論 説
英領マラヤにおける
マレー人概念の土着化
スランゴル州における
マレー人エリート層の形成
坪 井 祐 司
は じ め に
本論は、 第二次世界大戦までの英領マラヤ(1)におけるマレー人 行政官の養成政策に焦点をあて、 植民地行政という視角からマレー 人という集団概念の形成過程を再検討するものである。
多民族社会であるマレーシアにおいて、 その主要な構成員である
「マレー人 ( )」 という概念の成立過程は主要な研究課題であ る。 マレー人およびその原語であるムラユ ( ) という集団概 念をめぐっては自称、 他称を含め多様な定義がなされてきた。 特に 前近代のムラユ概念は王権を核としながらも多様な移民を包含し、
流動的な枠組みであった点が強調される(2)。 他方で、 英領期は人 種 ( ) 概念が導入され、 現在へとつながる画一的なマレー人概 念が成立した時代として対比される(3)。 しかし、 前近代の研究の 進展にくわえ、 現在なおマレー人概念の多様性が指摘されることを 考慮すれば、 前後の時代を視野に入れつつ、 英領期におけるマレー 人の概念化の過程を再検討する必要がある。
英領期におけるマレー人概念に関しては、 マレー人自身による自 己定義の過程に焦点をあてたマレー・ナショナリズム研究がある [ 1994 1995]。 近年の研究では政治指導者やその言説が注 目されがちであるが、 本論は植民地行政との相互作用という視角か らマレー人概念を再検討する。 マラヤにおいて 「マレー民族 (
)」 という概念が受容される過程は、 内部に複数の王権が併 東
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存しマレー人の定義が地域ごとに異なっていたために平坦なもので はなかった(4)。 前近代のムラユ概念と王権との密接な関係を考え れば、 英領期にマレー半島各地の王権が英領マラヤの州 ( ) と いう行政単位へと再編成された変化がマレー人概念に与えた影響に も注目する必要があると考えるためである(5)。
英領マラヤにおいて、 マレー人という枠組みは植民地政策のなか で重要な位置を占めた。 イギリスはマレー王権を利用した間接統治 体制を構築し、 19世紀末以降は 「親マレー人政策 ( )」 と総称されるマレー人優遇政策によりマレー人の行政エリートを養 成した。 行政史の先行研究においては、 王権の支配層が植民地統治 を通じて地位を維持したこと、 すなわち行政エリートの独立後への 人脈的な連続性が強調される(6)。 しかし、 この政策は人種として のマレー人概念を現地社会に適用する過程でもあり、 それに対して 新たに働きかけた人々も存在する。 彼らに着目すれば政策がもたら した変化が明らかになるのではないか。
本論では、 マレー人行政官の養成政策の分析を通じて、 植民地当 局と現地人の相互作用を描く。 そして、 その過程でマレー人概念が どのように変化したかを明らかにすることを試みる。 先行研究が示 すように、 前近代におけるマレー人概念は流動的であり、 多くの外 来の移民を含んでいた。 一方で、 マレー人に対する優遇政策は、 マ レー人がマラヤの 「土着的」 な人種であることが根拠であり、 前提 である。 政策におけるマレー人概念とマラヤという政体はどのよう にして結びついていったのであろうか。
本論では、 連合マレー諸州 ( 以下 ) を構 成し、 英領マラヤの中核をなしたスランゴル ( ) をとりあげ、
同州の行政史料を通じて上記の課題を解明する。 スランゴルをとり あげるのは、 同地域がスマトラ、 ジャワなどマラヤ外に出自を持つ マレー系移民が最も多く、 マレー人概念が最も多義的で流動的な地 域であったためである(7)。 同地域における植民地政策とそれに対 する現地人の反応に焦点をあてることで、 英領期におけるマレー人 という集団概念の動態を描くことを試みる。
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本論は、 五節から構成される。 第1節において、 スランゴルのマ レー王権の性格を整理し、 イギリスのマレー人政策の端緒として19 世紀末における対王権政策を扱う。 20世紀前半に、 政策の焦点がマ レー人エリートの養成へと転化する過程を第2節で検討し、 それに 対応したスランゴルの有力者の系譜を第3節で明らかにする。 その 結果として成立した植民地行政におけるマレー人の 「資格」 につい て第4節で考察し、 マレー人と華人など他集団との関係を第5節で 整理する。 そして、 この植民地政策の展開がマレー人概念の形成過 程にどのような意味をもっていたのかを展望することとしたい。
第1節 イギリスによる王権秩序の再構築
―対マレー人政策の開始
イギリスがマレー半島への領域的進出を本格化させた1874年、 ス ランゴルはイギリスの保護領となった(8)。 イギリスの植民地支配 では、 スルタン (王) のもとに 「助言者」 たるイギリス人理事官 ( ) を派遣する間接統治の形態がとられた(9)。 イギリスは既 存のマレー王権を維持することで有力者を統治の協力者としていく 方策をとったのである。
ただし、 植民地下で維持された現地の秩序とはあくまでも統治す るイギリス人行政官の認識にしたがって定義されたものであり、 実 際には既存の体制に一定の改変がなされていった。 イギリスの植民 地統治は土地を単位として展開された。 スランゴル州政庁は州内の すべての土地を公有化し、 その使用権を現地人および開発者に譲渡 していった(10)。 このことは、 河川ネットワークの支配を基盤とし た王権と比べて根源的な統治原理の変更であった。 スランゴルは、
