• 検索結果がありません。

詩佛の再々北遊と加賀文人たち

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "詩佛の再々北遊と加賀文人たち"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

詩佛の再々北遊と加賀文人たち

著者 畑中 榮

雑誌名 金沢大学国語国文

号 42

ページ 26‑39

発行年 2017‑03‑20

URL http://hdl.handle.net/2297/47775

(2)

前回まで︑詩佛の北遊・再北遊と加賀文人達の動向を見てきたが︑

今回は三度目の北遊と文人達の動向をまとめ︑一応のけじめとして

おきたい︒

さて文政十年︵一八二七︶五月詩佛は西遊に出た︒甲州街道を小

仏峠・甲斐鶴川・鰍沢関で富士川を下り︑大井川・天竜川を渡り︑

大津を経て大坂に入った︵注l︶︒大坂で詩佛は空翠と落ち合った︒詩

佛の詩にいう︒︵以下詩佛の作は全て﹃詩聖堂詩集﹄による︶︒

到浪華逢野村空翠詩佛

西遊期在不曽葱待我海隅君已先伏水津頭雌棚嬬難波城外又團圓

一霄歓楽酒三斗千里銀難詩幾篇

今日相逢忍相別暫留且了對躰眠

きなんたが

西遊の期在り曽ぞ葱はざらんや︒我を待ちて海隅に君已に先んず︒

しんとうそごだんえん

伏水の津頭にて齪罷すと難も︒難波の城外にて又團圓す︒

はじめにl加賀に入るまでI 詩佛の再々北遊と加賀文人たち

いつしようかんらく一霄の歓楽酒三斗︒千里の難難詩幾篇︒今日相ひ逢ふ相ひしばしばしとこなら別るるに忍びんや︒賀し留まれ且了林を對べて眠らん︒

西遊について予め詩佛は空翠と伏見川のほとりで会う期日を決め

ておいたらしい派2﹀︒空翠は約束に従って詩佛を待っていたが︑詩

佛の方に﹁棚儲﹂があって会えなかった︒そこで改めて大坂城外の

宿舎で再会し︑喜びのあまり酒三斗を飲み干し︑幾篇かの詩にその

歓喜と旅の銀難を託した︒この後二人はまた別行動を取らねばなら

ず︑この夜は床を並べて寝たという︒

二人が再び会うのは初秋である︒その間詩佛は︑秋田藩大坂蔵屋

敷留守番の介川緑堂の世話を受けて︑頼山陽・篠崎小竹と納涼の船

遊びをし︑紀伊に出かけて栖原の菊池渓琴を訪れ︑刈藻島に舟を浮

かべ︑垣内成章と詩の唱和をした︒こうして紀伊での日々を終えた

詩佛は︑小川藍州・花月庵主人・小西竹軒等に送別され詩を贈って

いる︒ついで閏六月下旬頃︑頼山陽の自宅を訪れ︑﹁山紫水明処に題

す﹂という詩を贈った︒その後更に大和の堀氏のために七言古詩や

絶句を贈っているが︑大和に出向いた作かは分からない︒

畑 中榮

(3)

