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3つの観点からの音楽における啓蒙 : 公共性、批判

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3つの観点からの音楽における啓蒙 : 公共性、批判

、自律によるシンフォニーの成立

著者 上利 博規

雑誌名 人文論集

65

1

ページ A1‑A25

発行年 2014‑07‑31

出版者 静岡大学人文社会科学部

URL http://doi.org/10.14945/00007999

(2)

3つの観点からの音楽 における啓蒙 一公共性、批判、 自律 によるシンフォニーの成立―

   

序論

啓蒙 は、主 として18世紀 のヨーロッパ において理性 にもとづいて既存 の考 え 方や社会体制 を捉 えなお そうとす る思想傾向を指 し、 それは文化領域 にも影響 が及んだ。これを音楽史の立場か ら見れば、バ ッハゃヘ ンデルが活躍 したバ ロッ ク時代か らハイ ドン、モーツァル ト、ベー トープェンの古典主義の時代への移 行期 と見 ることがで きる。では、バ ロ ック音楽か らウィーン古典派への移行 と、

諸領域 において進んだ啓蒙主義 とは どの ように関係す るのか。

本論 は、以下 の三つの観点 か ら音楽 における啓蒙 について間 うものである。

啓蒙思想 は、権威や習慣 ではな く「自然 の光」である理性 のもとに中世的 な宗 教や封建制度 を非合理的 なもの として廃 しようとす るが、 それに とどまらず原 理的 には「万人 が理性 をもつJとい う前提 のもとに普遍的な自由や公共性 を万 人 に保証すべ きとい う考 えを含んでいる。これを音楽 とい う観点か ら考 えれば、

どの ように して官廷文化であった音楽 が市民へ と開放 され、音楽 が社会的共有 財 となったのか とい う問題 にもなる。カン トが『啓蒙 とは何 か』(1784)で語 っ たような「理性 の公的使用」 とい う観点か ら考 える時、啓蒙君主 と呼 ばれる人 たちの文化施策 において音楽 を私 的楽 しみではな く公的なものである として捉 える意識 が どの ように見 出せ るか。 これが音楽 における啓蒙の第一の観点であ る。

第二の観点 は、啓蒙 とい う考 えに含 まれてい る、理性 によって既存 のものを 捉え直 そ うとす る反省的意識化、すなわ ちカ ン ト的な 「批判Jとい う点か ら考 えるな らば、音楽 にお ける啓蒙 は音楽 を どの ように「批判」的に捉え直そうと

したのか とい う問題 である。 これ を、 当時の音楽理論書 な どの出版物 を手掛 か りに考 えたい。

第二 の観点 は、啓蒙 とい う考 えに含 まれてい る 「理性 を用 いて 自ら考 える」

(3)

という自律の問題である。啓蒙思想に含 まれる自律の要請は、音楽においては 道具的音楽から自律的音楽への変化 として現れる。これを具体的にシンフォニー の形成過程 という音楽の内在的構造 を通 して考えたい。 とい うのも、今 日交響 曲と訳されている「シンフォニー」はオペラの序曲であるシンフォニアから発 展 したと考えるのが定説であるが、オペラの序山に過 ぎなかったオペラ・ シン フォニアが交響曲へと発展する時代はまさに啓蒙の時代 と重なっているからで ある。

啓蒙 という概念に含 まれる上記3点、即ち「公共性」「批判」「自律」という契 機が音楽にどのように現れているか、以下順を追って検討 したい。

啓蒙君主と音楽

(1)2つの意味での啓蒙君主

音楽における啓蒙を三つの観点から考えるにあた り、先ず啓蒙 という言葉に 含まれる多義性について予備的に述べてお く必要があろう。 というのも、 これ ら啓蒙に含まれる公共性、批判、 自律 という3つの契機はいずれもカン ト哲学 に含まれるものであるが、啓蒙 とい う言葉の一般的意味 とは異なっているから である。 このような意味の混乱は、中国から輸入された「啓蒙」 という言葉は 教え導いて「蒙味を啓 く」という意味を担ってお り、これが明治時代にヨーロッ パの啓蒙思想の訳語 として用いられたことに主な原因がある。中国から輸入 さ れ日本で使用された「啓蒙」 と、ヨーロッパの啓蒙思想 とは内容が異なってい るにもかかわらず、それらが結びつけられたために今 日の 「啓蒙」 という言葉 は多義的な意味において用いられることになってしまった。

さらには、明治時代は「上からの啓蒙」によって急速な近代化をなそうとし ていたが、その際プロイセンにおける「上からの啓蒙」を一つのモデル として いたという問題がある。すなわち、既にプロイセンにおいて当時の政治状況の 中でナショナ リズム的な観点から「国家が教育者 となって急速な近代化を図る 必要がある」 と考えられていたのである。それはカントが理性の公的な使用に よって世界市民的な普遍性を目指 していたのとは異なった姿である、 というよ りもカントは啓蒙思想がプロイセンにおいてナショナリズム的な意味で使用さ れることを批判 したのである。つまり、明治におけるヨ■ロッパ思想の輸入の みならず、既にヨーロッパにおいても啓蒙は多義的に使用されていたのである。

したがって、啓蒙君主 という言葉も多義的に使用されることになり、「啓蒙専

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制君主Jとい う言葉 さえ生 まれ、なぜ啓蒙的であ りなが ら同時に専制的であ り 得 るのか、 ととまどいを感 じることになる。

啓蒙 とい う言葉 をめ ぐる以上 の ことを踏 まえた上 で、啓蒙君主 と呼ばれ る ウィー ンのマ リア・ テレージアとョーゼ フ2世、 そしてプロイセンのフ リー ド リヒ大王がいかなる意味で啓蒙的であ り啓蒙的でなかったかについて考えよう。

(2)音楽文化の市民開放化の動 き

啓蒙君主 が行 なった音楽文化 に関わる施策の意味 を考 える上で、当時の音楽 文化 が どの ように市民 に開放 されつつあったか とい う状況の概 略 を確認 してお

こう。

1700年代前半、宮廷 における音楽は公開演奏会や楽譜出版 などを通 して市民 に開かれつつあった ことは広 く知 られている。公開演奏会 としては、 フランス のコンセール・ ス ピリチュエルや、 ドイ ツのコンギウム・ ムジクム、 あるいは ロン ドンにおけるバ ッハ=アーベル演奏会 などが有名である。1736年の音楽雑 誌 ではコレギウム・ ムジクムについて、音楽家 は誰 でもこの演奏会 に参加 して 演奏す ることが許 されてお り、有能 な音楽家の価値 を判断で きる聴衆が集 まる ことも多い と書かれてお り、演奏会 が市民に開かれてゆ く様子が うかがえる。

