第三章 二智義が説く甚深の仏法と修道
第三章では﹁二智義﹂の理論的な内容と修道論を考察する。二四はインドで般若・無罪 といわれ、中国では慧・方便とか実智・権智とか呼ばれる。二智義の理論的側面は、般若 と曽和との相互関係や、二諦と当主の関係を論究することが中心である。これは﹁二型﹂ を取りあげて、三論宗の中心思想である﹁空性﹂をさまざまな角度から考察することにつ ながっている。 次に二智義の修道論的側面について考えてみる。インド大乗の中観学派は、縁起・無自 性・空を説き、これを勝義諦として強調したが、中観学派の教学体系の中に修行や行道の 思想は希薄である。このため後期の中観学派は、喩綿虫派との論争の上から空性の原理と 共に、空性という境地に到達するための修行や行道の体系を確立する必要にせまられてい た。インドにおいては蓮華坐︵内pヨ至聖審 七四〇∼七九五年頃︶や獅子賢︵斜壁げ冨酔螢 人世紀 末頃の活躍︶がその要請に応えようとしたが一、嘉祥大師の二か年も三論宗として修道の体系 を確立しようとした思索の一環であった二。このような観点から嘉祥大師の二智義を、仏 法の真実義に到達するための修道の体系として考察していきたい。84
2第一節 般若と涯和
第一項般若と絶観の般若について ︿その1 般若と智慧と絶観について﹀ 般若層a裁は通仏教的には、直観的・直証的な智慧のことをいう。この智慧は﹁智﹂と ﹁慧﹂とに分けて考えられ、平等の中に差別を見るはたらきを﹁智﹂または﹁骨質﹂旨碧薗 というのに対して、一切事物の平等なことを証することを﹁慧﹂窟且裁という。 六波羅蜜の第六にあげられる般若波羅蜜は、一切諸法の実相を望見する完全な智慧を指 しているが、菩薩の修行の一環であるからなお因位にあり、無為ではなく有為と考えられ る。一方、仏の三徳三のひとつとされる﹁般若徳﹂の般若は、果位における平等の智慧で あり、仏智であるから有為ではなく無為である。嘉祥大師は﹃大乗言論﹄巻四において、﹁般若﹂の漢訳について﹁智﹂﹁慧﹂﹁智慧﹂等々 があり、古来、中国の論師がさまざまな観点から諸説を説いていることを列挙している。 そしてそれらの長所・短所を述べた後に、般若を漢訳する場合には﹁慧﹂とするのが正し い翻訳であると述べている。 慧ヲ爲ニス正翻一ト。鯨ハ皆ナ義立ナリ。 ︵大正四五・四九中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ ところが嘉祥大師は般若の漢訳として智慧・智・雲霞のいずれをも用いることなく、般 86 2 若・波若という音響語をそのまま用いている。その理由は、智慧・智・慧等の言葉は、嘉 祥大師が般若の本質的な意義とみる﹁警士の般若﹂を充分には表現していないと考えたか らである。般若と智慧の違いを考察してみたい。 般若の体は実相や観智を超越しているが、智慧はなお古義に留まっている。般若は言語 表現を超越しているが、智慧はなお言語表現のなかにある。 波若ノ膿ハ絶ニシ縁.観心ヲ。智慧ノ名自主ニトス於観一ヲ。波若ノ饅ハ絶ニシ智・愚一ヲ。智慧ノ名
ハ主ニトス知照一ヲ。波若ノ腔ハ絶ニシ名字一ヲ。智慧ハ則チ猶オ渉ニル名言一二。 ︵大正四五・五〇中︶ ︵﹃ 蜿謖コ論﹄三四︶ 智慧は新しい知識や経験したことのない境地を求める心のはたらきであって、修行者が 持つ通常の心のあり方を述べたものである。これに対して、絶観の般若は画期的な境地に 到達した特別の感動を含んでいる。 智慧ハ是レ知照ノ之名ナリ。豊二能ク稻ニハンや絶観ノ般若一二。 ︵大正四五・五〇上︶ ︵﹃ 蜿謖コ論﹄巻四︶ それでは﹁絶観﹂とはどのような心境を示す用語なのだろうか。それは高山の頂上に登 って、雲海の彼方に、登山の途上とはまったく異なった新しい風光を目にしたときに感じ る、あの高揚感をあらわしている。まったく新しい風光を目にするといっても、それは自 然のありのままの姿に直面するにすぎない四。今までは隠れて見えなかったものが、本来 の姿として見えたということを言いあらわしている。貧欲・瞑下心・愚痴等が脱落して、不
生不滅という諸法実相が姿を顕すことである。﹁絶観﹂は心の転回を伴い、その結果として ﹁雑染﹂と﹁清浄﹂の境目が消滅する。﹁絶観の般若﹂は、鍮御行派のいう﹁転識得智﹂や ﹁転依﹂と同じ内容を論じているように思われる。 菩薩は修行のある段階で般若を得て、煩悩と菩提とは同一のものであることを覚知し、 ﹁貧欲ハ本來寂滅ニシテ自性清浮ナリ。即チ是レ實相ナリ﹂︵大正四五・五六上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶と了悟 する。このとき、実相の﹁境﹂と般若の﹁観﹂は不二となり、﹁境ト智トハ不二ナリ﹂︵大正四五・ 五六上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶と正しく理解する。このような理由によって、般若は重とも深とも 88 2 称せられるが、智慧は軽とか浅とか名づけられる。 故二封ニシテ波若ノ之重一ナルニ。明二ヵシ智慧ノ之混一ナルヲ。袖判シテ波若ノ之深一ナルニ。論理ズ智慧 ノ之淺一ナルヲ。淺ハ猶オ薄ナリ也。 ︵大正四五・五〇中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ ︿その2 般若と実相の関係﹀
般若の重要な意義は﹁実相﹂を照らし出すことである。三論宗において実相とは八不に よってあらわされる甚深の仏法のことで、真如・法性・実際等を指している。この実相を 照らし出すのが般若であるから、般若は﹁能照﹂であり、照らし出される実相は﹁所照﹂ である。 波若ハ照孔フセバ實相ノ境一ヲ。從ニテ所照一二爲レス名ヲ。故旧稻シ陽爲レス實ト。 ︵大正四五・五〇下︶ ︵﹃ 蜿謖コ論﹄巻四︶ 般若のもうひとつの意義は、 うのに対して、般若は﹁所生﹂ よって生じられる。 実相より生じることである。従って、実相を﹁能生﹂とい といわれる。すなわち、実相は般若を生じ、般若は実相に 波若ハ從ニリ實相︸生ズレバ。從ニテ能生輔二受レク名ヲ。故二稻シテ爲レス實ト。 ︵大正四五・五〇下︶ ︵﹃ 蜿謖コ論﹄巻四︶
﹁大きい﹂という形容詞はサンスクリットでは通常3島卑または正野劃であるが、これ は漢文では﹁摩詞﹂と音写される。波若にこの摩詞をつけた﹁摩詞般若﹂は大般若をあら わしている。﹃大乗玄論﹄巻四は﹁般若を摩詞という十義﹂を論じている。その第一に前述 した般若と実相の関係があげられている。般若は実相を照らし出すといわれる。この実相 はわれわれの世界のあらゆるものを包摂する広大なものである。この点から般若は﹁摩詞﹂ と名づけられる。しかし、方便は実相を照らし出さないので、﹁摩詞方便﹂とは呼ばれない。 一二二者實相上略ニシーア而無レク邊。深ニシーア冷血レシ底。無レシ有三ルコト一法トシーア出ニヅルモノ法性ノ 蜘 外一二。波若ハ照門フスが試筆相一ヲ故二名ニケ大弓一ト。湛和五礼レモ巧ナリト。不レルが照一∼フサ實二一 ヲ故二不レ名レケ大ト。 ︵大正四五・五一中︶︵﹃大乗史論﹄巻四︶ ︿その3 般若を摩詞という理由について﹀ ﹁般若を摩詞という十義﹂の中から﹁般若と実相との関係﹂以外のものを四つ選んで考
