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鴎外の漢詩文-特に初期漢詩文の制作年月について-

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− E H U 一 ﹂ J’ と 4 、 れ ? と ? 理戸亨

ー特に初期漢詩文の制作年月について

ま え が き ︵ 注 1 U 木ポ杢太郎は、その著﹁森鴎外﹂で 森鴎外は謂はばテエベス百円の大都である。東門を入っても西門 を窮め難く、百家おのおの一両門を視て、他の九十八九門そ遣し 去 る の で あ る 。 と言っている。まさしく、医学・小説・随筆・詩歌・戯曲・評論・ 審美学など、数えあげればきりがない程多方面に活躍している鴎外 は、木下益太郎のたとえの如く、一つの円をくぐる乙とさえ私には 容易でないように恩われる。しかし、ここで私はその百円のうちか ら、漢詩・漢文学の門を選んで入ろうと試みる。鴎外の著作を読ん でいると、何か漢学の臭いのようなものが感じられるからである。 また、杢太郎が同著に 並 ︵ 他 、 鴎 外 の 漢 文 学 ・ 漢 詩 ・ ︵ 略 ︶ 等 解 説 を 要 す る も の が 頗 る 多 い 。 ︵ 略 ︶ 皆 、 余 の 能 は ざ る も の で あ る 。 門 注 2 V と し て い る の を 始 め 、 丸 田 潤 三 郎 の 右 の き 口 を う け て 、 況して僕のやうな駈出し者の到底能くする所ではない。 ι 7 H ’ J と言っているように、諸家まだ漢学の門を深く奥まで入った人がい 、、、ー一ー

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な い よ う に 恩 わ れ る か ら で も あ る 。 しかし、このように、大先輩も入っていない門を一介の学生であ る私が短期間のうちに窮め尽くせるはずがないというのも本音であ る。だが、出来得る範囲内で、その門の姿なりとも見たいと思い、 こ の 論 を 進 め て い く こ と と し た 。 し か る に 、 今 回 、 こ の 稿 で は 、 制 限 二 、 コ 一 十 枚 と い う こ と で 、 鴎 外の全生涯を通じての漢詩・漢文を展望することは難く、特に鴎外 が軍医として日清、日露の両戦争に従軍して創作活動を一時中断し た明治二十七年頃までの作品を中心にして論じてみたいと思う。そ じて、それも特に制作月の問題にしぼって乙とでは述べたい。 第一章初期漢詩の制作について ﹁ 鴎 外 全 集 ﹂ に は 、 次 の 順 序 で 初 期 の 漢 詩 が 掲 載 さ れ て い る 。 辛 巳 十 月 十 二 日 作 ︵ 明 治 十 四 年 十 月 ︶ 待春 ﹁ 航 西 日 記 ﹂ 抄 ﹁ 独 逸 日 記 ﹂ 抄 ﹁ 還 東 日 乗 ﹂ 抄 答今井武夫君︵明治二十二年八月﹁東京医事新論﹂︶ E J

