1㌦ .o" 一 筋 社 食
河原書店 n.5 . / . y P
一
義 域 研 究 第 1 7 集
都市 化 の中の谷 口村落
一 岡 山 県 赤 坂 町 ‑
岡山大学教育学部社会科教室 内地域研究会
町村合併の賓となった赤坂中学校 赤坂町役場
赤坂町の中心集落町刈鮎
農業構造改尊串業によって 整備された水田1赤坂町山口赤坂町農協本所
特産マスカッ‑
花木栽培
‑一. 1L̲̲j i‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 1rt.■1
・苧 B
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T. .iJ.‑ー ‑.‑‑■‑
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新しい変化‑.コルフ場(坂刀)
権藤場
閲i■
(写共は赤坂町教育委員会提供)
甘鋼製鰐口
苗滞山西光寺(赤坂町多賀)宝物
銘備前葛涌谷酉光寺常住大願王浄阿
永和二年八月二二日、大工'吉岡・友永
( 永和二年は西暦一三七六
富岡は現在の瀬戸町万富
径四五州原二1m
高額古墳(赤坂町西窪田)
赤坂町最大の古墳
前方離長径四三m、前端の高さ一・五m
後円部径二〇m'高さ六m 社会教育の中心となっている
赤坂町公民館
「
は し が き
開山大学教育学部内 「地域研究会」比, 報告書第17塊 として, <都市化の中の谷 口村落‑岡 山県赤坂町‑> を公刊 する。 教育課程 としての 「地軸研究」払 学 部社会科専修 .専攻の 5年次 の学生 を対象に, 地域研究の訴鼓 をなす ととも'lC.¥休み を利用 して4泊5日の和 也調査 を実施 し,地域研究の理繭 と実際 を体得させ るこ とを目的 と してい る. 昭和4 7年度は調査対象地 とし て,岡山県赤磐郡赤卿 Tを遠んだ.
く 〉
赤卿 F比, 保全体 よ り見れば中央 よ りやや而束L/Cあた り, 岡 山平野の東北端に位耀 している(, 昭和28年 5月,.Pv・取上村 ・贋 苦附 ・徒開村の 5かH が合併 し,赤
坂
町 として発足 したo 北吐 吉 井町に,東辻楓 11町L、よび和気郡佐 伯町に, 頗比御iTt郡部梓町 /jZ:接 し, 南はLLJ掛 けを経てr
F.]山市'
JC連 なっ一てい bo 束酌 Km, 南北9K叫 而砧は4 2・7 8kiである。
町 の中央 を・北;I)・ら南へ砂川が流 れ, その砂川はhTの北 半ではやや息 な韻流 をな し,雨半IjCたる と平坦在田畑の間 を緩流す るとLtった祭硯 をもち,町 その もの が, 中屋)山地 と巨利1卜平野の接点'/C
位 旺してい るとい うことがで きるO
人 口!,iS村合併当時 1.4 19戸7.55 0人 であった ものが,現在紘 1.509戸5.79 6人 で.
戸数姓j削 nしているものの人 口は減少の傾向 をた どり,過 疎の波 をかぶってい る。 町内に′トキ校 が 5校,中学校壮 1枚 である. 町予矧1 5 7 ま.7 14千円T, 歳入の5 5帝比地方交付税 でTEか なってい るO産菜面 は もちろん地業 が主 で, それ も以前は 米麦中心 であったが, 今は野菜 .果樹
・花木な どかな り多様化 してい る。 それ とともl/C83才n5 0年 'K仕 る 2 5戸 あった埠業姓家が.現 在で杜 わずか70戸 であ り, このn批生家の総戸放れ あまi)魂少 していないの であ るか ら, か な り の ス L='‑ 卜で油菜 化が進 んでい るとい うことができる。 バス I‑qiを利肝 ㌻れぼけ刷IJ市の中心街に 出るのJK50分の拒雌'ICあるのであるか ら, 降給勧 告者や申稜 ぎの人 がふえ,雑 業化が進 むの も 自然の頓向 とみ られ よう。
◇
赤坂町紘山 あ り平地 あ り, その平
地V
Eは秋 ともなれば , こかれ色の稲 が波 をうつ。 まことに平
和 な鍵村 である。 山野紘練 忙包 まれ,空気比 冊 故であるC そ こに住む住民は,地相的純朴 さを保
ちつつ,過酸に近代化 された生活 を草受 している。
教育文化面 か ら見れば.町 内西経
四
・/絹 方 後門の編塚 古墳 あ り, 多賀の西光寺lrCは青銅娘の鰐 口 fc託 されてお り,かな り机 、時 代か ら淵けていた土地 とい うこ とができるo 近代的 '.'C見れid:, 明治 20年付近1 4か村の組合立<お寺赤坂′ト学校>が設け られたの もこの他 である。現在山f6‑町 との 境 卿 こく県立虚業大学校>が退かれ てい る机 町 の教育秘境的 伝統 の しか らしめるところであろ う。致菅 といえ蛾 中央公民館 を中心 として社会教育が よく設透 し, その活動 が活 発であること もこ の町の大 きな特 色であるO 冷暖房つ き鉄筋 づ くりの現 在の中央公民館・は昭和4S咋y‑C姐て られたの であ るが,子 供 .青年 ・婦人 .老人 な どを対 森 とす る娘金や学級 が次 々と鯛 かれ, また胎内にはrEAl
it皐 もあ り,結婚式に も利用 され るとい った ぐあいで,施設は1DO解K・活用 されてい る. この よ うI/C公民飽満 劫が活発 であるのtr,i,地位 (数育壌) をは じめ ス タッフが充実 してい るととも忙.蝕 JFlがlq,力 して熱心 に仕邸に取 りくんでい られ ること'/t原因 があると考え られ る。
く 〉
l
町 内の西軽部
に
「一本松」 と呼 (ri'れ る小 部落が あ るo この地名壮同部諮 ‑行 く道端'lC一本の 松の 大 鵬 が あったことIl=由来 し. 郡詰 (催捕り15iFf.u) に も郡内の大樹 として収 りあげ られ ている。その一本松が今は たい01本の松の存否 とい うようなこと)d些野 であるか もしれない。 しか し町 内に 生 まれ.そこで育 った人たちJlCとって,一 つ一 つ失 われてい く古 きもの‑のIii'愁tri, すべての人けり のいた く.rrG.旗 とい うものであろ う。
この よ うな串柿か られ 町 と して町史堀張の計画を もたれ,舶娘委員を姿顕 して現在その作策 が 進 められ机 、5とこ,jである。 われわれ地域研究会払 この よ う‑lr赤堺町を調査対象地 として取 りあ げ,7月21日から同 2 5EIまで4泊 5日の 日程 で調査 を実施 し,ここ'lC本報告LJG・む上梓 した しだいで ある。 調査 内容(,i地Fj!.歴史 ・社会 ・経 済 ・教育 ・文化の渚分.!畔IrLわた り, その結果 を総合 して地 域の英態 を明 らかIlCLようとす るものであって ,いわば 「町誌」 と名つけ るべ き内容 である。 しか
も参加者 の主 体性経験 の伐い5年次の学生 であるの で.不備 な点 も多 々あることと考 え られ る。
とけいえ
,
この報皆・T・が町の計画 であ る町史鋼塊 に 多少で も参考 にな りうるならばこの上 ないさ いわ1、と思 うoそ してまた,町 Jr‑練 由あ る方 々の思い出の よす が , 現実兄弟の よすがとなること が で きるな らばこれ'.,ここ した喜 びはない。く〉