空翠がこの年三度目に詩佛と会うのは︑山陽の沙川酒店に招飲うんげたいかんされた時である藍3︶︒雲華大含も同席していた︒大含は豊前中津の

9しよ震う野昏よ・う昨︶大谷派正行寺の十四世住持だったが︑儒佛の学を修め︑文政二年

葵ご︾マフ︵一八一九︶高倉学寮の擬講︵学僧の四級の内の弟二級で学師に次ぐ︶うんげいんとして京都六條雲華院に住み︑田能村竹田︑菅茶山︑頼山陽︑小石

元瑞︑篠崎小竹︑貫名海屋等当代一流の詩画人と交遊があった︒空ばんせいじたつら翠が大含と交誼を得たのは︑松任本誓寺の達羅上人を介してである︒

すけはる二人は幼年の手習いを共に励んだ仲で︑日野資愛をも介されている︒

同じ頃小石元瑞宅で小集があった一注4︶︒浦上春琴と金子雪操の参

会もあった︒詩佛は元瑞とは既に︑閏六月下旬の山陽の宅に招かれ

た時逢っていた︒元瑞は医師であるが︑皆川洪園に師事して詩文を

能くし︑また父の後を嗣いだ教育者でもある︒山陽の他︑廣瀬淡窓︑

田能村竹田とも交遊があった︒山陽を招いたのは︑元瑞の妻が山陽

の義妹であった所以であろう︒春琴は詩文書画の他茶の湯も好む多

芸の人で︑高岡広乾寺に遊んで津田半村︑津島東亭等とも交わって

いる︒雪操は江戸に生まれて伊勢長島藩主の雪齋に仕えた書一師で︑

致仕して京や大坂に住んだ︒時々金澤や大聖寺に遊び︑空翠や後出

する東方潜と交遊している︒しようせいえんまた同じ頃︑詩佛に大含︑達羅を加えて東本願寺の渉成園に遊ん

からたちきこくてい

だ一︾刑5︒周囲に枳殼が植えられてあるので枳殼邸とも呼ばれる︒東

せんにょ本願寺第十三世宣如上人の隠居地に石川丈山が作庭した︒渉成園は

わた陶潜の﹁帰去来辞﹂の一節︑﹁園は日々渉れば以て趣を成す﹂から採

られたという︒春は梅や桜︑夏は菖蒲や睡蓮︑秋は紅葉と四季折々

の風情を楽しめて国の名勝に指定されている︒ この時また詩佛は︑大含の依頼によって﹁渉成園十三勝﹂を選び︑

それぞれに五言古詩を賦した︒偶仙楼・印月池・隻梅槍・漱枕居・

臥龍堂・侵雪橋・五松搗・縮遠亭・回棹廊・紫藤岸・丹楓渓・傍花閣・

滴翠軒がこれである︒詩佛は船に乗って庭園の名勝を巡って十三勝

いんしんを選んだ︒その作の一にいう︒﹁古松陰森として誉も猶ほ暗し︑忽ち

めぐめぐ

扁舟有りて客の来るを迎ふ︒島を綾り洲を匝りて西岸に達す︑水亭

は閑雅にして塵嶢を絶え︑院々過ぎ尽くして高閣に登る﹂と︒

すけはる同じ頃日野資愛にも招かれた凡6︶︒詩佛・空翠の他に梅辻春樵・

生源寺越前守・頼山陽が招かれていたが︑山陽は菅茶山の病気見舞

いのため同席出来なかった︒山陽が西下したのは八月十二日であっ

たから派7−︑資愛邸小集はその日か後であろう︒参加者の内︑春樵

ほうりべは近江坂本日吉神社の神官で祝部希声のこと︒神職を弟希烈に譲っ

て琴氏を名乗り︑京に閑居して門徒に漢学を教授し︑王侯貴人の寵

遇を得て梅辻春樵と号していた︒同席した生源寺越前守も希声と同

工小包一mノヘノヅ.︑じく祝部氏であるが︑遠い先に家系を異にして生源寺家を名乗って

いた︒共に日吉社司だったから︑当然旧知の間柄だったであろう︒

ようていまたある日︑福井丹波守椿亭の千山萬井楼を訪れて分韻で詩を賦

したf8︶︒椿亭は韓を需︑称を終吉・有孚といい字を光亨︑椿亭と

号した︒宝暦三年︵一七五三︶に生まれて医を父の楓亭に学び︑文

化元年典薬寮医師に補せられ典薬小允に任ぜられた︒文化三年大允

に転じて丹波守を名乗り︑十年医博士となって天保十三年正四位上

に叙せられた︒没は天保十五年︵一八四四︶一月二十一日九十三歳

である︒文政十年は椿亭七十五歳で︑この年の医家大相撲番付には

東方の大関に位置づけられ︑皇族・堂上家・武家・一般衆庶が全国

− 2 7 −

(4)

から駆けつけ︑近侍の女中が五十人︑家に能舞台を設けて宮家や堂

上家を招待したという︒儒学・詩文にも優れ︑小石元瑞・頼山陽と

も交誼を好くした︒空翠社中にあった亀田鶴山が︑文政十一年京都

で病気治療を受けたのもこの椿亭である︒この時鶴山は青木木米に

会い︑その紹介で山陽から詩の指導も受けている︷注9︶︒なおこの時

の招待者の中に詩佛・空翠の他梁川星巌︵詩禅︶もいた︒

福井丹州医伯招飲於千山萬井楼賦即事野村空翠

嘗耳舘中風物嘉登臨初識富烟霞露臺山近定宜月秋圃草香長著花

架上常看栖白崔井辺幾歳煉丹砂

天公不許野人賞雨暗皇城十萬家

しょうじかんちゅ・うよし

嘗耳舘中風物嘉し︒登臨して初めて識る烟霞に富むを︒露臺は

よろ

しゅうほつれつ

山に近し定めて月に宜しからん︒秋圃に草香り長に花を著く︒架

はくかくせいへんね

上には常に看る白崔栖むを︒井辺には幾歳か丹砂を煉る︒天公は

許さず野人の賞を︒雨は暗うす皇城十萬家︒

次いで八月末から九月初めにかけて数日間︑琵琶湖に足を留めて

いる︒後に空翠が琵琶湖での日々を夢に見て賦した作にいう︵﹇空翠

ほとり詩紗﹈巻二﹁夢詩佛先生﹂︶︒﹁琵琶湖の上に暁に船を放つ︒好風波無

せんからさきのまつさいれん

く既に坐す如し・比叡山の色は旭日に映え︒辛崎松の緑は細漣を畳む︒

ふなばた此の光景に對して心酔すること久し・先生は舷を叩き先づ酒を呼ぶ︒

忽然として筆を揮ひ長篇成る︒杯を挙げ余に問ふ詩は成るや否やと︒

と・つしょ此の時帆を張りて未だ数程ならず︒両岸の島喚は送り復た迎ふ︒湖

ていどそうそう上の奇勝は看過し講す︒亭午早已に亀城に到る︒勝社喜び迎ふる

えんきょうすりはりみねに詩を以て賞す︒翁を別業に延べ宴享を開く︒磨針嶺の上に詩を釣 九月五日頃加賀に入った詩佛は︑大聖寺で東方潜の翠竹亭に迎えられた︵注Ⅱ︶︒梅屋によれば︑潜・詩佛・空翠・梅屋・雪操書師が参加していた︒潜は大聖寺藩士望の二息で︑寛政二年︵一七九○︶に

生まれ文久元年︵一八六一︶九月︑七十二歳で没した︒経学を山本 おおぼらる酒︒大洞祠の前に魚網を打つ︒一夢驚き醒む五更の風︒西窓に月落ち影は空濠たり﹂と︒

からさきのまつ旭日を受けて輝きを放つ比叡山︑両岸の辛崎松はそこだけ緑あざ

やかにさざ波の湖面に影を落としている︒明け切らぬ晩秋の湖面は

深閑として音もなく︑塵挨一つ感じさせることなく清浄である︒感

極まって詩佛が酒を求めると︑あっという間に長篇が出来上がって

いる︒やがて正午ころ舟は亀岡の城へと導かれ︑そこで勝社の開催

する饗宴に招かれた︒時には磨針峠を越えて詩酒に漬かり︑大洞祠

で魚網を打って舌鼓を打っている︑と思うと夢は覚めた︑と︒

これは詩佛の作に詠じられた所とも重なる︒晴れ渡った夜二更︑

彦根藩の宇津木大夫のお伴で︑松平・岡本・木俣の諸大夫と共に琵

琶湖に舟を浮かべて漁網をかけ︑新鮮な刺身を味わったこと︒俄雨

の後︑金や銀を溶かしたような夕陽の彩りに染まる湖面の眺めを味

わったこと︒また時には磨針嶺の上から琵琶湖を鳥撤し︑更に足をおおぼらやま伸ばして大洞山弁財天にも登って酒肴を楽しんだことなど荏四︒

こうした琵琶湖・彦根・亀岡等での交遊の後︑北国街道を下った

のは九月上旬である︒

加賀での詩佛九月中の交遊1

(5)