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読第三駁議。寄今井武夫君。﹁用鴎外漁史鎖。 ︵ 明 治 二 十 二 年 十 月 ﹁ 東 京 医 事 新 論 ﹂ ︶ 未会醒 百尺松︵以上二首明治二十三年二月﹁柵草紙﹂第五号︶ 目黒比翼塚︵明治二十三年春︶ 詩以代来復渓子︵府首議︶︵明治二十四年二月﹁石見郷友会雑誌﹂ 第 一 号 ︶ 刀圭余事︵明治二十四年五月﹁衛生療病志﹂第十七号﹀ 庚辰歳旦酔歌 訪応渠先生千住居 呈応渠先生 書感 茶碗 辛己春臥病偶友人菜見訪賦似 解剖 送友人之徳国 訪応渠先生居偶作 乙れは主に発表年月により並べられている 。ところ が﹁詩以代来 復松渓子﹂が︵醤高︶とあるのを始め 、 ﹁ ﹃ 航 西 日 記 ﹄ 抄 ﹂ 冒 頭 の 詩 、 一 ー 明 治 十 四 年 切 辱 学 士 。賦 詩日﹂や、﹁万圭余事﹂中の﹁庚民 歳旦酔歌﹂﹁辛巳春臥病:::﹂も、題目の中に示されている年によ って、明らかに発表年月と制作年月との間に何年かの隔たりがある ととがわかる。それでは他の作品においてはどうかと、一々検討し て み た 結 果 、 ヨ﹁万圭余事﹂九首と﹁詩以代来復必渓子﹂留学以後に 発表されているが、制作は留学以前と思われる 。 以 下、との事につ いてもう少し詳しく述べてみようと思う。 まず、﹁万圭余事﹂九首についてみてみると、一首目﹁庚辰歳旦 酔歌﹂は、庚辰すなわち明治十三年の元日一に鴎外が過去を顧み漢と した前途の不安を歌ったものであり、六首目﹁辛巳春臥病:::﹂に 辛巳すなわち明治十四年の春に卒業試験を前に肋膜炎を患った時の 誌である。また八首目﹁送友人之徳国﹂はおそらく鴎外の同期生で 大学を一番で卒業した三浦守治が文部省から派遣される留学生とし てドイツに発った時であろう。明治十五年のととである。 以上、制作年月のほ Y 確定的であろうと恩われる三首の外に、佐 藤応渠に関する詩が二首目 ・ 三 首目 ・九首自にある 。鴎外が佐藤応 渠に詩を学んでいたことは、鴎外自身が﹁徳富蘇峰氏に答ふる書﹂ f ﹂ 明治の初年に依田学海先生に漢文を学び、佐藤応渠先生に詩を学 び し 他 に は ︵ 略 ︶

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-とあるのによってわかる。しかし、その時期については﹁明治の初 年﹂とあるだけではっきりしない。それを神田孝夫氏は﹁若き鴎外 と漢詩文・上﹂で明治十二、三年からとしておられる 。 ζ の と と は ︵ 注 3 ﹀ 伊藤孫一との関係からもでてくるが、おそら く神 田氏はこの ﹁ 万 セ 余事﹂中の三首からそのように判断されたのではなかろうか 。 と い うのは、二首目﹁訪応渠先生千住居﹂は、医学を 学んでいる自分で はあるが、漢詩を学びに応渠先生のもとへ通うととを許されたこ と を喜ぶ意の詩であり、三首目﹁ 呈応渠先生 ﹂ は 、 以 前 応 渠先生のすば らしい詩を読み、今その先生に直接接する乙とができて、いつか 必 ず良い詩を作り先生を負かすほどになりたいという志の詩で、いず れも応渠に詩を学び始めたばかりの頃の作とわかり、それはとの ﹁ 万圭余事﹂が年代順に並べられていると仮定すれば、 ζ の二首円を

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はさんでいる一首目と六首目がそれぞれ前に述べたように明治十三 年元旦と明治十四年春の作であるから当然乙の間の作となるからで ある。乙の頃応渠に詩を学び始めて幾許もたたぬのであるから.学 び 始 め た の は 明 治 十 二 、 三 年 と い う 乙 と に な る 。 ところで﹁万圭余事﹂が時代順に配列されているという仮定は、 ほぼ制作月の確定している前の三首には当てはまる。またこの応渠 に関する二首も、やはり神田氏も言われるように、応渠に学び始め 門 注 4 V た の は 孫 一 と 別 れ た 後 の 明 治 十 二 、 三 年 と 考 え た 方 が ・ 自 然 で あ る か ら 、 明 治 十 一 二 、 四 年 の 作 と 考 え て よ い の で は な か ら ろ う か 。 そ う す ると﹁万圭余事﹂九首中五首が時代順に並んでいることはほ Y ま ち が い な い こ と に な る 。 そ乙で応渠に関する残る一首、九首目の﹁訪応渠先生居偶作﹂に ついて検討を進める。これは応渠宅で何か催しがあったのだろう。 そこに行った鴎外が一人離れて夢想にふけり、応渠のことに思いを 馳せるのであるが、それは鴎外のあの永遠の憧僚ともいえるものが 早ふも窮われるような、厚みのある、応渠に学んで数年後とも思わ れる佳品となっている。鴎外が応渠に学んだのは明治十五年頃まで m 注

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﹀ であるから、八首日﹁送友人之徳国﹂が明治十五年の作であり、そ ︹ 注

