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同志社ハリス理化学校の設立

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同志社ハリス理化学校の設立

著者 森 一郎

雑誌名 新島研究

号 110

ページ 37‑46

発行年 2019‑02‑12

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000616

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企画報告

同志社ハリス理化学校の設立

森 一 郎

本日、「カレッジとユニバーシティ−新島襄の私立大学構想−」のタイト ルで発表してくださる大越哲仁氏は2015年『新島研究』106号で『同志社 ハリス理化学校設立次第』のタイトルで詳しく述べておられます。また、大 鉢忠先生も『人間のための科学技術を求めて──同志社大学理工学部の70 年』の編集でハリス理化学校に関してよくご存知です。私が適切であるかど うかは疑問です。

(1)新島の大学設立の意思

新島が1888(明治21)年に「同志社大学設立の旨意」を世に発表して今

年は130年記念の年、新島は1875(明治8)年11月私塾開業の公許を得、

直ちに同志社英学校を開校し、「独り普通の英学を教授するのみならず、・

・・・所謂良心を手腕に運用するの人物を出さんことを勉めたりき」1)、と 良心教育をもって教育に身を投じた。同志社は開校以来10数年、同志社英 学校、同志社神学校、同志社予備校、同志社女学校、同志社病院と付属する 看病婦学校と発展してきた。ここにきて、新島は「今日に於て此の普通学科 の上に専門学科を設くるは、是れ実に止むを得ざるの勢いなり・・・・今日 は最早大学を設立せざる可からざるの場合に達したり」2)との思いで、「吾人 は政府の手に於て設立したる大学の実に有益なるを疑はず、然れども人民の 手に拠って設立する大学の、実に大なる感化を国民に及ほすことを信ず、」3)

と「同志社大学設立の旨意」を世に発表した。

新島の大学設立の願いはここに始まったのではなく、1882(明治15)年 11月には「同志社大学設立之主意之骨案」があり、その中で考えている設

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置希望の学部は「先ツ三部ヲ設ケ布イテ諸学科ニ及フベシ・・・・宗教兼哲 学(当分便宜ノ為哲学ヲ宗教部ニ合併ス)医学、法学ナリ、・・・・只資力 ノ速ニ及ハ〔サ〕ルヲ憂ヒ少シク之〔理学、文学〕ヲ遅延セシムルノミ」4)

と先ず神学または宗教、医学、法学と考えていたようである。

1884(明治17)年5月の『明治専門学校設立旨趣』では「先ヅ文学専門

部ヲ設立シ、歴史、哲学、政事、経済等ノ諸科ヲ連帯セシメ、漸次整頓ノ序 ヲ逐ヒ法理医学部等ニ及ボサントスルノ」5)と資金上の問題か医学や理学は 後回しになっている。

今回のテーマである「同志社大学設立の旨意」では「神学科の外に於て、

政事、経済、哲学、文学、法学等に在り、若し是等の諸学科を一時に設置す ること能はずんば、漸次に其最も実行し得易き者よりして設置せんと欲 す」6)とあるように医学部、理学部は表記されず、「等」で処理されている。

後でも述べるが、新島宛のD. W. Learnedの書簡(1889年2月28日)か らわかるが、Learnedはおそらくこの「同志社大学設立の旨意」の翻訳した ものをJ. N. Harrisに送ったと思われる。此頃からHarrisの寄附の問題が起 こり始め、にわかに理科系学部の設立の話が起こってくる。

丁度この時期、米国に帰国していたD. C. Greeneからの新島宛の書簡

(1889年2月11日)には「Harrisは学校に対してもっと〔寄附を〕してく れるだろう。計画をLearnedやDavis等に相談するべきである。そうすれば Harrisに伝わるだろう。あなたが起草した大学の趣意書(your prospectus for the University)の 中 に、理 学 部(Science Dept.)の 計 画 を 示 す べ き で あ る。」7)との示唆を受けている(英文書簡の日本語訳は筆者による。以下同 じ)。これを受けて1889(明治22)年8月の『大学設立主旨』には「世人ハ 我同志社を評して只宗教主義の学校にして只伝道師を養成するのみと云う。

