同志社の土着化(1875‑1919)(その11)
著者 ポール・V・グリーシー, 北垣 宗治
雑誌名 同志社談叢
号 31
ページ 1‑83
発行年 2011‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013062
4.原田時代(1907−1919)
b.拡張の時代(1912−1919)
同志社大学が正式に開学したのは1912年5月20日のことであった。政府 の代表、キリスト教その他の宗教団体の代表、他の教育機関代表が出席し た。文部大臣[長谷場純孝]、京都帝国大学総長[久原躬み弦つる]、京都府知事
[大森鍾一]が祝辞を述べた。教会を代表して D.C.グリーンから、また 卒業生を代表して浮田和民から祝辞があった。英学校の最初期から生き残 っている唯一の教員である D.W.ラーネッドが祝祷をささげた1。
1911年11月に決まった計画では、この新しい大学は神学部、政治経済部、
文学部から構成されることになっていた2。実際には神学部と文学部は、文 学部の名の下に統合された。このことが必要となったのは、大学の設置認 可を与えた政府の基準の中に神学部という学部が存在しなかったからであ る。文学部の含む二つの学科は別々の履修課程を持っていたが、同一の称 号[文学士]を正当化するために十分なだけの共通科目を設置していた。
三つの学部を監督する役目は二個の十七人委員会に委ねられた。一つの委 員会は『国民新聞』の主筆である徳富猪一郎を委員長として文学部と政治 経済部を監督した。原田社長が委員長であるもう一つの委員会は神学部を
同志社の土着化
(1875−1919)(その11)
ポール・V.グリーシー著
北 垣 宗 治 訳
第三部 日本の新世紀における同志社
担当した。D.C.グリーン、H.B.ニューエル(H.B.Newell)、S.L.ギュ ーリックの三人だけがその委員会に入っている外国人の委員で、彼らの責 務は神学部の問題に限られていた3。
同志社が高等教育の課程を拡大したことに付随して、理事会は国の内外 における同志社の支援者層の拡大をはかることに決めた。学生数が増加し、
新たに大学の認可が下りるにつれて執行部は、当時計画されつつあった、
同志社の将来のために期するところのある有力者の人数を増やすべきであ ると感じた。1912年 1 月に開催した理事会は、理事の選出に関して寄付行 為証に変更を加えた。その時までは理事に欠員の生じた時には、ミッショ ン、校友、組合教会という、理事会に代表を送る三つのグループの一つか ら指名することが慣例であった。1912年 1 月に導入された変更は、社友と いうものを創出し、これは従来からの同志社の支援者からばかりでなく、
以前の支援者層と関係があるなしに関らず、[同志社に]関心を抱いてく れる日本人や外国人から選ぶ、というものだった。理事会はこの社友とい うものを作った上で、理事に欠員が生じた場合には、社友の一人を理事に 選ぶことを明記した4。
同志社はアメリカン・ボードに対して、社友として七人を指名するよう 求めた5。一見したところその提案は同志社の諸問題に対するミッションの 影響力を増やすものに思われた。モートン・D. ダニングはイーノック・
ベルに宛てて、社友の指名を急ぐように要望する手紙を書いた。
まだこれ[指名]がなされていないのでしたら、・・・すみやかに実 施願いたいと思います。そうすればミッションからこれまで以上の数の 人たちが同志社と公的に関わることになり、同志社の管理運営と発展の 上にミッションが及ぼす影響力が増えます。社友の指名に大きく遅れま すと、それに比例して影響力と地位の面での損失が増えます6。
ボードもミッションの多くの人もまだ気付いていなかったことは、ボー ドが社友として指名する七人に加えて、それ以外の外国人が指名されると いうことだった。外国人社友はボードの目的に賛成だったとはいえ、彼ら のすべては宣教師でなかった。こうした外国人社友の第一陣には D.ウィ リス・ジェイムズ(D.WillisJames)、ハミルトン・ホールト(Hamilton Holt)、アルフィーアス・ハーディー[新島の大恩人の長男である Al- pheusHolmesHardy,1840-1917]、そしてハワイのカースル氏(Mr.Cas- tle)とかいう人が含まれていた7。
日本人社友の中には教会と無関係で、以前に同志社とも関係のなかった 多くの有力者が含まれていた。社友のリストには桂太郎、西園寺公望、後 藤新平、山県有朋、井上馨、松方正義、大隈重信、内田康哉、渋沢栄一、
そして慶応義塾大学長[鎌田栄吉]と東京女子大学長[東京女子大学の開 学は1918年。従ってこの1912年の段階ではまだ存在しない]の名があった8。 拡大された社友のグループから将来の理事を選ぶという決定は、クリスチ ャンでない人が理事に選ばれうること、理事会が三人の外国人枠として設 けていて、その時まで宣教師が占めていた枠が、宣教師でない人によって 占められうるということを事実上意味したのであった。
この計画を憂慮する声が何人かの宣教師、特にオーティス・ケーリから 挙がった9。しかしミッション内部における、特に同志社に関する権限委譲 への動きは力を得ていった。ロンバードはバートンに宛てた手紙の中で、
この精神を明確に表現している。
同志社はアメリカン・ボードとミッションがこれまでよりは少ない協 力ではなく、これまでよりは多い協力、そして強力な影響をもつことを 望んでいます。しかし同志社はボードの支援のみに頼っていませんし、
頼ることもできません。同志社は真のキリスト教大学の理想実現を追求 しています。この目的のために、あなたのお聞きになっている協力だけ
でなく、外国人日本人の個人的な協力をも求めています。こういう人々 の中から社友という一団が形成されます。日本人社友の中から何人かの 理事が選ばれるに相違ありません。当然のことながら外国人社友の選出 も同一の方法によってなされることでしょう。外国人理事の数は三人に 限られていません。少なくとも三人が選ばれますが、理事会の意向いか んによってはさらにもっと選ばれるかもしれません。この変更は同志社 を完全な自治組織とするために必要なことでした。社友として関ること になるアメリカの友人と、共通の方法で選ばれた理事とをもつ利点は存 在しますが、宣教師の間でさえ、ミッションからは社友と考えられてい る人々で、日本人に、とは言わないまでも、同志社に受け入れられるほ どの理事としての働きはとうていできない人がいることを、ご理解いた だけるものと思います。現在の方法は自由な選択の余地を少ししか与え ないものですが、それでも私の判断では最もすぐれたものです。理事会 メンバーとして私たちが欲しいのは、消極的でなくて積極的な態度の 人々、逆行的でなくて前進的な態度の人々なのです。・・・10
同志社の支援層を拡大するというこの決定は、同志社を、歴史的にはア メリカン・ボード、日本ミッションと結びついていたけれど、あからさま な支配からは自由である、独立の学校として確立していく過程におけるス テップなのであった。宣教師たちは全体としてこの傾向で一致していた。
ミッションが同志社の施策に対する責任から解放されていくにつれて、
ミッションの財産に対する同志社の管理権の問題を解決しようという願い が若い宣教師たちの間に高まってきた。十九世紀の終り頃では外国人が財 産を管理することは違法と見なされていた。政府との対決を避けようとし て、1893年にミッションは全財産の所有権を同志社理事会に移転した。そ の場合、その財産は引続きミッションが自由に使用できる、という理解で あった。当時この決定を説明するに当たってジョージ・アルブレヒトはこ
