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GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項 : ケロル・S・ヒンマン(Carroll S. Hinman)の覚書を中心に

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(1)  ・GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項 一ケロル・S・ヒンマン(Carrol1 S. Hinman)の覚書を中心に一. 金 官正.*. 1.はじめに  従来.日本国憲法の制定過程に関する研究においては,’日本国憲法の一一・部の. 条項‘とりわけ統治構造に係わる条項が,GHQ/SCAP、(General Headquarters, SupiteMe−Cd血nander for the A班ed Powers:連合国最高司令官司令部)憲法草. 案に基づいて作成された,どいう立場に立つ分析が多い。しかしeこのような. 分析を提示している研究のなかで,GHQ/SCAP憲法草案の統治構造に係わる 条項が作成さ一れた経緯について詳しい分析を行っている研究はそれほど多くな い。’また.こうした研究があるとしても,その分析の焦点は,・主として,対内. 的な主権の所在と国家権力の行使や,対外的な主権の行使に関連した条項にお かれゐ傾向が強かった。たとえば,「天皇の地位・国民主権⊥条項に関する中. 村政則の研究や小倉裕児の研究,「戦争の放棄,戦力及び交戦権の否認」条項 に関する佐々木高雄の研究などは,その体表的な例であろう’}。このように見 ると,、一部の研究における分析を除いて,今日th般的に見られる分析,すなわ. お日本国憲法がGHQ/SCAP憲法草案に基づいて作成されたという分析は,実 は,GHQ/SCAP憲法草案における個別条項が作成された経緯についてみた場 55.

(2)  横浜国際経済法学第16巻第2号(2008年2月). 合に,十分な検討を欠いているものであると言える。しかし,GHQ/SCAP憲 法草案における各条項が,これと対応する日本国憲法の各条項の成立に強い影. 響を与えたとすれば,GHQ/SCAP憲法草案の各条項がどのような経緯を経て 作成されたかを分析することは大きな意味をもつであろうと考えられる。なぜ なら・こうした分析は・日奉国憲法の成り立ちを理解する際に必要不可欠であ ると考えられるからである。・・、.  GHQ/SCAP憲法草案の統治構造に係わる条項のうち,とりわけ財政関連条 ’項は,それが統治構造の維持及び運営と不可分の関係をもっているにもかかわ. らず,これまでの憲法制定過程に関する研究においてその作成経緯に十分な 関心が払われてとなかった条項の代表例であると言える。事実,今日,GHQ/. SCAP憲法草案の財政閲連条項と日本国憲法の財政関連条項との関係について 何らかの検討を加えたと見ることができる研究としては,「公の財産の支出又 は利用の制限」条項に関する笹川隆太郎の研究と,「皇室財産・皇室の費用」 条項に係わる筆者の研究があるのみである帥。. T 、  ..  また,日本国憲法の制定過程を扱った従来の研究の場合,政治分野における 占領改革を所管していた,GS(Govemment Sec芭on:民政局)がGHQ/SCAP憲 法草案の作成を担当したことから,GSの役割のみを重視する傾向が強かつた。. いわゆる「密室の一週間」という表現は,そのことをよく表していると思われ る3}。しかし,GSがGHQ/SCAP憲法草案のすべての条項を作成したとしても,. 各条項の内容は他のGHQ/SCAPの部局の政策とも係わりをもっそいる。した がって,GHQ/SCAP憲法草案の各条項を作成していた.GS dis,各条項の内容. をめぐって,GHQZSCAPの関連部局と何らかの調整を行った可能性を完全に1 排除することはできない。   、       .   F   、.  このことから,GSがGHQ/SCAP憲法草案の各条項を作成する過程におい て,他のGHQ/SCAPの部局が関与した可能性を検討する必要もあると考えら れるe:とり.わけ財政関連条項の作成との関連では,fそれらの条項の性格上t、他. の部局t具体的には経済分野における占領改革を担当していたESS・’(Ec6nomic  56.

(3) ’.                      GHQ∬SCAP憲法草案の財政閲連条項 and Scientific Section: me?X科学局)が関与した可能性を追求することが必要で. ある。しかし,従来の研究において,その可能性に十分な注意が払われるこ. とはなかった。現在のところ,GS以外の他のGHQ/SCAPの部局.たとえば ESSや,農業,林業,水産業,鉱業などの分野における占領改革を担当した NRS(NatUral. Resources Section:天然資源局)などが,何からの形でGSによ. るGHQISCAP憲法草案の作成過程に関与した可能性について検討している研 究としては,GSの憲法制定過程への介入と関連して皇室財産問題が重要な意 味を有していたことを分析した天川晃の研究や筆者のこれまでの研究があるに 過ぎない㌔・     一   ’  、    ・           一.  本研究は,G且Q/SCAP憲法草案の各条項に関する上述のような研究状況を. 踏まえたうえで;GSがG且Q/SCAP憲法草案の作成に乗り出す直前に, ESS において大日本帝国憲法の財政関連条項の修正に関して作成された覚書.具体 的にはESSのFD(Einance Division:財政課)におけるPFB・(Public Finance Branch:公共財政班)の予算監督官(budget..superVisor)であったアメリカ合. 衆国陸軍中尉のケロル・S・ヒンマン(Carroll S. Hinman)によって1946年1. 脚日付で繊馳響の・月細イ寸で倒こ靹舗た鰭「畑本 帝国憲法の修正に関する提案」1を手がかりに5),以下た述べる三点を明らかに することを目的とする。.  第一に,ESSにおいて上記の覚書が作成された経緯と,その覚書を作成した ヒンマンの人物像とを検討することに』よって,、GSのみならず他のGHQ/SCAP. の部局がGHQ/SCAP憲法草案の作成に関与したことを明らかにすることであ る。従来,GHQISCAP憲法草案の作成にはGS・のみが係わったとされ,とり わけGHQ/SCAP憲法草案における財政関連条項との関連では」GSのフランク・ リゾt(Franlc Rizzo)の役割に分析の焦点が当てられてきたと言える。本研究. は,GHQ/SCAP憲法草案の作成過程をGSの役割のみを中心に検討してきた こうした従来の研究に疑問を提起することになるであろう。.  第二に,ヒンマンがtJ大日本帝国憲法の修正問題に関してどのような考え方.                                  57.

(4)  横浜国際経済法学第16巻第2号(2008年2月}. をもっていたかを明らかにする、ことによって,当時の、ESSが考えていた国家. 財政のあり方を分析することである。ヒンマンの覚書は,GHQ/SCAP内部に おける正規の連絡系統を通じでGSに提出されたものであり,当時ESSが大日 本帝国憲法の財政関連条項についてどのような認識をもっていたかを示すもの であったと見てよい。したがって,本研究は,その覚書の内容を詳細に分析するぎ  第三に,zヒンマンによって作成された覚書が, GHQ/SCAP憲法草案,、どりわ. け財政関連条項の作成過程に与え1た影響がどれほどのものであつたかを明らか にすることである。これまでGHQ/SCAP憲法草案の財政蘭連条項との関連では,. それらがリゾーによって作成されたと言われるのみであり,その作成過程の詳 細が未』. 明のままであった。本研究は,リゾーがGHQ/SCAP憲法草案の財政. 関連条項を作成する過程において利用可能であっだど推測される憲法草案,LfZ とえばヒンマンの覚書,憲法研究会憲法草案要縞,憲法問題調査委員会試案など,. それらをGHQ/SCAP憲法草案とを比較・検討したうえで,iヒンマンの覚書が 強い影響を及ぽしたことを,次章以降での分析を通じて明らかにする。. 皿.ESSの新憲法制定過程への関与とヒンマン  1.皇室財産問題から憲法制定問題へ       ’ f.一、  ‘.  ESSにおいて大日本帝国憲法の修正に関するヒンマンの覚書が作成されたこ. とは,注目に値する。なぜなら,この覚書は,GSのみが新憲法制定過程に閲 与したという一般的な見方に変更を迫るものであり,ESSが日本の新憲法制定 問題に何らかの形で関与した可能性を強く示しているからである。そこで,新. 憲法制定問題に係わる上記の覚書が,なぜESSにおいて作成されたかという 興味深い問題が提起される。ここで,結論を先取1)して言うと1ヒンマンの覚 書は,ESSが新憲法制定問題に係わったことによつて作成怠れたものであった・ fi}。         一’.     1    ,  .     ’・.  ESSが新憲法制定問題に係わることになつたきっかけは,「税」という政策 58.