察する。四つの内容は次の通りである。 ︹一︺ 般若は仏果に直進する。 ︹二︺ 五十二位の階位は般若一つに摂まる。 ︹三︺ 三大阿僧祇劫という時間をかけて修習する。 ︹四︺ 二乗が断ずることのできない大惑を断じる。 ︹一 l般若は仏果に直進する。 般若には執着するものは何もないので、欲界・色界・無色界に留まることなく直に仏果 に向かう。また、声聞や縁覚の境地に安住することなく、究極の仏果に向かって突き進む。 このようにみずからが真理に直進する模範となって、衆生を善道に導き入れる﹁引導﹂の 力を持っている。この点から般若は三叉と名づけられる。 ︹波若ハ︺無品キが所記一二二不レ住ニセ三界酬二。不レシテ中二息セニ乗一二。直二叩肉ク佛道一二。 以レテノ有ニルヲ引導ノ之能一女二。名ケテ爲レス大ト。︵大正四五・五一下∼五二上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶
︹二︺五十二位の階位は般若一つに摂まる。 次に修道の階位には通常五十二位五が数えられるが、この五十二位は般若ひとつに勤め られる。真理はただひとつの般若の観智の中にあるが、修行者の境地にはおのずから明暗 があり浅深がある。その明暗を分かりやすく説くために仮に五十二位に開くのであり、収 めればひとつの般若の中に入る。この点から般若は﹁摩詞﹂である。
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2 四ニハ者五十二種ノ大賢聖位ハ在ニリ波若ノ観ノ中一二。故二名ヶテ爲レス大ト。二二書止然一ル者。 今即チ唯一ノ波若ナリ。但ダ明昧不同ナル故二。開イテ成ニル五十二位一ト。 ︵大正四五・五二上︶︵﹃大乗三論﹄巻四︶ ︹三︺三大阿僧祇劫という時間をかけて修習する。 大般若は三大阿僧祇劫という無限の時間をかけて修習されるので﹁大﹂と名づける。三大阿僧祇劫二軍ニスルが此ノ大事一ヲ故二名ケテ爲レス大ト。︵大正四五・五二上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ ︹四︺二乗が断ずることのできない大惑を断じる。 般若は大惑といわれる無明を断じる力を持っているので、﹁大﹂と名づけられる。 能ク飾ニズ大惑一ヲ。所謂無明ナリ。是ノ故二経二六云フ。無明住地ハ其ノ力最大ナリ。二乗ハ錐レ 鵬 モ傾ニクト四二一ヲ。未レ能レワ断レズルコト之ヲ。菩薩ハ照二窮シテ實相一ヲ。方二除ニク此ノ大惑一ヲ。 薬圃名ケテ爲レス大ト。 ︵大正四五・五二上︶︵﹃大乗試論﹄巻四︶ ︿その4 般若と捏繋の異同について﹀ ﹃大乗運勢﹄巻四は般若と浬盤小との異同を論じている。般若と浬藥とはその内容に多く の共通点を持っているが、基本的には全く異なっている。前堂は滅度壁主僧であり、苦悩
や煩悩が完全に消滅した悟りの心境を示すものであって、これは仏果であり、席亭におけ る究極の境地を意味している。一方、般若は有為の智慧であって、修行という因位におけ る未決了の境地である。浬藥の果位に対して、般若の因位というのが、浬藥と般若との基 本的な相違点である。 浬繋ヲ名ニク滅度一ト。滅度トハ者大患が永ク滅シテ超二度ス四流刷ヲ七。此ノ名ハ必ズ是レ究寛ナリ。 故二就ニク果門一二。波若ヲ名ケテ爲レス慧ト。慧ハ猶オ未ニズ決了一セ。宜シク約レス因二二。 ︵大正四五・五二下︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶
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2 般若と浬藥とは因位と皇位という違いはあるが、その内容において共通するものを持っ ている。それは仏の三徳を倶に備えていることである。仏の三徳とは、︵一︶煩悩を滅尽し ている﹁解脱﹂と、︵二︶真理の境をことごとく照らし出す﹁般若﹂と、︵三︶仏道を極め つくした後にあらわれる究極の真理としての﹁法身﹂の三つを指している。いうまでもな く浬繋は仏の三徳をその内容としているが、般若も因位にあって仏の三徳を極めつくすこ とを目指している。この点からみると、般若も仏の三徳をその内容とするとみることができる。 浬繋ハ無ニケレバ累トシテ不一レルコト蓋サ名ニケ解脱一ト。無ニケレバ境トシテ不一レルコト照サ名ニケ波若贈ト。 眞極寒軌ナルヲ稻ニス法身一ト。故二道ニスルヲ於三徳一ヲ名ケテ爲ニス浬藥一ト。波若ハ即チ是レ浬藥 ナリ。故二亦タ具ニス三徳一ヲ。 ︵大正四五・五二中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ つまるところ、﹁仏﹂と﹁般若﹂と﹁浬繋﹂の究極的な内容は一相であって異なるもので
はない。 95
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観ニズレバ佛ト波若ト及ビ浬繋一ヲ。是ノ三十即チ一相ナリ。 ︵大正四五・五二中︶︵﹃大乗言論﹄巻四︶ 般若は有為ではあるが無漏であり清浄であるので、喩伽行派のいう﹁無分別智﹂と同等 のものと考えられる。第二項 涯和について ︿その1 温和の意味﹀ 濯和ξ9僧は通常、倶舎羅ざ重事と合わせてひとつの用語として用いられる。このとき、 湛和は方便と漢訳され、倶舎羅は勝智と漢訳されるが、この匿分は必ずしも明確ではない ので、通常は湛和倶舎羅をひとつの概念として理解する。般若はもっぱら実相を照らし自 利をまっとうする悟りの体として用いられるが、涯和倶舎羅は善巧・無智をもって衆生を 96 2 教化する悟りの﹁用﹂として用いられる。 湛和ヲ爲ニシ方便一ト。倶舎羅ヲ名ケテ爲ニス勝智一ト。波若ノ之巧ナルヲ名ケテ爲ニシ涯和一ト。其ノ 用量二勝レタレバ名工ク勝智一ト也。 ︵大正四五・五〇下︶︵﹃大乗聖誕﹄巻四︶ 翌翌巌窟魯は﹁近づく・到達する﹂ロ冨函という動詞の変化した名詞形であって、人があ る目的を達成する方法や手段を意味する。方便について山口無爵は、﹁真如が清浄世間智と
して人間に到達し、人間に近づき、人間はそれを道とし、たよりとして真如に至らしめら れることである﹂八と記している。従って、方便は本来は真如であり仏の智慧であるが、 嘉祥大師においては露地の階梯にいる菩薩の修行との関係において論じられる。たとえば、 ﹃浄名玄論﹄巻四に次のような記述が見られる。 二智ハ濁リ菩薩ノ法ナリ。故二般若ハ不レ属ニ三絶乗.佛一二。但ダ属ニス菩薩一ニノ、、、。般若ノ之巧 ナルヲ。名ケテ爲ニス涯和一ト。 ︵大正三人・八七六上︶︵﹃浄普賢論﹄二四︶ ︿その2 方便は空性に安住しない﹀ 嘉祥大師は﹃大乗玄論﹄巻四において、﹁方便を善巧とする十対﹂を明かしている。この 中から方便の特性を明確に示すと思われるものを選んで考察してみたい。まず第一に、般 若は空・実相を照らし出す智慧であるが、方便は空性を明瞭に知りながら空という境地に 安住することなく、衆生の有所得を理解しながら有所得に染汚されることのない力のこと である。しかも、般若の能照と方便の善巧とは、別個の二体ではなく薄恥は善巧を裏付け
とした能照であり、善巧は能照を裏付けとした善巧である。 一ニ話者直二照孔フスヲ空有一ヲ名ケテ爲ニシ波若一ト。行レズルモ空ヲ不レ誰セ。渉レルモ有二無レキが著 故智。名ニク方便一ト。此ノ斗星ト巧ト更二無二シニ膣一。錐レモ巧ナリト而モ照ナリ。故二名ヶテ爲レス 實ト。錐レモ照ナリト而モ巧ナリ。故二名ニク方便一ト。 ︵大正四五・五〇下︶︵﹃大乗無論﹄巻四︶ ︿その3 方便は有所得に渉る﹀ 般若は空を照らし畢尭空と一体化する能力であるが、方便は畢尭空の境地から飛び出し て、衆生の有所得の世界に入り込もうとする﹁はたらき﹂である。しかも、般若と方便と は不離不即であり、能照を強調するとき般若となり、このとき善巧は後ろに隠れている。 善巧を強調するとき方便となり、このとき能照は表面に顕れない。般若と方便とは隠顕の 関係であって別個の二体ではない。 平均ハ者照レスヲ空ヲ爲レシ實ト。渉レルヲ有二爲ニス方便一ト。如丁ク童男二九二天フが波若ハ將二入孔フ
