠藤が「昭和女子大学の学生のように、何でも作家について書かれたこ

とを集める連中」と記した背景には、大学が刊行していた『近代文学研究

叢書』がある。この叢書は昭和十年に創立者人見圓吉が始めた研究事業で、

近代文学をなしてきた作家や思想家についての伝記を中心とした、網羅的

な情報採録の書物である。戦前、大学の雑誌「学苑」に連載された学生の

論文を『文学遺蹟巡礼』一~四輯

(昭 13(一九三八) ・ 10~昭 18(一九四三) ・ 7)

にまとめて刊行し、それを戦後引き継いで、昭和三十一年

(一九五六)

ら、平

(二 〇 〇 一)

で、別

(平 12(二 〇 〇 〇) ・ 10)

め、全

た。第

の序「世に出る

)3 (

」において人見圓吉は、次の様に記している。

  風、水、火、地 震 な ど 天 z 地 異 の 多 い 日 本 で は 文 化 財 の 保 A が 何 れ の 国 よ り も 緊 要 で あ る べ き に も か か わ ら ず、近 世 文 化 に 貢 献 し た 国 学 者 や 洋 学 者 の 関 係 文 献 や 遺 跡 が 放 置 さ れ て い た ら し い。湮 滅 前 に 調 査 研 究 し て せ め て 文 字 に 丈 け で も 止 め 置 い て こ れ を 後 世 に 伝 え る、と 同 時 に、卒 業 期 に 達 し た 学 生 に 身 を 以 て 研 究 調 査 の 苦 し み と 楽 し み を 体 験 さ せ 乍 ら 各 自 の 成 長 に 資 し た い と思った。それが「 文 学遺跡巡礼」である。

さらに続けて、学生たちは「先哲の遺族と遺跡を訪うべく巡礼の旅に立

つ」

、「その前一年ばかりを業績の研究に費して関係

献を渉猟し、第二年

(4)

目から先哲の家に残る古

書や各地に散在する遺跡、遺族等を実地踏査」

し、

「新

見、欠

なことも試み」たと記している。徹底した実証主義で情報を収集し、作家

(「一、生 涯」 、「三、業 績」 、「五、遺 族 ・ 遺 跡」 )

部分

(「二、著作年表」 、「四、資料年表」 )

で構成された。

)4 (

、第

は「朝

聞」

(昭 31(一 九 五 六) ・ 1・ 30)

章、著

態、自

に「厳

訂」を

も、

「遺

跡、遺族の調査がいちばんの収穫であろう。文学の研究には、作家の伝記

のこまかなところを調べあげることが必要だが、遺族のあとを追ったり、

遠くへ旅行したりするのが面倒で、つい出足がにぶっているうちにわから

なくなってしまう。そういう骨の折れる仕事を、若くて純真な学生にやら

せたのは、なかなか利口である。学生にとっても、苦労して調べることが

う」と

価、

「学

者、文

体、新聞、雑誌など各方面から批評、賞賛、激励を受け、日本図書館協会、

学校図書館協会、NHKなどの推薦図書に選定された。やがてイギリスの

ケンブリッジ大学、アメリカのハーバード大学、コロンビア大学などから

も購入の申し込みを受けるよう

)5 (

」るほど、その反響は大きかった。さ

(一 九 五 八)

で「共

り近代文学研究叢書五十四巻刊行へのまじめな

)6 (

」が評価されて第六回

菊池寛賞を受賞すると、新聞や雑誌にも、取り上げられることが多くなり、

NHKやTBSラジオなどで対談や座談会も組まれ、さらに昭和三十五年

(一九六〇)

には「文部省から本叢書の刊行に対して助成金が交付さ

)7 (

」。

これらの報道を遠藤も眼にした故の大学名特定だったのであろう。だが、

なぜ遠藤はこれを揶揄したのか

――

それは、この叢書が、遠藤の主張して

いた文学批評のあり方と真っ向から対立するものだったからと考えられる。

昭和二十年代の終わりから三十年代はじめにかけて、文学界は戦後派に

代わる新しい流れを必要として、文芸雑誌でしきりに対談や座談会が組ま

れ、模索がなされていた。文芸評論家だけではなく、次世代の作家として

遠藤も数多くの座談会等に参加した。以下、列挙すると、

司会

 

遠藤周作、参加者

 

