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佛教学研究 第67号 007吉田, 哲「仏教認識論におけるpramanaの両義性」

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(1)

仏教認識論における

ρ

rama

,a

J

1

の両義性

士 口

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.

はじめに・問題の所在

ディグナーガが『プラマーナサムッチャヤJ

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以 下 PS)を著したことによって本格的な知識体系として歩みはじめた仏教認識 論・論理学は,ダルマキールティの登場によりさらに発展深化した。その仏 教認識論・論理学の最も主要な考察対象が〈プラマーナ>

{prama

t;l

a

,量) であることはいうまでもないであろう。 ところで,仏教認識論において用いられる「プラマーナ」なる語は何を意 味しているのか,という問題に関して,我々は率直にこの語の多義dを認め ねばならいであろう。例えば,ダルマキールティは rプラマーナ・ヴアール ティカJ

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初,以下

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において rプラマーナとは欺くこと がない認識である」と, <プラマーナ〉が〈認識〉であることを明言してい る。しかし他方では.この〈プラマーナ〉を単純に「認識」のことだとは考 えられない記述も存在する。例えば,「対象の形相をもつことがプラマーナ である」という場合である。「対象の形相をもつことJとは認識が対象の形 相を帯ぴて生じることであり.それは認識の〈対象形相性>

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もしくは〈対象相似性>

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と呼ばれたりもするのであ るが,これは直接的には認識がもっ性質を指しているのであって,認識その ものを指しているとは言い難い。確かに,仏教論理学派は.認識手段と認識 結果は別のものではなしまた,認識結果は自己認識である.という〈量・ 量巣非別体説〉を主張す

7

る。従って, <対象相似性〉といっても,それはま

(2)

仏教認蓄量論におけるρramd1Jaの両義性 さに認識に備わる性質であるが故に認識と別に存在する何かではなしまた, 認識結果といっても,結局は認識自体がもっ対象形相の認識,つまり自己認 識に他ならない。それ故に,認識手段が正しい認識そのものを指すのか,あ るいは認識に備わっていて認識を成立させる何らかの性質を指すのか,とい うことは仏教論理学派にとってはそれほど本質的な問題ではないと言えるか もしれない。しかし,実際に「プラマーナJが異なる仕方で用いられている ことは事実であり,ではどこにそのような異なる用法の存在理由があるのか ということを検討することは決して無意味ではないと考える。以下,それぞ れの場合に関する若干の記述を見て,この点について検討したい。

1.正しい認識としての〈プラマーナ〉

シャーキャプッディによれば,ダルマキールティはPV第二章において 〈プラマーナ〉を定義するために

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プラマーナとは欺かない認識である。 (PV11 la) と述べている。これによって, <プラマーナ〉が認識であるということが知 られ, しかもその認識が「欺かないもの」であるときにその認識は〈プラマ ーナ〉であると定義される。しかし,この点についてはディグナーガが

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官頭の帰敬偏において世尊

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すなわち仏陀を「プラマーナとし て生まれた方J

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と表現していることが問題になろう。場 合によっては仏陀を認識そのものと見なす訳には行かないからである。これ についてシャーキャブッディは,世尊がプラマーナそのものなのではなくて, 世尊はプラマーナに似ているから「プラマーナとして生まれた方」と表現さ れているのだと解釈している。従って,世尊が rフ。ラマーナJ と呼ばれると しても,それはあくまで磐喰的表現だということである。

-

(3)

32-仏教箆滋諭におけるρramlJt)sの雨続性 このように,仏教認識論においてプラマーナはまずはく正しい認識〉を意 味するということが確認される。そして,このプラマーナの定義は,外界実 在説においても唯識説においても妥当する定義とみなされている。 しかし,その〈正しさ〉もしくは〈真理性〉がどのようにして知られるの かという問題が生じる。仏教認識論においてこのプラマーナの〈真理性〉が 論じられる場合,その〈真理性〉の判断基準は, arthakriyasthi ti

)

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a visarpvadanarp. 〈欺かないこと〉とは目的実現が確定していることである。 (PV11 lbc) と述べられているように,その認識が目的の実現を確約しくれるものである か否かにある。もちろん,何らかの支障があって,目的が実現されなかった り,偶々その目的実現に向けての行動が起こされなかった場合でも,その認 識はプラマーナである。その認識にもとづいて行動が起こされ,そしてその 行動を妨げるものがなかった場合には,その目的のみが実現されるはずであ り,目的でなかったことが実現されることはないからである。 ともかくも,このようにプラマーナが正しい認識を意味するとき,常に意 識されているのは,その認識にもとづいて行動すれば所期の目的が実現され るという構造である。この 〈プラマーナ〉→〈行動〉→〈目的実現〉 という構造からは,正しい認識としての〈プラマーナ〉が目的実現に向かっ た〈行動〉すなわち〈行為〉を予想しているということ理解される。

2

.

