報 ‑ r 守
ど。主
往 私 生 がで 浄 き 土
ることを示すためである︒もし天台宗の教えによるなら
ば︑凡夫が浄土に往生することを認めているようである
が︑その浄土を低く判定している︒もし法相宗の教えに
よるならば︑浄土を高く判定しているが︑その浄土への
凡夫の往生は認めていない︒諸宗の教えはそれぞれ異な
っているけれど︑すべての宗は凡夫が報土に往生するこ とを認めていないため︑善導の解釈にもとづいて浄土宗 を立てると︑ただちに凡夫が報土に往生できることがあ
きらかになる︒ そこで︑人びとが多くそしって言
うに
は︑
︿必ずしも
浄土宗の宗義を立てなくても︑念仏往生を勧めることは
できよう︒
いま宗義を立てるということは︑単に他宗よ
り勝れることを誇示するためであろう︒われわれ九夫が
おうじんおうど
往生することができるならば︑応身応土であっても十分
ほうじんほうどである︒
どうして無理に報身報土という教義を立てたの
か﹀と︒
この意見は一応は道理に叶っているようであるが︑さ
らに踏み込んでいうと︑浄土宗を立てる真意を理解して
いないからである︒もし別の宗を立でなければ︑凡夫が
報土に往生する教えも隠れ︑本願の不思議な力もはっき
りと現れてこない︒そうであるから︑善導和尚の解釈に
従って︑ゆるぎなく報身報土の教義を立てるのである
︒
このことは︑まったく他宗より勝れることを誇示するた
めではない﹂とおっしゃったそうだ︒
法然上人が播磨の国の信寂房に︑
高
﹁ここに天皇の命を
研究ノート
せ ん じ
伝える宣旨が二
通ございます
︒
それを取り違えて︑九州 への宣旨を関東に下し︑関東への
宣
旨を九州に下したと したら︑その地の人は命令に従うでしょうか﹂とおっし ゃったところ︑信寂房はしばらく思案して︑﹁宣旨であ りましでも︑取り違えてしまったなら︑どうして従うこ とができましょうか﹂と・申しあげると︑上人は︑﹁あな たは道理をわきまえたお人だ
︒まっ
たくそのとおりだ
︒
天皇の宣旨とは︑釈迦の残された教えのことである
︒宣
しようぞうまつ旨が二
通あるというのは︑正像末の
三時
に行なわれる教
えである︒
聖道門の修行は正法・像法の時代の教えであ るから︑素質がすぐれ知恵ある人びとでなければ悟りを 得ることは難しい
︒
たとえば西国への宣旨のようなもの
である︒
浄土門の修行は末法の濁った時代の教えである から︑素質が劣り知恵のない人びとを対象としている
︒
とれは奥州への宣
旨のようなものである
︒そうであるか
ら ︑
三時にふさわしい宣旨を取り違えてはならない
︒
大原で聖道門と浄土門について論争をした時︑教えの 優劣では互角の議論であ
ったが︑人間の能力を基準に較
べると︑わたくし源空が勝ったのだ
︒︿
聖道門の教えは 深いといっても︑時代が過ぎてしまったので︑今の人び との能力には適合しない
︒浄土
門の教えは浅いように見 えるけれども︑今の人びとの能力に叶いやすい
﹀と
言つ
た時
︑
一万年続くとされる末法時代に入ると︑ほかの経
典はみな滅んで︑阿弥陀仏の教えひとつだけが人びとへ 与える利益をますます増大させるとのことわりに納得し て︑人びとはみな信じて従ったのだ﹂とおっしゃった
︒
八段
に ん し
中国に浄土の教えを説く人師は多いけれど︑法然上人
ど ん ら ん ど う
は︑唐と宋の
二
つの時代の高僧伝の中から︑
曇 驚
・道
し ゃ く え か ん し ょ う こ う
縛・善導
・懐感・少康の五師を抜き出して︑浄土
宗の師
資 そ 相 の 承
後 室
俊}て 乗
l
ら 房長れ重i
た炉
中 国
ノ¥
行 く 際
上人は︑﹁中
国に浄土五祖の絵像がある
︒これを必ず持ち帰りなさい﹂
とおっし
ゃっ
た︒
このおおせに従
って︑中国へ渡っ
た後
︑ 広く捜し求めたところ︑上人のお
っし
ゃっ
た通
り︑
四十八巻伝
幅
1 3 9
に五祖を描いた絵像を手に入れた
︒重源はますます上人
の洞院ヂ力の優れていることを知ったのである
︒
た い ま で ら ま ん だ ら
あの当麻寺の憂茶羅は︑阿弥陀如来が姿を変えて尼と
お お い じ ゅ ん に ん て ん び ょ う ぼ う じ
なり︑大炊天皇(淳仁天皇)在世中の天平宝字七年(七
じよぷんぎしようじゅうぶん
に織り出された霊像である
︒序分義と正宗分の定六
一 二
)
普義と散普義にもとづいて描かれた
三方の外縁部の図様
ゃ︑日想観をする人を妨げる
三
