同志社の土着化(1875‑1919) (その8)
著者 ポール・V・グリーシー, 北垣 宗治
雑誌名 同志社談叢
号 28
ページ 1‑26
発行年 2008‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011721
同志社の土着化 (1875─1919)
(その8)
ポール・V.グリーシー著 北 垣 宗 治 訳 第三部 日本の新世紀における同志社
2.同志社首脳陣の危機
1903年には楽観的なムードが校内に行渡っていたが、状況をもっと客観 的に見た人々もあり、この人々は一定の成果があったことは認識していた けれど、学校についてはもっと悲観的な見方をしていた。1903年1月8日 にラーネッドはバートン宛てに手紙を書き、その中で同志社の現状を次の ように簡潔にまとめた。
学校の状況は先ずこんなところです。キリスト教的な憲法[寄付行為 証]が存在しており、学校はキリスト教学校としてよく知られています。
全体として理事たちは学校の利益のために献身していますし、学校のキ リスト教的性格を維持するため一致協力しています。[片岡健吉]社長 はゆるがないキリスト教信仰を持った最高の人物であり、全国的に評判 の高い人です。まじめなクリスチャンの教師が数人おり、クリスチャン の学生も何人かいます。確かに、この学校のために働く理由は大いにあ ります。ほんの二、三年前どのような状況であったかを思えば、激励す るだけの理由は大いにあります。他方、社長は別方面の重い義務に没入 しているため、学校に多くの時間を割くことができないことも否定でき ません。国会が解散となった今(二、三か月前に選挙が行われたばかり
ですのに)、そして政府と争うために一大選挙運動を展開しなければな らないと考える人々がいる以上は、社長がこれから先当分の間学校のた めに働ける見込みはごく少ないといえます。そういうわけで社長は学校 に対する世間の信頼をつなぎとめるには確かに有用であっても、学校の 真の頭
かしら
というよりは飾り物です。真の執行部は大塚[素
しろし
]氏で、すぐれ た人であり、学校のために骨身惜しまず働くので称賛に値いしますが、
彼自身強い人でなく、生徒たちを掌握する力を欠いているため、執行部 の役割を本当に満たしているとはいえません。教員たちもあまりまとま っていません。彼らの中には大塚氏に共感できない人々がいますし、数 人 の 者 は 控 え 目 に 言 っ て も 、 学 校 の 精 神 的 な 力 に 寄 与 し て い ま せ ん。・・・このように申し上げるのは学校に対する信頼感に水をさすた めではないのです。しかし私はこの面を大変強く(多分強すぎるほどに)
感じていますので、一般の読者のために記事を書く気分にはなれません。
学校の支持者たちに、今学校のために熱い祈りが必要であることを示す ような記事を書くことの方が容易です
1
。
片岡健吉は1902年6月に同志社の社長として着任した。彼が決意したこ とは学校の宗教的性格を強化することと、学生の訓育に貢献することであ った。社長として彼が最初にしたことは、同志社普通学校と同志社女学校 の生徒たちそれぞれに対して、1902年9月以降はチャペルの出席は必修で あると宣言することだった
2
。この決定は宣教師たちに非常な激励を与えた。
ラーネッドはこのように書いている。「必修となれば、これは学校の訓育 の風格向上の始まりとなるでしょう。片岡氏は旗印を鮮明にしたようで す・・・
3
」。片岡の就任演説についてアルブレヒトはこのように述べた。
「知事と帝国大学総長を前にした短い演説でしたが、初めから終わりまで 徹底的にキリスト教色を押し出して、まことに爽快でした。言葉の一つひ とつが彼の確信の表明でした
4
」。
片岡に対する高い信頼感は1902年の秋の間じゅう続いた。彼はひと月に 一週間だけ京都で過ごすことができただけであったが、彼はその週の間学 生と教職員にできる限り意を注ぐことに決めていた。宿屋や個人の家に住 む代わりに彼は事務所に隣接した二つの部屋を用意させ、そこを寝室に用 いた。それは「教員や学生たちが気兼ねなくやってこられるようにするた め
5
」だった。その上彼は多くの時間をかけて教室を訪れ、毎日チャペルの 時間に講話をし、講義も行った。
ミッションも理事会もどちらも、片岡を選んだことは、政治の仕事から 手を切れないという事実を別とすれば、まさしくうってつけの人事だった と感じていた。同志社がどうしても欲しいのは専任の社長であり、片岡は 敬虔なクリスチャンであり、強力な指導者ではあったけれど、彼は学校の 緊急の必要性を満たすことができなかった。「私たちが何よりも必要として いるのは私たちと何時も共にいてくれる人で、学生たちが尊敬し、彼らに 重みを持つ人物です。そのうちに片岡氏は政治のしがらみから自分を解き 放ち、自分の時間のすべてを学校に献げてくれるようになると思います
6
」。 1902年の秋に国会は解散し、片岡はまたもや再選を求めた。彼は1890年 に高知選出の衆議院議員となり、それ以降ずっと議席を保ってきた。1898 年に彼は衆議院議長に選ばれ、それ以後引き続き四回選ばれてきたが、そ れは諸政党も政治家たちの関係も流動する時期であった
7
。彼は1878年に板 垣退助と共に自由党を創設した一人だった。その前年にあたる1877年には 西南戦争が起こり、片岡は西郷隆盛の共鳴者であるという嫌疑を受けて、
百日間獄中にあった。1887年に彼は言論と出版の自由を制限する法律に反 対し、一年以上にわたって再び投獄された。釈放後高知に帰った片岡は、
1889年に最初の県議会の議長に選ばれた。彼が国の政治に参入したのは 1890年のことである
8