認識という行為の手段としてのくプラマーナ〉

以上,仏教認識論においては正しい認識が〈プラマーナ〉であるとされる

(4)

仏教飽lIl¥鎗における tmmtll,10の両雑性 ことを見たが, しかし, <プラマーナ〉がこの意味だけで用いられていると は言い難い場合がある。その一つが仏教認識論の主要な主張の一つである 〈量・量果非別体説>,すなわち, <プラマーナ〉と〈プラマーナの結果〉

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,量果)とが別個の存在ではないという主張の中 で用いられる「プラマーナ」である。この〈量・量果非別体説〉はすでにデ ィグナーガによって主張されているから,まずそれを見ることにする。 また,ここでは, 作用をもっと理解されることによって rプラマーナJ(といわれ る)0 (それは〕結果に他ならないのだが。

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というのも,ここ(=自派)では,他派の者たちのように,プラマーナ と結果は別のものではないからである。けれども,ぞれ(=プラマー ナ)に他ならない結果である認織が対象の形相をもつことによって生じ ることにより, (認識は〕作用をもっと理解される。その〔理解〕にも とづいて〔認識に対して〕プラマーナ性が転義的に適用されるが,しか も〔本当は〕作期をもたない。例えば,結果が原因に似て生じるとき, r(結果は〕原因の形相を取る」と語られるカ℃しかも作用をもたない ように。ここでも同様である。 この〈プラマーナ〉とくプラマーナの結果〉が別ではないという主張は

PS

及び

PSV

の第一章において,唐突に始まるように感じられるが, しかしデ ィグナーガはすでに『悶明正理門論』仙台骨'amukha

以 下NM)において くプラマーナ〉と〈プラマーナの結巣〉が別体ではないことを主張している。 又タ於P此ノ~-,無!:.8 IJ'='量果ー。以Eノ即手此ノ髄似t義主生三ルヲ故f 似te有ア 用故

f

慌説シヂ儒

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量ト。 またここでは, (畳とは〕別に量身さはない。というのもこれ(=量呆)

-

(5)

34-仏,f1(~ra~歯における þmml1脚の両線住 そのものが対象に似て生じることによって,作用があるかのようである から,「最Jと転義的に表現されるのである。 このように, <量・最果非別体説〉は

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PS

に一貫するディグナーガの 主要な理論である。その論述の中で最も注意を引くのは,プラマーナの結果 としての認識は「作用をもたない」という点である。しかしその認識が対象 の形相をもって生じるので r対象の形相を取る」という作用があるかのよう に理解され,その理解にもとづいて rプラマーナ」という表現が転義的に適 用されるというのである。

f

追ってディグナーガは,本米〈結果〉である認識 が〈ブラマーナ〉と呼ばれるに過ぎないから,両者は「非加

l

体」だというの である。 しかし,ディグナーズfは, <プラマーナ〉とくプラマーナの結果〉とが別 体ではないことを述べた後に,対象認識が結果であり,認識が対象の形相を もつことが〈プラマーナ〉であることを述べている。 一方, <プラメーヤ〉が外界対象であるならば, 対象の顕現があることこそがそれの〈プラマーナ〉である。 というのも.そうであるならば,認識によって自己認識されるとしても, (その〕本性を無観して,対象の顕現があることこそがそれのくプラマ ーナ〉なのである。何故ならば,その対象は それによって認識されるから. というのも,好ましいものにせよ,好ましくないものにせよ,それぞれ 対象の形相が知に顕現すると,それぞれの形相をもつものとしてその対 ω 境が腿轍されるから?ある。 こニでデイグナーガは認識に「対象の顕現があることJ,すなわち認識の 〈対象顕現性>(vi明yabha回目}が〈プラマーナ〉であると明言している。 これが彼の後の仏教認識論において.認識を成立させるものとしての認識の

(6)

仏教~.u歯における þmmOl,la の商義性 く対象相似性)

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が〈プラマーナ〉と呼ばれることの哨矢と なっていることはいうまでもない。 ダルマキールティは

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以降において,この意味でのくプラマー ナ〉に関する考察を行っている。上掲のディグナーガの諸論述においてはや や不明確であったが,

PV

の段階では,明確に,「結果した行為」としての 対象認識をくプラマーナの結果〉と見なし, <プラマーナ〉をその行為の成 就要素

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と見なした上で考察が進められている。

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では 次のように述べられている。 「行為J

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いわれ「成就要議J

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といわれるが,あら ゆる行為にとってすべてが成就要素なのではない。というのも, <甲〉 にもとづいて行為〈乙〉があるとき, <甲〉は〔行為) <乙〉の成就要素 なのだから。 ニのように,ダルマキールティは〈量・量果非別体説〉を提起するに際し, その識論をく行為〉と〈行為成就要素〉という観点から開始するのである。 デーヴェーンドラブッディによれば, <成就するもの〉と〈成就されるもの〉 という関係は, <生ぜしめるもの〉とく生ぜしめられるもの〉の関係ではな いロその際, <プラマーナ〉が〈行為成就要素)

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に当たり.<プ ラマーナの結果〉である〈対象認識〉が 〈行為)

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に当たることは. 次のダルマキールティの論述から理解される。 従って,これ(=認識)に,或る自らの特殊性 〈甲〉によって.「これ の認識である」というようなこの行為

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討 の 対 象

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の 決定

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があるとき,そのく甲〉はそれ(=認識)を成就する

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ものであると確定される。 そして,ダルマキールティがここで「対象認識が成就する」と述べているの

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(7)

仏教.w.1Il給におけるt",,,,(J.仰の両絵性 は,ある対象認識が別の対象認識と区別されることであり,「これは背の認 識であって賀の認識ではない」という決定を可能にするもののことである。 次のデーヴェーンドラフ・ッディの説明はそのことを述べたものである。 〔原因に〕ちがいがなくとも,何か本性が特殊化されるもの(=結果と しての認識)は,対象を区別する{感官等の原固とは)別の根拠にもと づくであろう。それ(=対象を区別する別の根拠)がその本性を特徴付 けるものであることは合理である。 つまり,これは認識以外のさまざまな要因,例えば感官の清濁などの認識発 生の原因が同じであっても認識が区別されるためには認識自体にその区別の 根拠となるような何かがなければならないが,そのような根拠は認識自体に 備わったもの以外にはないということである。ダルマキールティがここで 〈行為〉と呼んでいるものは〈対象認識〉に他ならない。そして,その〈対 象認識〉を成就するものとは,その認識が例えば「青の認識」ではなく「貰 の認識」であると決定されることを可能にするものである。そして,ダルマ キールティはまさにそのく対象認識〉を成就するものは〈対象形相性〉