一一 し1 ‑
調査'/C参 加した学生諸君は真夏の暑 さをい とわ1. まことに よく頑張 ったQ それ らの謙語比今春 学部を牟貸 し,大 部分の者が今は数社 に立 ってい るDであるれ 教育の現場 で, 赤坂町 調査 とい う 食韮 な休験 を癌か してほ しい もの であるO
;随 にあた って小坂板碓町 良 を姓 じめ とし町緯
鳩0
年 伍 教育夢見会 ・公民飴の各[̲;J;, な らぴ' / C
町内の諸方面か ら誠意 あふれ ると防力 をいたたいた。 こ こに心か ら感淵 申 しあげる しだいであるO また調査期間中, 町史鯛如.姿見 である則武忠直 .執 筒青 身 ・青田韮隆 ・大久保 爽次 .石原盛の諸 氏 町 文化財保讃凌月の若林太市郎氏, また町 内の償楓 亘也 ・秋山太郎・離床英一 .大久保 径札の諸氏 か らと軌力&・いただ きか世掛こな った
D
惇 く御 礼 を申 しあげたいO僻に
調査の作業場 ・宿泊所 として, 5t
]脚 こわ‑/(って冷房のついた中央公民細 を使 用させていた だいたこ と比, この上 ない111‑難 いこと であ っ7rも 脚問中,時本信男 教育壕 をは じめ とし. 教育 串良 会 ・公民館勤務の皆さんには と迷感 をおかけ した ことが多か った のであ るが,暖か く接 していただ き,心 か ら・お・礼 を申しあげたいO まIk給食 セノクーの方々' j
e机 少ない経費 で もって栄華塵か夜食!itの こ'用 意 をして下 さ り, われ われは三鑑三促の食 jIを心緒 ち'/Cして頂赦 した しか 、であるO 以上 各方面の方 々に心か ら御礼 を申しあげて, こg) 「まえが さ」の結 びとしたい.:
昭和49年1 1月
l
嘘 題 に つ い て
ご覧の ように本報告音の和 を<都市化の中の谷 口村落> とした。 教官での話 し合 いでいろいろ な案 も出されたの であ るが,結 局 これに おちついたo
谷 川が平地に流れ を変え る, いわば川 を挟んで山 と平地の按 す る地点他 山 も利用 できる, 平地 も利用 で きる,加えて水の利用'/Cも催であるとい うことで,熊商が発生 し発達す る条件 を備えてい る。 加えてこの川 が雨靴 してい る掛合に比,冬比暖か く貫 は涼 しく.T3らすこと もで きる。
上uこのようなこ とか ら.赤解 け全紙田的 に見た勘合,谷 口捲塔の党胞 した形態 として肥 えること が で きると考 え,<谷 口村講 > と名 づけ ること'lCしたo
<禰市化のrFJZ)> 'r‑ついてI.・‑I.. 円本祉‑['・<‑のかよそが芯肺 化の迅
臣
にあるの だが, 岡山市LR:ほ ど近 い赤坂町は, 生活様式 '[・tついて托 もちろんのこと,j
E1‑L
三の兼業化が進んだ り,住 宅即地や3'ル フ協 が追成 された りで, 詣柿 化,D波 ‑,a.ち,‑brL;i‑Aぶ っているo この渦中 'rEあって‑ 赤 雌町は これ までい かに発展 して きたれ そ して今 後いかに先屈 してい くであろ うか ‑ とい う意味 をこめて,この ようLrLか しらことばな付 した わけ である。
T ̲.̲=′‑L‑I.
発 刊 に よ 一 せ て
赤 坂 町 長 小 坂 頭 雄
このたび岡山大学教育学部社会科教室の地域研究功の方 々'Jtよって, わが赤坂町の歴史的な変澄 及び現在の状勢 を調査研究・され, その まとめ として 本番 が上梓 されたこと帆 学術 的忙極 めて有意 凝なこと‑Llあると同時 Iに, 当町 rKとっては町 の様子:亡知 るこ との で きる・Pt韮 夜文献 とな ることと思 います。 しか も時 偶 々町史 絹 .味 な・企図 してそのd蝶 が進 め られてい る府 中の当町 として(・i, この 上 もたい参考資料 を・提供 して如け る点で, 大変有難 く心か ら感謝 申 し上 げ る次 第であ りますO
この調充 を進 め られ るに当た って壮酷暑 の折 柄 ,.諸先生方 ・学生諸君が公民館へ戎杜民家へ夫々
分宿され て,生活の不便'/C堪えなが ら全 く手探 り娃花 !)の苦労 を重 ねての調瓦 或はその後 何回 も 本町 を訪れての補足調度. 引 き続 き鮭
P
糾免租 tP:至 る長 の と苦労は凍す るに依 りあるもの で,衷心敬 意を火します
O それにかえ,当町 と して
の受入体制が不備JT市 届 さで. tl不放 免・かかけ しま したこ とを軌.・Rび申 し上げ ます。<都市化の中の谷 口村革 ‑ 岡山県赤坂町 ‑ >
, r t ,
B か発刊 されるとの うわさが伝わ りますや, 町民の方 々か ら既に‑jI,約の 中込 L7,1が殺到 してい る牡頓であ りま して.赤坂町 の歴史 と現 状 を知 る最 初の資料 として多大のパ耶‡が寄せ られています。 この ことは諸先生方や草生諸潜 にせめてもの慰 めとな P)欣び として就 け るの でたしないかと思 っています。
撫辞意 な尽 くしませんが, 成矧称乞亘 ると労 皆を他 び発刊 を心か らか祝 しお礼 を申し上 げてと挨 拶 といた します。
昭和4 9年11月
調 査 ̀ 参 加 者
教 官
虫
明 机 篠 沢 晋米 村 昭 二 高 重 進
'
Tl:石 橋 達
郎
卒 廉 姓 萩 Jh; 一 之 中 野 糞 智 子
草 生 .藤 波 英 子 高 EI]
智
見下 山 原 十 人 tT̲ 永 春
吉 剛 ;i: 片 山 伸
雄
案 出 佃 実 子 福 原 洋 子
鶴 川 米 英 小 谷 其 理 子
樺 延 Jili 錦 織 弓 子
上 原 紳 江
川
上 ,9.利 子 佐 伯 千 秒 イ高 輝 度 :(一 伊 藤 ITB 子 萩 野 登 弟 子
片 山 忠 子
池 内 郁 子
井 上 知 子 藤 原 和 ;LtL 相 沢 節 子 福 原 和 恵
三 浦 適 三 郎 Efl 中 史
郎
井 上 啓 失
林 洋 子
戸 Etl 訂 千 億 本 芳 子 ギ1 枚 安 子
巴 弘 明
日 見 ui 明 細
万 代 文 子
猪 木 春 美
中
田 E.1・; 子 西 原 明 子井 上 八 重 子 川 角 純 子
吹
第 1や 赤横町 (/つ概観 ・一一‑I.‑‑一一・‑・
1 赤坂町の付樫 ・瓜rJ:う・地勢 2 赤坂 町の沿堆
5 赤坂町の現況 弟 2葦 自 然 も音域
1 化EL#岩 のLLJlt也と河谷
ト 9
9 2 山砂利屑の分布 一一‑I‑‑一一一一一一㌧ ‑I‑‑‑一一\一一一・日 ‑I‑‑‑‑‑‑一一・一‑‑‑一一‑I 25 5 気 候 ‑ ‑ ‑.一一一・一一一・・日 ‑‑‑・1‑‑‑‑‑‑一一‑ ‑一一一一・・一一‑一一一‑一一一一一一 5 1 4 自然 災害 ‑‑‑ 一・一1‑‑〜‑‑‑1・‑‑一一… 一一 56 歌う申 人口と偉落 ‑‑ ‑一一‑一一1・‑‑‑一一‑‑ .‑‑ ‑‑ ‑‑‑‑一一‑ ‑‑ 一・一一一一‑ 45
1 人 口移dTjuと人 rj梢成 ‑ 一一.‑ 2 過疎化如落 ‑一山 ‑一 一一一‑I
一一 45 65
1 魚
艶