。彼は自由党内で頭角を顕わしていたし、党は1902年 当時難しい政治状況に立たされていたので、「彼は再び選挙に立つことに 同意せざるを得なかった。同志社の友人たちは彼がすべての時間を学校の
ために献げるという目的をはたしてくれるよう望んでいる。しかし彼が今 少し当分の間、政治生活に身を置かざるをえないという急迫した事情を彼 らは理解している
9
」。
1903年1月に国会がまたもや解散。今度は土地税の問題について国会が 内閣に反対したためだった。選挙日は3月1日と定められた。片岡はまた も再選をめざさざるを得なくされた。それだけでなく、その選挙運動は理 事会の年次総会への出席を不可能にした
10
。しっかりした行政上の指導力が ますます必要になっていたので、このことは大きな失望感をもたらした。
大塚執行部の指導に対する反対が高まりつつあったため、社長の不在を学 校が必要としていないことは明らかだった
11
。
一年以内に二回の選挙運動がもたらした圧力、同志社の社長として高ま っていく責任、そして寄る年波が片岡の健康に影響し始めた
12
。選挙では再 選を果たしたものの、その直後に同志社を訪れた時、彼は急性の消化不良 により校内で倒れた。彼は二か月間京都で、次いで東京で入院生活を送っ た。1903年7月に彼は高知へ移されたが、そこで体力は徐々に衰退し、10 月31日に腹膜炎で死亡した
13
。
デイヴィスは片岡を讃えてこのように書いている。「先生の信仰、愛、
誠実、忠誠、無欲、謙遜、特に奉仕の生活は、この国そのものに向けて語 りかける。政治家に、教育者に、クリスチャンとしての働き人たちに、そ してすべての人々に向けて語りかけている
14
」。
学校は、1899年からすると四人目となる社長を新たに選ぶという危機的 状況にまたもや直面した。校友会はただちに、以前に社員であった人々に 同情的な人物を選ぼうと圧力をかけ始めた。小崎弘道、横井時雄、下村孝 太郎、原田助、そして「キリスト教への関心をまったく失ったと考えられ ていた
15
」顕著な哲学者、元良勇次郎の五人が考慮の対象になった。校友に 対するアンケート調査の結果は、横井二百二十七、小崎百九十、下村百七 十三、原田百五十七、元良百十一、海老名弾正十四、であった
16
。校友によ
る投票の結果は想定外ではなかったが、その結果は宣教師団の間に心配を 生み出した。ケーリは「日本では民の声を聞くことが私たちに将来への不 安感を与えるものだということが、お分かり頂けると思います・・・」と 書いている
17
。さらに学生たちの選択投票では横井が過半数を占め、小崎と 下村がそれぞれ二位、三位となっていた
18
。
社長に関する最終的な決定権は理事会にあったので、横井が校友と学生 によって強く支持されていたとはいえ、理事会が彼を選ぶ危険性はほとん どなかった。「幸いにも横井氏がこの選挙で選ばれる恐れはありません。
しかし、もしも今度選ばれる人が失敗だったり、その人が二、三年のうち に取り去られたりすると、横井氏が再び権力を握るという本当の危険が生 じることはありえないことでないと私は考えます
19
」。
全体として見るとミッションは原田助に傾いていた。それは主として原 田が神戸教会牧師として、またキリスト教共励会の全国委員長として組合 教会の働きと深く関係してきたからだった。もし彼が選ばれたならば、組 合教会が同志社に対して抱いてきた初期の反感が解消されるであろうし、
教会の指導者たち、特に宮川経輝や長田時行と同志社との間の和解が達成 されるだろうと考えられた。原田が選ばれる可能性に関して、ラーネッド はバートン宛てにこのように書いている。「彼が選ばれれば、古い社員た ち・・・や組合教会の指導者たちと学校との間での完全な和解の手段とな るであろうと期待されています。事実、彼が選出されることと関連して大 きな希望と大きな不安があるのです。というのは[その場合には]古い社 員会にいた彼の友人何人かが彼と共に理事会に入ってくることは自然であ り、恐らくは必要なことと思われますから。そうなると、どのような複雑 な問題が起るか、私には分かりません。全体として見れば彼は今浮かんで いる人たちのうち最良の人に思われます。しかし彼にはこの種の仕事に経 験がなく、彼が社長として成功することが確実だとはいえません。また彼 が神戸教会を去ることは確かに大きな損失です
20
」。
宣教師団の人々は下村孝太郎の行政手腕を認めてはいたけれど、彼の熊 本バンドとの関係と、彼が福音主義的な情熱を欠いているために、彼に完 全な支持を与えることを躊躇した。ラーネッドはこのように書いている。
「もしも彼が以前に持っていた宗教的情熱を今なお持っているのであれば、
私としては彼が選ばれることを願い、躊躇することなくそれを望んだこと でしょう。今でも彼はクリスチャンだと自称しているでしょうし、最近朝 の祈祷会で祈りもしました。しかし、贔屓目に見ても彼が積極的に宗教的 影響を行使すると期待するわけにはいきません
21
」。アルブレヒトはこのよ うに書いている。「下村氏は・・・いろんな面からしてその地位にふさわ しい人です。彼には行政手腕があり、学校の実際的な働きがどういうもの であるかを知っています・・・。しかし彼は精神生活と精神活動の面にお いて欠けています。このような理由から、私たちは彼がわれわれのキリス ト教学校の長にはふさわしくないと感じています
22
」。宣教師団の大多数は 内心において、デイヴィスが社長、下村が校長になればよいと考えていた。
このことが理事会に公然と提案されなかった唯一の理由は、そうなると、
「同志社は完全に宣教師の手に落ちたのだという話に口実を与えることに なる」ことを宣教師たちが恐れたからであった
23
。