つの障りを表した雲のあ り様を︑人びとはまったく理解できなかったけれど︑そ
4bA
仰 シ
Yく
の後︑文徳天皇在世中の天安
二年(八五八)に︑中国よ
り伝来した善導大師の注釈書
﹁観経疏﹂
の文 章を 読ん
︑で 人びとは疑問が解けたのである
︒天平宝字七年から天安
二年までは九十六年である
︒
昔︑わが国において織られた曇茶羅が︑
はるか後に伝
来した﹃観経疏﹄
の文章にぴたりと合致したのは︑不思 議なことであると言い伝えられている
︒今︑法然上人が
先んじて浄土宗の宗義をお聞きになり︑後に重源が中国 へ渡る時に︑あの浄土五祖像を持ち帰るよう命じられ 持ち帰った絵像が上人のおっしゃる通りであったのは
どうして殊勝な乙とでないだろうか
︒だから︑僧侶も俗
人も貴い人もそうでない人も︑五祖の真の絵姿を拝んで いよいよ上人の徳に帰依し︑ますます念仏への信仰を深
くしたということだ︒
現在
︑
二尊院の経蔵に安置されて
いるのは︑その重源が持ち帰った真の絵姿である
︒
研究ノート
布教資料研究
和 歌
・
道 詠
の 研
究 ー五重勧誠における活用について│
はじめに
現代布教研究班における私の研究テ│マは﹁和歌
・
道詠の研究﹂である︒特に今期は﹁和歌・道詠の収集・整
理とその活用方法﹂について研究を進めてきた︒
およそ和歌に限らず詩歌というものは︑一つの思想を
論理的に説明したり表現するには文体から不向きではあ
るようだが︑反面ょくできた詩や歌は︑数百語数千字を
連ねる文章
よ
りも︑その中心思想を直感させるものがあり ︑
言葉以上に訴える力を持っていると思う時がある︒
﹁その効用は口ずさむに適し︑覚えるに易く︑しかも
言わんとするところの中心がそこに在る﹂という観点か
ら︑今回は実際に布教の現場で勧誠師がお話しされた
﹁講録﹂叩冊をとりあげ﹁五重勧誠録﹂における和歌
道詠の活用について考察してみた︒尚︑実際の打ち込み
作業は嘱託研究員の八木英哉師が担当し︑分類
・
整理にも多大なご協力をいただいたのでここにご報告する︒
2 和
歌・ 道
詠に
つ
いて
古来より和歌は︑春・夏・秋・冬に分けられ︑賛歌
和 歌 道 詠 の 研 究
離別歌
・
恋歌・
哀傷歌という分類がなされてきたが︑さらには左記の
よ
うに釈教︑釈教歌︑道歌というジャンルに分けられている︒
布教資料研究
①和歌・:漢詩に対して上代から日本に行われている︑長
歌・短歌・船頭歌の総称︒
②釈教
・
:仏教︑また仏教的な言葉の入っている歌や句︒1 4 1
③ 釈教 歌・ :経 文な どの 事を 題材 とし た歌
︒または広く仏
教思想にもとづいた歌
︒
④道
歌・
:道
徳
・仏法などに関する教訓をわかりやす
く詠
んだ短歌または長歌
︒(﹁
日本史用語大辞典
語編
﹂
1 9 8 7
・ 柏 書 房)
‑:
道徳
の
意昧を含めた教訓の歌︒
(﹃
大漢
語林
﹂1
992
・大
修館
)
‑仏の教えなどをわかりやすく説き示した和歌の
類︒
(石 田瑞 麿
﹁例文仏教語大辞典﹂11AnuJAUJ
7
・小
学館
)
‑道徳・訓誠の意を︑わかりやすく詠んだ短歌
︒
仏教や心学の精神を詠んだ教訓歌︒(﹁広辞苑﹂
1 9 9 8
・岩
波書
庖)
‑仏教または心学の趣旨をよんだ歌
︒
﹁手
習い
は 坂に車を押すごとし油断をすれば後へ戻るぞ﹂
の類
︒(﹃新潮国語辞典現代語・古語﹂
198
4‑ 新潮 社)
⑤
道詠
・・
・仏 教的 な観 点で 受け とめ た信 仰の 境地 を詠 んだ
歌︒
(私
案)
しかし︑今回はじめて﹁道詠﹂という語句に着目し︑
手元にある辞書で調べてみたが﹁道詠﹂の項目がいまだ 用
見あたらない
︒たまたま開いた曹洞宗関係のホムペ
ジに﹁道詠﹂の箇所があり︑道元禅師の詠まれた歌がた くさん紹介されていたが︑その定義内容
・年 代に つい て の詳しい説明はなかった
︒
また︑浄土宗関係の書物に関
しては大正
5
年・山崎弁栄上人の﹃宗祖 の皮 髄﹄
( 1 9
16
・一音社)に初めて﹁道詠﹂という語句が見られた
だけである︒
﹁道詠﹂と言う字義から︑なんとなくその ニュアンスは伝わってくるが︑これまた﹁道詠﹂の定義 が見当たらなかった
︒
そこで自分なりの解釈で恐縮だが
﹁仏教的な観点で受けとめた信仰の境地を詠んだ歌﹂と
﹁道
詠﹂
を定
義明
つけ
てみ
た
︒
3 .
法然上人の和歌について
法然上人の和歌に関して﹁法然上人行状絵図﹂(
﹁勅修
御伝
﹂三
十)
に︑