・・・・吾人ハ此の一科を以て足れりとせず、此より進みて文学、法学、理 学、医学等の諸学科を置き」8)とはっきり理学部の設置の意思が示されてい る。

また、1889(明治22)年4月10日の日付の『同志社大学設立の大意』に も「抑も普通大学の目的たるや高等の学術を教授し即ち政治法律文学理学工 学医学の専門を置き社会万般の事業に適用する有為の人物を養成するに在る

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なり、」9)とある。

(2)J. N. Harris はなぜ同志社に寄付したか

同志社のために十万ドルもの大金を寄付してくれたHarrisはコネティカ ット州ニューロンドンの第二会衆派教会の役員を務める非常に熱心なキリス ト教徒であった。教会のために牧師館・カーペット・パイプオルガン等多く の寄附をしている。一方ニューロンドンにハリス病院を建て市民に開放する 等、人のためには事業で得た財をおしみなく提供している。また、アメリカ ン・ボードの理事にもなっておりA. Hardyとも知己で海外伝道に関心を寄 せていたようである。人のために役立ちたいという気持ちが強く、寄附も比 較的簡単に決意しているように思えるが、下村孝太郎──同志社では最も

Harrisをよく知っている人物であろう──によると寄附については非常にシ

ビヤーであったようである。下村孝太郎の「波里須理化学校設立の始末」

──この文章の発刊は1890(明治23)年9月30日でハリス理化学校の授業 開始は同年9月29日、下村の新鮮な気持ちが表れていると思われる。──

には、「此人固より老練の実業家なり一文の錢も空中に投すべからず最も當 りの烈しき所を目的に我手を離すなるべし・・・・新倫敦はニューヘーウン に近接せり當時エール大學大に資本の募集を企て波里須氏に促りしこと數回 に及びたりしを氏ハ度毎に堅く辭し其他内國の有志家より五月蠅き迄に申込 まれたりしも更に應ずるの傾向なかりき故に一朝新倫敦の波里須氏日本の爲 め大金を投じて教育の盛大を計れりとの風聞世に公なるや米國の人は大に驚 けり」10)とあり、決して安易に寄附をする人物でなかったことがわかる。

このHarrisと、同志社あるいは新島との接点は「1888(明治21)年春、

新島の希望を知っていたラーネッド教授がこれをコネティカット州在住の母 堂に伝えたところ、母堂からニュー・ロンドンのハリス氏に談合してはとい う 注 意 が あ っ た。」11)と あ る よ う にLearnedの 母 堂 の 紹 介 で あ る。ま た、

Learnedの『回想録』12)にもそのことは記されている。LearnedはHarrisに手 紙を書いたようで、その返事の内容をLearnedは新島宛の書簡(1889年2 月28日)に「私は『大学についての請願書』(plea for the University)の翻 同志社ハリス理化学校の設立

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訳のコピーを一人の紳士に送りました。その人は新しいScience Hallの為に

私たちに15,000ドルを与えてくれます。彼はそれについて非常に関心を持

っていました。いろいろ仕事について聞きました。そして彼はニューロンド ンにDr. Greeneを招いて彼と長く話をしました。」13)と記している。

このように、Harrisが同志社に寄附を考えている時に、同志社に宣教師と して派遣されていたGreeneがアメリカに帰国中であったので、Harrisは

Greeneを招き「愚老此頃同志社に少々の寄附金を致さんと欲す就きては現

在同志社學校に於て最も欠点とも申すべき者は何なるやと問われたればグリ ーン氏答へて現在同志社に於て最も欠点と云うべき者は理學上の敎育なりと 申されたり」14)と下村孝太郎は「波里須理化學校設立の始末」の中で書いて いる。このGreeneとの話し合いが、寄附金の使用途を理科教育の為に使用 してほしいとの考えにつながっている。更にLearnedは新島宛書簡(1889 年2月28日)の中で「彼は大学に対してかなりのものをしたいとの願いに なった。彼は死ぬまでにもっと多く〔寄附〕をしたく、50,000ドルの申し出 を暗示しました。彼は金持ちで子どもがいません。明確な約束ではないが覚 えておく価値はあります。彼は大学に自分の名前を採って命名したいよう で、50,000ドルの約束はそれが条件である。大学の名前を同志社からHarris に変更することは不可能だが、彼の贈り物が科学分野に使われることから、