王権から領域的な境界を持つ州という行政単位へと再編された。
これにともない、 王権自体も変化をみせた。 スランゴルは、 人口 流動性の高いマラッカ海峡周辺の海域世界のなかでも移民の流入に より社会が形成されたフロンティア地域であった。 スランゴル王家 の始祖はジョホール・リアウ ( ) 王権のブギス人副王家 から分派した人物であり、 スランゴル王権もマレー王権であると同
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時に外来性も持っていた。 19世紀になってもリアウとの間には婚姻 等を通じた王族の往来が見られた。 しかし、 王権は植民地期を通じ てスランゴル州という領域の外との交渉を徐々に失っていった。
政庁は、 王権における有力者の収入源であった徴税権を接収する かわりに、 彼らに金銭的な補償を与えることで王権秩序を傘下にお さめた。 補償は、 王権秩序の構成員に支払われる年金と植民地行政 の官吏に支払われる手当というふたつの形態に大別される [ 84 79]。 政庁は王権と植民地行政機構のふたつの秩序を制度化し、 現 地人有力者を組み込んでいった。
イギリスは、 王権秩序を維持するため、 州内のスルタンを筆頭と する王権の有力者に対して年金を支払った。 1884年のスランゴル州 の予算案を見ると、 女性を含む31名が年金を受けている [ 215 83]。 さらに、 政庁は植民地化の時点で有名無実化していた宮廷に おける様々な称号を 「復活」 させ、 有力者にその称号を授与した。
スランゴルでは、 1898年に9つの称号が認定され、 保持者にはそれ ぞれ手当が与えられた [ 3305 98](11)。 20世紀初頭には、 各 州で王権の家系の成員を 「ワリス・ヌグリ ( 、 王権の継 承者)」 として認定する作業が行われ、 スランゴルでは計181名が
「ワリス・ヌグリ」 とされた [ 532 03]。 これは政庁から年金を 受ける一種の資格となった。
しかし、 王族の分布は州の領域とは必ずしも一致していなかった。
既述のとおり、 スランゴル王家はリアウとの関係が深く、 ラジャ ( ) の称号を持つ王族にはリアウ出身者が少なくなかったが、 彼 らはワリス・ヌグリからは除かれた。 さらに、 南に隣接するヌグリ・
スンビラン ( ) との境界のルクト ( ) 川、 北に隣 接するペラク ( ) との境界のブルナム ( ) 川にはスラン ゴル王家の系統ながら半ば独立状態の王族が存在しており、 王族の 認定作業は難航することもあった(12)。 この認定作業は結果として 王権の輪郭を可視化させる行為であり、 これを通じてスランゴルの 王族、 貴族の家系が確定されていった。
植民地化により経済基盤を失った王族、 貴族層は、 年金の支給や 英
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称号の付与を求めて政庁に働きかけた(13)。 たとえば、 1903年に南 部境界地域の有力者ラジャ・アマン ( ) は陳情書を送り、
スランゴルにおける権利を主張した。 ラジャ・アマンの主張によれ ば、 2州の境界が画定される際、 彼はスランゴルにおける土地への 権利とヌグリ・スンビラン王権における称号との二者択一を迫られ たという(14)。 ふたつの州に対して権利を主張するラジャ・アマン に対して、 スランゴル政庁は彼がヌグリ・スンビラン州のワリス・
ヌグリであることを理由にその要求を却下した [ 3817 03]。 当 局は両属的な曖昧さを排除し、 各有力者がどの州に帰属しているか を明確化していったのである。
一方で、 政庁は王族をはじめとする有力者に州政庁の植民地官吏 の職を提供し、 手当を支払った。 政庁は地方行政を 「現地人首長 ( )」 の手に委ねる方針を採り、 彼らにプンフル( ) という職名を与えて最下層の行政区画を管轄する地方行政官として 雇用した [坪井2004:8](15)。 スランゴルで任命されたプンフルはそ の半数近くを王族が占めており、 政庁が彼らの影響力を統治に利用 していたことがわかる(16)。
ただし、 プンフルの出自もスランゴルの領域とは一致していなかっ た。 ラジャの称号を持つプンフルのなかでも、 ヌグリ・スンビラン やスマトラ出身のスランゴル王家とは全く関係のない者もみられ た(17)。 さらに、 王族以外のプンフルのなかにはスマトラ出身者も 多かった(18)。 人口流動性の高いスランゴルにおいては、 プンフル は必ずしも任地に対して地縁をもっていたわけではなく、 土着的な 存在でもなかった(19)。 19世紀末のスランゴルへのマレー系移民の 流入は王族を含む上位階層の移動も含んでおり、 その指導者がその ままプンフルとして 「現地人」 の代表者となった(20)。 外来の有力 者はスランゴル州に帰属し、 地位を得ることで現地に定着していっ た。
統治の協力者を求めたイギリスは、 まず形式上の主権者であるマ レー王権とその構成員に働きかけた。 政庁は、 スランゴル王権を再 編すると同時に現地人行政官制度を構築し、 王権有力者を州という