また、楽譜 出版 に関 しては、印刷産業全般 の興隆 もあ り、パ リそしてロン ド ンな どで相次 いで楽譜 出版社が創立 され、特 に1700年代中頃か ら出版業者が急 増 し、やがて100人近 いパ リの楽譜 出版業者 の も とか らイタ リア音楽 も含 めて 様 々な楽譜 が出版 されるようになる。 また、作 曲家 たちもパ リで楽譜 を出版す ることを求め るようになっていた。こうした状況 をもう少 し詳 しく見てみよう。

まず1700年代前半のイタ リアであるが、ヴィブァルディがいたヴェネツィア、

Aスカル ラ ッティたちナポ リ楽派、1708年ハ プス プルク家の支配下 に入 った ミ ラノなとが音楽の中心地 であ り、オペ ラが多数の公開劇場 において上演 されて いた ことは知 られてい るところであるが、ほかにも貴族の私邸でも楽団による 音楽が盛 んに演奏 されていた。しか し、イタ リアの諸都市では財政的な困窮が訪 れ、次第 にヨーロッパ における音楽 を主導する立場か ら退いてゆ くようになる。

1600年代 におけるヨーロッパの音楽の中心がイタ リアであったのに対 し、1700 年代ではこれ にかわってパ リ、ウィーンなどが重要 な役割 を果 たす ようになる。

ルイ14世の時代 のフランスでは、 ブェルサイユ官殿で礼拝堂での宗教音楽、宮 殿 内の室 内楽、野外行事音楽 が演奏 されてお り、 イタ リアか らリュ リ(1632‑

87)が招 かれ F町人貴族』(1670)によってフランス・ オペ ラの基本の形 を確立

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した。 また、当時室内楽の中心に置かれていたものの一つはクラツサンである が、ルネサンス時代に流行 したリュー ト音楽はクラツサンに書 き換えながら発 展 したが、フランソフ・ クープラン (1668‑1733)力=多数のクラブサン音楽を 残 しクラヴサン奏法を確立 した。宮殿音楽のもう一つの中心は「王の24のプァ イオリン」などの室内楽であるが、 この組織は主 として官殿でのバロック・ ダ ンスの伴奏を担っていた。

1700年代に入 リルイ15世の時代を迎えるが、 この時代のフランス音楽を代表

するのはラモー (1683‑1764)である。彼はクープランに続いてクラヴサン曲 を作っていたが、1730年代からは「イポリットとアリシー』(1733)な どのオペ ラに力を注 ぐようになる。 しかし、「イポ リットとアリシー』、「優雅 なインド』

(1735)、『カス トル とポルクスJ(1737)、『エベの祭』(1739)、『ダルダニュス』

(1739)な どのオペラが上演された場所はヴェルサイユではな くパ リであつた。

これは、ルイ14世の死去 (1715)に 伴ってヴェルサイユの貴族たちはパ リに 戻 り、音楽の中心がヴェルサイユからパ リに移うて来たことと関係 している。

パ リでの演奏の場│よ 一つには私邸におけるサロンであ り、一つには1725年 創設されたコンセール・ スピリチュエルなどの公開演奏会であつた。 ラモーは

1727年頃に国税長官であ り音楽愛好家でもあつたラ・ ププリニエール 〈1693‑

1762)と 知 り合い彼の館に住むようになり、1731年には私設楽団を創設 して音

楽監督兼指揮者となった。ラモーがオペラ作曲に力を注ぐようになったのはこ

うした庇護 があつたか らである。 ラモーがプォルテールやル ソーに出会 ったの も、 ラ・ ププ リニエールのサロンでの ことであつた。

当時のパ リのサ ロンではこうした演奏会がた くさん催 されていたが、コンセー ル・ ス ピリチュエルをはじめ とす るい くつかの公開演奏会 では、 イタ リア・ シ ンフォニアのほかに、次第にドイツ、ウィーンの作曲家による作品も演奏され るようになっていた。

また、既に述べたように当時のパ リは近代ヨーロッパの印刷・ 出版の中心地 の一つであり、パ リの多数の楽譜出版業者のもとからイタリア音楽も含めて様々 な楽譜が出版されるようにな り、作曲家たちはパ リで楽譜 を出版することを求 めるようになっていた。つまり、1700年代のフランス音楽は、演奏会や楽譜出 版によってイタリアやウィーン、ドイツの音楽の演奏や出版などの集積場 となっ てお り、パ リは音楽のコスモポ リタン的な交流の場 となっていたのである1。

1い うまでもなく、モーツァル トがコンセール・ スピツチュエルの依頼により作曲したのが交響曲 31番「パ リ」(1773)で あり、コンセール・ ド・ ラ・ オランピックの依頼によってハイ ドンは

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(3)ウィーンのマ リア・ テ レージア と音楽施策

マ リア・ テ レージア (1717‑1780、 在位1740‑80)の在位時代 はまさに啓蒙 の時代 そのものであった。マ リア・ テレージアはその文化施策 において啓蒙 と

どの ように関わったのであろ うか。

マ リア・ テレージアはオース トリア継承戦争 (1740‑1748)に よ リプロシア な どとの政治的・軍事的関係 に苦慮 し、軍事、教育、税制 などの改革 を進め、

貴族や教会の権力 に制限を加 えて近代化 を図ったが、彼女 自身 は啓蒙思想 には 関心 をもたず、啓蒙思想 に関心 があった息子の コーゼフ2世としば しば衝突 し ていた。マ リア・ テレージアが望 んでいたのは国際的緊張関係 の中でいかして 財政難 と戦 いなが ら帝国の中央集権化 を進 め、近代的で訓練 された軍隊 を整え るか とい うことであったので、彼女 が進 めた改革 が中世的 なものを廃 し近代的 制度 の整備 に寄与 した面があった とはいえ、啓蒙思想 に基づいた君主 とは言い 難い。

マ リア・ テレージア と音楽 との関わ りについていえば、 まず彼女 は小 さい頃 か ら音楽 をは じめ とす る芸術文化 に親 しんでお り、モ ン (1717‑1750)と並ん で当時のウィーンを代表す る作 曲家 ヴァーダンザイル (1715‑1777)を音楽 の 師 としていた ことを指摘 してお く必要 があろ う。財政難 と軍備強化のために宮 廷楽団その他芸術文化 に関す る予算 を縮小する必要 に追 られたことはさておき、

