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治 5

ドキュメント内 教化研究 No.17 (ページ 140-147)

r

ど。

往 私 生 がで 浄 き 土

ることを示すためである︒もし天台宗の教えによるなら

ば︑凡夫が浄土に往生することを認めているようである

が︑その浄土を低く判定している︒もし法相宗の教えに

よるならば︑浄土を高く判定しているが︑その浄土への

凡夫の往生は認めていない︒諸宗の教えはそれぞれ異な

っているけれど︑すべての宗は凡夫が報土に往生するこ とを認めていないため︑善導の解釈にもとづいて浄土宗 を立てると︑ただちに凡夫が報土に往生できることがあ

きらかになる︒ そこで︑人びとが多くそしって言

うに

は︑

︿必ずしも

浄土宗の宗義を立てなくても︑念仏往生を勧めることは

できよう︒

いま宗義を立てるということは︑単に他宗よ

り勝れることを誇示するためであろう︒われわれ九夫が

おうじんおうど

往生することができるならば︑応身応土であっても十分

ほうじんほうどである︒

どうして無理に報身報土という教義を立てたの

か﹀と︒

この意見は一応は道理に叶っているようであるが︑さ

らに踏み込んでいうと︑浄土宗を立てる真意を理解して

いないからである︒もし別の宗を立でなければ︑凡夫が

報土に往生する教えも隠れ︑本願の不思議な力もはっき

りと現れてこない︒そうであるから︑善導和尚の解釈に

従って︑ゆるぎなく報身報土の教義を立てるのである

このことは︑まったく他宗より勝れることを誇示するた

めではない﹂とおっしゃったそうだ︒

法然上人が播磨の国の信寂房に︑

﹁ここに天皇の命を

研究ノート

伝える宣旨が二

通ございます

それを取り違えて︑九州 への宣旨を関東に下し︑関東への

旨を九州に下したと したら︑その地の人は命令に従うでしょうか﹂とおっし ゃったところ︑信寂房はしばらく思案して︑﹁宣旨であ りましでも︑取り違えてしまったなら︑どうして従うこ とができましょうか﹂と・申しあげると︑上人は︑﹁あな たは道理をわきまえたお人だ

︒まっ

たくそのとおりだ

天皇の宣旨とは︑釈迦の残された教えのことである

︒宣

しようぞうまつ旨が二

通あるというのは︑正像末の

三時

に行なわれる教

えである︒

聖道門の修行は正法・像法の時代の教えであ るから︑素質がすぐれ知恵ある人びとでなければ悟りを 得ることは難しい

たとえば西国への宣旨のようなもの

である︒

浄土門の修行は末法の濁った時代の教えである から︑素質が劣り知恵のない人びとを対象としている

とれは奥州への宣

旨のようなものである

︒そうであるか

ら ︑

三時にふさわしい宣旨を取り違えてはならない

大原で聖道門と浄土門について論争をした時︑教えの 優劣では互角の議論であ

ったが︑人間の能力を基準に較

べると︑わたくし源空が勝ったのだ

︒︿

聖道門の教えは 深いといっても︑時代が過ぎてしまったので︑今の人び との能力には適合しない

︒浄土

門の教えは浅いように見 えるけれども︑今の人びとの能力に叶いやすい

﹀と

言つ

た時

一万年続くとされる末法時代に入ると︑ほかの経

典はみな滅んで︑阿弥陀仏の教えひとつだけが人びとへ 与える利益をますます増大させるとのことわりに納得し て︑人びとはみな信じて従ったのだ﹂とおっしゃった

八段

中国に浄土の教えを説く人師は多いけれど︑法然上人

は︑唐と宋の

つの時代の高僧伝の中から︑

曇 驚

・道

縛・善導

・懐感・少康の五師を抜き出して︑浄土

宗の師

資 そ 相 の 承

後 室

俊}て 乗

l

ら 房長れ重

i

中 国

ノ¥

行 く 際

上人は︑﹁中

国に浄土五祖の絵像がある

︒これを必ず持ち帰りなさい﹂

とおっし

ゃっ

た︒

このおおせに従

って︑中国へ渡っ

た後

︑ 広く捜し求めたところ︑上人のお

っし

ゃっ

た通

り︑

四十八巻伝

1 3 9  

に五祖を描いた絵像を手に入れた

︒重源はますます上人

の洞院ヂ力の優れていることを知ったのである

あの当麻寺の憂茶羅は︑阿弥陀如来が姿を変えて尼と

なり︑大炊天皇(淳仁天皇)在世中の天平宝字七年(七

じよぷんぎしようじゅうぶん

に織り出された霊像である

︒序分義と正宗分の定六

一 二

)

