同志社の土着化(1875‑1919)(その10)
著者 ポール・V・グリーシー, 北垣 宗治
雑誌名 同志社談叢
号 30
ページ 1‑36
発行年 2010‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013013
4.原田時代(907−99)
a.初期の時代(907−92)
原田助が907年 4 月27日に同志社の社長兼校長として就任したとき、学 園の支援者たちは、よみがえった活力と調和の時代がついに始まろうとし ていることを感じた。D.C.グリーンは校友会と理事会の和解、そして原 田が社長に就任したことは、「まれに見る繁栄の時代に入った」ことを示 すものだと述べている。
原田助は熊本で863年月0日に、鎌田というサムライの家に生れた。
若い頃に支流の原田家を引き継いだ。最初期の教育は横井小楠の義兄で横 井時雄の伯父にあたる、有名な儒者竹崎[茶堂]の熊本の私塾で受けた。
877年に原田は熊本洋学校に入学した。それは熊本バンドの面々が L.L.
ジェインズの下で学んでいた学校である。878年に熊本バンドが花岡山で 盟約を結んだのち、学校は閉校となり、そこで学んでいた生徒の多くは同 志社に入った。しかし原田は熊本バンドのメンバーでなく、キリスト教も ほとんど知らなかった。ジェインズが去った後、原田は嘉悦[氏房]とい う儒者の私塾に入り、三年間勉強した2。
原田は880年に同志社英学校に編入学し、一年間でその課程を終えた。
同志社の土着化
(875−99)(その0)
ポール・V.グリーシー著
北 垣 宗 治 訳
第三部 日本の新世紀における同志社
2
この時期に彼は熊本バンドの人々から非常な影響を受け、88年に受洗し た。彼はただちに余科(神学科)に入り、884年に卒業した。余科を終え る一年前に、当時神戸英和女学校と呼ばれていた学校(神戸女学院の前 身)で教壇に立った。「経済状態が急迫していたので、彼はついにそのお 召しを受け入れることにし、学校で教えるかたわら、自分の勉強を事実上 独りで続け、京都に帰るのは試験を受けるためか、または時折助けを必要 とした場合だけであった3」。
彼は神学の勉強を続けていたけれども、卒業後は引続き神戸英和女学校 で教えるつもりであった。しかし卒業証書を受けるのとほとんど同時に、
日本における最初の組合教会であり、当時組合教会としては最も有力な教 会の一つであった神戸教会から招聘された。この招聘は原田にとって大き な驚きであった。なぜなら彼にはそれまでに牧会の経験はなかっただけで なく、当時彼は弱冠二十一歳の若者だったからである。四年間牧会にあた る間に教会の会員数はほぼ四百人に増え、神戸教会は日本における最大の 教会の一つとなり、彼の牧会が続けば五、六百人を引き付けることも不自 然でないと見なされたのであった4。
888年に彼は教会を辞任して渡米し、イェール大学の神学校に入った。
彼は89年までアメリカに留まり、ロンドンで開かれた第一回会衆派世界 大会に組合教会の代表として出席した後、89年末に帰国した。帰国後同 志社で教えることを引き受けたのではあったが、就任する前に東京の番町 教会から牧師として招かれた。892年から895年にわたって番町教会を牧 していた間、原田はまた『基督教新聞』の編集者、『六合雑誌』の共同編 集者を務めた。彼はまた若いクリスチャンの全国組織であるキリスト教共 励会の会長になり、十年間以上にわたってその任務をはたした5。
健康を損ねたために原田は895年に番町教会を辞し、数か月間文学的な 企画に専心した。896年に彼は京都の平安教会の牧師となり、898年に至 った。この二年間に彼は同志社神学校で新約聖書を教えた。同志社の危機
が起り、続いて神学校が閉ざされると、彼は辞任し、神戸教会に呼び戻さ れた。神戸教会は当時七百五十二人の会員を擁し、日本最大のプロテスタ ント教会となっていた6。神戸教会の牧師であった間に、原田は二度海外に 赴いた。先ず900年にロンドンで開かれた万国共励会大会に代表として出 席し、次にはヴェルサイユで開かれた世界学生キリスト教連盟大会にオブ ザーバーとして出席した。905年にはインドの YMCA 同盟の招聘により、
彼は四か月間にわたってインド国内をまわり、二十三の都市を訪れ、何度 となく説教や講演を行った。同年、彼は組合教会の会長に選ばれ、その職 責において翌906年にはミッションの支援を受けていた諸教会[補助教 会]を日本伝道会社に引き渡すよう導いた7。
シドニー・ギューリックは次のように書いている。原田の性格は「彼の 顔と形にうまく表れている。着実で慎重で抑制が働いている。・・・演説 するときにはいつも力のこもった言葉を思慮深く選び、空想に訴えたり、
感情をむき出しにすることはない。・・・彼はみえを張ることがないので、
彼の仲間や彼の部下たちの熱狂をかきたてることはできないが、すべての 行動において着実かつ慎重であり、はっきりと安定した性格と落着いた判 断力の持主であるため、彼の同労者たちの深い信頼を得ている・・・8」と。
「着実」、「慎重」、「安定」、「落着いた判断力」──これらは十五年にわ たる騒動の後に同志社が必要としたものであった。新社長は就任の日がま だ来ない先から、学園の財政基盤を固めることを優先順位の第一に置くよ う動き始めた。学園はここ数年間にわたり破産に近い状況にあったからで ある9。
907年 2 月に一団の有力な校友が新社長に会い、同志社の年間経常費分 の金額を特別に募金することを約束した0。907年 6 月5日までには、すで に五千円まで寄付の約束がなされており、この目的のために校友の間で毎 年一万円を募金することが期待された。宣教師たちも基金を拡大するとい うこの努力を強く支持し、アメリカン・ボードや米国内の他の寄付者に支
4
援を働きかけた。ロンバードは原田の就任式についての報告記事を結ぶに あたって、次のように問いかけている。「日米両国の友人たちすべてから 信頼されている原田社長の働きに対して、日本の戦略的地位と、同志社の ような学校の力とを理解している、キリスト教教育のすべての友人たちの 衷心からの協力が期待されないでいてよいものであろうか?2」。
原田社長は維持基金調達のための運動が太平洋の両岸における同志社の 支援者たちの合同の努力となることを望んだので、彼はこの線に沿い、米 国内での配布をめざして、同志社のための長いアピールの文章を作成した。
このアピールの中で維持基金の必要性について彼は「大学に十五万ドル、
神学校に五万ドル、女学校に五万ドル、図書館に五万ドル、計三十万ド ル3」と書いている。この金額の説明として原田は次のように言う。
現在では重要な地位に就こうとすれば、どうしても高等教育を受けて いることが必要です。同志社を日本における有力な教育機関として維持 していくためには、大学の課程を持たねばなりません。現在の維持基金 から生じる果実はどうしても普通学校の維持に費やさざるをえません。
今後における日本のキリスト教化はますます日本の教会の働きに依存 していきます。そのためには指導者も働き手も訓練を受けなくてはなり ません。最良の訓練を受けた最良の人物が必要なのです。神学校は現在 の態勢をもってしてはこの国の諸教会のキリスト教指導者を養成してい くのに適しているとはいえません。諸教会は訓練を受けた専門家をあら ゆる分野で要求しているからです。日本のキリスト教化のためにはこう した展開が求められています。
女子教育のための機関は政府の組織においてもますます重要な位置を 占めています。明確にキリスト教を標榜する学校の影響力はいくら高く 評価しても評価のしすぎではありません。女性の働き手が教育されるべ きであり、国内の家庭という家庭がキリスト教化されるべきであります。
どの大学にとっても図書館は必須のものです。ことに公的図書館が小 さくて数が少ない国においてはそうであります。同志社図書館は約三万 冊を保有していますが、維持基金は毎年必要とされる書物の購入にも資 金をまわせないでいます4。