1741年にブルク劇場 を宮廷劇場 として設立 した ことゃ、 プルボン家へのライパ

ル意識 か らパ リの文化 をウィー ンに導入 し、新 しい音楽作品や演奏家 によって 賑わった ことは、 ョーゼ フ2世の政策 と相 まって結果的に啓蒙的 な影響 を与え た。確かに、マ リア・ テレージアの時代 は未だ宮廷がウィーンの音楽生活 を監 督・ 支配 している状態ではあったが、「1750年代 と60年代 を通 じてプィーンで活 躍 した音楽家の多 くは、それにつづ く時代 の音楽生活 をも形成 し続 け」「長い間 ヨー ロッパ最高の音楽 と音楽家たちにふれることによって、プルク劇場の聴衆 は教養 ある聴衆 となっていたJ2のである。すなわち、マ リア・ テ レージアは意 識的 に啓蒙君主 たろ うとしたわ けではないが、回 りにいた啓蒙的な立場の人々 の影響 もあ り、結果 として啓蒙的な施策 も行 なったと考 えるのが妥当であろう。

これに対 して ヨーゼ フ2世は意識的 に啓蒙的であろ うとしたが、彼 は母マ リ

1785年から1786年にかけて 「パ ソ交響 曲J(第82番 〜第87番)を作 出 した。 それ以前にも、1750 年 頃か らシュター ミッツをは じめ とす るマ ンハイム楽派のシンフォニーがパ ソで演奏 されてい

る。

2『

西洋 の音楽 と社会 ⑥古典派 啓蒙時代の都市 と音楽J(音楽之友社、

1996)、

p147、 150。

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ア・ テレージアの宿敵であつたプロイセンのフ リー ドリヒ大王 を啓蒙君主 とし て崇拝 していた。では、 フ リー ドリヒ大王がいかなる音楽施 策 を取 ったのであ ろうか。

(4)プロイセ ンの フ リー ドリヒ大王 とベル リン楽派

ドイ ツでは1616年か ら1648年30年戦争 による荒廃 か らいかに立 ち直 るかが 最大の課題であったが、多数の領邦国家 に分かれてお り、パ リ、 ウィー ン、 ロ ン ドン といつた中心的な大都市 を形成す るには至 ってお らず、立 ち遅れた近代 化 をどの ように進 めるかはそれ ぞれの領邦君主 に任 されていた。 ドイツにおい て中心 となっていたのは、 ミュンヘ ンを首都 とす る南部 ドイ ツのパイエル ン、

ドレスデンを首都 とする中部 ドイ ツのザクセン、ベル リンを首都 とす る北部 ド イツのプランデンプルク=プロイセ ン、そして自治都市 として独 自の発展 をみ ていたハ ンプルクなどであった。 これ らの都市 における音楽上の状況 は次の よ

うなものであつた。

まずバ イエル ンであるが、首都 ミュンヘ ンでは1500年代 か ら既 にイタ リア音 楽家 を招聘 し、音楽 の都 として栄 えていた。1700年代 中頃にはマクシ ミリアン 3世ヨーゼフ・ カールが (在176=1777)が自らブィオ ラ・ ダ:ガンバ を演 奏 し、1763年にはモーツァル トが官廷作 曲家│こなることを希望 して ヨーゼ フの 前で演奏 してい る。 しか し何 よ りもプファルツ選帝侯 カール4世フィ リップ・

テオ ドール (1724(1799)と音楽の名手 を集 めた宮廷楽団の存在が重要である。

シュター ミ 'ツ

親子やカ ンナビッヒをはじめ とす る50〜60人 か らなるこの官廷 楽団の名 はマ ンハ イム楽派 として知 られ、バロ ック期 か ら古典期 への移行 にお いて最 も重要 であ り、強弱の変化 をは じめ とす る様 々なオータス トラの近代的 な表現技法 を作 り出 した楽団 として有名である。しか し、1778年 にフィ リップ・

テオ ドールが ミュンベンに移 るに伴 って楽団 もミュンヘ ンに移 ったが、楽団員 の拡散 もあ りそれ以降音楽的な勢 いは失われた。

次 に ドレス デンであるが、ザクセン公モー リッツ (在1547‑1553)力音楽 に力を入 れた こともあ り、1600年代 に入 るとイタ リア人 を中心 とした楽団員 は 40人 を超 えて高い水準 の音楽 を提供 してお り、 当時 の ドイ ツ音楽 を代表 す る シュッツを輩出 している。1700年代 にはゼ レンカ (1679‑1745)、 ハイニ ヒェン (1683‑1729)、 やがてプロイセンに移 るクプァンツ(1697‑1773)、 やがてハ ン ブルクに移 るハ ッセ (1699‑1783)、 グラウン (1703‑1771)た ちが活躍 した。

ハ ンプルクは貿易 を中心 とす る豊かな自治都市 として、他 の都市の官廷音楽

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とは異 な り、都市の市民 が育んだ独 自な道 を歩んだ。すなわ ち、市参事会 を中 心 に音楽文化 が運営 され、参事会 に雇われた器楽演奏家 による世俗音楽 が中心 に演奏 された。 また、他 の諸都市のような宮廷作山家ではな く、 自分たちで作 曲家サークル を形成 した。 コンギウム・ ムジクム、即 ち音楽仲間 とい う名がこ れを象徴 しているが、既 に1660年にはマティーアス・ベ ックマンがコンギウム・

ムジクムによる公開演奏会 を開始 している。 また、1678年には市立歌劇場 が設 立 され、イタ リア以外 では初 となる公開オペ ラが行 なわれ、オペラが次々 と作 曲され るようになった。ヘ ンデルがイタ リア、 そしてロン ドンに移 る前 に、 ま ずハ ンブルクに向かったのもこうした状況ゆえであった。1721年にはライプツィ ヒか らや って きたテレマ ン (1681‑1767)が楽長 を引 き継 ぎ、1722年 にはマ ッ テゾンが F音楽批判Jとい う音楽情報誌の出版 を始め、さらには1736年にライ プツィヒか らシャイベ (1708‑1776)がや って きて、マ ッテ ゾンや テレマ ンの 支援 を受 けなが ら音楽批評誌 『批判 的音楽家』 を刊行 し、 その中でバ ッハ を批 判す ることになる。(その詳細 は後述する。)