1904年2月2日に理事会が開かれ、下村孝太郎が社長に選ばれた。この 決定が公表されると学生からの反対の声が極度に高まっていき、下村が理 事会の任命を拒否するのではないかという心配がなされた。学生たちは横 井を強く支持していたし、海老名弾正は学生たちに対して、理事会の決定 に公然と抗議するようにと手紙で煽動した
24
。校友と学生からの圧力の下で 横井が選ばれるかもしれないという可能性は、宣教師たちの間で、さらに つきつめるとボストンのアメリカン・ボード職員の間で、大きな不安の種 となった。バートンはグリーンに宛ててこのように書いた。「私は彼[下 村]が受諾することを望みます。同志社にとって最大の災いは、現在私が 見るところでは横井氏が選ばれることです。[そうなると]いろんなこと
がなされ得るにしても、同志社における改革なるものは単なる見せかけに すぎず、学校はキリスト教でなく、キリスト教であろうとしているわけで もないのだという印象が、この国においてたちまち広まることになります。
そのような選び方がなされるならば、この上なく不幸なことです。考えら れる唯一のまずい動き、それは横井氏に社長を受諾させて仕事を始めさせ ることです
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」。下村が1904年3月末における理事会で社長就任を受入れた ので、ミッションもアメリカン・ボードも共に大いに安心した。オーティ ス・ケーリはこのように書いている。「彼は学校を設立の基本原則に基づ いてしっかりと保持していこうというまじめな願いを持って、新しい仕事 に乗り出したのだと思います。彼にはすぐれた行政手腕がありますし、ま た京都に住む計画ですから、私たちはついに、諸学校に対し直接的に、親 しく目を配れる社長を持つことになります
26
」。
新社長と理事会が直面することになった最も手ごわい仕事は、削除され た綱領の条項を1899年に復活して以来、学校の方針と指導者に反対してき たさまざまな派閥間の和解を達成することであった。1904年の段階では、
相当な数の教員、学生、校友、組合教会の指導者、旧社員は、引続き執行 部に対する協力と支援を見合わせていた。理事会は和解への糸口として、
理事の任期が切れた堀貞一の代わりに原田助を理事に選んだ
27
。恐らく宮川 経輝が同時に[理事に]選ばれなかったためであろう、原田は理事を拒否 したけれども、原田と宮川は共に神学部の顧問となることを承諾したので、
組合教会と神学校の協力関係の実現が促進されることになった
28
。下村はま た学校の指導者として教員と執行部の間に、さらには学生と執行部の間に もっと協力関係をもたらすような新しい施策に着手した。新島の時代この かた、学校の行政は主として教員会の手中にあった。それはラーネッドが
「長らくの間、学校は、君臨するけれど支配しない立憲君主のように新島 氏を戴きつつ、教員会が支配するところでした
29
」と書いている通りである。
新島の死後この制度は廃止され、教員会議によって選ばれた評議員会が教
学上の決定権を握るようになった。評議員会は「執行部を助けると共に、
時にはそれを阻止することも
30
」できた。評議員会に加えて幹事があり、幹 事は評議員会の決めたことを実施する責任があった。幹事が事実上学校を 動かす人になった。大塚素はそれまで幹事であったが、下村が社長になる と、幹事という職も校長職も、評議員会も廃止した。下村は1904年に選ば れると、校長と社長を兼任した
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。評議員会の代わりに下村は、彼と普通学 校、専門学校、神学校、女学校、これら四学校の教頭が協力する制度を創 り上げた。四人の教頭は社長の内閣を形成し、この内閣を通して、この内 閣と共に、下村は[同志社を]統轄した。当時の内閣には普通学校教頭の 中瀬古、神学校教頭のラーネッド、女学校教頭の千葉勇五郎がいた
32
。専門 学校の教頭はまだ任命されていなかったが、後にフランク・A. ロンバー ド(Frank A. Lombard)がその職に就いた。下村の行政手腕はミッション の歓迎するところとなり、それまでに起った数多くの面倒な問題も彼の手 際のよい学校運営が解決するものと期待された。下村が社長に就任して間 もなく、ラーネッドはバートンに宛てて次のように書いた。「下村氏は学 校の管理運営に献身しています。彼にはエネルギーと堅固さだけでなく、
如才なさもあり、外国人の友人とも十分気脈を通じていますので、彼の下 であれば学校の事業は大いに前進が期待できると思います
33
」。
校友、前社員、組合教会の指導者を同志社と和解させる問題は下村にと って、より大きなチャレンジだった。この三つのグループは多くの場合重 複しており、和解を達成するには三つのグループの協力を必要とした。
1904年6月、卒業式のあった日の夕方に、組合教会の代表と同志社との会 合が持たれた。その席上で、学校ならびに教派の代表から成る合同委員会 を以前のように組織して、神学校の方策に関して助言し、そうすることに よって組合教会の代表が学校運営に参加することができるようにしたい、
という提案がなされた。もしもそのような協力関係が達成されるのであれ ば、組合教会としては毎年五百円から千円という金額を神学校に寄付する
と共に、教授一人分を支援することに同意した
34
。この種の協力の重要さに ついては、かつて片岡に同志社の社長の椅子が提案された頃に、ラーネッ ドは次のように論じたことがあった。「学校が組合教会と密接な関係を保 つことが極めて望ましいということは確実です。なぜなら学校が教会と交 流しないのであれば、どことも交流することはないでしょうから
35
