研究成果報告
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2006
年
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平成 1
8
年)
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ISSN 0917-2181「沖縄本島都市部における各宗派寺院の現状と展望①」
浄 土 宗 総 合 研 究 所
2006年(平成18年)
教化研究
第十七号・目
, 欠 研究成果報告 沖縄本島都市部における各宗派寺院の現状と展望 沖縄における浄土真宗本願寺派の開教 平 成 げ 年 度 研 究 活 動 報 告 総 合 研 究 総 合 研 究 プ ロ ジ ェ ク ト 総 合 研 究 総 合 研 究 プ ロ ジ ェ ク ト 総 合 研 究 総 合 研 究 プ ロ ジ ェ ク ト 総 合 研 究 総 合 研 究 プ ロ ジ ェ ク ト 総 合 研 究 総 合 研 究 プ ロ ジ ェ ク ト 基 礎 研 究 教 学 的 研 究 プ ロ ジ ェ ク ト 基 礎 研 究 法 式 的 研 究 プ ロ ジ ェ ク ト 基 礎 研 究 布 教 的 研 究 プ ロ ジ ェ ク ト 経 常 的 運 営 他 研 究 機 関 連 絡 提 携 特 別 業 務 特 別 特 別 業 務 特 別 特 別 業 務 大 遠 思 関 連 特 別 業 務 大 遠 忌 関 連 特 別 業 務 大 遠 忌 関 連 特 別 業 務 大 遠 忌 関 連 総合研究 総合研究 開教(国内開教・海外開教) 仏教福祉 生命倫理 現代葬祭仏教 国際対応 浄土教比較論 ﹁ 法 事 讃 ﹂ 研究 布教資料研究 他教団交流 浄土宗典籍・版木の研究 善本叢書 法然上人 二 十五 霊 場 研究 浄土宗大辞典 浄 土 三 部経 四十八巻伝 総合研究プロジェクト 総合研究プロジェクト 開 開 教 教 106 63 61 55 52 44 40 36 86 79 76 72 699
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研究ノ
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卜 全教区葬祭アンケート 仏説観無 量寿経 四十八巻伝 和 歌 ・ 道 詠 の 研 究 五 重 勧 誠 に お け る 活 用 に つ い て 視聴覚効果の高い布教法 l パネル法話の検討 l 絵本を利用した布教実践について i 法話の序説としてのESE
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﹁ 民 命 的c c
・ m w 第 一 次集計分析 ( い の ち ) 平 成 十 七 年 度 活 動 報 告 平 成 十 八 年 度 研 究 課 題 別 平 成 十 七 年 度 研 究 プ ロ ジ ェ ク ト 一 覧 総合研究所運営委員会委員名簿 浄土宗総合研究所所員 ・ 嘱託名簿 編集後記 スタッフ一監九 の絵本 │ 葬祭仏教 浄土 三 部 経 四十八巻伝 布教資料研究 布教資料研究 布教資料研究 国際対応 国際対応 国際対応 国際対応 20 30 51 69 210192 141134 125 100*
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総 合研究 総 合 研 究 プ 口 ジ ヱ ク 卜 開 教
沖縄本
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都市部における各宗派寺院の現状と展望
はじめに 本研究プロジェクトは、沖縄本島都市部における浄土 宗寺院の開教の現状を調査分析する目的で、 二OO
四 ( 平 成 十 五 ) 年 末 の 三 月の予備調査から開始さ れ た 。 以 後十六年度と十七年度に当たる今期末までの 二 年間のプ ロ ジ ェ ク 卜 期 間 で 、 ﹁ 教 化 研究 ﹂ 第十五号と同第十六号 で浄土宗寺院の現況と展望についての聞き取りに基づい た報告と分析を行った 。 本号、第十七号で行う報告は、浄土宗寺院のその後の 活動内容と、今期において行った浄土宗寺院以外の 他 宗 派寺院の聞き取りに基づいた報告と分析である 。 浄土宗寺院の二OO
五 ( 平成十七 ) 年度の開教の展開 沖縄での浄土宗寺院の開教は目を見張る も のがある 。 ま ず 一 つ め は 、 ﹃ 教 化 研究 ﹂ 第十五号で報告 し た寺院の なかで、沖縄県の宗教法人認証を受けていなかった阿弥 陀寺と観音寺の 二 寺 が 二O
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五(平成十七)年に認証さ れたことである 。 こ の 二 寺は活動期間が 比 較 的 短いうえ にこれまで多くの 他 県で認証の欠格条 件 と さ れ て き た 借入金があるにもかかわらず認証された 。 こ れは画期的 なことといってよい 。 オウム真理教事件以来、宗教法人 法の改正に よ る活動内容に対する規 制 や認証の厳格 化 が 各地で報告されるなか、沖縄県総務部総務 私 学課 係 の 担研究成果報告 当者の交代という事情があるとも聞くが、 いかに浄土宗 寺院を含む仏教寺院が沖縄の 一 般社会の信頼を得ていて 沖縄で受け入れられているかを物語るものである 。 も う 一 つの背景には、浄土宗の社会国際局の国内開教使を発 掘育成する担当職員が、現地で担当部署の職員と根強く 認証のための交渉や相談を行うなかで、強い信頼関係を 構築してきた努力によって浄土宗が信頼を得たことに負 うところも大きいと思われる 。 二 つ め は 、 二 つの寺院の開山法要が行われたことであ る 一 寺めは、山形県天童市に生まれ、菩提寺の住職に 師事した佐藤賢樹師の東林寺である 。 東林寺は二
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五 (平成十七)年五月に浄土宗と包括関係を結んだ 。 そ し て 同 年 十 二 月に﹁ 一 向 山 東林寺開山法要﹂を 等覚院 奉 修 し た 。 式次第は沖縄組の青年憎らにより進められた 。 法要には、長年作務を続けた菩提寺の師僧の他総代 二 名 、 信徒登録をしている信者五人、また注目すべきは地区の 住 民 二 十名以上が参加して寺の開山を祝ってくれたこと で あ る 。 第十六号では、佐藤師が開教地に根付くには時 聞が必要かと思われると報告したが、師の日頃の地道な 地域活動がわれわれの予想より早く実ったものと思われ る 。 二 寺めは、第十六号で報告した、 二OO
五(平成十 沖縄本島都市部における各宗派寺院の現状と展望 七)年十 一 月に浄土宗と包括関係を結んだ、尼僧の玉城 善智師の 三 宝寺沖縄布教所で、認証を機に﹁九品山往 生院安徳寺﹂と改称した 。 そ し て 二OO
六 ( 平 成 十 八 ) 年 三 月、﹁安徳寺開所式法要﹂を奉修した 。 維那と式衆 を沖縄組の青年憎が勤め、来賓として組寺住職が参集し た 。 開山に当たって﹁安徳寺興隆促進会﹂という檀信徒 会も結成されるなど、安徳寺の躍進はめざましい 。 両 寺 の今後の展開に大いに期待したい 。 浄土宗寺院の展開の最後に、大きな前進があったことを 開教 報 告 し て お き た い 。 そ れ は 、 二OO
六(平成十八)年 二 月 一 日から五日にわたって、沖縄組で﹁五重相伝会﹂が開催 総合研究プロジェクト さ れ た こ と で あ る 。 今 回 の ﹁ 五重相伝会﹂開鍾のきっかけ は 、 浄 土 宗 宗 務 庁 の 教 学 局 に お い て 、 二OO
五 ( 平 成 十 六 ) 年六月に聞かれた第 二 回五重相伝・授戒会推進検討会であ る 。 こ の 際 、 一 宗の企画する﹁五重相伝会﹂を開催してい 7く に 当 た っ て、まず全く行われたことの無かった地域、特 に ﹁ 沖縄﹂と﹁北海道﹂で行うことによ っ て﹁五重﹂不毛 地域への推進の起爆剤とすることが提案されたことに始ま る 。 こ う し て 、 二