1700年代 の ドイツの主要都市 における音楽状況 は以上の ようであったが、 プ

ロイセ ンの啓蒙君主 フ リー ドリヒ大王は、 どのような音楽施策 を取 ったのであ ろ うか。

プロイセ ン公国時代 にはフ リー ドリヒ・ ヴィルヘルム大選帝侯 (1620‑1688) の施策 によ リベル リンの官廷楽団が作 られたが、1701年に即位 した息子 フ リー

ドリヒ1世 (1657‑1713)は妻 の ゾフィー・ シャル ロ ッテ と共 にイタ リアの有 名音楽家 を官廷 に招 くな どして宮廷楽団の質的 な向上 を図 り、1704年にはプロ イセ ン芸術 アカ デ ミー を作 った。 その息子 フ リー ドリヒ=ヴィルヘル ム1世

(1688‑1740、 在位1713‑1740)は宮廷 の予算 を削減 して宮廷楽団 を解散、官僚 制度や税制、 あるいは工業政策・重商政策 な どの近代化 を図って軍事国家 を目 指 した。

そ して、マ リア・ テレージアの即位 と同 じ1740年にその息子 フ リー ドリヒ大 (1712‑1786)が即位 す る。確 かに父親 と比較 す る限 りにおいてはフ リー ド

リヒ大王 は文化 を好み、即位後直 ちにオペ ラ劇場 を完成 させ、 自らもフル ー ト を演奏 しフルー トの曲を作 った りもした。 そ して、何 よ りも ドレスデンか らフ ルー ト教師であったクブァンツ、 グ ラウン兄弟、 フランツ・ ベンダたちを呼び よせ、C PEバ ッハ と共 にベル リン楽派 を形成 す る。彼 らは啓蒙時代 にふ さわ し く音楽理論書 を著 し、クヴ ァンツの『 フル ー ト奏法試論』(1752)、 エマメエ ル・ バ ッハの Fク ラヴィーア奏法試論』(第 1部1753、 2部 1762)が刊行 され

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ている3。

この ようにフ リー ドリヒ大王 は音楽文化 の興隆のための文化施策 を取 った啓 蒙君主のにように見 える。 しか し他方 では、 フ リー ドリヒ大王 は音楽 において は師のクプァンツに傾倒す るあま り、他 の音楽 を軽視 し、た とえばエマヌエル・

パ ッハ ともしば しば衝突 してお り、エマヌエル・バ ッハ は1768年に自由都市ハ ンプルクに移 っている。 また、グラウンのオペ ラを強制的 に書 き直 させ ること もあった。 この ように彼 は音楽的 には専制的であ り保守的であった といわれて いる4。

フ リー ドリヒ大王が啓蒙思想家 ヴォルテール と親交があ り、 プォルテール を ベル リンに招 いたが、結局喧嘩別れになったことは有名である。ヴォルテール はバスティーユか ら解放 された後 に、 イギ リスに渡 り、 そこでベーコンや ロ ッ クな どのイギ リス経験論、 あるいはニュー トンな どに触 れ、 こうしたイギ リス の思想事情 を『哲学書簡』(1733)と して出版 した。プォル テールの魅力 は、当 時の新 しい啓蒙的 な思想 とその意義 を紹介 す る点 にあった。彼 らは文通 によっ て結 びついてお り、 フリー ドリヒ大王が即位す る頃 には「反マキャベ リ論Jを

書いてヴォルテールに送 り、出版 を依頼 している。彼 はこの書の中で、君主 は 人民 の僕 に過 ぎない とい う社会契約論 的立場 の君主論 を展開 したが、同時に理 性 に基づきなから人民に自由を保障するような専制君主制を理想 としている。

これがフリー ドリヒ大王 とヴォルテールの喧嘩別れの原因でもある。フリー ド リヒ大王の専制的な文化施策は、王立歌劇場を作 リベル リン楽派 とも呼ばれる 官廷楽団を形成 しはしたが、開かれた市民社会のための音楽文化を作 り出すに は至 らなかった:

音楽の理念化としての啓蒙

次に第二の観点から音楽における啓蒙について考えてみよう。音楽 とは何か、

何であるべきか等についての反省的な意識化の動 き、すなわちカン トのいう意

̀「フルー ト奏法試論』の邦訳 はシンフォニアか ら上下巻 として1976年に干」行 されている。エマメ エル・パ ッハのr正しいクラ/ィーア奏法』の邦訳 は全音楽譜 出版社か ら第1・ 2部として2000 年 に刊行 されている。両書は、 レオポル ト・ モーツァル トの「バイオ リン奏法J(1756、 邦訳 は 全音楽譜 出版社 か ら第3版1998に刊行)とあわせて、3大教則本 として有名である。 そのほ か、 ヨハ ン・ ′ ソー ドリヒ・ アグ リーコラの『歌唱芸術への手引 きJ(1757、 邦訳は春秋社か ら 2005年に刊行)など、 この頃多 くの音楽啓豪書が出版 されている。

̀「みずか らの確固 として不変 の音楽上の趣味 を満足 させ るため、音楽活動のあらゆる細部 にわた るまで、ほとん どものに憑かれたような統中1を行なったのである」「啓蒙主義の都市 と音楽』p274。

‑ 8 ‑

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味での 「批判Jが音楽の領域では どの ように起 こったのか、 そしてそれ は古代 や中世 に見 られ るような音楽理論 とは どのように異 なっているのか。

(1)理念に従 った音楽の分類

音楽 が教会 か ら解放 され、 さ らにはテキス トか ら解放 され、種 々の器楽 曲が 演奏 され るようになったバ ロ ック時代 には、古代・ 中世 を支配 して きた ピュタ ゴラス的な比例 と古代 ギ リシア的ない しは中世 キ リス ト教的な字宙観 に基づい た音楽理論 は通用 しな くな り、新 しい音楽分類 とそのための理念が必要 とされ るようになった。

それはち ょうど、ルネサ ンスか らバ ロ ックヘの新 しい学問が芽生 えつつ あっ た転換期 に生 きたRベーコン (1561‑1626)が『大革新Jの1部『学問の尊 厳 と進歩J、 2部『ノゾム・ オルガメムJ(新しい学問組織体系)において新 しい学問体系や方法論 な どを提示 しようとした ことに似てい る。ベーコンが学 問体 系 をや り直 そ うとした意図 は、 自然の光 によって 「知識 の限界 と目標」 を 照 らし出 しなが ら 「自然の解明Jを行 な うことにあった。すなわ ち、 ここには 既 に 「啓蒙Jとい う言葉 の語源である 「光 による照明」 とい う考 えが現れてい る し、 また F知識 の限界 と目標」 とい う考 えにはカン トの「純粋理性批判Jの