たまたま同志社のアピールと時を同じくして、アメリカでは「実業家運 動」として知られている、外国伝道に対する新しい関心が高まりつつあっ た。このレイマンの運動にかかわった数人の指導者が極東を訪問したとき、
同志社のアピールはアメリカン・ボード日本ミッションの推薦を受けて提 出された。このグループの中の会衆派会員で、首都ワシントンのジョン・
B. スリーマン(JohnB.Sleman)は維持基金を増やしたいというアピー ルに非常な関心を示し、同志社のためにアメリカで積極的に募金すること を宣教師たちに約束した。そのために努力しようとしたスリーマンは、
907年月にアメリカン・ボードが書いた手紙によって勇気付けられた。
その手紙には次のように書かれていた。
日本におけるその理事会は維持基金を増やすために特別な努力を払っ ています。財政的に資力を有するアメリカ人にとって、この努力を激励 し、相当な資金をもって支援することは、一つの特権である筈です。そ のような寄付金は日本とアメリカの間にすでに存在している親密な関係 を固めることになり、しかも、[日本]帝国の最良のキリスト教大学と は言わないまでも、最良の大学の一つである同志社に対して、それは一 大刺戟を与えることになるでしょう。
私たちはアメリカン・ボード運営委員会の承認をすでに得ているこの 努力を、心から推奨するものであります5。
この力強い推薦と、ボード運営委員会の承認があったので、ミッション
6
の人々、特にアメリカにおける募金運動のための広報委員だったJ.D.デ イヴィス、D.C.グリーン、F.A.ロンバードは、スリーマンや実業家運動 の同僚たちが同志社のために維持基金を確保してくれるであろうと楽観し た。それ故わずか二か月と少々たったところでアメリカン・ボードが、ボ ード傘下のすべての高等教育機関のために独自の募金運動を開始したこと は、ミッションにとって驚きであった。F.A.ロンバードに宛てた908年 月の手紙には、二百万ドル募金運動の計画の概要が次のように記されて いた。
運営委員会はボード傘下の高等教育機関に維持基金を追加して確保す るために、二百万ドルを目標とする募金をただちに、特別に、持続的に 行うことを決定しました。現在小冊子を準備中であり、それは高等教育 に関する特別小委員会を構成する運営委員四人の名前で、公的に送付さ れることになっています。この計画は巨額の富を有する人々に巨額の寄 付をお願いすることにしています。もし彼等が今すぐに寄付に応じられ ないのであれば、それを遺書の中に記入して頂くか、あるいは将来大型 の寄付として頂けるようお願いするものです。アメリカン・ボードは高 等教育機関を助けるために出来るだけ多くの資金を集め、運営委員会に は、個々の教育機関が個々の維持基金を受取るやり方で、それを必要と している教育機関に基金の果実を支出する権限を与える計画です。・・・
われわれとしてはすべての機関が一致して財力のある人士に接触でき るようご協力たまわりたいと願っています。その方々の関心が深められ、
このアピールの背後にはアメリカン・ボードとその委員会、役職者が存 在することが理解されるようにと願っています。またこれは単一の教育 機関のためのアピールではなく、それぞれの教育機関のためであると同 時に、この事業推進のための基金を集めようとする、ボード全体のアピ ールであることをご理解下さい。・・・6
ロンバードはボードによるこの決定を評して、次のように書いた。「こ うしてボードの役員たちは同志社、ないしは他の学校に、直接的に基金を 持たせようとする独立した団体の努力に対して、効果的に釘をさしたので あった。すべての寄付はボードのために要請されたのであり、それは何よ りも先ずボードが直接に責任を負うところに割り当てて負担の軽減をはか るべきであり、然る後に、ボードがよしと考えるならばそれ以外の事業支 援のために割り当ててもよい7」。
バートンとベルからの、この新しい募金運動のことをミッションに知ら せる手紙に対する返事として、ロンバードは908年 3 月に皮肉をこめて 次のように書いた。
あなたのお手紙の最後の行はこのように書かれていました。「われわ れはまた、教育事業の達成に必要とする十分な維持基金を確保するため の努力について、すべての学校と協力したいと願っています。」このこ とについて私たちは大いに感謝するものです。そして私たちは、あなた 方の従事される特別の努力が、私たちが実業家たちに宛てて出したアピ ールの成功を妨げることのないようにと望んでいます。あなた方はご親 切にもそのアピールを支援して下さいました。同志社は教育事業のため 毎年の資金援助を求めているのでなく、ただアメリカ人教師の派遣だけ を求めているのですから、どうかその代わりに維持基金の必要性をさら にもっと緊要なものとして押して下さるようにお願い致します8。
同志社独自の維持基金確保のためのアピールに対して、アメリカン・ボ ードの募金運動は何らかの効果を引き起こすかもしれなかった。これにつ いてミッションが感じていた心配をさらに説明するために、四人の宣教師 はスリーマンに対して908年 5 月に手紙を書き、実業家運動が同志社の募 金運動に対する支援を引続き行ってほしいという要望を再度強調した。次
8
に示すものは四人の手紙からの抜粋であるが、これは彼らの懸念がどれほ どのものだったかを説明する。
今私たちが書いていますのは、アメリカン・ボードが「高等教育事 業」のために発送したアピールに特にご注目頂きたいからです。これは 強力なアピールです。もしこれが達成されるなら、毎年九万五千ドルの 果実となり、それによってボードは宣教事業を拡大できる、と述べられ ています。この二百万ドルの基金はただちに確保されるべきであります。
しかしながらこの計画を調べてみると、次の事実がわかってきました。
この基金の半分以上はボード傘下の十一大学と十二神学校の宣教師家族 を支えるためであり、その残りはこれら諸学校の地元教員の給与と学生 の支援に当てるためであるのに対し、この二百万ドル基金はこれら諸学 校を拡大することのためには(諸学校の多くは拡大する必要がありま す)用いられないということです。
私たちは特に同志社との関係でこのことを感じます。ボードが求めて いる基金が集まりますと、それはわが校の拡大のためには用いられず、
ただここで教えている宣教師の給料のための毎年の補助金と、神学校で 教えている二人の日本人教授の給料の一部分として与えられる二千ドル と、神学生を支援するための奨学金とについて、ボードの重荷を軽くす るだけのことになります。・・・
こういうわけで私たちは二百万ドルを確保し、それの生み出す毎年の 果実から毎年ほぼ十万ドルをまわせるようにしようとするボードの努力 が成功することを心から願いつつも、あなたに明確なかたちで提出いた しました同志社の維持基金増額のための必要性が見失われませんように と祈るものです。そして時至らばそれが与えられ、同志社が前進し、こ の国におけるキリスト教の光と影響力の一大中心地であり続けることを 念願してやみません。・・・9
スリーマンは908年 6 月にロンバードに宛てた手紙の中で、実業家運動
(その後「レイマン宣教運動」と改名)はその主要な目的を同志社のよう な個々の学校の基金のためでなく、むしろ毎年の予算に極度に苦しんでい る宣教団体を支援するためのものであるということを明らかにした。
帰国してからの一年間は毎日がつらい日々でした。私たちは関心を持 つようになった企画を精力的に推し進めるつもりで帰ってきました。あ にはからんや、私たちはすでに着手した仕事を維持していく必要性に異 常なまで縛られていたのです。ご存知の通り、財政の逼迫する時期には 最も深く関心を抱いた人たちだけが支援を続けます。私たちはすでに決 定的に着手した仕事を維持するために、まんまじめに働かなくてはなり ませんでした。