奥野健男

村松剛

服部達

安岡章太郎

小島信夫

島尾敏雄

桂芳久

「 座談会『近代文學』の功罪

――

戰後派

文学と第三の新人

――

(「三田文学」昭 29(一九五四) ・ 3)

三角帽子

(服部達 ・ 村松剛 ・ 遠藤周作)

「メタフィジック批評の旗の下に」

 

1

 

われらの風土を越えて

(「文學界」昭 30(一九五五) ・ 4)

 

2

 

批評と創作との間

(「文學界」昭 30(一九五五) ・ 5)

 

3

 

現代日本語との鬪い

(「文學界」昭 30(一九五五) ・ 6)

 

4

 

戰後派の光榮と悲慘

(「文學界」昭 30(一九五五) ・ 7)

 

5

 

未來への突破口

(「文學界」昭 30(一九五五) ・ 8)

 

6

 

われらはかく主張する

(「文學界」昭 30(一九五五) ・ 9)

江藤淳

遠藤周作

佐伯彰一

進藤純孝

針生一郎

村松剛共同

)8 (

「現

――

――

(「総 合」 3号、昭 32(一九五七) ・ 7)

さらに、個人として新聞や雑誌にも寄稿が求められ、次々に執筆してい

る。

「若

――

――

(「朝 日 新 聞」昭 31(一九五六) ・ 5・ 26)

「匿名批評のあり方」

(「産経時事」夕刊、昭 31(一九五六) ・ 8・ 13)

(5)

「芸術の基準」

(「新日本文学」昭 31(一九五六) ・ 11)

「新しい批評のために」

(「読売新聞」夕刊   昭 32(一九五七) ・ 1・ 8)

「今

――

――

(「三 田 新 聞」昭 32 (一九五七) ・ 1・ 11)

「芸術交流体について」

(「文学」昭 32(一九五七) ・ 5)

「技

――

ら」

(「読 売 新聞」夕刊   昭 32(一九五七) ・ 7・ 5)

「文学と想像力」

(『文学の鑑賞』昭 32(一九五七) ・ 10、毎日新聞社)

「新しい批評の基準を」

(「朝日新聞」昭 33(一九五八) ・ 1・ 11)

など

は、次

す「芸

)9 (

(昭 31(一 九 五 六) ・ 11)

に明らかである。

  (前 略) 私 は 作 家 論 を(つ ま り 作 品 の 分 析 の た め に そ の 作 家 の 実 人 生 を 考 慮 す る 方 法 を)全 面 的 に 否 定 す る わ け で は な い。私 は あ る 作 家 の 人 生 を そ の 作 品 と の 価 値 0 0 と の 関 係 に お い て 考 察 す る 批 評 は 肯 定 す る。た だ そ の 価 値 0 0 と 関 係 の な い も の、む し ろ、そ の 価 値 を 否 定 す る も の を 作 品 と 結 び つ け る 方 法 に 反 対するのだ。

を、

「作

て、作

る」が、

「作

する批評ならば肯定する」

、「それはその作家の人生における芸術的体験や

法」だ

る。

「私

記」の、

「彼

(引 用 者 注   昭 和 女 子 大 学 の 学 生)

り、

作品成立の要素や過程や誰々が庶子だったとか私生児だったとかこんな女

がいたということが大事だから、ぼくのウソを本気で信じて、論文かくだ

ろ」は、遠藤の繰り返した主張の前者にあたる。では、遠藤の「肯定」す

か、

「芸

準」で

められるまでの経緯を整理する。

まず、遠藤は服部達

村松剛と「メタフィジック批評の旗の下に」

1~

6においてメタフィジック批評を提唱した。これは、文芸批評が「いつの

まにか、その人間の實生活とか、現實の肉體的特質とかの方へ、眼が向い

てしま」い、作品という「典型化された一つの精神のありかたを讀もうと

せずに、もう一度それを一人の作家という特殊な生きもののなかに解消さ

せてし

)(1 (

」状況に陥っていることへの警鐘、批判から始まっていた。の

て、

「作

生理(フィジック)というはなはだ没価値なものに引きさげるマルキシズ

ム批評、フロイディズム批評」

、「日本文学には外国文学の骨格がないから

ケシからぬという近代批評」

、「作品そのものよりは作家の身もと調べに熱

評」

、「皮

評」

(「新 し い 批 評 の た め )(( ( に 」(昭 32(一 九 五 七) ・ 1)