考 えも現れている。ベーコンはイギ リス経験 に属す る人物 だ とみ なされている が、単 に綱 験に依拠 すれ ばよい と考 えているので はな く、 ただ ひたす らに経験 に頼 るのではな く論理的必然性 をもった方法 が必要だ と考 えていた。文芸復興 の潮流 の中で15世紀 のプェネ ツィアでは じめて印刷 されたプリニウス (23‑79) の『 自然誌』 は、1601年にイギ リスで英語訳 が出版 された。ベーコンはプリニ ウスの『 自然誌』 に触発 されなが らも、単 にプ リニウスの ように様 々な知識 を 集積 する ことを目指すのではな く、知識 の無限の拡散 につ なが る恐れがない よ うに、集 め られた ものをいかに整理 して保存 し、必要 な ときに取 り出せ るよう にす るか とい う問題 に取 り組 んだのである5。

この ようなベー コンの学問分類 の考 えは、や がて音楽 にも波及す る。すなわ ち、様 々な種類 の音楽 を体系的 に整理 しようとす る試 みが現れ るのである6。 ちろん、ベーコンに先 ん じて古 くはプ リニウス にも自然 の収集 と整理 は行 なわ

°拙論「Rベーコンにおける自然の解明 と職人技術」(いよ 論集J静岡大学人文瓢 58‑1、 20089

6醸参照。 ドイツ・ パロ ック機 論  ボロジーJ(慶応義塾大学出版会、2005) 力鑓 べ られている。

1650〜 1750年頃の ドイツ音楽理論 における器楽のタイ に、 プレ トリウス、キル ヒャーな ど前史的な音楽分類

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れてお り、音楽 において も分類 の試みはあった。問題 となるのは、分類 におけ る基準 となるものが、分類 される当のものの本質の理念化 にどれほど深 く関わっ ているか とい うこと、 そ してその ような試みが求め られ るのは何 よ りも、新 し いものの胎動 に突 き動 かされて これ までのものをもう一度見直 さなければな ら ない とす る発展 的意識 に基づいているとい うことである。

このような問いは、わか りやすい言い方 をすれ ば、伝統的な音楽 の理念 が衰 退 し、新 しい音楽 が生 まれつつ あるときに、理想 とすべ き音楽 とはいかなるも のかを改めて問い直す とい うことで もある。かつて 自由七科 の一つ と考 えられ̲ て きた音楽 は、ルネサ ンス以降の宗教音楽 と世俗音楽 の融合、舞踊伴奏のため の器楽使用 な どによって、「理想 とすべ き音楽 とはいかなるものか」 とい う問い が必至 になった ことを意味 してい る。

と同時 に、音楽の市民化や公共化 に伴 って、 自由な音楽批評 が可能 になって きたこととも関係 している。 この ような市民的な音楽批評 を押 し進 めたのは既 に触れたように、宮廷 に閉 じ込 め られていた音楽が楽譜 を通 じて ヨーロ ッパ に 広 く行 き渡 るようになった こと、公開演奏会 が行われるようになった こと、音 楽批評誌が登場 した ことな どを要因 とす るが、特 に音楽批評誌 は音楽 について 批評的 に語 るわ けであ り、音楽 を聴 く楽 しみだけでな く、 それ を反省 し意識化

して語 る楽 しみを作 り出 した7。

その ような試 み を代表 す るもの として、 ここで は まず ヨハ ン・ マ ッテ ゾン

(」ohann Matuleson、 1681‑1764)をとりあげたい。ハ ンブル クで生 まれ育 っ たマ ッテゾンは1722年か ら Critica Musica"(音楽批評)を刊行 し、 ミッツラー (1711‑1778)が これに続 いて Neu er OfFnete muSkaLsche Biblotllek"(新 楽文庫)を刊行 した。マ ッテ ゾンは、 これ に先立 って都市 における新 しい音楽 の息吹を背景 に Das erOfFnete Orchestra"(新 しいオークス トラ、1713)に いて、音楽の分類 を試みている。その第2部で作 曲の仕方 について述べてお り、

特 に第4章で様 々な種類の音楽 の違 いについて述べ る。

マ ッテゾンは、さらに Das Forschcndc Orchcstrc"(オ ーケス トラ研究、1721) の第一部で 「感覚 の復権、 または感覚の質 の擁護」 について述 べ る。音楽 に関 す る 「感覚の復 権Jが意味する ところは、一言でいえば音楽 の ピュタゴラス的 比例理論 に対する批判である。 ピュタゴラス以来 ブィンチェンツォ・ ガ リンイ 7サロン文化 もそうした批評的語 りの場ではあったが、それは限 られた少人数の世界であ り、その

意味ではそれまでの宮廷文化の延長 にあるとも考 えらわヽ 批評誌のような多数の人 に開かれた批 評 とは異 なる面 ももっている。

(12)

(1520?‑1591)に至 るまで音楽理論 の基本 は比例 にあった。 ところが、イタ リ アではローマに居住 したスウェーデンのク リス トリーナ女王のアカデ ミーが も とになって1690年にローマで倉」設 された 「アルカディア・ アカデ ミーJにおい

て、 このよ うな比例 に基 づ く音楽 に対 して反対の立場 を取 った8。 このアカデ ミー には、スカル ラ ッティ父子、 コンル リ、ヘンデル も参加 し、マ ッテゾンも AHstosseno Juniorと い う名で これに参加 していた。また、マ ッテゾンは本来は 外交官であ リイギ リス大使 の秘書 にな り、 またイギ リス人 と結婚 してお り、イ ギ リスの経験論的立場 も理解 していた。

さらにマ ッテゾンは、それ ら書物 の集大成 とでもいうべき Dcr volkOmmene

Capclhneister"(完全 な楽長、1739)を著す。 そこでは、 そもそも音楽 とは何 か とい うことへの反省的意識か ら、次の ように述べている。「音楽 とは、巧みで快 い響 きを思慮深 く配置 し、響 きを相互 に正 しく組み合わせ、好 ましいものへ と 完成 させ るよ うな学 問で あ り技術 であ る」(Musica ist eine WIssenschafFt und ICunst gesclllCkte und angcnehme Klange kluJch Zu ste■ en,richig an cinander zu mgcn,und Leb■ ch hcraus zu brmgen、 1部2章15)。 また、序論 「第 7 章 Von der Melodlc und HarmOme」 (旋律 と和声 について)で「旋律 は和声 か