イエールのシェフィールド科学学校と呼ばれるのと同じように、同志社のハ リス科学学校と呼ばれるという提案が出来る。」15)と新島に述べている。新島 がこれに同意したことが1889年3月4日付Learnedの新島宛書簡16)からわ かる。さらにLearnedは新島にHarrisへの謝礼の手紙を出すように促して いる。

Harrisに招かれたGreeneとの話の結果は下村の「波里須理化学校設立の

始末」によるとGreeneはHarris邸に泊まったようで翌朝に「昨日は同志社 に寄附する金額二萬弗位なりしか迚もの事に之に尙八万弗を加えて十万弗と なさんと思へり之を基本として理科大學を創立せんと欲するなり」17)と Greeneとの話し合いで10万ドルというのが決まった。Greeneは1889年4 月27日付新島宛書簡で此の10万ドルと云う寄付金額を連絡している。この 後現地アメリカでは設立準備の為の委員に、Greene、H. T. Fuller(下村が学

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んだウースター工科大学長)、下村の3名が選ばれ、Harrisと話し合ってい る。

Harrisの日本人に対する感覚には、1889年7月8日付同志社理事 会 宛

Harris書簡から、特別なものがあったと思われる。「日本の若者が教育を受

ける為に来ているが自分が知っている限りでは気質・能力も好評で彼等の多 くは真面目なクリスチャンになっている」18)。また、下村が講義中に語った

Harrisの思い出で波多野培根の文に「日本人は忘れず思わざる時に昔日の恩

を報するの風あり、余は智慧あるものを好み、才能あるものを愛す、日本の 学生此の国来る者勉強心甚た盛んにして何れの学校にてにても日本学生の地 位高し」19)。この日本人学生とは新島襄であり、下村孝太郎であろう。

下村はハリス理化学校の設立準備ではHarrisと何度も接触しているが、

その時に「私の人格(personarity)がMr. Harrisの素晴らしい贈り物と関係 があることはちっとも知らなかった。」20)と新島宛書簡(1889年5月20日)

に書いている。加えてHarrisは授かった8人の子息をすべて自分より先に 送ったことである。「彼等は不幸にして先立ち逝いた。彼等の教育費にと用 意したものを、その儘、同志社に寄附し、日本學生の科學敎育に供する次第 だ。君等は我が微志にそうて盡力して貰いたい」21)と記している。これらが 連携してハリスの同志社への10万ドルもの多額の寄附になり、同志社ハリ ス理化学校の開校となったのである。

(3)ハリス理化学校の設立

a)他大学に見る理系学部の発足状況

ハリス理化学校は実質授業を1890(明治23)年9月29日に開始してい る。そして翌1891(明治24)年4月7日に開校式を行った。発足当時この ような理科系の大学レベルの専門教育をしていたのは官立の東京大学のみ で、私立の学校としては同志社ハリス理化学校が最初である。

東京大学は1877(明治10)年に理学、法学、文学、医学で出発、一方

1878(明治11)年に工部大学校が8分野で開校しているが、1886(明治19)

年には両者が合併されて東京帝国大学となる。この大学のみが先行して理科 同志社ハリス理化学校の設立

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系の大学教育がなされていた。

京都帝国大学は1897(明治30)年6月開校、理工学部は7分野で発足し た。

1876(明治9)年開校のW. S. Clarkが関係した札幌農学校は、1907(明

治40)年に東北帝国大学農科大学となり、北海道帝国大学になったのは

1918(大正7)年である。この時は医学部が併設されたのみである。工学部

は1924(大正13)年で6分野である。

一方私学では、1858(安政5)開塾の慶応義塾は1917(大正6)年に医学 科、1939(昭和14)年に藤原工業大学として開校、この時は3分野である。

1882(明治15)年東京専門学校として出発した早稲田大学は1909(明治

42)年に理工科4分野を設置している。

また、1870(明治3)年京都府の産業奨励政策で明石博高に依る「舎密 局」は「礦物薬剤飲料等ヲ製錬シセイトヲ集メ理化ノ学ヲ講究シ毒物薬品及 舶来飲食ノ類を検明ス」22)るを事業内容とした。陶磁器や石鹸製造の指導等 で高等教育機関ではなく、成績が上がらず1884(明治17)年頃には閉鎖さ れていた。