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行政機構に組み入れた。 これは 「現地人 ( )」 という概念の再 定義の過程でもあり、 政庁は王権有力者の持つ多様かつ個人的な権 威をスランゴル州という行政体へと結びつけた。 これに対して、 有 力者の側も政庁に対して積極的に働きかけた。 その結果、 彼らはた とえ外来の出自であっても土着の秩序の構成員として州の行政制度 のなかに位置づけられた。 政庁と王権がスランゴル州という枠組み を通じて関係を築くことで、 王権有力者たちは領域としてのスラン ゴルへと定着していったのである。
第2節 マレー人エリートの養成
― における 「親マレー人政策」 の展開
19世紀末以降英領マラヤの行政的統合は進展した。 1896年にスラ ンゴルは近隣の3州とともに連邦 ( ) を結成した。 各州の行政 の主体となる州政庁の上位機関として 政庁が組織され、 政策 立案の主導権は後者へと移った(21)。 において、 対マレー人政 策は新たな段階へと進んだ。 マラヤの現地人たるマレー人を行政の 分野で優遇する 「親マレー人政策」 が採用されたのである。 これは マレー人概念が政策へと適用される過程であり、 そのなかでマレー 人という概念がさまざまな角度から議論されることとなった(22)。
まず、 人種概念としてのマレー人が人口統計を通じて公的に定義 された。 1891年のセンサスにおいて、 ヨーロッパ人、 マレー人、 華 人、 インド人、 その他という人種概念が導入された。 この結果、 す べての人口はいずれかひとつの人種に分類されることとなり、 人種 範疇はマラヤにおける住民の属性のひとつとなった。 ここでの人種 とは人口を出自地域別に分類した概念であり、 マレー人とはマレー 群島 ( ) 出身者を指した。 このため、 マレー人には マレー半島の現地人ばかりでなく、 スマトラやジャワなど近隣地域 からの移民、 現地化したインド・ムスリムであるジャウィ・プラナ カン ( ) なども含まれた [ 1987:571]。 これに より、 移民や混血者といった従来帰属が曖昧であった人々も公的な 人種範疇に属することとなった。 さらに、 出生・死亡統計など他の 英
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人口統計でも同様の分類がなされたため、 人種範疇は父系の血統に より継承された。
ただし、 植民地政策におけるマレー人概念には公的な人種概念と は別の意味も含まれていた。 親マレー人政策ではマレー人の土着性 が一貫して強調され、 公的なマレー人の枠内における移民の存在は 考慮されなかった。 この政策がマラヤの現地人たるマレー人を外来 の移民から保護することを目的としていたためである。 植民地行政 制度の整備とともに公的に発言の場を与えられるようになった王権 有力者は、 マレー人への優遇政策を訴えた(23)。 1903年に行われた の統治者会議 ( )(24)において、 マレー人王族はマレー人 の官吏としての雇用の促進とマレー人の土地の確保を求めた。 イギ リス人行政官もこれに同意した。 ペラク州理事官は、 「ここは保護 領マレー諸州 ( ) であり英領植民地でないこと、 イギリ ス人行政官は助言、 援助するためにここにいるのであり、 統治者た ちを彼らの国の行政において凌駕するためではないことは決して忘 れるべきでない。 最も難しい問題のひとつは、 イギリスの介入がな ければ大きく重要な地域で行政的権限を有していたであろう王族や 首長の子弟、 親族にいかにして行政における雇用を最大限提供でき るかである」 と発言している[ 1903 07 21]。
成立の前後から植民地官吏へのマレー人の優先的登用が強 調されるようになり、 マレー人行政エリートを養成する政策が始め られた(25)。 まず、 少数の選抜されたマレー人を植民地官吏として 養成するための英語による教育機関の設立が提案された(26)。 1903 年の統治者会議の翌年の 各州の理事官による会議でマレー人 の地位向上が議題となり、 その一環として 「マレー人が政庁で職を 得るための特別な教育施設の設立」 がとりあげられた[ 1766 04]。 その結果、 1905年にマレー人のための中等教育機関としてマレー・
カレッジ ( ) が開校された。 マレー・カレッジではイ ギリスのパブリック・スクールの伝統に基づいた教育が施され、 州 を越えたマラヤのマレー人エリートとしての連帯感がはぐくまれた [ 1996:137]。
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官吏登用のための教育機関であるマレー・カレッジが卒業生を輩 出するようになると、 彼らを上級官吏として登用する動きがあらわ れた。 マラヤにおける官僚制度は、 上層のイギリス人幹部職 ( ) と下層の現地人官吏とに分かれていた。 現地人官吏のなかにマレー 人の占める割合は1割程度であり、 インド人、 華人、 ユーラシアン に比べて低かった(27)。 このため、 1910年にマレー人官吏のための 特別な給与体系を定めた 「政庁職員へのマレー人の雇用のための制
度 ( 以下 「マレー人官吏
制度」 と表記)」 が制定された。 当局は、 マレー・カレッジを優秀な 成績で卒業した者を 「マレー人研修生 ( )」 として 採用し、 一定の研修期間を経てマレー人官吏制度へと編入した。 彼 らはマレー人のみで形成される秩序のなかで優先的に登用され、 昇 進していった [ 1969 10](28)。 これは、 イギリス人と現地人の中 間に 「マレー人上級官吏 ( )」(29)という制度的枠組みが 整備されたことを意味した。