のように書いている。
・・・ボードは同志社に対して(言うなれば)一定の金額(彼らに移 管することになる不動産の現価値と同額の)を神学校または高等学部ま たは女学校に対する基金(今後特定されるべきものですが)として与え るのです。理事会はこの金を不動産に投資するか、または寄付者と理事 会が同意するような場所にその金で家を建てます。そして寄付者はその 不動産の使用に関する取り決めがなされた日から三十年間に亘って権利 を享受することになり、理事会の方でもまた、その三十年以内であれば、
寄付者がそうしたいと言えば、どの場所にある不動産でも売却して、そ の売却した金を同意した他の場所に再投資することを約束するのです。
理事会は不動産を受取るや否や不動産保有の期間について理事会規則に 縛られることになります。
三十年というのは理事会が設定しうると考えた最大の期限でした。私 たちとしてはこの不動産を三十年間安全に保たせることができるならば、
ボードに対してよい奉仕をしたことになると考えます。同志社理事会の 手中にあれば、人間の法律と人間性に可能な限り安全であるといえます11。
この基本的な合意は1899年に、新たに指名された理事会もまた再確認し た。ただしその場合には、京都の宣教師館は、最初の取り決めの行われた 1894年ではなく、1899年から三十年間、家賃なしにミッションが自由に使 えること、維持費と税金はミッションの負担、という条件であった12。 年月がたつにつれて若い宣教師たちはこの不動産問題について、しっか りとした最終的な決定が必要であると主張し始めた。同志社の理事会によ るミッションの不動産取得について二つの対立する意見が現れた。ミッシ ョン内の一つのグループは主として D.W. ラーネッド、ジョージ・オー ルチン、アーサー・W.スタンフォードなどの年配の宣教師から成るもの
で、彼らは、不動産は法律的には同志社のものだが、道徳的にはボードの ものだというのであり、それを同志社が悪しき方法で取得したわけではな いが、少なくともいかがわしい状況で取得した、と考えた。ミッションの 第二のグループは所有権が合法であることを認めるばかりか、さらに一歩 進んで、協定の精神だけでなく、条文をも字句通り尊重することはミッシ ョンの責任であると主張した。ミッションの内部でのこの論争は1908年に、
同志社が合法的に所有している不動産の家賃から生じた千ドル以上の金が、
同志社に移されるのでなく、ミッションの会計に入っていたという事実に よって、火花を散らしたのであった13。
この問題は1910年に、大阪の古い居留地にあった三筆分の土地の売却が 決まった時に頂点に達した。この土地はその地域で企業が盛んになったた めに地価が非常に上がっていた。しかし逆に、この事実の故にその土地は 宣教師の住宅用には適さなくなっていた。この不動産は売ることに決まっ た。そしてアメリカン・ボード運営委員会の許可があれば、売却額の一部 は、京都以外でミッションが占有している不動産に対して同志社が所有す る権利を買うために用いることも決まった14。前年にあたる1909年に、ボー ドは不動産問題を解決して同志社理事会に対して協定を尊重するという意 思表示をすることに道を開く先例を作っていたのである。東京における不 動産が売却されたとき、ミッションと同志社の間で、ミッションの占有権 は売値の半額と見積もられ、他の半額は同志社に支払われることになった からである。従って二万五千円の売値はミッションと同志社の間で等分さ れたのであった15。
京都以外でミッションが占有していた土地の権利を同志社から買い戻す という提案はミッション内部で暖かい支持を得た。D.C.グリーンは J.L.
バートン宛の手紙の中で次のように書いている。
この好機を利用してこの問題を解決すべきことはきわめて明瞭だと思
います。これよりも後になると、平等的な好条件で決着することはとう ていできません。ご存知のようにこれは同志社から受取る金額を神学校 の基金に加えていくという計画でありまして、結果としてボードの支出 はボードが特別に利害関係をもつ学校の事業を助けることになりま す。・・・16
1911年の秋に大阪の土地の売却交渉が完了した。大阪の土地の売却から 生じる一万四千ドルは、京都以外の宣教師館の購入にあてるという合意が できた17。同志社との間で合意した金額はその土地の実際上の価格よりも相 当低かったけれど、ミッションがその不動産を合法的に使用できる三十年 のうち相当な部分がまだ残っていたので、この取り決めは適切であると思 われた18。同志社との交渉が完結すると、ミッションは京都の四軒を除き、
その時宣教師たちが使用していたすべての家屋の完全な使用権を取戻した のであった。同志社は最小限四人の教師を同志社にあっせんすることを条 件として、これらの宣教師館の占有権を与えることに同意した19。
この協定ならびに1922年に締結されたもう一つの協定は不動産をめぐる 論争を効果的に終らせ、同志社とミッションが共通の目的のもとに協力す る道を開いたのである。1922年の協定はさらに進んで、ミッションは京都 におけるいくつかの土地の所有権を放棄する代わりに、「同志社がそれを 望み、ミッションを通してアメリカ人教師の協力を受ける限りにおいて20」 同志社が合法的に所有している住宅地域の四つの不動産を「妨害を受ける ことなしに保有する権利を得る」、というものだった。
大学は開学し、支持者層は広がり、ボードとの相互関係における最後の おもな障害が除去されたので、同志社はミッションとの緊張からほぼ解放 された時期に入った。それはまた同志社がますます好意的な世論に助けら れる時期でもあった。
1913年10月に文部省は、新しい大学の文学部第一回卒業生以降は、無試
験で教員免許を与えると告げてきた。これは同志社に以前から与えられて いた他の特典、すなわち徴兵は卒業まで延期されることや、入学試験に合 格しさえすれば官立大学に入学できるといった特典と並んで、同志社にと って決定的な利点であり、志願者の数を増やすことになった21。大学基準が 要求する一層厳しい標準に基づき、同志社はこれまでよりも厳格に志願者 を選抜し始めた。同様に、卒業予定者の審査も注意深くなった。1913年と いえば同志社の歴史で最大のクラスが卒業した年であったが、数人の学生 は卒業要件を満たしていなかったために、卒業できなかった22。1913年 3 月 25日に学生131人が卒業した。このうち25人が新しく設置された大学の卒 業生で、その内訳は神学科 9 人、政治経済部16人だった23。1914年 3 月の大 学卒業生は38人を数え、うち文学部神学科の卒業生は 8 人だった24。 大学が発展するに付随して、新入学生の間に学校の未熟さに対する不満 が高まっていった。1914年 6 月に政治経済部の一年生がストライキに入る という騒ぎが起こった。社長も理事たちも、ますます人数の増える大学生 たち、特に他の学校からの編入生たちの期待に副うことが困難になってき ていた。示威運動する学生たちは、大学に三つの要求をした。①図書館の 諸条件が改善されるべきこと。②この地域に在住する専任教授を増やすこ と。③現部長代行の水崎[基一]に代わる部長を任命すべきこと25。こうし た要求についていえば、「理由なきにしもあらず26」であった。予算が限ら れているため、執行部としては京都帝国大学から非常勤講師を雇わざるを えないのであった。そのようにして雇われた講師たちは有能ではあったが、