こうして見るとハリス理化学校は 理科系の専門分野の中では化学分野の みで、対象とするべき広く多くの分野のなかでごく一部の分野ではあるが、

いち早く化学専門に特化した大学として出発している。残念ながら1897

(明治30)年廃校となったが、それまでに22名の立派な卒業生を出してい

る。

b)「同志社ハリス理化学校設立ノ趣旨」

新島はハリス理化学校の開校を見ることなく1890(明治23)年1月23日 大磯で亡くなったが、その直前、下村孝太郎は金森通倫と共に1月9日百足 屋に新島を見舞い、一泊している。色々と理化学校のことについて話があっ たことと思われる。後を託された下村孝太郎は1890(明治23)年7月にこ の「同志社ハリス理化学校設立ノ趣旨」を発表している。

その内容は下村の米国留学で学んだことを基に、時代を先取りした教育の 方法や、同志社ならではの教育方針がその中に示されている。

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下村は米国に留学する前からドイツには関心があったようでドイツの隆盛 に習って大学を考えていることが最初に示されている。「近世独乙ノ強大ナ ルハ其ノ大学ノ盛ナルニ由ル而シテ数十ノ大学ニ於テ最モ盛ニ奨励スルモノ ハ物質上ノ学術即チ世ニ所謂理学是レナリ物理ト云ヒ生理ト云ヒ化学ト云ヒ 都テ万国ニ超越シタルハ世人ノヨク知ル所ニシテ此三種ノ学術ヲ応用シテ国 利ヲ起シタルコト少ナカラズ」23)

海外留学を通して広く世界を理解する姿勢を得て、下村は日本の国情を正 しく理解している。「我ガ日本ハ小国ナリ而シテ其人民多キニ過グ国土既ニ 限リアリ農業ヲ以テ立ツ可キニアラズ工業ヲ盛ニシテ行末以テ工業国民トナ ル可キノ必要アリ然ラバ工業ノ基本タル理学ヲ盛ニシテ日本ノ子弟ニ理学上 ノ教育ヲ授クルハ最モ欠ク可カラザル所ナリ・・・・理学的ノ教育ニ依リテ 得ル者第一観察力、第二運手力、第三推理力、此三者ヲ養フモノ即チ理学ノ 教育上ニ特有スル所タリ」24)

同志社だからこそできる理学教育の内容について、単に知識・技術を身に つける理科系の教育だけではないと述べている。「我国ハ早晩工業ヲ盛ニセ ザレハ其隆盛期ス可カラズ是ヲ思ヘハ技師ヲ続々世ニ出スコト甚タ必要ナリ 而シテ此ノ技師タルヤ技量ヲ要スル固ヨリ明カナリト雖トモ其道徳亦欠ク可 ラズ・・・・技師タル者必ラスズシモ一匹ノ動物ノミト云フ可カラズ必ラズ シモ一個ノ器械ト見做スベキニアラズ智力アリテ事物ヲ新ニ研察シ手能アリ テ技術ヲ謬ラズ道徳アリテ不正ヲ致サヾル信用アル技師コソ是レ現今日本国 ノ必要ナレ 同志社カ智得並行ノ教育主義ヲ以テ世ニ立ツハ普ク人ノ知ル 所ナリ同志社ノ目的啻ニ普通教育ニ止マラズ弘ク専門ノ学ヲ授ケントスル亦 タ人ノ知ル所ナリ」25)

c)ハリス理化学校の内容

1890(明治23)年7月の「同志社ハリス理化学校略則」にはHarrisの意

図を汲んで「日本ニ於テ基督教ノ徳育ヲ奨励シ最モ善良ナル理学ノ教育ヲ授 ンカ為日本京都同志社ニ金十万弗ヲ寄附スルモノナリ 此理化専門校ハ現 今同志社ノ普通学校ニ連帯シ其ノ教育ヲ完備シ将来同志社大学ノ一部トナル 可キモノニシテ之ヲハリス理化学校ト称ス其目的ハ普通校ノ卒業生及之ニ合 同志社ハリス理化学校の設立

