図411‑9大苅田柑区r
丸
(的山県凸地史)に 条里区担.を大沖で葛己大したもの参 考 文 献
「余塵 制」 梓 俊男,世 界歴史か典9,ヤ 凡社
「魚 墜制」 岸 俊男.世 界大百科 耶典1 1.平凡社
「桑豊
洲」
蘇弘道. 大 日本百科t軒4119.′ト草餅「
す.里 制」竹内理三 大 日本歴史 餌典5.i舶 周冴「免盟 制の奴 的」開山11,との歴史.岡山瓜 昭和57年
「象匙の進
牡
」 赤軒 郡鮭.岡山搬赤解 郡数 市会.昭 和1 5年「岡山Ar<l忙おけ る魚里 の狙祉」永 山卯三郎,岡山妹典地史.掛 り軌 昭和27年
‑‑86‑
「駅伝 と条里 の祉」西山村史 (全), 岡山県赤井郡山陽 町西山村史揚幕季 長会. 昭和29年
「一宮VCかけ る条里
」.
一宮VCおけ る歴史 と現代 (地域研究亀 14射 , 岡山大学 教育学部社 会科研究車内地域研究会. 昭和45年「条里制と古代娘藩の復原」谷岡武 払 古代姉土史研究法 (姫士史研究講座 2)古島 敏弘 和 歌森太臥 木村建線集. 朝倉書店. 昭和4 5年
2
鳥 取 ・軽 部 ・笹 原 庄古代の併敵国仕若干の君防ゝら成 り. 郡拭また篇千の部か ら成 ってVlて. 「廷書式」
や「
和名抄」
に上れば. 8郡 5 1細であった巾 ただ し, 郡や井 はともvc.その後の時代に しば しば神 勅 ミあ9, 特VE郷 Vr‑つvlては神雑を分 割や名称 の細 が あった。 平安・穿町細の備 前 国の郡は. 邑久恥 ・和 気郡 ・赤坂郡 ・解梨郡 ・上道郡 ・御軒 郡 ・幹砧郡 ・W.島郡の8郡であった.,
,
「市塙 抄」 vc上れ h'. 備前の国の国府は.御野郡 (現岡山 市) にあ9, 京都までの行和t t
,上 り8日. 下9 4日を襲 し【
た 上うで ある∩ 律令 fh・lT下の奈良 ・平安時代の地方政 治は. 国には任期4年の 国
司.
郵船 郡司vcよ E って行なわれ も 備 前の国司と してPi,大宝5年 (78 5). 正五qI:下猪名東人石 酌が任 じられたのが最初 であ るO .そ の後.平安時代末頃tで忙傭 如国司に任命 さhた者は, 200余名が判明 してVlるnそ の中vc仏 者政 を朴 た ことで有名な青 原傑 別千, 藤原氏全盛細を集V,た道長 など の名 も見えるのである..当時の国司 (受
齢
は.任期
比 4年で あったか. 莫大 を収入が得 られ た たれ 中央の貴族拙 競 って国司にな った ものである,.平安中細の頃か ら地方政 治 も弛位牌放 し,「受鎖は倒 るる所に土をつか め」 と青われてvlたほ ど人民を沖取 し.私腹 を肥やす藤 国司も少な くなか ったので ある。 寛仁2年 (1018)vC. 備前守能通は.備 前が大草VCみ まわれ た時.孤 者 を陳情すべ く京都 VC出張 しなが ら, しか も,その早番が紗の政治 の無策 のためであるVCかかわ らず稚門の甘心 を得るためVC.米50 0石 を適演VE, 5DO石を頼通Vi{献 じてV,る例 な どがみ ら れ る,.
明治・55年4月VC赤坂軌と解梨郡が合併 して. 赤軒都となったのであるが. 赤坂 郡が初めて文 献vE見 られ るの比 拳老5年 (7 2 1)のことT. それ以前は.上道腺か上道国の一部 であった 1
4i ェぅだn その後多少 の分合が あ って. 元aE5年 (88.)K tt.妬 故 占. 戸数 2 95.練T 17 54となってV,る
.