細りの尿閉 ・‑‑‑‑・‑一一 752 鳥取 ・軽部 ・笹尉圭 一‑‑一 一一 1‑‑・‑一一一 一一一一一‑‑‑一一日一一一‑ ‑‑ ‑ 87 5 蛮族 とその活鍬 ‑ ・一一一一一・・r一・一一‑ 一一一一一‑‑‑‑一一一日 ‑ 一一‑‑I‑‑一一‑ 97
5 地業生産 と戯民Li:̲宿 ‑‑‑‑一一一‑‑‑‑164
1 地租改正 と姓氏一横 ‑一・1‑一一・・一‑一一1‑‑‑一・一一‑一一一.‑ 一一一一一一・一一・‑ 一・一‑‑255 2 地方 自治の展醐 一一日 ‑‑一一一日一一.‑‑ 一一一一一一一一一‑ ‑ 一一‑‑‑‑‑ 一一‑I‑ 258
5 現 代 ・赤坂町の成せ (三村合併 ) ‑.,1‑̲̲.̲̲̲ー ̲L‑ ‑̲‥ 一一小一̲‥ ‑‑ 246 帝 7葦 nl滴 と通信 .1・"A‑小 山・̲‑‑ 一一一一一一一一・一㌦ 一・・一一一一.‑ 一一一一一一一.一‑‑‑‑1255
(ll) 命数往来 ‑,‑‑‑ ‑̲・一一一・‑ 一一一̲一一 日 一 ・・一一一一一一一‑= ‥ ‑255 (∩) 大 山往来 【‑‑‑‑‑.・・日 一二 ‑1一一・‑ ‑ ・I‑:‑‑一 二 一・一‑・‑‑一一一r一一一一・一一‑ ‑258
2 近代の交通 一一1‑‑‑‑‑‑I‑‑1一.‑ ̲・・一一̲.‑̲̲‑・一一‑‑・一一一一一一一一一‑ ・・‑H H ‑2占5
(1)道路改修 一一一一‑‑I‑ ・‑H M l一一・日 ‑.一・一・‑‑ ・‑‑ 一一一.一一一一‑‑‑一・一一‑2占5 (ロ) 埴暗交通の発 展
5 郵便 と1‑は信
̲̲I̲ー̲‑A̲一.̲̲̲一一̲̲2占7 I̲.̲一一̲̲̲.275
1 飽葬の発展 ‑‑ ‑‑‑..‑‑I‑‑‑‑I‑‑‑∴ 一一一一一一一1‑‑‑.‑‑‑‑‑‑‑,一一一 ・ 一一‑‑‑ 285
(ロ)農協 とその析鮎 一一‑ ‑一一‑p・‑‑‑‑ ‑ユ ー一一一‑̲‑‑:一・̲一一̲‑‑̲‑・‑・‑‑ ‑ ‑一一298 2 曲 莱 綿 造 一一一‑‑‑‑‑一一日 ‑一一一一‑ ‑‑‑‑ ‑‑‑ トー‑.ll.11一一一‑ 一一一‑‑‑503 (,1)土地利月lの
変
化と故地転用 一日一‑̲一一‑̲‑‑ ・‑‑一一一一‑‑ 一日・一一一一一‑ ‑ ・505 (rl) 土地所有権 の移転 と姓灘経営 の変化 .・‑1一一・‑‑1・07 ぐう 鍵燕労勘プ〕の変化 と米英化 ‑‑‑1一一一一・,一一一・一日,‑‑一一‑r‑ ‑‑一一一一・・‑‑ 一一 514 (I) 果椀 の導 入 と発展 ‑‑.‑‑ 一一一一・‑ ‑=二‑ ‑LJ‑ ‑・一一‑ 一一‑‑‑‑‑一一‑ ‑318 (7T‑) ‑G酸の恥 向 一‑・一一一一一.一一一一‑‑HL1‑I‑ 一一‑ ‑一 一・‑N ‑.ll‑ ‑‑‑‑‑ ‑・一‑ ・,一一一5225 林 某 一一一一524
(1) 山林原野の存il‑̲形態 とその歴史的発展過程 ‑一一‑ ‑‑‑ 一日一一一‑・‑ .‑一一一‑52占 (U) 林酎 おの生産 とそ,/̲・変gl! 一一一一一一一一1‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑‑ ‑ 一一‑528 4 鉱 工 男妄 一一‑・一一‑ 一一.‑‑一一一一‑ ‑‑ ‑‑‑‑一一一一一一‑,‑:‑ トー̲̲.̲̲̲̲̲‑.i̲555
(ロ) 赤坂木綿 ‑ ‑‑‑‑・‑‑I‑‑ ‑一一 一一一一̲‑I小 一一一̲̲̲.̲ー… ̲̲′̲‑.̲̲̲一日 555 日 工丑 の罷連 と現況 ‑‑‑I. I‑
̲̲̲ご二I・=「
(ロ) 赤坂町 とその商船 (小繋市場鋭敏 1 ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑1・‑・‑ 一一日 ‑‑‑‑一 一一 5ム7
賄 9葦 社会柚進 一南佐古 比tの事例 ・‑m ‑‑ ‑一一一一‑ 一一一一‑‑一一‑‑‑‑一一一一・一一一一 一‑ ∴ 599 1 繭亜地南佐 古EE]の概況 一一一一一一一一一一一・・.・‑・一一一一一一一一‑一一‑・‑ ‑‑‑‑‑‑I 599
5 同 族 一一一‑一・一一‑‑ 一・一‑一一一‑‑‑‑‑一一一‑一一一一‑ ‑‑‑ ‑一一一日 .‑ ‑ 424
5 村落社会の統‑ I‑‑ 一・‑1・一一一一一‑ 小 一一一一一一一一一‑‑・‑‑一一‑‑ 一・‑一一 4dl 和 10革 宗教 と民俗
1 社 寺 2 民俗 と行事 5 民 家 ・・‑
1一・一‑‑・̲̲̲̲̲̲̲・̲ 471
4 旧跡 ・伝説 ‑‑‑‑一一一‑ ‑・‑‑‑一一一‑‑I‑一一‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑・一一一一一一一・一一一 509 第1 1華 教 育
1 学校数If亨
(Jl) 近世の寺 小以 ・手簡所 (ロ) 近代の争汝政市
〔う 中等教育 一一
‑‑‑‑517 517
.‑ ‑ ‑‑ ‑ ・ 522
‑‑‑‑T‑・一一一一 551 日 学枚数 市の現況 一一‑‑ ‑ ‑‑‑ ‑‑I‑ 一一‑‑ = 一一日 ‑‑一一一一一日L‑ I‑・一一 557 銅 野年学校 ‑‑= ‑ 一一一叫 ‑・一一‑‑・‑‑ ‑‑‑ ‑‑一一 ・‑ ‑ m ‑ ‑‑‑‑‑‑・‑ 552
(ロ) 糞護施設天心寮 ‑ I‑一一一一‑一一一‑一一一一‑‑‑‑‑‑トー‑.一・一一日一一一一一‑1一一・一一・一 588
第 1 章 赤 坂 町 の 概 観
1
赤 坂 町 の 位 置 ・広 は う ・地 勢滴 坂町tt,岡山舶 沖 央か らみて● やや南東酌 に,赤盤郡のほほ 中央忙あ り.東経1日 057I
〟 〟 0 / 0
5O ‑ ,5 492128 ,北即 . ‥ 2̀e‑ 34 51157h'(国土地理院発行2万5千分 の1地形図よ り計測)に位耽す る。 行政区 画か らみ ると,北部は赤磐 郡青井町忙,束部は和気郡佐伯町 および赤磐郡熊山町に. 南部は赤磐郡山防町に, 西部は脚 郡御沖町に,それぞれ併接 している. 岡山 市中心荷 化 ,殊遇岡山実作
銀
に 上って.LLJ船町 を樫 て, 年で約50分の距離 であ り,開山市‑の通助圏 内に入 るといえよう.撤面萌は42・7
8上 J
(昭和45年岡山3t市町村勢晋鷺による),東西約 4K.I, 南北約9Kmの拡が 少を もってい る,盲傭福原の南魚近 くに位置す るのT,地券比,大敵 は小起伏山地か 、し比丘駿地であって. 50 07W を越す山地は見当 らなしヽ これ らの山地 ・丘陵地は.ほ とん ど花尚岩 よ りな り,他IKtt,洪凍韓屑が.
花脱岩 をかお うところが, ごく僅かみ られ るに過 ぎか ㌔ 北か ら南へ 砂川が耳流 し. 花尚岩の山地 . t句んだ
丘陵地を下刻 して,秋谷な谷底低地をつ くってい る。 赤坂町の中心典落牡, 南部の町苅 田であるが. こ こか ら南は谷が広け.沖穣低地が拡がるが. 絶 どな く, 山隈町の町域 とな るO 町苅 田は, 砂川沿いの湊 口集落的性格 をもった.地方商業の中心地 であった
。とこ
に,旧赤坂郡役所があったことがある。1
低地払 全面恥
'
言程度にす ぎない。 赤坂町の位社は・書井川 と旭川 との中間VCあ るが・ 7k系か らみ ると. 全地域が砂川流域に属 してい る。気候払 瀬戸内型気候に成 し. 温暖 で比較的冊天 日故が多い .
