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呼吸す る身体か ら考 えるイ ン ドの音楽

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呼吸す る身体か ら考 えるイ ン ドの音楽 (上 利博規

)

呼吸する身体か ら考えるイン ドの音楽

上 利 博 規

はじめに

西洋近代の芸術は、自己を精神的なもの として描 き出そ うとした。そのため、

芸術行為が身体 と結びついた生命的なものであ り、その根本 には 「呼吸する身 体」 とで もい うべ き自然 と切 り離せない 自己のあ り方 をあま り重要視 して こな かつたよ うに思われ る。

アジアにおいては、呼吸す ることが 自己 と世界を結びつ け、 自己 と世界の生 命的環流を促す もの として大切 にされてきた。近代芸術は精神的なものの 「創 造」や 「表現」 に重点が置かれ ることによって、内 と外の区別 を重視 し、内に あるものを外 に押 し出す こと (ex‐ pression)に 重点が置かれてきたが、アジア が長い問考 えてきた ような内 と外の環流 とい う問題 にはあま り関心を示 して こ なかったのではないか と思われ る。 M.ウ ェーバーは『音楽社会学』において西 洋近代の音楽は合理化を進め、それ によって和声 を中心 とするダイナ ミックな 音楽の展開を作 り出 した ことを高 く評価す る。アジアの音楽は、そのよ うな観 点か らは同 じ地平 にとどま り停滞 しているかのよ うにしか見えないかも知れな い。 しか し、静かに呼吸 し、宇宙の中の 自己を感 じるとい う別な観点か ら見れ ば、アジアの伝統音楽は近代音楽が忘れてきた大切な ことを指 し示 しているの ではないか とも思われる。

以下、音楽の本質を「歌 うこと」に見なが ら、しか しそれが単 に「息を吐 く」

ことではな く、同時に吸 うことでもあ り、 さらには生理的呼吸以上の何か、お

そ らくは宗教 とい う名で語 られてきたものを呼吸す ることでもあるのではない

か とい う視点か ら、アジアの音楽、特 にイン ドの音楽のもつ意味を考えてみた

い。 20世 紀 には電気を使 つた音楽が浸透 した。しか し、それは音楽 における「呼

吸す る身体」 とい う重要な側面が忘れ られ ることでもあ り、 さらなるデジタル

化が進行す る今 日、音楽は 「呼吸す る身体」か らさらに離れて行つているよう

に見える。イン ドの音楽が どのよ うな呼吸をし、 どのよ うにして 自己 と世界 と

のつなが りを感 じ取ることのできるより美 しい呼吸の仕方を見出してきたかに

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ついて少しでも明らかにできればと考える。

1  音楽 の基本 を「呼吸す る身体 」 に見 る

音楽 とい うとどうしてもまず聞 こえて くる音 を問題 にした くなる。た とえば 誰でも知つているシ ョパンの ノクターンの楽譜 (譜 例 1)を とりあげてみ よう。

音符は確かに個々の音 を指示 してお り、一つ一つの音 を拾 ってゆ くことによつ て演奏は可能 となる。しか し、それは機械で行な うことも可能な作業であつて、

楽譜 に書かれた音符を機械的 に音 にす ることによつてそのまま音楽が成立する わけではない。また、この曲を楽理的 に取 り扱 うことも可能である。た とえば、

始ま りの和音が変ホ長調 Es‐ durで あ り、 続 く和声展開が どのよ うになっている か とか、わずか三十五小節の曲ではあるが、その形式がお よそ八小節 を単位 と して A一 B一 B'一 Cの 形式 をとってい る といった分析 を行な うことである。し か し、い くらこのよ うな分析 を重ねていつて も、そ こか ら生 きた音楽が立ち上 がって くるわけではない。

   T 

譜例 1  シ ョパ ンのノクター ン

演 奏 において は音楽 をいか に音 楽 的 に表 現 す るか を問題 とす るが、 そ の際最 も大切 な こ との一つ は、楽譜 か ら呼吸 の仕方 を受 け取 る こ とで あ る。音 楽 が単 な る音 の集合 とは異 な るのは、音楽 はまず 「歌 うこと」 だか らで ある。歌 うこ とは呼吸 の上 に成 り立 ってい る。 いか に美 し く呼吸す るか、 そ こに歌 うことの 基本 があ る。 シ ョパ ンの楽譜 に即 して言 えば、呼吸 の仕方 は次 の よ うにな る。