レイマン宣教運動は日増しに力を得ており、まもなく、きわめて具体 的な結果が現れることでしょう。もしもレイマン宣教運動がなかったな ら、複数の教派において、そのボードの前年度の歳入に重大な欠陥を生 じたろうことは確かです。・・・そういうわけで、運動の結果として、
大きな事業はまだ着手されていないとしても、何千もの人々が刺戟され て宣教のためにお金を献げ、それなしにはまことに悲惨なことになった であろう欠損を埋めたのでした。・・・
同志社に関してあなたが述べて下さったことについて心から感謝致し ます。あまり遠くない将来、私たちの何人かがささやかながらも特別の 関心を同志社に示す道が開けますようにと願っています。・・・20
アメリカへの維持基金のアピールはボードの措置によって取返しのつか ない妨害を受けたけれども、同志社とミッションはスリーマンならびにレ イマン宣教運動と完全に絶縁する気にならなかった。ロンバードは同志社 高等部のために一人の講師を三年間雇用するという、特別に限定された目
0
的のために、スリーマン個人に興味を抱かせようと、最後の努力をしてみ た。この要望は908年にボードに提出されたものであったが、ボストンで は何の決定もしなかった。その要望の出た時期に高等学部で教えていたの は、904年にミッションに加わったデーナ・I. グローヴァー(DanaI.
Grover)と F.A.ロンバードの、僅か二人の宣教師だけだった。グローヴ ァーは英語と英文学を教え、ロンバードは高等学部の教頭兼文学と教育学 の教授であった。当時日本語を勉強中だったモートン・D. ダニング
(MortonD.Dunning)も英語教員だったが、彼は高等学部よりは普通学 校で教える方が多かった。908年当時同志社で教えていた、その他の男子 宣教師は J.D.デイヴィス、D.W.ラーネッド、S.L.ギューリックで、三 人とも神学校に関係していた。
普通学校と高等学部における英語教員増員の必要性は、908年 6 月に若 干名の宣教師が[アメリカン・ボード]運営委員会宛てに提出したアピー ルの中に明確に表現されている。
五年制の普通学校には五百三十三人の生徒がいます。来春には六百人 の収容定員の限界に達するものと思われます。法律の定めにより、どう しても五つの学年はそれぞれ五十人以下の組に分けることになります。
すでに次のように十三の組ができています。一年生に三つの組、二年生 に三つの組、三年生に三つの組、四年生に二つの組、五年生に二つの組。
これらの組を教えるアメリカ人教師の持ち時間は最低週三十時間を下り ません。
三年制である高等学部には五十人の学生がおり、アメリカ人教師はさ まざまな科目を週三十八時間教えなくてはなりません。高等学部はやが て五年制を敷くことになりますので、学生の数も確実に増え、従ってア メリカ人教師の担当時間の増加は避けがたいことです。
ロンバード氏は教頭としての管理責任をはたす以外に、高学年の教育
学、聖書文学、道徳哲学、英文学古典を担当するという過重な負担を強 いられています。グローヴァー氏は高等学部ですでにその働きを期待さ れており、学部が拡大すれば能力を超えた負担となるでしょう。彼はこ れまで普通学校でもいくらか手伝うことができました。それももうでき なくなります。それどころか、彼にはいくらか加勢が必要です。普通学 校の英語教師は週二十時間が期待されており、これをダニング氏がはた してきました。しかし高等学部での必要性に加え、さらに十時間かそれ 以上の必要性が残っています。これはすべて低く見積もった上のことで す。
さらに申せば、三人の教師のうちの一人でも休暇を取れば、その間は まったくお手上げの状況となり、臨時的に代わりの先生を雇ってやっと 部分的に間に合わせるという有様です。・・・
補充がつかない場合には、このような結果になります。
( ) いま在職している教員たちは過労に陥ります。ここ七年間ロン バード氏は同志社で働いてきましたが、その期間の大部分における教頭 としての仕事に加えて、平均授業時数は週二十時間を大幅に上回りまし た。また今学期のように教員仲間の誰かが賜暇を取るときには、彼の授 業時数はなんと週三十二時間にもなるのです。この状況は続けるわけに いきません。 それ故
( 2 ) 重要な役職と、それから学校の生命が維持されるために必要な 高学年クラスの教育とが放棄されることになります。教頭の仕事と、道 徳哲学、聖書文学、教育学は、いうなれば、日本人の教授にとって代わ られます。しかしそれは決定的で、しかも影響が広範囲に及ぶことです から、現在のところ放置しておくわけにはいきません。けれども学校に とって日本人教師にはとうていできないような仕事がなされるためには、
放置できないことを放置しておくことが必要なのかもしれません。
( 3 ) 教員の数が少ないため、クラスの数を増やすことができず、繁
2
栄をもたらした高水準の訓練を維持することもできず、自分自身の繁栄 によって呪われた学校、という奇妙な光景が出現します。
( 4 ) 水準が低下し、学校の影響力が激減する結果として当然の反応 が起ります。
そこで私たちは次の要求を致します。
私たちはダニング氏を助けて、普通学校で三十時間英語を教え、また 高等学部の新入生を教えてくれる教師を一人任命して下さるようお願い 致します。
私たちはその教師が909年 9 月からという任命になることを希望しま す。それは(ボードの現在の問題にかんがみ)遅くともこの時までに来 てほしいからであり、この要望を許可して頂くに十分なだけ時間を取っ て頂けると信ずるからです。それよりも早く派遣して下されば幸いです、
その人は今すぐ必要なのですから。
私たちは敬虔なキリスト者で大学教育を受けた人を望みます。神学校 出身者は望みません。どのような特技の持主であろうと、教えることに 専心してほしいものです。
任期は三年間にして下さると幸いです。ただし有能な人であるとわか れば、グローヴァー氏やロンバード氏の場合のように、期限を外したい と考えています。
念のために申しますが、教員の給料は最低六百五十ドルでなくてはな りません。二年前のグローヴァー氏の場合にそれだけ必要であることが わかりました。
さらに申しますと、ミッションからのこの要望はまた同志社の理事会 からの要望でもあります。そしてこの措置は学校の役職者からの訴えに 応えて取られたものであります。・・・2
この計画が[アメリカン・ボード]運営委員会によって拒否されたので、
ロンバードはスリーマンの関心を掻き立てようとして、908年0月に次の ような訴えの手紙をスリーマンに宛てて書いた。
恐縮ですが同志社のことでもう一度あなたを煩わせることをお許し下 さい。何度もご報告したことを繰返したくはありませんが、高等学部を 前進させるべきか、それとも後退させるべきかという、岐路に立ってい ます。日本人同僚諸君はそれを前進させたいと願い、その発展を雄々し く支えています。私の見込みでは年額にして必要なのは約八千円で、そ れは満たされます。しかし発展させるためにはもう一人アメリカ人教師 が必要なのです。その教師なしには計画は実施できません。学校は自分 で彼を雇う余裕がないのです。
五月の年次総会において、ミッションはアメリカン・ボードに対して、
909年 9 月からということで一人の英語教師を三年間派遣してもらえる よう要望しました。それは、そのような任命の方がもっと長期間に亘っ て任命するよりも、人が得やすいであろうと考えたからです。ボードは 財源不足の理由で拒否しました。未婚者である教師の場合の給料は年間 僅かに六百五十ドルだけです。旅費その他の出費を入れて、千ドルを三 年間、ということでボードは責任をはたせます。
さてあなたは、そういう教員を私たちに確保して頂くために、年一千 ドルを三年間に亘ってボードに支払って頂けないでしょうか22?