」。この 会合において、神学教育における協力への提案を1905年に、理事会と組合 教会とに提出することが決まった。さし当り原田助と宮川経輝は神学部の 顧問となることに同意し、教会側の目的を表明し、学校側の条件を教会に 伝えることにした。
1905年3月、理事会はラーネッドが原田・宮川と相談した上で起草した 提案を可決し、それを組合教会の常置委員会に提出した。協定書によれば 教会は二人の代表を任命して神学校の教頭と副教頭の助言者ないし顧問と することになっていた。これら四人が神学校の統轄母胎を構成し、「理事 会を最高権威として、[神]学校にかかわる重要事項
36
」のすべてを処理す ることになっていた。提出された計画は組合教会の年会のときに常置委員 会によって却下された。しかし次の引用が示すように、この公的な協力協 定の却下はさらに健全で、インフォーマルなタイプの協力を予感させるも のだったと言えよう。「筆者たちの信ずるところでは、この提案が差し止 められたことは、後になれば感謝すべき、いな、恐らくは喜ぶべき、諸理 由によるものであった。確かに現在考慮されている計画は、求められた目 的を達成すると期待すべき理由があるかもしれないが、技術的な意味での 協力については、何一つ手当てがなされていないからである
37
」。
この記事の記者が触れている、協力のための公的な協定こそは、組合教 会の総会が1905年10月25日に終った直後に着手されたものであったことは 疑いの余地がない。同志社の神学校との協力について提案された協定書に 関する常置委員会の報告は否定的なものであり、現在の執行部の下では協 力のための地盤は見出せないことを意味していた。総会に出席した代議員
の大多数は同志社の卒業生だったため、総会のすぐあとに、学校とそれの 方策を議するために校友会が召集された。校友会は東京、神田にある宮川 という大きな料亭で開かれ、東京での集まりとしては最多数の校友が、理 事や宣教師たちと共に出席した。グリーンは、この集会の第一の目的は
「理事たちを圧倒して、総員辞職させること
38
」だったと書いている。
「理事たちを攻撃し、同志社の悲しむべき現状を慨嘆する演説
39
」が東京 帝国大学の松波教授、宮川、原田、横井、浮田、その他の人々によってな された
40
。高野、グリーン、留岡(三人とも理事であった)から成る委員会 による、学校の資産管理について以前に質問を出していた校友たちは、学 校の財務調査は進行中であると述べた。高野がこの件に関して理事会の立 場を説明させてほしいと言ったとき、人々は「顔をしかめました。どうや らそれは彼の説明が財政の議論を急き立てることになると考えられたから でしょう
41
」。反対派が学校の管理運営について自分たちの感じていること を十分に吐き出したところでグリーンは発言を求めた。彼は発言の中で次 のように感じていることを述べた。「われわれ[宣教師たち]は理事会か ら外国人理事の名を消去することを計画すべき時が来ています。しかしこ のことは今すぐに、というわけにはいきません。皆さんのお望み通りに素 早く事が運ばなくても、辛抱して頂かなくてはなりません」と
42
。
グリーンがこの発言をした時、会衆の中に不同意のざわめきが目立った けれども、会議の調子は一変した。横井が立ち上がって、宣教師団とグリ ーン氏は「同志社を支援する日本人たちが、外国人理事の引退を欲してい ると想像されるのは間違いですのに、あなた方はその間違いに基づいて努 力されています。それどころか、われわれはみな、あなた方に長らく留ま って頂きたいと願っていますし、理事会に反対している人たちの中には何 ら外国人に反対の感情は交っていません、と彼は述べました
43
」。さらに横 井は自分が社長であった間に間違いを犯したことを公的に告白した。そし て「現体制が立っている基盤に基づいてなされた決定は最終的なものであ
り、今後どのような理事会が選ばれても、それはこの決定に従わなくては ならないものです」と言った
44
。
横井がこのように述べた時、グリーンは彼に向かって「和解のための委 員会を作るのにちょうど好都合な時期になったようですね
45
」と述べた。す ると横井もそのような委員会がただちに任命されることを提案した。この 提案は「歓呼をもって迎えられ」、論争の両サイドを代表する十人の校友 が委員に任命された
46
。その十人とは浮田和民、古谷久綱、横井時雄、安部 磯雄、市原盛宏、村井貞之助、小野英二郎、留岡幸助、海老名弾正、高野 重三である
47
。
この委員会はただちに開かれ、その結果は「双方が満足できる基盤に立 って、腹立たしい妥協を含むことなしに、真に和解達成の希望
48
」を鼓舞す るものであった。最初の会議が10月26日に開かれる前にグリーンは和解委 員会の一員である古谷久綱に会い、「理事会には欠員が五人あるのだから、
十人委員会[和解委員会]が五人を指名し、理事会がそれを採択すること、
また校長[丹羽清次郎]や資産管理委員会について辞職を強要するといっ た処罰は行わず、資産管理委員会は現在の三人から五人になるよう寄付行 為証を改正すること
49
」にしてはどうかと述べた。
委員会はこの提案を承認し、次の人々を理事として指名することを決め た。宮川経輝、原田助、小野英二郎(ミシガン大学の哲学博士号を持ち、
日本銀行の一部門の局長)、村井貞之助(イェールで数年間学んだ銀行家)、 古谷久綱(ブリュッセルの国際法学校の卒業生で伊藤博文の個人秘書
50
)。
五人の名前は東京、横浜、京都、大阪、神戸の校友会に示され、「心から 喜んで受け入れられた
51
」のであった。
1905年12月7日、理事会は京都で特別会議を開き、資産管理委員会は小 野英二郎と村井貞之助を加えて五人となった
52