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2ントシ畢尭空一二。方便ハ將二重乙ゲントスト畢尭空甲ヲ。以ニテノ空回是レ實隅一ナルヲ故二。名ケテ爲レ シ實ト。波無心照㌧空ヲ故二名ケテ爲レス實ト。錐ニモ復タ照一ヒフスト空ヲ。即チ能ク渉レル有二。此ノ 用既二巧ナレバ名ケテ爲ニス方便一ト。 問フ。若シ爾フバ強酒モ復タ照一レスト有ヲ即チ能ク窒レム空ヲ。此ノ用亦心懸ナレバ磨ニシ是レ方便一軒置。 答フ。此ノ三毛レモ巧ナリト。但ダ實智ノ、、、ヲ爲レスが髄ト故旧。隠ニシテ其ノ巧ノ名一ヲ與ニフルナリ其ノ 實ノ稻一ヲ也。 ︵大正四五.五一上︶︵﹃大乗高論﹄巻四︶ ︵その4 方便は外に反動する﹀ 般若と方便との特性は、内に静かに真理を味わう実智と、自分の得た真理を衆生に向け て発信する権智として表現される。嘉祥大師は前者を﹁内に静鑑﹂と名づけ、後者を﹁外 に反動﹂と名づけている。般若も方便も智慧であって互いに入り込んでいるので、般若に も﹁反動﹂の一面があり、方便にも﹁静鑑﹂の側面があるが、基本的には般若の特性は﹁静 鑑﹂であって、方便の特性は﹁反動﹂である。般若と方便との浅深を考えるとき、般若は 実相を照らし方便は事相を照らすので、般若がより深く方便はより浅いと考えられること
が多い。しかし、三論宗においては方便がより深い智慧であり、般若がより浅い智慧と考 えられている。これは自利に重きを置く般若よりも、衆生教化を中心とする方便を重視す る結果である。 静鑑と反動について﹃大乗玄論﹄巻四はその内容を次のように警衛している。すなわち、 能照にしろ善巧にしろ、内に静冷する義を実智となし、外に反動する義を権智とする、と。 般若も方便も倶に深い境地であって、両者を区別することは避難であるが、仮に実相を照 らす側面を強調したとき般若・実智といわれ、善巧の側面に焦点をあてたときに方便・権
智と説かれる。 00
3 三ニハ者以ニテ内二静塞一スルヲ爲レシ實ト。外二反動スルヲ爲㌧椹ト。 問フ。此ノ義ハ與レ前何ノ異アリヤ。 答フ。此仁恩下ス若シクハ照モ若シクハ巧モ静竪ノ之義ヲ皆ナ名ケテ爲㌧實ト。以ニテノ外二反動一スルヲ 故旧名ケテ爲上レスコトヲ槽ト。 ︵大正四五.五一上︶︵﹃大乗画論﹄巻四︶ ︿その5 方便は有行を主とする﹀次に空解と法燈︵修行︶の観点から般若と方便とを考察する。空解とは空性を解する智慧 のことであり、準行とは実践的な修習を積むことである。三論宗では般若・方便を通じて、 空性を理解する空解を実智と呼び、実践的な有行を鐙革と呼んでいる。般若にも権勢があ り、方便にも実智があるが、基本的には実智は般若の主な役割であり、権智は方便の主な はたらきである。六波羅蜜を考えるとき、﹁般若波羅蜜﹂は実智であって般若に配当され、 般若波羅蜜を除く﹁五つの波羅蜜﹂は修行であって権智に配当される。 四ニハ者波若ヲ爲レシ實ト。五度ヲ爲ニス方便紳ト。所司以油然一ル者。波若ヲ爲ニシ空解一ト。空解 ナルが故二名レク實ト。五度ヲ爲ニシ有行一ト。昼行ナルが故二名レク槽ト。︵中略︶今ハ約ニシテ解ト行網 ト酒興テ開ニキ寸法一二。空解ヲ儒レシ實ト有行ヲ爲レス権ト。︵中略︶錐ニモ復タ照一レーフスト空ヲ即チ能ク 起レス行ヲ。此ノ義黒目巧ナリ。故二爲レス権ト。又タ空ハ是レ實相ニシテ有ハ垂下ズ實相一二。故二空 解ヲ爲レシ實ト有行ヲ爲レス槽ト。 ︵大正四五・五一上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ ︵その6 方便には化他のはたらき溺ある﹀
二乗の人が証する空性と、大乗の菩薩が証する空性には、空性の深さにおいて違いがあ り、空性を体得する姿勢において異なりがある。二乗の人は自分の得た空性を最高のもの としてそこに安住する。大乗の菩薩は空性に安住することがない。空性に安住しないこと を、﹁空を証さず﹂とも﹁空を空ずる﹂ともいう。空もまた空と知ることを﹁不可得空﹂と もいう。権智・方便智を自分のものとする大乗の菩薩が、化他の能力を備えているのであ って、空性に執着する二乗の境地から化他のはたらきが生まれることはない 02 3 二都町不レシテ知レーフ空ヲ。亦タ復下説レテ空ヲ爲ニス妙極一ト。故二名ニク空昼鳶空一ナリト。所以二謹 レスル空ヲ菩薩ハ知ニレバ空モ亦タ空一ナリト名ニク不可得空︸ト。故二不レシテ謹レセ空ヲ即チ能ク渉レル 有二。競走名ケテ爲レス権ト。此ハ明下ス直二知ニルヲ空ノ義一ヲ爲レセバ實ト。實ノ義塾即チ劣ナリ。知ニ リテ空モ亦盲管一ナリト即チ能ク渉レル有二。此ノ用既二勝ナリ。故二名ケテ爲上レスコトヲ椹ト。 ︵大正四五・五一上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ ︿その7 方便は空も有も照らす﹀
般若と方便の関係を次のように表現することができる。空と有との双方を照らし出す力 を方便と名づける。上空と非有の不二・相即を照らし出す能力を実智と名づける。非空非 有は仏法の真理であり、二実着﹂と名づけることもできる。この一実諦を照らし出す力は 実智・般若である。真実には鐙革非有であるとしても、現実の世界に目を向けると、そこ には明瞭に空と有との差別が存在する。真実の非空非有の不二を理解しながら、現実的に 空と有の差別に通暁する善巧・勝智を方便と名づける。 以三テ上ノ照二一フスヲ空有ノ二一ヲ爲ニシ方便一ト。照二一フスヲ受託有ノ不二一ヲ爲レス實ト。非空非有ハ 即チ是レ一理諦ナリ。照一㌔フスが一實諦一ヲ故二名ケテ爲レス實ト。錐ニモ非四温有一ナリト。而モ空。 有宛然タリ。不レシテ動ニゼ不二一ヲ。善巧ハ能クニナリ。故二名僧ク方便一ト。 ︵大正四五・五一中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ ﹁方便を善巧とする十対﹂の中から重要なものを考察した。それによると、方便は空性 に安住することなく、衆生の有所得を理解しながら有所得に染汚されることがないので、
衆生を教化する善巧を備えている。 第三項 般若と方便の関係 ﹃大乗国論﹄巻四はさらに、般若と方便の特性や相互の関係を説き明かしている。 中から重要と思われるものを選び出して考察してみたい。 その
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3 ︿その1 般若の四力と方便の三力﹀ まずはじめに ようである。 ﹁般若の国力﹂ と ﹁方便の三王﹂について検討する。般若の四聖とは次の 波若二略シテ有ニリ四力一。 一ニハ者照孔フス實相一ヲ。ニニハ者無レシ所レ著スル。 三ニハ者断ニズ諸惑噸ヲ。 四二ハ者能ク導ニク方便輔ヲ。 ︵大正四五・五四上︶︵﹃大乗暴論﹄巻四︶ 般若は諸法実相のうち、直に真理である実相を照らし出す。実相には執着すべきものは 存在しないので、般若にも執着するものは何もない。従って一波若には煩悩や惑は存在し ない。この般若が方便を導く。このような般若の四坐の中で特に重要なのは、方便を導く 能力であろう。仏教の目的は衆生を教化し、修行を開始させることにある。この衆生教化 05 3 は方便のはたらきであるから、方便を導く波若の力は特に重要なものである。 由レリテ不レルニ見二一切ノ相一ヲ。而モ見ニル野相一ヲ。首相ハ既五礼ニケレバ所依一。即チ波若モ亦タ 無ニシ所著一。以レテ無ニキヲ所著一。衆智寂然タリ。以レテノ無レキヲ累故二。能ク心隔ィテ方便一ヲ。 令ニム渉レテ有二無一レ密フ染。 ︵大正四五・五四上∼中︶︵﹃大乗玄翁﹄巻四︶ 次に不便の三力は次のようである。