ロンバードが書いたこの手紙ほどそのものずばりである要求を想像する ことは困難である。スリーマンからの答はこの計画を支援する意欲を示し ていたので、宣教師たちの間にはやがて新人が確保されるであろうとの楽 観論が広がり始めた。
・・・あなたから頂いたお話ほど私の心に鋭く訴えたものはありませ
4
ん。何と言ってよいのか、分からないほどです。お申し越しの教師のた めに三年間に亘り年額千ドルの責任を持つことは私としては何でもあり ません。それはきわめて価値のある目標ですし、私にそれを手掛けてい く時間と力さえあれば、その金額は問題なく獲得できると思いま す。・・・
しかし私はボードの内国伝道主事の承認が得られることを前提として、
手紙を通してこの金額を得るよう努めるつもりです。私たちの仲間に先 ずこれの趣旨をよく知らせることなしに、いきなり手紙で、というわけ にはいきません。ですからすぐに趣旨を知らせ、返事がきたらあなたに お知らせいたします・・・23
スリーマンの手紙に対するボードの返事は落胆させるものであり、この ようにして、当時同志社を支援するためのアメリカでの独自の努力ははっ きりととどめをさされたのであった。ボードはロンバードが提出した計画 を認めなかったばかりか、スリーマンに対する返事の中で、同志社におけ る人事の現状に彼が無知であることを指摘したのだった。
私たちは月30日付のお手紙の中で触れておられますロンバード氏か らの要求について、部内で考えてみました。私たちはアメリカ人教員を 増員したいという同志社の人々の希望に深く共感します。しかしながら、
ボードがこれまでこの学校のために尽してきたことにかんがみ、私たち はこの要求を推し進めることがはたして賢明であるかどうか、若干疑い なきを得ません。ミッションでは同志社の教師陣を強化するために、ダ ニング氏が日本語を勉強している間ということで、最近カーブ(Cobb)
氏をまわしました[カーブの主な責任は神学校で聖書の文学と言語を教 えることだった]。それに同志社にはロンバード氏自身もいますし、ラ ーネッド博士、ギューリック博士もおり、デイヴィス氏も時間の一部を
同志社にささげています[但し最後の三人は神学校で教えていた]。ア メリカ人宣教師がこれほど沢山教えている学校は外に知りません。付け 加えて申しますと、ボードは昨年グローヴァー氏を同志社で永続的に働 く宣教師として任命したのでした。もちろんさらに多くのことをしても よろしいでしょうが、恐らく私たちとしては現在のところこれ以上に出 る保証は与えられていません。・・・24
パットン(CorneliusH.Patton)からの手紙を受取ったスリーマンから、
ボードの承認なしにはこの特別計画の支援はできないことを告知された京 都の宣教師たちは、その決定をくつがえしてほしいという一連の手紙をボ ストン宛に送った。ロンバードはその決定に関して最もあけすけに批判し た。彼のパットン宛の手紙は次の通りであった。
ここに同封する一連の手紙とこの手紙において、私は一人の血の通っ た人間なのであって、常習的な反対者には見えませんよう、個人的な友 人として扱って下さることをお願い致します。同封した手紙は( )状 況に関する大きな誤解と、( 2 )与えられる筈の寄付金が間違った仕方 で処理されていること、この二点を明確にするという点で、どうやら蹴 り続けているような気がするからです。
少なくともスリーマン氏に対して激励を与えられたのか、それとも失 望を与えられたのか、いずれにしても、あの問題を注意深く再考して頂 けないでしょうか? 私の理解するところでは、同志社のために特別に それ以上の努力が払われることになっており、もし承認されるならばボ ードがその寄付金のチャンネルになる筈でした。ボードは承認なさいま せんでした。現在の問題だけでなく、同志社とその維持基金のための将 来の努力との関連において、それが何を意味するのか、あなたはお分か りでしょうか?・・・25
6
同志社の教授陣のうちの六人の宣教師すべてが署名した、もう一通の詳 細な抗議の手紙は、同志社の現在の教師陣が直面している問題と、教員増 員の必要性とに再び言及していた。この長い手紙の結びのいくつかの段落 は、同志社に対する理解と、共感的な強調とを求めた、特に痛烈な訴えで ある。
・・・皆様。皆様から派遣されて同志社で労している者たちを、皆様 は支援して下さるのでしょうか ? 彼らは教育の友である人々に、日本 における偉大なキリスト教学校はひと握りの人間と小銭によって運営す ることはできないということ、それは何千人という強力な人々のドルの 力でなければ、他の非キリスト教国とは比べものにならないほどの状況 での働きをすることはできないということを、理解させようと努力して いるのです。ボードが毎年送金して下さる通常のチャンネルだけでは、
私たちの増大する要望を満たすことはできません。もしも皆様が私たち の努力を支援して、そのチャンネルを越えることを認めて下さらないの であれば、私たちのたずさわってきた事業に関する限り「敗北」を宣言 したも同然です。同志社の財政状況を考えてみて下さい。同志社が何を 成就してきたかを考えて下さい。同志社が進歩的な国の中でどんな環境 にあるかを考えて下さい。同志社は比較負けすることはありません。皆 様から派遣されている者たちは、もしボードの正規の出費に関する要求 が控え目であるとするならば、制度としてのボードが、そして個人とし ての役職者の皆様が、ボードを通す特別な寄付によってボードの出費を 補う努力をしている場合には、心からのご支援を期待する権利があると 考えているのです。そのご支援を頂けないことはたちまち気付かれてし まい、すべての努力を無に帰してしまいます。なぜなら、ボードは同志 社のためにすでに十分なことをしてきたというボードの判断に明らかに 同感している人があれば、将来もう一度その人の関心を掻き立てようと
したところで、それは一層困難になるだけのことですから。
皆様の意図されたことをはるかに越えて、皆様の行動よりはむしろ態 度が、打撃を与えました。私たちはそれが意図的だったと信じることは できません。将来何に頼ればいいのか、知りたいものです。スリーマン 氏の関心を引き立てようとする努力に対するご反対は、回り回って私た ちに届きましたが、私たちに直接お知らせ下さる方が気持のよいやり方 でありました26。
ミッションでは個々の宣教師がさらに上回るほどの熱をこめて手紙を書 いた。デイヴィスはバートンとパットンに宛てた私信で次のように述べて いる。
・・・同志社をアフリカ、トルコ、中国のミッション・スクールと比 較するのは間違いです。私たちの同志社は官立の高等学校と、そしてま たアメリカの最良の学校と並ぶほどの教育制度とも競わなくてはなりま せん・・・
同志社をトルコや中国におけるミッション・スクールと比較するのは しごく簡単なことですが、同志社はむしろアメリカの大学と比較される べきです。問題は、いかに比較するのか、であります。私は自分の生涯 の三十三年間を同志社に献げてきました。十年前に同志社がほとんど消 滅しかけたように見えた時、私はそれを取戻すために私の人生が終るほ どの戦いをしました。同志社は復興しました。同志社のキリスト教的基 盤は確立されましたから、二度と動かされることはありません。相違を 乗り越えて各派は同志社を支援することで一致しました。今の社長は見 事に役割をはたしています。・・・
もし同志社が然るべく維持されていけば、これから先すべてがうまく 行く筈です。しかし私は次のことを言いたい、最大の力をこめて言いた
8