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の 次 に 位 置 す る 詩 と し て 内 容 と も 一 致 す る の で あ る 。 以上六首の四首日の外に四首日﹁書感﹂・五首目﹁茶碗﹂、七首 目 ﹁ 解 剖 ﹂ が あ る 。 四首目﹁書感﹂、五首目﹁茶碗﹂は多分同時かあるいはあまり時 を経ないで書かれたものと思われる。というのは﹁書感﹂の四句目 ﹁欽判当年独畷庵﹂から次の﹁茶碗﹂にある自注﹁好生緒言云。独 鳩 尾 市 併 井 戸 茶 碗 : : ﹂ を 連 想 し ﹁ 茶 碗 ﹂ と い う 作 品 が 出 て き た と 思 われるからである。が、それはともかくとして、制作年月をはっき り決める決めてが何もない。ただ﹁書感﹂が、医家の中でまだ一人 としてすぐれた人に出合ったことのないのを嘆き、独り静かに庵に いて詩を吟んじているのをうらやみ仰ぐ意で、それが千住に隠居し て悠々自適の生活をしている応渠のことを指しているのであれば、 やはり応渠のもとに通いだして間もない明治十三年頃と考えられる の で は な い だ ろ う か 。 また七首目﹁解部﹂は、﹁府蔵市位曽暗記﹂の句より、内臓の位 悶 な 刊 と ず っ と 前 に 暗 記 し て い る 時 期 、 す な わ ち 医 学 の 学 問 も 相 当 進 んだ大学後半以後である乙とがわかる。そして最後の句﹁欲取解剖 翼刀圭﹂から、これから先に意欲をわかす時期、すなわち明治十四 年夏の大学卒業直前の作ではないかと考えられる。

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-以上検討してきたように﹁万圭余事﹂九首は制年月もほ Y 明 ら か になり、時代順に並べられているという仮定もほ Y 成立すると思う の で あ る が い か が で あ ろ う か 。 次に﹁詩以代来復松渓子﹂は神田孝夫氏の前掲論文で明治十三年 円 注 7 v 夏 と 推 測 さ れ た の に 従 い た い と 思 う 。 また﹁待春﹂については﹁鴎外全集﹂別巻後記に森於蒐氏が 書は佐藤応渠翁の手らしいが詩の下に鴎外漁史と署してあるの ︵ 注 o n v で、詩は父の作と認められる。千住時代の青年期の作であろう。 といっておられる。乙の詩の内容は、ある冬の日南の縁で一人沈ん で冬の景色を眺めていると、ふっと風が吹き、その風の暖かさに春 を待つという心を詠じたものである。師である応渠が手づから筆を とって書いただけに、静かで良い作品で、これも応渠のもとに通い 始めて相当経った、それも内容から学生時代の作とは思えぬから、 \

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明 治 十 五 年 初 春 の 作 と 推 定 す る 。 以上述べてきた作品の外は﹁鴎外全集﹁所載の制作年月、発表年 月によりそれぞれ見ていってよいと思われる。それで簡単に制作年 月順に並べ直してみると次の通りである。 ﹁ 力 圭 余 事 ﹂ 一 首 目 詩以代来復松渓子 ﹁ 刀 圭 余 事 ﹂ 二 首 日

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七 首 国 明治十四年切辱学士称。賦詩日︵﹁航西日記﹂抄︶ 辛己十月十二日作 待春 ﹁ 万 圭 余 事 ﹂ 八 首 目

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九首目 ﹁ 航 西 日 記 ﹂ 抄 ﹁ 独 逸 日 記 ﹂ 抄 ﹁ 還 東 日 乗 ﹂ 抄 答今井武夫君 読第三駁議・寄今井武夫君。用鴎外漁史韻 未曽醒 百 尺 桧 目黒比翼塚 ︵ 明

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︶ ︵ 明 問 ・ 夏 ︶ ︵ 明

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− 夏 ︶ ︵ 明 叫 ・ 叩 ︶ ︵ 明 旬 ・ 初 春 ︶ ︵ 明 旬 ︶ ︵ 明