一ニハ有ニリ照レーフス境ヲ之功一。 ニニハ有ニリ不レル諮レサ空ヲ力一。 三ニハ起行ノ之用アリ。 ︵大正四五・五四中︶︵﹃大乗玄論﹄二四︶ 方便は般若と不即不離であるので、般若と同様に﹁諸法に裏付けられた実相﹂を照らす 能力を持っている。しかし、方便は実相を照らしながら空性を証せず、空性と一体化する ことはない。方便は空性から飛び出して、衆生を教化することをその役割としている。こ 06 3 れを﹁起行の用﹂と名づける。方便の三力の中で特に重要なのは壮行の用であろう。修行 をはじめることは仏道の最終目的である開悟につながるからである。﹃大乗玄人﹄巻四は方 便を﹁畢尭空を飛び出して仏国土を荘厳し、衆生を教化する﹂と説いている。 波若ハ照孔フシ諸法ノ實相一ヲ。方便ハ能ク照一㌔フス實相ノ諸法一ヲ。故二不レルヲ沈ニマ空観一二。名 ヶテ爲レス不レト謹セ。如ニシ繹論二+云一フガ。波若ハ墨画入戸リテ畢寛空一二無二ク諸ノ戯評一。方便 ハ二二出ニテ畢寛空一ヲ嚴レリ土ヲ化レス人ヲ。 ︵大正四五・五四中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶
︿その2 般若は初回で、方便は第七地で得られる﹀ 次に、菩薩の十地の階位に則して般若と方便との関係を考察する。菩薩は初地において 真如の一分を得て悟りを開く。しかし、量地における般若の力はまだ弱く、階位を登るに つれて般若の力は徐々に強くなる。第六地に至ったときに般若の体は充分に強くなるが、 第六地における﹁方便﹂の用はまだ微弱である。第七地に到達したときに、はじめて般若 の体と方便の用とは等しくなり、衆生を教化する方便が充分な力を持つに至る。このよう 07 3 に般若は初地において得られ第六地に至るまで徐々に強くなるが、方便が充分なはたらき を持つのは第七地以降である。三論宗では般若を初地から第六地に配当し、方便を第七地 以降に配当している。般若は自行の領域にあり、方便は化他の領域にあるので、般若より も方便をより深い境地であると考える。 見地一望ニムレバ地前輔二即チ拉ブ。形ニブレバ七地一二即チ未レズ拉バ。所二面ハ然一ル者。初地割來 ハ。即チ得ニテ無生一ヲ動寂無念ナリ。但ダ寂ノ義心堅強ニシテ動ノ用ハ微弱ナリ。故二云レフ未レト並
バO 至ニテ於七二一二。示寂無磯ニシテ。二無双遊ス。 故入構レスノ、、、並ブト耳。 ︵大正四五・五四下︶ ︵﹃ 蜿謖コ論﹄巻四︶ 六地ノ之時ニハ。波若ノ膿ハ強ニシテ方便ノ用胃弱ナリ。以ニテノ膿ハ強一ナルヲ二二妙ニシテ。於ニテノ 静観一二講座。観レジテ空ヲ不レセズ著。以ニテノ用ハ二一ナルヲ故二。未レ能ニワ即レシテ空二面レリ有二 於レーア有二無一レキコト滞。至一∼アハ於厚地一二。即チ膿ト用ト倶二等シクシーア。既二能ク観レジーア空ヲ不レ 染セ。即チ能ク渉レテ有二無㌧著。 ︵大正四五・五五上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ このように三論宗では第六地と第七地の間に大きな飛躍があると考えている。第七地を 超えた第八地以上において、般若と方便との西里は等しい力を持つことになる。仏地に至 ったとき、般若は転じて﹁薩婆若・一切智﹂となり、方便は転じて合切種智﹂となる。 一切智は一切の空境を照らし出す智であり、一切慧智は一切の有境・衆生の事象を照らし 出す智である。 從ニリ八地層已上ハニ慧倶二巧ナリ。若シ至孔フバ佛地一二。即チ煙毒同ジク反ズ。實慧ハ即チ反ジテ
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3名ニク薩波若一ト。謂ク一切智ナリ。方便慧八反ジテ名ニク一切種智一ト也。 ︵大正四五・五五上︶ ︵﹃ 蜿謖コ論﹄巻四︶ 果門三アハ照孔フスヲ一切ノ心境一ヲ名ニケ一切智一ト。照孔フスヲ一切ノ心境一ヲ名ニク一切種智一ト。 倶二男レテ楽弓立レッ名ヲ。故二半シク並二稻レス智ト。 ︵大正四五・五五上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ ︿その3 諸経典に般若・方便をさまざまに説く理由﹀ ﹃大乗玄論﹄巻四が明かす﹁五時の愚智﹂について考察する。五時の二四とは、小乗経・ 大品般若経・維土製・法華経・浬藥経のそれぞれに般若・方便が明かされているが、それ ぞれの経典において重点の置き方が異なっていることをいう。第一に、小乗経の方便は﹁事﹂ であり、般若は﹁四諦の理﹂である。 一ニハ照二盟フスヲ事事ノ之法一ヲ爲レシ権ト。竪二、、、ルヲ四諦ノ之理一ヲ爲レス實ト。 ︵大正四五・五六下︶ ︵﹃ 蜿謖コ論﹄巻四︶
第二に、﹃大品般若面﹄の般若は﹁真空﹂を照らし、方便は世間の有をきっちりと見極め ることをいう。 ニニハ照孔フスヲ眞空一ヲ爲レシ實ト。竪二、、、ルヲ俗有一ヲ爲レス権ト。 ︵大正西五.五六下︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ 第三に、﹃維摩経﹄の方便とは病を知り薬を蒙ることであり、般若とは病に応じて薬を与 10 0り、 えることである。 三ニハ知レリ病ヲ識レルヲ藥ヲ爲レシ構ト。慮レジテ病二藍レクルヲ藥ヲ爲レス實ト。 ︵大正四五・五六下︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ 第四に、﹃法華経﹄の般若は一乗を照らし出すことであり、方便とは二乗をしっかりと見 据えることである。
四ニハ照孔フスヲ一乗︻ヲ爲レシ實ト。塁二、、、ルヲニ乗一ヲ爲レス椹ト。 ︵大正四五・五六下︶ ︵﹃ 蜿謖コ論﹄巻四︶ 第五に、﹃浬藥経﹄の般若とは常住の実相を照らすことであり、方便とは無常の諸法を見 極めることである。 五ニハ照孔フスヲ常住一ヲ爲レシ實ト。窒二、、、ルヲ無常一ヲ爲レス権ト。 ︵大正四五・五六下︶ ︵﹃ 蜿謖コ論﹄巻四︶ このうち小乗経を除いた大乗の四経についていうと、それぞれの経典はただひとつの二 智を説いているだけではなく、四つの大乗経典はすべて五種類の慧智をもれなく説き明か している。たとえば、大品般若経のなかには、小乗経の出替も説かれ、空・有の二智も説 かれ、三乗・一乗の二智も、常・無常の二六も、識病・置薬の二智も漏れることなく説か れている。維摩経・法華経・浬西経についても同じである。これを﹃大乗虚誕﹄巻四は﹁尋
ニヌ 泣j一経ノ之内一ヲ、具二有ニリ五文一﹂︵大正四五・五六下︶と説いている。 ひとつの経典に五種の二智を説いていても、重点の置き方はおのずから異なっている。 嘉祥大師はこれを﹁明レスニ義ヲ傍ト正トハ不レヵラズ同ジ﹂︵大正四五・五七上︶︵﹃大乗議論﹄巻四︶と述 べている。なぜ重点の置き方が異なるかといえば、菩薩に﹁直に仏道に趣く﹂菩薩と、﹁廻 小量大﹂の菩薩があるからである。大品般若経は直往の菩薩のために法を説き、般若と方 便によって菩薩を助け、直に仏道に至らしめることを目指す経典である。 12 3 有ニリ歯種ノ菩薩一。一ニハ直二着旧キ佛道一二。ニニハ廻レシテ小ヲ入㌦大二。波若画筆ニニ直往ノ 菩薩一ノ。説ニキテ方便ト實慧一トヲ不レ堕ニシメ三界一二。不レ住ニセシメニ乗一二。有ニリテ爾ノ健人一。 各々扶二ヶテーノ腋一ヲ。直二至聖フシム佛道一二。︵大正四五・五七中︶︵﹃大乗玄論﹄巻絹︶ これに対して法華経は警守入会の菩薩のために、 乗の智慧と一乗の智慧を説き明かす経典である。 小を捨てて一乗の真理に導くために三