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五(平成十六)年十月の﹁北海道第 二 教 区 南 組 法 性 寺 ﹂ に 次 い で 、 ﹁ 袋 中寺﹂での開催が 決 定 さ れ た 。 宗 門 と 三 州 教 区の主導によって進められたも のの、沖縄組﹁五重相伝会﹂は大成功の裡に修了した 。 檀 家 制 度がないと言われ続けてきた沖縄にあって、受者は七 十 一 人 に 達 し た 。 こ の う ち 一 名 は 他 県の受者である 。 多 く の 苦 労 は あ っ たと思われるものの、沖縄問教の今後の展開 の タ l ニングポイントになると思われるほどの重要な開鐘 と な っ た ことが疑いないところである 。 今回の五重相伝会の持つ重要性の 一 つは、本土から渡 っ た袋中寺中心の寺院僧侶たちと地元出身の新たに開教 を開始した僧侶たちとその後継青年憎たちが、沖縄組と してひとつにな っ て融合したことである 。 もう 一 つ は 、 さらに重要なこととして、これまで寺院は葬式の執行役 としての意昧が強く、葬儀ごとに僧侶が変わることに何 の抵抗もなか っ た と 言 われてきた沖縄の人々に、﹁五重 相伝 会 ﹂ を受けたことによ っ て、彼らの宗教意識に変化 が起きることが期待できるかどうか知ることができる機 会ができたことである 。 ﹁ 五 重 相 伝 会 ﹂ の重要な点は 受者に大きな宗教的転換 ・ 回 心 を 起こさせることにある と 言 われてきた 。 沖縄のような仏教不毛地域の人たちの 心に、浄土宗の教えと宗教的な感動がどのように伝わっ たか、そして教えが今後寺院との関わりのなかでどのよ うに繋が っ ていくのか、その意思を明らかにするために、 今回、当プロジェクトでは、受者にアンケ ート調査を 実 施することにした 。 幸 い寺院方のご理解をいただきご協 力をいただけることとな っ た 。 今後は、この研究の 一 環 として、受者の受ける前とその後の 宗 教観や宗教意識の 変化を分析していきたい 。 各宗寺院の現状と展望 これまで、沖縄に展開する各宗派寺院への聞き取り調 査 は 三 十 二 寺 院を数える 。 沖縄の 寺 院 数は、伽藍を構え研究成果報告 ていないアパート寺院も含めると百近くあるといわれる が、じっくりと時間をいただき、聞き取りに協力してい ただいたのがこの数である 。 寺院の存在を確認し簡単な お話をいただいた数を加えるとさらに増える 。 今回掲載する寺院は以下の通りである 。 まず、現在 唯 一 と言っていいほど、教団が主導して沖縄開教を推進 している ﹁浄土真宗本願寺派﹂の全体像 をとり上げる 。 本願寺派は、以下で詳述するように、琉球王朝の庇護を 受けた臨済宗や真 言 宗と異なるものの 、明治以来の沖縄 開教の永い伝統を持つ 。 しかも本土復帰後、教団として 着々と地歩を築いてきた歴史を持っている 。 しかし、本 願寺派も全てが本山主導の開教使派遣というわけでもな く、沖縄地元の出身の開教使が寺院を建立する例も見ら れるように、多様であることを指摘しておきたい 。 こ の 報告では、具体的な個別寺院の聞き取りではなく、本願 寺派の沖縄問教の歴史と開教方針の大きな流れを明らか にしていく 。 この報告は、我が浄土宗としても学ぶとこ ろが極めて大きいものといえよう 。 次の本願寺派西信寺の報告は、本願寺派の具体的な事 例として報告する 。 海外でも、新宗教系仏教を除いて伝 統仏教ではもっとも積極的な開教を進めてきた本願寺派 沖縄本島都市部における各宗派寺院の現状と展望 の具体的な布教活動の実態と方法を知ることができるだ ろ う 。 我われにとって極めて参手勺になるものと考える 。 次は、臨済宗妙心寺派の寿光院である 。 ここは、琉球王 朝の庇護を受けていたほどの歴史的にも重要な寺院であ り、現在も﹁首里十 二 ヵ 所 巡 り ﹂ の 拝 所 で も あ る 。 こ の 報 告では、沖縄伝統仏教寺院の沖縄的あり方の特徴を見るこ と が で き る 。 また、そうした寺院でさえ、現在まで多くの 苦難を乗り越えて現在があることを知ることができる 。 最後は、高野山真言宗の報開主守である 。 この寺も琉球 関教 王朝の庇護を受けた沖縄仏教の中心的な寺である 。 寿光 院も含め、明治維新後の大変革の中で、教えが民衆のも 総合研究プロジェクト のになっていない状況で、沖縄の寺院は極めて厳しい状 況に置かれていたことがわかる 。 このように見てくると、沖縄社会の変化と仏教寺院の 置かれた状況の変化は、やはり本土復帰が大きな転機に 9
なったことがわかる 。 本 プ ロ ジ ェ ク ト は 、 二
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六(平 成十八)年度を国内開教研究の第 二 期沖縄寺院研究とし ている 。 さらに他宗派寺院の聞き取りも含め、墓や葬祭 総合研究 総合研究プロジェクト 開 教 の状況の変化を明らかにしていきたい 。 ぉ委
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お よ び 人 名 仮 名 で あ る ( 武 田 道 生 )沖縄における浄土真宗本願寺派の開教
現在、沖縄においては、百ヶ寺程度の仏教寺院が活動 していると推定されるが、宗派別に見ると臨済 宗妙 心寺 派、古義真言宗(高野山真 言 宗 、東寺真 言 宗 ) の 寺 院 の 占める割合が多い 。 これは琉球王朝時代からの歴史を持 ち展開しているからであるが、臨済宗妙心寺派、古義真 言 宗に続き多いのは、浄土真宗本願寺派の寺院である 。 浄土真宗本願寺派(以下、本願寺派と略す) の 沖 縄 へ の開教は、明治後期より宗門の主導するものであった 。 我が浄土宗は 二OO
一 年に国内開教規定により沖縄を開 教指定地域とし、宗門が戦略的に開教をおこなう制度を 確立したが、それ以前において、宗門または本山が統括 して沖縄開教を行っていたのは、唯 一 本 願 主 リ 派 で あ っ た 。 本願寺沖縄問教事務所によると、現在十九の寺院が沖縄 で活動を展開しており、それ以外にも寺院を有さずに活 動する権数名の僧侶がいるという 。 沖縄の仏教寺院数か ら鑑みると、これは非常に多い数である 。 またさらに 二研究成果報告
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四年には本願寺派は、国内開教に関する宗規を改正 するとともに、沖縄に別院を設けた 。 詳 細 は 後 述 す る が 、 これは本願寺派が都市開教を 一 層強化していくとの方針 に基づくものである 。 誤解を恐 れずにいうならば、沖縄 を含め都市開教に現在最も積極的に取り組んでいる教団 が本願寺派であり、本願寺派の沖縄開教の歴史と展開は 我々に大きな示唆を与えてくれるであろう 。 本願寺派の信仰の始まり 沖縄での仏教は 三 一 八O
年英祖の時代、宋の僧、禅 鑑が来島し浦添に極楽 寺 を建立したのを始まりとする 。 沖縄での仏教の歴史的展開は、煩雑を避けるため鷲見論 文 ( ﹁ 教化研究 ﹂ 第十五号)に譲るが、本願寺派の沖縄 での信仰の始まりと大きく関係するのは 一 六O
九 年 に 琉球が薩摩藩島津の 侵 攻 により征服され、寺院の建立 修復、布教活動が制限され、その後の 一 六 五九年から 八七九(明治十 二 ) 年 ま で 一 向宗が禁制であったことで あ る 。 本願寺派の沖縄での信仰の由来は明確にはわかってい な い 。 最も古い文献では 一 七八九年に第六代能家職・功 存が沖縄の隠れ念仏講にあてた﹁寛政元年配十月所贈於 琉球国功存師消息示尼講中﹂があり、 一 七00
年代後半 には念仏講があ っ たことが推測できる 。 沖縄における浄土真宗本願寺派の関教 一 般的には、西 本 願 寺 の末寺、京都にある正光寺より薩摩久志浦の中村 家へ贈られた本尊と経典が、中村家の子孫である那覇泉 な か お じ 崎の仲尾次政隆( 一 八 一O
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一 八 七 一 )に伝えられたの がその始まりとされる 。 仲尾次政隆は十七l