。こうして理事会は二十人に 拡大されたが、これは寄付行為証第八条が規定する範囲での最大数であっ た。
学校をめぐる派閥がこうして和解したことに対する反応はただちに現れ た。グリーンはこのように書いている。「これまでに決まった和解計画に は心ならずもの妥協は一切含まれておらず、分裂を引き起こした諸原因は 現在というよりは過去のものだと思われる。また現在の方策の問題につい ては、誠実きわまりない協調を妨げるような、根本的な意見の相違は存在 しないようである
53
」。ラーネッドもこう書いている。「宮川や原田のような 人たちが昨日理事会に加わったということは、すべてがひとしくその支援 者でなければならぬ筈の人たちが再び結合するという、同志社の新しい時 代の夜明けが始まることを期待させます。学生たちは今日、これまでに例 を見なかったほどに熱狂しつつ[同志社の創立三十周年を祝う]記念式典 に参加しました
54
」。ロンバードは次のように書いた。
外から見ても、また私の考えでは実際から言っても、同志社の現況は
「分裂」以来のどの時期と比べてもましであり、将来に対して期待が持 てます。ついに日本側の派閥は、認められた寄付行為証の基盤に基づい て合体しましたし、ミッションに対してもまた学校のために共に働くの だという真摯な感情を示しています。この試みには深刻な危険が伴いま す。しかし私は結果は善と出るのみだと信じています。もし学校がはた すべき本当の義務をはたすならば、早晩そうなるに違いありません。も しそうなれば、まことに感謝すべきことです
55
。
最後にデイヴィスであるが、彼はアメリカでの休暇から帰ってすぐに、
このように書いている。「十二月八日、同志社の創立三十周年のお祝いの 日は、私が横浜に到着する四日前に当りましたが、この日に喜ばしい和解 が成立し、校友もその他の友人も、すべての学校の支援者たちが手を結び、
同志社のために共に尽くすことを心から誓いました。・・・日本人の支援 者たちがこうして結合したことは、同志社の急速な発展と、神学校におけ
る組合教会との心からの協力関係を意味します
56
」。
同志社に対する支援を示すために、同志社での教師生活が三十年となる D. W. ラーネッドを記念して、校友会は理事会に一千円の奨学基金を寄贈 した
57
。ラーネッドはこうした感謝の表現に彼らしい控え目な仕方で反応し た。「たまたま私が同志社に三十年間いたというだけで、それを学校に対 する愛のしるしとして受取るのでなければ、これは同志社における私の仕 事の過大評価として赤面するのみです
58
」と。
理事会が和解委員会の提言を受入れた結果、同志社のために三つの意義 ある方策が実現した。第一は校友とミッションと理事会が、下村執行部の 下で相互に結束して学校を支え合う態勢ができたことである。第二は組合 教会と神学校の間の関係が、管理のための公的な文書によるのでなく、相 互の協力によってできたことである。第三は同志社内各学校に対する財的 支援の増加が約束されたことである。
社長としての下村は校友会と学校の内部に存在していた両派間の和解を 見届けた。しかし実現しかかった和解にむけて下村自身が彼の全時間を割 くことができないことが明らかになった。1904年に下村が社長を引受けた 時、彼はコークス用オーブンの製造会社[実際はコークス製造の際に生じ るコールタール、アンモニア、ガス等を生産する会社―訳者]である大阪 舎密工業株式会社の仕事を放棄できないこと、そのため週の一部分を大阪 で過すことになることを理事たちにはっきりと断わっていたのであった。
しかし片岡とはちがって下村は家族を京都に移し、社長就任後の何か月間 かは時間の大部分を学校関係の仕事に費やしていた
59
。
下村が産業界の仕事に巻き込まれ始めたのは、社長になる数年前からで あった。彼は1879年に英学校を卒業した後、何年間か同志社で教えた。そ れから彼はアメリカに渡り、マサチューセッツ州ウスターの工芸専門学校
(Polytechnic Institute in Worcester, Massachusetts)で修士課程を終えた。
ウスターでの勉学に続き、彼はジョンズ・ホプキンズ大学で一年以上をす
ごし、その後ドイツに留学した。帰国後、新たに開校したハリス理化学校 の教頭に任命されたが、アメリカン・ボードと同志社の分裂を引き起こし た騒動の時期、1896年に教頭を辞した
60
。1905年に下村はロンバードに宛て た手紙の中で、彼が教頭をやめて大阪の新たに発展しつつある化学工業に パートナーとして参入することになったいきさつを、次のように説明して いる。
多分ご存知のことと思いますが、J. N. ハリス氏は耳にされていた悪 口にもかかわらず個人的に私を信頼して下さいました。このハリス氏と 私との関係がハリス理化学校を発展させることをもって自分のライフ・
ワークにするという決心の源でした。当時の社員たちとの意見の相違の 故に、私はやむを得ず私の最愛の関係を断ち切りました。あのような状 況に置かれた者でなければ想像することができないような悲しさを抱き つつ、私は辞任したのです。その苦痛と困惑が私の思いを教育以外の世 界へと向けさせました。ウスター工芸専門学校で受けた教育のおかげで、
私は副産物用オーブンのモデル作成に取り掛かりました。その制作と工 程は秘密にしておりました。当時私たちの応接室は材料と器具でいっぱ いであり、オーブンのモデルが立ち上がりつつあったのですが、その時 産業界で著名だった外山[修造]氏が訪ねて来られ、いつもの応接室に ご案内できないことをお詫びしたのですが、それが私の作りつつあった モデルをご覧に入れる機会となったのです。これが大阪舎密工業の起源 です
61
。
同志社社長として初期の頃、下村は学校のために孜々として働いた。D.