法花経口。正シク爲ニナルガ 小善大之ノ人一ノ故事。明三シ三乗ヲ爲ニスコトヲ方便一ト。令ニメ其ヲシ テ捨一レテ小ヲ。示三シ一乗ヲ爲ニスコトヲ眞實一ト。勧レメテ其二取レーフシム大ヲ。故二正シク明ニス三一ノ ニ慧一ヲ也。 . ︵大正四五.五七下︶︵﹃大乗玄論﹄二四︶ また菩薩には利根の菩薩と鈍根の菩薩がいるともいう。大品経や法華経は倶に利根の菩 薩のために法を説いているが、愚慮経は鈍根の菩薩を救うために法を説くことを中心にし ているコ 一ニ占者失心。即チ鈍根ノ之人アリ。ニニハ不失心。謂ク利根ノ人アリ。錐レモ有下リト直往ト與ニト ハ 小一聞ニィテ波若・法花一ヲ並ビニ順綿上スルコト。謂ク不失心ノ子ニシテ利根ノ人ナリ也。鯨ノ失 心ハ鈍根ニシテ。早早未レズ服レセ藥ヲ。双林二唱レヘテ滅ヲ弱目書論クトキ捏一一ヲ。方二乃チ取レル信ヲ。 ︵大正四五・五人上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ このように、経典によって﹁五時の二智﹂のなかで重点の置き方はおのずから異なって いる。嘉祥大師は四経典を平等に扱っていて特に優劣をつけていないが、その意図は直往
の菩薩のために﹁空有の聡智﹂を説き明かす﹃大品般若経﹄を特に重要なものと考えてい たことは明らかであろう。 ︿その4 開合の四句によって般若と方便の意義を明かす﹀ ﹁般若と方便の関係﹂を考察する次の項目として、般若と方便の﹁開合の四句﹂を検討 する。開合の四句とは、﹁二身を開く﹂﹁二身を合す﹂﹁権頭を合して権と名づく﹂﹁開せず 合せず、上の三句を混じて諸法を明かす﹂の四つである。 14
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第一の﹁二二を開く﹂とは、﹁諸法に裏付けられた実相﹂を照らすのを﹁般若﹂と名づけ、 逆に﹁実相に裏付けられた諸法﹂を照らすのを﹁方便﹂と名づけて、二慧に開きそれぞれ の特性を明らかにする。 照ニスが諸法ノ實相一ヲ故二名四ヅケ波若噌ト。照ニスヲ實相ノ諸法一ヲ稻シテ爲ニス湛和一ト。如來ハ内 二照ニスが此ノニーヲ故二有ニリニ慧幅。︵中略︶外二爲ニニ衆生一ノ還テ説ニク此ノニーヲ。 ︵大正四五・五九中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶第二の﹁二慧を合す﹂とは、般若と湛和とは仮に二つに開かれたもので、これを合する とただひとつの般若に収まることをいう。般若は体であり、湛和は用である。体とはわれ われの五体の讐えであり、用とは五体それぞれのはたらきの讐えであるから、仮に体と用 とを分けることはできるが、実際には体を離れて用はなく、用は体に収められる。如来は ﹃大品般若経﹄九十章において般若・方便を説いているが、経名は摩詞方便経ではなく﹃摩 詞般若経﹄であって、方便を般若の中に収めているのはそのあらわれである。﹃大智度論﹄ 巻百±が説くように、金細工をみるとき、材料の金を般若とし、細工された作品を方便と 15 3 見るのも、その一例であろう。 次二第ニニ合ニストハニ慧一ヲ者。言下ス波若ト與ニハ温和一嘗ナ是レ波直上ト。所二以ハ然一ル者。波 若ヲ爲レシ禮ト福和ヲ爲レス用ト。腔目引チ波若ノ之髄。用ハ是レ波若ノ之用ナリ。故二皆ナ名ニク波 苦︸ト。如來ハ錐下ドモ説ニヒテ大品九十章一ヲ箇中クト於二道上ヲ皆ナ稻ニシテ摩懸緒若経一ト。不三 途レテ後ヲ潔白サ方便一ト。故二心ル。二慧ハ皆ナ名四ク波若一ト。又タ如ニシ論二云一フガ。以レテ金ヲ 爲ニスニ種種ノ物一ヲ。而モ即チ是レ金聾シテ更二無ニシ別禮一。
︵大正四五・五九中∼下︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ 第三に﹁権実を合して皆な権と名づく﹂と説く。如来の眼からみると般若と方便は別の ものではなく、共に空を照らし有を照らす善巧であり方便であって、共に方便に収めると 説くことも可能である。 第三二合ニシテ権實一ヲ皆ナ名レクト一嵩ト者。照ヒフス有ヲ功用ヲ既二名ケテ爲ニシ方便一ト。照レーフスノ 空ヲ之巧モ。亦タ是レ方便ナルが故二。ニノ照五目ジク巧ナリ。即チ爾一隅ナ方便ナリ。 16 3 ︵大正四五・五九下︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ 第四に﹁開かず合せず、上の三句を混じて諸法を明かす﹂と説く。如来の正観をもって みると、般若とか方便という二つのものはそもそも存在しない。実だとか権だとかいうも のは存在しないのであるから、開とか合とか論じることはできない。如来の境地からする と、名相は寂滅しているので言説によって諸法を説くこととは不可能なのであるが、衆生 に修行の方向を示すために、無名相の中に名相をもって開合を論じるのである。
正観耳語ニズ曾テ有輔ヒフ實二。亦タ未二Zフズ曾テ是レ権一二。亦タ未ニズ曾テ開一セ。亦白歯ニズ曾テ 合一セ。磁心云下フ是ノ出塁不レ可レカーフ示ス。言辞ノ相寂滅上スト。佛モ不レ能レワ行クコト佛モ不レ能 レワ到ルコト。而モ今ハ有ニルハ開合實槽輔者。皆ナ是レ無名相ノ中二。爲三ノ出二虚センが衆生一ヲ故 二。豊国スノ、、、開合ノ不同一ヲ耳。 ︵大正四五・五九下︶︵﹃大乗玄論﹄三四︶ 仏道というものは論じるものではなく、体得すべきものなのである。しかし、 生を導く唯一・最大の手だてであるから、如来は休むことなく法を説き続ける。 説法が衆 ︿その5 知と無知によって般若と方便の関係を明かす﹀ 般若も方便も境を照らすカを持っているけれども、般若には境を照らす力を表に出して、 善巧のはたらきを隠し、方便には善巧を表に出して、境を照らす力を隠す。この点から般 若を体といい、方便を用と名づける。
立ニテルハ此ノニ名一ヲ。欲ニシテ相開避一セント。隠顯シテ互三指ク。波若ニハ顯ニハシ其ノ照ノ名一ヲ 隠ニス其ノ巧ノ稻一ヲ。方便ニハ顯ニハシ其ノ巧ノ稻一ヲ隠ニス其ノ照ノ壷皿ヲ。 ︵大正四五・五三下︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ ﹃大乗玄論﹄巻四は、﹁知﹂と﹁無知﹂とを取りあげて、般若と方便との関係を考察する。 般若は﹁知﹂であるが、無為の実相を知るのみで、有為の諸法については知るところがな い。しかし、実相を知る力を持っているので、おのずから諸法についても知らないものは 何もない。般若は実相を知るので、これ以上に何も知る必要はない。すなわち般若は﹁知﹂ 娼 3 であるから﹁無知﹂なのである。一方、方便は般若と同様に﹁無知﹂であるけれども、諸 法をことごとく知っているので、﹁無知にして知﹄と名づける。 波若ハ錐レモ知ナリト。而無ニク所知一。錐レモ無調シト所知一。而無レシ所レ不レル知フ。︵中略︶ 即チ波若ハ知ニルが三相一ヲ故二言ニフ無知一ト。︵中略︶ 無知ニシテ而知ナルヲ。名ケテ爲ニシ方便一ト。知ニシテ而無知ナルヲ。稻シテ爲ニス波若一ト。 ︵大正四五・五六上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶
般若は実相を知っているので、所縁の境も能観の智も倶に寂滅している。これを無知と 名づける。しかし、われわれの世界には所縁の境も能観の智も明瞭に存在している。この 事実を﹁無知にして知﹂といい、また﹁知にして無知﹂と名づける。 波若ハ知ニレバ還相一ヲ即チ縁観倶二寂ナリ。是ノ故二無知ナリ。而モ境智宛然タリ。故旧不レ失レワ 知ヲ。此レ無知ニシテ而知ナリ。知ニシテ則チ無知ナリ。 ︵大正四五・五六上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ ︿その6 方便は三毒を直視し般若は三冬を清浄とみる﹀ 貧・患・痴は男心であり除去すべきものといわれている。しかし、貧・悉・痴こそが修 行者の進むべき道であり、三島の中にこそ無量・無辺の仏道があると説かれる。﹁般若と方 便の関係﹂を考察する最後にこの教えを考察する。嘉祥大師は三論宗の学徒に、大乗の観 心・修行の枢要を述べると前置きして﹃大乗坐論﹄巻四に次のように述べている。ここに いう﹁経﹂とは﹃諸法無行経﹄+二である。