)の

る。ま

た、

「メ

タフィジック批評の旗の下に

1」では、日本の文学的伝統が「風土に密着

していて、メタフィジックなものには對應しない」という弱点も指摘して

る。そ

て、

「メ

盤」

「出

點」は、

「フ

つくりだす、想像力の豐

)(1 (

」であると確認している。

「メ

に」

1~

5は

名「三

子」で

れたが、最終回の「

6

 

われらはかく主張する」だけは三人それぞれが名

た。遠

は「

「現

論」の

へ」と

て、

「從

が、作

そのものを批評の對象として選びすぎたこと」

に対し、

「我々は作家よりも

(6)

作品をえらび、文體に滲む作家の形而上的思想を追求しようとした」と振

り返っている。

世の注目を集めた「メタフィジック批評の旗の下に」の連載ではあった

が、どちらかというと理論が先行し、批評の具体的な方法の提示は弱かっ

た。そ

が、

〈芸

体〉の

である。

「芸術交流体につ

)(1 (

(昭 32(一九五七) ・ 5)

では、

〈芸術交流体〉

に関して、

「いかなる芸術家といえども」

「彼独りで芸術作品を創りえたこ

な」く、

「芸

て、彼

作品によって目覚めさせられ、その影響を肯定するにせよ、否定するにせ

よ、受けているのである。また、同じ時代という横のつながりにおいては

同時代の芸術家と共通した

シテユアシオン

を持っている」のであり、

「芸術作品の

創造を考える場合」

、「この二つの影響を無視することはできない」と説明

している。それは先に引用した「新しい批評のために」で既に、次の様に

示していたものである。

一 人 の 作 家 の 作 品 と 彼 が う け た 芸 術 体 験(人 生 体 験 で は な い)の 歴 史 の 関 係 を 調 べ る よ う な 作 家 論 を 私 は 今 年、ゼ ヒ 書 い て み た い。た と え ば そ の 時、私 は 彼 の 文 体 が 実 は 彼 が 創 っ た も の で は な く、彼 が 影 響 を う け た 前 時 代 の あ る 優 れ た 作 品 の 文 体 と ど の よ う な 交 流、抵 抗 が あ る か を 分 析 し た い の で あ る。 / こ の 方 法 は 共 通 し た 芸 術 観 や 共 同 体 を も た な い 現 代 の 批 評 方 法 を 救 う と ま で は 断 言 し な い け れ ど も 少 な く と も そ の 欠 陥 を 是 正 し え る と 私 は 思 っ て い る。 な ぜ な ら、こ の 方 法 は 一 人 の 作 家 を 全 く 芸 術 的 な 伝 統 や 精 神 的 地 盤 か ら 切 り 離して論じている従来の作家論を超えるものだからである。

この〈芸術交流体〉に軸をおいた批評の提唱は、その後も繰り返される。

共同提唱「現代文学の衰頽を破るために

――

新しい文学史への

)(1 (

――

(昭 32(一 九 五 七) ・ 7)

も、

「不

え」ら

の「想

調

し」

、そ

か、

「作

0 0

性」も

し、個

の「構

造」は「た

な」く、

「明

確な「構造」へと築き上げられた想像力の所産は、そのまま孤立し合うこ

とはない。互いに呼び応えあって、様式や伝統とはいわぬまでも、文学的

続、つ

る」と

る。

「文

力」

(昭 32(一 九 五 七) ・ 10)

、「新

を」

(昭 33(一 九 五 八) ・ 1)

れ、時

(一 九 六 二)

る。

「読

聞」夕

た「発

塔」の

(一 九 六 二)

に、佐

一、奥

男、村

「新

論、十

月」

(「文 學 界」で 連 載)

し、昭

(一 九 六 三)

付「発

塔」で

も、か

「群

像」

「小

か」

身の「文学の共同体のながれに秩序をあたえる仕事もやってほしい」との

回答を振り返り、

「もちろん、今もってその考えは変らない」

と書いて

)(1 (

姿

は、批

「小

)(1 (

」ほ

い、作

「評

が」

「考

と、大

)(1 (

」、さ

て批評家は「優れた鑑

)(1 (

」であってほしいし、技術的なことを若い作家

に提示してほしいとの要望になっていく。

と、

『近

書』は

る、ま

さに、

「その作家の人生における芸術的体験や影響を考慮する批評方法」

(7)