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以外にないと述べるのである。 従って, <プラメーヤ〉の認識の成就要素は <(プラ〕メーヤ〉の形相を もつことである。他の成就要素においては.それ(=認識}の行為対象 宮古 との関係が成立しない。 以上のように,ダルマキールティは〈結果〉とくプラマーナ〉とを〈行 為〉と〈行為成就要素〉と見なして識論を進める@そのことが最も端的に現 れているのが

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でのダルマキールティの論述であろう。 すべての行為要素

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は行為に対して有用であるとしても, (す

(8)

仏教飽滋治におけるρrarnatJoの同義性 べての行為要素の中で〕最終的にそれ(=行為)を区別もの,それが最 聞 も主要な行為成就者と考えられている。 (PV111 311) このなかで用いられている「最も主要な行為成就要素J

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と いう表現はいうまでもなくパーニニのスートラの中で行為成就要素の一つで 事母 ある行為手段

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の定義に用いられる表現である。仏教論理学派と は異なり,文法学派においては,この行為成就要素とはく言葉の世界〉ゃ く観念の世界〉に属する抽象的な存在ではなくて, <実在の世界〉に存在す ω るくもの> (=実体)と見なされ,また, <行為〉はそれらく行為成就要素〉 とは別に存在するものと考えられている。 ダディグナーガや,特にルマキールティの〈量・量果非別体説〉において 興味深い点は. <行為〉と〈行為成就要素〉という区別を導入しながらも, 官官 結局は行為(/作用)の存在が否定されている点である。ディグナーガ以前 から,文法学派に代表されるく行為〉と〈行為成就要素〉が実在するとする ω 主張に対して仏教が批判を行ってきたことはよく知られている。このような 点からも,ダルマキールティなどにとっては,そもそも〈プラマーナ〉を対 象認識という行為の成就要素とすること自体,本来はナンセンスのはずであ る。実際,彼らが〈量・盤果非別体説〉を論じる際の〈行為〉と〈行為成就 要素〉の区別は,実体としての区別ではなくて,属性のちがいにもとづくも のとされる。したがって,デーヴェーンドラプッディやシャーキャ 7"ッデイ 伺 も述べるように. r <行為〉そのものが別個存在しないのだから. <行為成就 要素〉も存在しない」ということが彼らにとっての結論とならざるを得ない。 しかし,たとえこのような意味での〈プラマーナ〉が,本来否定されるべき 〈行為〉ゃく作用〉といったものを予想しており,従って,最終的には放棄 されるものであるとしても. <認識〉を〈行為〉とし,その属性である〈対 象形相性〉をくプラマーナ〉すなわち〈行為手段〉と見なして行われる吟味 によって,他派が主張する〈プラマーナ〉を批判することを可能にするとい 。 司 う機能は見逃せない点である。ただし,このく対象形相性>= <プラマーナ〉

- 3

8一

(9)

仏教IlIU~における þmnllJrJtl の尚a位 という構造は,外界対象の非有・在を説〈日

f

f.識説においては成り立たない。そ のことをジネーンドラプッディが筒擦に述べているのでそれを見ることにす る。 外界対象が存在しない場合は,自己認識を〈結果〉として画定する際 に,能取相が〈プラマーナ〉であると〔ディグナーガは

PS1

1

0

で〕述 べるであろう。従ってまた. <プラメーヤ〉が外界対象として存在しな い場合は,自己認識を結果としてl画定する際に,能取相が〈プラマー ナ〉として主張されるのと同様に. <プラメーヤ〉が外界対象として存 在する場合でも,同じ能取相が〈プラマーナ〉である,という疑いがあ ろう。ぞれ故に,その〔疑い〕を除くために,「一方〔プラメーヤが外 界対象であるならば〕……」云々と〔ディグナーガは〕述べたのである。 〈プラマーナ〉が外界〔対象〕である場合は,自己認識を〈結果〉とし て画定するとしても. (認識に)

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対象の顕現があることが」認識の〈プ ラマーナ〉と主張されるのだが,唯識(説の場合〕のように能取相が 骨量 (<プラマーナ〉と主張されるの〕ではない。 これは先に見た

PS1

9

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に対する注釈であるが,これによって,外 界対象の実在を認める立場と唯識説とでは〈プラマーナ〉の設定方法が異な っているということが明らかである。〈対象形相性〉を〈プラマーナ〉とす る設定方法は,外界実在論に立ち,しかも〈プラメーヤ〉が外罪対象である 場合にのみ適合するものであって,その意味ではその適用範囲が限定された ものと言うことが出来ょう。

3

.