C. グリーンは「下村氏は熱誠こめて仕事に従事しています。こうしてほ んものの社長であることを証明しています
62
」と書いている。長い経験から 同志社を管理することの難しさを知っていたので、下村は、全校をまとめ
て元の格式にまで高めるには、一人の努力だけでは不充分でありことを理 解していた。この理由からして彼は学園内四部門の教頭でもって諮問・決 定機関を構成する、内閣制度を創始したのであった。この制度の目的は学 園の管理能力を固めることであったが、それはまた責任を各部門に移し、
彼がフルタイムの社長として勤務することができなくなる場合は、管理義 務の分け前にあずからせる制度を確立するための布石であった。
フランク・アランソン・ロンバードは1900年にミッションに加わり、普 通学校で英語教員として三年間の任期を終えた後、帰米した。その休暇中 に彼はマサチューセッツ州ウスターのクラーク大学で学ぶことにより、将 来同志社で教えるための準備をした。最初の三年間でロンバードは日本人 にもミッションにも、非常に優秀な学者であり教師であることを示した。
下村は学園の管理に協力してもらえそうな教職員を考えたとき、特に新設 の専門学校のことを考えたとき、彼がロンバードを思いついたことは当然 の成行きだった。
ロンバードが休暇中であった時に、下村は彼に宛てて直接に手紙を書き、
「専門学校の教頭として
63
」帰ってくるようにと伝えた。過去において同志 社はミッションのメンバーに対して、学園内の役職に就くよう求めたこと があったが、それは常に神学校内部の役に限られていた。ロンバードが専 門学校の教頭としての招聘を受けた時、D. W. ラーネッドもまた神学校の 教頭に就くよう求められた。しかしロンバードの任命に至るまで、従来宣 教師は神学校以外の部門で管理職に就いたことはなかったのである
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。ロン バードは下村に次のような返事を送った。
私が交流させて頂くことになる方々のご信頼を感じることは最大の喜 びです。けれども、私を教頭にとおっしゃることはあまり賢明ではない ように思うのです。専門学校は日本人の教授の指導によって、よりよく 運営されるでありましょう。そのような手配を講じてくだされば、学校
の発展のために必ず忠実にご協力いたすつもりです。・・・
私がその役職に向いていない理由はおわかりのことと思います。理由 の一つは、私が顔を合わすことになる人々とお話しするのに十分なだけ の日本語を私が知らないという事実です。しかしながら、このように招 いて頂いたことは熟慮の末のことであると信じて、私はそれをお受けし、
学校のために最善をつくしてあなたをお助けすることを約束します
65
。
ロンバードを専門学校の教頭として招くという下村の決断は賢明なもの であり、両者の間での長い、きわめて丁重な人間関系の始まりとなった。
ロンバードは1904年の夏に帰ってきて、ただちに社長への協力を開始した。
ロンバードは管理運営のための内閣制度を賢明で効率的なものと考えた。
「彼の立場は好ましいものであり、親切に助けて下さることを感謝してい ます。学園は教頭たちの助力によって運営されており、各学校とも教頭の 手にすっかりまかされています
66
」と彼は書いている。ラーネッドもまた新 しい社長とその運営方式についてはロンバードと同じ熱意を示した。「私 たちはますます下村氏が学園の長にふさわしい人だと確信しています。こ うして、ついに学園に本物の長が与えられたことは、何という慰めでしょ うか
67
」。
下村の仕事ぶりに対する尊敬の念と、執行部内、特に内閣内部での協力 関係が高まるにつれて、大阪舎密工業の仕事からくる要望も増えていった。
日露戦争が1904年2月10日に始まると、日本のすべての産業が戦争のため に動員された。下村は会社のためにもっと時間を割くよう要求された。そ して1905年1月に、会社におけるパートナーが身体不随に陥ったため、彼 はついに理事会に辞表を提出せざるを得ないと感じた。この知らせを聞く と教員たち、特に教頭たちが感じた失望感はいちじるしいものがあった。
下村の決意を遺憾とするロンバードに応えて、下村は次のように書いてい る。
私もまた不安と悲しみに打ちひしがれています。私が非常に高い価値 を置いている友人諸君を失望させることになると考えますと、まことに 堪えがたい気持です。現在私たちが置かれている非常事態にかんがみ、
私が思い、感じていることを述べさせて下さい。・・・まことに残念な ことに、この非常事態は、私の大阪での仕事を、ある意味で京都での仕 事と矛盾するように仕向けてしまいました。私は自分の事業の成功を同 志社での成功と同等なものとなることを願ってきました。全体をくつが えすようでは病める社長といわざるを得ません。私が今感じていること をあなたが感じて下さるならば、それで十分です。あなたが私に共感し て下さるとすれば、それはこの特別な不安の時期に見出される一筋の喜 びの光です
68
。
新しい社長を探すことは、考えるだけでも気落ちのすることだったので、
理事会は下村に対して、学校の管理運営面での仕事を思い切って減らすか ら、引続き社長の椅子にとどまるよう説得した。ラーネッドは、同志社の 友人たちが新社長の就任祝いに招かれる回数の多さについて、「それは彼 等の冗談のたねとなっている。だってわれわれは目的にぴったりかなわな かった人々と、[社長の]椅子に坐り続けることのできない人々との間を 行ったり来たりしているのだから
69
」と書いている。内閣制度というものは そのような偶発事を予想して開発されたのであった。1905年2月13日以降、
下村は週一日だけを京都で過ごすことができるだけとなり、彼は全般の利 益に関わる事柄と、四部門の教頭たちが提出する特別な問題のみを処理す るようになった。当時最大の部門は普通学校だったが、その教頭である中 瀬古は四人の教頭の代表者となり、必要な時には社長代理を務めた。ラー ネッドはこの態勢を必ずしも喜んでいたわけではなかったが、それでもこ のように書いている。「同志社のような学園でこの態勢は理想的なものだ
とは思いませんが、それでも現状からすればこれが最上のものかと思いま すし、私たちは新社長選びをするよりは、この方が断然ましなのです
70
」。 下村の考え出したこの態勢は理想からは遠いものだったとはいえ、当座 の間は満足すべきものと感じられた。しかし月日がたつにつれて戦争が産 業に対し、ひいては下村に対してかけてくる圧力がますます増えることは 想定外のことであった。政府は下村に海軍省と帝国製鋼(the Imperial Steel Works)のために百個の副産物回収窯の建設を監督するよう要求し た。この企画は百万円の事業であり、もし下村がそれを引き受けたとした ら、彼は相当な注目を浴びる筈であった
71
。下村は「恐らくこのことはすべ てあなたにとってあまり興味のあるものではないでしょうが、長年苦労し てきた私にとって、政府が認めてくれるということは決して小さなことと は言えないのです
72
」と書いている。仕事の圧力に堪えかねた下村は、社長 の仕事から完全に外してほしいと要求した