つまり「作家の人生をその作品価値との関係で考察する批評ならば肯定す

る」

(「芸 術 の 基 準」 )

姿

と、真

ると映ったのであろう。しかも、遠藤が盛んに主張を唱えていたのが昭和

一、二

(一 九 五 六、七)

り、

『近

書』の

(昭 31・ 1)

び、菊

(昭 33)

た。作

の全体像を可能な限り掘り起こす『近代文学研究叢書』は、遠藤の求める

批評のあり方とその方向性が対立しただけではなく、その時期まで重なる

位置づけにあったので

)(1 (

し、ま

る。そ

は、

「私

記」の

(一 九 六 四)

と、盛

と後になってのことだからである。なぜ昭和女子大学は五年以上も経って、

か。ま

は、昭

六、七

(一 九 六 一、二)

の「純

争」と

る。遠

(一 九 六 〇)

院、三

(一 九 六 二)

退

が、退

た。自

場に立つこともかなわず、傍観者を余儀なくされている間に起こった論争

た。昭

(一 九 六 二)

付「発

塔」に

は、白

健三郎「文学論争は文学ではない」

(「週刊読書人」掲載)

を取り上げ、

氏 は ち か ご ろ の 論 争 は 文 学 の 問 題 と し て な さ れ て い る の か、文 壇 政 治 の 問 題 と し て な さ れ て い る の か 事 情 に 通 じ て い な い と わ か ら な い こ と が 多 い の を 戒 め て い る が、同 感 だ。 / 例 の 純 文 学 論 争 も 焦 点 が 次 第 に ア イ マ イ に な っ て き て、読 む が わ で は ま と め に く く な っ て く る し、そ れ に 妙 な か ん ぐ り な ど を 匿 名批評などで書かれると読者も当惑するにちがいない。

と不満を漏らしている。そして、この後の「発射塔」で折に触れては、以

や、

〈芸

体〉の

(先 述)

。遠

が「発

塔」で

「批

む」の

に〈芸

体〉に

も、昭

(一 九 六 二)

た。つ

て、日

本の文壇は、以前と何も変わっていなかったのであろう。その不満が昭和

女子大学の『近代文学研究叢書』に対する不満として、かつて共に〈芸術

交流体〉の重要性を提唱した江

)11 (

を相手に洩れ出たということではなか

ろうか。

「私

記」は

姿

と、変

壇へのいらだちを如実に示しているのである。

昭和女子大学を揶揄した遠藤は、十八年後にその大学の学生たちに向け

て講演をした。ここからは何が見えてくるのであろうか。

は、

「学

ず、広

び、

「女

む」こ

とを目的とした

)1( (

」である。

(一 九 八 二)

月、つ

初、遠

は「聖書の中の女性」と題して講演する予定であ

)11 (

。しかし、その十月

にはタイトルを「私の文学と人生」に変更して

)11 (

当初の講演タイトル「聖書の中の女性」からは、かつて「婦人画報」に

た「聖

)11 (

」、お

び「毎

聞」に

「聖書の中の

)11 (

」がイメージされる。この両者は異なるところはあるが、

(8)

も、キ

(長 血 を 患 っ た 女、娼 婦、 マルタとマリア、ヴェロニカ、マグダラのマリア、聖母マリア等)

を順に取り上

げて、これらの女性の苦しみや悲しみに寄り添い、愛を与えるイエスの姿

を描き出していく作品である。たしかにこれらを元にした講演は、女子大

学で語るにふさわしかろうが、ミッション系の大学ではない昭和女子大学

の学生にとっては、やや聴きにくいものになったであろう。

さて、遠藤は講演タイトルを「私の文学と人生」に改め、十月二十二日

に登壇した。残念ながら、録音テープが見つからず、講演自体を聴くこと

はできなかった。また、講師の了承が得られたものについては要旨が女性

集『女

化』

(昭 和 女 子 大 学 発 行)