1
赤
坂
町の 自然的土地条件 を大づかみにす るためK・各種粂伽 区朋 u両断 丁朽 「 岡山県土地分頻 回附属ヂ亨科 (経済企画庁総合開発局. 昭和49年)か らぬ 色だす と. 次の表の通 りである。衷 1‑ 1‑ 1 赤坂町の各種 自然条件区分方l価 胡 単位〟 (四括五入)
標 高 区 分 別 面 積
0′〝 I 100,〟 2DO〝 ,J 408mldOOカー 8 00〝ー 1.Ot】UTn 1.500桝 主を河川 合 計 100〝r ‑ZOOM ^ 00u L i〜480桝 〜800桝 ‑ 1.000TT ‑ 1.5UO 湖 沼
一ヽ■′
‑ 1‑
傾 斜 区 分
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言語
50‑400 0
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土 塊 区 分 別 両 税 栄 熊 「 掴 ポ 蘇
熱 求 也莱 卜● 戟
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褐 釈 ク'ー「‑ 舵
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低 低
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土 士 土 土
‑ 2‑‑
2
赤 坂 町 の 沿 革赤坂町払 昭和28年 3月1日‥ 鳥取上札 軽部村か よび笹岡村 の 5村が合併 して拒生 した.
さらに昭和5 1年9月50日,布部美村の 1部 (淵ケ殊地区) を編入 して,現 在に至 った.
合併 した各村 の沿革u,岡山県市町村合併話によると,次の ようであるo
旧鳥取上村は,大化改新の亀 備前国赤坂郡に属 し.郷里肌の確立 に より.&取郷VC舶入 された。
平安後鵜 荘園の発達に伴い,鳥取笹 として荘園化 されたO鎌倉時代は,備前園守番8,土肥,佐 々木見 南北 朝時代は松Efl. 赤松氏,室町時代は赤払 山名,浦上氏等の 目ま ぐるしい争奪が行わ れたo近世に入 って字音多,小早川氏の儀す るところとな り, 江戸時代'JCは,池 EB氏一族の支配に 属 し,明治維新 となった. 当時, この地払 幡寺山 (も と 嶋 村).山 口, 由酔生,西窪田, 東銀 臥 大苅乱 町苅田の七村'lc分かれていた.
明治4年7月廃藩腔県によ り岡山県に属 し同年1 1月,大小区の設定rL伴い幡寺山村及び山 口村 は,第24区2番′J、区 に.町苅 LH村.大苅田村, 兼良田村.商連田村, 由津里村仕第27区1番′J、 区'P:属 した。 明治8年12月27日幡寺山村 と山 口村 は合併 して山 口村 となった。 明治10年11月 区務所,戸環役場の設
既
に伴い.山 口村は西中村の第2戸撞役場,他の5村は町苅 田村の第5戸艮 役場の所緒 とな った。 明治1 1年9月郡区町村鮎刑法の施行 によ り,各村 に戸長がせ か れ た が, I 明 治 14年 迎 合 戸 長役海綿IJ鹿がと られ,山口村仕方等村の第 4部戸艮役執 他の5村は町苅 田 村の策 7部戸艮役場の所轍 となった。 明治2 2年町村制実施の晩 旧鳥取笹は5分されて1部紘萌 山村 とな り, 1部は高陽村 とな り.残 りの dケ村が,8枚上村 に集約改称された。旧慣部村は, もと笠寺山 頗捉瓢 丸 断弧 南佐古軌 北佐 古
田.
今井,出産,多鼠 酋AIlflJJの 9村 であ った。 吉備分国把より備前Bil赤坂郡に踊 L, 軽部郷 となった。 盲単記に
「為木梨之軽太子御名代走 唯部 」 とあることか ら.軽部郷は允恭天皇の皇子,未発妊太子のために設け られた御名代の地で あったことが知 られるO平安後期払 腰部荘 として荘園化されたが, その後 多% 山嵐 嘗禰ILI の地域は笹原荘 と呼ばれた。 鎌倉時 代は土肥 佐 々叔 声 の後松田,赤抱 山名, 滞上氏の支配に 用 し,近世には,字音多,小早川氏の髄す るところとなり
, 江戸時 代には池田氏一族の支配が続 き, 維新 となった。明治4年廃港値原により的山原に属 し,酉軽部札 笠 寺山村.東軽苦附 . 南佐古田村,今井札 北
】 佐古田村及び多子附 qi, 第27区2番小区に, 出足村及び菖蒲山村比 耶 番小区に区分された。 明 治 8年12月2 7日菖蒲山村及び出屋村 を多発村 に合併 し.笠寺山村 を西軽 部付に合併 した。 明治 10年区 蛎兎 戸長役場の設置に伴い,各村 とも
町
判田村の第 3戸表役場 の所管 となった。里 11 年郡区町村編制法の施行 に上 り. 各村 忙戸長が除かれたが, 明治14年連合戸長役場制度がと られ,‑一五・‑N
東嘩私 西我執 再任古田,北佐古田,今井. 多賀の 4杏樹の区域 を所轄する第8部戸長役場が今 井村忙置かれた. 明治22年4月1日町村制実施の際, A帯村が合併 して軽部村 となった.
旧荘岡村払 もと小風 坂私 怨分,想分村の うち同村下分.大屋,正沸寺 (もと正沸寺山), 山手の7村で,備前国赤坂郡に属 し,慣部細に編入 されていた。平安後軌 この地 も軽部荘 とな っ たが,その後.大屋村の地域は在原若 と呼 ばれていた。 鎌倉時代は,土肥, 佐 々木氏.その後 松 田,赤札 山名,浦上氏等の支配 を経 て, 近世に仏 字:蕗多,小早川氏の領す るところとな り. 江 戸時代には,池田氏一族の支配が続いて, 明治維新 を迎えた。明治4年原滞置県に伴い,岡 山県に 崩 し,各村 とも第27区5番小区 に区分され‑/,̲。 明治8年12月27日,正滴寺村 を大屋村VC・合併 し,惣分村下分 を惣分村 に合併 した。伺 10年区務所,戸凝役場 の静匠に伴い,町苅 田村の第 3戸 畏役場の所管 となったム 明治11年各村に戸長が足かれたが, 同16年連合戸長役場制度が とられ 態分村の第 9部戸凝役場 に属 した.,明治2 2年6月 1日町村制爽施把よ り,′J、風 坂辺.憩分.山 手.大屋の5筒村 を合併 して笹岡村 となった。
なか,明治55年赤坂 磐梨,両郡 を併せて赤磐郡 となった.
第 2次大戦後,地方政治の進展 と,それに伴 9町村 財政の窮乏とに関連 して,町村合併の要が称え られ るt̲うになったo昭和24年 ,シャク7'税制常 査使節団の勧告の中で,町村合併の必要性が強調され これが合併の気運 を商める1つの契機 と在 った。やがて町村合併推進‑の法的措置が荊ぜ られ るよ
うにな り,昭和28年VCは町村合併促進法が公私 施行され るに至った。
ロ桝ロ2 7年, 県仕町村合併の楯兼 を打 ち出 し. 5箇村の合併が適正であるとして,その推進方を 軌奨 した。 これPltよ り閏 Ivf.村の合併気運が高潮 し,昭和2 7年8月14日,関係相島 助役,識見 副議長 ら
' K
,赤磐地方沓務所長 を加ん 鳥取上村役場 に金合 し.合併風韻会な らびに各村缶に合併 促進香魚金等を設旺す ることを申し合せた。 同年12月25日窮 1回合併協盛会が笹岡村役場 で開 催 され,各村 とも大体合併を進 めることIjr意見一致 し,その後 肢請負 を重ねて単価 を進め,盟 28年1月51日各村は議会 を聞 き,いずれ も満場一 致で合併を認決 し,続いて2月5日合併 申醐番
‑
盟
, < 1 : L
b.
燭 台の議決 Li:経て5月1日,赤坂町の鮭生 となった。新町名選定の理由は, 旧赤坂郡の文化の発祥地である赤坂福等小学校
跡
に設立された赤坂中学校 を中心 として5掛 寸の合併気連が醸成されたこと'JC鑑み,赤坂
町が選定 された.旧布部実相大字合 田の淵ケm・地区は,赤坂町の北部に隣凄 し. 古くは笹原荘坂辺の1部であった。
明治22年の町村制施行に降 し, 布部美村 VC吸収されたが,水利組合,社寺等比何れ も坂辺部落 と同 同一 であ り,笹開放性を利用 し, E]用品等 も,坂辺 部落に求めていたQ 昭和51Jifi 布都美村,亡 磯村の青井町合併問題が進展す る忙つれ,滑ケ原部落は,赤坂町‑の合併 を希望 したため, 昭和5 1 年5月25日' 布部糞村iB会忙糾 、て,議決され, 同月2 5日,赤
坂町
忙対し,淵ケ原地区の編入 合一・一 1 ‑
ー=コ
併の 申し入れがあったOその後接渉をまねて 8月 5DEl, 関係町村 の議決 を行い,合併の 申請手蔵 を経て昭和5 1年9月5 0日納入合併 を施行 した。 こうして.赤坂町は現在の町域 と在った.