最初 の音 で あるシ ♭の音 を右手 で弾 き始 め る前 にまず演奏者 は息 を吸 う。そ し

2

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呼吸する身体から考えるインドの音楽 (上 利博規

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てスラーのついている一小節 を息を吐きなが ら演奏する。そ して次のスラーの シ ♭の音が再び始まる前 に演奏者は再び深 く息を吸い込む。つま り、スラー と スラーの間には、ブレスが隠 されている。 さらに、四小節の始ま りの前 には深 く大 きく息 を吸い込み、 シか らレまで大 き く跳躍 し、最初の四つの小節の山場 であるフォルテヘ と向かってゆ く。それが終わると右手のメロディに休符が入

り、息を整 えた後 に新 しくメロデイが始まる。

一般 にはフレーズ とい う言葉で表現 されているこの ような息の仕方が演奏を 大 き く支配 している。だか らこそ、 ソロの演奏であろ うとオーケス トラのよ う な大人数 による演奏であろ うと、演奏が中断 された場合には、ス トップした箇 所か らではな くフレーズの頭か ら再開 されることになる。 フレーズは一つの呼 吸だか らフレーズの途 中か ら始めることは呼吸の途 中か ら始めることになるか らであ り、まずフレーズの頭 に帰 つて息を吸 うところか ら始めなければな らな いか らである。音楽のいのちは、生身の身体 における呼吸によつて支えられて お り、その音楽的表現がフレーズ とい う一つのま とま りである。フレーズの途 中か ら始めることは音楽のいのちの切断 にほかな らない。個々の音の美 しさや 音楽的価値は、フレーズの中で与えられ る。

ところで、一般的 に歌は息を吐 くときに歌われ る。息を吸いなが ら歌 うこと はまずない。では音楽は常 に息を吐きなが ら演奏 され るのだろ うか。人の声や 管楽器の場合は、息を吐 くことが中心 になる。 しか し、た とえば弦楽器の場合 は、弓のアップ・ ダウンがフレーズの基本 となるために、息を吸いなが ら演奏 す ることも可能 となる。弓がダウンの際に息を吐き、アップの際に吸 うことが 比較的多いが、しか し必ずそ うなるとい う拘束的なものではない。先 に見たシ ョ パ ンの ピアノ曲のような場合は、その身体運動が手や指が中心になつて くるの で、弦楽器の腕 を中心 とす る弓の運動以上 に呼吸か らは自由に演奏 される。 ピ アノの場合の呼吸の仕方は二通 りある。一つは、声で歌 うの と同 じよ うに、ス ラー とスラーの間や、音符 と音符の間の体符の時に息を吸 う場合である。 も う 一つは、長いフレーズを演奏 している最 中に吸 つた り吐いた りする場合である。

歌や管楽器の場合では息を吸 うことは演奏の中断 につながるので、特殊な技法 を使わない限 り後者の ようなことは起 こらない。

弦楽器 とピアノは呼吸の仕方は似ているが、 しか し少 し詳 しく見れば、楽器 の特性 によって演奏が支配 されているため、呼吸の仕方 も異なっていることが わかる。た とえば、ベー トーヴェンのチ ェロソナ タ第一番第一楽章のア レグロ の開始部分 をとりあげてみ よう。 この楽譜は最上段がチ ェロのパー トであ り、

下の二つの段が ピアノのパー トである。 ここに示 したのは主題をピアノの右手

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̀み

●●事事

  

°L」 L′

̀̀333‑

 

譜例 2  ベー トーヴェンのチェロソナタ 譜例 3  同左

で演奏 している左の楽譜 (譜 例 2)と 、引き続いて同 じ主題 をチェロが演奏す る右の楽譜 (譜 例 3)で ある。主題の提示 とその伴奏 とい う同 じような意味を もつ部分を演奏す る楽器をチェロとピアノの間で交換 しただけのよ うに思 える。

ところが、譜例 2の ピアノの右手 と譜例 3の チェロによつて演奏 され る同 じ主 題 には、なぜか同 じよ うなスラーがほ どこされていない。 これは、 この主題 を チ ェロで演奏する場合、   ドの音はダウンの弓で、シラソフフアをアップの弓で 演奏す ることが想定 されているか らだ と思われる。機械的 に作曲するな らば、

こ うした身体 を伴 つた演奏上の事情 を想定せず、 ピアノとチェロは同じような スラーで よかつたはずである。弦楽器 とピアノは同 じよ うな呼吸方法 を取 るは ずであるが、にもかかわ らず楽器が異なればやは り細かい部分ではそれぞれの 楽器で異なつた演奏方法が求め られ、それ に応 じた呼吸の仕方が求め られてい るといえよ う。ちなみに、 この一小節 をビアニス トとチェ リス トが どのような 呼吸で演奏するかを CDか ら読み取 ることは困難である。 CDの 演奏は耳に入 つ て くるが、演奏を通 して 「共 に呼吸すること」には限界がある。