いのです。もし同志社が維持されないのであれば、もしも同志社に維持 基金の増加と必要な教員が確保できるよう、友人たちの関心を引き付け るあらゆる努力が捻じ曲げられ、無視されるのであれば、その場合には、
この学校を失敗に終らせるという危険を冒すことになります。・・・学 校が成功するよう維持されるのでなければ、若者たちがここに踏みとど まって、生命を賭ける仕事として持ちこたえていくと期待することはで きません。・・・27
モートン・D.ダニングは日本語を学ぶために同志社を去って、危機的 状況を招いた人であったが、その彼もイーノック・ベル(EnochBell)に 宛てて、ボードの決定について強い言葉で反論している。問題がもち上が った時ダニングは鳥取にいたので、彼はベルと京都の宣教師たちが彼と文 通するまではその危機のことを知らなかったのである。ダニングは次のよ うにベルに反応している。
・・・「しかし、特にダニング君、同情がないといってぼくらを責め 給うな」と君は書いている。ぼくは責めているのじゃない。ぼくは君を 責めたりしない。だって状況のすべては完全にぼくの理解を超えている からだ。「ボードはボード自身の財布を守らねばならないし、ボードを 支えてくれる小さな支援者の群を守備する必要がある」と君は言う。ぼ くは多分阿呆で、ボストン側の詳細は把握できないが、率直に言って、
スリーマン氏に対する要望に心からの支持を与えたところで、ボードの ふところから一ペニーたりとも失うことにならない筈だし、あの措置の 最終的な結果としてボードの財布に決定的な損失をもたらすことになる ということがどうしても分からないのだ。しかしぼくがスリーマン氏の 立場にあって、手紙をもらったりして事実を知っていたとすれば、結果 がそうなっていただろうというこことを、ぼくは少なくとも知ってい
る。・・・28
日本から発射された批判の一斉射撃のあと、ボードはスリーマンに対し て前言を取り消し、「必要とされた教師を特別に支援するための協力29」を 要請した。残念ながらスリーマンは健康が衰え、この計画に積極的に乗り 出すことができなくなった。こうして資金は受取ることなしに終った。
これはアメリカン・ボードと同志社の関係史の中では比較的マイナーな 出来事であったが、ボードが日本における教育事業だけでなく、日本ミッ ション全体に対して、これまでとは違った政策を取り始めたことを指し示 すものであったといえる。
895年のボード代表団の訪問以降、運営委員会に対していくつかの勧告 がなされ、それらは日本での事業に対するボードの政策について長期間に 亘る影響を及ぼすことになった。代表団の報告書の重要な一節は、宣教師 たちの採用と派遣地に関するものだった。この一節には日本におけるボー ドの将来の事業に対するガイドラインが規定されていた。このガイドライ ンは日本で働く宣教師の数について、また彼らの働きの種類について、大 きな影響を持つことになった。同志社における宣教師団の仕事には二つの 特に意義深い点があった。代表団の勧告は、ミッションがすでに確立して いた事業はますます日本人の手に移すべきこと、そして宣教師は日本人の 影響力がまだそれほど及んでいない分野をねらうべきである、としていた。
報告書は次のように記していた。
いくつかの大都市には相当強力な宣教師団が存在する。・・・同時に これらの都市には教会とともにきわめて多数の日本人牧師、伝道師、教 師、そしてクリスチャンが居るのである。大都市はキリストの名をまだ 聞いたことのない多数の人たちに手をさし伸ばす機会を十分備えている ので、日本の諸教会と教会員たちが、できる限り、彼らの責任において
20
宣教の業を引き受けるべきであると考える。同時にまた、大都市から遠 く離れた大きな町の多くや広大な田舎の地域は宣教師不在で、福音を聞 く特権もない。彼らは宣教団体が注目してくれることを切実に求めてい る30。
第二に、そしてこれは恐らく908年の問題と直接関わることであるが、
[アメリカン・]ボードは純粋な教育事業から徐々に手を引き、直接伝道 にもっと集中すべきであると感じたのであった。
なすべき事は何か。われわれは日本における状況の変化は、必然的に、
これまでとは異なる種類の事業へと導くことを強く感じた。・・・現在 では官立学校がきわめて優秀であるために(官立学校にはクリスチャン の教師が少なくない)、また条約がさまざまな形で変化してきたため に、・・・アメリカン・ボード宣教師の時間と勢力は、もっと直接的に 伝道事業の線に沿うたものに捧げられるべきことを勧告するものである。
福音宣教をめざす若者を直接訓練する場合を除けば、ミッション・スク ールの必要性は官立学校の増加に比例して減少しているように思われ る。・・・日本においては、宣教師たちが教育の場で生徒たちをキリス ト教へと向わせ、生徒たちを通してさらに影響を広げられるといった、
広大な機会が見えない限り、宣教師たちが単なる教育に専念する必要性 はほとんど過去のものとなった。・・・このことをわれわれは強調した いのである3。
それ以降においては、ボードが資金を管理し、日本向けの宣教師を任命 しようとしたとき、ボードの政策となったのは、これら二つの原則だった のである。結果として、日本に派遣されるアメリカン・ボード宣教師の数 は大いに減った。その政策はまたボードの資金調達がますます困難になり、
それと関連して世界中に展開していた事業を制限する必要を強化したのだ った。最後に、日本と比べて更に大きなチャレンジの場であり、日本以上 の成果を期待できそうな他の宣教地域が浮かび上がってきた。それは特に 中国だった。日本に向けられていた資金と人員は中国において拡大するボ ードの事業にますます集中するようになった。90年にバートンはこの傾 向を次のように要約した。「全般として諸教会には少なくとも、日本にお ける必要性は他の宣教地域におけるほど緊急を要するものではないと感じ る傾向が存在する。日本は名目的にはキリスト教国でないが、実質的には キリスト教国なのであり、日本の教会はわれわれの支援がなくても問題に 立ち向かうことができるのだという考え方が、諸教会にはあるようだ32」。
ボードは日本における教育事業に関してはっきりと決まった政策を持ち、
綿密にそれを堅持していく決意であったが、原田が同志社の社長だった期 間を通して、ミッションは同志社のために教師としての宣教師や短期教員 と、補助金の増額を要求し続けた(それは成功しなかったが)。同志社で 教えていた宣教師たちも、アメリカン・ボードとは直接関係のない他のグ ループから、同志社のための資金を求めようとしたのだった。
ここ数年に亘り、国内のさまざまの宣教師たち、特にオランダ改革派と メソジスト派の宣教師たちは、教派に囚われないキリスト教大学を日本に 設置しようとして、資金集めの努力をしてきた。同志社で働いていたアメ リカン・ボードの宣教師たちにとって、すでに何校かの立派な既成の学校 を持つ日本に、もう一つキリスト教の大学を設立することが賢明であると は考えられなかった。もしも超教派の大学を設立しようとする熱意が一つ の既存の学校の維持基金を増やす方向に差し向けられるとすれば、その利 益は最終的には相当なものになるであろうと感じられた。早くも900年に オランダ改革派ミッションのアルバータス・ピーターズ(Albertus Pieters)は「『外国の』資金によって設立・維持され、少なくとも相当長 期間に亘り外国人の管理下に置かれるような、超教派のキリスト教大学の
22