(5)                    一  GHQ∬SCAP.憲法草案の財政閲連条項. 手段を用いてすべての皇室財産を解体しようと目論んでい1たことにあった。こ. のESSの目論みが明確に示されたのが,1945年11:月24日に日本政府に発せ られたGHQ/SCAPの指令,すなわち「個人ξ法人の財産または資産のみなら ず皇室財産に対して、も戦時利得除去を目的、とする一回限りの特別税を課する」. という指令であった7}。:しかし,1問題は1当時NRSがtt皇室財産のうちとり わけ山林関連財産に対しては,一回限りの特別税を課さず,直ち}こ農林省に移. 転すべきであると主張していたことである。そこで,皇室財産問題はGHQ∬  ノ. sCAP、において調整事項となり,1946年1月29日にはESS, GS, NRsによっ て皇室財産問題に関する政策調整が行われたσ    1ny  L: , 、.  ESS, GS, NRSが1946年1月29日}こ合意した皇室財産問題に閲する妥協案は,. GSだ憲法制定過程に直接的に介入することを前提としたものであり・当時の 皇室財産が,天皇の地位に付属して永世に伝えられる一山林,宮殿敷地農地 建物敷地などの財産を意味する世伝御料(世伝財産)・と,世伝御料に分類され. 驚㌘灘繋三麟:蕊禰㌶:三 いうESSの考え方を多少修正し,、皇室財産のうち普通財産を新憲法に基づ㊤. 畑本螂の関灘庁罐管する斌で解体する訪で雌伝財産を一回限1り の特別税を課する形で解体するというものであった。Gsがすべての皇室財 産を新憲法に基づいて国有化しようとしなかった理由,つまり世襲財産を7回 限りの特別税を課する形で国有化しようとする理由はT’一応世襲財産を残し’. GHQ/SCAPが日本国民の天皇に対する感情に配慮したというジェスチャーが 必要であったからである。’こうしたことからは,GSがGHQ/SCAP憲法草案 にとりかかる以前の時点において,事実上,・,GHQ/SCA丑憲法草案第82条t’:す. なわち「世襲財産を除く皇室の一切の財産は国民に帰属すべきであるe一切の 皇室財産から生じる収入は国庫に納入すぺきであるJ,という規定がほぽ決まっ ていなことが浮き彫り、になる8)。t     r         I.  一方,上記のような皇室財産問題をめぐるESSとNRSの政策対立が激化し         ・                                     59.

(6)  横浜国捺経済法学第16巻第2号(2008年2月). ていた1946年1月中旬頃,GSの要員であったマイロ・E・ラウエルi(Milo E.. Rowell)は,当時日本政府を中心に検討されていた憲法改正問題に介入する論 i拠の・一一一つとして,皇室財産問題を用いる戦略をとった。ラウエルはi皇室財産. 闘題が憲法事項であることに着目したうえで,天皇を議会に従属させるという. 占領目的を逮成するためにはGSが新憲法制定問題に介入する形で皇室財産問 題を解体する必要があり,またFECが憲法改正問題に関する政策決定を行う. 前ならばそれは可能であると主張したのである6ともあれ,GSは,2月1日 付の『毎日新聞』に「憲法問題調査委員会試案」が掲載されたことを契機にご 憲法草案の作成にとりかかることになる。.  ここで注目すべきは,皇室財産問題をめぐっ㊦EsS,・GS、 NRSによる会議. が行われた1946年1月29日以降ESSとNRSが, GSに$る新憲法制定過程 への直接的な介入が聞近であると判断したうえで,新憲法制定問題と関連して. それぞれの政策を実現するためにGSに対して圧力とも言える行動をとったど いうことである。NRSの場合GS’に対七て,.1月29日lt合意した皇室財産問 題に関する妥協案を2月15日までに実現しなげれば独自の行動をとるという 見解を示㌔ていた。一方,ESSは、ビンマンの覚書をξ}Sに送付した6現在 GSに送付されたこ1のESSの覚書が, GSの要請によっ1で作成されたか,ある. いはESSのi独断によって作成されだかは定かではないe・ただ,当時ESSの局 長であったウィリァム・F・マーカット(W三1§a澁EMarquat)は,1月31 H 付の「大日本帝国憲法の公共財政関i連条項に関する修正」において,「添付の. 覚書は,大H本帝国憲法のありうる改正と関連して,考慮のたあに送付す為」 と記しており9},1月30日付の「大日本帝国憲法の修正に関する提案」はESS の独断によって作成された可能性が高い。なお,ESSは, aN’RS同様,皇室財. 産問題に関してもGSに1946年1月29日の合意を実現することを要求’した。 具体的には,G亙Q/SCAP憲法草案を作…成していた2月9N,・2月11日に皇室 財産問題に関する協議を要求したうえで,応じなvS場合,皇室財産簡題を予算 上の問題として捉え,独自の行動をとる構えを示したIP)。L…’1、   一  部.

(7)                      GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項.  以上のことから,皇室財産問題をめぐるESSとNRSの政策対立を調整す るために行われたESS, GS, NRSによる1946年1月29日の会議は,当時日 本政府の新憲法制定過程に直接的に介入するという、GSの目論見と絡み合いi ESSとNRSが憲法制定過程に関与するきっかけとなったと見ることができるL。 そして,このよう・に見ると、とりわけヒンマンの覚書が何の目的な・しに作成さ. れたものではなく,GSを通じて日本の憲法制定過程に関与するというESSの 明確な方針のも1とで作成されたものであったことが明らかになると言える。.  2.ESSにおけるヒンマン     ・    .    ’,’.  ESSにおいて作成された大日.本帝国憲法の修正に関する覚書,つまり1946. 年1月30日付の「大・日本帝国憲法の修正に関する提案」は,ESS要員であっ たヒンマンという人物によって作成された。ここでは,ヒンマンの人物像を明 らかにし,ヒ1ンマンが,’ ハたして大日本帝国憲法の財政関連条項に関して修正. 方向を提示する専門性を有していたかを検討すること}こしたい。 ,.、L・一’s 』」1. qンマンがG且QソSCAPの要員となるの・は、ユ945年10月30’日であった1P。. ただ,最初ヒンマンは,ESSではなく, GSに配属されていた12}。しかし,・10. 月31日,LGSは,ヒンマンをESSに紹介した13}。”ESSは,その:日にヒ・箒マ ンに対する面接を実施しtlFDに配置することを決めた.14}。そじて,こうし. たESS内部の決定を受け,11月1日, ESSの初代局長,つまり1945年12月 中旬頃にマ・一カヅトに交替されるレイモン・ド・C・クレrマー(Raymo皿d C.. Kramer)は. GSの同意を得てピン〔ンをESSの要員として配属することを決. めたごとを事務の記録・人事記録や軍旗の保管などを担当するAG(Adjutant Ge㎡eral:高級副官部)に通知するとどもに,こうした人事異動に関する正式の. 指令を求めたIs)。それ以来,ヒンマンは,1946年4月1日付けで現役服務か ら解除されるまでESSにおいて活動することになった。        ト .当初GSに配属されたヒンマ.ンが一ESSに配置換えされた背景には,一当時. ESSの局長であったクレご々一がGHQ∬SCAPの政策決定に強い影響力を行                                  61.