1910年で制定されたマレー人官吏制度は数年ごとに改定されたが、
そのなかで重要なのが1921年の改定である [ 1005 23]。 第一の 変化は、 これ以後マレー人上級官吏の採用数が増加したことであ る(30)。 数が増えた行政職のマレー人上級官吏は 「マレー人行政職 ( )」 という枠組みへとまとめられた。 マレー 人行政職の官吏に対しては、 マレー人が大多数を占める地方におけ る郡長官補佐職 ( ) など、 特定のポストが留保 職として定められた。 彼らはひとつのポストに長く留まることはな く、 州をまたいで異動を繰り返した。 1920年代になって、 に おけるマレー人の官僚秩序の制度化が完成したといえる。 彼らのな かにはマレー人行政職の枠を超えて昇進し、 イギリス人が大多数を 占めたマラヤ最高位の官僚機構 「マラヤ高等文官職(
)」 に編入される者もあらわれた。 しかし、 そうした例は少 数にとどまり、 彼らは基本的にマレー人という枠組みから出ること はなかった(31)。
1921年のマレー人官吏制度の第二の変化はマレー人研修生の採用 英
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方法である。 マレー・カレッジからの推薦に代わって専門の試験が 導入された。 採用枠のうち半数はマレー・カレッジ出身者に割りあ てられたが、 残りの半数は一般枠とされた。 すなわち、 受験資格が すべての英語校出身者へと開放されたのである。 当局がマレー人官 吏の登用を拡大する過程で、 選考基準は血統重視から能力重視へと 移行した。 このことは、 マレー人ならば出自にかかわらず成績次第 で誰でも上級官吏となる資格が与えられたことを意味していた。
20世紀初頭に開始されたマレー人官吏養成政策は、 政策の意図お よび人脈の面からみて前節の王権政策からの連続性が認められる。
1900、 1910年代に養成されたマレー人上級官吏は、 州から選別され てマレー・カレッジに入学することのできる王権有力者の子弟に限 定されていた。 しかし、 1920年代以降はマレー人上級官吏の人数が 増加するとともに、 優遇政策の対象は のマレー人全体へと拡 大した。 政策の対象は土着性をもつとみなされる人々であったが、
政策の主体が州から へ移行するとともに、 その資格者は各州 の王権の構成員からマレー人という人種へと徐々に移行していった のである。
第3節 スランゴル州出身のマレー人上級官吏
本節では前節で述べた官吏養成政策への現地人の対応に着目する。
その事例として、 スランゴル州出身のマレー人上級官吏に焦点をあ てる。 第1節で述べたとおり、 マレー系移民の多かったスランゴル において、 王権有力者は多様な出自を持っていた。 そのなかで、 20 世紀の親マレー人政策に反応したのはどのような人びとであったの だろうか。
が結成されて親マレー人政策が明らかになる前から、 スラ ンゴル州では有力者の子弟への英語教育は試みられていた。 1890年 代初頭には、 「王族と他の高位のマレー人のための学校 (
)」 が開かれており、 1892年には14名の 生徒が通っていた (表1)(32)。 王族を中心とした有力者の側にも子 供に英語教育を受けさせたいという希望があったことがうかがえる。
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この14名のうち、 6名はのちにスランゴル州のプンフルとなり、 植 民地行政官としての職を得たことが確認できる。
一方で、 スランゴルに多かった外来の首長も、 子供に英語教育を 受けさせることでスランゴルにおける自らの家系の地位を維持する ことを目指した。 前述の王族の子弟向けの学校の生徒のなかには、
王族とともにアラブ系でマラッカ出身のプンフルの息子2名が含ま れていた (表1の13、 14) [ 6564 90]。 植民地としての歴史がスラ ンゴルよりも長いマラッカからの移民は、 植民地行政に積極的な対 応を見せたことがわかる。
マレー・カレッジにおいても、 入学者の選考は政庁と王権有力者 の交渉の場となった。 マレー・カレッジは州を超えた という 枠組みにおけるエリート養成の場となったが、 その前段階として生 徒を選ぶ権限は州に与えられていた。 入学者数は の各州に割 りあてられ、 その選考の権限は理事官にあった [ 1996:128]。 このため、 子弟をマレー・カレッジに入学させることを希望する有 力者はスランゴル州政庁へと働きかけた。 この結果、 定員の割りあ てを上回る応募が寄せられることが多かったのである。
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表1:「王族と他の高位のマレー人のための学校」 の生徒
名前 父親 (当時の地位) その後の地位
1 (州参事会参事) プンフル
2 (摂政) プンフル
3 (州参事会参事) 書記→プンフル
4 (先代スルタンの息子) プンフル
5 プンフル
6 (州参事会参事) プンフル
7 8 9 10 11
12 (スマトラ出身、 年金者)
13 (プンフル、 マラッカ出身)
14 (プンフル、 マラッカ出身)
出典: 1892:518 520