八歳の頃よ り正光 寺住 職の八木正蔵との文通によ っ て 教 化 を 受 け 、 本山から ﹁ 了 覚﹂という法名を与えられた 。 彼は、念仏 禁 止の取り締まりのなか 、 カメという遊女の家に本尊を 関教 安 置 し 、 集 八 一 云 を 密 か に 行 っ て い た 。 やがて信者の数が増 総合研究プロジェク卜 えカメの家では手狭になると、会所を政隆の家に移し五 年間ほど集 会 を行な っ た 。 し か し 、 政隆の身内の密告か らこの集いが発覚し 一 八 五 三 年 に 政 隆 は 囚 わ れ 、 人 五 五 年 八 重 山に無期徒刑に処せられた ( 第 一 次真宗法難 事 件 ) 。 ま た 、 11 一 八七七(明治十)年十月から翌 一 八 七八(明治十 一 )年 一 月にかけては、再び真宗の信者 三 六 九名が検挙された ( 第 二 次 真宗 法難事件) 。 と の 事 件 の 中心人物は本土からきた僧、田原法水( 一 八 四 三 l 一 九 二 七 ) で あ っ た 。 信徒が検挙さ れると、田原は政府に働 きかけ、処分の解除と真宗信仰の自由の獲得のために働 き 一 八七九(明治十 二 )年に信仰の自由と布教活動が 認められたのである 。
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明治期から終戦までの開教 一 八七九(明治十 二 )年に信仰の自由と布教活動が認 められると、同年、大河内正念(宮崎県出身)が渡沖し 本格的な布教活動を始めた 。 ま た 一 八九八(明治 三 十 二 年には亀井慈 雲 ( 鹿 児 島 県 出 身 ) が 渡 沖 し 、 十 三 年 間 に わたる布教活動をした 。 本願寺派の宗門としての沖縄問教は、 一 九 一O
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明 治 四 十 三 )年に菅深明(鹿児島県出身)が本山の任命によ り渡沖したことに始まる 。 菅 深 明 は 那 覇 上 ノ 倉 に { 不 を 借 り 布 教 活 動 を 開 始 し た が 、 九 ( 明 治 四 十 四 ) 年 に は説教所を那覇松下町に移転、内地の寄留商人や官吏を 対象に布教した 。 その後、那覇市松山町の本堂庫裏の建 設に着手した 。 一 九 一 八(大正七)年に完成し、大典寺 と 名 づ け た 。 本山より大谷光瑞門主を迎え入仏・落慶法 要 を 修 し た 。 戦前まではこの大典寺が中心とな っ て 沖 縄での教線を拡大していく 。 沖 縄 本 島 で は 、 一 九 一 二 ( 明 治 四 十 五 ) 年 に 中 城 湾 布 教 所 ( 現 ・ 与 那 原 町 、 九 一 九 = 二 年 に 光 照 寺 と 改 称 ) 、 よ み た ん か で ( 大 正 十 一 )年に読谷村嘉手納に嘉手納布教所、 く に が み も と ぷ ( 昭 和 士 二 )年に国頭郡本部町に本部説教所を 九 八 開設(後の本照寺)した 。 離 島 に お い て は 、 いりむもて ( 大 正 八 ) 年 西 表 島 に 西 表 説 教 所 を 開 所 、 一 九 一 九 ( 大 九 正十)年石垣島に八重山布教所を開所(藤井深遠が専任 勤 務 ) し た 。 戦前の本願寺派は、布教活動だけでなく、教育活動も 展 開 し た 。 一 九 一 二 (明治四十五)年に私立沖縄感化院 を 開 設 一 九 一 八(大正七)年には私立沖縄家政女子学 校 を 設 立 している 。しかし、太平洋戦争が激化していくと、本願寺派の僧 侶 も 召 集 さ れ 、 一 九四四(昭和十九)年四月には与那原 光照寺、本部説教所、嘉手納布教所が閉所、同年十月に は米軍による那覇大空襲により沖縄問教の本拠地であっ た大典寺も灰蟻と帰した 。 そして 一 九四五(昭和 二 十 ) 年四月の米軍上陸により全島が戦場となり、すべての布 教活動が停止したのである 。 3 戦後の活動 一 九四五(昭和 二 十)年六月に沖縄戦が終結したが、 本願寺派は戦火により、寺院・布教所の多くを失ってし まった 。 しかしながら、大典寺がすぐさま活動を再開、 か み せ ど また上瀬頭亨が、 一九四九(昭和 二 十四)年に竹富島で 布教を開始(一九五七(昭和 三 十 二 )年に喜宝院布教所 研究成果報告 ( 昭 和 三 十 一 )年、ハワイから出身 な か が み か つ れ ん よ か っ 地へ帰 ってきた大城秀顕により、中頭郡勝連 町に輿勝寺 を 開 設 ) 、 一 九五六 が建立されるなど、段々と活動が再開されていった 。 戦後、本願寺派の教線拡大が活発化するのは、昭和 一 十年代に入ってからである 。 一 九五八(昭和 三 士 二 )年 には大谷光照門主を迎え、日米琉合同の慰霊祭を開催し た 。 一 九 六
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昭和 三 十五)年には、沖縄開教の本拠地 であり、空襲で灰燈に帰した大典寺が本堂を建立する 。 そ し て 、 ( 昭 和 三 十六)年 二 月、海外開教規 一 九六 程に基づいて、沖縄問教指定条例が定められ、海外部 ( 後 に 国 際 部 ) の所管として、沖縄諸島、宮古群島およ び 八 重 山 群 島 円 が 沖 縄 問 教 地 と 指 定 さ れ た 開 教 事 務 所を大典寺におき、大典寺住職藤井深忍を沖縄開教事務 所長に任命した 。 これにより宗門が主導する形での沖縄 開 教 が 再 開 し 、 宗門の任命する開教使によって開教がは じまった 。 一 九六六(昭和四十二年、与世盛智朗が開 教使として久米島に着任し、親戚宅で法務を開始(久米 島出張所)した 。 一 九 六九(昭和四十四)年には、ハワ イ・ワイパフで開教使をしていた蹄依宗信が沖縄駐在を 命ぜられ、読谷村に読谷布教所(後の真常寺)を開設、 翌 一 九七O
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昭和四十五)年に沖縄市山里に移りコザ真 宗寺を建立した 。 沖縄における浄土真宗本願寺派の関教 開教 13総合研究プロジェクトなお、宗門の任命以外では 一 九六七(昭和四十 二 ) 年、小玉大誠が渡沖し浦添市仲間で開教を始めている (浦添布教所、後の浦添本願寺) 。 4 本土復帰以降の開教 一 九七 二 (昭和四十七)年五月十五日の本土復帰は 沖縄の仏教においても大きな転機であった 。 戦前より沖 縄で活動していた寺院の多くは、本土返還を機に宗教法 人格を取得した 。 また、本土より多くの僧侶が渡沖し それに伴い多くの寺院が建立される契機ともなった 。 本願寺派は、本土復帰に伴い﹁沖縄開教地規程﹂(宗 則第 二 号)を施行し、浦添市に本願寺沖縄開教事務所を 設置した 。 一 九七四(昭和四十九)年五月には大谷光真 新 門 を 迎 え て 開 教 事 務 所 の 開 所 式 が 干丁 わ れ 翌 年 は 大 谷光照門主、光真新門、嬉子お裏方が渡沖し、開教地を 巡回している 。 本土復帰以降、多くの本願寺派寺院が建立されてい っ た 。 以下に本土復帰以降に建立された 主 な本願寺派寺院 を略記する 。 石川本願寺布教所(本島・うるま市) 一 九七六(昭和五十 二 年 、大分にある真宗寺院 の衆徒である宿利孝麿が縁あってコザ真宗寺に寄宿 し、その 一 ヶ月後に当時の石 川市に浄勝 寺石川布教 所を開設し、布教を行った 。 宿利から教えを受けた 元小学校校長・伊波善治は、一九八 三 ( 昭 和 五 十 八 ) 年に中央仏教学院(京都市右京区)に入学し、教師 資格を取得する 。 その後、伊波は沖縄に戻り宿利孝 麿とともに布教活動に従事した 。 一 九九
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平成 二 ) 年 宿 利 が 逝 去 し 浄 勝 寺石
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布 教 所 は 閉 所 と な っ た 。 伊波はその志を継ぐべく、浄勝寺石川布教所の 本尊を迎え、自宅を改造し 一 九九 二 ( 平 成 四 ) 年 に 石川本願寺布教所を開所した 。 誓願寺(石垣島・石垣市) 一 九七七(昭和五十 二 )年から沖縄開教事務所に 勤務し、後に久米島布教所で勤務していた谷口隆信研 究 成 果 報告 カ5 一 九七九(昭和五十四)年に出身地である石垣 島に帰り伝道教化にあたったのが誓願寺の始まりで あ る 。 -西念寺(本島・中頭郡西原町) 徳島の本願寺派寺院の五男に生まれた森井正則 は、中央仏教学院卒業後に宗門の職員となり、函館 別院、帯広別院に勤務した 。 そ の 後 、 一 九 八