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︶ ︵ 明

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・ 叩 ︶ ︵ 明

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﹀ ︵ 明 白 ・

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︶ ︵ 明

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− 春 ︶ 第二章初期漢文の制作年月について 初期の漢文二十二篇についても、漢詩と同様発表年月と制作年月 との問に大きな違いがあると思われるので、内容を検討して創作年 月を明らかにしたい。﹁鴎外全集﹂剖巻には次の順序で載ってい る 。 後光明天皇論︵明治二十四年三月﹁国民之友﹂第百十三号︶ ﹁ 童 蒙 入 学 問 ﹂ 識 語 雑 誌 書 入 ︵ 明 治 十 一 年 十 一 月 ︶ 雑説︵明治二十三年三月﹁柵草紙﹂第六号︶ 虚空無一左衛門 瓢験 伏見氏女 長門良医 柳 洪 園 号 一 口 農夫 曲籍癖 街生偶記二則︵明治二十三年六刀﹁衛生新誌﹂第二十三号︶ 体操 種皮 ︿ 寸 之 漠 医 其 術 之 忠 臣 論 ︵ 明 治 二 十 三 年 六 月 ﹁ 医 事 新 論 ﹂ 第 七 号 ﹀ 反省記︵明治二十三年八月﹁医事新論﹂第九号︶ 其 一 主 日 二 回史漫紗︵明治二十四年三月﹁柵草紙﹂第十八号﹀ 墳格刺底在獄 門 的 九 沙命官士 学友尽旦 説古鶴所伝 送 日 池 好 夫 輿 石 黒 軍 医 監 薦 予 室 間 後 ︵ 明 治 二 十 四 年 四 月 ﹁ 衛 生 療 病 士 山 ﹂ 第 十 六 号 ︶ 小金井観桜記︵明治二十周年四月﹁柵草紙﹂第十九号﹀ η ベ U

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以上のうちで制作年月の比較的明らかなものは﹁後光明天皇論﹂ ﹁﹃童蒙入学円﹄識語﹂、﹁雑誌脅入﹂、﹁小金井観桜記﹂であ る 。 ﹁ 後 , 光 明 天 皇 論 ﹂ は 、 明 治 二 十 四 年 三 月 ﹁ 悶 民 之 友 ﹂ に 載 せ ら れ た 時 、 ま え が き に 鴎 外 自 ら が 、 左の一節は明治六、七年の頃作りしものにて︵略﹀ と書いているように、明治六、七年、第一大学区医学部予科入学前 後に作られたものと思われる。が続いてまえがきに 当時 C れを依田学海先生に寄せて教を乞ひしに︵略︶ とあるのはいかがであろうか。第一章漢詩の所で、応渠に詩を学び 始めたのは明治十二、三年と推定した。叉﹁徳富蘇峰氏に答ふる 書﹂により、応渠に漢詩を学び始めたのと学海に漢文を学び始めた のはほど同時だと思われる。そうするとこのまえがきの記述は信用 できおいものとなり、﹁明治六、七年﹂とあるのも実際はもう少し 後 だ っ た か も し れ な い 。 ー﹃童蒙入学門﹄識一諮﹂に明治二年、すなわち、まだ故郷津和野 で藩校養老館に四書の復読∼に通い始めたばかりの八歳の時書いた ﹁八歳森五木章記﹂の七字を明治十年にみつけだして付記したもの であるどとがその文中よりわかる。 ﹁雑誌書入﹂は﹁鴎外全集﹂に︵明治十一午十一月︶と制作年月 円 注 9 ︶ 今 を記してある ﹁ゆ逢井観桜記﹂は、明治十二年四月十二日から十三日にかけ て‘緒方収二郎、賀古鶴所と共に、小金井に桜宇佐観に行った時の文 で あ ぷ 。 n 十三日、家に帰って話をしていると、 一 コ 一 口 、 未 暴 。 覚 異 香 姉 々 襲 人 。 探 懐 得 花 片 。 まだ桜の看が着物に残っていて、さきほどまで¢直ノ雀カヨ

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員 d 為 之 記 。 以 志 年 月 。 より、明治十二年四月十三日のろちに書かれたか、少くとも二、一二 日中には書かれたものであろうと思われる。 次 一 に 、 内 容 に よ り 制 作 年 月 が や h はっきりするものとして﹁衛生 偶記二則﹂、﹁反省記﹂二策、﹁学反月旦﹂、﹁賀古鶴所伝﹂、 ﹁ 蓮 池 好 夫 輿 石 黒 軍 医 監 薦 予 誉 後 ﹂ が あ る 。 まず、﹁衛生偽記二則﹂の﹁体操﹂は、体操の効果そ述べたもの で 、 我医餐夙設体操場 ではじまり 今也我費。大興学術。叉有比襲。民是千載嘉会。百世良遇也。余 輩 精 励 奮 発 。