定員以上の応募者があった場合、 スランゴルでは理事官が王の補 佐役である摂政 ( ) に候補者を諮ることが慣例であり、 選 考には王族の意見が反映された(33)。 マレー・カレッジの入学者選 考は、 「一部は影響力を考慮し良家の子弟、 一部は政庁の職務に対 して卓抜した能力を示したもの」 と定められていた [ 1766 04]。 ただし、 実際の入学者の選考では、 本人の能力よりも血統や保護者 の地位、 すなわち応募者が 「良家」 の出であることが重視された(34)。 ここでの良家とは、 暗黙の了解として、 「王族、 貴族、 プンフル」
を指した [ 1561 23]。 結果として、 スランゴル州出身のマレー・
カレッジ在籍者はほとんどの年度で王族が過半数を占めていた(35)。 しかし、 マレー・カレッジにも少数ながら外来者の子弟がみられ た。 スランゴル出身のマレー・カレッジ在学者の中には、 外来の出 自を持つプンフルの息子3名を含めて、 非王族のプンフルの息子が 9名確認できる。 プンフルは州内の良家とみなされたため、 プンフ ルが外来の出自であっても、 その息子には入学資格が与えられたの である。 たとえば、 1917年に入学したカマルッディン ( ) の父はスマトラ・ミナンカバウ ( ) の出自でクアラ・ル ンプル近郊のプンフルであった [ 397 15](36)。
1933〜1940年のマレー人行政職の職員録にはのべ110名あまりの 官吏が掲載されているが、 そのうちスランゴル出身と確認できるの は34名である (表2)。 1910年のマレー人官吏制度のもとでは、 上 級官吏の採用はマレー・カレッジ出身者に限定されていた。 このた め、 スランゴル出身者の履歴はマレー・カレッジの構成と重なって おり、 1920年までに採用されたマレー人官吏は王族、 貴族が多かっ た。 そのなかで、 唯一外来の出自を持っていたのが前述のスマトラ 出身のプンフルの息子であるカマルッディンである。 彼はスランゴ ル州からの推薦を受けてマレー・カレッジに入学し、 卒業後1920年 にマレー人研修生へと採用された (表2の12) [ 308 23]。
1921年にマレー人官吏制度が改定され、 マレー・カレッジ以外の 英語校の生徒に受験資格が開放された後も、 マレー・カレッジ以外 の英語校からマレー人研修生の採用試験に合格した者はそれほど多
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表2:スランゴル出身のマレー人上級官吏
名前 父親 (出自、 職業) 外来 採用年 出身校*
1 1903 なし
2 (貴族) 1903 なし
3 (王族) 1907 なし
4 (王族) 1908 なし
5 1909 なし
6 (王族) 1910
7 (王族) 1910
8 (王族) 1910
9 (プンフル) 1913
10 1915
11 (王族) 1917
12 (プンフル) ○ 1920
13 (プンフル) 1921
14 1921
15 1923
16 (王族) 1924
17 ○ 1925 英語校
18 ○ 1926 英語校
19 ○ 1926 英語校
20 (王族) 1928
21 1930
22 (植民地官吏) 1933
23 (王族) 1933
24 ○ 1934 英語校
25 ○ 1934 英語校
26 ○ 1934 英語校
27 (植民地官吏) 1935
28 (植民地官吏) 1936
29 1938 英語校
30 1939
31 1939
32 1939
33 1939
34 (王族) 1940
* :マレー・カレッジ、 それ以外の場合は 「英語校」 と表記 出典: より筆者作成
くはなかった。 採用枠の半数を占めた一般枠も、 マレー・カレッジ 出身者により占められることが多かったのである。 政策対象が良家 の子弟からマレー人全体へと移行する変化は漸進的であり、 現実に は有力者層がその既得権を維持していた。 しかし、 スランゴルから は少数ながら良家の出自を持たないマレー人上級官吏が徐々に登場 してきた。 マレー・カレッジ以外の英語校からマレー人研修生の採 用試験に合格したものはほとんどがスランゴル出身者であり、 その 多くが外来の出自を持つ者の子弟であった。 父親が外来であると確 認できるマレー人上級官吏は、 7名にのぼった。 スランゴル出身の 移民2世は少なからぬマレー人上級官吏の供給源であった (表2)。 マレー人エリートの養成政策において、 州はその母集団の選定の 主体となった。 このため、 官吏の出自からは、 州のマレー人有力者 層の構成とその変化をうかがうことができる。 スランゴル州の場合、
時代とともに非王族が増えるという点にくわえて、 外来者の子弟が 多く見られる点が特徴であった。 もともと有力者層に外来者が含ま れていたうえ、 1920年代以降はマレー・カレッジ以外の英語校出身 の移民2世が多く進出したためである。 彼らは外来の出自を持ちな がらも、 公的にはマレー人の枠内にあったため、 スランゴル州のマ レー人として官吏養成過程に参加できたのである。
第4節 マレー人エリートの資格
1920年代以降良家の出でないマレー人官吏が増えたことは、 マレー 人エリートの資格をめぐる議論をまきおこした。 特に、 外来の出自 を持つマレー人が政策対象に含まれるかどうかは、 マレー人概念の 公的な定義と政策における位置づけのずれを示す問題であった。
1927年の統治者会議において、 ペラク州のスルタンは 「マレー・
カレッジはかつて良家の子息だけだったが、 今や雑多になってしまっ た」 と述べ、 この状況への懸念を表明した [ 5144 27]。 当局側 もこの点は意識していた。 1926年のマレー人研修生合格者のうち、