73
。理事会としては、彼の置かれ ている状況はよく分るものの、とうていそれを認めるわけにいかなかった。
妥協案として、同志社英学校1887年卒業生である丹羽清次郎が校長に指 名され、下村は名目上社長の地位に留まることになった。丹羽は1890年以 来東京YMCAの総主事を務めてきた人で、優秀な管理能力を備えていたが、
教育の経験はなかった。彼は1900年以降、浮田に代わって理事会の一員で もあった。丹羽の校長就任について、ラーネッドはこのように書いている。
「私はこれこそ何よりも幸いな解決だと思います。・・・私が望んでいた よりもうんと仕合せな解決です。但し学校教育に経験のない人をそのよう な地位に据えることはちょっとした実験であることは勿論です。確信をも って、というよりは希望に満ちて結果を待てばよいのです。・・・とにか く、下村氏が理事会の長として留まる以上は、世間に公表すべき変化は起 っていない、ということです
74
」。
丹羽が校長になって間もなく、組合教会の総会が東京で開かれ、校友会 と理事会の間で和解が成立した。下村は、反対派がついに新しい理事会と
執行部に協力を約束したという事実を喜びながらも、彼はなおも、前社員 に同情していた人々、特に五人の新理事たちの誠実さに疑念を抱いた。総 会は下村がヨーロッパに行っていた間に開かれた
75
。和解をめぐる状況につ いて知らされてはいたものの、彼は再建後の同志社の辿った道に長い間反 対してきた人々の誠実さを疑っていた。彼はロンバードに宛てて次のよう に書いた。「私は長い間両派が合体することを願ってきました。しかし私 の留守中に何か特別な事が起るのでない限り、両者を合体することはほぼ 不可能だと思います。学校を救うには学校をどちらか一方にまかせるしか ありません。私の言っていることはお分かり頂けますね。最善で、最も賢 明なことを大胆にやりとげて下さい。相手の派のことを考慮しすぎると大 義の前進を損なうことになります。私は相手の派のために私としてなしう ることはなしとげました。しかし彼等は私の提案を受け入れないし、認め ようともしません。問題はそこで止めておかなくてはなりません
76
」。 下村がヨーロッパから帰ると、彼の事業の圧力が勢いを増した。しかし 彼が同志社の社長を辞職する決断をしたのは事業上の責任がふえたことだ けに依るのではなかった。以前の社員、特に熊本バンドの間には、下村は
[同志社の]大義の裏切者と感じていた者がいた。1879年に卒業した熊本 バンドの中で下村は、分離と再建を経験した時期を通して、ミッションに 共感してきた唯一の人だった。このことと、さらには、理事会が旧社員た ちの支援なしには同志社を管理運営していくことが難しいと考えられてい た時に彼が中継ぎの社長となったこと、加えて校友たち、学生たち、学校 の支援者の多くが横井の再選を欲していた時に彼が社長を引き受けたこと、
こうしたことの故に彼は、執行部を批判する人々の目に好ましからざる人 物に映った。こうした学校の批判者たちが学校と合体したとなると、今や 彼は裏切り者と見なされたのである。彼はそれまでの危機的な十年間に彼 が対立してきた人たちの十全な信頼回復はとうていできないと感じた。辞 職こそが彼の最後の手段だった。1906年3月に彼は辞表を出した
77
。
学園はまたもや社長を失った。しかし今度は反対派の方が自分たちの目 的に好意的な人を選びうる立場にあった。これは[ミッションの立場から すれば]1899年以来感じたことのない不安な状態だった。従って新しい理 事会が新社長の選考を始めると、その成行きには相当な心配がつきまとっ た。ラーネッドはこうした心配を次のように表現した。
ところで理事会の中の小委員会は新しい社長を選ぶための相談をして います。そして横井氏が選ばれることを妨げるものは何一つないように 見えます。但しもしも彼が、彼を欲している人々ですら飲み込むことの できないような条件を持ち出すなら、話は別ですが。日本人である同志 社の支援者たちが、なぜあれほど彼を再び社長にしたがるのか、私には まったく理解できません。しかし(留岡氏のように)私たちと最も通じ ている人々の多くでさえも、彼を強く支持しています。彼は日本人の同 志社支援者たちを最もうまく結合できる人であることには疑いの余地は ありませんが、同志社に対する彼の理想が、ある面において、外国人で ある同志社の支援者の考え方からすっかりかけはなれていることも明ら かです
78
。
原田が選ばれる可能性が浮上すると、ミッションとしてはさほど心を騒 がせなかったけれども、それでも何人かの宣教師の間に不安を掻き立てた。
オーティス・ケーリはこのように書いている。
彼ならば同志社のキリスト教的性格を掲げるでしょうし、恐らく立派 に管理運営をしていくことでしょう。ある者たちの心中にある主な反対 論の根拠は、組合教会や諸学校等の関連ですべてをコントロールしたい と考えている一派のために彼が動くのではないかという恐れ、そしてま た、原田のナショナリスティックな精神が彼らを導いて、外国による支
配のにおいがすると考えられるものの一切を恐れるようにしむけはしな いかという不安なのです。七年前の改変以降彼らは、理事たちは宣教師 とアメリカン・ボードの言いなりになっていると言って、同志社を批判 してきたのです
79
。
およそ六か月間協議が続き、その間に横井に社長の椅子が提供されたが、
横井は理事たちに受入れがたい条件を出してきたため、その案は取り下げ となった
80
。そして神戸組合教会牧師である原田助が同志社の第八代社長に 選ばれた。丹羽清次郎は当分の間校長の職に留まった。原田は社長と校長 の両方を兼ねることを強く希望したので、同志社における丹羽の将来がど うなるかについては疑念の余地はなかった。ケーリは丹羽の置かれた立場 について、このように書いている。「日本人[である理事たち]は、将来 がどのようになっていくのかについて、恐らくは理事会の外部である諒解 に達したのであり、彼らは、少なくとも有力な理事たちは、それを予見し ているのだと思います。どのようになるかに関して、私はかなり正確に類 推できますが、この学園が二人の長を長らく必要とするかどうかは疑わし いと申す以外、『声にだして』それを言うつもりはありません
81
」。
グリーシー『同志社の土着化』注
第三部 日本の新世紀における同志社
2.同志社首脳陣の危機
1.D. W. Learned to J. L. Barton, January 8, 1903, American Board Papers.
2.D. W. Learned to J. L. Barton, July 2, 1902, American Board Papers.
3.Ibid.
4.G. E. Albrecht to J. L. Barton, June 30, 1902, American Board Papers.
5.J. D. Davis to J. L. Barton, October 29, 1902, American Board Papers.
6.G. E. Albrecht to J. L. Barton, January 3, 1902, American Board Papers.