歌や管楽器の場合では、 どこでブレスをす るかは とて も大切な ことになる。

スラーが続 くロング トーンは大変であるし、スラー とスラーの間に休符がない 場合には、すばや くかつ優雅 に息を吸 う技術が必要 とされ る。逆 に休符があれ ば、安心 してゆつ くりと息を吸 うことができる。 こうした ことを考えれば、歌 や管楽器 においては息 を吐 く時間 と息を吸 う時間のアンバ ランスは大 きい とい える。弦楽器や ピアノの場合は、音楽が 「歌 うこと」を基本 とする以上フレー ズの間ですばや く息を吸 うことが要求 されることも多いが、 しか し息を吐きな が ら「歌 うこと」も可能であ り、「歌 うこと」における身体的呼吸の拘束性は比 較的ゆるやかなものである。

歌や管楽器 における息 を吐 く時間 と息を吸 う時間のアンバランスの問題は、

音符 と休符 との関係の問題で もある。休符 (英 rest、Pause、pause、

̀

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呼吸す る身体 か ら考 えるイ ン ドの音楽 (上 利博規

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pausa)は 日本語 において も欧米言語 においても、音符 と音符の間の休み とい う ニ ュアンスをもっている。 しか し実際の演奏において休符が単なる休みでない ことは、演奏者がいつ も注意 を傾けることであ り、学習者が しば しば教師か ら 注意 されることである。では、演奏者は休符 においてはいかに呼吸することに なるのか。音符の場合ではその呼吸の仕方は、音の長 さや高 さの指示、あるい はスラーな どの指示記号な どによつて、解釈 とい う問題があるにせ よ、その呼 吸の仕方は暗黙の内に伝 え られてい る。 しか し、休符 においては呼吸の仕方 を 伝 えるよ うな指示は何 も書 き込まれていない。

休符 における呼吸の仕方 について、い くつかの例 を通 して考えてみ よう。短 い休符の場合はそ こで息を吸 うことが多いだろ う。長い場合は、一般的 には演 奏 しているパー トに耳を傾 け、その音楽が伝 える呼吸を共 に呼吸することが望 ま しいであろ う。 さらには、た とえばヴィヴァルデ イの『 四季』の「春」の第 二楽章では、チェロとコン トラバスは完全 に休みである。 したがつて、 自分の パー トが出て くるときのために、他のパー トの進行 に調子を合わせなが ら休符 の箇所 を聞いているとい う意味があま り強 くない。一つの楽章 をまるまる休む 間、 どのよ うに音楽的に休 んでいいかの手掛か りは失われ、間の取 り方がよく わか らな くなる。チェロ奏者 とコン トラバス奏者は、 この楽章の間だけ演奏者 ではな く聴衆 となるのである。 とはいえ、それはただ聞けばいい とい うことで はない。聴衆 も「聞 く」 ことによつて音楽 に参加す るよ うに、チェロ奏者たち も舞台の上で静 けさを保つ ことによって、演奏者たちを支えているといえるの か も知れない。

次の楽譜 (譜 例 4)は ベー トーヴェンの第五交響曲「運命」の冒頭の有名な 箇所である。 ここでは休符か ら音楽が始まるが、 CDで 聞 くと始 ま りは休符で はな く音符 になつて しま う。 レコー ドや CDは 音楽の普及 に大 きな力を発揮 し たが、演奏者が休符をどのよ うに演奏 しているかを伝 えることはできないまま 今 日に至っている。音楽的 に強い緊張が要求 され るこの八分休符 において演奏 者が息を吸 うことは考 えられない。息を吸 うのは八分休符の前である。 この部 分の呼吸は、おそ らくは強 く吐 くことが一般的ではなかろ うか。また同じく「運 命」の第一楽章のコーダに入 るとき全員が休符のいわゆるゲネラル・パ ウゼが

con bsio

譜例 4  ベー トーヴェンの「運命」

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出て くるが、そ こでは息は止め、次の音が出る瞬間に強 く息を吸 うことになる だろ う。以上のように、休符 においては、そ こで休んでいればよい とか、息を 吸えばよい とか とい うことではな く、音符 と同様 に音楽的な呼吸の仕方がその フレーズによつて要求 されているとい うことがいえよ う。そもそもフレーズ と は音符 によって指示 され るものではな く、音 とい う知覚 され るものを超 えた流 れであるか ら、呼吸の仕方 によつて音符や休符を超 えた次元 としての 「音楽の いのち」が作 り上げられる。