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格シタル学力ヲ有スル者ノ希望ニ応シ純正及ヒ応用ノ理学ヲ専修セシムルニ アリ」26)とある

学科規程27)

┌─化学兼生理学ノ専門科

┌─純正部門───┤│

│ │

│ └─化学兼物理学ノ専門科 ハリス理化学校──┤│

││ ┌─陶磁器ノ専門科

│ │

└─応用部門───┤

│└─染工ノ専門科

の構成で、当初は純正部門の化学兼生理学と応用部門の陶磁器で始められ た。

当時の学科課程表28)を見ていると自然科学系の科目がほとんどでそれ以外 の科目は、予備科1年が英語、本科1・2・3年は独語のみである。無機化 学、物理学、有機化学、生理学、定性分析、定量分析などで、当時として特 徴的と思われるのは実習の時間の多さである。定性分析、定量分析は実験実 習で、予科で一週20時間中5時間、本科1年は23時間中10時間、2年は 27時間中15時間、3年は19時間中10時間である。口述も必要ではあるが 実習を重要視した学科課程を組んでいるところに特徴がある。半分からそれ 以上が実験実習である。

ついでながら、1893(明治26)年6月には応用部門に薬学を設置してい る。また同年10月には検査部を設け、①.衛生的検査、②.化学及工業的 検査、③.裁判的検査、④.製薬及化学工業ニ関スル商議の4項目に対応で きる体制を取っている。

同志社ハリス理化学校は理系学部と言っても化学を中心という非常に限ら れた分野であって、官立の大学に比べればごく一部である。しかし、その内 容は下村がジョンンズ・ホプキンス大学の著名な有機化学者I. Remsen から 薫陶を受けていることからも最先端の化学を扱っていたはずであり、新島が 目指した同志社大学の理科系学部の一部を形成していたと言える。

(10)

1)新島襄全集編集委員会『新島襄全集』1巻(同朋舎出版、1983年)、p.130 2)同上、p.135

3)同上、p.137 4)同上、pp.28-30 5)同上、pp.98-99 6)同上、p.139

7)同志社大学人文科学研究所『新島襄宛英文書簡 集(未 定 稿)』(3)(2007年)、

p.646

8)新島襄全集編集委員会、p.151

9)太田雅夫『新島襄とその周辺』(青山社、2007年)、p.148

10)下村孝太郎「波里須理化学校設立ノ始末」、『同志社文学会雑誌』35(同志社文学 会、1890年9月30日)、pp.25-26

11)同志社『同志社百年史』通史編1(同志社、1979年)、p.372 12)ラーネッド『回想録』(同志社、1983年)、p.14

13)同志社大学人文科学研究所、p.658-659 14)下村、p.25

15)同志社人文科学研究所、p.659

同志社ハリス理化学校の設立

(11)

16)同上p.662 17)下村、p.26

18)同志社大学人文科学研究所、p.709

19)「下村孝太郎氏の実話」同志社大学社史資料センター所蔵 20)同志社大学人文科学研究所、p.695

21)牧野虎次「ハリス氏特志の動機」、『同志社工学会誌』1巻2号(同志社工学会、

1951年3月)、p.10

22)京都市編『京都の歴史 7維新の激動』(学芸書林、1974年)、p.560 23)同志社『同志社百年史』資料編1(同志社、1979年)、p.444 24)同上、p.445

25)同上、p.445 26)同上、p.446 27)同上、p.447 28)同上、pp.452-454

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