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昭 和五十五)年に沖縄開教事務所に開教使補として着 任、その後久米島布教所の主任として七年間勤務し た 。 沖縄本島での布教を志し 一 九八七(昭和六十 一 一 )年に宗門の職員を退職して 翌 年 に現在地に西念 寺を開設した 。 今帰仁円浄寺布教所(本島・国頭郡今帰仁村) 大阪の本願寺派寺院で真宗の教えに帰依し、教師 資格をとった玉城栄土口が、出身地である今帰仁の 人々にも教えを伝えたいと 一 九 九O
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平成 二 )年に 域 指函 b.等吊
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城す設 村、し '-../ :.こ1 群馬県の本願寺派の門徒の家に生まれた芝田祐正 は、高校時代に仏教に興昧を持ち、その後、中央仏 教学院で勉強した 。 そこで知り合った友人の紹介で 渡 沖 し コザ真宗寺で十 一 年間法務に携わった 。 そ の 後 の 一 九 九 二 (平成田)年、現在地に北中布教所 を開所し、後に城徳寺と改称した 。 -平安寺名護布教所(本島・名護市) 九 九 ( 平 成 三 )年より沖縄問教事務所書記、 その後 一 年半久米島布教所に勤務した田 川 秀 平 が 、 一 九 九 二 (平成四)年十月に現在地に平安寺名護布 教所を開設した 。 本土復帰後に、沖縄で寺院を開基した僧侶は、その開 基 ま で の 経 緯 に よ っ て 、 いくつかのパターンに分けるこ とができる 。 一 つ目は、沖縄の一般家庭に生まれたが 沖縄もしくは本土で本願寺派の教えに出会い、憎侶資格 を取得し、自分の出身地で開教をはじめ寺院を開基する パターンである。これには、石 川 本 願 寺布教所の伊波と 沖縄における浄土真宗本願寺派の開教 開教 15総合研究プロジェク卜今帰仁円浄寺布教所の玉城が当てはまる 。 二 つ目は、本 土出身者が個人的なつながりで沖縄にや っ てきて、開教 を始め寺院を開基するパターンである 。 これには、城徳 寺 の芝田が当てはまる 。 三 つ 目 は 、 宗 門の命で沖縄問教 事務所に赴任した開教使が、そのまま沖縄に根付き寺院 を開基するパターンである 。 こ れ に は 、 誓 願 寺 の 谷 口 、 西念寺の森井、平安寺名護布教所の田川である 。 特 に 、 三 つ目のパターンは、宗門が主導して沖縄開教をおこな っ ている、本願寺派独自のパターンである 。 教線拡大と いう点から見ても、沖縄開教事務所が大きな役割を果た しているといえよう 。 5 よ本願寺沖縄問教事務所の役割 現在、沖縄では十九ヶ寺の本願寺派の寺院が活動して いるが、これらの寺院と 宗 門をつなぐ役割をしているの が 本 願 寺 沖縄問教 事 務所である 。 本願 寺 沖縄問教 事 務所 は本土復帰直後の 一 九 七 二 (昭和四十七)年に、それ以 前から浦添市で活動していた浦添布教所に事務所を設置 し た 。 このため、現在でも信徒からは浦添布教所と呼ば れることが多く、法務も行 っ ている 。 所長ほか職 員 は 宗 門からの任命によ っ て派遣されているが(沖縄出身者も い る ) 、 こ れ は 一 九八六(昭和 六 十 一 )年に開教規程が 改正・施行されてからのことである 。 この開教規程では 事務所内に沖縄問教推進会議を置くことを定めた 。 沖縄 開教推進 会 議は、沖縄県に所在する寺院関係者で組織さ れ、沖縄における法要儀式の執行、教義の 宣 布、基幹運 動の推進、そのほか開教にかかる事項を協議する機関で φ の 4 h v。 本 願 寺 開教事務所の 主 な役割は、沖縄での伝道教化活 動 の 立 案をおこない、住職・主任に対して年十回程度の 研修会を行うこと、また各寺院が本山へ提出する諸手続 きを取り纏めて行なうことである 。 このほかにも、寺院 を持たずに独自に活動している本願 寺 派僧侶の 実 態を把 握することも役割の 一 つ と な っ ている 。 彼 ら に 対 し て は 、 寺 院を建てて、包括関係を結ぶよう指 導 している 。
研究成果報告 おわりに 浄土真宗本願寺派の沖縄問教は 一 九 一
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明治四十 一 二 )年に本山の任命により菅深明を渡沖させて以来、宗 門の指導・管轄の下で展開してきた 。 沖縄開教に関する 宗規定は ( 昭 和 三 十 六 ) 年 、 一 九 七 二 ( 昭 和 一 九六 四 十 七 ) 年 、 一 九八六(昭和六十 一 )年と改正されてき たが、それぞれの改正には、沖縄開教地域を宗門の直接 的な管轄におき、開教を強化していくとの一貫した意図 が問える 。 二OO
四(平成十六)年十月十九日からの第 二 七四回 定期宗会において、都市開教に関して討議が行われた 。 そ の 結 果 と し て 、 二OO
一 年十 一 月に築地別院内に設置 された﹁首都圏宗務総合センター﹂を﹁本願寺宗務首都 圏センター﹂と改称し、従来の東京 ・ 首都圏の都市開教 に加えて、これまで伝道社会部が所掌していた京阪神、 中京の各都市開教対策、および沖縄、北海道の開教区に 関する事項、過疎対策も 括して担当することになった 。 また、﹁沖縄県開教規程﹂が改正され、﹁沖縄県宗務推 進特別措置規程﹂ ( 宗 則 十 二 号 、 二O
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四(平成十六) 年十二月 一 日施行)となり、沖縄県は宗務特別区として 設定された 。 こ れ に 伴 い 、 二OO
四(平成十六)年十 二 月 日 は 沖 縄 開 教事
務 所 は 開 教 事 務 所 の 機 能 を 残 し たまま、本願寺沖縄別院となり、開教事務所長が輪番を 務めることとなった 。 また現在、沖縄の中心都市である 那覇市に土地を購入し、別院・開教事務所を建設する計 画が進行中である 。 今後ますます沖縄において 、本願 寺 派の活動が活発化することが予想できよう 。 ( 名 和 清 隆 ) ( な お 、 文 中 で 表 記 す る 地 名 は 、 現 在 で の 地 名 で あ る ) { 参考文献 ︼ ﹁ 浄土真宗本願寺派沖縄開教のあゆみ ﹄ 本願寺沖縄問教事務所、 一 九 九 四 { 注 } l ﹁九州・沖縄同朋会運動推進協議会第七回研究集会﹂において、 同会副会長である北村昌也真常寺住職が口頭発表 。 ( ﹃ 中外日報 ﹂ 二 OO 四 年 十 一 月 二 十 日 ) 2 当時琉球では真宗が禁制であ っ た た め 、 こ の 名 は 偽 名 で あ る 。 沖縄における浄土真宗本願寺派の関教 開教 総合研究プロジェク卜 17西信寺
宗派一浄土真宗本願寺派 本尊一阿弥陀仏 歴史的経緯 傘かがみきたなかぐすく 中頭郡北中城村に所在する浄土真宗本願寺派西信寺は、 沖縄自動車道の北中城インターチェンジを望む高台に堂宇 を構えて十年になる 。 寺院の壁面には、高速道路に向かっ て寺名を大きく掲げているため、走行車両からは目視する ことができ、寺院の宣伝としては極めて効果的である 。 西信寺を閉山した住職の高橋良孝氏(真宗では﹁師﹂ と記す習慣がないため、以下﹁氏﹂と表記する)は 九 六O