「和名砂
」vc仕.周匝 .宅莫 ・軽 部 ・高月 ・鳥取 ・葛城の d称をのせ, また L 「傭船国劇 vc払 周匝 ・平 岡の2舟・ 鳥取 ・郎 ・仁か 竹枚の4巷 をあげ・那 万7千9首占 4石4升と配 してV'る。 (1)
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幹梨郡は も.と・赤那 陀 9珂磨 ・佐伯の2狐 上道郡 より物理・桶野 ・沙 石の5郷 をさvlて創 F.:せ られた ものである。 天平神課 2年 (76占)には和気
郡
に屈 してVlる∩ その臥 上述 の5郷 と,旧和気郡の石生 ・和気の2郷 との計7郷仇 郡治所 よ9速 く.また吉井川に隔て られてV,て 不便 なため廷席 7年 (78 i).和気柵麻呂の首vcよ9和気郡よ9新たVC磐梨君跡 さV.て勘 、れ た。大化の改新 (4 45年)以丸 日本は緋令国家 としての形を救えてい くのであるが.改新の詔 の1つ 「班田収授法」に より.それまで の皇族 ・襲族が持 ってVlた私有地 ・私 有民は廃止やh, 男女 とも一定の年令に逮すれば国か ら口分田を与え られる公地公民の肘掛 たてまえ・とな った。\・と ころが B世紀前半vc出された 「三世一身の法」 ・ 「亜田永世私 財
荘
」 とV,う2つの法律をきっか け として,公認の土地私有制慶かめばえ.班 鮎制鑑壮早 くも崩れることと凍った。 これが荘園の かこ りであるb^ 々の生活は土地を基盤 としていたか ら. この時以来,大礼寺 ・水族 ・費族連ね 進ん で土地 を賄賂 し.荘園を拡大 してVlったのであるO 現在の赤坂町の区域帆 そ の昔灯 島取 ・ 軽部の2郷にわかれてVlて.荘園化が進め られる段階で. 鳥取 ・軽部 ・笹原の さ在 と在ってvlく のであるが.そのことにつVlてこhか ら述べてVlきたいと思 う,,( 7 )
僻部荘(てつvlて「寺嶋 抄
」
ケこ軽部称 と織ってV・.ること机 先L/C述べた とう9であるが・一体. どの範囲に在 っ たのか と言 うと. 「和名抄」の軽部郷は.旧任岡村 ・旧軽部村 ・rEl仁琳村 と,旧布部実科の一部v
c広か ってvlたと憩われる。
「古水肥 」
に. . 為一木梨之軽太子御名fL 定一軽部(2)
とあることか ら.Lt・の軽部郷は.允恭天皇の皇子.木梨軽太子のために設け られた御名代の地 で あった ことか わかる∩御名代 とvlうのは.古代.天皇 ・皇后 ・皇子等の名 を伝えるために,そ の 名ま1,‑trl.居所 の名を負わせて畢V,た私僕の部民のことであるn 平 安後軌 荘園の発達VC伴V,こ の地 も軽部萩 として荘 園化さytてい った。 軽部菜 とvlう荘号は.明徳4年 (159 5)の,前 田 家文苛作みえてVlるn 時代は下 って,醸長10年 (1d Od)の.備前国高物成帳Vこは軽部在 と
して.