合併 ・編入各村の面積 ・人 口は次の通 りであった。
鳥取上村 礎 部 村 牲 開 村
布和美村 淵 ケ原地区
12.55
血 点
559地帯 2,970人 1d・DOk j
488世帯 2.50占人 目・5k i
5占4世帯 1,854人(以上 昭和25年国幹鴨変による)
1・8ki 24世帯 115人 (以上 昭和50年国単純壷による)
3
赤 坂 町 の 現 況 (1) 人 口赤坂町の人口払 昭和45年の国勢調査に よれば, 5.8占4人 (男 2,820人,女5.044人) である。世帯数壮 1.4 14であ り,1世帯当 りの平均人数姓 4・1人 とな る。 人 口密度は157・1 人
/k
jで,岡山ifli<の郡書紀)人 口密度121・1人/k i
K柁べて, ややか 、。 (昭和47年 5月51日 現品 住民基本台帳によると, 5.77 5人‑ 男2・728人 ,女i
O 47人, 1.48 1世借 であ る。 )折二次世界大概後の,昭和25年国勢調査当時,赤坂町には,7.550人が居住 していた。 そのこ ろを ピー クとして,大都市‑の人 口流出, 出生児の帥 忙 よって,赤坂町の人 口は一途に滅′J、なつ づけ,現在では2 5年当時の8 0啓を割 る忙いたった。幼齢人 口の割合あ低下,入 口の老齢化が著 しい。 ただし,町内一様に減′J、したわけてはな く, 南部の平野部では,岡山市'K比較的近いし,町 営住宅の確執 鹿投薬武臨場 の誘致等 もあって,減少遥壮少なく, ところによっては増加をみた と ころもあるが,北部や, 福原上の典藩 では滅,J、革 も大 喪く,車家離村 もみ られ いわゆる過疎化現 象が遊行 してい るところがある。
産業別就業人 口の比率は, 次表の通 りである。弗 2次 ・第5次就業人口の大半吐岡山市な どの町 外‑通勤 している。
‑ 5 ‑
表1‑ 5‑ 1 赤
坂
町の産業別洗薬人 口比率(昭和45年10月1日国勢調査)
捻 数
5,5 97人
5次 産 業 l 第 1次 産 業 第 2次 産 業
(2)産 業 の 現 況 小) 第 1次 産 業
赤坂町の基幹産業は, い うまでもな く, 米作を中心 とした渡菜であ る。絵世帯数の8割近 が鹿家である。 しか し,捷家戸数比年 々減少 してA‑1り,特に碑茶腹家の減少は著 しく,釆菓鹿 家へ と移行 し,成業 に従‑I‑11す るものは,老人.卿女子が多 く在っている.
表1‑ 5‑ 2 尊 .米菓別姓家戸数の変化
t 家 戸 数 専 業 鹿 家 窮 1種兼業農家 第2種兼菜鹿家
1.2 1 1 825 5占 2 224
1.2 02 5 00 4 18 284
1.142 28 1 450 45 1
(岡山煉市町村勢賓覧による )
耕地や 約 8割がEBTあ 。,良知 米が生産 細 る。 榔 酒和 親 架として知 られてい る。 米 以外 では,かつて杜柏が栽培され 赤坂白木桐の産地 として知 られたが,明治中期以後か とろえ, 現在は果樹 (梯 ・ぶ どう)の栽培が盛んになって きたb また.澱近 では近郊疏菜園芸 も増加 してい
る。
林業は,林野両班が町両群のd5多を占めるに もかかわ らず低調であ り, 造林‑'il菜 も減少す る傾 向'jCあるo しいたけ栽培. くり生産 を除 いて, み るべ きものは少ない。
衷 1‑ 5‑ 5 赤
坂
町の袋林薬統計(昭和4d年岡山県統計年報による)
「一一
出家教 一 ■ 第
‑1
稗兼 業 出家 第2種光栄良男■ ‑
l
盤 林 業 就 業 人 口 (18才以上) (昭和45. 2.1)
* #
経 営 耕 地 面 桝 (昭和4 5. 2. 1)
姓 産 (昭和48年)
∴
畜 産
用 牛 F J 肉 用 牛
還 二 見
姓 畜 産 租 生 産
順 =i̲.
芸二・
\∴⁝叫 I 「 1 ‑ 夢 ‑
林 業
(昭和4 7. 2. 1)
採 1 卵 4 0 戸 鶏
1 5 , 5 0 口 羽
(昭和46年)
(昭和4 5. 2. 1)
保 有 山
林 面積
宗 一
8 0 O ‑ h Ⅶ aJ 完 「 一 言 7 7
15 h
「 訂a 「 ‑
‑ 7‑・
(。) 第 二 次 産 業
赤
坂町
に所在する・9某所帆 昭和45年調べ で, 51番業所 (内訳 :食料品救遺業占
.繊維 工業占
,衣服その他の撒練製品製造業4.木材 ・木判品製造菜占. 出版印刷 ・同関連産業 5,窯菜 ・ 土石製品製造第 2.金属製品到達集 1,一般接械器具製適薬 2,捕密機械器具製造業1),その従 焚者5 DA^. その出荷額6 7.145万円であるO それ らのうち成大半は従発見数2 0人以下の竿細 企第 であるO鉄道蛤送に不便なこ と,=莱用水が得に くいこと・附近把工業地帯がない ことな ど, 大規校 な=溝発展Vr.は不利な立地条件にあ.aの で地場丘林産物 を主原料 とし, 大丑 の工業用水 を必 要 としたい ものに限 られた。 しか し,描近忙おけ る交通の発逮 工場の地方分散等Ijtよって,将来, 企業進出が行われる もの との予測 もある。ぐう 第 三 次 産 業
赤坂町の店舗数杜.近年漸増の傾向にあ り, 昭和4 7年IJC吐 1 00店 を越 した。 その うち.