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昭和 三 十五)年 一 月 二 十 一 日、群馬県桐生市の 一 般家庭に生まれた 。 市内にある浄土宗関係の高等学校 に 通 っ た 。 中学時代から花に興味があり華道を習ってい たことから、学費のため高校生の時には、高橋家の菩提 寺である桐生市の浄土真宗本願寺派専徳寺の門前で生花 を売っていた 。 高校 二 年生秋の文化祭では所属していた 仏教研究会の出し物のため、学校長の自坊である市内の 浄土宗龍雲寺に木魚を借りに行ったことを機縁として、 学校長と寺庭婦人、子患である現住職と知遇を得て仏教 に傾倒していった 。 高校 三 年時には龍雲寺に住み込んで 手伝いをした 。 高橋氏は得度に際しては、曹洞宗僧侶で もあった高校の仏教研究会顧問から 一 字を取っている 。 高校を卒業後は、実家が熱心な真宗門徒であったため 中 央 仏 教 学 院 へ 入 学 し 、 ( 昭 和 五 十 三 )年九月 一 九七八 十五日に得度を受けた 。 二 年間修学したが、前向きでは ない学生が多いことにやや幻滅をした時期でもあったと い う 。 一 九七九(昭和五十四)年に初めて沖縄を訪れた 。 同学院の同級生で、高橋氏より 三 歳年上であ っ た京都の 永田了秀氏からの誘いがあったからである 。 永 田 氏 は 、 沖縄市にある光泉寺住職の大島隆元氏の甥であり、在家研究成果報告 出身の高橋氏のために光泉寺を紹介した 。 高橋氏は、在 学中からしばしば沖縄へ通った 。 中央仏教学院を卒業し て教師資格を得た 二 十 一 歳の時、沖縄へ赴任した 。 以後 の十 一 年間は沖縄市の光泉寺に衆徒として勤めながら まだ布教所であ った中頭郡読谷村の龍光院での布教に従 事した 。 一 九九 二 (平成四)年四月には、北中城村にて北中布 教所を開設した 。 翌年には本尊入仏慶讃法要 を契機とし て、西信寺布教所と改称した 。 一 九九六(平成八)年に 現在地へ移転した 。 一 九九八(平成十)年十月十 三 日 に 沖縄県より宗教法人の認証を受けた 。 2 寺院組織と規模 西信寺は、住職である高橋良孝氏のほか、女性の事務 員が 二 名、運転手 一 名、および境内の草刈などを行うア ルバイト 二 名によって運営されている 。 西信寺の本堂正 面上部には﹁西信寺念仏道場﹂の文字があり、本堂は打 ち放しの鉄筋コンクリート造りと広いガラス引 一 戸のた め、開放的な印象を受ける 。 本堂入口横の﹁西信寺﹂の 寺号額には、高橋家菩提寺の住職の筆による 。 本堂内の 欄間画や天上画、襖絵は高橋氏の手によるほか、戸外に ある鐘は、プロパンガスボンベを改造した氏の手製であ る 。 他に庫裡、会館、納骨 堂(約七百基)を有し、二平 方米タイプの本土式墓石を分譲している境内墓地(六十 区画)がある 。 3 宗教活動の特徴 の 葬儀・法要 西信寺が執り行う葬儀の場所は、寺、自宅、民間斎場 がそれぞれ 三 割で、残りの 一 割が西信寺にある納骨堂の 仏間で行われる 。 月間の葬儀件数は、多い時で五、六件 あり、年間では六十件程度になる 。 喪家からの直接依頼 が 八 割 で 、 二 割が葬儀社からであるが、特定の葬儀業社 との繋がりはない 。 葬儀の様式については、段々と派手 西信寺 になっていると高橋氏は見ている 。 以前は遺骨や供物を 安置するために座卓を使用していたのが、最近では本土 19
式の祭壇を用いる よ うになり、生活改善運動の影響から 香典の金額が 一 定額にもなってきているという 。 氏 は 葬 儀で﹁僧侶が人間になる﹂ことを心がけている 。 こ れ は 人々と僧侶は同等であるべきという姿勢からである 。 葬 儀では、時聞をかけて遺族の心が癒されるよう努め、枕 経から納骨までの問、なるべく喪家と近い距離で接する ようにしている 。 喪家での枕経では、通夜と葬儀の打ち 合わせをするが、その際に儀式の意味合いを説明する 。 通 夜 で は 、 ﹁ 阿弥陀経 ﹄ の読経と法話を含めて 一 時 間 ほ ど行い、終了後は茶を飲んで遺族と懇話する 。 法話は教 えるのではなく﹁共に学ぶ﹂という姿勢で臨んでいると い う 。 自分は﹁在家の人間﹂という意識をもち、喪家の 側から﹁僧侶﹂として特別扱いを受けることは好まず、 場合によっては普段着で葬儀の準備を手伝うこともあ る 。 葬儀では、喪家からの送り迎えは受けていない 。 専 属の運転手を雇用しているのはそのためである 。 年忌などの追善供養については、昨今では、四十九日 一 周 忌 、 三 回 忌 、 七回忌、十 三 回忌まで実施する家庭は 増えたが、供物に豚を捧げることも珍しくなったと見て い る 。 葬式を務めた家庭の九割以上が西信寺に法事を直 接依頼するが、新盆にあたる家庭は依頼がなくとも棚経 を行い、その意昧を伝えている 。 他の寺院で葬儀を行つ たが、西信寺に報恩供養を依頼する家庭も多い 。 ② 追 善 供 養 以外の法 事 西信寺は、葬儀よりも法事の件数が多い 。 主なものと して、起工式、新築祝、開脂式、墓の新築や墓の築 三 十 三 年の祝いなどがある 。 八 月 二 十五日に本堂にて戦没者 の慰霊を行う 。 高橋氏には、﹁お級い﹂や霊能的な相談 も受けることもあるが、読経はせず﹁問診﹂と称してじ つくりと話を聞く 。 ﹁ ヌ ジ フ ア ﹂ ( 遺 骨 や 遺 体 を 移 す 場 合 に霊魂を移す民俗儀礼)も依頼されるが、その際は﹁魂 を抜く行為﹂ではなく、方便として﹁儀式を通じて仏教 の真実を聞く﹂と説明する 。 ③ 年 間 行 事
研究成果報告 西信寺の﹁新年参拝﹂は、地元紙への広告やラジオの コマーシャルを通して呼びかけている 。 くじ引きなどの ゲームを行い、旅行や玩具などの景品を多く用意し、料 理や屠蘇を振舞うため、周辺地域より多くの人々が参集 する 。 その目的は西信寺の知名度を上げ、人々の寺院へ のイメージを変えることが主眼にある 。 氏は﹁そうでも しないと人が集まってこない 。 もう檀家制度で云々とい う時代は終わった﹂と話す 。 その効果が上がり、ここ数 年で参 J 拝 者 は 増 加 傾 向 に あ り 、 二
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六(平成十八)年 は約八千人(うち大晦日は約 二 千人)が集まった 。 駐車 場などの問題もあり、十八年末は広告を出さない方針で あ る 。 ほ か に は 報 開 話 時 、 春 秋 の 彼 岸 会 、 物 故 者 追 悼 法 要 、 お盆の法要、成道会を行い、沖縄県仏教会合同の花まつ りに参加する 。 多くの年中行事は夕刻から実施されてい る 。 それは、会社勤めの人でも参加しやすいようにとの 配慮からである 。 本山への団参は、沖縄県内の本願寺派 寺 院 と 共 同 で 、 三 年 に 一 回程度行っている 。 米軍基地か らも近いため、日系人の米軍関係者の参 J拝もある 。 ④信 徒活動 西信寺には、信徒費を徴収するような組織はないが、 行事ごとに集まる 三 十名程の門信徒がいる 。 女性を中心 に門信徒の十名程度が集まり懇談の場を持つ ﹁ 研 修 会 ﹂ と 称 す る 会 合 や 、 一 緒に食事を作り懇親を深める﹁茶話 会﹂がある 。 氏は、草月流いけばな師範であるため、西 信寺で﹁草月生花教室﹂が不定期で月間 約七回行われる 。 門信徒以外に約 二 十五名が参加するが、宗教は基本的に 問わないためキリスト教の牧師も参加している 。 これら は葬儀や法事による機縁もあるが、高橋氏の社会活動や 地域活動との結びつきから人が集まるようにな っ た 。 高橋 氏の活動は幅広く、僧侶としては本願 寺 派 布 教 使 、 沖縄県仏教会の青年部である﹁れんげ会﹂会長を務める 。 氏が地域に根付いて十余年にもなり、地元の自治会や子 供 会 の 顧 問 を 務 め 、 コザロータリークラブ 会長、北中城 村文化協会理事、沖縄県教詩師、沖縄女子学園篤志面接 西信寺 委員などの公的役職にある 。 かつて氏は、琉球放送のラ ジオ番組でディスクジョッキ ーを務め、結婚式の司会役 21を引き受けるなどのタレント活動をしていたため、話術 に長けている 。 現在では、県内各地の公立高等学校から 情操教育のための講演依頼もあり、通仏教的な内容を話 すという 。 また年間 二 十名程度、不登校や問題のある子 供達を西信寺で預かり、ボランティア活動に参 J 加させて い る 。 こうした高橋氏の活動の背景には、寺院や住職は 社会や地域に対して貢献すべき、という姿勢が常にある からといえよう 。 ① 沖縄の民間信仰との関わり 高橋氏には、沖縄の民間宗教者である﹁ユタ﹂の知り 合いもいるという 。 ﹁良いユタは僧侶と同じようなこと を言い、悪いユタは脅すようなことを 号 一 守 つ ﹂ と の こ と で あ る 。 西信寺の納骨堂に預骨している人が ユ タ を 連 れ てくることがある 。 納骨堂の参 J 拝は容認しているが、儀 礼等は認めていないという 。 本堂に来るのは自由だから 拒まないが、その意図を聞いている 。 また高橋氏のもと - ﹄ + 品 、 ユタの紹介で相談に来る人もいる 。 高橋氏は﹁沖 縄に限ったことではないが、相手の身になって考えるこ と 。 状況によっては仏教の話が出来ないこともあるが、 その場合は人間関係を大切にする﹂という 。 沖縄の人々に仏教を説く方便として、死んでからの崇 り は 、 ﹁ 一 切心配要らないと阿弥陀仏は説く 。 それを言 葉にしたのがお経で、お経を読んだなら崇りなど心配な い﹂という 。 高橋氏は仏教儀礼を定着させるためには、 古くからの風習を否定するのではなく、仏教儀礼の意昧 を沖縄の人々の感覚に合うように方便として説明をす る 。 高 橋 氏 は 、 一 般の人々に対しては相手の立場にたち 寛容だが、同じ僧侶には厳しい眼差しを向けている 。 経 文を唱えるだけの僧侶やユタのように霊能的な活動をす る僧侶が存在する状況を憂慮している 。 4 今後の展望 西信寺では、本島南部の南城市(旧・島尻郡玉城村) において、沖縄式と本土式の墓石を備えた霊園墓地を計 画があり、近いうちに分譲が開始される 。 うるま市