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と述べているように、東大医学部在学中の作と思われる。 また、同じく﹁衛生偶記二則﹂の﹁種痘﹂は、ある人に種目慌につ いて問われ、鴎外がそれに答えるという形式の文であるが、乙の文 小には制作年月をあらわす諮がない。それではっきりした ζ とは言 えないが、ジエンナ i の牛庖稜絞法は嘉永二年、すでに日本に入っ てきており、また﹁衛生偶記二則﹂として﹁体操﹂とまとめて掲載 さ れ て い る な と 乙 ど か ら 、 ζ れも医学の学問途上である大学在学時 の 制 作 と 考 え ら れ る 。 ﹁反省記﹂に篇は、﹁其一この後に 反省記二第。今而読之。満祉客気。見乎筆墨え問。唯覚面白可 憎 。 とあるように、明らかに発表された明治二十三年八月より大部以前

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の作品であることがわかる。それでは‘はっきりした年月はいつで あ φ かと考えるに、﹁其こは、 余響読日耳憂某氏外科書。愛其説之精且詳也。以為訳而行之。必 有 益 於 世 実 。 侃 起 稿 干 明 治 十 年 夏 。 至 干 十 二 年 春 。 第 一 巻 終 業 。 に 始 ま り w 池田謙斎先生に翻訳した一巻の校闘を乞うたところ、ひ ど く し か ら れ て 余 遂 絶 翻 訳 之 業 。 と 終 る 。 や は り 乙 の 事 件 の あ っ た 明 治 十 二 年 春 頃 の 作 と 思 わ れ る 。 又、﹁其二﹂は、大学を卒業した明治十四年七月九日、旧藩士清 水某家に行き、そ乙で始めて侍医猿渡公に逢った時のことを記した も の で 、 文 の 終 り の 万 に 余 成 志 之 目 。 得 再 見 公 。 而 語 及 今 日 。 則 公 之 喜 其 実 若 也 。 とある・すなわち﹁余成志之日﹂の後に乙の文を書いたのであろう が、それは一体いつのことであろうか。私は明治十四年十二月陸軍 軍 医 割 に 任 命 さ れ た 時 で あ ろ う と 思 ⋮ 羽 v ﹁ 学 友 月 旦 ﹂ は 鴎 外 の 大 学 の 同 級 生 数 人 の 私 評 を 述 べ た も の で あ プ Q 。 比 舎 同 窓 之 士 三 十 人 。 予 周 旋 其 問 。 有 年 於 比 。 自 調 能 悉 其 為 人 。 乃 私 評 之 。 明治十四年の東大医学部卒業生は‘留年組も併せて総数二十八名 であった。乙の数は卒業試験の後でないとわからない。また文中批 評された者の記事が、やはり大学時代の観察によって書かれたと思 わ れ る 事 な ど か ら 、 大 学 卒 業 直 前 の 作 で は な い か と 考 え ら れ る 。 ま た 、 次 の ﹁ 賀 古 鶴 所 伝 ﹂ も ﹁ 学 友 月 旦 ﹂ と 同 種 の も の で あ る 。 否 、 ﹁ 学 友 月 日 己 よ り も っ と は っ き り し て い る 。 す な わ ち 、 往年陸軍省募医干我校十数人。鶴所為其一。吾知鶴所他日為医 官。臨戦場 q 提 利 器 。 より、鶴所がまだ陸軍の軍医となっていない時期、そして鴎外自身 も陸軍の軍医となろうとは夢にも思っていない時である。大学卒業 以 前 の 作 で あ ろ う 。 次に﹁書池好夫奥石黒軍医監薦予害後﹂は、小池正直が鴎外の符 望していた文部省からの留学を到底無理だと予測して、﹁与石黒軍 医監薦森氏書﹂という畏い漢文の推薦状を書いて石黒軍医監のもと へ 出 し た が 、 そ の 後 そ の 推 薦 状 を 見 て 書 い た も の と 思 わ れ る 。 予 性 本 迂 僻 而 抗 直 。 落 落 麻 酔 有 所 A 口。誤辱好夫之賞識。其推重褒 春。甚於文暴之言。而予無正平之賓是可娘也。難然夷而察之。亦 喜不止者。何也。予固未有求於石黒氏 a 右の文より、まだ陸軍行きをはっきり決めていない明治十四年七 月 か ら 十 二 月 ま で の 作 と 恩 わ れ る 。 以上、制作年月のおよそわかるものについて述べてきたが、最後 に、文中にほとんど制作年月を示す語のない﹁雑誌﹂七第、﹁西史 漫紗﹂三篇、﹁今之漢医其術之忠臣論﹂について考察し、少しでも 明 ら か に し て み た い 。