ま と め

以上,仏教認識論においてくプラマーナ〉がどのように見なされているか の一端を見た。まず. <プラマーナ〉は正しい認識を意味している場合があ

(10)

仏教認隆治における tramll仰 の 両 袋 住 った。それはいわば仏教認識論における最広義の〈プラ?ーナ〉と見なすこ とが出来ょう。その最広義というのは,この「プラマーナとは欺かない認識 であるJ という〈プラマーナ〉の定義が,外界実在論に立つ場合にも,唯識 説に立つ場合にも適合するものだったからである。またこの意味での〈プラ マーナ〉は,それにもとつ'いて人間が行動する際に,その人間の目的の実現 に関して確実なものであることを特徴とする。したがって,正しい認識とし ての〈プラマーナ〉は人間の行動とその目的の実現を予想したものである。 一方,認識という行為を成立させるものを意味する〈プラ?ーナ〉の場合 は,外界実在論に立つ場合と,唯識説に立つ場合とでは,それが指すものが 異なっている。外界実在論の場合には, <対象の形相をもつこと〉が〈プラ マーナ〉であった。外界実在論に立ち,そして認識対象が外界対象である場 合, <対象認識〉が〈プラマーナの結果〉とされることにより,その〈対象 認識〉を成立させるものとしての〈対象の形相をもつこと〉がくプラマー ナ〉とされるのである。一方,唯識説に立つ場合は,認識がもっ〈能取相〉 が〈プラマーナ〉とされた。このように, <プラマーナ〉が〈対象の形相を もつこと〉を意味する場合,それは唯識説における〈プラマーナ〉と一致し ないのである。しかし,この意味で〈プラマーナ〉が吟味されることによっ て他派が主張するくプラマーナ〉を批判することが可能となる。この点が 〈プラマーナ〉をく対象形相性〉と見なさねばならない理由の一つであった であろう。 【参考文献・暗号】

AKBh Abhidharmako&lbhii$Ya: Abhidhanna-Koshabh勾'a,ed. by Prof. P. Pradhan, K. P. Jayaswal Research Institute, Patna, 1967 AKV SPhu白河'JzaAbhidhannavyakhya: SPhu招rthaAbhidhannaのlak・

hya By Y~omitra, Edited by Unrai Wogihara,山喜房偽書林, 1990(第三版覆刻発行)

Mahabh匂la Pata舟Fjali言 り'akaraμ-mahabh勾la,ed. by F. Kielhom, Govem-ment Cen甘alPr白5,Bombay, 1909 (2nd ed., rev.)

PS Cf.PSV

(11)

40-仏教

aD

舗における tram4加 の 前 線 性

PSV Emst Steinkellnel":Diganga's Pl"amaI:tasamuccaya, Chapter 1, 2005 (www.oeaw.ac.at/ias/Mat/dignaga_PS_l.凶f) PST Pramt1t;asamuccayatrM1:Jinendrabuddhi包 V倍 加nalavati Pram勾asamuccayatfkaCh

ter1, Part1:Critical Edition, by Ernst Steinkellner, Helumut Krasser, HorstLasic, China Tibetology Research Center, Austrian Academy of Sciences, China Tibetology Publishing House, Austrian Academy of Sciences Press, Beijing-Vienna 2005 PVP Devendrabuddhi'sPram拘avarl励atanjika:北京版No.5717:デ ルゲ版No.4217 PVT

kyabuddhi'sPramã1Javãrt耐~tïkã: 北京版 No.5718 :デルゲ版 No.4220 稲 見 [1993) 稲見正治「イム教論理学派の真理論ーーデーヴェーンドラプッデイ とシャーキャブッディ一一J( 前 困 惑 拳 編 r波治文麿博士追悼 記 念 論

m

原始仏教と大衆仏教下』永田文畠堂,1993, pp. 85 -118) 小川 [1994) 小川英世 rMahabha?lyaad P 1.3.1研究 (5)J (r広ぬ大学文学部 紀 婆Jvol.54, 1994, pp. 41-61) 沖 [1993)

i

中 和史「ダルモーッタラの「量量果非別体論」一一川骨'abin -dut!kaにおける一一J(前回窓祭編『波遁文麿博士追悼記念論 集原始仏教と大衆仏教下』永岡文昌堂,1993,pp.119-136) 片岡 [2009) 片 岡 啓 rr集蛍給J 19解釈の問題点一一ディグナーガとジネ 一 ン ド ラ ブ ッ デ ィ 一 一J(r印 度 学 仏 教 学 研 究J58-1,2009, pp. 106-112) 桂 [1969) 桂 紹 隆 r.ダルマキールティにおける「自己認識」の理論J(r南 都付

r

秋J23,1969,pp.I-44) 桂 [1982J 桂紹飽「因明正理門論研究[五]J (r広島大学文学部紀要J42, 1982

pp. 82-99) 桂 [1989) 経紹隆「知覚判断・疑似知覚・世俗知J (r藤田宏逮博士還暦記 念治集:インド留学と仏教J,1989,pp.533-554) 小 林 [1960J 小林信彦 rLAKSA

:

t

;

λの機能対象LAKSYλRTHA (1)一一 転義法による諮の文脈的意味一一J(京都大学印度・仏教学会 rインド学試論集JNo. 1, 1960, pp. 2-23) 小 林 [1961] 小林信彦 rLAKSA

:

t

;

λの機能対象LAKSYλRTHA(11)一一 転義法による語の文脈的意味一一J(京都大学印度・仏教学会 『インド学試論集JNo.2, 1961,pp.31・43) 桜 部 [1975) 桜部主主 r{民会論の研究 界・栂品』法蔵館,1975(第2刷)

(12)

仏教飽怠諮におけるρram4l)aの両袋住 戸崎 [1979] 戸崎宏正 r仏教認識論の研究上』東京,大東出版社,1979 三代 [2008] 三代 舞「ダルマキールティの量・量果非別体説ーーなぜ外的要 因は量ではないのか一一J(r印度学仏教学研究J57-1,2008, pp. 160-163) Dreyfus [1991] Georges Dreyfus“D, hannakirtis definition of pramaQa and its interpreters". Studies in the Buddhist epistemological traditio: proceedings of the second International dharmakirti Confer -ence, Vienna, June 11-16, 19891 ed. by Ernst SteinkelJner (Den -kschriften

1

Osterreichische Akademie der Wissenschaften, Philosophisch・Historische Klasse; Bd. 222. Beitrage zur Kultur-und Geistesgeschichte Asiens; Nr. 8) Wien: Verlag der Osterreichischen Akademie der Wissenschaften, 1991, pp. 19-38 Hattori [1969] Masaaki Hattori:Dignaga onρerclゆ 的n,being tlze Pratyak$ a-pariccheda 01Dignaga包Prama

r

.