(8)  横浜国際経済法学第16巻第2号(2008年2月). 使していたことがあった。クレーマーは,日本に対する占領支配が間接統治 方式となったことを契機にIs), r日本に対する直接軍政を前提に設置されてい. たMGS(Military Government Section:軍政局),の解体を主導した後,1945. 年9月15日にESSが設置されると同時に,その局長に任命され,’有能な要員 の確保に力を入れていた17).企業の役員,破産管財人等の経歴を有していた クレーマーがESSの要員採用と関連して特に注目していたのはIs).’カリフオ ルニア(California)t州モントレー(Monterey)所在の℃ASA,(Civil Affai拍 Staging Area:民事準備地域)出身の人材であった19}。その理由としては,<表. 一1>ESSのFDにおける主要要員の主な学歴,職歴,軍歴からう:かがえる ように,{ ・ CASAの場合,民間人出身の有能な人材が多かっただけでなく,バー ジニア大学(University of Virginia).{に設置されたSMG(Schqol of M三litary. Government:陸軍軍政学校)や,シカゴ大学ヒ(The U豊iversity of Chicago),. ノースウエスタン大学(Northwestern U垣versi廿),『ハーバード大学(Harvard. University),イェール大学(Yale Universi{y)に設置されたCATS(Civil Affairs Training School:陸軍民政訓練学校)において軍政教育及び訓練を受け. た人材が多かったことをあげることができる2°)eクレーマーは,ヒンマ1ンが.                 i CASA出身の’人であっ1ただけに,すでに1945年10月6日の時点でとンマン. をESSの要員として採用する方針を決め,陸軍省に協力を求める電文を送っ ていだ2%ところが,陸軍省は,その理由は定かではないが,クレーマー・の要. 求を退けたbそこで,クレーマーは,ESSが陸軍省に対してとンマンのESS への配置を要求した事実を企画,人事,庶務などを担当するG1(参謀1部)と’,. 予算,補給武装解除などを担当するG4(参謀4部)に説明し,この二つの 部局の同意を取り付けたうえで,ヒンマンをESSに配置換えさせるという強 引とも言える方法を用いたのであるn)。r’    c       ・コ’.  UンマンがESSのFDに配置されたことは,当時32歳の男性であったヒン マンの学歴,職歴軍歴が合理的に考慮された結果によるものであったと考 えられるn}。ヒンマンは,シラキュース大学(Syracus University)の政治学 62.

(9) GHQ/SCAP憲法草案の財政閲連条項. 科を卒業した後,同大学のマックスウェル公共問題大学院(Maxvvell School of PubHc Aff…疵s)において行政学を専攻しており,政治・政策・行政に関する専. 門知識を備えていた。また1ヒンマンが参戦前に係わっていた仕事は,ニュー・ ヨーク州《State of New York)の主計官として,’予算編成問題を取り扱うと同. 時に,州政府協議会(Council of States Governinents)の調査研究剖テうこと. であったbそして;このヒンマシの職歴は,ヒンマンがアメ・リカ陸軍第8軍所 属の人事将校と財政課長として服務したことから見られるよ一うに二軍におい. ても活かされた。なお.ヒンマンは,バージニア大学のSMGとシカゴ大学の CATSにおいて,軍政教育及び訓練を受けた経歴を有していた。』従来, SMG .. 及びCATS出身の要員は,日本の初期の占領政策が実施される過程において重. 要な役割を果したとされてきたM}。ヒンマンも,そのSMG及びCATS出身の 要員であつたのである。これまで述べたヒンマンの学歴,職歴,軍歴を考慮に. 入れると,.クレーマーが比較的早い時期からヒンマンをESSの要員として 採用しようと考えたのはごく自然のことであったともいえよう。.  ESSのFD ・ogおけるヒンマンの主な職務}認日本政府の一般会計予算と関連. した歳出と借入に関する指導・監督であった純、ぞめ結果,ヒンマン1がESS に着任、して以来,1945年度における政府歳出や政府借入に関する業務,1946       ヨ        1. 1年度の予算案に関する分析と作成に関する業務,財政赤字によるインフレ効果 を最小化するためあ政府借入政策の再調整た関する業務,金融機関に対する企. 業の嚇融頓融保誘る制度すなわち政府保酬勘鞭に閲す撲 務日本岬単茄治団体の轍駆に関輝繰な甦係わることになっ 1た2的。つまり,ヒンマンは,日本政府の予算編成問題と関連した主要な業務を. ほとんご取り扱rコていたのである。ただヒンマンが,ESSのFDにおいて日 本政府の予算編成閲連業務を担当することは自然なことであロた。なぜなら・ 当時ESSには,ヒンマ;を除けば予算編成間wa li詳しいも.のが一人もいなかっ たからである。   一・  ’,.  ヒンマンがESSの要員として活動した1945年10月から1946年4月までの.

(10)  横浜国際経済法学第16巻第2’号(200S Sf− 2 n). 間.ESSのFDには,ナショナル・シティ・バング(National City Bank)横浜 支店長の経歴をもっていたチャールズ・F・トーマス(Charles F. Thomas)課. 長の下に:’”,高学歴の優秀な人材が多く集まっていた。しかし,ESSのFDに おける主要要員のうち,アメリカの大学において法律,あるいは政治・行政関 連分野を専攻したものは,先に触れたく表一一1>に見られるように,ヒンマン を除けば,エドガー・J−’ oーンズ(Edgar J. Burns),デイビッド・H・ジェニ ングス(David H. Jennings).ポール・C・アキン(Paul C. Akin)の数人であり・. 経営学,経済学,会計学等を専攻したものが圧倒的に多かった。しかも,ヒン. マン以外のほとんどの主要要員は,アメリカ連邦政府,あるいは州政府の予算 編成問題と関連した仕事に係わった経験をもっていなかった。そして.このよ うに見ると,ヒンマンが,なぜ日本政府の予算編成関連業務を担当したかとい うことのみならず,なぜ大日本帝国憲法の修正に関する覚書を作成することに なったかということも説明がつく。. <表一1> ESSのFDにおける主要要員の主な学歴,職歴,軍歴 ポール・C・アキン(Paul C. Aldn)−38歳,海軍大尉,1945年10月に着任 アイオワ州立師範大学(Iowa State Teachers College)一行政学・経済学(1925∼1929),ノー. 学歴. Xウエスタン大学ロー・スクールー会社法:博士(1929∼1932) シカゴ(Chicago)州所在の法律事務所の弁護士(1932∼1935).シカゴ・ジョイント・ストッ N・ランド・パンク(Chicago Joint Stock㎞d Bank)の法律顧問(1935∼1944).アメリ. 職歴. J連邦金融再生公社(Reconstruc60n Finance Com)の法律顧問(1935∼1944). バージニア大学のSMG(1944.6∼1944.7),シカゴ大学のCATS(1944.7∼1945.1). bASAの将校(1945.2∼1945.8),フィリピン(Philippines)マニラ(Manila)所在のアメ 潟J太平洋陸軍(US Army Forces in the Paci∬c)軍政局(MilitaryGovernment)の財政課. 軍歴. i1945.8∼1945.9). トリスタン・E・ビプラット(Tlis㎞EBeplat)−34歳,陸軍少尉.1945年10月に着任 ニュー・ヨーク市立大学(College of City of New Ybrk)一土木工学(1929∼1933),ニュー・. 学歴. 職歴. ?[ク市立大学一経営学(1933∼1935).アメリカ銀行研究所(American Institute of aanking)一海外取引(1935∼1940) ニュー・ヨーク市所在の金融会社のアメリカ国債トレーダー(1933∼1937),ニュー・ヨー N市所在のマニュファクチャラーズ・トラスト・カンパニー(Manufacturers Trust Co.) フ課長補佐(1937∼1940),ニュー・ヨーク市所在のパンク・オブ・ニュー・ヨーク(Bank 盾?@New Ybrk)の外貨課長(1940∼1943). 64.