外来の出自であったスランゴルの英語校出身の2名 (表2の18、 19) に関して、 政庁内部では 「父がマレー人種ではあるが半島外出身で
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外来であるので、 彼らをマレー人の地域に駐在させる際には地元の 偏見、 慣習を理解し、 尊重するようさせることが望ましい」 と指摘 されていた [ 1535 26]。
こうした状況のなか、 1928年には 「土地の子 ( )」 と いう匿名氏から以下の内容の英語の投書が寄せられた。
行政職のマレー人上級官吏は、 この国における良家の土着マレー 人の直系の子孫に限られるというのは一般に知られています。
しかし、 これは明らかに守られておりません。 4名のミナンカ バウ人、 マンダイリン人 ( ) が任命されているのです (引用者注:いずれもスマトラからの移民集団)。 …上記の者はこの 国では完全に外来者であり、 曽祖父といわず、 祖父を少し調べ るだけですべての状況が明らかになります。 我々のために開か れた職は真に有益で名誉あるものでなければならず、 厳格に良 家のマレー人に限られるべきです。 純粋な地元民が機会を与え られないこともあります。 彼らは、 ミナンカバウ人やマンダイ リン人のように経済的に支持者に報いることができないのです [ 2051 28]。
指摘された4名はスランゴル出身の移民2世であった (表2の12、
17、 18、 19)。 マレー人という枠組みの内部から外来者を排斥する動 きがあらわれたことは、 19世紀末のマレー王権に移民が頻繁に参入 していた状況と比べ対照的である。 マレー人がその土着性ゆえに外 来者に対して優位に立つという思想が当事者にも意識されるに至っ たことがうかがえる。
しかし、 この投書に対して意見を求められた 各州理事官は、
「 マレー人官吏制度 は、 賢明にも、 意図的に生まれと血統につい て触れていない (スランゴル州理事官)」、 「資格についての厳密な規 則を作るべきでない。 参事会のマレー人参事が比較的新参の家系を 締め出すことなく 土地の子 の利益に配慮することができるであ ろう (パハン 州理事官)」、 「外来マレー人を締め出してしまう のは疑問である (ヌグリ・スンビラン州理事官)」 などと述べ、 投書の 意見には否定的であった [ ]。 イギリス人行政官の側は、 血統か 英
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ら行政的能力へと要求を変化させていた。 マレー人という人種範疇 に属する人物であれば出自にはこだわっておらず、 むしろ移民2世 を積極的に取り込もうとしていた。
その後もスランゴルの外来出身者はマレー人上級官吏として採用 され続けた。 1932年のマレー人研修生の試験の際、 当局はマレー・
カレッジ入学の場合と同様に受験者の出自を調査した。 受験者の親 族に官吏がいるかどうかという点に加え、 父親の出身地まで調査さ れたのである(37)。 その結果、 スランゴルからの応募者16名のうち、
父がスランゴル出身なのは5名のみで、 5名は父がスマトラ出身で あった [ 1195 32]。 そして、 合格した3名はすべて父がスマ トラ出身の移民2世であった (表2の24、 25、 26)。 外来の出自は採 用の妨げとはならなかったことがわかる。
ただし、 応募者は何らかの形でマラヤに帰属していることが必要 であった。 すなわち、 マラヤで生まれ、 教育を受けたことである(38)。 のマレー人上級官吏の場合、 出身校はマレー・カレッジなど の学校であり、 出身地も または海峡植民地であった(39)。 一方で、 マラヤ外の生まれであるマレー人の移民1世は官吏として の登用にあたって不利となった。 1916年には、 郵便電信局に勤める スマトラ生まれのマレー人事務員からスランゴル州政庁に対して以 下のような英語による陳情が寄せられた。
自分はスマトラ生まれのマレー人ですが、 20年前父の移住によ り へ来ました。 以来スマトラへは一度も戻っておらず、
この地を永住地としています。 私はここで育てられて教育を受 け、 2人の弟はこの州で生まれました。 私はこの国の現地人で あるクアラ・ルンプルの獣医局検査官ハジ・ハシム( ) の娘と結婚しました。 へ来て以来、 私たちはいかなる場 合にも自分たちをこの国のマレー人、 そしてイギリス臣民と考 えています。 さらにいえば、 何人かのマレー人、 プンフル、 カー ディ補佐 ( )(40)、 事務員、 マレー人官吏制度下の上 級官吏などはスマトラ・マレー人やその子孫たちです。 それを 考慮の上で、 その州で生まれた人物かどうかを大きな判断材料
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としないでいただければさいわいです。 私がプンフルや警察官 へ応募した際にも、 その他の面では資格を満たしていたにもか かわらず、 私の出生地の問題が任命されるための妨げになって いるのです[ 459 19]。
これに対して、 当局者は外来マレー人のなかにも政庁の職について いる者がいることを指摘するのみで、 明確な対応をうちださなかっ た。
地元生まれの者を優先して登用する傾向は時代とともに強まった。