研 究 成 果 報 告 (旧・中頭郡勝連町) での霊園事業も計画されている 。 鐘楼堂を建立し、人々が集まるような憩いの場所(例え ば精進料理の届)を作りたいと考え、さらに高橋氏は、 親のいない子供たちのために仏教精神に基づく社会福祉 法人施設を設立したいと考えている 。 本 な お 、 本 文 中 の 寺 院 名 ・ 人 名 は す べ て 仮 名 で あ る 。 ( 大 、 津 広 嗣 )
寿光院
宗派一臨済宗妙心寺派 本尊一阿弥陀如来 歴史的経緯 寿光院は、那覇市にある二ハ 一 年に開制された臨済 宗妙心寺派の寺院である 。 世界遺 産に登録された首里城 跡の近隣にある同寺は、古くから﹁首里十 二 ヵ 所 巡 り ﹂ ( ﹁ 教 化 研 究 ﹂ 十 五 号 、 大 雲 院 の 項 参 照 ) の拝所のひとつ としても著名である 。 近年は安産祈願や水子供養の寺と しでも知られ、日中でも老若男女の参詣者が絶えない 。 現在は、川口宗休師が住職を務めている 。 川口師によれば、開創時の 寿光院は現在の那覇市首里 儀保町にあり、その土地は尚寧王から拝領したものであ っ た 。 その後、現在軍用地となっている宜野湾市の 一 角 に移転し、明治の中初期には現在地に移転したと師は推 定している 。 戦前の伽藍は平屋で、本堂兼庫裡をあわせ て 三 十五坪くらいの規模であったという 。 なお、戦前ま での寿光院の史料の大半は、戦災によって失われている 。 川 口 宗休 師 は 、 一 九 二 三(大正十 二 )年 一 月、臨済宗 妙心寺派僧侶の長男として沖縄県に誕生した 。 当時の沖 縄の臨済宗寺院は四年ごとに住職の交代が行われる輪番 制であったため、師は生まれてすぐに石垣島の桃林寺に 寿光院 家族で移住した 。 やがて、父が第二尚氏王家の菩提寺で あった首里の円覚寺の住職となったことから、小学校 23年生の時には本島に戻った 。 そ の 後 、 輪 番 制 が 廃 止 さ れ 、 寿 光院が父の自坊とな っ た 。 一 九 三 五(昭和十)年 三 月、師が小 学 校 六 年 生 の 時 に 、 父が四十四歳で死去した 。 寿 光院の経済状況は悪化し 生活は師の母が苦労して支えることとな っ た 。 そ の た め に、師は、家族の扶養と住職を継ぐことについて、強く 意 識しはじめた 。 師は、沖縄県立第 一 中 学 校(現・沖縄 県立首里高等 学 校)に入 学 し、四年生まで進級するが ﹁いつまでも寿光院を無住にはできない ﹂ という 事 情 か ら 退 学 することとなった 。 京都に渡航した師は、はじめに京都府八幡市にある円 福 寺 専 門道場で約 三 年間修行した 。 その後、兵庫県西宮 市にある海清寺(現・海 清寺 専門道場)に入り、同時に 京 都市の臨済 学 院中 学 部(現・花園高等 学 校)に編入 二 年間通 学 し終戦の年に卒業した 。 卒業後は、海清寺に 寄宿していた検 事 に 強 く 影響 を受けたことから法律を志 し、修行をしながら関西大 学 専門部法 学 科に入 学 し た 。 やがて、大学卒業後しばらくた っ た 一 九五四年十 一 月 に 沖縄へ帰郷した 。 教 師 資 格 は 、 一 九 六 二 年九月に取得し て い る 。 師が、法律の道へ進んだ理由のひとつとして、当時 寺院の収入だけでは生活が成り立たなか っ たという事情 が あ っ た 。 師は、寿光院の十七世住職として活動しなが ら 、 二 十八年間裁判官を務めた 。 平 日 は 母 が 寺 を 守 り 、 土日に師が法務を行 っ て い た 。 公務員の兼職は禁止であ るため裁判所からは﹁衣を 着 て歩いてはいけない﹂と注 意をされたが、僧侶としての活動自体は非 営 利活動であ るとして黙認されていたという 。 一 九八四(昭和五十九)年十 二 月十九日に沖縄県より 宗教法人の認証を受けた 。 2 寺院組織と規模 寿 光院には住職のほかに 三 名の僧侶が所属している 。 副住職である川口 宗 深師は、法嗣である 。 師の妹婿であ る川口正念師は、沖縄出身の元技師で 一 九 九 三 年より僧 籍に入っている 。 将来は建立計画中の南城分院を任せる
研究成果報告 予定であるという。 三 人目は、住職の弟子である友利正 道師である 。 住職婦人は、沖縄出身である 。 師によれば﹁おおらか な性格であり、純真そのもので住職婦人向きの性格をし ており、信徒からも人気がある﹂とのことで、信徒との 交流にあたって欠かせない役割を果たしている 。 寿光院の信徒組織としては﹁花園会﹂がある 。 時 期 は五百名ほどが所属していたが、会員の高齢化や、所属 しでも継続性が低いことから、会員の数は減少した 。 ま た近年では、拘束されることをきらい、入 会 したがらな い傾向が見られると師は 言 う 。 しかし、現在でも百五十 名ほどの会員が積極的に活動している 。 なお、会員であ つ でも所属 意 識が希薄であるため、他寺院で葬儀を行う こともあるという 。 寿光院﹁花園会﹂会員の八割は、沖 縄の民間 宗 教者であるユタ ( シ ャ l マ ン ) である 。 こ れ は 、 寿 光院﹁花園会﹂ の大きな特徴である 。 ﹁ 花 園 会 ﹂ の 主 な活動としては御詠歌の会がある 。 また、年に春秋 二 回、本山の布教師による巡教法話会を開いている 。 そ のほかに年に 一 回本山参りを行っている 。 寿光院には、主な施設として本堂、庫裡、納骨堂、水 子 地 蔵 堂 、 二 尊堂、駐車場がある 。 本堂は木造 二 階建て で 、 一 階が納骨堂と駐車場、 二 階が寺務所、庫裡となっ て い る 。 本堂にはユタが供物や祭具を広げるための平机 が置かれている 。 納 骨 堂 は 、 ほぼ満杯で千基ほどが預け られている 。 三 十年以上連絡がない遺骨はまとめであり、 将来的には中部分院か南城 霊 園に無縁塔を建てて納める ことを考えている 。 二 尊堂には、奈良県在住の篤志家が 沖縄戦の犠牲者の慰霊のために彫 っ た 仏像が安置されて い る 。 こ れ は 、 当 初糸満市摩文仁に安 置 することを考え ていたが、県が 管理でき ないとのことから寺院で預か っ たものである 。 寿光院には分院と霊園がある 。 中部分院は、業者と共 同で開発された沖縄市にある 霊園 内 に あ り 、 一 九九 三 ( 平 成五)年に建 立 された 。 南城分院は、寺院で運営してい 寿光院 る南城市の南城 霊園 内 に 二
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七年に建立 予定で ある 。 253 宗教活動の特徴 ①葬 犠・法要 月間の葬儀件数は 三 件ほどで、本堂で行なうことが大 半である 。 沖縄では 一 般的に、戦前は自宅葬のみが行わ れていたが、戦後になってから葬祭業社が増加しはじめ、 特にここ五、六年は民間斎場の利用者が増加している、 と師は述べている 。 葬儀における変化について師は以下のように述べてい る 。 沖縄では戦前、枕経がなかった 。 しかし葬祭業社が 本土式の式次第を学んだからか、枕経を依頼されること も最近ではあるという 。 また、戦前は葬列を行なってい たが、戦後いつからか葬列はなくなっていったという 。 ちなみに、葬列の順番は、造花を持った者が五対並び先 導を行う 。 その後に香炉持ちと位牌持ちが続き、そのう しろに僧侶が続いた 。 僧侶は鉦や太鼓を叩いた 。 その次 に喪家が続き、棺を入れた骨闘が続く 。 さらに泣き女が後 に 続 い た 。 知人などは最後尾であった 。 師は、葬祭業社による儀式が長すぎると考えている 。 司会者が長々と故人の 一 生を述べる必要はなく、それは 師が法話によって行っているため、寿光院では葬祭業社 に多くを語らせないという 。 沖縄では、戦後に火葬が普及するまでは、遺体をその まま墓に入れ、七回忌に洗骨して埋めなおしていた 。 近 年は、四十九日法要まで遺骨を自宅に安置する喪家もあ るが、戦前には考えられなかった 。 これには穣れの思想 の変化が関連しているのでは司と師は 昔 一 早 つ 。 師が海清寺で修行を終え帰郷した直後に、引導を 渡す 際に﹁喝﹂と言って帰ったところ、﹁あの坊さんは怒っ ている﹂と喪家に言われたという 。 沖縄の臨済 宗僧侶の 間では昔から引導を渡す際に﹁喝﹂と言う習慣は無かっ たが、師は昔からずっと﹁喝﹂と 言 っ て引導を渡してい る 。 また、沖縄の人々は蝋燭を、香に火をつける道具と 勘違いしているので、供養に際して 三 具足を大事にする ことを師は強調しているという 。 寿光院への年忌法要などの追善法要の依頼は多い 。 師 は、戦前にはすでに年思法要の際に喪家の自宅で読経を