設立をめざす計画33」を提出していた。ピーターズがこの提案をした頃、同 志社では神学校を除き高等の専門学校を再構築することはできないでいた し、日本で二番目に大きいキリスト教学校である青山学院でも大学レベル の専門学校を持たず、ただちにそれを作る計画もなかった。この超教派の 大学が既存のキリスト教学校に対する支援を横取りするのではないかとい う恐れがあったので、多くのミッションでは900年当時その考えを公的に 支援することを差し控えた。ますます多くの宣教師たちが、学校の財政と 管理運営を外国人の理事たちにまかせるという提案を支持することを躊躇 したので、超教派大学案に対する支持は薄らいでいった。この態度は、日 本における初期のキリスト教教育に対して多くの人が抱いた考え方とは顕 著な対照をなすものであり、どれくらい宣教師たちが権限を日本人の同僚 たちに移管しようと努めていたか、またキリスト教学校の実際の管理運営 から彼らがどれくらい身を引こうとしていたかを示すものであった。J.D.
デイヴィス、J.H.デフォレスト、D.C.グリーン、J.H.ペティーから成る ミッションの委員会を代表して G.E.アルブレヒトが J.L.バートン宛に書 いた手紙の中で、アルブレヒトはこの精神態度の変化について明確に、次 のように述べている。
提案されている計画に私たちが賛同できない・・・主な理由は、それ が出発点を間違っていると確信するからです。
その計画はその大学を完全に外国産の植物にしてしまいます。資金は アメリカ、そして多分イギリスで募ることになり、理事会と学長はアメ リカ人であり、大学の管理運営は完全に「外国の」手に掌握されること になります。
そのような計画は失敗する運命にあると考えます。「外国人」が着手 し、統轄する事業が成功するかに見えた時期はありました。そのような 時期は過ぎ去った、と私たちは信じています。日本人の有名なナショナ
リスティックな精神と結びついた事業を前進させるためには、キリスト 教の文化、ならびに宗教としてのキリスト教を推し進めるためのあらゆ るいとなみにおいて、真の意味での協力態勢が必要となるのです。日本 人は自分たちがただ受益者となるだけであるような事業には気乗りがし ません。この事実にかんがみ、これまでに案出された方針に沿うて計画 される大学を立ち上げ、運営したところで、成功を期待できるものでな いことを私たちははっきりと確信いたします。
このように述べたからといって、私たちは日本にキリスト教大学の余 地はないと申すつもりはありません。この国のクリスチャンたちが、息 子たちのためにそのような大学が必要であると気付き、それを設立する ために積極的に計画する時、明確なキリスト教教育の価値が十全に認識 され、既存のキリスト教諸学校がこうしてさらに活発な状況になる時、
その時にこそ、外国産のものではなくて、日本人キリスト者の生活に根 をおろし、そこから芽を出し、そこに養分を汲んで成育する植物として、
一つのキリスト教大学が出現するのです。その時こそは、日本のキリス ト教教育家たちがアメリカその他の国の博愛家たちに向って支援を求め る時であり、その運動は超教派的であるのみならず真の意味で国際的な ものとなります。その時こそアメリカのクリスチャンたちは心からの支 援を与えることを信じます。日本の土壌からはえ出で、成長しつつ周囲 に広がっていき、島のカラを破って拡大し、起源が何であろうと良きも の、真実なもの、活気あるものを養い育てつつ、教派と国家の足かせに 囚われることのない自由なものとして成長していく大学、そのような大 学こそが、キリスト教の観念、キリスト教の感覚でもってこの国の思想 と生活を形成していく一大要因であると、私たちは確信いたしま す。・・・34
905年 5 月に東洋教育調査委員会(OrientalEducationInvestigation
24
Committee)の代表たちが京都を訪れた。彼らは数時間を原田、デイヴィ ス、ロンバードと共にすごし、日本におけるキリスト教大学、できれば同 志社のために、大規模な維持基金を募る可能性について協議した。ただし その基金はアメリカの寄付者たちが満足するような仕方で管理される、と いうものだった。原田とデイヴィスとロンバードは、そのような維持基金 が設立されるのであれば、日本に設立され、日本人の理事会が管理し、ア メリカの寄付者たちが満足するように、アメリカの大学の理事会の監督下 におくのが最善であろう、と述べた。東洋教育調査委員会はこの提案を受 け入れず、管理は彼ら自身の委員会から選ばれた九人の理事会に委嘱する こと、ただしその理事はイェール、コロンビア、シカゴ大学といった、格 式の高いアメリカの大学の理事会によって選ばれた者とすることに変更し た。「この夢は、同種の大多数の場合のように、保護者気取りのにおいが 強すぎて、日本では心からの賛同を得ることができなかった。日本では
『白人の重荷』をひっさげていくように見える試みは、スタートの時点か ら失敗するよう運命付けられていたからである。アメリカにおいてもまた 熱意が冷めていった。日本での事業に関する限り、その夢からは何一つ生 まれなかった35」。
同志社の維持基金のために海外からヒモのつかない大型の寄付金を獲得 することはついにできなかった。またアメリカン・ボードや、アメリカの 他の篤志家たちが同志社の維持基金獲得のために積極的に運動してくれる 可能性もだんだん見込み薄となったため、日本人指導者たちはますます日 本の寄付者に依存することを余儀なくされていった。この事実は、同志社 の卒業生の間に母校の将来に対する関心が新たに高まってきたことと相俟 って、原田社長の新執行部がアメリカン・ボードの方針に囚われることな しに、これから先の見取り図を画くことを可能にした。ボードがこれ以上 財政的にコミットすることを拒否し、また宣教師の間でも管理運営上の決 定権を日本人指導者の手に渡したいという欲求が生じたために、それにま
た日本人が学校の財政上の責任をほぼ完全に引き受ける意欲を示したため に、外国からの寄付金が減り、外国人が学校の政策に干渉することも薄れ て行き、同志社の政策と計画を実際的に「土着化」することが今や可能に なったのである。
維持基金を募るキャンペインが始まるや否や、急速にはずみがついてい った。907年 8 月までに、年間七千五百円の寄付を三年間に亘って献げる という誓約がなされたが、運動はまだ始まったばかりだった36。909年にな ると卒業生によるキャンペインは非常な成功を収めていたから、理事会は 目標額をふやし、年額三万円を五年間に亘って続けることにした37。90年 4 月に校友たちはすでに十二万六千円を献げており、理事会の募金運動の 期間を十年間に延長した38。この野心的な計画がいったん着手されると、支 持の波は素早く広がった。卒業生たちだけでなく、卒業生でない人々も同 志社を支援することに関心を表明した。90年0月の組合教会総会におい て、クリスチャン実業家の間で、神学校の維持基金を募るための運動が立 ち上げられた39。桂太郎総理もまた90年、原田助と会見したとき、その募 金運動に賛意を与えた40。90年の末に基金のための寄付は二十六万円にの ぼり、十年計画の目標まであと四万円を残すだけとなった4。
D.W.ラーネッドは基金募集運動の成功を論じて、次のように書いてい る。「これは校友会のすべての要素が新たに結合したことと、忠誠・義務 の感覚が深まったことを示す、重大な意義を持つ運動である。それはまた 同志社の直面する喫緊の必要性、すなわち時代の要求に応じて機会を捉え、