北山に学び詩を詩佛や亀田鵬齋に質し︑書は市川米庵︑南画を貫名

海屋に習い︑その他武事・琴・華等多岐百般にわたる文化人であった︒

文政十年四月に江戸詰を仰せつけられたが︑この頃は帰藩していた

のである︒雪操は小石元瑞宅の小集にも参加していたが︑この詩佛

の再々北遊に同行したのであろうか︒次はこの時の梅屋の作である︒

呈詩佛先生坂井梅屋 明詩一関宋詩鴫七十年来聴正聲

莫怪頻々遊郡國天将木鐸付先生 みんしおわせいせい

明詩一たび関って宋詩鳴る︒七十年来正聲を聴く︒怪しむこと莫

ひんびんぼくたくも

かれ頻々郡國に遊ぶを︒天木鐸を将って先生に付すなれば︒

明詩がもてはやされる時代が終わって宋詩が称揚されるように

なった︒以来七十年︑我々は音律にあった正しい音楽が聴けるよう

になったのだ︒だから詩佛が時折諸国に遊ぶことを怪しむに足りな

い︒天は世に正しい音を行き渡らすべく︑指導者の持ち物である木

鐸を詩佛に与けたのだから︑と︒意味する所は以下のようであろう︒

りはんりゅう服部南郭の勧めた古文辞格調派の詩風は︑明の嘉靖年間に李肇龍・おうせいてい王世貞等が主張した古文辞学を理想とし︑宋学を排斥した︒盛唐

詩の格調高い詩風は結局模倣するのが精一杯で︑十八世紀後半にな

ると模倣によるのではなく︑日常的な現実を自分の心情に基づいて

表現しようとする清新性霊派に取って代わられることになる︒市川

寛斎の江湖詩社に集った柏木如亭・菊池五山・詩佛が中心であるが︑

これは南宋三大家の写実的で平淡な詩風をめざすものであった︒特

に詩佛は清新な感覚と機知に富み︑親しみやすく分かりやすい詩風

を世に間うて一世を風塵した︒梅屋が﹁明詩一たび関って宋詩鳴る﹂ と詠じたのは︑詩佛が当代第一の流行作家と賞されているのを言ったのである︒﹁正聲を聴く﹂というのは︑詩佛の詩が︑あるべき正しい理想的な旋律を奏でていると︑賞賛したもの︒

ろうがせいせい

これに対して詩佛は︑﹁老我従来酔を以て鳴る︒如かず梅屋に醒聲

すいせいひっきょうみちことまさじゆくせい

有るに︒酔醒畢寛途を異にすと難も︒交誼は方に知る熟は生に勝ざれごとると﹂と応じた︒とんでもない︑私の作は単に酔っぱらいの戯言で︑それに対し梅屋の作は道理に明るい覚者の言だ︑と︒一方で謙遜しつつ︑他方で詩佛は胸を張る︒醒酔の趣は相違するものの︑交誼を持つと始めて分かるのだ︑成熟した我々の交際は未熟でぎこちない交際に勝ることを︑と︒

東方潜に伴われて粟津温泉に出向いたのは七日頃であろう︷注噌︒

粟津は大聖寺から来ると小松の手前︑街道から木場潟を渡って山側

に入る湖村である︒一行はここに二泊して九日金澤に向けて発った︒

とざ詩佛の詩に﹁明日此に手を分つ︑雲煙は四面に関さん﹂とあるのは

八日のことである︒

八日は晴天だったが︑翌九日は更に晴れ上がった︒金澤の文人達

が詩佛を青山亭の桂鏡館に迎えたのは︑そんな陽気の中である︵注里︒

かしんせんゆう

韓西皐がいう︑﹁君を待ちて佳信今朝到る︒吟朋を旋誘して路一條た

り﹂と︒詩佛来訪の一報が届いたのは九日の朝で︑早速吟社一同に

触れ回して青山亭への道に並んで迎えた︑と︒︵以後西皐の作は全て

﹃四宜園詩稿﹂による︒︶

重陽迩詩佛先生青山亭韓西皐

帯得風騒萬里霜相逢欲説事如忘

山村父老皆知面恰似先生入故郷

− 2 9 −

(6)