ら生 じるべ きであるとい う考 えは、誤 ったものであ り、誘惑的であ り有害なも ので ある」(Da3 dlc Melodie aus der HamЮ nie entspingen sol,ist ein falsche■

verfuhrerlschcr und schadlicher Satz,7‑22)と 述べて、さらに第2部「第5章

Von der Kunst eine gutc Melodie zu machen」 (良い旋律 を作 る技術 について)で も、作 曲の基礎 は旋律 であるとして和声 に対 して旋律 の優位 を述べている (2

‑5‑5,2‑5‑26)。

(2)シャイベによるパ ッハ批判

マ ッテ ゾンが音楽理論 に関 して このような活躍 を見せている頃、市民文化が 早 くか ら花開いたハ ンブル クに、 ライプツィヒで生 まれたヨハ ン・ ア ドル フ・

シャイベ (1708‑1776)が や って くる。 そして、マ ッテ ゾンやテ レマ ンと知 り 合 いにな り、彼 らの支援 を受 けなが ら、 シャイベは翌1737年か ら1740年まで隔 週で音楽批評誌『批判的音楽家』(Der c五tische Musikus)を 刊行 した。その「批

8マッテゾンつcr vllnkom nene capenmeisteF序 論の「第6章 Von der mus:kalヽ chcn Mathematikl では、「精神 としての魂力動 かされるは感覚的にである。 どの ようにしてか音 自身 によって でも、 また音の大 きさや形態だけでな く、 その巧みヽ 常 に新 しく響 き、尽 きることのない音の

つなが,によってい delal g.・sno mmernell―.―

両 唾 Z… 硼匈 』0

であるJ、 と述べている(6‑17)。

(13)

判的音楽家』(第6号1737年5月14日)でシャイベがバ ッハを批判 し、修辞学 者のヨハン・ アプラハム・ ビルンバウム (1702‑1748)が反論 し、両者の間で 論争があったことは広 く知 られているところである9。

これを若 きシャイベの勇み足 と考えることは容易であるが、ここではまずマッ テゾンもシャイベも使用 していた 「批半J」 という言葉に注 目してみたい。シヤ イベのみならず、既にマ ッテゾンも雑誌に「批判」という言葉を使用 してお り、

「批判」という言葉が音楽に対する反省的意識化が雑誌 という市民に開かれた形 で行われ始めたことを示 している。さらに、シャイベがやってきたライプニッ ツには、啓蒙的 自然法学者 のゴ ットシェー ト(1700‑1766)力Sお り、彼 は Versuch einer kritischen Dichtkunst fur die Deutschen"(ド イツ人のための批判 的作詩法の試み、1730)を 書いていた:1734年からライプツイヒ大学で詩学 と 哲学を教えていたゴットシェー トは、フランス趣味を手本 としつつ ドイツのパ ロック風の詩を批判 し、作詩法の改革を提案 していた人物である。また、ゴッ トシェー ト自身がヘンデルとテレマンを最も優れた ドイツ作曲家 と考えてお り、

シャイベは音楽に関してもゴットシェー トの影響を受けてテレマンのもとでバ ッ ハ批判 を書いたと思われる。シャイベはゴットシェー トのように新 しい音楽の あり方を批評雑誌を通 して市民に問いかけながら、バ ッハ音楽の批評を試みた のである。それは単なる若者シャイベが勢いに任せてバ ッハを批判 したという ようなものではな く、ライプツィヒ大学で ドイツ語による講義を宣言 しドイツ 啓蒙の父 と呼ばれるようになった トマジウスやプォルフ、そしてゴットシェー トたちライプツィヒに関わる啓蒙主義の流れが生んだュ象の一つといえょう。

では、テ レマ ンとパ ッハ とい う対立 において、 シャイベは何 を批判 していた のか。 まず、シャイベはパ ッハ を否定 したわけではな く、彼 を ドイ ツの優 れた 作曲家 として高 く評価 していた ことを確認 しておかなければならない。 シャイ ベによるパ ッハ批判 は、批判部分 だけに焦点があて られがちであるが、批判 に 先立つ部分 ではパ ッパ を高 く評価 している。続 く批判部分で は、次 のように述 べてい る。

「この偉大な人物は、もしもっと快適で、ごてごてと飾 り立て混乱 した複雑な や り方 (durch ein schw01sdges und ve■ vorrenes Wesen)に よって自然 をは く 奪 し(das Naturliche entzOge)、 過剰すぎる技巧によって自然の美を曇 らせ隠 (lhre schonhcit durch allzugrosse Kunst verdunkelte)こ とがないならば、全

'本村佐千子「シャイベによるパ ッハ批判再考」(「転換期の音楽J、 音楽之友社、2002)参照。

(14)

国の讃嘆の的 となっていたであろ う。彼 は指 によって判断す るか ら、彼 の作品 はいたるところで演奏 困難である。 なぜ な ら、彼 は歌手や演奏者 に、彼 がクラ ブィアで演奏 で きることをそのまま彼 らの喉や楽器 によって行 なうように求め るか らである。 しか し、 それ は無理 である。すべてのや り方、すべての装飾、

そ して人 々が奏法 のもとで演奏すべ きと理解 しているすべてを、彼 は自分の記 譜法で表現 し、 それによって彼 の作品か らは和声 の美 しさがな くな り、歌が全 く聞 き取れな くなっているのである。(注 :す べての声部 は相互 に同 じような重 要 さで機能するので、人 は主声部(=旋)がわか らない(man erkennet darunter kcine Hatlpts―c)のである。)」

ここには、複雑 なポ リフォニーではな く、旋律 を基礎 として人間の感性 に訴 える自然 な音楽 を理想 とする姿がある。 それは後述 するようなル ソーにも通 じ る音楽の理想の先取 りで もあった。

(3)ク ヴァンツによる音楽 の分類 と「よい音楽家、 よい音楽の見分 け方」

次 に、既 に触 れ たクヴァンツの『 フルー ト奏法試論』 に日を向 けてみ よう。

室内シンフォニアが次第 に大 きな編成 のオーケス トラに変 わるに伴 って、 それ まで使用 されて きた リコーダーはよ り大 きな音 の出るフルー トヘ と移行 したが、