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a

muccayaIrom theおns -krit Iragmenおandthe Tibelan versions, Harvard University Press

1969 註 (1) 後述するように,仏教認識論においては〈プラマーナ〉は場合に応じて〈正 しい認識>, <対象形相性>. <能取相〉など,異なるものを指す。 (2) PV 11 lab': pramal)am avisaIJlvadi jnanam;cf_ Dreyfus [1991] pp. 19-20 (3) PVP [D216al

P253a6-7] : shes pa'i don dang 'dra ba ni tshad ma yin la 1

(4) PVT [D72a2-3

P87a2] : tshad ma slu med can shes pa 11[D72a3] zhes bya ba凶mislu ba can nyid dang shes pa nyid mtshan gzhi rjes su bstan nas

tshad ma nyid ni mtshan nyid brjod pa'o

1

1

(fプラマーナとは欺かない認訟 で あ るJについて。〈有無欺晴性>(avisaIllVaditva)と〈認識性>(jnana -tva)という定義的特徴の基体(=プラマーナ)をまず教示して. <プラマーナ 性〉が定義的特徴として述べられたのである。) (5) PV 11 1以下がまさに〈プラマーナの定義〉であることは以下のデーヴェー ンドラプッディの説明によっても知られる。 PVP[D2al-2, P2bト2]: rjes su dpag pas don gyi rang gi ngo bo yongs su ma bcad pa'j phyir khyab [P2b2] pa med pas na de ni mi rigs so zhe na / skyes bu ma bslus pas na mi slu ba ni mngon par 'dod [D2a2] pa'i don dang phrad par byed pa'i mtshan nyid can gyimngon sum dang / rjes su dpag pa'i khyab par byed pa yin no

/

1

(【反論】推理によっては対象それ自体の性質(=自相)が決定されないから, (<欺かないこと〉が推理を〕適充しないので,それ(<欺かない認識〉という

(13)

42-仏教総織i諸におけるtram"'.Iaの両銭倹 定義)は正しくない。 [答 論]人がj吹かれないのだから ,<4~かないこと〉は, 望まれている対象に到達させるという定義的特徴をもっ知覚と推理とを遜充す る。)cf.稲 見 [1993]p.90 (6) しかし,シャーキャプッディは.この解釈は日常的営為を行うものに関する プラマーナについて成り立つものであって.世主事を r修習のカによって成就し た無垢にして無分別なる無謬の智慧を本位とする者Jと考える場合は世尊はま さにプラマーナそのものということになるという見解も紹介している。; PVT [D71b6-72a3

P86b5-87a2] : tshad ma yang de yin la gyur pa yang de yin pas na tshad mar gyur pa'o / / de Itar na tshad ma rtag par rtog pa bsal ba yin00 / / mngon sum daogりessu dpag pa ni tshad ma yin pa de bas na / ji ltar na [P印 刷 bcomIdan 'das de'j rang bzhin can ma yin [D71b7] pa la de skad du brjod ce na tshad ma daog 'dra bas na tshad ma ste油 田byaba smos te / tshad ma'j sgra dpe nang du 'dus pa can yjn00 zh田 byaba'j don to

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gal te bsgoms pa,j [P86b7] stobs las grub pa drj ma med pa rnam par mi rtog pa 'khrul pa med pa'i ye shes kyi bdag nyid can yin pa'i phyir bcom ldan [D72a1] 'das ni mngon sum gyi tshad ma'j rang bzhin can nyid du dngos su bzhugs pa [P86b8] nyid yin na nye bar btags pa la brten pasci zhig bya zhe na/ 'di la skyon yod pa ma yin te /此ogpa dang bcas pa'i sh白 pa'i gnas skabs la dgongs nas brjod pa'i phyir ro zhes bya ba ni [D72a2] gzhan dag [P87al] gi yin no / / 'dir gal te bcom Idan 'das ni ji skad du bshad pa'i tshad ma'j bdag nyid can yin pa de Ita na yang de Itar rab tu grags pa ma yin no

!