帯し得たり風騒萬里の霜︒相ひ逢ふて説かんと欲す事忘るる如し

と︒山村の父老も皆面を知り︒恰も似る先生故郷に入るに︒

詩佛とここ青山亭で一別して以来︑詩佛は万里に旅し︑ますます

豊かに風騒を身につけた︒一方で詩佛の来訪を心待ちにしていた我々

にとって︑この歳月は記憶を奪われて行くような時間でもあった︒

しかし今ここに詩佛を迎えてみると︑田舎の父老でさえもその顔を

知っていて歓迎するので︑まるで先生の来訪は︑故郷に帰って来る

旧知を迎えるようである︑と︒かくして金沢に入った詩佛は︑翌十

月十二日までほぼ一ヶ月余りを滞在することになる︒

十一日は雷鳴とともに霞が降る荒天となった︒林蘓玻の晩晴閣に

小集を持ったのはそんな時であるfulo十三日にも改めて晩晴閣に

小集が持たれているが︑詩佛と蕪玻との出会いは文化六年にまで遡

るようである︒蘓玻の﹁晩晴閣詩稿﹂巻一に﹁辛巳秋九月詩佛先生

来遊敞邑一別已経十二霜今得再逢喜賦﹂とあるが︑文政岡年辛巳の

十二年前は文化六年である︒蕪玻二十八歳で︑その二年前には明倫

堂助教となって二十人扶持を得ていた︒十八歳で昌平饗で古賀精里

の門に入って儒教を学んだが︑助教となって更に詩を磨くためだっ

たろうか︑詩佛の門を敲いて詩を質した︒上記の詩に﹁記し取る高

楼に快を分かつ日﹂というのは︑初めて詩佛の門を敲いた若い頃の

回想である︒

翌日も雨だったが︑押して一樹院の夕陽楼で癌龍・旭堂・橘窓等

による小集が持たれた応じ︒一樹院は寛永二十年︵一六四三︶一樹

院日通が建立した正久山妙立寺︵通称忍者寺︶をいう︒その書楼を

夕陽楼といい︑折りにふれて西皐等が訪れて賦詩している︒癌龍は いうまでもなく加賀藩人持組に列し︑詩賦のみならず国史書など五十七冊を越える著をものした博覧強記の耆宿で︑文政十年には八十二歳になっていた︒旭堂は人持組に班していた佐々木旭堂で︑橘窓は高岡の伊東橘窓のこと︒共に北遊に登場する︒

翌十三日は一日中雨だったが︑再度晩晴閣で小集が持たれ︑陶潜

の﹁飲酒﹂第七首の﹁秋菊有佳色﹂の句で賦詩し︑それを江戸にい

る蒸玻に贈った︵注哩︒前回の小集で︑そうした計画が持ち上がり︑

十三日の実施になったのであろう︒詩佛の他︑亀田鶴山・西皐・空翠.

南皐・岩根・槐樹・立齋が参加した︒岩根・槐樹を除いては再北遊

で登場した人達である︒二人は伝を詳かにしないが︑有力町人の中

の一人だったろうか︒﹁秋菊有佳色﹂を句の頭に据えて詠んだ︒

九月十三日同詩佛先生及吟社登晩晴閣以秋菊有佳色之句各賦遠

寄蘓玻先生韓西皐 秋菊有佳色騒客闘詞英尚難追歓楽却憶故人情 三径移吟楊留連惜日傾霜信向夜警松籟以風鳴 都帰清絶趣豈有鄙吝生

しえい秋菊に佳色有り︒騒客は詞英を闘はす︒尚ほ歓楽を追ふと雛も︒ぎんとうりゅうれ人却て憶ふ故人の情︒三径は吟楊を移し・留連して日の傾くを惜しむ︒

そうしんなんなんとするしようらいすべせいぜつ

霜信は夜に向と警し︒松籟は風を以て鳴る︒都て清絶の趣き

ひりんに帰す︒豈に鄙吝の生ずること有らんや︒

詩宴の楽しみを追えば追うほど︑穰波がここにあればと思う︒

ぎんとう吟楊を持ってきて秋の風情を楽しんでいる内に︑いつの間にか日は

傾いた︒秋の日は釣瓶のように沈み︑暮れると松吹く風の音のみが

世界を占める︒これらは総てこの上ない清らかな趣なのだ︑と︒

(7)

翌十四日は一層寒さが増して︑時雨に霞や雪が混った︒致堂が招

飲の案内をしたのはそんな冬ざれの日である︒この時の詩題にいう

︵﹇致堂二稿﹈巻三︶︑﹁九月十四日︑詩佛先生過訪せらる︒今年晩春︑

しばしばぼくき

余猶荏士に在り︑数々先生を官舎に招飲す︒既にして余北帰し︑先

ちんせきまた

生も亦西遊す︒傭仰の間に巳に陳迩と為る︒而て先生復本藩に至り︑

偶然相見るを得る︒因て此を賦して呈す﹂と︒

致堂は前年三月江戸に入って夏詩佛に会い︑初冬十月下旬致堂の

官舎で蜜柑を食している︒更に十年三月︑帰藩せんとして詩佛に留

別し︑その作の後に﹁先生亦京師に赴んとす︒故に末句に此に及ぶ﹂

と注し︑﹁却て粧しむ先生心膳の壮なるを︒今年又京塵に走らんと欲﹂

と詠んでいる︒記録された事跡以外にも︑何かにつけての交誼があっ

ただろうから︑江戸詰の時の親密な交誼が十分類推される︒そんなもぬけのから二人が江戸から去ってしまえば︑江戸はさながら﹁陳迩﹂となって

しまったというのである藍Eo

その詩にもいう︒﹁相ひ遇ふ秋晩の節︑筵を開く北海の濱︒樽中に

さん酒は空しからず︑前に依りて理は干巡せん︒笑談し且つ歓楽し︑交

いよ情は遼いよ親を覚ゆ︒今日我初めて信ず︑天涯は是れ比隣﹂と︒

耆寒亭で小集が持たれたのは︑この秋の長雨が一段落した十六日

頃だったろう征坦︒ここでは夏の炎熱の白昼でも寒さを覚えるのに︑

﹁況や雨の初めて霧るるに及びて︑更に秋の巳に深まるに逢ふ﹂と詩

佛が言ったが︑晴れてはいても冬の肌寒さを覚える︑そんな夕暮れ

時であった︒致堂の詩にいう︒

書寒亭雨後小集分韻横山致堂 長松與修竹園亭戸不絨前池秋雨過遠障夕陽街 浦濃詩題壁淋潟酒満杉能因佳客至四坐絶塵凡 かこかんえんしよう

長松と修竹と︑亭を園みて戸は鍼せず︒前池に秋雨は過ぎ︑遠障

ふくしょ・つしやりんりさん

は夕陽を街む︑満濃の詩を壁に題し︑淋滴たる酒を杉に満たす︑よりしざじんぼん能く佳客の至るに因て︑四坐に塵凡を絶つ︒そのまわりを松と竹で囲まれた書寒亭は︑前日までの風雨によってすっかり洗い清められ︑亭の小窓からは屏風と連なる遠くの丘陵に沈んでゆく夕陽が見える︒さあ塵凡を絶って漁漉な詩を詠じ︑ししざじんぼんたたる玉のような美酒を頂きましょう︑と︒﹁四坐に塵凡を絶つ﹂とあるが︑この時は︑空翠社中もいない二人だけの特別な一時だったろうか︑心から慕う詩佛を迎える致堂の心情がにじむ︒