この書 には「バ ロ ック音楽演奏の原理Jとい う副題 があるように、 その奏法 に ついて書かれた本 である。最後 の第18章では 「よい音楽家、 よい音楽の見分 け Jと して、 当時の音楽 には どの ようなものがあ り、 それぞれのタイプに応 じ た よい音楽 とはどの ようなものであるかについて述べてある。

そこでは、 まず音楽 の質全般 について次の ように述べ られてい る。

「音楽 とい うものは、…一定 の規則、そ して多 くの経験や練習 によって得 られ 且つ洗練 され た良 い趣 味 に従 って判 断 され なけれ ばな らない もので ある」

7)

「音楽を評価しようと思う者は、理性、よい趣味、技術に関する規則を認識す る為に充分努力 しなければならないJ(§ 9)

ここで も 「良 い趣 味Jと関連づ けて よい音楽 が説 明 されている。 また、良い演 奏 には変化 が必要であ り、フォルテ とピアノを交替 させ なが ら音楽の「光 と影

J

をはっき りさせ ることが求 め られてい る。逆 に悪い演奏 とは、同 じ色合 いで ピ アノ とフォルテの交替 もな く、 また頼 まれて人のために歌 った り演奏 した りし てい るように自ら心 を動 かされ ることな しに冷 たい感 じで演奏 するような場合 である。 この ような悪 い演奏 の場合 には、聴衆 は楽 しむよ りは睡魔 におそわれ、

(15)

曲が終わると喜ぶ ということが起 こってしまう、 と述べている。「光 と影」を明 確にすることはンオポル ト・モーツァル トも求めていたことであり、マンハイ ム楽派のデュナミークの表現技法にも通 じることであるが、1750年頃には「光 と影」を明確に示すことによって誰にでも簡単明瞭にわかる音楽が求められる ようになってきたことを示 している。

また、よい演奏のためには音楽の分類について知 り、それぞれの特性にあっ たような演奏が求められる。クプァンツはまず 「音楽 というものは、声楽山か 器楽曲かのどちらか」であり、「声楽曲は教会か劇場か室内かのいずれかの為に 作 られているJが「器楽曲は、これらの三つの場所のどこででも演奏されるも のである」 とする(§ 18)。 (さ らに細かい分類が続いているが、 ここではその 詳細には触れない。

)

(4)ルソーと音楽の啓藤

クヴァンツがプロイセンで音楽の分類やよい音楽 とは何かについて記述 して いる頃、パ リではルソーが精力的に音楽論を展開していた。ルソーがラモーを 批判 したことはプフォン論争 という名 とともに広 く知 られているが、 ここでは イタリア音楽 とフランス音楽をめ ぐる論争には立ち入 らず、啓蒙思想家ルソー が音楽 をどのように考えていたに焦点をあてたい。

ルソーは少年時代にジュネ‐プで トリノの官廷楽団の演奏に触れ音楽を学び ラモーの「和声論』などの音楽理論を吸収 しながら、1743年にパ リで「近代音 楽論究』を出版する。また音楽家 としては、1745年にオペフ『優雅な詩の女神 たち』を完成 し、その一部をラ・ ププリニエールの私邸で演奏 している。 この ときのラモーによる厳 しい批評など、ルソーはラモーによって音楽家 としての 行 く手を塞がられるような思いをする。 しか し、ル ソーの作曲したい くつかの 曲はコンセール・ スピリチュエルで演秦された。1749年に『百科全書』の音楽 に関連する項 目を執筆 し始め、1750年の「学問芸術論』の出版によってルソー の名は広 く知 られるようになる。さらに、1753年には『フランス音楽に関する 手紙』を出版 し、既にできあがっていた『音楽辞典』を1767年に刊行 している。

このような音楽に関するルソーの活動の中で、 ここでは「近代音楽論究』 と

「音楽辞典』 を取 り上げてみたい。「近代音楽論究Jでは、それまでの複雑な記 譜法に対 し、誰でも簡単に習得できる記譜法を提案 しているが、その中でルソー は次のような興味深い言葉を記 している。すなわち、「音楽は理性的活動の友」

であるにもかかわらず、音楽の喜びが冷静さを失わせるためか、あるいは音楽

(16)

家があま りものを考 え る人 たちではないためか、 これ まで音楽 は考察 の対象 に なって こなかった学問の一つである、 そして音楽の習得 には大変手間がかかる とい う問題 があるにもかかわ らず、 その問題 の原 因を明 らかに しようとして こ なかった、 自分 は ここで規則 を簡略化 して、誰で もす ぐに楽譜 を見 て歌 えるよ うに したい、 とい うのである。 ここには、一般的 には感性的対象であると考 え られ る音楽 を、 その内的構造 を論理的に把握 し、原理 に従 って整理 しようとす るル ソーの姿 が うかがえる。

音楽論 の集大成 ともみ なすべ きF音楽辞典』 には音楽 に関する多数の項 目が 記載 されてい るが、その中か ら重要 と思われるものを抜 き出 してみ よう。まず、

ル ソーは音楽 を 「音 の組み合せ の芸術」 と考え、組み合わせ の原理 とその効果 の究明は深い学問 になる とい う。 それは音楽 の理論であるが、実践的 には、音 楽 の理論 をいか して具体的に適用 して よ り効果的た らしめるか とい う技術であ

り、すなわち作 曲法 である。演奏 は音 の産 出に関す る機械的操作 である。

では、 どの ようにすれ ばよ り効果的な作 曲が可能 となるのか。ル ソーは、す べての芸術 は精神 に喜 ぴを与えるが、 そのためには対象は統一性 を持っている 必要 があるとい う。 なぜ なら、対象が分散 しているならば、注意 が分散 し、落 ち着 かず、精神 的 な満足 が得 られないか らである。では、音楽 にお ける対象の 統一性 とは何 か。ル ソーは二つの ことを考 えている。

一つは、UNITЁ DE MЁLODIE(旋律の統一性)の項 目で説明されているよ うに、様々な声部が同時に響 く際に、それらが互いに障害 となって混同するの ではな く、逆にそれぞれが協力 し合って結合された声部が一つの歌になって間 えて くるような場合である。 これが「旋律の統一性」 と呼ばれるものであ り、