彼らはこの地域に在住する専任教授の代わりをすることはできなかったし、
また彼らは同志社の生活に巻き込まれすぎて、帝国大学での地位を危険な らしめることも欲しなかった27。図書館改善の問題もまた正当なものだった。
学科の書物を収蔵する古い建物は教室となり、書物は校内のあらゆる空き 場所に移すことを余儀なくされていた。ロンバードはこの状況について、
「現在のところ文字通り、書物を置く場所はありません・・・28」と書いて
いる。最後に、F.A.ロンバードが1910年に学科長をやめて以来、学科長 が任命されていなかった。水崎は学科長代行としてしっかりと務めてきた が、「彼には弱点がいくつかあり、学問的には条件を満たしていなかった29」。
学生たちの要求は正当であったが、大学を動かすために彼らが選んだ術 策は多大の不満を引き起こした。オーティス・ケーリはその時の騒ぎにつ いて、次のように述べている。
不幸にして学生たちは不愉快な、殊にアメリカ人の観点からするときわ めて不遜な扇動方法を取りました。彼らは期限内の回答を求め、新聞に 記事を書きたて、校友にビラを印刷配布する等のことをしました。日本 の学生が[いざとなると]どれほど興奮するか、おわかりですね30。
ふつうは学生の意見に同情的な態度を取る F.A.ロンバードはこのよう に書いている。
このような要求を提出するにあたって、学生たちはクラスのある者たち に導かれ、全学の規律と権威をくつがえすような仕方で行動するように なりました。暴徒の心理がかすかに現れると、不安が激しく学校中に広 がる危険がありました31。
学生の示威運動は、学内での規律を断固として維持するために、教員た ちを結束させるという効果があった。この規律を達成するために大学は、
次の九月に秋の学期が始まるまで休校することを決めた。この騒ぎを引き 起こしたクラスは、他のクラスの学生、大学当局、教授会の圧力についに 屈し、自分たちの行動を謝罪することを余儀なくされた。教授会は首謀者 学生十五人を退学させ、他の十人を譴責処分にした32。日本の大学で学生と 教授会が衝突したときの多くの場合とは異なり、原田社長の辞任はなかっ
た。しかしそれは原田の執行部をついには転覆させることになる、将来の 不安定を予感させるものだった。この対決が「最終的には[原田の]立場 を弱めるよりは、強めることになるでしょう33」というロンバードの希望は、
早くも二、三年のうちについえることになったのである。
この危機の対処には成功したが、同志社の基本的な問題を真に解決した わけではなかった。問題の最重要点は、同志社があまりにも急速に拡大し たために、教育と財政の諸問題と取り組めなくなってきたという事実だっ た。学生数が増大し、学術上の諸計画が拡大したにもかかわらず、インフ レと、日本国内外のクリスチャンからキリスト教教育のために寄せられる 寄付金は減少して、予算は著しくしわ寄せを被った。個々の宣教師からは ボードにあてて、財政援助を増やすようにとのアピールがしばしば送られ た。1913年 4 月に S.L.ギューリックは次のように書いている。
同志社における新学期は、年が改まって、[神学科に]二十人からなる 新しいクラスをもたらしました。この若者たちは例年になく有望に思え ます。われわれの神学校は今や七十一人を数え、日本最大の神学教育の 機関となっています。しかしボード補助額が一定しているため、学生数 の増加は財政難をもたらしています(神学科に対するボードからの補助 金は年額二千ドルを越えることはなかった)。大学は日本で五万ドルの 維持基金を集めようとしていますが、常置委員会としては、学生の特別 の要求を満たすために、今年募金することは賢明でないと考えています。
ここ三、四年間に亘り生活費が急速に上昇し、四年前に定められた奨学 金の金額は現在では全く不適当ですから、学生たちは本当に困っており、
私たちはこの緊急の必要性に応じてやりたいと思うのです。・・・私た ちの仕事の質を向上させることの重要さについてあなたが言われたこと は実にもっともです。私たちの学校の質を向上させるにつれて、私たち は良い学生を獲得し、彼らを保持していくことができるでしょう34。
翌年再び、ボードの運営委員会に対してアピールがなされた。今度はミ ッションの個々のメンバーによるものではなく、京都ステーションのすべ てのメンバーからの手紙という形を取った。このアピールの中で京都の宣 教師団は、原田社長が「同志社神学科の財政状況を宣教師団とボードに伝 え、日野[真澄]教授の完全な支援ができる何らかの方策を見出して頂き たい35」と要請してきたと述べている。こうしてボードは、日本人教員の一 人の給料の全責任を負うことによって、同志社への助成を増やすことを要 求されたのである。もしもそのような助成が与えられれば、その目的のた めに通常予算に割り当てられている金は、他の緊急の用に用いられること もありうるではないか、と感じられた。事実この要求は新しいアピールで はなく、むしろ同志社の増大した支出に合わせた助成をしてほしいという アピールなのであった。
1904年、ミッションは神学科の日本人教員である日野真澄教授を支援す るために全責任を引き受けることにし、この年以降その目的のためにミッ ションの予算から年俸七百二十円を支出することにした。1904年から1914 年にかけて、上記の訴えが運営委員会に対してなされていたのだが、同志 社では日野教授の俸給を年額千四百円に引き上げた。しかしミッションと しては助成額を変更することができなかったので、差額は同志社が自弁す ることを余儀なくされた。原田社長が教員給与のすべてをカバーできるよ う、助成金の増額をミッションに要求したとき、
ミッションは・・・年次総会においてその要求を注意深く検討し、承認 したのですが、ミッション自体の資金からそれを支出することは不可能 であります。こういうわけでミッションは「原田社長の要請を裏書き し、・・・有利な解決が出されることを願いつつ、運営委員会にこの問 題を提出すること・・・」を決定しました36。
京都ミッションの宣教師たちは、この要請が聞き届けられることを強く 願って、ボードに対して次のように書いた。
同志社はその歴史のどの時期におけるよりも大きな生命力、影響力、管 理能力を示しつつあります。・・・現在は特別な緊張と必要性を感じて いる時期であり、学園の驚くべき成長は資力の限界を超えたものです。
私たちは、ボードに可能などのような財源からでもよろしいから、この 要請に応じて頂きますよう、強く訴えます37。
助成金増額の訴えは同志社で働いているすべての宣教師の名前でなされ たのであったが、やがて明らかになったことは、ミッションの中の少なく とも一人の有力なメンバーが、同志社に対する財政支援の増額に賛成して いないということだった。D.W.ラーネッドは J.L.バートン宛の私信に 次のように書いた。「・・・私はボードが同志社に対してこれ以上の助成 をすることを承認する者ではありません。しかし私は宣教師団の中でそう 考えている唯一の人間らしいのです。・・・38」。さらに後の手紙の中で、
ラーネッドはその要請に対する彼の反対論を明確に述べている。
同志社は高水準の神学校を維持していくために、十分な資金を必要とし ているわけですが、私には、同志社がボードに対してその資金を要請で きるという考え方は、同志社自体にとって極めて望ましくないものに思 えます。そのような要請に対してミッションの決定が先例を作ることに なることについて、私は賛成できないと感じたのです。そういうわけで、