飲食料品小売業が1/Sを占め る. しか し.架細を家族的経 営の ものが大半 であ り,飲食料品 ・燃 料な どを除いて,岡山市の商店鶴 に,町民の僻見力 を奪 われている。
表1‑ 5‑ 4 赤 坂 町 の 商 茶 統 計
LL
昭和47年5月1日 日..̲̲̲一.。ー ● 脚 売 潔 l ′J、 克 菜
T 去丈 8 8 5
十5‑ 戟 19 一 2 11
版 請 碩 7.000万円 75.2 0u万
昭和4 4年岡山見統計年報 よ り (5)教育施設 っ術生施設など t
教育砧殻 としてR, 中学校 1(赤坂中学校),′ト学校 5 (石相小学校 ・凝部小学校 .Jh'・岡′」、学 汝)がある。保育施設として,石相保育 鼠 (:3山保育 阻 腰部保育 鼠 樫 部保育 閤笹岡分間がある。
社会教育は,赤坂町中央公民館 を中心に.幅広い尋繋が活頓に推進 されてい る。
医嫉機関として帆 一般診療所7, 歯科診療所2があるO
上水道は,昭和47年 で普及車 5 8東に在ったれ 8 0外の普及 を目途に, 計画を進行 させてい る。
‑ 8‑
第 2 葦 自 然 環 境
1
花 樹 岩 の 山 地 と 河 谷赤坂町は 吉備高原 山地の東南部に位虎 し,中央 をほほ 南北に即流する砂川 とその支流 に よって開 折 を うけ てvlる0本町の山地には5 0 0Tnを越える ものが な く,岩神 山(24 0Tn),牛神山 (料 280m )な どが高い方である。南か ら砂川 を書かのは って赤坂町にはvlると,山陽町か ら連続す る沖横地は町苅 EElまでのわずか を範囲 にす ぎをyI。町苅 田は谷 口集落で あって,それ よ り上流は谷 比せばま り,谷tR:沿 って1 0 0TTL級の丘陵状 の山地が̲L並び.そ の外側 の町界付近 を2 0 0Tn級の山 地が振 どってい るoそ して速 く北に一段 高 く連 な った400Tn板 の山地 をみる ことがで きるo
LXJ 2 ‑ 1‑ 1の塵横切峰面凶 で も, この100m轍の山地 と2 0 07花板 の山地,そ して,赤坂町 の北の吉井町に広 くひろがる4 0 0Tn級 の山地 を明雌 に訳み とることがで きる. この図は幅5 0 0 Tn以内の谷 を埋 めて描いた塊 柿切峰画餅で,畏血 を うけ る前の地 形の概略を筏元 した もの とvlえ よ う。 この図か ら, 10 07n〜 2 8OTTZ, 2 8 01,∫‑ 4 0 077Lの斜面は比較的急峻 であ り, 1 D 0Tn 付近, 2
□
0T花付近, 4 0 0Tn付近にそれぞれ鮒 斜面が あ り(これ らの援 傾斜面をそれぞれ10DT7L面, 2 D 0m面, 4 0 0Tn面 と呼ぶ ことt′こ十る ),吉備陸岸準平原 が南に階段的に低下 している
⊥ うすが読み とれ る。この階 段的 低下を断面図で あ らわすと図2 ‑ 1‑ 2の よF)に なるO これは 2 5.0 0 0分 の1の地形図に「辺5 0 0mの方
E
Rモかけ,一方眼 内にかけ る最 高点を読み ,南北方 向の値を教本幽化 した もので ある。 1007n面吐定 高性 をもつ丘陵 の山横 で,出宴,酉磨部, 南佐 古田あた りを結んだほほ三角形の地域内に多 く分布 し,大池 (大苅Ef]の東 )の付近の丘陵 もその南 の連続 とみ られそ うである。 200m面は失敬 ,向庄,山手,′」\野地 (吉井町 )75どの地域にみら れ る山頂付近 の援斜面で,砂川 の谷か ら急 な攻遇 をあが りきると,視界がひろが り,波浪状 の起伏 の高原 とな ってい る。この高原上l′こは典簿が散在 し.畑地がひろが ってい る。 4001TL面は 吉井町 の仁堀 の谷 の北にひろが る高原状 山地援斜面で.赤 色化 した士にかかわれ てVlる。 4 DDTn面 と20 0m面 とは吉井町の仁堀か ら東徴北 に漣 る谷に よって‑だて られてレ、る. この谷は断層細に約 う谷である.谷の形成En:断屑迎劫がかかわ ったか壮 明吋 で拭 7frvlo 1 0 0Tn面は2 0 0Tn面 の地峡 に入 りこんでいるので, 2 0 0仇面 の削刺 低下に 上ってで きた呆時面 とみ るほ うが 1さそ うで ある。
本町 の地質比角閃石鼎等母花樹岩が大半を 占め, ごくわずか, 旧河 床の堆棟屑 と思われる鞭層が 散在してい る (囲 21 1‑ 3 )。 この辞屑壮 2 0 077L面上にのる もの と10 0仇面を刻ん だ谷 を埋 める もの とがあ り,両者はその位憩 か エび層相か らみ て異時 の堆棟 と考え られ る。後者は大池 (大
一̲9‑
図2 ‑ 1 ‑ 1 埋横切蜂面図
一一10‑
C L ̲ / T o ̲ ヂ
o砿70斗{/
q
\ヽヽo/ 図値藍高瀬NIi‑Z団L 9
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/f ( 号
i
作図 2 ‑ 1‑ 5 地 質 図
iT]田の火)の 束の横屑 と接続す る ものの よ う 1.仁考 え られ るの で, その当時 の水系 を潔層'K
よって復元す るこ ともで きよう。
花樹岩 は 風化(A:対 して穣端 に安定 な鉱物一 石 英 と不安定 を長石 ,黒畢母 とが造 る均 質な 等粒状 の岩 石 であ る。 これがは なはだ し く風 化 す ると,ルーズを団結度 を失 な った砂状物 賓 ‑ 俗に其砂 (マサ )となるが. これは成 分銘 物 の相互の位伍 は変 らない まま,力
学的
に闇結鹿 を失 な っている。 ポー リングや弾性 波地下探査 に よる と,
花
嵐岩 は 日本の多 くの 他方でvlずれ も地 表か ら1 0 0TTL, と きに仕 それ以深紅 まで マサ化 してvlる。 この ような 深部風化 払 おそ らく岩 休を分割 す る節理や 破 砕帯 に そう地下水 の作用であろ うO風化 は節理か ら次第 に造 山鉱物 の微細 を割 れ 目に及び,鉱物 の変質,細分 と進ん でゆ く。 中で も,斜 長石は化 学的 に風化 に敏感 で細分化 しやすvl。,%芸母 も鉱 物 自身の密智 を引 き起 こ しやす.ハ。 いず れ くn:して も風化 する と壌ず岩石 全体がやや褐 色気味 となる。これは魚S'母 か ら鉄が しみ出 してきた ためで, 次に ある特定 の方 向に小 さ くブ ロックとな って割れ や す くなる. しか し単 一粒子 と してはぜ た'遜如 しをいO花樹岩 の肌 がザ ラザ ラに なる段階 で も‑ン
7 ‑では まだ割 れ fEい.鉱物的には粘土 鉱物化 がナナむ。やが て,単粒子化 して バラ′ヾラ とを り, 手で も砕くことがで きる よ うに な り,垢 後に砂状 と
をi , 1 2
本町 で も花樹岩(・iはなはだ しく風化 され (写実 2 ‑ 1I 1),全 く砂 を凍み 上げ た よ うな状態 で あ り,それが パッ トラン ド化 してVlるところ がある。 また写真2 ‑ 1‑ 2の よ うに. マサ化 した屑 の下('Cマサ化 していない塊 状 の花 樹岩 をみ る こ とがで きる ところ もある。 この ように マサ化 した花 梅岩の採集 が本町 のV,たる ところ でみ られる (写 真2 ‑ 1‑ 3). しか し,山肌が あ らわれた とこ ろは比較的 少な く, 山地は ほ とん ど松 や雑 木で かかわれ てい るので,近年は マサの崩壊に よる禎器 は多 くは なか った よ うであ る (写真2 ‑
卜
4)o Lか し,昭和4 7年7月の集 中衷 雨に よってマ サの朋嬢
に よる被 譜をみ た。 ある場所では .崩壊 した‑?サが道に あふ れた。写 真2 I ‥ 5は その 道を#.めた朋壊土 砂 を と りのぞV,た慮後の もので あ る.,植 生が衝で あれば,そ の地域は 一応安定 し てV'る とV'えるo しか し,切削わ, あるいは マサの採娘 な どER:よって地肌 をあ らわ した風化土 層壮 侵蝕に対する世 抗が 弱 く,降雨 に よ り表面 が洗vl流 され,長 雨.粂 中豪 雨を
どにより大 きく崩壊す ib‑ 12‑
写 其 2‑ 1‑ 1 風 化 土 Fd
薙部まで風化 さIlJl・ドラン ド化 してい る.