所軽部村 ・東軽部村 ・迫田村 ・北迫tZl村 ・多野村 一出屋村 ・小原村 ・頓辺村 ・他分村 ・平山村
・山手村 ・大矢村 ・丑山浄土寺 ・宵而山村 丁正純寺村 ・山方村 ・今井料
の吉117ケ枇 断 てV,る㌘)紙
元
文 2年 (17, 7)のIr・mh7舶軌
鴨 1 西軽部村 ・丑寺山村 ・粟軽部村 ・今井村 ・南佐古田 (古て、,迫田)村 ・北佐古田 (古‑,北迫 田)村 ・大昏村 (盲‑,大矢) ・酋神山対 ・多賀村 ・出屋村 .正沸専科 ・山手村 ・憩分村 ・憩 分下村 (惣分村に属す。古名は田々原) ・坂辺村 .小 原村 ・山上 ,(吉名山方)村 ・平山村‑ 88‑ J
の計.8ケ村を鵬 在と して‑て!4'鮒 ,村が増えて‑ るn 昭和, 5年発行の細 郡琶忙 よれば 企長10年以前の軽部在は.仁裾 荘 (戸沖野村 ・珊 襲村 ・中勢実 村 ・東村 ・西村 ・中村 .広戸 村 ・河豚毛村 ・小錦か 沓石村 .塩木 村)を も含めた広しっ地 域だ った と思われる
5 5
)中世の荘 園の傑域や,村名 などは変乱か敵 しか った よ うで ある,,とのこと払 下勉上の風潮 か風沸 した時代に あって, 中央 のみならず,地方薮族のFrilでの権 力争いか荘園の争奪を主た る ものと して展陶さh てV'た ことを推測させ る もの である0
枚
に述べ る鑑隈巷 も,軽部荘内の 9ケ村 を主と し. 凝苦描三 か ら分離 してで きた ものであるo 鮎等 され た年は定かでI,Tlなvlが.江戸時代末期の人 大沢惟月 の手vcよる 「吉備
取故」の 中の 「民間の市村」
忙詑 されている ものVClれLrlr.軽部荘 ・在原荘そして仁堀#.各 荘Vr̲属す る村 々け以下の削 であ ,て.各荘の属村の変動 iわか る£61 軽 部荘 餌聯部村 ・笠寺LJJ村 ・東軽部村 ・阜封村 .大屋村 ・南保古 田村
・
北佐古 円村・・ ・ 計7ケ村 在 原荘 ]」手村 ・多新村 ・&.昏村 ・首邦LlJ村・JT:.渦 有村 .,J、原村 ・坂 功村 ・山 ノ上村 ・平山
村 ・惣分村 ・・・訂 10ケ村
仁術荘 仁相 乗村 ・仁珊 中村 ・仁堀 西村 ・仏戸村 ・小錦村 ・仁砺河原毛村 ・所勢平 村 ・中教 学 村 ・戸津野村 ・上境木村 ・替石Lu村 ・・・計1 1ケ村 この よう在村 々の分離あるvln結合が担 ってVlるのは.士斎表族 の軒 力争v
l
に よる ものであるかもし九をV,。 鎌倉時代VCかvlて.軽部荘kt.守 芦救土 肥 ・佐 々木氏その後.松 田 ・赤松・LLJS ・ 浦上氏等の支配の下thr治め られてvlたハ
小)笹原在につvlて
赤坂町北部の旧套岡村の地域に仇 山手和 ・多野村 .出岸村 .葛滞山村 ・正林寺村 ・小原村 ・ 坂詔村 ・山ノ上村 ・平山村 ・恕分村などの村 々か あ って.徒古は, これ らは前述の通 り,軽 部胡;
忙属 してV,たので あるが, 平安 後期荘園が発議す るに瀬び軽部茶托凍る と,̲卜述の10ケ村は解 原若となったのであるo 「吉備温故 」の 「民間 の書付」 の
頂に.