ミッションが運営委員会に提起した案を、私はいやいやながら聞きまし た。しかし最終的には、ミッションの権威の下にあなたに送られた手紙 にサインしました。約十二年前に同志社が現在の協定を結んだ時、ミッ ションが神学校のためになすべきであると理解したことを、現状の許で
実施するための手段を単に要求しているのだという考え方に基づいて、
私はそうしたのです。・・・もちろんボードは同志社に何の約束もしま せんでした。ミッションも然りです。しかし私たちには同志社に対する この支援を継続するという、ある程度の道義的義務があります。・・・
私としてはそれを大きな義務であるとは思いませんが・・・39
神学校への寄付金の増額の要請と同時に、大学の他の部門や普通学校に おける、正規の宣教師教員を補うための、短期の宣教師教員を派遣してほ しいという訴えがなされた。もしそのような短期の英語教員が任命される ならば、デイナ・C.グローヴァー(DanaC.Grover)は解放されてもっ と日本語学習に時間が割けると考えられた40。これは新しい要求ではなく、
これまでにしばしばなされてきた要求で、拒否の手紙の最後のものは1913 年に届いていた。
もう一人のスタッフを要望して、ロンバードとペドリーは次のように書 いている。
諸学校の規模がだんだんと大きくなってきたため、教員がもう一人必要 です。普通学校の五つのクラスは今や大層膨れ上がって十五クラスとな り、これを三種類に分けて授業しなくてはなりません。効率の点から考 えると、アメリカ人教師による週二十四時間の英語授業が最小限必要だ と思われますが、それは最良の公立学校での時間数よりも少ないのです。
現在のところダニング氏が二十四時間のうち十八時間を教えています。
それで、新人が来られても、氏は英語授業全体に責任を持つか、または クラス数を減らすか、ということになるでしょう。・・・
神学科を除く他の大学の課程は、二年前に始まったものですが、四年間 プラス一学期に亘ります。一年間プラス一学期が予科になります。大学
課程そのものは三年間です。予科のクラスはたいへん大きく、しかも三 つの異なる種類[の英語]を取ります。英文学科では予科の単位の上に 英文学科自体の英語を取らねばなりません。政治経済部の学生はひとま とめにせざるをえません。・・・
ロンバード氏は全時間を英文学科に取られていますが、現在のところ、
今年は上級組の存在しない予科を助けることもしています。グローヴァ ー氏であれ誰であれ、一人だけでは予科と政治経済部の残りのクラスを 担当することはとてもできません。次の四月[1915年]から、どうして ももう一人の教員が全部の時間を捧げる必要があります。・・・41
原田社長がボードの1914年の年次報告にメッセージを寄せたとき、彼は 財政上のアピールと、もう一人の教員派遣のアピールを、次のようにまと めている。
キリスト教諸学校の没落が阻止されなければ、これから先二、三十年の 間に、クリスチャンの学識はこの国の思想と知的生活の中で取るに足り ない要素になると申しても過言でない。それは確かに一つの危機なので あり、キリスト教諸勢力のすべては断固とした行動を取り、大局に立っ た方策を講じる必要がある。高邁で雄々しい人物の基礎を培うために、
われわれはできる限り最良の中学を必要とする。われわれは神学、学芸、
科学の諸分野における指導者を生み出すために、これらの学問分野を教 授するキリスト教大学を必要とする。・・・42
同志社から提出されたこれら二つの訴えに対して、ボードは「ノー」の 返事をした。どちらの要求にも積極的に応じられない理由は、1915年 3 月 に J.L.バートンがオーティス・ケーリに書いた手紙の中に詳述されてい
る。
・・・運営委員会の討議の中で出た考え方の流れを二つばかり説明しま しょう。一つは、高等教育基金(HigherEducationFund)からの収入 は毎年必要な助成金と密接につながっているため、今年は緊急時の予備 金に充てる金が殆ど残っていないことです。・・・それ故委員会は特別 な場合のためにいくらかを残しておく義務があると感じ、毎年必要な助 成金にまわすことができないのです。
今一つ考慮すべき点は、基金が利息を生じなくなるかもしれないという ことであり、そうなれば収入は大いに減少するでしょう。現在までのと ころ収入の滞りが皆無であったことを大いに喜んでいます。しかし、数 多くの投資が失敗している以上は、もしも百二十万ドルの投資が或る時 点で利息を生まなくなるとすれば、これは驚くべきことであり、もしそ うなれば、これまで借金せずに調達してきた金を送ることさえもできな くなり、借金に陥らざるをえなくなるでしょう。安全の見地からします と、資金の幾分かを、起こるかもしれない緊急時に備え、この方向で保 持しておくことは殆ど必須のことであるのです43。
バートンはさらに、1914年に要求のあった短期間の教師を同志社に送る ことをボードが拒否したことの背景について、次のように述べている。
・・・ここ二、三年間、日本から聞こえてきたのは、福音宣教的な働き をもっと強めてほしいという強い要望でした。そしてその要望は私たち の心に途方もない反応を呼び起こしました。私たちはその方面の仕事を 強化するために、按手礼を受けた人を確保しようとしてあらゆる努力を 払いました。・・・運営委員の心理からすると、こうした牧師資格をも
つ人の代わりに、同志社に教員を一人送るという考えは、とても同じ反 応を引き起こすことはできません。特にリストを眺めて、すでにボード の宣教師七人がボードの給料によって、何らかの仕方で同志社と関係し ていることを見れば、なおさらのことです。諸学校で働いている勢力を 増やそうという傾向があったことは明らかです。これは日本だけのこと ではなく、宣教世界全体についていえることです。中心的な学校を盛り 上げるために福音宣教の事業が犠牲にされてはならないという主張がな されなくてはならないのです。・・・
同志社の立場から見ても、この決定は喜んでなされたものではありませ ん。私たちは同志社が教師陣を強化するためにさらに収入を増やす必要 があることを理解しています。同志社は日本における新しい状況に即応 するため、収入を大いに増やす必要があります。維持基金を増加しよう と努める同志社関係者の誰とでも協力するつもりです。原田社長は私た ちがいつでもそうしたいと考えていることをきっとご存知であり、感謝 して下さることでしょう。私たちはミッションもしくは原田社長がご存 知である以上に、同志社のための確かな維持基金の確保に努めてきたの ですから・・・44
同志社からの要請に対してボードが肯定的に応じようとしなかったこと は、宣教師たちの間では、理解とあきらめの気持ちで迎えられた。ロンバ ードはバートンからの説明の手紙の答を書いた際に、京都ミッションの若 手たちの大多数の気持ちを表現している。
同志社への教師派遣問題に関する、三月四日付のミッション宛のお手紙 を拝受し、回覧いたしました。私としては個人的に、このことで厚く御 礼申し上げます。運営委員会が十分に考慮を払って下さった証拠は歴然
としています。最終判断では異見を持つものの、ご説明に対して何の反 対も申し上げるわけにはいきません。
福音宣教のため四人の派遣が近い将来に実現することと存じます。同志 社から要望を申し出るに当り、その四人を確保なさるご努力を妨げない ようにと、注意を払ってきました。しかし、もしもその四人がこれから 三年以内に到着されないならば、私たちの要望にも一理があったことを お分かり頂けるかと思うのです。すなわち「手中にある鳥一羽は藪の中 の鳥二羽に値いする」からです。藪の中の鳥が初めて約束されてからこ れで何年経ったことでしょうか45?