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-﹁ 雑 説 ﹂ 七 篇 は 小 話 集 と で も い う べ き も の で あ る 。 ﹁ 虚 空 無 一 左 衛門﹂は緒田信長の頃の虚空無一左衛門という男の話、﹁瓢験﹂は 梅村善鏡という酒呑みの男の話、﹁伏見氏女﹂は柳田恭という人が 有馬温泉に行ってそこで聞いた話、﹁長門良医﹂は鴎外の祖母の祖 父木嶋節操宅に寄食していた長門の医者、吉賀栄庵の話、﹁柳洪園 言 ﹂ は 素 手 で 鯉 を と る 人 の 秘 訣 を 柳 浜 圏 が 聞 き 、 自 分 で 感 想 を 述 べ たことについて、﹁農夫言﹂はある農夫が畑で樹憶を捨い、その乙

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とについて農夫が何か言 っ た話である。ただ 一 つ 、 ﹁ 典 籍 熔 ﹂ が 多 少以 上 六篤とは趣を異に し た 内容を持っている。が﹁雑説﹂七第が 掲載された同じ﹁柵草紙に約半年後の明治二十四年三月に発表され た﹁西史漫紗﹂三第は 、 ﹁典籍務﹂を除く﹁雑説﹂六篇と 話の性格 がよく似ている。すなわち、﹁破格刺底左獄﹂は’ソクラテスが牢 に入れられた時、弟子が脱獄をすすめに来たが 、 法を破るわけにはい か ぬ と 断 っ た 話 、 ﹁ 門 的 九 ﹂ は 、 仏人モンテスキューが 、 ある休息円 に 乗 っ た船の船頭父子を助けた話、﹁沙命吃土は 、 伊人サルタンス が 乱 れた国のため法をつくり 、 その法のため自ら死んでいくという 話 で ある。つまり 、 先に述べた﹁雑説﹂六篇も、この ﹁ 西 史 漫 紗 ﹂ 三篇も、まだ漢文修業の途上にある大学在学時の練習作が残ってい て、それぞれ帰国後にまとめて発表したもののように恩われる。 ただ、前にもあげた﹁雑説﹂中の最後の 一 篇 ﹁ 典籍癖﹂だけは大 ︵ 注 u v 学卒業以後の作と恩われるが、はっきりした ζ と は わ か ら な い 。 最 後 に ﹁ 今之漢 C A 其術之忠臣論﹂の制作年月を明らかに し た い 。 がこれも文中に制作年月をあらわす語がない。ただ 鳴乎 二 千 年来渓医学之嫌々乎。今将亡駕。︵略︶予求当時。僅得 三子。喜多村寛也。尾蓋士郎也 。今 村祇卿也 。 と あ る 三 子 の う ち 、 尾 一 曇 士 超の残した年は不明であるが、喜多 村 寛 は明治九年 十 月に、今村祇卿は明治二十三年 一 月 に 、 それぞれ残し ている。そとで﹁今将亡鷲﹂の時、﹁予求当時 ﹂ の 時 と は 、 一 二 子 が 揃 っ て 生存していた時期か、または 一 人、二人、あるいは三人とも 残 し た 後のことかに問題がしぼられる。すなわち 、 明 治 九 年十一月 以 前と い え ば 、 鴎外はまだ大学の予科在学 中 で 、 漢文 作 品もほんん ど現存していない。しかし 、 明治六 、 七 年に作ったと 一 応考えられる ﹁後光明天皇論﹂があるからとの文がその頃書けなかったとは断定 できない。またこの作品は 、 明 治 二 十三年六月に発表されている が 、 おそらく三人のうちで一番長生きをしていたと思われる今村祇 卿が同年 一 月に死ん で い る の で 、その事を聞いてど の作品を書 い た とも考えられる。しかし私は乙 の文章の性格が前の衛生偶記二則﹂ に似ている こ と か ら 、 三人のう ち一人乃 至二人死んで まさに漢 医 の 学がほろびようとしている時、すなわち大学卒業前の明治十三 、 四 年に、昔を ふ り 返 っ て 書 い た す ︿ で は な か ろ う か と 思 弓 。 以上で前期の漢文の制作