世界恐慌の結果雇用状況が悪化した1930年、 ペラク州ではマラヤ外 生まれの官吏を登用する際には許可が必要となり、 「英領マラヤ外 の生まれの候補者は任命、 推薦されない (1930年州政庁回覧62号)」 ことが原則となった [ 612 32]。 スランゴル州でも、 マラヤ外 出身者の雇用に許可を求めた記録がある [ 264 37]。 マラヤ生 まれであることは官吏としてのひとつの資格となっていった。
マレー人官吏登用政策は、 マレー人の土着性の意味が問われる機 会となった。 移民の出自を持つ者であっても、 出生や学歴の証明に より本人が公的な人種範疇としてのマレー人に属していることが確 認されれば官吏採用では差別されなかった。 当局は、 人種概念とし てのマレー人の定義を守りつつ、 マラヤへ行政的に帰属しているこ とを土着性の根拠とした。 このことは、 有力者のなかに移民が多かっ たスランゴルにおいて、 移民2世のマレー人としての行政的権利の 獲得が正当化されたことを意味した。 彼らは、 教育を通じて資格を 獲得し、 連邦、 州の行政にマレー人として参画していった。 スラン ゴルという枠組みを通じて、 彼らは外来性を土着性へと転化させた のである。
第5節 マレー人の土着性―非マレー人との関係
前節では官吏登用の条件として出生地にもとづくマラヤへの帰属 が重視されたことを述べたが、 そうなるとマラヤ生まれの華人やイ ンド人の移民2世も同様の権利が発生するのかが問題となる。 実際、
マラヤ生まれの華人、 インド人の移民2世が行政におけるマレー人 英
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と同等の権利を要求する動きもあらわれた。 それに対して、 マレー 人は自らの権益を擁護しようとした。 行政上のマレー人の特権とし ての官吏登用政策は、 海峡植民地、 双方において、 1930年代 の植民地行政におけるひとつの焦点となった。
第一次世界大戦以降、 マレー人の行政官としての登用を求める動 きはさらに強まった。 連邦参事会において、 マレー王権有力者はマ レー人官吏の登用を求める主張を繰り返した。 たとえば、 1932年の 連邦参事会において、 ペラク州のマレー人王族はイギリス人と比べ て 「安価」 なマレー人を雇用すべきであると訴えた [ 1932: 16]。 ヌグリ・スンビラン州のマレー人貴族は、 1933年に政庁の上級職へ のマレー人の雇用の促進を訴えると、 翌1934年にも官僚機構にマレー 人の占める割合が20 あまりしかないと指摘してマレー人官吏の増 加を訴えた [ 1933: 144 1934: 57](41)。 彼らは、 エリートであ る上級官吏ばかりでなく、 マレー人の官吏全体の増員にも目を向け ていた。
マレー王権有力者がマレー人への行政的優遇政策を主張した背景 には、 数的にも経済的にも存在感を増した華人、 インド人への対抗 意識が存在していた。 1920年代に入ると、 主に海峡植民地の華人、
インド人から政治的権利を求める要求があらわれた。 彼らは、 マラ ヤの臣民としてマレー人と同等の権利を主張し、 上級官吏としての 登用の拡大を要求した [ 1984:110]。 こうした主張を受け、
海峡植民地当局は1932年にユーラシアンを含むイギリス臣民のアジ ア人( )を対象とした海峡植民地文官職 (
) を創設した。 「今日、 制限なしに幹部職への昇進の可能性 を持つアジア人をヨーロッパ人官僚機構に受け入れることは不可能 である」 ため、 「唯一の代替手段は若者が幹部候補生として徐々に 昇進していくアジア人部門を作ることである」 とされたのである [ 273 584 7]。 におけるマレー人上級職と同様に、 海峡植民 地当局も官僚組織のなかに別個の現地人官僚の階層秩序を設け、 華 人などマラヤ生まれのマレー人以外のアジア人を登用した(42)。
しかし、 この政策は直轄植民地である海峡植民地に限定されてい 東
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た。 海峡植民地文官職の設立にあたっても、 形式上マレー人の王が 主権者であるマレー諸州においてはマレー人以外のアジア人は上級 官吏として受け入れないと強調された [ 273 584 7]。 におい ても、 華人やインド人からイギリス臣民の非マレー人の上級官吏へ の登用が要求されたが、 イギリス人とマレー人が一致して反対した。
1934年の連邦参事会ではインド人参事が海峡植民地と同じ制度を作 ることを提唱したが、 当局側は海峡植民地とは状況が違うとして反 対した [ 1934: 104 107]。 その根拠は、 を構成する諸州が
「マレー州」 であるという点にあった。
マラヤ生まれでイギリス臣民籍を持つ華人、 インド人が増えたこ とで、 彼らの政治的な権利要求は高まった。 これに対し当局は、 マ ラヤのなかでも海峡植民地と で論理を使い分けてバランスを とろうとした。 華人、 インド人が多数を占める海峡植民地において は人種集団間の平等が配慮され、 マレー人以外の現地人官僚の待遇 改善も試みられた。 一方の では、 マレー人の他の人種に対す る優位が固守され、 そうした要求は受け入れられなかった。
では、 マレー王権有力者およびイギリス人行政官が華人、 インド人 との対比を念頭にマレー人の土着性を強調し、 その政治的な権利の 保証を主張した。