発展していく必要性を示すが故に意義深い。ミッションではこれ以上財政 的な協力をする考えはなかったものの、理事会が求めていた有能なアメリ カ人教師陣を維持することによって協力していくことの必要性と望ましさ が、従来にも増して大きいことは、ますます明らかであった42」。ミッショ ンは同志社のためにさらに助成金を増やすようアピールすることを止めて いた。それでもなおミッションは、同志社における教育宣教師の強力な一
26
団が引続き必要であることを強調したのであった。
維持基金の募金運動が成功だったことは、9年 4 月の『ミッション・
ニューズ』に印刷された報告の中に明確に読むことができる。
3 月7、8日の理事会において原田社長は同志社に対する関心が広い 範囲に広がっていることを報告した。それは新島博士の多くの古くから の友人の間だけでなく、若者たちの間でもそれに劣らず顕著である。若 者たちはさまざまな仕方で、日本におけるキリスト教の発展と、特に同 志社の歴史について知らされてきたのであった。
アメリカとハワイにはたくさんの校友が居る。彼らは卒業生と、それ 以外に、直接間接にさまざまな仕方で同志社と関係を持つ人たちである。
これら日本人の支援者たちは同志社の経常費を助けるために一万円寄付 したし、他の人々は維持基金を増加させるために数千ドルを献げ、日本 における純日本的な財源からこのために二十七万二千円の寄付を申し込 んでいる。・・・
二、三年前に卒業生の間で始まった維持基金は年間四千円ないし七千 円の果実を生み、現在の運動が終結する前の二年間にはあと約一万円を 生み出すことが期待されている。
最近地価が急速に値上がりしたため、理事会はこれまで遊ばせていた 幾つかの土地を処分することができ、これにより、利息を生じる投資額 を大いに増やすことができた。そのような売却によって基金に生じた増 額分の合計は十五万円を下回るものではない。
このような状況の下で理事会は9年の予算、四万七千四百九十一円 を承認することを妥当とした。理事会は近い将来にさらに予算を増額す る見込みである。このうち合計四千八百円は神学校と女学校に対するア メリカン・ボードの助成金である43。
原田社長時代の初期段階において学生生徒数も増加した。906年 4 月の 登録者数合計は七百五人で、普通学校に四百六十六人、高等学部に四十二 人、神学校に二十六人、そして女学校に百七十一人が在籍した。907年 4 月現在では、普通学校に四百九十六人、高等学部に四十八人、神学校に三 十三人、女学校に百八十一人、合わせて七百五十七人であった44。
908年 4 月には登録者数が906年の数字より百人増えた。すなわち高等 学部に四十八人、神学校に四十人、普通学校に五百三十五人、女学校に百 八十三人であった45。909年 3 月には普通学校に五百八十二人、高等学部に 四十一人、神学校に三十八人、女学校に百九十三人となった46。90年 4 月 には学生生徒総数は八百七十一人に増えた。すなわち普通学校に六百二人、
高等学部に五十四人、神学校に五十人、女学校に百六十五人である47。9 年 4 月には登録者数は九百六十七人に達した。すなわち普通学校に六百六 十七人、高等学部に八十人、神学校に六十一人、女学校に百五十九人であ る48。
在籍者数が増え、維持基金も拡大したので、専門学校を大学のレベルに 昇格させてはどうかという思いが高まってきた。早くも907年にはそのよ うな噂が流れ、『ジャパン・タイムズ』に出たほどであった49。こうした早 くから囁かれていた噂を当局は急いで取消したけれども、理事たちは近い 将来に専門学校と神学校は大学部門に統一することを望んでいた。この目 的を支持した主な宣教師の一人は D.C.グリーンであった。彼は90年に バートン宛に次のように書いた。
私の判断によれば、同志社はあまり遠くない将来、文学カレッジ、法 律カレッジ、神学カレッジの三カレッジを持ち、それに大学レベルの学 科を持つ優秀な技術科学学校を併設する大学になることができます。同 時に京都帝国大学との間にある程度の連携ができて、同志社の学生はそ の大学の講義に出席することによって同志社の科目[の足りないところ
28
を]補う機会を得ることになると私は信じています。
帝国大学と同等の条件で競えるような新大学を設立するには多くの費 用を必要とします。私が述べた計画は恐らく本質的には同志社の理事た ちも考えていることであって、これならば救いようのないほど金がかさ むこともないでしょう。提案された同志社大学がいったん立ち上げられ るならば、さまざまなカレッジ内に新たな学科を加えることは比較的容 易ですし、世人の信頼感が高まり、必要性も明白になれば、理科カレッ ジ、医科カレッジ等も開校し、均整の取れた大学が設立されていくこと でしょう。・・・50
9年月の年次理事会において専門学校を大学のレベルに昇格させる 案が可決された。これを達成するために、当時文学科、経済科(後に政法 科と改称された)の二科から成っていた専門学校を三年制から四年制の課 程に改めた。神学校もまた新たに統合される大学に含まれることになった。
神学の課程は907年 3 月以降はこれまでの四年から五年に延長された。そ れは四年間の学習では学生たちが卒業後、牧師としての義務をはたすため の訓練期間としてはなお適切でないと考えられたからであった。「学生た ちはアメリカのアカデミーにほぼ相当する中等学校を卒業しただけで入学 してきますので、それからの四年間では十分でないことは明らかです5」。
長らく同志社の理事であり、東京の主要新聞『国民新聞』の主筆である徳 富猪一郎が、文学科と政法科[政治経済部]の組織化を監督する十七人委 員会の委員長に指名された。原田社長は神学校に特別の関心を寄せること を要請された52。神学校のカリキュラムは、五年間のうち二年間を準備期間 としてリベラル・アーツ教育を行い、三年間を正規のコースとする方式に 改訂された。カリキュラムはまた牧会を目指す学生、社会事業を目指す学 生、「より理論的または哲学的な仕方でキリスト教を研究したい学生53」、こ れら三者のために、三つのチャンネルで神学の勉強ができるように改変さ
れた。
9年 2 月に原田社長は帝国政府から同志社大学の設立認可を受けた。
大学という呼称が学生数の増加につながることが期待されたけれども、多 くの人はほとんど何も変らなかったと感じた。ラーネッドはイーノック・
ベルに宛てて次のように書いた。「同志社『大学』の到来をあまり大げさ に持ち上げない方がいいと思います。同志社としては知的に見てこれは本 当の前進であることを願っていますが、『大学』はちょっと大きすぎる名 称です。アメリカの安っぽい『大学』のようにひびく気がしてなりません。
事実『カレッジ』の方が今の水準をうまく表しています。ただしわれわれ の大学はアメリカのカレッジ制度にはあてはまらない神学部のようなもの を含んではいますが54」。
新しい呼び名の結果として学生数は確かに増加した。92年春の学期の 統計では普通学校に六百三十六人、女学校に百九十八人、大学に二百一人 が在籍した。大学の学生数は政治経済部に百二十人、神学部に六十五人、
英文科に十六人であった55。同志社の学生生徒数は歴史始まって以来初めて 千人を越えた。同志社の内部ではその他の状況も非常に好転していた。
92年の予算額は七万二千円に達した。これは同志社の恒常的な財源から 悠々とまかなえる金額だった。五年前から始まった維持基金への寄付は十 年間の目標を超え、三十一万二千八百五十円となった。このうち二十四万 四千九百九十五円は卒業生によるものである56。それに加えて9年秋には D.ウィリス・ジェイムズ夫人(Mrs.D.WillisJames)からの十万ドルが 同志社女学校の発展を支援するために贈られてきた。それは890年に J.