/

de bas na tha snyad du byas pa'itshad mas dper [P87 a2] mdzad pa yin00 zhes bya ba 'di ni rigs pa yin no / / (彼は「プラマー ナJ(pramalJa)でもある一方,彼は「生じた者J(bhuta)でもあるから「プ ラマーナとして生じた者J(pramalJabhuta)である (karmadharaya)。であ るから,プラマーナを恒常・なものとして理解することが排除されるのである。 [問]プラマーナは知覚と推理である。従って.何故.世主主がそれ(=知覚と 般理}を本質とするのではないのに,そのように諮られるのか。 [答)(世琢 は〕プラマーナに似ているから 「プラマーナJと述べるのである。 「プラマー ナ」と・いう語は喰例を内合した〔語〕だという意味である。{反論}修習のカ によって成就した無垢・無分別・無迷乱なる智惑を本性とするのだから.世尊 は知覚というプラマーナを本質として現前する者である,とするならば. (プ ラマーナでないものに対して 「プラマーナ」という表現を迎用するという〕転 義的適用に依拠〔して解釈〕する必要はない。 [答 論]これについて過失はな い。「有分別智の位を意図して述べているからJということが他所にある。こ の場合.たとえ世尊が上述の如〈プラマーナを本性とするとしても,そのよう に〔世・聞において〕周知されてはいない。従って, 日常的営為を為す者のプラ

(14)

仏敏U怠治におけるtram41Jaの両ftt生

マーナをもって(1lt思の〕喰例としている,というこのことは合理である。)

(7)Cf.稲見 [1993)p.92;PVP [D2b7-3a1

P3a5-8]: gang giphyirol gyi don

med pa de'jtshadmas yongs su bcad pa'j don gyi yul ni tshad ma phyi ma de'jrgyunyid yin par mi slu ba ma yingyi/ '00 kyang ji Itar'dodpa'j don

byed par 5nang ba can gyj sh田 pargyu nyidyinno / / gang 1a de med pa de

ni tshad ma ma yin pa de Itar na 'ga1 med do / / phyi ro1 gyi don yod pa ma

yin na yang de Itar snang ba can gyi shes paskyeba can nyid ni skyes bu'i don yjnpa de ltar na / phyi rol gyi don yod pa dang / cig shossmra ba dag

gi don dam par mi slu ba la bye brag ciyang med do / /

(8) 本稿においてはこのプラマーナの真理性の問題について砕しく検討すること が出来ない。この点についてのデーヴェーンドラプッディとシャーキャブッデ ィの鎗述部分が稲見 [1993]に訳出されている。 (9) ダルマキールティの認書~~に関していえば.この構造は維理には当て織まる が,知覚に関してはやや舗足が必要である。プラマーナである知覚は〈決定 知〉ではなく. <決定知〉がなければ行動が起こらないので,知覚の直後に生 じる〈知覚判断〉が対象を決定する必要がある.行動に関する知覚判断の機能 については経 [1989]参照。 (10) 本稿では. <量・量果非別体説〉自体を詳細に検討するiSlはない.諸研究を 参照されたい.以下その中のいくつかを挙げる.桂 [1969]は,ダルマキール ティの自己認訟理論に閲する詳細な検討であり.その中でダルマキールティの 〈量・量果非別体説〉も分析されている.戸時 [1979]pp.394-413はダルマ キールティの

Pram

t11.1

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a

r

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t

伽における 〈量・量巣非別体税〉の和訳と解説で ある。沖 [1993]ではダルモーッタラの〈量・量来非別体脱〉が.め

l

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dut胸当該部分の和釈を伴って検討されている。三代 [2008]はダルマキール ティの

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に見られる〈量・量果非別体説〉のサンスクリット 諮テキストにもとづいた研究である。片岡[2009]はディグナーガの

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句"とその復注者ジネーンドラプッディとの聞の相奥点を解明している。, 側 転 義 的 適 用 (upacara)とは.インド修辞学における術穏として用いられる 語でもある。ぞれは.r類似という関係に基づく誇袋発動J.あるいは rlak$a仰 の同義語J.すなわち

r

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転義法による意味表出〉一般」などを意味するとされ る。「少年はライオンだJというような表現における「少年」と『ライオン」 はそれらの本来的意味をもったままでは主述関係に立ち得る余地がなく,明ら かな矛盾が生じる。そこで,語が本来の意味とは異なる特殊な意味をもつこと になるという.詳しくは,小林 [1960), [1961]を参照されたい。

(I~ PS & PSV: atra ca/錨vyaparapratItatvatpramal)alJlphalam eva5at/ / (PS 1 8cd) na hy atra bahyakanam iva pramaJ)ad arthantaralJlpha1am. tasyaiva tuρhalabhalas)崎 ji¥anasyavi$ayakaratayautpatty五 回vyapara

(15)

仏 教

aa

Ulにおけるtmlllll仰の両縫住

pratttiJ,..tam uttu拘I{lpramaQatvam upacaryate nirvyaparam api sat. tad

yathaρluzlarrz hetvanu叫 仰m u脚 dyamlJ.narrzhetu,riiゆarrzI!rh~tlty 加thyate nirvy砂, {/ramapi, tadvad atraj

μ

.

;

cf.Hattori [1969] p. 28, p.l00, note 1.58, 59 ( 13) r因明正理門治J(r大正J32

p. 3b) (14) Cf.経 [1982Jp.87-88 (15) 戸崎氏は.「隊那と法称の説の相違は,量 (pramaQa)の意味の取り方の栂 逮である。隊那はそれを対象詑織の作用 (vyapara)と取り,法称、は対象知 (盛栄}を成就せしめるもの (sadhana)と取る。J(戸崎 [1979]pp. 396)と 述べておられる。しかし, ここでディグナーガが r作用」を〈プラマーナ〉と 考えていたかどうかについては,以下のように考えることも出米るかもしれな い。つまりデイグナーガは 「対象の形相をもつこと」ではなくて r認 滋する」 という行ぬを指して「作用」と述べており, <対象の形相をもつこと〉を〈対 象認識〉という行為を成立させるものと考えていた可能性もあるということで ある。 そうすると,デイグナーガとダルマキールティとの聞にちがいはないこ とになる。しかし,これは,PSI8cdに限って考えられることであり,この後 の部分でもー賞してディグナーガの 「作用」についての理解がそうであったと は雷い切 れない。また,ここでのディグナーガの論述はヴァスパン ドゥの AKBhの以下の記述を念頭に置いたものと考えられる。 AKBhp.31,11.11-14:

atra sautrantika油UI:t/ kim idam akMall1khadyate / cak~ur hi pratitya rupal)i cotpadyate cak別rviji'lanam/ tatra kab pa~yati ko va dr~yate / nirvyaparal11hidal11dharmamatrarphetuphalamatrall1ca / tatra vyavahar. 亙rthal11cchandata upac孟rabkriyantecak~ub pa!;yati vijnanal11vijanatiti / natrabhinivestavyam / (これについて経涯部の人々は述べている。 「これは 一体どうしたことか。虚空が噛まれている。限と色とに縁って眼識は生じる。 その場合,何が見る主体なのか,また,何が見られる対象なのか。というのも, これは無作用であり.法のみであり.因果のみだからである。それに対して日 常的営為のために,恋意的に,転義的適用がなされて, 「眼が見るJ,r敵が磁 るJ,といわれるが,これにとらわれてはならない。Jcf.桜部 [1975Jp.221 -222)ヤショーミ トラの注釈によれば,ここで経量都が批判しているのは〈行 為>(kl匂昌}と〈行為の主体>(ka此r)とを別個のものとして実在視すること である (cf.AKV p. 82,11. 27-31)。ディグナーガが r作用』と言っているのは, この『識が滋る」などと語られる場合に仮織されている 「議る」などという 「作用Jを指していると考えられる。また,認識が「対象の形相をもっJとい うこともヴァスパンドゥがAKBhに述べることである。 AKBhp. 473, L 23.p. 474,1.1: yat tarhi vijnanal11vijanatiti sutre uktaQ1kil11tatra vijnanal11 karoti / na kil11cit karoti / ya出五 tukaryaQ1 karaQam anuvidhiyata ity ucyate / sadreyenatmalabh韮d akurvad api kil11cit / eval11viji¥anam api

(16)

仏総lZt:.¥自由に必ける tramlIl!Qの両鍵住

vijanatity ucyate / sadrSyenatmalabhad akurvad api kirpcit / kirp punar asyasãd{-~y釘n/tad孟karata/ ata eva tad indriyad apy utpannarpvi~ayaIJl vijanatityucyatenendriyam / 【(問

1

では.経典中に 「識が滋るJと述べら れているが,その場合,滋は何をするのか。 【答】何もするのではない。けれ ども.例えば,何も為さないにも関わらず. (結果は原因に〕相似して生じる から,「結果は原因に従う」と語られるように.何も為さないにも関わらず, 〔識が境に〕相似して生じるから, 「滋が殺るJと穏られる。 【問]しかし, こ の 「相似性Jとは何だ。 {答]それの形相をもつことである。だからこそ,そ れは感官から生起しでも, 「境を織るJと

i

語られ, 「感宮を〔織る)J(と語られ るの〕ではない。)このヴァスパンドゥの説明によれば.r織が境の形相をもっ て生じる」ということが 「滋が境を織る」と語られているに過ぎないというこ とになる。その場合,訟が行為主体,墳が行為対象,そして〈競ること〉が行 為と仮構される。また.織=結果,境=原因,という対応関係もすでに現れて いる。ここで注目すべきは.「認識が生じる」という単一の事態が r認訟が ……認織する」というように.r認践するもの」という〈行為要素〉と 「認識 すること」という〈行為〉 に分 析されてしまうことである。こ の よ う な AKBhの論述と, ディグナ-t!の〈量・量果非別体説〉とは同一線上にある と忠われる。

(l~ PS 1 9cd

&

PSV: yada tu bahya evarthal;t prameyab. tad亙 vi~ayãbhãsataiväsya pramalJaJTl tada hi jn呂 田svasaJTlvedyamapi svarupam anapeksyarthabhasataivasya pramaoam_ yasmat 50 'r出ab tena miyate (PS1 9) yatha yatha hy arthakaro jftane pratibhati~ubhãSubhãditvena, tattadrupa

.

b

sab visayab pramiyate. (17)

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桂 [1969]

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2

2

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2

3

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すでに我々は,経量部が対象とその知識との関係 を因果関係として理解していたことを繰返し述べた。今や,その結果である知 識が手段と結果とに論理的に分析されるのである。……以上経量部の 「外界の 対象が原因となり,結果である知織が生じ,その知織が更に認識手段とその給・ 果とに概念的に分岐されるJという認識締造の分析は,まさに彼らの有形象知 滋論に基づくものであるけ;なお.do.

p

.

2

2

所餓の図 HETU Prameya

=

bahyartha Pramaoa = artharupata (sarupya) PHALA

Phala = arthadhigati - 46ー sadhana vyavasthapaka sadhya vyavasthapya

(17)

仏 教111m鎗におけるt mml1仰 の 同 議 位

も参照。

(18) kr匂asadhanamity eva sarvaJTl回rvasyakarmaJ)al;l/ sadhanaJTlna hitat

tasyal;l sadhanaJTlya kriya yatab/ / (PV III 301) : Cf.戸崎 [1979)p.396:

なお,戸崎氏はPVIII 301aの“kriyaslldhanam的 eva"をrr行為の能成者」 といわれるが.実に……」と読まれているが,本稿に限っては.シャーキャブ ツディの解釈に従ってこのように訳した。 cf.PVT: bya ba dang nisgrub byed cesbya ba Ja/ bya ba 油 田byaba nyid dang / sgrub par byed pa zhes bya ba nyid c白 byaba'i don to/ / “(kriyaslJdhanam的 eva"という〔語句〕 について。 fkriyむ と い わ れ , ま た rstJdhanaJといわれ.という意味であ る。)