(11) GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項 ミズーリ(Missouri)州セント・ルイス医療施設(SL Louis Medical Depot)のプール管理. 将校(1944.12∼1945.1),ケンタッキー(Kentucky)州ルイスビル医療施設(Louisville 軍歴. Medical Depot)の施設管理将校(1945.1∼1945.2). SMGの民事将校(1945.2∼1945.8).. バージニア大学のSMG(1945.2∼1945.3),ハーバード大学のCATS(1945.3∼1945.8), CASAの将校(1945.8∼1945.10) ロレン・J・ブラントリンガー(Loren J. Brendinger)−43歳,陸軍大尉,1945年10月に着任 インディアナ大学(lndiana University)一経済学・経営学(1921∼1923). 学歴. インディアナ(Indiana)州インディアナポリス(lndianapoUs)所在のラウス・シェプロレッ ト・カンパニー(Laudl Chevrolet Co.)の支配人(1929∼1933),インディアナ州インディ 職歴. アナポリス所在のモリシュ・アンド・ホッケット・インコーポレーテッド(Morrish and Hockett Inc.)の証券アナリスト(1933∼1937),プレントリンガー・アンド・ホセー・イ ンコーポレーテッド(Brendinger&Hosea Inc.)の投資銀行家(1937∼1941). フロリダ(Florida)州タンスフォラン部隊(Camp Tansforan)の訓練担当将校(1942.12 ∼1943.2).ユタ(Utah)州ヒール・フィールド(Hm Field)所在の航空地区司令部(Air 軍歴. Service Command Area)の予算・財務将校補佐(1943.3∼1944.1)と予算・財務将校(1944.1. ∼1944.6),バージニア大学のSMG(1944.6∼1944.7),シカゴ大学のCATS(1944.8∼ 1945.1). エドガー・J・バーンズ(Edgar J. Burns)−41歳,陸軍少佐,1946年3月に着任 学歴. コロンビァ大学(Columbia University)一ロー・スクール進学準備過程(1923∼1925), Zイント・ローレンス大学(SL Lawrence University)一法学(1936∼1939) ニュー・ヨーク市所在のニュー・ヨーク・トラスト・カンパニー(N.Y Trust Co.)勤務(1923. 職歴. ∼1928).ニュー・ヨーク市所在のセントラル・ユニオン・トラスト・カンパニー(Central Union Trust Co.)勤務(1928∼1928),ニュー・ヨーク州ラインブルーク(Lynbrook)所 在のピープルズ・ナショナル・パンク・アンド・トラスト・カンパニー(Peoples N/B& Trust Co.)在職(1928∼1932),ニュー・ヨーク市ブルークリン(Brooklyn)所在のブルー クリン・トラスト・カンパニー(Brooklyn Trust Co.)勤務(1932∼1936),ニュー・ヨー ク市プルークリン所在のリアル・エステート・カンパニー・フォー・プルークリン・トラス ツ(Real Estates Corp. for Brooklyn trusts)勤務(1936∼1942),法律事務所の研修係(1936. ∼1942). バージニア州ウェストポイント(West Point)所在の陸軍士官学校(United States Military 軍歴. Academy)の講師(1942.10∼1944),バージニア大学のSMG(1945.1∼1945.2),イェー ル大学のCATS(1945.2∼1945.8), CASAの法務将校(1945.9∼1946.3). ユージン・F・フラナガン(Eugene E FIanagan)−46歳,陸軍大尉.1945年10月に着任 学歴. シンシナティ大学(University of Cincinna6)一会計学・金融学(1920∼1923).七イント・ Uビエル大学(SL Xavier University)一法学(1924). 職歴. オハイオ(Ohio)州シンシナティ(Cincinnad)所在のファースト・ナショナル・パンク(First mational Bank)勤務(1922∼1942). 軍歴. ブラジル(Brazil)ナタル(Natal)所在の部隊の財務将校(1943.1∼1944.5),テキサス (Texas)州ダラス(Dallas)所在のラブ・フィールド(Love Field)基地の輸送将校(1944.6 `1944.10).バージニア大学のSMG(1944.11∼1944.12),ハーバード大学のCATS(1945.1 ∼1945.10),CASAの将校(1945.8∼1945.10). ローランド・F・ハットフィールド(Rolland E Hat6eld)−36歳,陸軍大尉,1945年10月に着任 学歴. シカゴ大学及び同大学大学院一経済学・経営学(1933∼1935),ミネソタ大学(University 盾?@Minnesota)一行政学・財政学(1936∼1938). 65.

(12) 横浜国際経済法学第16巻第2号(2008年2月). 職歴. ミネソタ(Minnesota)州ミネアポリス(Minneapolis)所在のセイント・トーマス大学(The bollege of SしWlomas)の経済学助教授(1935∼1938),ミネソタ州資産委貝会(Resources bommission)の技術顧1‖1(Technical Adviser)(1938∼1940),ミネソタ州課税局(Dep…r㎞ent. 盾?@Taxa60n)の課税調査課長(1940∼1942) 軍歴. テキサス州ビッグ・スプリングス(Big Springs)所在の爆撃手学校の人11‘将校(1942.8∼ P945.5). デイビッド・H・ジェニングス(David H.Jennings)−46歳,陸軍中佐.1945年12月に着任 学歴. 職歴. ウィスコンシン大学(University of Wisconsin)一歴史学(1914∼1917).ベンジャミン・ nリソン・ロースクール(Benlamin Harrison Law School)一法学(1924∼1930) インディアナ州ニューカッスル(NewcasUe)所在のシティズンズ・ステート・バンク(Citizen rtate Bank)の主任(1919∼1924),インディアナ州の証券コミッショナー(1924∼1927), Cンディアナ州インディアナポリス所在のコンチネンダル・ナショナル・バンク(Con6nental mational Bank)の副会長(1927∼1930),銀行破産管財人(1930∼1934),シカゴ州所在. フ投資銀行家(1935∼1942). 耶歴. ノース・カロライナ(North Carolina)州フォート・プラク(Fort Bragg)基地,アイオワ iIowa)州フォート・デス・モインズ(Fort Des Moines)基地,オクラホマ(Oklahoma) Bフォート・シール(Fort Sill)基地などの野砲将校(1942.6∼1945.1),バージニア大学 フSMG(1945.1∼1945.2),シカゴ大学のCATS(1945.2∼1945.8), CASAの将校及びア <潟J軍第8軍銀行清算課(1945.9∼1945.12). ハーリ・E・ジョンソン(HarUe E. Johnson)−25歳.陸軍少尉,1946年1月以前に着任 学歴 職歴 軍歴. 高校卒業(1933∼1937),アメリカ農務省の行政学校(Administration School)一行政実 ア(1943) アメリカ民間防衛局(Omce of Civilian Defense)勤務(1942∼1943),蔵時生産委貝会(War. oroducUon Board)勤務(1943∼1944). ジョージア州フォート・ベニング(Fort Benning)基地及びフロリダ州所在の歩兵部隊な ヌの将校(1944.10∼1945.8).アメリカ太平洋陸軍の将校(1944.10∼1945.8). オービ レ・」・マッダイアーミド(Orvme J. McDiamid)−35歳,陸軍中佐.1946年1月以前に着任. 学歴. トロント大学(University of Toronto)一経済学・会計学(1928∼1932).ハーバード大学. 蜉w院:博士一経済学・統計学(1933∼1936). ハーバード大学の特別研究員(1936∼1937).ペンシルバニア(Pennsylvania)州ビッ 職歴. pーグ(Pittsburgh)所在のカーネギ技術研究所(Carnegie Ins6tute of Technology)の経 マ学・統計学教授(1937∼1941),戦時経済政策理事会(The Board of Economic War‘are). ニ軍需生産理事会(The War Production Board)の軍需生産委員会(War Production bommittee)の事務総長補佐(1942) 軍歴. アメリカ軍需局(Of6ce of Ordnance)局長室の物資統制及び割当担当(1942,10∼1943.12),. 、軍産業大学の課長補佐(1943.12∼1945.9). ドナルド・A・マックリーン(Donald A McLean)−39歳,陸軍中尉.1945年10月に着任 学歴. ウエスタンミシガン大学(Western Michigan College)一経営学(1925∼1929),アメリカ. 竝s研究所(1929∼1933) ミシガン(Michigan)州グランドラピズ(Grand Rapids)所在のグランド・ラピッズ・セー. 職歴. 66. sングズ・バンク(Grand Rapids Savings Bank)勤務(1929∼1933),マックリーン・リスティ. 塔O・カンパニー(Mclean Listing Company)勤務(1933∼1936),ミシガン州主税局の ?v検査官(1936∼1943).