が、遠

講演は掲載されなかった。しかし、手がかりが皆無というわけではない。

大学発行の新聞「昭和

)11 (

」に学生の書いた感想が掲載されており、おお

よその講演内容が知れる。以下、全文を紹介する。

「女性教養講座を聴く   遠藤周作氏 (作家) 「私の文学と人生」   真実の踏み絵」 長崎に旅行し、そこで黒ずんだ踏み絵の銅板を見た遠藤氏は、踏まずに殉死 した者よりも、踏まずにはいられなかった者への興味を抱かれたそうです。 栄光の死を選ぶ者よりも、つき上げるものを押し殺して踏み絵を踏んだ者の 方が、いつの時代であっても数は多いはずなのに、後者は、あえて忘れられ てしまう。そういった、歴史や政治にかえり見られなかった一人の小さな人 間にもスポットをあてる事ができるのは、文学であるというのが遠藤氏の考 えでした。そして、かつて踏み絵を踏んだ男がいた、あるいは自分が黒ずん だ 踏 み 絵 を 見 た と い う 経 験 か ら、人 間 が 生 き て い く 上 で の 選 択 を 迫 ら れ る 『踏 み 絵』の 問 題 へ と つ き つ め て い く の が、事 実 を 真 実 へ と 変 え る 事 で あ る というお話でした。ご自身の生活を事実のつなぎ合わせに過ぎないと考える 遠藤氏だからこそ、冗談として語られた「ニセ日記」の発想があったのだと 思 い ま す。 / 私 は こ の 講 演 を 聴 い た 後、私 自 身 は こ れ ま で ど ん な『踏 み 絵』 を踏んで現在に至っているのだろうと考えさせられました。 (日文二B   田中恭子)

で、

「私

記」

様、

「ニ

記」

る。十八年経過しても依然として、同じシニカルな見解を抱き続けたので

あろうか。

たしかに、昭和女子大学の『近代文学研究叢書』はこの間も継続して刊

行され続けていたので、耳にすることも、あるいは目にすることもあった

であろう。しかし、ここにはもう一つ、偶然がはたらいているのではない

か。そ

は、

「私

記」が

た『よ

び、よ

び』

(昭 58(一 九 八 三) ・ 8、小 学 館)

る。昭

(一 九 八 二)

月、こ

(一 九 八 三)

い。

校正等、書籍の刊行準備で「私の日記」を改めて読んだことをきっかけに、

い。田

「ニ

記」の

が、講演の十か月後には、揶揄を含んだ作品を掲載した書籍を出版するわ

けであるから、遠藤はまたもや、ちょっとした

)11 (

をしたことになるので

ある。あえて、この講演で「ニセ日記」を話題にしたのはなぜであろうか。

これを解く鍵として、遠藤の日記観の変化を挙げたい。まず、昭和三十

(一 九 六 四)

「私

記」

は、

の下書きまで附けくわえて、よく日記を発表するが、興味を引かれるのは、

(9)

友人作家との交流や、見た夢などで作家自身の作品の秘密を解き明かして

くれる鍵になることがあるからであるが、日本にはこのような日記はない

のではないかとした後で、永井荷風の日記について次の様に語っていた。

  そ れ で は 荷 風 の 日 記 が あ る で は な い か、と 言 う 人 も い ら れ る だ ろ う が、し か し、荷 風 の 日 記 は 河 盛 好 蔵 氏 の い う「創 作 説」に 私 は 賛 成 で あ る。あ れ は 日 記 と い う よ り、荷 風 が 創 作 し た 作 品 な の で あ っ て、そ れ は、東 都 書 房 版 や 中 央 公 論 社 版 よ り、更 に 原 典 に ち か い と い う 岩 波 版 を み て も、こ の 考 え は 変 え る こ と は で き な い。の み な ら ず、こ の 日 記 は、荷 風 創 作 の 秘 密 に ス ポ ッ ト ラ イ ト を あ て る 箇 所 は あ ま り な い し、ほ と ん ど 他 の 作 家 と 交 わ る こ と の な か った彼の日記には、他の文学者との対話の面白さが存在しない。

ここには遠藤の求める批評に沿ったもの、つまり作者自身の人生体験でな

く、作

て、

〈芸

体〉を

読む姿勢が明瞭に現れている。けれども、この四年八か月後に発表された

「永

――

宿

)11 (

――

(「文 學 界」昭 43(一 九 六 八) ・ 10、 12)

には荷風の日記の「創作」に別の意味合いが付されている。この荷風論に

おいて遠藤は、荷風の『断腸亭日乗』と堀辰雄の『雉子日記』を並べ、二

つが共通するのは「美化された(読者の要求するイメージに合うような)