後年になってロンバードは、この時ボードが同志社の支援を渋ったこと について述べている。彼の見解もまた、日本ミッションへの支援が達成し にくかったことの基本的な理由に深く触れている。
どの地域のキリスト教会も、その国民の精神に生じる変化に大きく影響 されるものである。その精神が拡大する時期であれば、宣教事業におけ る教会の外への展開は気前よく支持される。その精神が主として国内問 題にかかわっている時期であれば、宣教事業の大義は打ちしおれる。
個々のミッションの支援をも流行が支配する。二、三度出現した[特別 な]短期間を除き、日本ではミッションに金を与えることは流行となら なかった。多くの人が文明とキリスト教化を混同している。人々は、未 開人や堕落した人を見て、この人たちこそが宣教師の助けを必要として いると見傚すのである。日本は普通の水準から判断すると、長い間、物 質的には開化してきた。ただし使徒パウロのように、宣教的前進の戦略 を重んじる人々だけが、そのような環境での宣教事業に熱心でありえた のである。さらに言えば、日本に派遣された或る宣教師たちは、[日本
という]国土とその民に対する忠実さのあまり、彼らがなお必要として いるものには目をつぶり、国土と民の両方をけばけばしい色合いで描写 し、日本人同僚の性格と能力、さらには日本におけるキリスト教会の力 をほめちぎり、その結果、アメリカの多くの人が誤解し、宣教の前進に 欠かすことのできない、持続的な協力から手を引くに至ったのである。
バートン主事でさえ、早くも1910年に、ボストンの事務所からこのよう に書いている。「全体としてみると、諸教会の間には、日本における必 要性は他の地域のそれに比べて、それほど窮迫しているとは感じられな いと見る傾向がある。諸教会の考えでは、日本は名目は別として、実質 的にはキリスト教国なのであり、日本の教会はわれわれからの支援がな くてもその地位に到達できるのだということのようである46。」
十分な財政援助が外国からは来ないことが明らかになると、同志社は支 出の上昇に対応するため、学生数を増やさざるをえなくなった。授業料収 入は学校の高まっていく運営費をカバーし、教員の給料支払いに充てられ はしたが、学生数が拡大したことが圧力となって、諸設備は混み合い、教 員は労働過重となり、結局学問的水準の低下をもたらした。1913年におけ る学生数は、普通学校655人、文学科と政経科で194人、神学科で68人だっ た47。学生数が増加するにつれて、予算もまた膨れ上がった。1915年には同 志社の予算額は83,796円に達した。これは前年より約9,000円の上昇だった。
同年には大学の図書館と教室棟を建てて、教室の混雑を緩和する案ができ た。これらの建物はそれぞれ余分に12,000円と18,000円の出費であった48。 1916年の予算額は92,578円に引き上げられ、前年よりも約9,000円のアップ であった。1916年の同志社各学校の学生数は、女学校を含めて1,349人だ った49。1917年に学生数は1,662人に跳ね上がった。その内訳は普通学校720 人、大学予科297人、大学各部は神学校の70人を含めて316人、女学校329
人である。その年だけで同志社は562人の新入生を迎えた50。
同志社の学生数が増え、予算が拡大したことは、或る人々からは進歩の しるしとして歓迎されたが、他の人々はこの成り行きを同志社の精神と目 的の基本的なの弱体化と見做した。D.C.グローヴァーは1918年 1 月に、
同志社の現状にコメントして、このように書いている。
或る意味で、学生数のこのような増加は学校の名声が上がったことを示 すわけで、満足すべきことです。しかし私は、こんな短時間にこんなに 増加したことは不幸なことと見ます。なぜなら、キリスト教のやり方で は、これほど多数の新入生を同化し、影響を与えていくことは困難だか らです。・・・さらに言えば、教師と学生の関係は、学生数が多ければ 多いほど個人的な関係は希薄になり、教員が受け持ちの学生たちに感化 を与えることは一層難しくなります。この状況にいかに対処し、この学 生たちにいかにキリスト教的な影響を積極的に与えていくのかが、私に とって、大学が直面している最大の問題の一つです51。
こうした問題はやがて執行部に大型の困難を作りだしていき、それはつ いには原田社長の辞任と、同志社全体の大騒動をもたらすことになった。
1915年 1 月22日に、原田社長は同志社の理事会により、全員一致で次期 四年間の社長に再選された52。将来の見込みは実に明るいものであり、学生 数の増加、執行部と校友と教授会の間には緊張関係は存在せず、同志社の 財政がますます安定化していくことから来る幸福感が漂っていた。仙台の 東北学院に勤務していた改革派教会の宣教師 D.B. シュナイダー(D.B.