今吾ニシテ此ノ一門一二。略シテ叙唱ベル大乗ノ椹要ト品行ノ淵府一ヲ。経二云ク。貧欲二塁チ是レ道ナ リ。悉・療モ亦タ復タ然ナリ。如レキノ是ノ三法ノ中二。無量ノ諸ノ佛道アリト。 ︵大正四五・五六上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ 食欲が仏道である。煩悩こそが浬藥・寂滅であり、煩悩は清浄であって実相である。如 来の境地から見ると、煩悩と実相の間には何の差別もない。このように了達する智慧を﹁般 若﹂と名づける。そのような境地においては、般若の観智と実相の境との間には何の相違 20 3 も存在しない。すなわち、境と智とは直結していて不二である。 しかし、実相はそのように澄みきったものであるとしても、われわれの世界には貧・瞑・ 痴は現実に存在する。そのような現実の姿を直視する智慧を﹁方便﹂といい、衆生の苦し みを抜き取ろうとする仏の方便を大悲と名づける。また、貧が悦楽であると教える仏の方 便を大慈と称する。般若と方便とはこのような関係にあると﹃大乗語論﹄巻四は教えてい る。
貧欲ハ則チ是レ道ナリトハ者。然ルニ首領ハ幡鎌寂滅ニシテ自性清浮ナリ。即チ是レ實相ナリ。如レク 斯ノ了悟スルヲ便チ名ニク波若一ト。豊二有一一∼フンや實相ノ県境が異ニルコト波若ノ観田上耶。故二面ト智 トハ不ニナリ。 壱州一フスヲ貧欲ハ錐ニモ本ト寂滅一ナリト而モ土竜テ衆生一二宛然トシテ有上レリト貧。便チ名門ク方便一ト。 傷二、、、テ其ノ無異ヲ謂一レフヲ貧ト。而欲レスルが抜レカント之ヲ落馬。此ノ方便ヲ即チ名ニケ大悲弥。欲 下ス 泣苧゚レメテ悟孔フ貧ハ無品一ナリト。與中ヘント無実ノ駈上ヲ。即ラ此ノ大悲ヲ復タ名レヅク慈ト也。 ︵大正四五・五六上∼中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ 第四項 ﹁絶観﹂という思想の系譜 第一項において ついている。 ﹁興業の般若﹂を考察した。それは﹃大乗玄論﹄巻四の次の叙述にもと 智慧ハ是レ知照ノ之名ナリ。豊二能ク滋雨ハンや絶観ノ般若一二。
︵大正四五・五〇上︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ ﹃大乗玄論﹄巻四は、般若の体を次のようにも説いている。 波若ノ髄ハ絶ニシ縁.観一ヲ。智慧ノ名門主ニトス於観一ヲ。波若ノ髄鞘絶ニシ智・愚一ヲ。智慧ノ名 ハ主ニトス知照一ヲ。波若ノ膿ハ絶ニシ名字一ヲ。智慧ハ則チ猶オ渉ニル名言一二。 ︵大正四五・五〇中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ 22 3 般若の体は縁・観を絶するという。﹁縁﹂とは所縁のことで、智慧が照らし出す境を意味 しており、勝義において所縁とは諸法実相を指している。一方、﹁観﹂とは観智ともいい、 事象や理性を明瞭に観る智慧のことである。すなわち、般若の体は、諸法実相という所縁 を絶すると共に、所縁を見極める観智をも超越している。 絶観の般若は仏・如来の境地に近づいたときに感じる感動を含んでいる。絶観とはあま り用いられない用語であるが、﹁絶縁﹂と組み合わされて、嘉祥大師の著作には数ヶ所に用 いられている+三。たとえば﹃法華義疏﹄朝戸の﹁如来の智﹂をたたえる中に﹁絶観・絶縁﹂
という用語が見られる。 我が所レノ得ク智慧ハ微妙ニシテ最第一ナリ。又タ云ク是ノ法ハ不レ可レラ示ス。言僻ノ相ハ寂滅ナリ。 三二如來ノ理智並置レズ有二非レズ無二不レズ三二不レズ一二離レレ人ヲ離レレ法ヲ絶観絶縁ナリ。一切ノ 名言ノ所レナルが不レル能レワ及ブコト故二名ニク絶言一ト。 ︵大正三四・四八人下︶︵﹃法華義疏﹄巻三︶ 三乗・六趣・九道ノ衆生ハ並ンデ不レ能レワ知ニルコト佛智一ヲ也。所二酉ハ然一ル者。如露ノ之智 ハ非レズ聖二非レズ凡二絶縁絶観ナリ。故二聖ト凡トノ衆生ハ不レ能レワ解スコト也。 ︵大正三四・四八九下︶︵﹃法華義疏﹄巻三︶ また﹃維摩経義疏﹄巻一に、無名相を説く一節で﹁絶観絶縁﹂を説いている。 不レ著ニサ不運ノ法一二。以レテノ無ニキヲ一二一故二。斯レ即チ非レズ語二非レズ黙二。不レズ俗二不レ ズ真二。器量絶縁ナリ。何ゾニ・不二ナランヤ。 ︵大正三八・九一一中︶︵﹃維摩糠義疏﹄巻一︶
そこで絶観という思想の系譜をたどるために、経典の中に﹁絶観・絶縁﹂と類似の用語 を求めると、﹃維摩経﹄巻上に﹁無縁観菩薩﹂という菩薩名が記されている。これは釈尊の 説法の座に集まった三富二千の菩薩のうち、主な菩薩名を列記する二十五番目の菩薩の名 前としてあらわれる。 ⋮明網菩薩。無縁観菩薩。慧積菩薩。⋮ ︵大正一四・五三七中︶︵﹃維摩経﹄巻上︶ 24 3 嘉祥大師は﹃維摩経義疏﹄巻一において、これらの菩薩名のすべてについて短い註釈を ほどこしている。﹁無縁観菩薩﹂については次のように釈されている。 無縁観菩薩トハ者。観ニル實相一ヲ時二。内外並ビ劃一シ。縁由倶二寂ス也。 ︵大正三八・九二二下︶ ︵﹃ ロ摩経義疏﹄巻一︶
﹁無縁観﹂の﹁縁﹂とは所縁の実相であり、﹁観﹂とは実相を見る観智であって、﹁無縁 観﹂とは所縁・観智を寂滅した極めて深い境地を示している。この菩薩名が嘉祥大師の﹁絶 観・絶縁﹂という思想形成に影響を与えたことがうかがえる。 また、﹃仁王経﹄巻上の讃仏偶の中に﹁空慧寂滅無縁観﹂という一句がみられる。 皇后寂然無縁観 還テ観ニルハ心ヲ空一ト無量ノ報ナリ ︵大正八・八二七下︶︵﹃仁王経﹄巻上︶ 嘉祥大師は﹃仁王般若経疏﹄里中・三において、讃仏偶の一句一句に註釈を加えている が、﹁空慧寂滅無縁観﹂については次のように述べている。 實智ト息レ、、、縁ト縁観並二[穴、倶︼スルが故二云三フ寂然トシテ無ニシト縁ト観一ト。 ︵大正三三・三三四上︶︵﹃仁王般若経疏﹄巻中・三︶ ﹁空慧﹂の境地は、所縁も観智もなくなった寂然とした心の状態をあらわしている。 こ
の一句も﹁絶観・絶縁﹂という思想につながっていったであろう。 さらに、嘉祥大師は﹃中評論疏﹄巻三・末に﹁絶ニス於境ト智一トヲ﹂の教父として﹁五金﹂ をあげている。 真逆微妙ノ法トハ者。此ノ法ハ絶ニス於境ト智一トヲ。以レテノ絶レスルヲ境ヲ故二無ニシ境ハ可一レキ縁ズ。 絶ニスル於智一ヲ故二二レシ有ニルコト能縁一。今引ニィテ五事ノ來謹一ヲ繹レス之ヲ。 ︵大正四二・五〇下︶︵﹃中観論疏﹄巻三・末︶ 五事の内容を検討したいと思うが、その第一は﹃六十華厳経﹄を取りあげている。 一ニハ者華厳二千ク。﹁正法ノ性ハ遠二離シ。一切ノ言語ノ道一ヲ。一切ノ趣・非趣ハ。悉ク皆ナ寂 滅ノ性ナリ。﹂豊二有二一フンや三白。所縁一。 ︵大正四二・五〇下︶︵﹃中野竹疏﹄巻三・末︶ 引用されている偶は﹃六十華厳経﹄の﹁如来興起品﹂にみられ、如来の境地が清浄・寂 26 3