普義と散普義にもとづいて描かれた

三方の外縁部の図様

ゃ︑日想観をする人を妨げる

つの障りを表した雲のあ り様を︑人びとはまったく理解できなかったけれど︑そ

4bA

仰 シ

Y

の後︑文徳天皇在世中の天安

二年(八五八)に︑中国よ

り伝来した善導大師の注釈書

﹁観経疏﹂

の文 章を 読ん

︑で 人びとは疑問が解けたのである

︒天平宝字七年から天安

二年までは九十六年である

昔︑わが国において織られた曇茶羅が︑

はるか後に伝

来した﹃観経疏﹄

の文章にぴたりと合致したのは︑不思 議なことであると言い伝えられている

︒今︑法然上人が

先んじて浄土宗の宗義をお聞きになり︑後に重源が中国 へ渡る時に︑あの浄土五祖像を持ち帰るよう命じられ 持ち帰った絵像が上人のおっしゃる通りであったのは

どうして殊勝な乙とでないだろうか

︒だから︑僧侶も俗

人も貴い人もそうでない人も︑五祖の真の絵姿を拝んで いよいよ上人の徳に帰依し︑ますます念仏への信仰を深

くしたということだ︒

現在

二尊院の経蔵に安置されて

いるのは︑その重源が持ち帰った真の絵姿である

研究ノート

布教資料研究

和 歌

道 詠

の 研

究 ー五重勧誠における活用について│

はじめに

現代布教研究班における私の研究テ│マは﹁和歌

詠の研究﹂である︒特に今期は﹁和歌・道詠の収集・整

理とその活用方法﹂について研究を進めてきた︒

およそ和歌に限らず詩歌というものは︑一つの思想を

論理的に説明したり表現するには文体から不向きではあ

るようだが︑反面ょくできた詩や歌は︑数百語数千字を

連ねる文章

りも︑その中心思想を直感させるものがあ

り ︑

言葉以上に訴える力を持っていると思う時がある︒

﹁その効用は口ずさむに適し︑覚えるに易く︑しかも

言わんとするところの中心がそこに在る﹂という観点か

ら︑今回は実際に布教の現場で勧誠師がお話しされた

﹁講録﹂叩冊をとりあげ﹁五重勧誠録﹂における和歌

道詠の活用について考察してみた︒尚︑実際の打ち込み

作業は嘱託研究員の八木英哉師が担当し︑分類

整理に

も多大なご協力をいただいたのでここにご報告する︒

2 和

・ 道

詠に

いて

古来より和歌は︑春・夏・秋・冬に分けられ︑賛歌

和 歌 道 詠 の 研 究

離別歌

恋歌

哀傷歌という分類がなされてきたが︑さ

らには左記の

うに釈教︑釈教歌︑道歌というジャンル

に分けられている︒

布教資料研究

①和歌・:漢詩に対して上代から日本に行われている︑長

歌・短歌・船頭歌の総称︒

②釈教

:仏教︑また仏教的な言葉の入っている歌や句︒

1 4 1  

③ 釈教 歌・ :経 文な どの 事を 題材 とし た歌

︒または広く仏

教思想にもとづいた歌

④道

歌・

:道

・仏法などに関する教訓をわかりやす

く詠

んだ短歌または長歌

︒(﹁

日本史用語大辞典

語編

1 9 8 7

・ 柏 書 房)

‑:

道徳

意昧を含めた教訓の歌︒

(﹃

大漢

語林

﹂1

992

・大

修館

)

‑仏の教えなどをわかりやすく説き示した和歌の

類︒

(石 田瑞 麿

﹁例文仏教語大辞典﹂11AnuJAUJ 

7

・小

学館

)

‑道徳・訓誠の意を︑わかりやすく詠んだ短歌

仏教や心学の精神を詠んだ教訓歌︒(﹁広辞苑﹂

1 9 9 8

・岩

波書

庖)

‑仏教または心学の趣旨をよんだ歌

﹁手

習い

は 坂に車を押すごとし油断をすれば後へ戻るぞ﹂

の類

︒(﹃新潮国語辞典現代語・古語﹂

198

4‑ 新潮 社)

道詠

・・

・仏 教的 な観 点で 受け とめ た信 仰の 境地 を詠 んだ

歌︒

(私

案)

しかし︑今回はじめて﹁道詠﹂という語句に着目し︑

手元にある辞書で調べてみたが﹁道詠﹂の項目がいまだ 用

見あたらない

︒たまたま開いた曹洞宗関係のホムペ

ジに﹁道詠﹂の箇所があり︑道元禅師の詠まれた歌がた くさん紹介されていたが︑その定義内容

・年 代に つい て の詳しい説明はなかった

また︑浄土宗関係の書物に関

しては大正

5

年・山崎弁栄上人の﹃

宗祖 の皮 髄﹄

( 1 9

16

・一

音社)に初めて﹁道詠﹂という語句が見られた

だけである︒

﹁道詠﹂と言う字義から︑なんとなくその ニュアンスは伝わってくるが︑これまた﹁道詠﹂の定義 が見当たらなかった

そこで自分なりの解釈で恐縮だが

﹁仏教的な観点で受けとめた信仰の境地を詠んだ歌﹂と

﹁道

詠﹂

を定

義明

つけ

てみ

3 .

法然上人の和歌について

法然上人の和歌に関して﹁法然上人行状絵図﹂(

﹁勅修

御伝

﹂三

十)

に︑

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