(13) GHQ/SCAP憲法草案の財政関述条項 カンサス(Kansas)州フォート・ライリー(Fort Riley)基地アメリカ陸軍憲兵補充訓練セ 塔^ー(Military Police Replacement Training Center)の情報将校及び情報課長補佐(1943.1. 軍歴. `1944.6),バージニア大学のSMG(1944.6∼1944.8).ミシガン大学のCATS(1944.8∼ P944.10),ニュー・ギニア(New Guiner)とフィリピンのアメリカ陸軍第6軍公共安全将 Z(1944.11∼1945.4)及び調達将校(1945.4∼1945.8),フィリピンと兵庫県家島の特別 R政班(1945.8∼1945.10). フランク・E・リッケル(F㎝kE. Ricke1)−26歳,陸軍中尉,1946年1月以前に着任 学歴 職歴. カンザス州立大学(Kansas State College)一経済学・歴史学(1937∼1941). パンク・オブ・アメリカ(Bank ofAme6ca)の融資担当(1941∼1942) アメリカ野砲部隊の将校(1943.2∼1944.8),メリーランド(Maryland)州所在のアメリ J海軍野職教育訓練情報支援団国際訓練センター(Naval Educa60n and Training Security. 軍歴. `ssistance Field Ac6vity Internadonal Training Center)の将校(1944£∼19452).ニュー・. Wャージ州所在の海軍軍政学校(Naval School of Military Government)の将校(1944.11 `1945.2),CASAの将校(1945.2∼1945.10). ヘンリ・シャベル(Henry Shavell)−28歳,空軍中尉.1946年3月に着任 学歴 職歴. ニュー・ヨーク市立大学一統計学,ジョージワシントン大学一経済学(1939∼1941),イェー 拒蜉w一財政学,イリノイ大学(University of Illinois)一会計学(1945). アメリカ商務省のエコノミスト(1939∼1943) イェール大学の講師(1944.2∼194411),イリノイ(minois)州シャヌート・フィールド. 軍歴. iShanute Field)所在の訓練所の講師(1944.11∼1945.6),アメリカ空軍の通信将校(194510 `1946.3). エベレート・C・シャーポーン(Evere仕C. Sherbourne)−38歳.陸軍少佐,1946年1月以前に着任 学歴. ラトガース大学(Rutgers University)一数学(1925∼1929),ラトガース大学大学院一経済学・. 熕ュ学(1932∼1934) ニュー・ジヤージー(New Jersey)州所在のニュージヤージーセービングズ・アンド・ロー 刀Eリーグ(New Jersey Savings and Loan League)の統計担当(1934∼1936).ニュー・ヨー. 職歴. N市所在のフェダラル・ハウス・ローン・パンク.(Federal House Iρan Bank)の融資担当. i1936∼1937).ニュージャージ州所在のシティ・セービングズ・ローン・アソシエーショ 刀iCity Savings】㎞an Associa60n)の副会長(1939∼1942). ニュー・ジャージ州ラリタン兵器工場(Raritan Arsena1)出版部のマニュアル作成担当 軍歴. 学歴. 職歴. 軍歴. i194a12∼1944.6),バージニア大学のSMG(194“∼1944.7),イェール大学のCATS(1944.8 `1945.1),CASAの日本研究班長(1945.2∼1945.8). ジェームズ・C・スミスOames C. S㎡th)−37歳,陸軍少尉,1945年11月に着任 カンサス大学一金融・経済学(1926∼1930),ハーバード大学経営大学院一金融・経営学:. lBA(1930∼1932)                , アメリカン・ラジエーター・カンパニー(American Radiator Co.)のヨーロッパ支社の課 キ補佐(1932∼1941),ニュー・ヨーク市所在のアイ・エイ・ベイカーズ・カンパニー(1. `Bakers Co.)の支配人(1942∼1944) フロリダ州ゴードン・ジョンスト部隊(Camp Gordon Johnston)の技術将校(19443∼ P944.10),バージニア大学のSMG(1944.11∼1944.12),ハーバード大学のCATS(1945.1 `1945.7).CASAの将校(1945.8∼1945.10). アーサー・E・ティードマン(Arthur E. Tiedemann)−24歳,陸軍中尉1945年10月に着任 学歴. ニュー・ヨーク市立大学一社会科学(1939∼1942). 職歴. なし. 67.

(14) 横浜国際経済法学第16巻第2号(2008年2月) 陸軍省傘下のハレラン総合病院(Halleran General Hospital)のボランティア(1942.12∼ P943.1),陸軍日本語学校(Army Intensive Japanese Language Schoo1)の日本語研修(1943.1. `1944.1),陸軍情報局外国語学校(Military Intelligence Service language school)の軍 五lt歴. C1[情報業務(1944.1∼1944.8),アメリカ太平洋陸軍通訳部(Translator and Interpreter rervice)の通訳将校(1944.9∼1945.8), GHQ/SCAP参謀長室の通訳将校(1945.10 `1945.10). ジェームズ・E・ワルター(James E Walter)−24歳,階級不明,1946年1月に着任 学歴. デューク大学(Duke University)一経済学,ハーバード大学経営大学院一経営学. 職歴. なし. ジョージタウン大学(Georgetown university)のスクール・オブ・フォーリン・サービス 」1t歴. ischool of foreign service)一言認 アメリカ中央情報局(Central Bureau of lntelligence). フ通訳・審査官 トーマス・L・ウッド(Thomas L Wbod)−41歳.少佐.1945年11月に着任 学歴. 職歴. 軍歴. オレゴン大学(University of Oregon)一経営学(1922∼1925). オレゴン(Oregon)州ポートランド(Pordand)所在の連邦政府認可銀行会計検査担官(1925. `1941) 防空気球学校(Barrage Balloon Schoo1)の出版担当将校(1941.10∼19422),アメリカ沿 ン砲兵隊の将校(1942.2∼1942.11),アメリカ対空砲部隊(An6♪drc面t Ar611ery)の指揮 ッ(1943.2∼1945.1),バージニア大学のSMG(19452∼19453),シカゴ大学のCArS(19454 `1945.8). 出所:no name,”Biographies of Key Personnel,Finance Division,”July 1946(国会図書館所蔵   Microfiche ESS(B)−03206∼03207)とno name,“Shavell Hery, lst LT.,0869105, AC,.   AUS.’no date(国会図書館所蔵Microfiche ESS(F)−00105)に基づいて作成。.  ヒンマンがアメリカへ帰国するのは,1946年4月中旬頃であった。しかし,. 当初ヒンマンがアメリカに帰国しようと考えていた時期は,1945年12月初旬 頃であった28}。つまり,ヒンマンは,帰国時期を当初の予定より4か月も遅ら. せたのである。1945年10月31日にESSに着任したヒンマンは,50か月を現 役服務した状態であり,1945年12月1日付で現役服務から解除されるために 必要な現役服務期間を1か月程度残していた鋤。したがって,日本に到着した. 時点において.ヒンマンは,1945年12月1日付で現役服務の解除を受ける要 件を備えており.現役服務から解除を求める申請書を提出することが可能で. あった。実際ヒンマンと同じ期間を現役服務した多くの将校が,1945年12 月1日付で現役服務の解除を受けた:°}。こうした状況のなか,ヒンマンがアメ. リカへの帰国を4か月も延期した理由は,二つあった。.  その一つは,ヒンマン自身がSMG及びCATSにおいて受けた軍政教育及び訓 練を活かすことを考えていたことである31)。ヒンマンは,SMGにおいて3か月..