滅であって、言説を絶していることを説いている。嘉祥大師は﹁養畜﹂の内容をこのよう なものとして理解していたことがうかがえる。﹃六十華厳経﹄巻三十四の中から引用されて いる偶の前後を合わせて記してみる。如来の境地の一端をみることができる。 一切ノ性ハ無レク性 正法ノ性ハ遠二三シ 一切ノ趣・非趣ハ 一切ノ諸如來ノ 遠端離シ語言ノ道一ヲ 非レズ有二亦タ非レズ無二 一切ノ語言ノ道一ヲ 皆ナ悉ク寂滅ノ性ナリ 境界モ亦タ如レシ是ノ 不レ可レーフ為ニス讐諭顯ヲ ︵大正九・六一五上︶︵﹃六十華厳経﹄巻三四︶ 続いて、﹃中観客疏﹄巻三・末にあげられる教証の﹁五事﹂の残りを検討する。第二は﹃大 智度論﹄巻四十三からの引用である。 ニニハ過度論ノ繹集散離職云ク。縁ハ是レ一邊。観モ是レ一邊ナリ。西諸レルヲ是ノニ邊一ヲ名ケテ為
ニス ?ケ一ト也。 ︵大正四二・五〇下︶︵﹃中観一毫﹄辻三・末︶ 引用文は﹃大智度論﹄﹁釈集散品﹂からの取意である。﹃大智度論﹄ 若波羅蜜についてさまざまに説き、たとえば次のように述べている。 のこの章は空性や般 佛ハ是レ一邊。菩提ハ是レ一輪。壁高レテ是ノ潔白一ヲ行ニズ中道戸ヲ。是ヲ為ニス般若波羅蜜一ト。 ︵大正二五・三七〇中︶︵﹃大智度論﹄巻四三︶ 28 3 仏とか菩提はなお一辺であり、このような二辺を離れた中道を行ずることを、般若波羅 蜜︹智慧の完成︺という。﹃大智度論﹄はこの一節に続いて次のように説いている。﹁不二 の法門に入る菩薩は直に般若波羅蜜を行じて、縁︹所縁︺とか智︹観智︺とかいう分別を なすことはない。﹂ 復タ次二是ノ菩薩︹須菩提︺ハ入ニル不善ノ法門一二。是ノ時能ク直二行当ジテ此ノ般若波羅蜜一ヲ。 不レ分二別乱悪レハ驚喜レハ果是レハ縁是レハ智是レ山内是レハ外是レ団円是レハ彼等一ト。
︵大正二五・三七〇下︶︵﹃大智度論﹄巻四三︶ 嘉祥大師は﹁縁是一辺。観是一辺。離是二型名中道﹂を﹁置綿﹂の内容と考えていたこ とが知られる。 ﹃中観論疏﹄巻三・末に引用される﹁五事﹂の考証の残りの三つは、書影・僧肇・僧朗 など、中観望の人々の論述について述べており、﹃大智度論﹄の影響を受けていると思われ る。嘉祥大師の叙述は簡潔であるため、その意図を正確に読み取ることは難しい。中核と なる思想だけを読み取りたい。まず、曇霞は﹁無境とは無相﹂であり、﹁無智とは無心﹂で 29
3
あるとみなして、﹁縁ト観ト四二寂ナリ﹂﹁無ニシ境ト智岬ト﹂と考えていた。 三ッニ影法師ノ云ク。夫レ萬糊置非レズ無レキニ宗。而モ宗ハ者無相ナリ。此心妻ニス無蚕齢ヲ。虚ノ 黒八非レズ無レキニ契。而モ契ハ之レ者無心ナリ。此ハ明ニス無智一ヲ。故二内ト外ハ並二冥ニシテ縁ト 二二倶二寂ナリ。総テ無ニシ境ト智一ト也。 ︵大正四二・五〇下︶︵﹃中観論疏﹄巻上・末︶ また、僧肇は﹁法に有無の相無きが故に無境であり、聖に有無の智無きが故に無心である﹂と論じている。 四ッ直言師ノ云ク。法師無ニシ有無ノ之相一。此ハ明ニス無全一ヲ。聖二無ニシ有無ノ之智一。此ハ緋 ニズ ウ心一ヲ。無ニク歎ハ標野一二無ニシ心ハ心内一二。総テ結ンデ無ニシ境ト智一ト。 ︵大正四二・五〇下︶︵﹃中観論疏﹄巻三・末︶ ﹃中観留置﹄が示す僧朗の説法は論理的で理解しやすい。凡夫・二乗・有所得の大乗と いわれる人たちの所縁は、修行者が開悟し正観を得るとき、尽きて無くなってしまう。こ れを﹁縁は観において尽きる﹂という。三論宗において縁と観との関係は、縁は観を生じ、 観は縁を照らす、という関係である。仮に、縁が正観によって消滅すると、もはや観を生 みだす縁がなくなり、観が照らし出す縁がなくなってしまうことになる。これを﹁観は縁 において尽きる﹂という。このような﹁網干・非観﹂を仮に﹁中観﹂と名づける。 30 3 五二撮嶺大師7云ク。縁ハ壼レキ於レテ観二。観ハ壷レク於レテ縁二。聖心於観トハ者。凡夫・二乗・ 有所得大乗ノ此ノ諸縁ハ壼ニク於正観之ノ内一二。以ニテ正観ノ既二生一ズルヲ如レキノ此ノ之聖目即チ
不生ナリ。故二云ニフ縁壼於観一ト。在レルモ縁既二藍ニキテ正観一巡テ便チ息ム。故二名ニク観中坐縁 一ト。非レズ縁二男レズ観二不レ知フ何ヲ以テ美レムヵヲ之ヲ。強イテ名ヶテ為レシ中ト強イテ稻シテ為レス観 ト。 ︵大正四二・五〇下∼五一上︶︵﹃中観論疏﹄巻三・末︶ 嘉祥大師が﹃大乗墨壷﹄巻四で論じる﹁蒸器の般若﹂という思想の系譜をたどってみた。 その淵源は﹃維量見﹄﹃仁王経﹄﹃六十華厳経﹄にあることを、嘉祥大師自身が明瞭に明か している。また、﹃大智曲論﹄の﹁縁是一辺。四竃一辺。離心二辺名為中道﹂が、より直接 的な教証であることも嘉祥大師によって明かされている。この思想が少しずつ表現を変え 31 3 ながら曇影・艶出・僧朗などに継承され、やがて嘉祥大師の﹁絶観の般若﹂という表現と してあらわれることになった。 嘉祥大師の﹁絶観の般若﹂は、後世の禅宗にも影響を与えている。﹃絶難論﹄という論書 が世界に紹介されたのは、昭和十年頃のことであり+四、本格的に研究されはじめたのは、 昭和二十年頃からであった+五。﹃絶観論﹄は敦煙で発見された漢文の六種の異本のみが残 されている。六種の異本のうち、二本は﹃絶観論﹄の作者を菩提達磨としているが、現在
では牛頭禅の祖とされる法席︵五九四∼六五七︶を作者とする説が有力である+六。ちなみに、 法融は三論宗の影響を強く受けているとされる+七。 この﹃絶観論﹄という論書は、嘉祥大師の﹁絶観の般若﹂という思想から発展している ことが指摘されている+八。﹃直観論﹄の叙述の形式は、﹁入理﹂という師と﹁勢門﹂という 弟子の問答の形を取っている。その内容は、心とは何かという問いに対して﹁無心の至理﹂ を説き、いかにして安心すべきかという問題に対して﹁絶観の大道﹂を説いている。その 論理の運びの巧みさは禅宗で高く評価されている。たとえば、鈴木大拙氏は次のように評
している。 32
3 一言にして云えば、﹃絶観論﹄ほど禅旨の大綱を説き得てその肯繁に中るものはない。 此の論を体得したものは禅を会したものと云うも過言ではないのである。 ︵﹁鈴木大拙全集・別巻二﹂︵岩波書店・一九七一・二四九頁︶ ﹃絶観論﹄は小論のテーマではないが、嘉祥大師の﹁凌辱の般若﹂が中国の禅宗に影響 をおよぼし、日本においてはなお今日的な問題として、議論されていることに留意しておきたい。
第二節 二諦と二智との関係
第一項 境と智の能所の関係
次に二諦と二智との関係を考察してみたい。三論教学の構造は、八不中道が﹁理﹂であ 333
り、真諦・俗諦の包里が﹁教﹂であった。この教をさらに体と用とに開くことができる。 このとき、二諦は教の体とされ、二智は教の用とされる。 初二明ニセバ教ノ膿一ヲ。即チ是レニ諦ナリ。次高明ニセバ教ノ用一ヲ。即チ是レニ智ナリ。 ︵大正四二・九中︶︵﹃中観論疏﹄巻一・本︶ ﹃大乗玄理﹄巻四も同じことを述べている。次に述べられるように二諦は﹁境﹂とも名づけられる。二番は信望によって照らされる境であり、これは﹁実相﹂を意味している。 如來ハ常二依ニテニ諦一二説レク法ヲ。故二二諦ヲ名レケ教ト。能ク生ニズルニ智一ヲ故二二諦ヲ名レク 倍夘ト。 ︵大正四五・五五中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ 智︵二智︶と境︵二尊は相互依存的であって、智は境によって生じ、境は智によって照ら し出される。智は境を離れてひとり生じるのではなく、境は智と無関係に独立して存在す るのではない。この点から境は智の本であり、逆に智は境の本ともいう。 34 3 夫レ下闇不二孤リ生一ゼ。必ズ由レテ境面獲ル。故二境ヲ爲ニス智ノ本一ト。境ハ非二Zフズ濁り立一ッニ。 因レテ智二王レク名ヲ。真鴨智ヲ爲ニス境ノ本一ト。 ︵大正四五・五五中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ この二諦と二曲との関係、すなわち境と智との関係をより明確にあらわすと、境は智を 発こすので﹁能発﹂であり、智は境によって発こされるので﹁所発﹂である。また智は境 を照らすので、﹁能照﹂といわれ、境は智によって照らされるので、﹁所照﹂といわれる。