十九日の西皐の閑雲亭の招飲では︑鶴山・立齋・空翠等いつもの

メンバーが集まった壽憎︶︒﹁冬嶺秀孤松﹂をそれぞれ韻に据えて五言

古詩を五首ずつ詠んだ︒閑雲亭は︑金澤十一屋町の犀川を臨む高台

にあった︒片方には向山から連なる連峰や医王の峰々を望み︑眼下

には犀川の清例な流れ︑そしてその向こうには百萬石の城下が一望

された︒韻題とした﹁冬嶺に孤松秀づ﹂が︑まさに体感できる風光だっ

た︒詩佛の作を示す︒

閑雲亭同鶴山西皐立齋空翠賦以冬嶺秀孤松韻詩佛

風光非不好其奈客懐孤況逢秋已残 鴻雁頻相呼帰朝雛在近家在天一隅

きやくかいいかん風光は好まざるに非ず︑其れ客懐の孤なるを奈せん︒況や秋の已

ざんに残するに逢ひ︑鴻雁の頻に相ひ呼ぶにおいておや︒帰朝は近き

に在りと難も︑家は天の一隅に在り︒

詩佛は冬になると早々に金澤を離れる予定をしていたのであろう︒

‑ 3 1 ‑

(8)

詩佛はこの後数日臂痛に病み︑床に臥して外出しなかった︒そん

な時秋田藩の野崎君が︑浪華から秋田に帰る途次︑空翠宅に立ち寄っ

て伊丹の酒を一筒持参してくれた︒臂痛に病んで︑明け暮れ雨や風

の音を聞くのにうんざりしていた時の来訪だった︒詩佛は枕を片づしんしややくじけ灯りをつけ替えて客を迎え︑賜の酒を一杯口に含んだ︒﹁針炎薬餌

しるしたんしゅも全て験無きに︑一杯の丹酒功を為す若く癒え﹂︑病裏の情懐は一

洗されて︑談笑の中に﹁起色︵活力こが挽回してきたのだった︒ま

た詩佛が大坂で世話を受けた介川緑堂も帰郷の途次寄ってくれた︒

顔を見ると︑浪華で夜の明けるのも忘れた納涼の遊びが思い出されきていた・お互い羅亭にあって離愁に堪え得なかった︒緑堂を送る詩にいう︒たときき﹁官途縦ひ帰期の在る有りといへど︑一杯惜しむ莫かれ暫時留まるこ

とを︒我は客中に在り病臥の枕︑君に逢ひ喜び極まりて隻涙流る﹂と︒

客中の病床にあると︑旧知の来訪は涙が出るほど嬉しかった届型︒

伊丹の酒の効験だったか︑間もなく詩佛は病床より起き︑九月

二十八日乗風軒での小集に参加した︒西皐の他空翠吟社も参加した

侭型︒晩秋ともなると山はすっかり紅葉し︑里でも気の早い木の葉

は紅葉を始めていた︒この日は晴雨が目まぐるしく入れ替わる日で

もあった︒それでも初冬の寒雷は冬の味覚であるズワイ蟹も届けてそうかいこうかんひとたすはくさんくれていた︒詩佛の詩にいう︒﹁早蟹香柑は齊しく酔いを佐け︑白杉 再北遊の時と違って︑詩佛を迎える人々の熱気は︑三度目となるとどこか醒めていた︒大森氏が﹁大窪詩佛ノート﹂で︑今回の北遊が期待した程の実入りが得られなかったと︑壽阿彌の手紙を引用して

きやくかい述べておられが︑﹁客懐の孤なる﹂という述懐は︑感傷のなせる業だ述べておられが︑﹁客懐の孤なる﹂

けではなかったのかもしれない︒

・りんぽ十月一日も雨天だったが︑楠芸圃の紅梅楼で酒宴があり︑玉欄の

描いた﹁松亭煮茶圖﹂を見て分韻した︵注型︒空翠社中も参加し︑西

皐は七律を一首詩佛は二首賦した︒芸圃は︑金沢下堤町に居した町

うんだい会所役人で商買︒父芸台は書を善くし︑藩候より八大字を害すよう

求められ激賞された︒芸圃も詩書を嗜んだようであるが︑その事蹟

は詳かでない︒

しひ翌二日は五佛精舎で︑﹁洗浄詩腓萬古塵﹂を分韻して小集が持たれ

た扉翌︒雨が上がったので急速催されたのであろう︒寺町の高台に

あったと推定される五佛精舎から眺めると︑目一杯に雲を染めて沈

む夕陽が︑山々の色槌せつつある紅葉を染めるのが見えた︒﹁此の興︑

偶然にして亦復し難し︒愁ひ聴く昏鐘と暮鼓とを﹂とは西皐の慨嘆

であるが︑この偶然のなせる一時の美しさは留めようもなく愛おし

く吟社の胸を打った︒

翌日は小春日である︒致堂亭で︑詩佛に空翠社中を加えて小集が

持たれた︵注型︒小集では﹁水晶花瓶﹂﹁冬晴椅欄﹂が出題され︑各々こぱざくらに七律を賦した︒時にこの海菓園では冬櫻︵小葉櫻であろう︶が今

を盛りと咲いていた︒

えぼうひぐれせかや

烏帽は寒を知らず︒感勲の鐘鼓よ暮を催すことを休めよ︑楽事と賞

けんへい心は兼井すること難きに﹂と︒日も暮れると外は雨風が吹き荒れ︑﹁風

くつばん威は坐を侵し雨は蘓濫たり︑山影は杯に落ち雲は屈盤﹂として夜の

暗さをいや増しにしていたが︒

加賀での詩佛十月十一一までI

(9)