自然の美 しさが曇 らされ、主声部が間 き取れないとい うシャイベのバ ッハ批判 と共通する考えをみることができる。

またもう一つの統一性 について、ル ソーはDESSEIN(構)の項 目で次 の よ

うに述べてい る。構想 において重要 なのは、美 しい旋律や和声 を作 るだけでは 十分 ではな く、各声部 が主題 に関係 し、旋律 や和声 が主題 に結 びつ けられ、曲 の流 れ全体 が主題 において一つ になっていなけれ ばな らない。す なわち、 曲に お ける音楽的 なものすべては、曲を統一す る共通 した想念 に関連 していなけれ ばな らない とい うのである10。

今 日のわれわれ に とって この ことは当た り前 の ように見 えるが、様 々な事 柄

Ю我々はここに、主題 のもとに楽山を統一的 に構造化す る「ソナタ形式」の出現 を垣間見 ることが できる。

(17)

を集め記述す るのがプ リニウスの 自然誌の考 えであ り、ベーコンが原理的 な分 類・整理 を求 めた とするな らば、 ここでル ソーが述べているように諸契機 が全 体 において統一 されてい ることを求 めるような思考 は、 まさに百科全書的であ る。 とい うの も、百科全書Encyclopёdieと は知 の並列 ではな く「知 (paideia) を円環 (りcle)化することJだか らである。すなわち、百科全書 は単 にAか Zま での項 目を羅列 す るので はな く、 それぞれの項 目が相互 に どのよ うに結 び 付 いてい るかを示 す ものである11。 ル ソー も『音楽辞典』 において しば しば他 の項 目への参照を指示 してい る。

ダランベール と共 に百科全書 を出版 したディ ドロは、1754年58の断片 か ら なる F自然 の解釈 に関す る思索J(Pencёes sur rintcrprёtation de h nature)を 出版 したが、 その中で 「すべて は、感覚か ら反省へ、 そ して反省か ら感覚へ と 往来す ること、す なわち絶 えず 自己へ と立 ち帰 ると同時 に自己か ら出てゆ くこ とに帰着する」(Tout se rё duit a revenir dcs scns a la rё nexion,et de la r6■αおn

aux scntt rentrer en soi et en sordr sans cesse、 断片9)と述べている。 自己か ら出てゆ き様 々な経験 を経 て自己に立 ち帰 る運動 、これはやがてヘーグルによっ てエンチュクロペディー として体系化 され る。音楽 においては、 それはヘーゲ ル と同年 に生 まれたベー トーヴェンによって完成 された ソナタ形式 における2 つの主題の展開 と再現 とい う論理で もあった。

シンフォニーの形成 と啓蒙

オペ ラ・ シンフォニアが室 内シンフォニア、 そ して交響 曲へ と発展す る過程 は、啓蒙時代 にお ける自律 的音楽の生成過程 として捉 え られ るが、 それ はオペ ラ・ シンフォニアにおいて連続 して演奏 される3部が次第 に独立 した楽章形式 を取 り、さらに第1楽章が ソナタ形式化 してゆ く過程、すなわ ち「知 の円環化」

としての百科全書 と同様 の論理 をもつ、楽章全体 が主題 を中心 として展開 。再 現 されて円環的な統一性 を獲得す る過程 であった。

1700年代 において、儀式 における道具的音楽ではな く、音楽 その ものを聞 く

ために人が集 まる公開演奏会 自体 が市民 の間 に広がった ことは、既 に述べた よ うに啓蒙が含んでいる公共性 や 自律 とい う理念 と関係 す るが、 自律的音楽 にお いては音楽 を聴 くことは娯楽的ではな く、人間の人間性 を陶冶 し自律化 を促 し H拙論「『百科全書Jに見る

artと

職人技術J(r人文論集』静岡大学人文学部、60‑1、 2119)参 照。

(18)

て人間 を自己完成へ と導 く手助 け とならなければならない。啓蒙 における自律 は、ル ソー的 に言 えば、人間の自由意志 と自己完成能力 に裏付 けられたものに ほかならない。

音楽 が感性 的な楽 しみであるだけで な く、精神 的 な内容 の思考媒体 となるこ とが どの ような歴史過程 を経 て可能 になったのか、 それ を以下 において1700年 代 中頃のシンフォニアが ソナタ形式のような有機 的な統一性 を獲得す る過程 と い う観点 か ら考 えたい12。 この時代 は音楽史的 には、バ ロ ック期 と古典期 の狭 間 として扱われるか、前古典派 として扱われるが、啓蒙思想 を背景 にした音楽 の 自律化過程 として極 めて重要であると思われ る。

(1)始ま りとしてのイタ リアのシンフォニア

古代 ギ リシアに起源 をもつsymphOniaと い う言葉 は時代 によって その意味内 容 を変 えなが ら受 け継がれ、バ ロ ック時代 に至 って もその意味す るところは曖 昧 なままに とどまっていた。多様 な意味をもつ シンフォニアが次第 に今 日の交 響 曲の ようなスタイルヘ と発展 したのは18世紀 の ことである。 その始 ま りはイ タ リアにあった。

イタ リア風序 曲 と呼ばれ るオペ ラ・ シンフォニアのスタイルを確立 したのは、

ナポ リのAスカル ラッテイ (1660‑1725)であ り、 それを演奏会用 の室 内シン フォ・ニアヘ と進 めたのは ミラノのサ ンマルティーニである。 ここにオペラか ら は独立 した器楽 シンフォニアが生 まれ る。      

オペ ラの始 ま りを飾 る一つであるモ ンテブェルデ ィのオペ ラ『オル フェオ』

(1607)の場合、序 曲 トッカータはわずか16小節 であった。 そのお よそ100年 Aスカル ラ ッティのオペ ラ ramor volublle e tiranno"(1709)で は、序 山シ ンフォニアは教会 ソナタ風 か ら借用 したPresto Andante Allegrissimoの 3部 式 を とってい る。17小節 か らなるその第1部

F‐

durか ら始 ま り属調 のC‐durで

終わ る。

1732年 のサ ンマル テ ィーニ のオペ ラ Memet"の序 曲SinfOiaは 、Presto‐

Andante Presto ma non tantoと い う3部である。 このシンフォ■アを古典派 に お ける ソナタ形式 と比較 す るために、 よ り詳細 に検討すれ ば次 の ようになる。

1部は ‖ 24小    33小 ‖で、後半33小節 は12小 (B)+21

2ただし、残念 なことではあるが、主 として入手可能 な楽譜の都合上、取 りあげるものについては 限 りがあ り、あ くまq列としてはどの意味 しかもたせ ることができない。なお、 ここで検討 した シンフォニーの楽譜の多 くは、IMSLPに拠 っている。

参照

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