(15)                      GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項. そしてCATSにおいて6か月,計9か月の軍政教育・訓練を受けた後,日本に投入. された要員であった。しかし,SMG及びCATSにおいて計9か月の軍政教育及 び訓練を受けたアメリカの軍人すべてが日本に投入されたわけではなかった。. 当時,SMG及びCATSでは,軍政教育及び訓練を受けた数多くのアメリカ軍人 が,日本に対する占領政策の実施が直接統治ではなく間接統治によって行われ たため.その活躍の場を失ったことを嘆いていたとされる3L}。こうした状況の. なか,ヒンマンも,SMG及びCATSにおいて受けた軍政教育及び訓練を活かす 機会を求めていたのである。.  いま一つは,ヒンマンがESSのFDに配置された以上.そこで携わった職務を アメリカに帰国する前にある程度終えなければならないと職責を感じていたこ とである33}。当時,ESSは,現役服務から解除される要件を備えた将校が増える. 一方で,新任将校を採用することが難しい状況におかれていた。これは,戦争が. 終わった状況のなかで,無理はなかった。それゆえ,1946年2月16日,マーカッ トはAGと(}1に対して,とりわけヒンマンの場合,日本政府の予算編成問題を取. り扱っているだけでなく,予算編成一般に関する専門知識を有している有能な. 要員であり,アメリカに帰国する前に1946年度予算編成問題に取り組むであろ うという見解を示しつつ,予算関係業務を引き継ぐ新任将校がESSに発令され ないと,ヒンマンが現役服務から解除されると予想される3月15日までに業務の 円滑な引継ぎを行うことが不可能であると指摘していた詞)。新聞記者出身であ り,経済に詳しくなかったマーカットにとってX5),ヒンマンが現役服務から解除. されることや,ヒンマンの業務を引き継ぐ人材を確保することは.重要な問題で. あったのである。しかし,実際,ヒンマンの業務を継ぐ新任将校がESSに着任す ることはなかった。こうした状況のなか,ヒンマンは,3月18日に4月1日付で現. 役勤務から解除を求める申請書を当時の直属上官であったジェニングスに提出 し36},ようやく約1か月後の4月中旬にアメリカに帰国することができたのであ る。.  ヒンマンは,上記の現役服務から解除を求める申請書において,数少ない将校.                                  69.

(16)  横浜国際経済法学第16巻第2号(2008年2月). の一人として個人的な犠牲を甘受しつつ,十分な期間現役服務をしたこと,昇進 の見込みがほとんどないこと:7),政府保証制度の撤廃に関する業務や,日本政府. と地方自治団体の財政関係に関する業務を除く予算関係業務が1946年4月1日ま. でにほとんど終了すると予想されること,予算関係業務を担当する民間人の新 任要員が手配中であることなどを記したうえで,現役服務からの解除を求めた as)。これを受け,3月19日.ジェニングスは,ヒンマンがESSのFDにおいて顕著 な業務遂行を行ったと評価するとともに,ヒンマンの申請書を承認した39}。そ. の後,マーカットは,4月5日付でヒンマンを現役服務から解除する決定を行っ たうえで,この決定を承認する正式の指令を発することをAGに要請した4°)。そ. の結果,ヒンマンの現役服務からの解除が正式に決まった41)。とはいえ,マー. カットは,ヒンマンの現役服務延長を強く望んでいたと思われる。なぜなら,4. 月15日,マーカットは第4補充司令部に対して,ヒンマンがESSに絶対的に重要 な要員であるという理由をあげ,少なくともアメリカへの出発日が確定される までに現役服務を延長させることを打診していたからである42)。. 皿.大日本帝国憲法の財政関連条項とヒンマンの覚書  1.覚書の内容  ヒンマンが大日本帝国憲法の財政関連条項と関連して特に問題を提起した条 項は.<表一2>大日本帝国憲法及び主要憲法草案の財政関連条文対照表に示. されているように,第一章(天皇)の第10条(天皇の官制,官吏俸給及び任 免に関する権限),第六章(会計)の第62条(租税法律主義と国の債務負担), 第64条(予算と責任支出),第66条(皇室費用),第67条(大権関連の既定支出,. 法律上の義務支出).第68条(継続費),第70条(緊急財政処分),第71条(予 算不成立時の措置)であった43)。第六章に関するこのほかの条項,すなわち第. 63条(永久税主義),第65条(衆議院の予算先議),第69条(予備費),第72 条(決算検査及び会計検査院)について問題が提起されなかったのは,ヒンマ 70.

(17) GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項. ンがあえて修正する必要がないと考えていたか,あるいは修正するか否かを GSの判断に委ねていたことを意味する。日本国憲法の制定過程に関する従来 の研究においてヒンマンの覚書が言及されることがなかった点に鑑み,ここで は,ヒンマンの覚書に記されていた修正部分の提案を全訳して掲げたい。ヒン. マンが大日本帝国憲法の財政関連条項に対してそれぞれどのような修正提案を 行ったかについては,以下のとおりである4㌔             ’.  第一に,ヒンマンが第10条と関連して修正を提案した部分は,とりわけ天 皇の官制,官吏俸給に対する権限に関する部分であった。ヒンマンは,「この 条項において,文武官の任免に係わる部分を除いて,天皇という単語は議会と. いう単語に換えるべきである。行政各部の官制を決定する権限は,予算の審議 と実質的な立法を通じて行政各部の官制の機能を統制する権力から生じる。文 武官の俸給を決める権限も,明らかに予算過程と密接な係わりをもっているも のであり,日本以外の多くの国においても予算過程の一部として扱われている. ものである。日本が議会民主主義国家として成立ために必要不可欠な予算に対 する完全,かつ自由な統制権を議会に与えるつもりがあるのなら,予算の構造 と内容の大部分を決定できるように,上記の二つの権限〔官制と文武官の俸給 を決定する権限:筆者〕に関する統制権も議会に与えるべきである。そして.. 修正条項は.議会の権限に係わる章におかれるべきである。」という見解を示. した。要するに,ヒンマンは,議会の民主主義を確立するために天皇の官制 と官吏俸給に対する権限を議会の権限へと委譲すべきであるという提案を行っ たのである。.  第二に,ヒンマンは,第62条のうち,とりわけ起債及びその他国庫の負担 となる契約が予算と分離され,予算とは別のものとして議会の承認を受けるこ とになっていた規定を修正すべきであると指摘した。具体的には.ヒンマンの 見解は,「この条項は,起債とその他国庫の負担となる契約を国家の予算に含め,. 議会の同意を得る必要があるという条文に変えなければならない。予算が真に 実質的なものになるためには,すべての歳入,歳出,債務を含め.特定の年度                                   71.