秋日桜花横山大夫席上作詩佛

侵凌霜雪挽回春誰手能従天上分俗眼相逢驚異事道人無術策奇勲

一枝豊質瓊璃艶満院和風蘭霧薫

銀燭光揺花影韓酔中呼倣博山雲

しんりょうよ

霜雪を侵凌して春を挽回す︒誰が手か能く天上従り分かてる︒いじきくん俗眼は相ひ逢ふて異事に驚く︒道人も術無し奇勲を策するに︒いつしけいようえんま人いんらんじゃくん一枝の豊質瓊璃の艶︒満院の和風蘭癖の薫︒銀燭の光揺れて

花影韓じ︒酔中に呼び倣す博山の雲と︒

前日までの冬模様を押しのけて︑小春を天上からもぎ取ってきた

こぱざくらのは︑一体誰の仕業か︒人々は冬に咲く小葉櫻の珍現象を見て驚き︑

俗世を捨てた詩佛にもこの珍現象の巧みを記すに術もない︒この清

楚で玉のごとき花々の美しさ︑そして庭一杯に満ちる欄や霧香の高

貴なかおり︒陽も落ちて紺青に空が深まってゆくと︑楼閣には銀製

の燭台に灯がともされ︑明りのほのめきで花瓶に挿した花影もゆら

ゆら揺れる︒それはさながら山形をした博山の香炉の煙が雲のよう

に立ちこめているのに似ている︑と︒

ちなみにこの日の出題に﹁水晶花瓶﹂もあったが︑この花瓶にもつねせいか櫻の一枝が挿してあったのかもしれぬ︒西皐の作にいう︒﹁毎に井華

こうけつふふれいへいしゆれんひかり

を貯へて清きこと皎潔︒常に花卉を街みて色は伶偲︒朱簾に影映り

さんらんれい

て築として月の如く︒銀燭に光揺れて燗たること星の似し﹂と︒﹁伶

へい僧﹂はわざおぎ︑つまり女優である︒瓶に寒櫻を挿した姿は︑さな

がら女優のごとくあでやかだというのである︒

翌四日も五日も雨だったが︑その頃空翠亭で小集が持たれ︑庭園 の﹁残月石﹂を参加者が詠じた︵注至︒残月石は空翠の命名になる︒その形は隻峰が屹としてそびえ立ち︑その中央は削り取ったように穴が開いていて︑夜明け方の月を望むようで︑また洞窟に龍が棲んでいるような趣も備えていた︒残月とは夜明け方の月で︑旅人は早朝この明かりを踏んで出立する︑その月である︒同時に︑夜中には天空に燦として輝く明月でもある︒同じ月の両面であるが︑これを明月のごとき詩佛と︑その詩佛に付かず離れず従ってきた空翠自身を投影させたものである︒詩佛の作にいう︵前半は略した︶︒

題野邨空翠残月石詩佛 楼前一片石苔封碧蝉蝶隻峰屹相望中訣似削成 只疑四更後未吐残夜明主人巧形容故以残月名 一日開勝筵酌酒酬石兄須待残月上莫惜残日傾 我是将帰客早晩上帰程千里幾峰繕夜行又暁行 暁行踏残月當動此時情想君對石起苦茗手自烹 烹茗與誰品吟詩有誰唐石兄元無言借君金石聲 金石有時砕莫背泉石盟 そうこうそうほうきつか

楼前一片の石︑苔封じて碧岬蝶︒墜峰屹として相ひ望み︑中は鋏けて削り成すに似たり︒只疑ふ四更の後︑未だ残夜の明を吐かず︒

ことさらいちにちしようえん主人形容に巧みにして︑故に残月の名を以てす︒一日勝筵を開

くせきけいむくすべからざんにち

き︑酒を酌み石兄に酬ゆ︒須く残月の上るを待ちて︑残日の傾くきていを惜しむ莫かれ︒我は是れ将に帰らんとする客︑早晩帰程に上らん︒い〃くほ︒つらんぎようこう千里幾峰雷︑夜行し又た暁行せん︒暁行して残月を踏むとき︑當

二ころで︑めいに此の時情動くべし︒想ふ君の石に對して起き︑苦茗手づからともしなこ書つ烹るを︒茗を烹て誰と與に品せん︑詩を吟ずるに誰有りて唐せん︒

−33−

(10)