参事会における議論でマレー人という人種概念が前面に出された ことは、 前節で触れた行政の場でマレー人という集団内における外 来者の存在が議論されたのとは対照的である。 各人種集団の代表者 が集まる参事会では、 マレー人の王権有力者たちが華人、 インド人 の代表者に対抗するためその内容についての議論なしにマレー人と いう人種全体の利益を主張した。 行政と政治におけるこれらの議論 があいまって、 外来の出自を持つ者を含めたマレー人という人種全 体が土着性を代表する概念として定着していったのである。
お わ り に
本論は、 英領マラヤ・スランゴル州におけるイギリスのマレー人 官吏の登用政策を検討した。 そこから明らかになるのは以下の点で 英
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ある。
第一に、 この政策がマレー人という枠組みをめぐる植民地政庁と 現地人の相互作用の焦点となったことである。 植民地統治の協力者 を得るため、 イギリスは行政的優遇の対象としてマレー人という枠 組みを設定した。 これに対して、 現地人からさまざまな働きかけが なされ、 有力者の再編が進んだ。 両者の相互作用からは、 これまで あまり焦点があてられてこなかったマレー系移民2世の参入という マレー人エリート層の動態が明らかになる。
第二に、 この植民地政策における相互作用がマレー人概念の形成 過程に影響を与えたという点である。 政策の対象はイギリスが土着 性を見出した人びとであり、 当初は各州の 「良家」 の血統であった が、 やがてマレー人という人種へと移行した。 ここでのマレー人は 土着性を有することが前提とされたが、 公的なマレー人概念には移 民の出自を持つ者が含まれていた。 移民の家系は土着的なマレー人 としての資格を満たすのかが問題となったが、 政庁は現地生まれで マラヤの州という行政体に帰属していることを条件に移民2世を積 極的に受け入れた。 植民地政策上のマレー人概念をめぐる議論はそ の土着性をどう定義するかという問いであり、 それは植民地の州と いう行政、 領域単位と結びつけられた。
一方で、 植民地政庁へ働きかけた現地人は、 こうした当局の認識 を十分に意識していた。 外来の出自を持つ人びとは積極的にマレー 人という枠組みの内部に入ることで権利を獲得した。 地元の人々か ら外来の出自を持つマレー人を排除する意見が出される一方で、 参 事会のように人種の代表が集まる場では他の人種との対抗上マレー 人という人種全体の利益が主張された。 彼らはイギリスのマレー人 概念を理解したうえでそれぞれの立場から自らの土着性を主張して いた。 マレー人による自己定義を考えるうえでも、 幅広い層が植民 地行政と関係を持ったことを考慮し、 その具体的な接触に注目する 必要があるといえよう。
本論で述べたような行政との相互作用を通じて、 従来流動的であっ たマレー人概念がマラヤとの関わりを強めていった。 現在のマレー
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人概念の不可欠な要素である先住性、 土着性は、 英領期の植民地政 策を通じて当局と現地人の共通理解として定着した。 この過程は領 域的な植民地政体の成立というこの時期の根源的な変化と連関する ものである。 外来の出自を持つマレー人が土着性を獲得していった スランゴルの事例は、 英領期におけるマレー人概念の動態的な形成 過程を浮き彫りにしているのである。
現在のマレー人という集団概念の研究において植民地行政は中心 的な課題となっていないが、 政策におけるマレー人概念の現地社会 への適用とそれに対する現地人からの働きかけに焦点をあてること で、 英領期におけるマレー人概念の位置づけをより明確にしていく ことができる。 そのためには本稿で触れられなかった土地行政など の他の政策も合わせた植民地政策の総合的な分析も必要となるが、
それは別稿にゆずりたい。
史料 (すべてマレーシア国立文書館所蔵)
273 717 1874 1942 (イギリス植民地省文書) 1897 1903 ( 統治者会議議事録)
1909 1942 ( 連邦参事会議事録)
1896 1942 ( 高等弁務官官房文 書)
1933 1940 (マレー人行政職 職員録)
1890 1909 (スランゴル州官報) 1874 1942 (スランゴル州政庁官房文書)
参考文献 (著者名アルファベット順) 2006 [1983]
(アンダーソン著、 白石隆、 白石さ や訳. 2007 定本想像の共同体:ナショナリズムの起源と流行 書籍工 房早山)。
1993 英
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( ) ( ) ( ) 2004
1998
28 1981
1987
46(3) 555 582
1984
1996
1975
1995
2008
水島司 1994 「マレー半島ペラ地域における土地行政」 東南アジア―歴史 と文化― 23:22 42
1994 [1967] ( )
1968
白石隆 1996 「 最後の波 のあとに―二〇世紀ナショナリズムのさらなる 冒険」 井上俊ほか編 民族・国家・エスニシティ (岩波講座 現代社会 学24) 岩波書店:211 229
坪井祐司 2004 「英領期マラヤにおける 「マレー人」 枠組みの形成と移民 の位置づけ:スランゴル州のプンフルを事例に」 東南アジア―歴史と文
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