写 兵 2‑ 1‑ 2 合 有 山 D J 頭
上部が風 化Jii,下 部か未ELTヒ眉O 断 層 も走 ってい るo
ー‑15‑
写共 2‑ 1‑ 5 マ サ の 採鵠
出足付近 の採娘現場。 こ うい う風食がいた るとEろIjtみ られ る。
写 先 2‑ 1‑ 4 惣 分 の 山 並 み
相生 が酢 では げ山は みあた らない。
‑ 14‑
写在 2‑ 1‑ 5 土 砂 崩 鰻 現 場
風化 した山 をけず ってで きた追hたえず土砂 の崩廉の危険が ある。
一度 ,鯛擬 の途 をた どるとなか なか もとにけ もどらないo風化土 用引n=中心河川 の発連に よる谷 eI)進 出がは じまると地表が急速に削 られ ′ヾッ ドラント化 L,植生 'Z)付着 も妨げ てはげ 山 と化する。人 に よる地肌 の描 出は,花t韻岩 山地解体に拍車 を Lゝ汁 るもV)であるo無秩序 を破壊は蹟凍!Jでvlせ しめ か すれば.大 き75:災害 を もた らすであろ う(,本町では対兼 の1つ と して,土砂 の流 出を防 ぐために 砂防 ダムが惣分川 上流,佐創 ILヒ流,森川上紙 17.と
K
TA設 されてい る (写兵21 1‑ り O#t L
ふi岩の山地は,花崗岩の 節理や所Jt紙 上の 鴨出忙気 正された地形 を示す こ とが多い,,通分川上 流の山中IKは花樹葛 の智塊 がみ られ る。鞍 Lt2 1‑ 7は節理虎がわか らず円形 lJC近 い岩塊である 那,軍拡 2‑ 1‑18の岩塊仏師矧桁が城 って か 1), 喪面は榊 らか であ る。水系団 (図 2‑ 1‑‑A) をみ ると,本町 の北 と戚 あた りにbJT頒 あるいLL防御 こ治 うと思われ る直線的 た筑 あるい(ri河がみ られ る。 それ らの方向払 油壷 した怖鞄の方 11,丁とだいたい一致す るよ うである。 一般'lC,花樹岩山 地虻その節楓 断層忙伯 う谷が 先通 しやす いO砂川壮 これ らの山地か ら堆秋物 の補給 を うけ,下姉部 では河 床に砂が堆桁 している。 源比吉井町の 太 田池付近で, 山地 を下刻 して谷 を形成 し,町苅 田下流か ら谷が大 きく掛 、てい るO 他山市の土手 根 付近 で首聞JHと合 純 し,海へそtlいてい る。
河 床林断面形 (図 2 I 1‑ 5)をみ ると,さに河 床勾配が変化 し,平滑 走櫛断面形 i̲・中断 してい るKnick point (遜急点 )を判現する ととがで きる。太 田池 付近 と町界付近 の2つで,町界
15 ‑
付近 のKnick pointでは岩盤が尭 出 し,早瀬 にな ってV,る (写寅21119,2‑1‑1D)。 Knick pointをす ぎると河 床は巨顎が 目にっ くようになる (写真2‑1‑11)。喋は 下流
に
V '
くに つれて小 さ くな り・坂 辺付近 か らは紗が大勢 'i̲・Lめ るように,{るo現在,収 も侵蝕の盛ん な と ころがKnick point・付近である ことはい う寸で もをVIo砂川 と向洋 の山地 の噂式図 を示 す と凶 2 l l ‑ 6の ようL/Cなる。 この怪Jか ら沈み とれ るこの地域 の地形発達は次の 上うに二考え られようo①2 UOmqu‑の形成 (Lxj中t'JA ),旬日触基軸面の低下に よる1DDTn面 の形成 (懐 中O,)B),
③再 度の捜蝕墓碑面 V)低下 に よる谷の形成 径)そ の布に確 屑が堆椀 ⑤その喋層の下刻に よる現在の の河#底地 の形成 〔国 中
U J
C),町 押付irLの海抜 10 07nの高 さOJKnick poir‑ ltは1087n 面のll刻に伴 ってつ くられ 次号削こ現在の位筋 になった ものであろ う。引 用 文 献
(1) 金 子 史 朗 (1972) : 地 形 図 説 Ⅰ 5 5
(難 波 英 子 )
′
′
'1・i束 2‑ 1‑ 6 惣分川上流の砂防 ダ ム 釧叫ダムは妙の流出 を
防ぐ O
‑16‑
写 兵 2‑ 1‑‑ 7 束 汎化 の 岩 姐
節理面がは っきりLない丸い占塊 が池分の山中J.I‑Cあ った。
写 兵 2 ‑ 1‑ 8 未 見化 の 岩塊
. 布鞄面がほ っき りした人昏丘岩塩 が凪化.qiに洩 まれ てい る。
一一17‑
写 3't 2 ‑ 1 ‑ 1 1 砂 川
Ⅹnick poirltす ぎると巨棟 が河 床を 埋 め る。
‑ 19‑
図2‑ 1‑ 4 水 系 図
‑
‑;70‑一・.71・:: ・::・・.'''‑'1 .〜 Lーl
i・(JrQ塔屋7.Q迩斐IJr定Q三
島S‑iIZFJ・234∫C7P
7
/0///2/3・A耽 EZ]2‑1‑6砂川と両貨山地の模式断面図による地形発達の概念2
山 砂 利層 の 分布(1) 喋層 (山砂利層 )分 布
赤坂町は,地質構成 の上か らみ ると花 樹岩がほ とん どで あるが,vlわゆる山砂利 と呼 ばれている 棟 層が.わず かに点在す る。 (図 2‑ 21 1 )これ らの帯 層 を,分布地 の地名を とって,それぞれ (イ)堀 切棟層 (ロ)山手嘩 層 レう今井棟 層 肖野間峠 南 部申層 とよぷ ことにす る.それ らの喋屑の概略 を述べ ると次の よ うになる。
(イ) 堀切鞭屑
地質調査所発行5万分の1地膚図周匝図倍に よると,準平原 形成以前の河川堆棟物 として記載 された もので, これ と同様 な ものは吉井川WL竣 (周距図備 中 )のあちこち(,‑C分布 してVlる。標高
2 4 0‑ 2 5 07花の山 陵上に あ り.風化作用 を強 く受けてかな り粘土化 した傑層で ある。花樹岩の 碁盤上に堆棟 してお り,全体的に′」、さを確で柵成 されてVlる。餅質比花樹岩 を壬 と し,流紋岩,石 英斑岩,古生層粘板岩 などで あ り,直径 10L7,以上の巨鞭はほ とん どみ あた らない。
(ロ) 山手確 層
標 高20 0Tnの山 稜付近にみ られ,層厚
さ
TRで堀切地域ほ どでは なvlが,か な り嵐化 されてVl る。粘土質で花 尚岩 を主要傑 とし,流紋岩,砂岩,石英斑岩 を含む。鞭は大 きvlもので直径25nI程度 の ものがあるが,全体的に比小 さいo H 今井喋 層
今井か ら大向の道路べ り忙蕗頭がみ られる。標高 5 0‑ 7 0Tnの地点(,r位惣 し.直径5 0m[以 上の花踊岩 巨裸 が,わずかで あ るが硬層 に混 在 してvlるo全体的に大 きを硬 が多V,。硬 質
(
,1
花樹岩 を主要傑 とし,流紋岩 ,石英斑岩,古生層粘板岩 などであるo(j 野間峠 南 部嘩屑
野 間峠 の南の,赤坂町 と山船町の町 界凍打かけて分布す る.標 高4 0‑ 8 8tnに あ り,巨鞭 を 多 く含む.馬頭 部分にみ られる ように .かな りO噂TFがあるo花樹岩 を主要畔 とし,流紋 岩,千坂 岩 ,砂岩 ,古生層粘板岩,石英斑岩 売どを王を鞭 官 とするo この鞭 屑は近藤晋‑に よれば.熊山町 矢田か ら西にかけて広がる熊山町冊層群V:J一部にあたる。 また.岡蕩^ ( 19 5 9 )は,野間峠か
ら東軽 部にかけて傑屑の存在を記職 し,これ を宮 口襟 層 (赤坂喋層群 )と呼ん でい る。
(2) 摸層の比較
前述の4地域 の畔 層を (a糠 の風化鹿 Oj)幹 Q')円形度 (円唐慶 ) (C)傑 屑の高度 (a)喋 の飽匪分 析の4つ の観点か ら比較 し,各帝確の特徴 をき ちに詳 しく考察す る。
E‑ll5‑
■ I
間 2‑ 2‑ 1 嘆 層 (山 砂利層 ) 分 布
斜顔 部か傑 層 (山 砂利僧) の分 布舵 臥 等 高線(I‑i.切 袈面の もの イ:堀切棟屑 ロ l,山手瞭屑 ‑ :今井傑眉 ‑ :野間峠疎層
(a) 疎の風化鹿
硬の風化慶 を述べ る場合,何 を基埠 とするか が問題で あるが, ここでは疎 の もろさとい う点に 基狸をお き,風化度 を次の5つの段博にわけて考え てみた。 この段階
L r iOlller (
19 a 5 )による ものである。
1. 新鮮 ,‑ンマ‑をはね返 す。
2. ‑ンマ‑で容易t'E砕け る.