研究成果報告 する慣習があったと述べている 。 位牌の切り替えがある ので四十九日法要は僧侶に依頼することが ほ とんどであ るが、同時にユタに依頼をする喪家も多いという 。 師 は 、 そ の よ うな喪家に対しては、僧侶が法要をつとめた後に ユ タ を 呼 ぶ よう呼びかけている 。 師 に よ れ ば 、 ユ タ は 年 忌法要の際に必ず﹁首里十 二 ヵ 所巡り ﹂ を行うという 。 ② 年 間 行 事 初 詣 、 修 正 会 、 彼 岸 会 、 釈 尊 降 誕 会 、 孟 蘭 盆 会 、 地 蔵 盆 、 達 磨 大 師 会 、 開 山 忌 、 成 道 会 な ど の 行 事 を 行 っ て い る 。 その中で、特 筆 すべきものは地蔵盆である 。 旧盆の直 後の日曜日におこな っ て お り 、 二 百 名ほどが参加してい る 。 乙れは、四ヶ月未満の胎児の遺体をゴミ処理施設に 捨てて処理する際に、腐臭が問題となり、沖縄県から遺 骨を納めて供養してほしいという依頼があ っ たことが発 端 と な っ て い る 。 一 九 七 三 年七月には、水 子 供 養 の 来 山 が多いことから水 子 地 蔵 堂 を建 立 し 、 以 後 ﹁ 水 子 供 養 の 寺 ﹂ として知られるようになる 。 遺骨がない水子の場合 は、童地蔵が奉納されている 。 その数は現在五百体以上 で あ る 。 ③ 個別 活 動 寿 光院は、干支にちなんだ﹁ 首 里 十 二 ヵ 所 巡 り ﹂ の 卯・成・亥 ・ 午の拝所でもあり、生まれ年の干支の厄払 い、健康祈願、安産祈願などの祈願が多い 。 干支の厄払 いは、若者の場合、親に連れられて来る者が多いという 。 近年では不妊治療の祈願に訪れる者もある 。 達磨大師の 縁起から、福 寿 関連祈願、合格祈願も多く、境内にはさ まざまな願いが記された絵馬が 奉 納されている 。 寿 光院の本 堂 で は ユ タ が 参 詣者を伴い 、 ともに祈願 する 姿 が絶えない 。 沖縄では祭杷に使用する酒 ・ 盃 ・ 米・線香などを納めた祭具を﹁ピンシ1 ﹂ と 呼 ぶ が 、 二L タ が 引 退 す る 際 に 、 ﹁ ビ ン シ l ﹂ を 寿 光院に納めに来る こともあるという 。 寿光院 師 の も と に 、 ﹁ 子 供が神懸か っ たので 霊 をはら っ て ほ しい﹂と 言 う相談が 来 る こ と は 、 昔 か ら あ る 。 その際 、 27
ユタの手に負えず、最終的に師を頼ってくる場合が多い という 。 師は、まず医学的に異常があると判断した場合 には、医者に行くことをすすめる 。 しかし、長い経験か らそれ以外の原因であると判断した場合は いわゆる ﹁ 除 霊 ﹂ と して祈祷を行 っ て い る 。 すると、その霊は 時的にせよ﹁外れ﹂、その症状は劇的に改善する 。 こ の ような現象は、人間の弱い心の問題から発するものだが、 沖縄独特の感覚や習俗が確かにあるために起こることで もある、と師は解釈している 。 師は、悩んで沈みがちな 沖縄の人間の心を、明るいほうへと向けたいという﹁慈 悲心﹂から、﹁窮すれば転ずる、転ずれば通ずる﹂とい うことで、その状態をみて、﹁除霊﹂活動を行っている のである 。 ④ その他 寿光院の所在する 地域では、昭和初期まで ﹁ ミ ル ク ( 弥 勅 ) ウンケ l ﹂が行われていた 。 旧 暦 七 月 十 六 日 に 、 弥勅菩薩の化生として布袋和尚の扮装をし、行列しなが ら繁栄を祈願する祭りである 。 この行事については文献 がほとんどなく、起源については諸説あるが、 三百 年 ほ ど前に寿光院の北谷長老が中国から弥勅の掛軸をもたら したことが、そのひとつであるという 。 この行事は 九九四(平成六)年に復興された 。 師は﹁ミルク﹂を納 める桐堂の必要性について助言し、同年、公民館内に堂 が建立されたという 。 師は教諦師でもあり、受刑者の家族から依頼されて年 忌法要を行うことがあるという 。 また、刑務所で死亡し た家族のいない死者の供養も行なっている 。 他 宗教 ・ 他 教 団 と の 関 係 に つ い て は 、 ﹁ 沖 縄 県 仏 教 会 ﹂ ﹁ 般 若 の 会 ﹂ ( ﹃ 教化研究 ﹂ 十五号、大雲院の項参照)、 ﹁沖縄宗教者の会﹂などに参加し、積極的に吏流を促進 し て い る 。 4 今後の展望 川 口 師 は 、 ユタの活動や俗信は沖縄の長い歴史に基づ いているので、否定はせず黙認するという立場を取って
研究成果報告 い る 。 しかし、ユタに依頼してユタとともに祈願を行う、 という沖縄に根強くある習慣に対しては、不満をもって い る 。 本来は、祈願者が本当の信心をこめて自分で祈願 するべきであり、師はそうするように説いているが、な かなか改まらないという 。 師によれば、島津藩の布教禁止の政策から沖縄では未 だ仏教の教えが浸透しておらず ユタの活動が活発で 何かあればユタに相談に行く習慣が根強い 。 沖縄の人々 は 普 段 、 ユ タ の 言うことを聞き僧侶の言うことは聞かな 2 2 、 L . ヵ ユタではどうにもならなくなった時に僧侶のもと を訪れるという佃﹁向があると師は言う 。 師は、沖縄には祖先崇拝や﹁拝み﹂を離れた﹁純仏教 的﹂な信仰者が数少ないので、人々にもう少し本当の仏 教の教えを知ってもらいたいと痛感している 。 そのため に、坐禅会や法話会などで集まってもらう機会を多くし たいという 。 また、ここ 一 、 二年になって、本来ユタに 依頼する﹁グソ
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ノ シ ョ ウ ガ ツ ﹂ (後生の正月、旧暦十 六日に家族で墓にまいり祖先をまつる習俗) の法要依頼 が、寿光院にくるようになったという 。 これは以前には なかった僧侶への宗教的な求めである 。 ﹁ 沖縄にも少し ずつだが、仏教が根付きはじめたと言えるのではないか﹂ と師は述べている 。 * な お 、 本 文 中 の 寿 光 院 、 中 部 分 院 、 南 城 分 院 、 南 城 霊 園 お よ び 人 名は仮名である 。 ( 中 村 憲 司 )報恩寺
宗派 一 高 野 山真 言宗 本尊一聖観世音菩薩 歴史的経緯 報恩寺は沖縄において有数の歴史を誇る寺院である 。 報恩寺 今からおよそ六五十年前、琉球国王察度による勅願寺と して創建された 。 開山は、現在の鹿児島県坊津にあった 29一 乗院(明治初年に焼失しており、現存していない)の 真言宗僧侶 ・ 頼 重とされている 。 頼重は真言宗を布教す るため坊津を離れ渡琉し布教を開始したが、時の国王察 度の信頼を得て、現在の地に報恩寺を建立した 。 以 来 、 報恩寺は勅願寺としての役割を果たすこととなる 。 最 も 有名な行事として国王即位の参詣訪問がある 。 武寧王以 来、歴代の国王は即位の際に家臣 三 十 一 人とともに報恩 寺を参詣し、本堂において王と家臣の間で臣従の契りと して盃を取り交わしていた 。 また毎年 一 月八日から十四 日までの七日間、宝酢延長・万民豊楽の祈願法要が首里 城内にて行われていたが、報昭主す住職以下、末寺住職 十数名がその法要に出仕していた 。 このように報恩寺は 王家である尚氏との繋がりが強かったのだが、明治に入 り廃藩置県・琉球処分が行われると王家の保護を望めな くなった 。 しかしながら報恩寺は、寄留商人や本土で秩 禄処分を受け沖縄に渡ってきた武士層の篤信を受け、本 土式の檀家組織に類した寺院形態を維持していた 。 一 九四五(昭和 二 十)年五月 二 十七日、沖縄地上戦の 戦火にあい、山内の全施設とともに本尊や過去帳は 言 う までもなく、王家との繋がりを示す貴重な史料などが全 て焼失した 。 現住職によると、終戦後、報恩寺跡(那覇 市)に戻ってみるとただの更地になっていたという 。 九四八(昭和 二 十 三 )年那覇市開南地区に仮復興し、そ の後、先代住職並びに多くの信者の努力の甲斐あって 復帰後の 一 九七 三 (昭和四十八)年八月 三 十日に宗教法 人格を取得し、その 二 年後には現在地に本堂再建を果た している 。 2 寺院組織と規模 住職・比嘉法道師とともに長男 ・副住職である恒道師 が報恩寺の中心的な役割を果たしている 。 また当寺には 役 僧 と し て 与 那 嶺 智