Schneider)は、1916年における日本のキリスト教学校の概況について、
次のように書いている。
・・・諸学校の設備は物質面では改善しつつある。学生数は増え、一層
確実なものになってきている。教師陣も一層効果を上げるようになった。
訓育も引き締まってきた。理想はより鮮明になり、諸学校のキリスト教 主義が現在ほど注目されたことはこれまでになかった。状況全体が希望 に満ちているように思われる。キリスト教教育は国民生活の中に場を獲 得し、その将来は保証されたかのようである。これまでになかったほど に、成就すべき偉大な使命の意識があり、その責任に答えるための決意 が見られる。・・・キリスト教教育に対する政府の態度はますます尊敬 と自信を得つつあり、政府側の寛容で友好的な態度はますます国策とし て確立しつつある53。
このようなキリスト教教育全般についての観察は、その年の同志社の状 況にも同様にあてはまる。H.B. ニューエル(H.B.Newell)は1916年 2 月の理事会について、このように書いている。「・・・討議に多くの時間 を必要とするような、特に重要な事は何も出なかった。・・・原田社長の 報告は各学科に関して非常に満足すべき状況を示している。・・・54」 同志社をめぐる表面上の静けさは、基本的な問題を隠蔽していたのであ り、その問題は1917年の夏に社長職に向って集中し始めた55。普通学校の教 頭だった波多野[培ます根ね56]は、原田社長が精神的指導性を然るべく発揮して いないとして、公然と批判した。学生の訓育と、「同志社における積極的 なキリスト教的理想57」の欠如は、直接的に原田の指導力の欠如に帰せられ た。学生たちの宗教生活を活性化するにはどうすればよいかを議するため に集まった、諸学校の教頭たちの会議において、波多野教頭は「同志社が 学生たちの信仰の状況にこれほど無関心な社長を有する限り、どんなこと をしても無益である」と発言した58。原田社長は次の集まりの時、発言を求 められて、彼の政策を弁護した。この会議において原田は「前の会議にお ける波多野氏の発言は自分には青天の霹靂だったこと、そして、自分はい かに同志社の宗教的、道徳的向上のために努力してきたかについて語っ
た59」。
社長に対するこの最初の公的な批判は、しばらくの間抑えられていた他 の批判の洪水を呼び起こした。批判は主として社長個人に集中し、時とし てきわめて強烈なものになった。彼に向けられた主な攻撃は、彼が「教 員・学生との関係において冷淡で思いやりがないことと、教頭たちや教授 会に表面的には問題を考えさせ、決めさせるものの、後ほどその決定を棚 上げして、あらかじめ自分で決めていたことを[行う]ということであっ た60」。原田はまた、うまく行った決定は自分の手柄にし、うまく行かなか った決定は教授会や教頭たちのせいにする、として非難された。他の人々 は、学校が社長を校内で絶えず必要としているのに、社長は公務のために しばしば長時間京都を留守にする、として攻撃した61。さらに他の人々は、
大学の各学科にみなぎっている不道徳な状況は、社長の指導力の欠如に起 因するとして責めた62。
原田社長に対する批判について、J.H.ペティーはこのようにコメント している。
まったく歯に衣を着せずに申しますが、原田博士は、個人的性格の面で すぐれた人であり、同志社外部のクリスチャン層、ノン・クリスチャン 層で高く尊敬されていますが、二、三の重要な機会に責任を取って悪を 矯め直す仕事に身を投じることができませんでした。その上彼は、日本 人が学園または運動の指導者に必須の性質と考える、完全に自己を制御 する力、人間としての暖かさ、そして指導力を欠いているのです63。
フランク・A.ロンバードもまた同じ時期に、原田社長の性格に関して 率直に書いている。
ここ12年間というもの、原田博士の仕事は容易ではありませんでした。
めざましい成功を収めたとはいえ、大きな犠牲を伴いました。社長が現 在受けている非難の中にはまったく子供じみたものもありますが、そう いう非難を脇に置くとしても、社長は生まれつき、そして恐らくこの年 月もまれ続けてきたため、強力かつ自信を持って執行する力を欠いてい ます。つまり自分の責任を背負い、同時に部下それぞれに明確に義務と 責任を課して干渉しないでおく、ということができません。それで結局
[部下]個人の権威を否定するように見えます。彼はまた同労者たちを 鼓吹し、彼らの忠誠心を引き出す力がありません64。
1917年 9 月に、こうした非難に対処するため臨時の理事会が開催された。
その理事会において原田社長は、1918年 1 月の定例の理事会で承認を受け るという理解の下に辞表を提出した65。1917年 9 月と1918年 1 月の理事会の 間に、理事たちは原田社長の辞任問題について同志社のさまざまの層から 意見の一斉射撃を受けた。ボードを代表する三人の理事の一人である H.
B. ニューエルは、彼が「長さが約 8 ないし10ヤードになるくらい、この 種の文書を受け取ったが、事実上そのすべてが・・・原田社長留任の意見 を表明していた」と書いている66。
原田社長への反対論にはいくつかの根源があった。学園自体からは三人 の役職者と若干名の教授会メンバーが原田社長の指導性を公然と批判した。
その三人とは中学[普通学校は1916年 4 月 1 日から同志社中学と改称し た]の波多野教頭、女学校の水崎校長、神学校の日野教頭だった67。理事の 間では意見は真っ二つに分かれ、五人の日本人理事が社長に公然と反対し、
他の理事は慎重に意見を保留した。組合教会の内部からは、原田に対する 反対論は小崎弘道に率いられる東京の諸教会から先ず挙がった。宮川経輝 もまた原田には反対だった。ただし彼にしても小崎にしても、1917年秋の 段階では原田の執行部に対して公的な声明を出したわけではなかった68。 1918年 1 月11日に開かれた理事会には二十人のうち十七人の理事が出席
した。この決定的な理事会に出席したのは青木[要吉]、原田、川本[恂 蔵]、小崎、牧野[虎次]、松本[亦太郎]、宮川、水崎、村井[貞之助]、
中村[栄助]、ニューエル、西尾[幸太郎]、大沢[徳太郎]、ペドリー、
ペティー、高木[貞衛]、湯浅[治郎]だった。二人の監事、近藤[賢二]
と尾崎[保]も出席していた。欠席理事は古谷[久綱]、村山[令蔵]と 徳富だった69。
原田社長退席ののち、小崎弘道が議長席に着き、先ず理事であり東京大 学教授である松本教授が、社長の留任に賛成する演説をした。彼は原田社 長が留任すべき理由を次のように述べた。
社長は行政家として貴重な経験を積み重ね、教育家として令名高く、教 育界のみならず政界、経済界でも受けがよく、海外でも・・・教育と宗 教の関係者間に好評を博している人です70。
このあと賛否両論のスピーチが続いた。理事たちは、社長には訓育の面 で多少の緩みがあり、学園を然るべく管理するという点で多少の失敗があ ったとはいえ、
結局のところ、全般的な感じとしては・・・「特段の瑕疵」があったわ けではなく、学園のハード面の発展が必然的に社長に押し付ける重荷 は・・・この時期に差し出された過激な提案よりはむしろ・・・[社長 に対する]共感と、より密接な協力をこそ呼び起こすものである71。
としたのであった。十一対六の票決で社長に辞意の撤回を求めることにな り、原田に決心を促すため理事会は翌日まで休会に入った。社長に反対の 投票をしたのは東京の青木、古谷、小崎、湯浅と、京都の牧野、水崎だっ た。ミッションを代表する三理事を含む残りの理事たちは多数派だった72。