(18) 横浜国際経済法学第16巻第2号(2008年2月). の完全なる政府財政計画を示すものにならなければならない。責任ある立法府 による政府財政計画に対する実質的な民主的統制は,その計画の全体像がわか りやすい形をとっていればとっているほど商まる一方で,個々の部分の関係が. 明確ではなく断片的な形をとっていればとっているほど弱まるであろう。特定 の年度において,予算成立後に政府借入計画に修正を加える必要が生じた如何 なる場合においても,補正予算を編成すれば対応することができる。」という. ものであった。こうしたことから,ヒンマンが議会による財政統制権の確立 は,予算を通じてすべての政府の財政活動を統制できるような制度の確立にか かっていると考えていたことが浮き彫りになる。.  第三に,第64条と関連して,ヒンマンによって提案された修正提案は,日 本政府の責任支出に関する規定を削除することであった。ヒンマンは,「この 条文の後半部の文章は削除されるべきである。政府は,すべての支出計画を予 算に取り入れたうえで,議会の事前承認を得るべきである。年度中に予測でき なかった事態が発生して追加的な支出の必要が生じた場合,事案が重大である. なら,あるいは多額の金額が必要であるなら,政府は議会の特別会に補正予算 を提出することによって対応することができる。そして,わずかばかりの金額. が必要であるなら.第69条に規定がある予備費をもって対応することが適切 である。政府が財政支出に関する裁量権に基づいて予算に計上されていない支 出を先に行い,後に議会の承認を得る手段を用意するということは,責任ある. 議会による公共支出の民主的統制原理全体を害する。政府支出を事後に承認す るか如何という議会の決定は.包括的な承認を与えるか,さもなくば,承認を 求める政府または政府官僚によって責務が誠実に果たされたとことを否定する. か,議会が認めない事項について許可または支出を行った政府官僚に個人的な 会計責任を問うか,といった二者択一であるがゆえに,大体の場合において意 味がない。なぜなら,大部分の場合,議会にとって選択可能な唯一の選択肢は, 包括的な承認を与えることしかないからである。」という考え方を示した。結局,. ヒンマンは,政府の財政支出に対する議会の事後承認に係わる憲法規定は,事 72.

(19)    ’                      GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項. 実上,政府に財政支出に関する裁量権を与えるものであり,議会による財政統 制権を有名無実化するおそれがあると指摘していたのである。.  第四に,ヒンマンは,皇室の支出に関して議会の権限を制限していた第66 条を修正し,国民主権の原則を明確にすることを提案した。こうしたことは,’. 「皇室の支出は,毎年の予算に計上することによって,議会の裁量に完全に従 属させなければならない。このことは,天皇が国家の主権者ではなく,国i家の. 機関であるということを毎年思い出させるとともに,主権が国民から発せられ るものであり,国民によって選出された代表によって行使されるという原則と も一致する。」というヒンマンの考え方に明確に表れている。こうしたことから,. ヒンマンが国民主権の原理を徹底的に実現することと,皇室の支出とを関連付 けていたことが明らかになる。.  第五に.ヒンマンが第67条と関連して提案したことは,この条文の完全な 削除であった。ヒンマンは,「この条項は全部削除されるべきである。すべて の政府支出に関する議会の権力は,人民の意志を代表する唯一のものであるが ゆえに,完全,かつ無制限なものにならなければならない。如何なる行政機関 も議会に従属しない財政権をもつことはできない。議会民主主義において,.行. 政府は立法府に従属したものであり,同等なものではない。」という見解を示. した。つまり,ヒンマンは,第67条が国民主権の原理や財政民主主義と相容 れないものであるという認識を示したのである。.  第六に,ヒンマンは,第68条についても,これをすべて削除することを提 案した。ヒンマンの考え方は,「この条項もやはり削除されるべきである。如 何なる議会も新たに構成される議会の意思を既定の財政計画,あるいは他の種 類の計画に従わせる権力をもつことはできない。そうした規定は,選挙で勝利. したことにより新たに構成される議会の多数派が選挙で敗北した議会の多数 派が過去に決定した政策を見直すことを制限するので,代議制政府の原則に合 致しない。数年におよぶ支出計画を作成する場合,そうした計画を作成した事 実と将来における歳入歳出が予算に提示されなければならない。しかし,これ.                                  73.

(20)  横浜国際経済法学第16巻第2号(2008年2月)              ’. は,将来の議会が事業の継続を承認,あるいは不承認とすること,あるいは 金額を変更することを決して妨げてはならない。」というものであった。要す るに.ヒンマンは,常に国民の新しい意思に沿って政府の支出が行われるべき であるという立場から,第68条の削除を提案していたのである。.  第七に,ヒンマンにとって,緊急財政処分に関する第70条の場合には,そ の要件を厳格化するか,あるいは削除することが望ましかった。ヒンマンは,. 「この条項の原則は,その条文の内容から明らかなように,上記の第三におい て説明した理由から望ましいものではない。議会を召集することが絶対的に不 可能な将来の状況を想像することは難しい。しかし,そうした状況を規定する ことを望むなら,内閣総理大臣,大蔵大臣,予算や歳入と歳出と関連をもつ議. 会委員会の適切な数の委員によって構成される委員会を設置し,この委員会が 非常財政措置をとるという規定と共に,その場合議会の全体会議で承認を受け るためにできるだけ早く追認を求めなければならないという規定を設けること はできる。しかし,望ましい選択肢はこの条項を削除することになるであろう。」. という考え方を示した。つまり,ヒンマンは,如何なる場合においても,政府 は議会の事前承認に基づいて財政支出をしなければならないという立場から, 第70条の削除を提案したのである。  第八に,ヒンマンは,第71条を削除することも提案した。このことは,「こ. の条項の存在理由は極めて疑わしい。この条項が議会の召集が遅れてしまっ た場合.あるいは議論が長引いてしまった場合,必要不可欠な政府機能の継続 を担保するための便利な方法を定めているとしても,議会の予算審議における. 膠着状態を無期限に長引かせるとともに,内閣と議会の多数派が直ちに負うべ き当然な責任を回避させること,あるいは少なくとも受入れを遅延させること を可能にするおそれがある。最善の道はこの条項をすべて削除することであろ う。」というヒンマンの見解によく示されている。つまり,ヒンマンから見れば. 第71条は.予算を政争の具にする可能性や,政府と議会の多数派がその責任 を回避することを容認する可能性をもっているものであり,削除することが望 74.