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師 と 島 袋 清 道 師 現 住 職 の も と 得度・出家)が所属しており、法務や年中行事、信徒会 などの行事に関わっている 。 所有施設としては、本堂 納骨堂、庫裏の他に、講堂と鐘楼門を有している 。 前述したように歴史と由緒のある報恩寺は、幕末には研 究 成 果 報 告 欧米諸外国公使接見の公館として使用されたり、キリス ト教布教のため来沖した英国人宣教師ベッテルハイムが 八年間滞在したことでも知られている 。 境内には、その ベッテルハイムの碑や小桜の塔(第 二 次世界大戦下疎開 中の船を爆撃されて亡くなった約七百名の児童の霊を杷 る慰霊碑)が建立されて、それらへの観光・参拝がある 。 一 方 、信徒組織としては、明治以前は王家や上層階級、 明治以後は寄留商人や元士族階級の帰依を集め、檀家組 織に準じるような組織を有していた 。 しかし、戦後の急 激な社会変 化でそのような組織も 徐々に解体していき、 現在では他の沖縄県内 寺 院 と同様に確固たる檀家組織は 存在していない 。 戦前から続く信徒は残つてはいるもの の、葬儀や法事の多くは、葬祭業社を通じて寄せられて いるのが実情である 。 しかし、納骨堂を利用しているこ とが契機となり、法事を依頼してくる人が徐々に増えて い る 。 比嘉師は﹁このようなご縁を大切にすることが沖 縄における宗教活動では大事である﹂と考えている 。 3 宗教活動の特徴 ① 一 葬 儀 ・ 法 要 月間葬儀数は平均して十回程度であるが、その大部分 は葬儀社からの依頼である 。 葬儀の場所も現在では自宅 が 一 割、本堂が 二 割、後の七割は斎場であるという 。 比 嘉師は﹁今後は斎場での葬儀が九割以上になるだろう﹂ と予測している 。 近年、沖縄における葬祭業社の所有す る斎場での葬儀・告別式の割合は増加傾向にあり、逆に 寺院で行う割合は減少の一途をたどっている 。 このよう な傾向を受け、葬儀の実態も大きく変わ っ てきている 。 比嘉師は﹁棺桶や式場飾りが派手にな っ て き た ﹂ ﹁ 花 輪 が造花から生花になってきた﹂﹁死に装束はほとんど白 無垢であり、紅形装束はほぼ見なくなってきた﹂など伝 統的な葬儀形態の変化がここ 二 十年で著しいと感じてい る 葬儀を依頼してきた遺族から、四十九日法要はほぼ十 報恩寺 割の確率で依頼されるが、初七日法要は 一 二 、四割、その 他の七日法要はあまり依頼されることはないという 。 そ
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れに比べ 一 周忌法要はかなりの割合で依頼される 一 方 葬儀を他の寺院で行 っ た遺族からも一周期法要を依頼さ れることがよくあるという 。 また、戦没者慰霊祭には六 月 二 士 二 日に限らず年間七、八回ほど依頼されている 。 ② 追善 供 養 以外 の法事 基本的に沖縄の習俗・風習に理解を示す比嘉師は葬 儀 ・ 法事以外の依頼も受けている 。 地鎮祭は月間 三 回 ほ ど、家のお蔽い (新築または購入に際して) は月間五回 ほど依頼されている 。 また、車のお誠いの依頼も 受 け た ことがある 。 ③ 信徒活動 報恩寺では、﹁般若の会﹂ ( ﹁ 教化研究 ﹂ 十五号、大 雲 寺の項 参 照 ) とは別に信徒会も月に 二 、 三 回程度開催し ている 。 信徒会は、報恩 寺 に帰依する信徒が主体となっ て開催されている 。 従来から指摘されているように本土 に比べ沖縄では仏教的な下地が薄い 。 そ れ は 報 開 主 寸 の 信 徒内においても同様である 。 ゆえに少しでも仏教に馴染 んでもらおうと、比 嘉 師は年に 一 度、信徒 三 、四十人を 連れて県内の仏教寺院参拝を行 っ ている 。 その際、真言 宗という枠は考えずに、各 宗 派の寺院を 参 拝している 。 ま た 、 二 年に 一 度信徒とともに四国遍路を行 っ ている 。 二
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四(平成十六)年には 二 十人程の信徒ともに、 三 月と十月の 二 度に分けて遍路を行い、無事成満を果た している 。 現住職である比嘉法道師は沖縄における代表的な 宗 教 的指導者の 一 人である 。 ﹁ 沖 縄 県 仏 教 会 ﹂ の会長を務め るとともに、﹁沖縄宗教者の会﹂ (神道、仏教、キリスト 教、新 宗 教などの背 景 を有する有志らが参加) への参加 ゃ﹁般若の会﹂主催者のひとりとな っ ているなど、沖縄 における宗教状況について深い造詣を有している 。 また比 嘉 師は社会活動に非常に活発に取り組んでき た れ ま で 沖 縄 刑 務 所 教 詩 師 を 長 年 わ た っ て 務 め る か た わ ら 、 ﹁ 沖縄県更生保護協 会 ﹂ 評議 員 、 ﹁ 沖 縄 県 社 会 教育委員会﹂委員なども務め、僧侶としての社会的研究成果報告 役割を担ってきた 。 その他では、﹁ゅうな協会﹂(元・沖 縄県ハンセン病予防協会)理事、﹁那覇東ロータリーク ラブ﹂会長、﹁青年会議所﹂会長なども歴任している 。 これらを通して作り上げた人間関係は、現在の報開主寸に とって大きな財産となっている 。 一 方、比嘉師の実母が沖縄における初の表千家の指導 者であったこともあり、比嘉師の妻は現在では池坊流と 表千家の指導者である 。 沖縄における華道・茶道の普及 に尽力している 。 ④ 沖縄の民間信伸との関わり 比嘉師は沖縄の民間信仰に対しては柔軟な態度をとっ ている 。 十 二 箇所巡りについては、報恩寺は番外ではあ る が ユタと供に参拝する人々は後を絶たないという 。 そのような人達と比嘉師は直接関わるわけではないの で、実態はよく把握できていないが、参拝を断ることは していない 。 しかしながら、迷信を助長するような際に おいてユタとは対立することもある 。 また今ではまれに しか行われないようになったが、﹁出棺時に茶碗を割る﹂ ﹁辻々で塩を撒く﹂などの在来の習俗に対しては、比嘉 師はそれほど否定的な態度は取っていない 。 沖縄には沖 縄の文化があり、それを承知した上での宗教活動を心が けているという 。 4 今後の展望について 沖縄では、ここ 二 十年で葬祭業社が激増したことは先 にも触れた 。 その結果、寺院と葬祭業社との間でいくつ かの問題がでてきた 。 沖縄県仏教会に加盟していない 一 部寺院と葬祭業社社員との癒着問題や僧侶のモラル低下 などがそれに該当する 。 打開策として沖縄県仏教会と葬 祭業社との間で数回の話し合う機会を持ち、互いに意見 交換をしてよりよい葬儀 ・ 法 事のあり方を議論した 。 今 後も、その取り組みは続けていきたいと考えている 。 沖縄では本土に比べ、仏教的な慣行が浸透していない 報思寺 ことがこれまで報告されている 。 そこで比嘉師は、沖縄 での寺院活動では宗派色をあまり出さないほうが良いと 33
考えている 。 宗派的な説教よりも、通仏教的な説教を信 徒側が聞きたがっていると感じているからである 。 ゆ え に信徒との付き合いの中では難解な仏教教義や経典に関 する話をするより、より身近で、毎日送っている生活の 延長線上で、仏教的な法話を行うようにと努めている 。 そのためにも、沖縄県仏教会を中心として宗派を超えた 連携をより強化する必要があると比嘉師は述べる 。 そ し て、それとともに﹁沖縄の民族感情に留意することが大 切﹂といい、沖縄の文化を尊重する姿勢を重視している 。 *なお、本文中の 寺院名・人名はすべて仮名である 。 ( 江 島 尚 俊 )
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研究活動報告
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