5. 疎は一蹴 り(長 ('つで )で砕くことはで きるが手では無理。
4. 岩石 は手 ではば らば らに砕け るが水で仕分解 したvlo 5・ 水線状皆で崩れ る軟岩。
かな り大まか夜区分であ るが, こvJ5励 堵区 分Z,Cより樺 の風化度 を調べ,表 に してみる と表 2‑ 2‑ 1のようLnrな った。
'* 2‑ 2 ‑ 1
各棟層にかける鞭 の風化鹿
傑 層 風
化
度(1) 堀 切 傑 層 (.]) 山 手 鞭 屑 (Jう 今 井 傑 層 (j 野間峠 南部瞭層
5
〜
42
′
ー 51‑
‑ 21・
‑ 2注
,0111er(
19 65 )の5段牌 区分に 上る O堀切疎層の軌 i手でば らば らに砕け る ものが多 く, 4地域 の中では一番風化がすすんで お り,そ れに対 して野間峠 南部傑層は新鮮で[・15とん ど風化吐受けてV,ないo風化作用 を多 く受け ているほ ど 古い鰍 肩であるとvlえるならt/A:,曙の風化 鹿は辞層の形成期を推測する手がか りとなる。
(b) 襟 の円形度 (円磨鹿 )
棟 の円形度 と払 轡 の輪郭 が どe=)くらvl円 くを ってvlるか をあ らわす もので ある。今 日鞭 の円 形度 を表現するの
にWad ̲ e
llの方法 とt,A. nnllle
L1Ⅹの方法 とかが利用 され,数値に こり円形 慶をあ らわ してい る九 位者は,W,
a,l t rumbeln
がWad ・ ell
の方法に よる円形度を簡便に 求めるた めにつ くった 「視察のための円形乾固 」'?̲・利用 して分類する ことに した。確は粒径5 2相以上を使用 し,堀切聯屑,山手確聞,今 井鞠ndの5地域 のサノブルを調べ,各顔屑の疎 の円形鮭を 表托 してみた。 (表2‑ 212 )
‑i5一・・・・
LF
衰 2‑ 2‑ 2 各棟 層に おけ る確の円形慶
一 棟 屑 円 形 度
(1) 堀 切 傑 層 0.7〜 0.9 (p) 山 手 喋 層 α 5〜 0.7
〔t) 今 井 鞭 層 0.5‑ 0.4 注,Krumbeln 「視察 のための円形庭園」(n:よる。
(C)傑層の高度
赤坂 町に分布する各棟層が, どの くらV'の高度 に位思す るか を, 2万 5千分(Jlの地形図か ら読み と り,その位際を堀切地域か ら野間峠へか けての快断面図に囲示 した. (凶2‑ 2‑ 2 )
表2 ‑ 2 ‑ 5 各硬 層の 高度
傑 層 高 変 (nO
(イ) 堀 切 確 層 2 4 0〜 2 5 D 佃 山 手 蹄 層 19 D〜 2 0 0 (Jう 今 井 蹄 層 5 0〜 7 0 F) 野 間峠 南書冊 層 4 0〜 80 (a) 喋 の粒径
堆棟物の粒径を調査 す る ことは,i蛾 や堆棟 と営 力の牌 係を網べ る場 合に重要 75手がか りとな る。そ こで(イ)堀 切喋層 (。)山手傑儲 け 今井傑層のサ ンプルを ¢尺度
( Phi ‑scale)
を用いて 粒径分析 し,そ の累加 曲線 を描い て各 棟屑 の特徴を考 察す ることにす る。各棟 層の粒度分析結果は, 図 2‑ 2‑5に示す。表2‑ 2‑ 4 粒径 と ¢尺度 との関係
粒 径 (叫 め 粒 径 叫 ¢
4 4 ‑ i 1
D
5 2 ‑ 5 0.5
1
ld ‑ 4 0.2 5 2
8 ‑ 5 0.125 5
一一十2占‑
轄虫噛博Q嘩驚zINIZ囲
‑6 ‑5 ‑ 4 ‑ 3 ‑2 11 0 1 2 3 4 9
図2‑2‑ 5 各確層 の粒度 分析 結果
a:今井帯層 b:山手嘩層 C:瀬切 傑 屈
粒度分 析にみ られ る各傑 層の特徴 をあげ てみ る と次 の よ うであ る。 . (イ) 堀切嘩 屑
サ ンプルは5・1kg.粒径 2‑ 4qqの′」、襟 がわず かに多 く,他はほぼ平 均 している.粒径52JrhT 以上 の大確は あま りたい。
(∩)山手疎 屑
サン プルは8.5kyo 粒径52T7JR以上の樺 と粒径2
御
商 後の細硬 の頻度 が 目たって高い。 堀切傑 朋 と比べ てみ る と. 52孤研以上 の大礎の頻度が高 く逆167W前後の申嘆 の晩 変が わずか I/E低いれ 累加臥 はは堀切傑層の それ と類似 す る.(,.) 今井傑 層
サ ンプルは5,7kg. 粒径 5 2仰 以上の 大津 の朔産が
僻
に高い。粒径2BTX以下 の冊 は あせ り見 ら れず ,全 体 と して大帝 が多い.‑‑?̲8‑
ー■
瀕 御感 周 J 1 号凍 R
射 線周
L宝ト 2‑ 2‑ 4は,棟 屑 の大 まかを 粒 鑑 の比故 を試 みた もの であ る。 堀 切横柄 と今井 傑 屑仕 か な り異な った 嘆 の割合 をみ せ るこ とが判 明す る。
日 a 口
b田 C
図2‑ 2‑ 4 各畔層 の粒度 の比 較 a:粒 径> 1dJJr b :粒 径 1A‑ 1m c:粒径 く1m
以上 の的査患 巣に もとず vlて.赤坂町 の珠健はj(きく,2種 類 に分け る ことが で きる。そ れは堀 切 裸 層, 山手鞭 層 な ど赤坂 町 北 部の標高2 0ロー 2 50mの 山稜 付近 VC位既 す る裸 層 と, 今井堺 層.
野 間 峠 南部畔 層 を中心 とす る赤坂町 南部の原高政 1a,nの 高 さに ある裸 層 で あ る.か り忙前者 を 赤坂 町 北 部疎 層 群, 後者 を赤坂町 南部帝 層 辞 とエぷ ことに す るO
赤坂 町 北 部疎 層 群 と赤坂 町 南部裸 層 群は ,高匿(,CL・い てまず 1 0OTnもし くは そ れ以上 の葺 が あ り. また風化慶に かいて も差 異が認 め られ るD す なわ ち北 部鞭 層群は 風化度 が 高V,が, 南部玲層群 の襟 は まだ新鮮 を裸 が多い 。 これは サンプルを野 層 の荘 頭か ら採取 したた め確 実 を デー タとは な り に くい が, ある程産 の信 頼 性は あるO ま た赤坂町 北 苦陳 層群 と赤坂町 南 部喋層 群に ・t・け るサ ンプ^, 把 かけ る粒度 分析 結果 を考 えてみ る と,累加 曲者に大 きな差 異 が認め られ る。 す なわ ち北 部畔層群 は 南部確 層群 よ りも比較的小 さな喋 を含み,大取結ほ とん ど含 ん でい ないo地 形面 か らみ ると,北 音碑 層粁 d:山頂 諒 .q面上 Ijr位虻 す るが, 南部飯 層群 比低 い丘陵 をな し, 両 側 の山地'lt対 しては令 息 埋 め る よ うなか た ちとな って い る. これ らの点か ら, 赤 坂町北 部雌 屑群 と赤 坂 町 南部牌 層群 は 明 ら か に異JFIの もの で あ り,形成 期 も異を る もの と考 え らえ るo
次に赤坂 町席 部裸 層群 に つV,て考 えてみた いゎ切等面図 (図2‑ 1I 1)を参 考 に して過 去 の水 系を推察す ると,野間峠 南部確 Fdは ,近 年 晋一 ・岡 第人が 凋適 した熊 山町押 同 伴 と結 びつけ て考え
るのか妥 当の よ うで あるo また野 間峠 南紳 Idと今井確 層 とは そ の位燈 ・祐瞳か ら閏適 す ろ よ うに 思われ る。 また 熊 山町硬 厭群l^C吐直径さOil前後の 巨曙 が静 層 の 中に 存 在す るが, 赤横 町 南 部噂亀 特に野 間峠 轟音聯 同には斬 似の ものが現 察
きれ たO
以上 か ら赤坂 町 の押 層 及びそれ か らみた地形発達 につVlては 次 のよ うに推論 与れ 上 う。
(1) 赤堀町 北部鞭 屑群 (堀 91瞭 夙 山手紬 T・」 と示坂町 南 部拘 層 群 と比 異常 の もので あ り, 形成期
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