N.ハリスがハリス理化学校の発展を刺戟するために寄付した金額に匹敵 するものだった57。
新島とデイヴィスが同志社を創立した時に描いた夢はついに実現した。
しかし同志社の初期の指導者たちはどちらも、92年 5 月20日に同志社大 学が正式に開学した時には現存しなかった58。長い間に亘り、そして時には
30
雄々しく同志社のために尽してきたジェローム・ディーン・デイヴィスは 90年月 4 日、オハイオ州オベリンにおいて、肺炎のため七十三歳で永 眠していたからである。
グリーシー『同志社の土着化』注 第三部 日本の新世紀における同志社
4.原田時代(907−99)
a.初期の時代(907−92)
.D.C.Greene,“Doshisha’sPresident,”The Japan Evangelist,4:
(907),p.8.
2 .SidneyL.Gulick,“ABiographicalSketchofRev.TasukuHarada,D.
D.,LL.D.,PresidentofDoshishaUniversity,”The Japan Evangelist, Nov.92,pp.550-5.
3 .Ibid,p.55.
4 .Ibid.p.55.
5 .Ibid.p.55.
6 .“SketchofHaradaTasukuPreparedforPresentationtoAmerican Friends of the Doshisha on the Occasion of His Installation as President of the Doshisha,” March 30, 907, American Board Papers.
7 .SidneyL.Gulick,p.552.
8 .Ibid,p.552.
9 .907年において、同志社のためのすべての財源から生じた収入は 3,073ドルセントに達した。この収入の財源は以下の通りである。
32
基金 総額 利息
同志社基金 ,340.23 79.80 ハリス理科学校基金 06,567.40 4,709.5 専門学校基金 53,225.5 ,968.30 専門学校基金 4,49.00 936.52 神学基金 20,503.00 697.96 女学校基金 ,360.00 44.00
ハーディー基金 3,874.77 20.07 (HardyAcademyFund) $20,09.55 $8,846.6
利息収入、証券差額 3,662.09
$2,508.25
授業料 2,259.00 教室費 ,896.50 舎 費 828.90 体育費 793.09 雑収入 607.77 神学校補助金 ABCFM 720.00 女学校補助金 WBP ,200.00 神学校補助金剰余 50.85 前年からの繰越金 208.75
計 $8,564.86 総収入 $3,073.
この数字の出典は D. W. Learned, “Higher Educational Work ConnectedwiththeAmericanBoard,”March2,908,American
BoardPapers.
0.“ReportoftheAnnualMeetingoftheJapanMission,”Mission News, 0:9(June5,907),p.39.
.Ibid.
2.F.A.Lombard,“TheInaugurationofPresidentHarada,”Mission News,0:8(May5,907),p.24.
3.TasukuHarada,“AnAppealonBehalfoftheDoshisha,”July6, 907,AmericanBoardPapers.
4.Ibid.
5.Edward C. Moore and J. L. Barton to “Whom It May Concern,”
November4,907,AmericanBoardPapers.
6.J. L. Barton and E. F. Bell to F. A. Lombard, January 24, 908, AmericanBoardPapers.
7.Frank Alanson Lombard, “The Lombard Tradition: Chapters of Autobiography,”PartII,HarvardUniversityLibraryNo.XT2.0, pp.24-25.
8.F. A. Lombard to J. L. Barton, March 4, 908, American Board Papers.
9.J.D.Davis,D.W.Learned,S.L.Gulick,andF.A.LombardtoJ.B.
Sleman,May,908,AmericanBoardPapers.
20.J. B. Sleman to F. A. Lombard, June 2, 908, American Board Papers.
2.J. D. Davis, F. A. Lombard, and D. C. Greene to the Prudential Committee,June5,908,AmericanBoardPapers.
22.F.A.LombardtoJ.B.Sleman,October23,908,AmericanBoard Papers.
23.J.B.SlemantoF.A.Lombard,November28,908,AmericanBoard
34 Papers.
24.CorneliusH.PattontoJ.B.Sleman,December24,908,American BoardPapers.
25.F. A. Lombard to Cornelius Patton, January 28, 909, American BoardPapers.
26.D.W.Learned,J.D.Davis,S.L.Gulick,E.S.Cobb,F.A.Lombard andD.T.GrovertotheSecretariesoftheAmericanBoard,January 28,909,AmericanBoardPapers.
27.J.D.DavistoJ.L.BartonandC.Patton,January28,909,American BoardPapers.
28.M. D. Dunning to E. F. Bell, March 28, 909, American Board Papers.
29.F. A. Lombard to J. B. Sleman, April 24, 909, American Board Papers.
30.ABCFM,Annual Report,896,Appendix,p.24.
3.Ibid.,pp.24-25.
32.F. A. Lombard, “History of the Japan Mission of the American Board,”Vol.3,p.583,AmericanBoardPapers.
33.G.E.AlbrechttoJ.L.Barton,August22,900,AmericanBoard Papers.
34.Ibid.
35.Frank A. Lombard, “The Lombard Tradition, Chapters of Autobiography,”p.44.
36.D.C.Greene,“TheDoshisha,”The Japan Evangelist(August907), p.267.
37.J.D.DavistoE.F.Bell,November6,909,AmericanBoardPapers.
38.J.D.DavistoE.F.Bell,April8,90,AmericanBoardPapers.