非レザレバ境口無ニク以テ襲一レ.スコト智ヲ。非レザレバ智二叉ニシ以テ照一ヒフススコト境ヲ。非レザレバ境二 無二キが以テ襲一レコスコト智ヲ故二。境ヲ爲ニシ能獲一ト。智ヲ爲ニス所襲一ト。非レザレバ苗場無二キが以 テ照一ヒフススコト境ヲ故二。智ヲ爲ニシ能照一ト境ヲ爲ニス所照一ト。 ︵大正四五・五五中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ ここで説かれているのと同じことは、第一節の第一項﹁般若について﹂においても論じ られた。前には般若と実相との関係として説かれ、ここでは早智と二君との関係として論 35
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じられている。二智の代表として般若が取りあげられ、聯奏が実相と名づけられているの であって、実質的な内容は同一である。 二諦と二恩、すなわち境と智とは馬所の関係にあって、しかも、境が前で智は後という ことではなく、逆に智は前で境は後というわけでもない。しかし、両者は一体として同時 に存在するというのでもなく、二つが相互に能所の関係にある。これを﹁因縁の境智﹂と 名づける。不レ得レ言ニフコトヲ境ハ前智ハ後柵ト。亦タ非ニズ智ハ前境ハ後一ナルニ。亦タ非ニズ一時一ニモ。唯ダ 得三ルノ、、、名ケテ爲ニスコトヲ因縁ノ境智一ト也。 ︵大正四五・五五中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ 対馬は不二といわれ中道ともいわれた。これに対して二智は﹁中観﹂といわれる。それ は次のような理由による。涯和と般若とは互いに相即していて、曽和は般若の裏付けを持 つ涯和であり、般若は湛和を裏付けとした般若である。従って、湛和は有に執着すること なく、般若は無に滞ることがない。この有に執着しないところを嘉祥大師は﹁常著の氷消 ゆ﹂という。また、無に滞らないところを﹁断無の見滅す﹂という。帯留という一辺を離 36 3 れ、断見という一辺を離れていることを嘉祥大師は﹁中観﹂と名づける。 以ニテノ湛和ハ宛然トシテ波若一ナルヲ故二。不レ雪避セ二言一二。波若ハ宛然トシテ涯和ナルが故二不レ 滞一∼フ語聾一二。不レルが累旧記於有一二七二煉薬ノ氷消ユ。不レルが漫談フ電送輔二七二断無ノ見徳ス。 寂ニスルが此ノ諸邊一ヲ故山名ニク中観一ト。 ︵大正四五・五五下︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ 境を﹁二諦中道﹂と言いかえ、智を﹁二陣中観﹂と言いかえると、二諦中道が二二中観
を発生し、二智中観が二諦中道を照らし出す。境と智とは互いに能所の関係にある。 是ヲ以テ空聾中道ハ。還テ襲二生シニ畠中観㌧。二智中観ハ。還テ照孔フス空聾中道一ヲ。故二 境ハ量子ヒ装甲一二。智ハ青帽フ老境輔二。 ︵大正四五.五五下︶︵﹃大乗幽晦﹄巻四︶
第二項境と智の常・無常について
次に境︵二世︶と智︵二智︶の常・無常について考察する。﹃大乗玄論﹄巻町によれば境に ﹁常﹂の境がありまた﹁無常﹂の境がある。さらに智にも﹁常﹂の智があり、﹁無常﹂の智 がある。三論宗はこのような分析によって境と智に対する理解を一層深めさせる。 まず智の常と無常とを検討する。修行が進み初地に入った菩薩は、智慧を得て実相を照 らし出し、一分の悟りを得る。この智慧は般若と呼ばれる。十地の階位にある菩薩はなお 因位にいるが、因位において得られる智慧は有為の無常であって常ではない。修行がはて しなく進み、砂地を超えて仏果に至った菩薩は仏・如来の世界に入っていく。果位において得られる智慧は﹁果徳の観照般−若﹂であって、﹁薩雫石﹂。・碧薗盲碧僧と呼ばれる。型名に おける功徳は無為であるので、三徳の観照般若は常とされる。 次に智慧が照らし出す境についても、﹁常﹂の境があり﹁無常﹂の境がある。無為であっ て﹁常﹂とされる境には、﹁実相般若﹂﹁虚空﹂﹁法身・仏性﹂および、果位の智である﹁薩 婆若﹂の四つがあげられる。また、有為であって無常にとどまる境には﹁衆生﹂と応化身 である﹁応 ﹂があげられる。 このような境と智における常・無常を前提として、四句分別がなされる。四句とは﹁智 常・境常﹂﹁智常・境無常﹂﹁智無常・境常﹂﹁智無常・境無常﹂の四つである。順次に検討 していきたい。 第一の﹁境・塁砦に常﹂というのは大乗においてのみ説かれ、小乗においては説かれな い。小乗において聖人の得る智慧は有為・無常に留まっていて、無為・常の智慧を得るこ とはないからである。大乗の﹁境・智倶に常﹂は三つに分けて考えられる。ひとつは﹁果 徳の観照般若が実相般若を照らすが如し﹂と説明される。二つめは果位の常智︵薩婆若︶が ﹁一切の常の中に虚空第一﹂といわれる虚空を照らす場合である。一つめと二つめの境と 智とは互いに別のものであったが、三つめの﹁境・智倶に常﹂の境と智は、同じものが同
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3じものを照らす場合を説いている。すなわち、仏果の常智が自分自身の薩婆若を照らし出 すことであって、これは仏果における仏・如来の境地に特徴的なものである。・ =ス境・智吉島常。唯ダ大乗ニノ、、、有レリテ之漸。小乗ニハ無シ也。気塊テノ小乗三アハ乳母ノ三智ハ 皆ナ無常一ナルヲ故ナリ。但ダ大乗ノ境・智が倶二常ナルニ。凡ソ聖日リ三義一。一同ハ常智が照ニス實 相ノ境 ヲ。如三シ高徳ノ観照波若が照ニスが粗相波若一ヲ。ニニハ常智が照ニス虚空ノ三智一ヲ。如 三シ 蛹o二+九暦博フが一切ノ常ノ中二虚空が第一一ナリト。今ハ常直が照ニス此ノ常境一ヲ也。︵中略︶ 此ノニ句飯店ニス境・智ノニ義一ヲ也。三訂ハ愚筆智が還ア自フノ照レス智ヲ。即チ是レハ三一ア照レスノ鵬 智ヲ義ナリ也。 ︵大正四五・六二中︶︵﹃大乗玄論﹄巻四︶ 第一の﹁境・智倶に常﹂は仏・如来の自行、すなわち興亡における自利行の内容を示そ うとしているのであろう。次に、第二の﹁常智が無常の境を照らす﹂場合を考察してみよ う。﹁常智﹂は第一の場合と同一で、仏果における﹁観照般若﹂のことであり、無常の境と は衆生と応 を指している。
次二階ノ照門スニ無常一ヲ凡ソ有ニリニ義一。一ニハ照ニシ衆生ノ無常一ヲ。ニニハ照ニス磨 ノ無常憎ヲ 也。 ︵大正四五・六二中︶︵﹃大乗三論﹄巻四︶ これは﹁常智﹂のはたらきを述べているので、如来の活動を説いていることに違いはな い。量見する対象が無為ではなく、有為である点が第一の場合とは異なっている。これは 如来の自行のはたらきを補足的に説明しようとしているのであろう。﹁衆生の無常を照ら す﹂とはいうが、衆生済度を説いているわけではない。衆生済度は方便または一切種智二+ のはたらきであって、薩婆若に衆生済度のはたらきはないとされる。 40 3 次に、第三の﹁無常の智が常の境を照らす﹂場合を考えてみたい。無常の智とは、因位 における菩薩の智を意味している。それはなお有為であって常には達していない。一方、 常の境とは、虚空・実相・法身仏性の三つを指していると嘉祥大師は教えている。因位の 智は有為・無常に留まっているので、因位の智が自分自身の﹁無為の智﹂を見ることは論 理的にありえない。従ってここに説かれているのは、修行中の菩薩の自利行であり、瞑想 の中で無為の虚空と実相と法身仏性を、横に竪に照見するありさまを説いている。