石兄元と言無し︑君が金石の聲を借らん︒金石時有りて砕くるも︑

ちかい背くこと莫かれ泉石の盟を︒

自分は旅にある身で︑夜中に歩き早朝にも発たねばならない︒早

朝の旅立ちに残月の光を踏む時︑この夜の君の心情をしみじみと思

い出すだろう︒私が旅立った後︑君はこの石の見える部屋で起き︑

朝の茶を自分の手で点てる︒その時君は︑その茶の味を誰と品定め

するのか︒また時には詩を詠む︑その時誰に次いで詠むのか︒もと

より石はもの言わぬ︒だから私は︑君の金石の如き詩句を借りて応

えよう︒金や石は時が経てば砕ける︒しかし君よ︑岩と流水とが融

和して離れぬように︑我々も決して変わらず交わってゆこう︑と︒

ちなみにこの﹁残Ⅱ石﹂は︑﹁白氏文集﹂巻十二の﹁客中月﹂を基

げんに名付けられている︒﹁客江南従り来る︑来る時月弦に上る︒悠々た

り行旅の中︑三たび清光の圓かなるを見る︒暁は残月に随ひて行き︑

ともこころ夕には新月と與に宿す︒誰か謂ふ︑月に情無しと︑千里遠く相ひ逐

あしたいすいゆうべまち

ふ︒朝には渭水の橋を発ち︑蟇には長安の昭に入る︒知らず今夜の月︑

又誰が家の客と作らんかを﹂︒

江南より三ヶ月をかけて長安まで来た︒明け方は残月を踏んで歩

き︑夜は新月と共に宿をとった︒千里も遠くまで共に追っかけてき

こころいすいたこの月に︑一体誰が情を知らぬといえよう︒朝には渭水の橋で迎え︑

夜には長安の小径に沈むのを送った︒そして今夜は︑どこの家に宿

るのだろうか︑と︒旅の間中︑形影のように連れ添って来た月に己

の分身を見ながら詠じているが︑詩佛は己の去った後の空翠の寂蓼

と︑去って行く己の寂しさを重ねて詠じたのである︒

六日は雨だったが︑蓼齋の灘雷閣で詩宴が開かれている屈理︒こ の人は北遊の時にもこの閣で詩佛の送別をし︑その後も折りにつけて鶴山や西皐と詩宴を開いている一糀幻一︒この時は詩佛・鶴山・雪操・緑陰・立齋・空翠が参加し︑道本禅師の横幅の詩に次韻した︒緑陰は再北遊でも登場した目薬商を営む香林坊緑陰で︑家柄町人の一人︒立齋もまた富巨万を数えた商買で︑詩佛の北遊の度ごとに従って賦詩している︒次に西皐と詩佛の頸・尾聯を引いて二人の作風の相違を比す︒

十月六日蓼齋張宴於灘雷閣遼詩佛先生及鶴山雪操緑陰立齋空翠

詩友席上見中華道本横幅之詩各次其韻韓西皐

酔枕時遭灘瀬攪炊烟乍帯夕陽扁

荘然思渋詩難就雁字斜連落遠汀

すいちんだんらいみだすいえんたちまけい

酔枕は時に灘瀬の攪すに遭ふ︒炊烟は乍ち夕陽の扁を帯ぶ︒荘然

つつらなえんてい

として思ひは渋り詩は就き難し︒雁字は斜に連り遠汀に落つ︒

蓼齋別業次道本禅師韻詩佛

漁人網向深潭下酒店燈和淡謡扁

別有筆端難到虚灘雷震地落廻汀

しんたんおるひと

漁人の網は深潭に向かひて下し︒酒店の燈は淡需に和して扁づ︒

だんらいかいてい

別に筆端の到り難き虚有り︒灘雷地を震ひて廻汀に落つ︒

西皐はいう︑医王の峰々を遠望し︑松に囲まれて一段高みにある

高閣に酔ってとうとしていると︑時には早瀬のせせらぎの音にかき

乱されて目が覚める︒そして気がつくと夕謂が夕陽を浴びてこの閣

を包み込んでいるのだ︒この眺めに心も手も働きを奪われ︑雁が遠

くの水際に沈んでゆくのを目で送っているだけだ︑と︒

一方詩佛は︑灘雷閣を包む風光は水墨書のように幽遼で︑紅葉し

(11)

た木々は活ける風景画だと詠じる︒犀川では漁人が網を下ろし︑夕

謡があたり一面を閉じ込める頃︑酒店では灯を灯す︒そしてここ灘

雷閣では︑地を震わせてせせらぎが流れ落ちている︑と︒

この後︑詩佛の京へ出発する十二日までの動静は明らかではない︒

西皐の作や詩佛の作から推測するしかない︒ばんしようてい巌墨屏の蟠聲亭の松を詠んだのは︑六日後間もなくだったろうか

一注堅︒大抵の庭園では石泉が目を引くのだが︑ここではさながら龍

ほ一つすびもう

がトグロを捲いているような老松に︑佛子のように尾毛を垂れるさ

るおがせの寄生する松がメインの庭園だった︒墨屏は隣家の空き地

を買ってそこに書堂を移して詩を賦したりする︒この松はいかなる

苦寒にも耐え︑節操を守る君子の姿をしているが︑同時に︑主人墨

そうぜんそうそうぜんそう

屏の灰色の皆を蓄えた蒼寶翌たる姿そのものなのだ︑と︒蒼琶翌は

松の異名である︒

この後十二日までの期間︑西皐に︑榊原蘭所の﹁晩翠園﹂や﹁鱈魚﹂

を賦した作があり︑致堂にも同題の作があるから同時の作であった

ろう︒しかし詩佛の参加があったかは未詳である︒﹃詩聖堂詩集﹄に

は﹁津田大夫後園三勝﹂が記されているのみである︒

津田大夫は津田政本である︒致堂の正室蘭蝶の父で︑一萬石を

賜って家老に任じ加判︵重要書類に判を押す重要人物︶を経て︑文

政十二年七月に六十二歳で没した︒詩佛が三勝を選んだのは︑政本

還暦の時である︒蘭蝶は長女であるが︑十三歳で致堂に嫁し︑文化

十二年︵一八一五︶一月死産によって二十一歳で没していた︒この

年起きた大地震で︑身重だった蘭蝶が流産し︑その処置を誤って母

子共に亡くなったという一縦習︒横山家と津田家とは姻戚関係が強く︑ その関係で致堂を介しての依頼があったのであろう︒三勝は﹁不老磯.小蓬莱・仙客鳩﹂である︒津田家はかつて城の真下の大手町にあって︑閑雅ではあるが重厚で品位に満ちた邸で︵建物は現在兼六園管理事務所である︶︑三勝の風情を髻髭とさせる風格がある︒