笹原在 と して, 10ケ村か記さ れてvlる ことk,(カの所で既に述べ た通 .Oである..(9)鳥取 准KつVlて
大化 の改新 (占 45年)
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VCよって.公地 公民の御慶が建て前とな った ことは既に述べ た通 りで あるが ,それ以前の大和朝廷が支配 してV
.た時代には.負̲* ・豪族払 各棟 の.部民と呼ばれ る 1つの肺葉vc専門的に従車す る隷属 民の典 B]を持 っていた. そ の中の1つVC, 鳥取部とvlって.鹿 を捕 った 9, 飼輩す る ことを仕事 とす る典 助力】あ
〕
た。 この,鳥取部 の設 産の由来につV,て払「日本馨紀」の垂仁段忙載っているので以下に紳介す るか, この鳥取荘も. 全国陀隈かh た鳥取 部の都民の集落の 'つ であった㌘)
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し こ∃
天皇立一於大殿前̲・甘津別皇子侍.,之・時有一船鵠̲慶一大鹿̲皇子仰観レ鵠 日長何物 取 天皇則知一重子見 レ鵠柑レ嘗・両者レ之∩訂一左右̲ 臥 誰能捕‑長 鳥̲献レ20 於
I
,是・6取 造祖.天牌河板脊奔官.臣必捕而私 邸天皇勅̲瀞何夜誉̲ 日.汝献̲定点̲必敦焚免 時静 河板誉遠望̲鵠飛之方̲,追那 旨̲出蛋匝̲,而捕私 戎 日.棉‑f但属国̲A 十一月甲午朔 乙未・済河板誉献 レ鵠也 音律別命弄一足鵠̲逮得一言簡 J 由レ足教jL 淑河 故脊 J 則賜 レ姓両 日一息取造̲因亦定一鳥取部 ・鬼饗部 .昔時部̲ nさて.この鳥取都の^たちが,何処で鳥を捕 ったか とvlうことにつvlて. 「赤穀郡乾」は,ロ)瀬 田 ・馬渡 ・南方等の地名が裁ってvtる((塾千余年酌に行なわれ た条里肘帆 十七 川以東VCかいて は殆 ど.その跡を鬼女vlことハ③荊沢地の出口と思われ る.船場.十七川の左岸に おいて2mの 地下
上9
岩梨の石錘1衝が発見された. の, 5つを根拠 として.現在の山陽町の南弘 桝田 ・ 青首 ・南方か ら船裾に至るtでの. 東はほ とん ど山VC接 し, 西壮ほほ十七川にはさまれて る‑帯 に.音大解釈があった と潜像 L. この辺 少を中心VEして鳥取 部が括印 したので杖をvlか としてvlる!8)
「和名抄
」に
,赤坂郡鳥取部 と記されてVlて.平安後軌 荘園制がj‑̲地支配の土台 となる
に及 んで, 全岩細り忙在院化が3Lf・み. この他 も.払取荘 とな った( ,bI&非の名札 地久2年 (119 1) の島 田文事に見え るo 当時,本荘払 全国百余 ヶ所vC散在 してvlた後白河荘畠?,六条殿 選別堂 に付せ らかた長所堂儀の1つ であったh そ して.そ の徒渉塵 の鳥女五牌門院の御管穿下作あ った のであるが,径深草上皇VC誹 られ 永 らく持明院銃の御領 となったのである.この,長緋蓋領の 変適につvlて.奥野高広氏の鞠文 「卓町時代の鼻辞御伽
馳する研究」
によれば5 9
)元 中9年 (159 2),南北朝合一の時,その免件 の1つ VC・.持 明院統仇 長押堂領 ・播磨国帝領 を.大 先 寺就任諸L3;]国街領 を伝儲するとい う萌が ある∩ 此晩 北朝側御領 の大部分は.穀光上皇の御管理 VE属 し・長計堂儲その他仇 楽轟御僕ではなか ったoす なわち,後光厳 ・復円敵天皇の時代 を通 じて も.
点
光上皇が持明院統御飯の大半 を持 ってVlて,応永5年 (139 8) .崇光上皇が御励 御なされ,.後小松天皇が立たれるVC及ん で.農光上皇の御領 であった長所堂儲その他の御領をこ とご とく没収されたの であるO 後小松天皇が誹位 された後 上島 とな られて も,長群生領そ の他 の御儀は,同上皇の御管理下VCあった ので あるが・長所堂債の うち・丹波上村荘 とや 前鳥取巷 と 払 同上皇准母准三宮 日野廉子の御経済vcあて られたの Irある。 そ の弘 応永28年 (14 19)日野康子の死去によ9・後小穆上皇の御管理下に複す るととYcな った. 永享5年 (14 55) , 後小松上皇が崩御された軌 長所堂儲咋後花園天皇 の発表御債 となったa
塵穿御傷 の中の最大の ものであった長新堂領の1ってある傭軌 息額在仏 vlったV.どの ようを ものi.どの くらvl年斉 として献上 してVlたのであろ う九 建久2年 (119 1)の島 田文馨の
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