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はほぼ明らかになり、明治 二 十 三 、 四年に発表された漢文作品も、ほとんど皆明治十三、四年 、 大学卒 業時頃までに作られていたであろろ ζ とが抑定される。簡単に以上 の制作年月順に並べかえてみると次のようである。

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-後光明天皇論 ﹁ 積 蒙 入 学 門 ﹂ 識 語 雑誌喜入 小金井観 w 枚 目 反 省 記 其 一 ﹁ 雑 説 ﹂ 六 品 川 ︵ 明

617

︶ ︵ 明 旬 ︶ ︵ 明 什 ・ 什 ︶ ︵ 明 刊 は ・

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︶ ︵ 明 刊 は ・ 春 ︶ ︵ 明 刊

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旬 ︶ ︵ 明 刊 は

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叫 ︶ ︵ 明 叫 ︶ ︵ 明 刊 日

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− M M ︶ ︵ 同 右 ﹀ ﹁ 術 生 偶 記 ﹂ 二 則 ふ f 之諜医其術之忠臣論 ﹁ 商 史 漫 紗 ﹂ 三 筋 学友月旦 賀古鶴所伝 書 池 好 夫 輿 石 黒 軍 医 院 耐 用 予 局 後 反省記其二

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典 籍 ︵ ﹁ 雑 説 ﹂ ︶ ︿ 明 村 内 l n u ﹀ あとがき 以上、鴎外の初期の漢詩文、特にその制作年足について述べてき て、それらがほとんど明治十三、四年の大学後半期をピ i ク と し て 書かれている乙とが明らかになった。そして本稿で私がいいたいの は、鴎外の漢詩文を考える時、その制作年月を明らかにして行く と、初期の漢詩文はほとんどが鴎外の文壇における処女作とされる ﹁舞姫﹂制作以前のものとなり、﹁舞姫﹂以後の文学活動の母胎と もなる文学修業として注目していいのではないかという乙とであ る。つまり、神田孝夫氏が前掲論文にいうと乙ろの﹃文学開眼﹄の 内 注

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時期の作品として、乙の初期の漢詩文を再評価すべきではないかと 思 う の で あ る 。 事 実 、 ζ の期の作品は、後期の作品が熟達した、破 綻のないものであるが、淡々として、いわば心が滞しく動かされる というものが少ない、静かな作口聞が多いのに反し、いかにも青年ら しい情熱あふれる作品が多いのに気づく。即ち、乙の乙ろの鴎外 が、いかに漢詩文に熱を入れ、はりきって多くの作品を作っていた かが想像されるのである。そしてそのころ漢文学にそそいでいた彼 の文学への情熱が、帰国後小説ヘ、あるいは翻訳へと進んでいった のではないかと思われる・現にそれらの方面の文学活動が始まる と、しばらくは漢詩文を作らなくなっていることにもその一端が窺 え る の で は な い だ ろ う か 。 最後にとの小稿で私なりになんとか ζ れ だ け の 展 望 が で き て も 、 もちろんまだまだ多くの問題点が残っている。初期の問題点も解決 されてしまったとはまだ言えないし、また後期にはもっと多くの問 題点が残されているように私には思える。しかし今は紙面の関係上 これだけにとどめ、他はすべて後日に譲るとととする。 注

1

岩波講座・日本文学 注

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﹁鴎外先生と支那学﹂︵﹁書物展望﹂七・昭れ 注

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神田孝夫氏の﹁若き鴎外と漢詩文・上﹂には、鴎外の大学 予科二年時、すなわち明治八年の夏からの同郷の友伊藤孫一 との交友を重んじ、孫一によって始めて漢詩文の世界へ導び かれたとしておられる。そしてその孫一との交友関係は、孫 一が家庭の事情で故郷に帰る明治十二年夏で一応終るから‘ 応渠に漢詩を学び始めたのはその後の明治十二、三年と考え ら れ る 。 注

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3

参 照 注

5

応渠に詩を学んでいたのはいつまでかと考えるに、﹁大人 名事典﹂︵平凡社昭泊︶で調べてみると、 明治維新後、東京千住に隠居し、十五年茨城県下妻侃知病 院長に招せられ、のち千葉県野聞に移った。 とあり、応渠に漢詩を学んだのも明治十五年頃までと恩われ