(21) GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項. ましいという考え方を示したのである。.  2.覚書の特徴  以上,ヒンマンによって作成された覚書の内容からは,ヒンマンが大日本帝 国憲法の修正をあくまで財政関連条項に限って提案したものの,それが政治的 な性格を帯びた問題であることを認識していたことがうかがえる。その政治的 な性格を帯びた問題とは,大きく分けると,天皇制に関すること,つまり天皇 制の存廃を含む天皇制のあり方,天皇制の物的基盤である皇室財産のあり方と,. 議会に関すること,具体的には議会の位置づけ及び構成方式に分類することが できよう。以下では,これらの政治的な性格を帯びた問題と,大日本帝国憲法 の財政関連条項に関するヒンマンの修正提案とがどのように結び付いていたか を分析する形で,ヒンマンの覚書に見られる特徴を総合的に検討する。.  ヒンマンの覚書における特徴の一つは,天皇制は維持されるものの,天皇が 国家機能の一つを担当する機関に過ぎなくなるという統治構造を想定していた. ことである。このようなことは,大日本帝国憲法第10条,第66条,第67条 に関するヒンマンの修正提案に間接的に示されていた。つまり,ヒンマンは,. 天皇が文武官を任免することについて言及しない一方で,大権関連の既定支出 に関する条項を削除することや,皇室の支出に関する事項を議会の裁量に従属 させることを提案する形で,いわゆる象徴天皇制につながる天皇制のあり方を 想定していたのである。.  ただ,ヒンマンが考えていた天皇制のあり方は,ヒンマン個人の考え方に基. づくものであったというより,皇室財産問題をめぐって1946年1月29日に なされたESS, GS, NRSの合意に基づくものであったと思われる。当時. ESS,. GS, NRSの要員は,ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)連合国最. 高司令官が,1月25日に「天皇を戦犯として裁くのであれば,日本には100 万人の軍隊が必要になるであろう」という憂慮をJCS Ooint Chiefs of Staff Ut. 合参謀本部)に伝え45),天皇制及び天皇を存続させるという意向を強く示して 75.

(22)  横浜国際経済法学第16巻第2号(2008年2月). いたことについて知らなかったと推測される。しかし,GHQ/SCAP内部にお いて,マッカーサーが天皇制及び天皇を存続させる可能性が高いという認識は 広まっていたと考えられる。なぜなら,皇室財産問題をめぐって行われた1月 29日の会議において,ESS, GS, NRSは,天皇制及び天皇が占領政策を円滑に. 遂行するために存続するという大前提のもとで,皇室財産を解体するという合 意に達したからである46}。そこで,ESS, GS, NRSによる1月29日の合意を受け,. ヒンマンの覚書が作成されたと見ると,ヒンマンがなぜ天皇制及び天皇の存続 を前提にしていたかが説明できる。.  ここで一一つ指摘しておきたいことは.天皇制及び天皇を存続させるか否かと. いう問題と不可分の関係をもっている第66条も,ヒンマンがESS, GS, NRS. による1946年1月29日の皇室財産問題に関する合意を前提に作成したという ことである。ヒンマンは,それまで皇室財政を支えてきた皇室財産と日本政府 の予算,すなわち皇室費用のうち,後者のみに関して言及していた。その理由 は,1月29日の時点において,ESS, GS, NRSが,皇室財産のうち普通財産を,. 新憲法に基づいて日本政府の関連省庁に移管する方式で解体する一方で,世伝 財産を一回限りの特別税を課する形で解体するとすでに合意していたことにあ. ると考えられる。つまり,ヒンマンは,GSが日本政府の憲法改正問題に介入. する形で皇室財産問題に関する1月29日の合意を実現することを予想してお り.それに関する言及を避けていたということである。.  一方.こうしたことからは.当時ヒンマンが,皇室財政の主要な基盤であっ. た皇室財産を解体し,皇室財政を議会と世論による財政統制の確立が前提と なっている日本政府の財政に統合することを想定していたことが明らかにな. る。ただ,これと関連して注意すべきことがある。それは,ESSが,すでに. 1945年10月24日の時点において,議会による財政統制の確立や,徹底した 予算の公開という大前提のもとで,課税などによる皇室財産の整理方針を決め ていたことである47J。このことを考慮に入れると,ヒンマンが想定していた皇 室財政のあり方は.ESSの考え方を代弁するものであったと言える。 76.

(23)                       GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項.  ヒンマンの覚書に見られるもう一つの特徴は,議会が国家最高権力機関とし て位置づけられ,他の如何なる国家機関よりも優位に立っている統治構造を想 定していたことである。ヒンマンの覚書にあげられている日本帝国憲法の財政. 関連条項すべて.すなわちすでに述べた第10条,第62条,第64条,第66条,. 第67条,第68条,第70条,第71条に対する修正提案の内容からは,そのこ とを確認することできる。ただ,ヒンマンは,第63条について触れておらず,. 議会の構成方式が二院制になるべきか,一院制になるべきかについては言及 を回避した。その理由としては,ヒンマンにとって,議会の構成方式に関する. 問題がGSの所管に係わる問題であったことをあげることができる。つまり, ヒンマンは,将来,日本の議会がどのような構成方式をとるにしても,議会が 国家最高権力機関になるべきであると考えていたのである。.  なお,ヒンマンの覚書に記されている修正提案の内容と,ヒンマンが第72 条(決算検査及び会計検査院)の修正を言及していないことからは,ヒンマン にとって,立法と予算に絶対的な権限をもつ国家最高権力機関の議会が,いわ ゆる財政民主主義に基づく伝統的な予算原則,具体的には収入と支出すべてを. 予算に計上すべきであるという総計予算主義の原則,収入と支出すべてを単r の会計で経理すべきであるという単一予算主義の原則.すべての歳入歳出の出 入りは国庫から行われるべきであるという予算統一の原則,予算は執行前に予 め議会の議決を受けるべきであるという予算事前議決の原則,各会計年度の支 出はその年度の収入をもって賄うべきであるという会計年度独立の原則,予算 の内容及び執行状況を国民に公開すべきであるという予算公開の原則等に従い 4S},政府支出を統制する統治構造こそ,最も望ましい統治構造であったことが 浮き彫りになる。.  ただ,ヒンマンも,議会が上記の諸原則によって政府支出を統制する場合. 政府が緊急の状況に柔軟に対応することが難しいと認めていた。このことは,. ヒンマンが第69条(予備費)に関する修正提案を行わなかったことや,第64 条の修正提案と関連して予備費及び補正予算の利用可能性を言及したこと,第 77.

(24)  横浜国際経済法学第16巻第2号(2008年2月). 62条の修正提案と関連して補正予算の利用可能性を言及したこと,第70条の 修正提案と関連して緊急財政措置を実施するために政府閣僚及び議員によって 構成される委員会の設置可能性を言及したことなどから明らかである。とはい え.ヒンマンの基本的な立場は,政府は予備費と補正予算によって如何なる緊 急の状況にも対応することが可能であるということであった。.  議会を国家最高権力機関として位置づけていたヒンマンの覚書と関連して一. つ指摘しなければならないことは,第71条に関する修正提案から見られるよ うに,議会において予算が成立しない場合,政府が如何に対処すればよいかと. いう問題について,ヒンマンが明確な見解を示していなかったことである。予 算が議会で成立しない場合,予算が成立するまでの空白期間をどのようにつな ぐかという問題は,国家財政の運営を担当する政府にとって極めて重大な問題 である。しかし,ヒンマンは,この問題について代案を一切提示していなかった。. N.GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項とヒンマンの覚書  1.GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項  GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項はリゾーによって作成された。ただ, リゾーがGHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項を作成する過程において,すべ ての条文を自ら創案したとは考えられない。そこで,リゾーが,何らかの憲 法草案,又はそれに類似する資料を参考にした可能性が提起される。この問 題を本格的に検討する前に.ここでは,まず大日本帝国憲法の財政関連条項と. GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項とがどのような相違点をもつものかを明 らかにしておく。GHQ/SCAP憲法草案の財政関連条項は,<表一一2>に示さ れているように,大日本帝国憲法の財政関連条項と大きく異なるものであった。. 大日本帝国憲法の財政関連条項に対応する形で,GHQ/SCAP憲法草案の財政 関連条項の相違点を比較すると,次のようにまとめることができる49)。. 78.

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