7.J. D. Davis, “Kenkichi Kataoka,” Mission News, 7: 2 (November 28, 1903), p. 22.
8.Ibid.
9.G. E. Albrecht, “From the Doshisha,” Mission News, 6: 1(September 27, 1902), p. 4.
10.G. E. Albrecht to J. L. Barton, January 3, 1903, American Board Papers.
11.D. W. Learned to J. L. Barton, January 8, 1903, American Board Papers.
12.片岡は1843年に生まれた。頑丈な人ではあったが、四度虫垂炎にかか り、そのため大いに健康をそこなった。
13.J. D. Davis, “Kenkichi Kataoka,” Mission News, 7: 2 (November 28, 1903), pp. 23-24.
14.Ibid., p. 25.
15.Otis Cary to J. L. Barton, January 25, 1904, American Board Papers.
16.Ibid 17.Ibid.
18.D. W. Learned to J. L. Barton, January 28, 1904, American Board
Papers.
19.Ibid.
20.D. W. Learned to J. L. Barton, January 5, 1904, American Board Papers.
21.Ibid.
22.G. E. Albrecht to J. L. Barton, January 18, 1904, American Board Papers.
23.Ibid.
24.D. W. Learned to J. L. Barton, February 4, 1904, American Board Papers.
25.J. L. Barton to D. C. Greene, March 9, 1904, American Board Papers.
26.Otis Cary to J. L. Barton, April 11, 1904, American Board Papers.
27.D. W. Learned to J. L. Barton, April 1, 1904, American Board Papers.
28.D. W. Learned to J. L. Barton, June 12, 1904, American Board Papers.
29.D. W. Learned to J. L. Barton, May 7, 1904, American Board Papers.
30.Ibid.
31.Ibid.
32.Ibid.
33.D. W. Learned to J. L. Barton, April 27, 1904, American Board Papers.
34.D. W. Learned to J. L. Barton, June 24, 1904, American Board Papers.
35.D. W. Learned to J. L. Barton, April 9, 1902, American Board Papers.
36.D. W. Learned to J. L. Barton, April 3, 1905, American Board Papers.
37.“The General Conference of the Kumiai Churches,” Mission News, 9: 1 (October 31, 1905), p. 5.
38.D. C. Greene to J. L. Barton, November 9, 1905, American Board Papers.
39.Ibid.
40.“The General Conference of the Kumiai Churches,” Mission News, 9: 1 (October 31, 1905), p. 6.
41.D. C. Greene to J. L. Barton, November 9, 1905, American Board Papers.
42.Ibid.
43.Ibid.
44.Ibid.
45.Ibid.
46.Ibid.
47.“The General Conference of the Kumiai Churches,” Mission News, 9: 1 (October 31, 1905), p. 6.
48.Ibid.
49.D. C. Greene to J. L. Barton, November 9, 1905, American Board Papers.
50.Ibid.
51.D. C. Greene, “The Doshisha,” Mission News, 9: 3(December 23, 1905), p. 4.
52.Ibid. [Griesy はここで主語を“the five candidates presented by the reconciliation committee” としているが、これは“the finance commit- tee” でなければならないので、そのように訳した。訳者]
53.Ibid.
54.D. W. Learned to J. L. Barton, December 8, 1905, American Board Papers.
55.F. A. Lombard to J. L. Barton, December 11, 1905, American Board Papers.
56.J. D. Davis to J. L. Barton, December, n. d., 1905, American Board Papers.
57.F. A. Lombard to J. L. Barton, December 11, 1905, American Board Papers.
58.D. W. Learned to J. L. Barton, December 8, 1905, American Board Papers.
59.K. Shimomura to F. A. Lombard, April 1, 1904, American Board Papers.
60.Mission News, 7: 7(April 23, 1904), p. 118.
61.K. Shimomura to F. A. Lombard, January 20, 1905, American Board Papers.
62.D. C. Greene to J. L. Barton, April 28, 1904, American Board Papers.
63.F. A. Lombard to J. L. Barton, April 28, 1904, American Board Papers.
64.F. A. Lombard, “The Lombard Tradition, Chapters of Autobiography,”
(unpublished autobiography, Harvard University Library, catalogue number XT 12.10), Part II, p. 3.
65.F. A. Lombard to K. Shimomura, April 30, 1904, American Board Papers.
66.F. A. Lombard to J. L. Barton, September 19, 1904, American Board Papers.
67.D. W. Learned to J. L. Barton, September 24, 1904, American Board Papers.
68.K. Shimomura to F. A. Lombard, January 20, 1905, American Board Papers.
69.D. W. Learned, “Fifty Years in the Japan Mission of the American Board,” pp. 235-36, American Board Papers.
70.D. W. Learned to J. L. Barton, February 13, 1905, American Board Papers.
71.Ibid.
72.Ibid.
73.D. W. Learned to J. L. Barton, April 27, 1905, American Board Papers.
74.D. W. Learned to J. L. Barton, June 17, 1905, American Board Papers.
75.下村は1905年7月のなかばにヨーロッパに行き、ベルギーのブリュッ セルで同志社内での和解のことを知った。
76.K. Shimomura to F. A. Lombard, December 13, 1905, American Board Papers.
77.K. Shimomura to F. A. Lombard, March, n. d., 1906, American Board Papers.
78.D. W. Learned to J. L. Barton, July 6, 1906, American Board Papers.
79.Otis Cary to J. L. Barton, March 29, 1906, American Board Papers.
80.ケーリは1906年11月にイーノック・ベルに宛てた手紙の中でこのよう に書いている。「一般に報じられているところでは、彼が引き受ける ための条件とは、同志社の外国人である友人たちが彼の好意を持てる 人であること、また同志社が政府の制度に適合するように、ある種の 変更を行うべきこと、を含むものでした。他の理事たち[ケーリは理 事の一人だった]は後者に賛成しないでしょうし、前者もまずは不可 能だろうと思われています。」Otis Cary to Enoch F. Bell, November 26, 1906, American Board Papers.
81.Ibid.