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詩の中に菊の畑の中を歩く描写があるので秋の詩であ る。応渠が十五年の何月まで千住にいたかが不明であるので 少しはっきりせぬが、三浦守治が留学に発ったのはおそらく 十五年の春から夏にかけてであろうから、十五年の秋とすれ ば時代順に並べられている ζ とになる。内容から学生時代の 作とは思われにくい。十四年の秋とも考えられないとともな

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-い が 、 今は十五

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の 秋 と 考 え た い 。 注

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﹁ 若 き 鴎 外 と 漢 詩 文 ・ 上﹂︵比較文学研究﹂第十三号﹀応 神田氏は﹁詩以代来復松渓子﹂の内容により明治十三年夏と 推 測 さ れ た 。 すなわ ち 、 ζ の詩の内容が松渓子こと伊稼孫一 近況を伝えたものであり、その中で二師乙と学海 ・ 応 渠 の 乙 とを知らせているからであ る 。 孫 一 と別れたのは明治十 二 作 夏、学海が向島広いたのが十四年六月まで、それにとの詩の 内容が夏の詩であるととから十三年夏の作とされた。 注

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鴎外の父が千住に家を持ったのは明治十二年六月からであ る が 、 その頃鴎外は官費生として 本郷本富士町伝学校寄宿 A m い におり、途中明治十三年に本郷竜岡町の下宿屋上条に移り、 十 四 年 七 月 目 半 業 す る ま で そ 乙 に い た よ う で あ る か ら 、 千 住 時 代とは卒 業後留学 するまでの約二年間を指すものと思われ る。ところで鴎外が応渠に詩を学んでいたのは明治十五年ま でと恩われるので、千往時代で応 渠 に詩を学んでいて初森と いう乙とからも明治十五年初春作と推定される 。 注?明治十一年十一月といえば、京大医学部本科生となって一 年半夜たっており 、すでに漢詩文に興味をもち始め 修業して いる頃であるから、﹁雑誌書入﹂中の﹁湖海詩文﹂、﹁京華 新 誌 ﹂ 、 ﹁近世詩文集などの漢詩文関係の雑誌を読んでいた 乙とは充 分考 えられる乙とであ る 。 注 叩 ﹁ 反 省 記 ﹂ が発表された明治 二 十三年八月以前で 、 鴎 外 が ﹁ 余 成 士 山 之 日 ﹂ と 言 い 得 る 日 は 三 度 あ る 。 す な わ ち 、 明治十 四 年 十 二月の躍軍軍医副として任 命 された時と、明治十七作 六 月 の 留学を命ぜら れた時、それに明治二十一年九月の帰同 の

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で あ る 。 しかし文中、はじめて猿渡公に あった時 、 公 等 に い ろ い ろ 一 言 わ れ て 後 、 公之窓。茶在激励余市

ι

。 人 口 寸 公 者 朝 庭 顕 官 。 余 者 布 衣 少

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。 以 彼 田 川 此 。 な ど と 言 っ て い る と と か ら 、 ただ若くして学士となった時よ りむしろ陸軍省に職も決まり 、 始めて実際に行動をおとすよ うになった後 、すなわ ち 明治十四年十二月以 後と考えるの で ある。ドイツ宿学の 件 は こ の際関係な いのでは な か ろ う か 。 仇什﹁典新癖﹂の中で 一 日 有 客 展 書 水 閣 。 誤 幡 町 干 池 中 。 とあるのだが 、 と の水閣のある家がどとの家であるかがわか ら な い 。 大学 卒業までは寄宿合や下宿住まいで家にいないの でこの文章は書けない。大学卒業から明治二十三年一月まで は千住の父の家に同居しているが 、 長谷川泉氏の﹁鴎外の詩 と真実 ・

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﹂、﹁同

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﹂ ︵ ﹁ 解 釈 と 鑑 賞 ﹂

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月 号 ・

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月 号 ︶ に載っている千住の家の間取り図には池も水閑らしきものも な い 。 二 了三年一月に下 谷金杉 に移ってい る が 、 こ の 家 の 間 取り図は不明であるのでわからない。 住 刊 は 仙 仲 間 考 夫 氏 ﹁ 若 き 鴎 外 と 出 詩 文 ・ 上 ﹂

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参照

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