「私」を

の「私」と

る」点

た。

『断

乗』は「

の「余」と

は荷風愛好者のイメージにそうように計算された作為のあること、そして

が、日

だ」

(傍 線 引 用 者)

し、具

は「こ

は、同

にいつも生きているのであって、その情緒や雰囲気をこわすようなものは、

(現

然、起

に)い

れ、従

い」

。し

て、そ

の「読

ン」の

は「悲

を「余」に

め」

、別

ば、

「悲

る」主

公「余」を

の荷風ファンに「荷風自身と同一視」させるためと分析している。

た「真

の「余」

」は

い。遠

の『断

日乗』を「事実」そのままではなく、彼の文学的「真実」が追求されてい

るものととらえていることがうかがえるからである。

の「事

実」と「真

実」の

は「沈

黙」

(昭 41(一 九 六 六) )

後、

聖書研究を本格的に始めるのに伴い、繰り返し表明されるようになってい

る。

「現

――

― )11 ( ―

」で

は、聖

の「架

語」と

「事実」ではなくても人間の心にとっては「真実」であり、

「魂の渇望」が

それを求めるのだとし、また「人間の心、このテルのごとき

)11 (

」でも同

し、

「事

実」で

く「真

実」を

学なのだ、との主張が強く示されている。

さらにこの年代の遠藤の特徴として、こうした心の奥、魂の次元を追い

て、

「秘

密」の

れる。正宗白鳥の文章に引用された「打ちあけるよりはむしろ死を選ぶよ

うな

)1( (

」を問題に据えていくのである。これら二つの関心

――

「事実」

と「真実」

、「秘密」からは、表面だけ見た人間把握の不可能性が強く突き

つけられているとともに、人間の心の「真実」を追求し得る文学、および

文学研究の力とそれに対する期待がうかがえるので

)11 (

て、田

と、

「か

(10)

つて踏み絵を踏んだ男がいた、あるいは自分が黒ずんだ踏み絵を見たとい

う経験から、人間が生きていく上での選択を迫られる『踏み絵』の問題へ

が、事

た」とあった。遠藤は、おそらく踏み絵を踏んだという「事実」のみに着

目するのではなく、その行為の奧に秘められた人間の魂の次元にまで迫り、

「真実」を追求せよとのメッセージを伝えたのであろう。

「ニセ日記」の話

も、

『近

書』で「事

実」を

)11 (

昭和女子大学の学生たちへの期待をこめたアドバイスであったのだろう。

最後に、田中さんの感想の「ご自身の生活を事実のつなぎ合わせに過ぎ

ないと考える遠藤氏だからこそ、冗談として語られた「ニセ日記」の発想

があったのだと思います」に付言しておく。遠藤が明瞭に分けて用いた言

葉に「生活」と「人生」が

)11 (

。先に、講演のヒントとなった可能性を探

った『よく学び、よく遊べ』にも、巻頭の遠藤自身の「口上」にそれがう

かがえる。

  口上   わ か り や す く す る た め、人 生 と 生 活 と を 区 別 す る と、私 は 人 生 に 好 奇 心 も あ る と 同 時 に、生 活 に も 好 奇 心 を 捨 て ら れ ぬ 男 で あ る。 「人 生 と は 何 か」と い う 好 奇 心 か ら 私 は 文 学 を え ら ん だ。そ し て 小 説 家 に な っ た。宗 教 や 文 学 を 考 え る よ う に な っ た。 / し か し、人 生 に 好 奇 心 の あ る 人 は お お む ね 生 活 に 好 奇 心 を 抱 か な い。あ る い は 抱 く こ と を 恥 と す る 傾 向 が あ る よ う だ。さ い わ い 私 の 場 合 は 生 活 の ど ん な こ と で も 好 奇 心 の 疼 き が わ く ほ う で、東 に 夫 婦 喧 嘩 あ れ ば 飛 ん で い っ て 見 物 し、西 に U F O が と ん で 来 た と 聞 く と、そ の 目 撃 者 に 会 い た く て た ま ら な く な る。 / 遠 藤 周 作 を も し 人 生 に 好 奇 心 を 抱 く 男 の 名 と す れ ば、狐 狸 庵 は さ し ず め 生 活 に 好 奇 心 を も つ 男 の 名 で あ り、こ の 二 つ の 名 が 矛 盾 せ ず 私 の 顔 に ペ タ リ と は り つ け ら れ て い る。 / よ っ て『よ く 学 び、 よく遊び』というこの題をこの本につけた理由がわかって頂けたと思う。 遠藤周作