投票結果が告知されるとただちに水崎、湯浅、古谷、徳富の四理事は理事 会に辞意を伝えた(古谷と徳富は代理を通して73)。
1 月11日の朝、原田社長が辞意を撤回すると、ただちにもう一人の理事 である青木と、監事の近藤が辞表を出した。こうした離反に続き、二人の 教頭(理事兼女学校校長だった水崎以外に)、すなわち中学の波多野教頭 と、神学科の日野教頭が辞表を出した74。辞任した理事や教員に復帰して学 園の運営に協力してもらうための努力がなされたが、受け入れたのは日野 教頭だけであった。しかしその日野も、1918年 4 月の新学期の開始時に辞 任することになった75。
1 月11日の午後[理事会の]決定を報告するための集会が開かれ、社長 は任期の残りの期間、同志社の長としての役割をどのような条件の下で果 たしていくつもりであるかについて述べた。原田社長はその集会で三つの 提案をした。
一、同志社のキリスト教的基盤は学園内の各部門に共通のものとして理 解されるべきこと。そして学園の道徳的・精神的条件を改善するために 努力が傾注されるべきこと。
二、[同志社の]憲法を改定するために委員会[制度調査委員会]が任 命され、規則に基づき様々な役職の義務をより正確に規定すべきこと。
三、学園の現状に満足することなく、より大きく、よりすぐれた学園へ の成長、特に大学の各部門の成長に向って努力すること76。
ニューエルとペティーとペドリーは「同志社が順風満帆でやっていける 日はすぐそこまで来ており、事実上、潜水艦攻撃にさらされることはな い77」という希望を抱いて京都を去ったが、提起された問題が解決から程遠 いことがやがて明らかになった。また三人の宣教師である理事たちは、彼 らの票が問題のカギとならなかったことに満足していた。日本人理事の票
は八対六で、宣教師の三票が加わって十一票の多数に押し上げた78。この紛 争へのミッションの巻き込まれ方は、二十年前の同志社危機のときの介入 とは遥かに異なるものであった。
学園の内的管理と、学生層の鎮静化にかかわる危機全体のより深刻な部 分は、理事会が決断を下し原田社長が辞意を撤回した後に解決されること になっていた。中学の波多野教頭は、「理事会の結果に不満であるからで はないが、社長に対する強い批判、殊に多数の大学生に対する社長[の態 度]についての以前からの批判を抑えることが極めて困難であるため79」職 を辞さざるを得ないと感じた。波多野教頭は自説を公にして社長を批判し た最初の人であり、その批判の主旨は社長が大学の道徳的状況を堕落する にまかせたという点にあったので、学生たちはこれを自分たちの性格に対 する攻撃と見做した。学生たちは悪く言われた反動として原田の留任を求 めて騒ぎ立て、学生に対する非難をもたらしたと考えられる教授たちすべ てに反対した80。三人の教頭に加えて数人の古参教員も辞職した。オーティ ス・ケーリはこのように記している。
学生たちは他の連中にも同様のことをさせようとしていますが、それは、
彼ら[辞表を出した教員たち]に反対してとか、要求があれば辞表を撤 回させるにやぶさかでない、ということよりもむしろ、負けた側に同情 する者は少なくともハラキリをすべきだという、日本的思考に基づいて のことです・・・81
宣教師である教員たちは波多野教頭を失ったことをあまり嘆いていない。
D.W.ラーネッドは J.L.バートン宛の手紙の中で、波多野には欠点がな かったわけではないし、きわめてピューリタン的な性格の人だと述べてい る82。フランク・ロンバードは「個人的には私は彼が去ったことを惜しんで いません。彼は善人ではありますが、とても偏狭でした」と書いている83。
水崎校長と日野教頭の辞任は、より大きな損失と感じられた。水崎校長は 同志社の維持基金を集めるために非常な努力をした指導者だった。教授会 の一員でありながら同時に理事でもある唯一の人として、彼は女学校の再 建のために偉大な貢献をした。ロンバードによれば彼の辞任は学校にとっ て甚だしい痛手ではあるが、「しかし彼の地位からすれば、控え目に言っ ても、社長と同様、効果を挙げることはできません。両者が共に仕事を続 けることは不可能でした84」。同志社にとって最大の損失は神学科の日野教 頭の辞任だった。ロンバードは日野について「強い人で、有能な学者であ り、多くの面で理想的な教頭85」だったと書いている。彼の辞表は最初 1 月 11日に提出されたが、のちほど、神学科と社長の間の調停者として理事会 が特別委員会(顔ぶれは宮川、中村、今泉[真幸]、ペドリー、ニューエ ル)を任命するという理解の下に、理事会の要請によって辞表は撤回され た。辞表は後に再提出され、彼は神学科から身を引いた。神学科のための 特別委員会が任命され、神学科は社長の統括から外される、と日野は理解 していた。そのような解釈を理事たちも社長も認めることができないとわ かったとき、日野教頭は再度辞任したのである。辞任後彼はその危機に関 する解釈を新聞に公表した。そうすることによって、理事会はもはや彼を 復職させることは不可能になったし、彼も辞表を取り下げることができな くなった86。D.W.ラーネッドは「・・・日野氏の退去は神学科にとって大 損失でした・・・」と書いている87。
1918年 1 月から 3 月末の最後の学期は同志社にとって大変な緊張と不安 の時期だった。理事や教員たちの多大なエネルギーは、日野教頭に加えて、
数人の有能な教授の辞任によって生じた空席を補充すべき新教員の確保に 費やされた。女学校では水崎校長の辞任後、中瀬古六郎が校長職を引き継 いだ88。神学科では教頭職は芦田[慶治]教授とシマハラ教授[当時シマハ ラという教授が存在したことは確認できない─訳者]の二人から成る委員 会に置かれた。これは理想的な処置とは思われなかったが、「彼[日野]
に代わるべき適任者89」がいない以上は、この解決しかないと考えられた。
神学校が日野教頭を失ったことは一人の役職者を失っただけではなかった。
1913年に S.L.ギューリックが退職して以来、日野教頭は組織神学担当の 責任者だった。彼の学識なしには神学校として大いに欠陥ありとされた。
ラーネッドはこの問題に関して「どうやら私たちは当分の間、神学なしの 神学校を運営していかなくてはならないようです90」と書いている。そして 皮肉をこめて「多分それはさほど悪いことではないかもしれません・・・」
と述べた91。
新学年が始まっても緊張はやわらぐことがなかった。学生たちは、原田 社長が大学の各部門に不道徳な状況を放置しているとして非難されたこと にいきり立ち、社長を擁護するために糾合した。彼らは原田支持のパンフ レットを発行し、さまざまな新聞に投書した。こうした文書や社説などは あたかも、宣教師たちとピューリタン的な日本人クリスチャンたちが原田 社長を追い出して、同志社を偏狭な教派的学校にしようとしているかのよ うな印象を与えた92。新聞等の主張93とは逆に、ミッションは全体として原田 に同情的だった。個々の宣教師の中には彼に辞任を促した者もあったが、
その動機は新聞等が読者に信じさせようとしていた理由とは別物だった。
オーティス・ケーリは原田との会話の中で辞任を奨めた一人だったが、こ のように書いている。
私は友好的な雰囲気の中で彼と会い、すでに表明されていた辞意を押し 通すようにと忠告した、と言ってもよいと思います。私としては彼がい ずれ最後にはそうしなければならないのだし、いま辞職すれば同志社の ほとんどすべての友人たちの善意を受けつつ立ち去ることができる。ま たそれが支援者たちの間に生じた分裂から学園を守ることになると感じ たからです94。