またこの頃︑山中温泉にある医王寺の門前に建てる詩碑が相談さ

れ︑その碑文の浄書を詩佛が行った︒詩佛・致堂・林蕪玻・空翠の

作を各々の揮毫で刻したが︑詩佛の作は﹇詩聖堂﹈巻八﹁山中温泉雑詠﹂

の第四首目を選んだ︒碑の詩の後に﹁文政丁亥冬十月詩佛老人大

窪行﹂と記す︒文政丁亥は文政十年である︒詩碑は現在風雪で破損

が甚だしく判読し難い︒昭和十二年に刊行された﹁加賀山中温泉餘香﹂

によって︑詩佛以外の作を示す壽鮒一○

○抱病帰来天一涯縄能無蓋菫形骸

今年試浴温湯水便覚鵠中初正佳壬辰仲春致堂

○霊泉沁骨四支温養病工夫在省煩

飯罷成眠々罷浴日将三事送朝昏燕玻林礁

○伴家此地一旬留毎得霜晴儘出遊

烏繧紅林愉眼下水當白石快心流

尋碑此院逢僧話迎客杯盤與婦謀

不妨山村新醸薄掃除塵事自無憂空翠野邨圓平

まさもと更にこの期間︑成瀬当職のために﹁松濤観十二勝﹂も選んでいる︒

ともかく十月に入って︑発つまでの時間はあっという問に経った

のではなかろうか︒十二日に金澤を発ち京華に向かう詩佛を︑吟社

こぞって布市邨︵現在の野々市市︶で見送った︒時に西皐が詠う︒

十月十二日送詩佛先生赴京華吟社相送到布市村分手先生有詩云

− 3 5 −

(12)

不音人々憐老子天公亦識自多情却将連日風兼雨変作今朝燗慢晴

次其韻韓西皐

送君城外二三程水態山光総是情

定識風師作前導今朝初放小春晴

ていい︶ょ・っ君を送る城外二三程︒水態山光総て是れ情︒定めて識る風師前導

を作すを︒今朝初めて放つ小春の晴︒

詩佛を送って野々市村まで来たが︑ここから眺める山水の風景は

全て別れを惜しむ私たちの心のように︑連日の雨でしっとり濡れそ

ぼっている︒だけど今日は詩佛先生出立の日なので︑風伯はその先

導をなして燗漫の小春日を連れてきてくれた︑と︒出立の日は小春

の快晴だったのである︒

空翠と墨屏が送って山中温泉まで来てくれた︒ここで数日滞在し

ていると︑鶴山・西皐・立齋・緑陰から七律が贈られてきた︒詩佛

はこの作に次韻し︑また送ってきてくれた二子との留別の作とした︒

﹁明朝是従り携し去る︒多少の情懐を此の詩に付す﹂とは︑詩佛の留

四人から贈られた七律は︑たまたま四人が鹿心齋で詩佛帰後の空

虚を癒すために集まっていた時︑その思いを託して贈ろうというこちよ・っだんかんそうようらくとになったのである︒その時の西皐の作にいう︒﹁聴断す寒聰に揺落

りょうじゃくていすいかんしよう

の時︒騒壇は蓼寂として低垂を惜しむ︒前遊は猶ほ閑宵の夢に入り︒

ちぼめいかい

遅暮は偏へに別後の知に関はる︒盟會は尋ね難く燭を韓じる如し︒

ちしんやゆすしよう

馳心は息まず旗を揺るに似たり︒言を寄す︑心賞山中の勝に︒新蕾

いくばく還た題を添ふ幾の詩ぞ﹂と︒

この詩が届いて間もなく詩佛が発ったと思われるが︑山中温泉に 別の辞である︵注3︒

この再々北遊を限りに詩佛は金澤を訪れなかった︒しかし加賀文

人達との交流は決して途絶えたわけでもない︒最後にこの後の加賀

文人との交流を窺い見て本稿のまとめとしたい︒

致堂はこの翌年の文政十一年十一月︑詩佛から﹁詩聖堂二集﹂を

寄贈され感謝の作を賦贈している︵注習︒ちなみに出版はその年の秋

九月か十月頃と推定される︒その後天保元年︵一八三○︶八月︑致 滞留中にも大聖寺専称寺の含雲に招かれている︵注型︒詩佛・梅屋・空翠・墨屏の他︑多数の大聖寺の文人も参加していた︒含雲とは再北遊の時にも会っている︒山陽門に入って詩を能くし︑書竹や茶事も嗜んで︑茶は藩主の指南に当たるほどであった︒含雲の作は見えちゃろようぬが︑梅屋の作がある︒﹁坐して茶鑪を擁して話は生ならず︒留連し

ただろうせいどうとうとくしょくるい

て但ただ漏聲の鳴るに任す︒毫頭は巳に禿して衰態を観る︒燭涙は

くつじようかんどさいあた

頻りに流れて別情に管す︒老に随ひて駕才の拙劣を憐れみ︒今に抵げいいんごうえいりて鯨飲の豪英を羨む︒肺肺を包蔵して深きこと海の如く︒一たびまんい騒人に許して漫意に傾むく﹂と︒

本詩は詩佛出立の前日頃の作だったろうか︒蝋燭が燃え尽きると

詩佛を送らねばならぬ︒だから酒宴が終わってお茶の席にならぬよ

うに︑茶壺に蓋をして抱え込み時の進みを留めてみようとする︒し

かし時を告げる鐘は心なくも鳴り響く︒毫毛の先もすり切れたが︑

それでも鶯才には心ゆく詩もままならず︑心も落ち着かずそわそわ

するだけだ︑と︒

おわりにIその後の加賀文人たちI

(13)
(14)
(15)

参照

関連したドキュメント

 大正期の詩壇の一つの特色は,民衆詩派の活 躍にあった。福田正夫・白鳥省吾らの民衆詩派

鶴亭・碧山は初出であるが︑碧山は西皐の四弟で︑父や兄伊東半仙

噸狂歌の本質に基く視点としては小それが短歌形式をとる韻文であることが第一であるP三十一文字(原則として音節と対応する)を基本としへ内部が五七・五七七という文字(音節)数を持つ定形詩である。そ

1A 神の全知 1-6 2A 神の遍在 7-12 3A 神の創造 13-18 4A 神の救い

のうちいずれかに加入している世帯の平均加入金額であるため、平均金額の低い機関の世帯加入金額にひ

[r]

私たちは、私たちの先人たちにより幾世代 にわたって、受け継ぎ、伝え残されてきた伝

彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に