「人生」にも「生活」にも両方に好奇心を抱く遠藤であるが、

「生活」は魂

い、

「事

実」の

い。こ

の「生

活」のレベルでは「ニセ日記」を書いても何ら痛痒を感じないのである。

「ニ

記」の

は、作

調

学の学生相手だからこそのメッセージが含まれていたのではないか。作家

な「生

活」

「事

実」を

ず、作

の「人

生」

「真

実」を

よ、そ

り、文

ッセージである。

昭和女子大学との関わりを通して、主として昭和三十年代と四十年代の

学、文

姿

び、

「事

実」と「真

実」

、「生

活」

と「人生」のキーワードを織り交ぜた遠藤の講演に触れた学生の感想文か

ら、昭和女子大学学生たちへのメッセージを推定した。遠藤の真意は何で

あったのだろうか。大学では講演後、講師に自筆サインを残すことを依頼

している。が、遠藤のサインは「遠藤周作」の署名のみであり、何らの手

がかりも残されていなかったのである。

(11)

注 ( 1)「私の日記」 (「新潮」 61 -2号、昭 39(一九六四) ・ 2、のちに『よく学び、 よ く 遊 び』昭 58(一 九 八 三) ・ 8、小 学 館、お よ び 昭 62(一 九 八 七) ・ 1、 集英社文庫に所収) 。 ( 2)このけじめについては、 「読売新聞」夕刊に連載された遠藤のエッセイ「発 射 塔」昭 和 三 十 七 年(一 九 六 二)七 月 十 一 日 の、壺 井 繁 治 の 抗 議 に 対 す る 回 答 に よ く 表 れ て い る。ま ず「新 日 本 文 学」誌 上 で 私 的 な や り と り(私 生 活 の 暴 露 と そ れ に 対 す る 抗 議)を し た 浜 田 知 章 と 壺 井 繁 治、さ ら に そ れ を 掲 載 し た「新 日 本 文 学」の 三 者 に 対 し て 遠 藤 が 浜 田 の「書 き か た は 一 種 の エ ゲ ツ な さ を 感 ぜ ざ る を え な い し、ま た や っ き 0 0 0 に な っ て そ れ に 抗 議 す る 人 に も エ ゲ ツ な さ を お ぼ え る。い や そ れ よ り も「新 日 本 文 学」と も あ ろ う 雑 誌がこういう私的なやりとりに貴重な誌面をさいたのが理解できないのだ」 と 評 し( 「発 射 塔」昭 和 三 十 七 年(一 九 六 二) 6月 6日 付) 、そ れ を 読 ん で 憤慨した壺井の抗議( 「〝エゲツなさ〟 「発射塔」遠藤氏に答えて」 (「読売新 聞」夕 刊、 6月 15日 付)へ の 回 答 で あ る。こ こ で 遠 藤 は 再 度、三 者 に 対 し て「え げ つ な い」と 思 っ た 理 由 を 明 ら か に し、壺 井 に 向 け て 文 芸 雑 誌 は 「文 学 や 思 想 の 論 争 の た め に あ る な ら よ ろ し い が」 「個 人 的 な や り と り 0 0 0 0 の た め に あ る の で は な い。な ぜ あ な た が そ の 点 を お 考 え く だ さ ら な か っ た か」 と結んでいる。 「発射塔」引用は『遠藤周作全日記』下巻 1962― 1993(平 30(二 〇一八) ・ 5、河出書房新社)による。以下同じ。 ( 3)「世 に 出 る ま で」 (昭 和 女 子 大 学 近 代 文 学 研 究 室『近 代 文 学 研 究 叢 書』第 1 巻、昭 31(一九五六) ・ 1、光葉会) ( 4)昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書   諸家の批評』 (昭 35(一 九 六 〇) ・ 9、昭 和 女 子 大 学 光 葉 会。な お、奥 付 に 発 行 年 月 な し。 「序 に か 昭和女子大学女性教養講座(1982.10.22) 講師自筆サイン 遠藤周作  (昭和女子大学 人見記念講堂 所蔵)

参照

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