組合教会の内部では原田に対する反対論が強かった。小崎弘道と、組合 教会の総幹事である牧野虎次は、1918年 1 月の理事会で社長継続に反対の 票を投じた。宮川経輝は理事会の多数派と共に賛成票を投じたが、日野教 頭の辞任後には、神学科の運営に協力することによって社長を支援するこ とをしなかった。1918年 4 月に新学期が始まると、原田社長は反対論を切 り抜け、社長職に無期限に留まる様相となっていくと、組合教会内の反対 派は彼を引きずり下ろすために他の手段を探し始めた。
ここ数年間というもの、組合系の第二の神学校の必要性が高まりつつあ った。組合派は特に東京地域で強くなり、その地域には影響力の強い大教 会が多くあった。組合教会の神学的中心は京都であったから、東京の牧師 たちは関東地域における教育機会の必要性は大きいのに、それが無視され ていると感じていた。この必要性は1918年の春と夏にかけて組合教会内で 喧伝されたが、それは第二の神学校設立への関心を掻き立てるためだけで なく、社長の辞任を強制するという、こうした指導者たちの真の動機をカ ムフラージュするためのものであった。やがて組合教会内には、東京に第 二の神学校をぜひとも設立せよという強い運動が起こった。この計画を背 後から動かしていた黒幕は小崎と宮川だった。
組合教会の内部の政治的動きはアメリカン・ボードの若い宣教師の一人 が明確に把握していた。オーティス・ケーリの息子であるフランク・ケー リは1916年にアメリカン・ボード宣教師として日本に戻ってきた。彼は原 田社長をめぐる危機の時代には、北海道の札幌に配置されていた。しかし 彼は当時の問題について十分に情報を得ており、小崎弘道と宮川経輝の動 機についてイーノック・ベルあて痛烈な手紙を書いている。
・・・彼[原田]はそれほど長く[社長]職にとどまるという点で異常 なことをしたのです。それは日本では滅多に起こらないことです。小崎 は恐らく原田よりも有能でしょうが、[1896年に]社長職から締め出さ
れました。宮川は政府の影響力とそれが彼にもたらす国外での名声の故 に、社長職を欲しがっていたといえるかもしれません。・・・原田を追 い出そうとする努力の途中どこかで歯車の歯が一本抜け落ちたため、原 田は留任しています。今や原田を追い落とす方法は、ライバル校を立ち 上げ、同志社への財政支援を分割することです。平岡夫人(大阪の組合 教会の信徒の指導者)が学校─先ずは日野を校長とする神学校です─を 立ち上げるよう説得されていると聞きます。小崎はその学校を東京に獲 得しようと懸命です。組合教会系の第二の学校が立ち上げられるとすれ ば、東京こそが本当にそれを必要とします。宮川はその学校は大阪であ るべきだと主張しています。私の想像では、すべては妥協を迫るもので、
そのため原田が辞任し、臨時の態勢が介入し、そして然るべき時が経つ と窮状を救うために宮川が入りこむというもので、この窮状は宮川にと って大いに有難いものです。・・・95
フランク・ケーリはイーノック・ベル宛の長い手紙の中で、なぜ原田と 組合教会の指導者たちの間に反感が生じたのか、その微妙な理由について さらに詳しく記している。
クリスチャンの仲間うちに、こんないやらしい政治闘争があるとは思い もよりませんでした。あなたを激励することになるのか、多分失望させ ることになるでしょうが、それは組合教会の政治に限られるものではな いと言わざるを得ません。宮川にとって、あの偉大な植村[正久]は、
クリスチャン仲間での親分の典型なのです。・・・東京の或る長老派の 牧師が植村を立腹させたことがありますが、彼は謝ろうとしませんでし た。その結果植村は彼を教会から追い出しました。牧師は格下げされた あげく、とうとう家族を養うために教会を去って実業に就かざるを得な くなりました。植村についてこの話をしてくれた人は、日本人にとって
それは何ら悪いことではない、と主張しました。それは継承されてきた 封建制度の中にすっかり組み込まれているのです。弟子、または将来弟 子となるかもしれない人を助けることは、他人に対する不正義を我慢す ることよりも価値があります。いったん獲得した権力は、使うためのも のです。・・・
これまで述べたことのどれくらいが真の予言で、どれくらいがゴシップ に過ぎないのか、よくわかりません。こうした事実を把握することは容 易ではないのです。教会は二、三人の葬式を必要としている─これだけ が今言えることです96。
この手紙を書いて間もなく、フランク・ケーリはイーノック・ベル宛に もう一通を書いた。それには同志社の危機と原田社長に対する組合教会の 反対に関する適切な「ゴシップ」が含まれている。
・・・同志社で理事たちが原田に与えた完全な支持にもかかわらず、宮 川と小崎は頭皮を削ぐためのナイフを持って出掛けましたので、原田の 頭皮は削がれてしまうに違いありません。最近の理事会以降に小崎は原 田を非難する文章をあらゆる教派の牧師たちに送りました。その結果は、
私がこの前の日曜の晩に、歴史的な札幌教会で聞いたことが、この国で 行われている唯一の例であろう、ということです。牧師は「あなたがた は、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。」[マタイ福音書 11:7]という聖句を選び、そこから「確信を抱いて立つ」という題で説 教しました。彼は熊本バンドを主な例として用い、その説教の中で新島 と原田を比較しました、原田に悪い点をつけながら。攻撃の矛先は道徳 の欠陥ではなくて、クリスチャンの勲章であるべき、心の暖かさの欠如 に向けられました。
宮川の力の源が何であるかは、私にとって新発見でしたが、それはあな たが過去において、または[1918年の]代表団の一員として発見された ことだったのかもしれません。それは親分・子分の原理に基づくもので す。ここ何年もの間に宮川は人々に好意を示してきました。結果として 日本の慣習は彼を世論の指導者たらしめたのです。・・・このようにし て彼は自分に従う者の集団を作り上げました。それにはよい面が沢山あ るのですが、それはタマニー協会[十八世紀末にニュー・ヨーク市で結 成された民主党の政治団体で、政治ボスによる支配を続けた]の場合で も同じことです。全体から見ると彼は沢山金を使いました。若者たちが 先輩指導者によって生み出され、彼らが「より良い」教会等に送られた のは良いことでした。しかし日本の親分制度は対抗者を許しません。対 抗する者は引きずり降ろさねばなりません。原田は同志社であまりに成 功したので、宮川や小崎(小崎の親分ぶりは宮川に次ぐものです)を喜 ばすことができなかったのです。・・・97
第二の神学校を設立する提案は1918年 9 月に、小崎と宮川によって公に された。10月 8 日にミッションの幹事だったヒルトン・ペドリーは組合教 会の指導者たちに招かれ、新しい学校がアメリカン・ボードの支持を得ら れるかどうかを協議した。ペドリーはミッションの有力な宣教師数人に手 紙を書き、提案された神学校のことを説明して支持を訴えた。
・・・二人の牧師は次のように述べました。
多数の同志社卒業生はもう一つの神学校と、多分中学校を設立する問題 を深刻に考えています。この目的のために、すでに二十万円の提供が事 実上約束されています。同志社の有力なクリスチャン教員や著名な理事 を引き留めることができなかったにもかかわらず、原田博士を同志社総