(19) Cf.戸崎 [1979)p.396

0) tasmad yato'syatmabhedadasyadhigatir ity ayam / kriyayab kar maniyamab siddha sa tatprasadhan亙//(PV III304): Cf.戸崎 (1979)p.398

(2 PVP [1) D216a7-bl, P253b6-7) : khyad par med na yang gang zhig bdag nyid khyad par du 'gyur ba gang yin pa de ni yul mam par gzhag pa'i rten gzhan 1a Itos par'gyurba de'i bdag nyid de'i mtshon par byed pa por rigs pa yin pa /

ω:) tasmat prameyadhigatel;l sadhanaJTlmeyariipata/ 語 晶ane'nya仕atatkar・ masambandho na prasidhyati / / (PV JII306); cf.戸崎 [1979)p.399

側 sarve平amupayoge 'pikarakaJ)aJTlkriyaJTlprati / yad antyaJTlbhedakaJTl

tasyas tat s亘dhakatamaJTlmatam / / (PV III 311); cf.戸崎 [1979)p.404

(24) P 1.4.42 : sadhakatamarp karaJ)am.

側 MBhvol. 1

p. 1: atha gaur ityatrakab ~abdab? kiJTlyat tat sasnalaIl

-giilakakudakhuravi~ãQY artharupaJTlsa~bdab? na ity aha, dravyarp.nama tat.yat tarhi tad ingitaJTlC時ptaJTlnimi~itaIJl回 ~abdab? na ityaha, kriya

nama sa.((問】きて, r牛」という場合,何が語(担bda)なのか。凡そ,喉 の垂肉や尻尾や腐のこぶや蹄や角をもつもの,それが穏なのか。 【答]そうで はない。それは実体と呼ばれるものである。[悶]では,凡そ,身震い,運動. 瞬き,それが穏なのか。[答]そうではない。それは行為と呼ばれるものであ る。 [問]では.凡そ,白や背や烈や茶色や灰色という,それが誇なのか。 [答]そうではない。それは属性と呼ばれるものである。): cf.小川 [1994) p.57, note 126 : rこの場合「能成者J(sa品ana)が.<行為〉実現に対する能 力そのものではなしそのような能力の基体としてのく実体>(Pradipa on Mbh ad P3.2.115:~ktivyatiriktaJTl ~aktimaddravyam) を指すことは言うま でもない。なぜなら,能力もまた推狸によって知られるものであるからであ る。J (26) Cf小川 [1994):その際, <行為成就要素〉の実在は知覚によって知られ,

(18)

仏教也鎗鎗におけるtramlJ'Jllの両舞伎

〈行為〉の実在Iま推理によって知られるとされる。 (21) Cf PV III 307cd, 308, 309:戸崎 [1979]pp.400-401

側 Cf. AKBh p. 473, 1.23 -p. 474, J.1 :ヤショーミトラによればこのAKBhの

部分で批判されているのは文法学派?ある.cf.AKV p. 712, 1.26

側 PVP [D219a6・7,P257a4・5]:曲 目pade dang de labrten pas bskyed par bya ba dang skyed par byed pa 'ba' zhig tusgro 'dogspa dang Idanpa dag bya ba dang byed pa 油 田brjodkyi/ don gzhan du gyur pa'i bya ba凶yodpa ma yin no / / de med pa'i phyir gang las byed pa yin/;PVT [D218a6・7,

P269a2・4):don gzhan du gyur pa'i bya ba niyod pa ma yin no 油 田byaba ni gcad par bya ba dang gcod par byed pa'i rdzas las tha dad par te/ de dmigs pa'i mtshan nyidkyir gyur pa lasmi dr凶gspa'i phyir ro/ / de med pa'i phyir te don gzhan bu gyur pa'i bya ba med pa'i phyir ro / / gang las byed pa yin zh白 byaba ni ma yin te byed pa por mam par gzhag pa ni bya

ba'i rgyu can yin pa'i phyir ro/ / ω1) PV III 310-317 : cf.戸崎 [1979]pp.401-410

) PS 1 1 10 : yadabhasarp prameyarp tat pramal)aphalate punal::l/ grahak亙・ karasarpvittyos trayarp n孟tabp

hakkれam//(PSII0)(ものとしての顕現, それが〈プラメーヤ〉である。しかし,能取相は〈プラマーナ〉であり〔自 己〕認滋は〈結果〉である。従って,三者は別のものではない。) 倒 PST [p. 71,1.12 -p.72, 1. 2]

主主回

tibahye '凶lesvasarpvedanaphalavya・ vasthayarp grahakakarasya pramaoyarp vaksyati

I

tataS c亙satib討lye'rthe prameye ya出量svasarpvedanaphalavyavasthanegrahakakaral)pramaI;lam istam, tatha sati bahye 'rthe prameye grahakakara eva pramao剖 nity aSan

ka syat / atas tannirasay油a- yadiitv ityadi / bahye prameye svasarp vedanaphalavyavas伽 yamapiv絢I{jbhliso.taivajnanasyaρramii7Jsm isyate, na tu吋ji¥aptima回 tavadgr討lakakarab/ / キーワード デイグナ-'I!.ダルマキールティ,デーヴェーンドラプッディ, シャーキャブッデイ,ジネーンドラブッディ,プラマーナ - 48ー

参照

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