さらには、フレーズをもたない休符 とでもい うべ きものもある。ベー トーヴェ ンの第九交響曲の第一楽章、第二楽章、第四楽章はいずれ もその最後がフェル マータのついた全員休符、ゲネ ラル・パ ウゼである。実際の演奏 においてはこ の休符はあま り意識 されてお らず、指揮者が指揮棒 を長 く静止 させている例を あま り見ない。 J.ケ ージの『 4′ 33″ 』はその表題の時間が示す通 り、音のない 状態が 4分 33秒 続 くか ら、その間人は自由に呼吸ができる。 しか し、第九の場 合、フェルマータのついた休符の間、人は呼吸 を止めることをベー トーヴェン は要求 したのであろ うか。

いずれにせ よ、休符 における呼吸の仕方 になにが しかの とま どいを感 じるの は、知 らず知 らずの うちに音楽 を音 とい う聴覚的現象 として考え、「呼吸する身 体」 を忘れているか らではないか と疑いた くなる。近代音楽は 19世 紀 に入 つて ステージ音楽・ホール音楽へ と発展 してゆ くにつれて、多 くの聴衆 に届 くよう 強 く音を出す ことが求め られた。そのため、強い音 と強い音 との間で息を強 く 吸 うことが求め られてきた。ところが、た とえば尺八の よ うな楽器 においては、

δ

譜例 5  第九の第一楽章 譜例 6  第九の第二楽章 譜例 7  第九の第 四楽章

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呼吸する身体から考えるイン ドの音楽 (上 利博規

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いかに音を出すかとい うことだけでな く、その音をいかに沈黙の中から立ち上 げ、また自然の中に消してゆくかとい う、いわば西洋流に言えば音の最後の処 理の仕方なども重要視 してきた。そのような音の処理の仕方、つまりいかに静 かに呼吸するかとい う点に、内面性の表出を求めてきた近代音楽 とは異なるア ジアの音楽の特質の一つがあると考えることができないだろうか。

2  イ ン ド音楽の概略 と ドゥルパ ド様式

イン ドの神話 によれば、初源の音 (Naada Brahma)は OMで ある。 OMと

い う言葉は最 も純粋な音であるので、それ を日にすることはそれだけで心身を 宇宙 に調和 させ ることになる。それ を正 しく口にして 「歌 う」 ことは、正 しく 呼吸することであ り、心身の淀みをな くす ことだか らである。

神話 を離れて現実的な音楽の出発点を探すな らば、インダス文明における音 楽は踊る立像のほかに手掛か りはな く、一般的にはヴェーダに求め られ る。四 つのヴェーダは創造者である Brahmaに よつて与 えられたものであるか ら、そ れ 自身神聖なもの とみな される。 ヴェーダは三つの音、すなわち基準の音、高 い音、低い音の三つによって詠唱 されていた。それをさらに音楽的に詠唱する のが『 サーマ・ヴェーダ』である。バ ラモ ン教の時代、公的な祭式 においては ウ ドガー トリと呼ばれ る祭官がおそ らくは妻 によるヴィーナを伴 つて神への讃 歌である 『 サーマ・ ヴェーダ』を歌つた。 『 サーマ・ ヴェーダ』の詩句内容は 『 リ グ・ ヴェーダ』と重なるところが多いが、 『 サーマ・ ヴェーダ』においては意味 をもたない語素 (stobha)を 用いて詩句をより音楽的 に、すなわち音 を長 く引 き伸 ばした り、ゆ らした り反復 した り、挿入 した りしなが ら「歌 う」 ことがな されていた。

ヴェーダを中心 とするバ ラモ ン教が支配的であつたウパニシャッ ドの時代 に は、 Chandogaが いかに歌 うべ きかを規定 した書 ChandogyaUpanishadも 編 纂 されてい る。 ここでは、正 しく歌 うことを通 して輪廻か らの解脱が得 られる

と考 えられてお り、音楽は様々な修行的行為の一つであった。

やがて政治的変動が大 き くな り、バ ラモン教が衰退 して仏教や ジャイナ教が

出現す るが、 これ ら宗教は基本的に禁欲的であつたため、 この時点では宗教 と

音楽が強 く結びつ くことはなかつた。む しろ重要な ことの一つはヴェーダにか

わって神々か らシヴァ神や ヴィシュヌ神への信仰が強 くなつた とい うことであ

る。そ して も う一つが次第 に『 マハーバーラタ』や『 ラーマーヤナ』が形をな

してきた とい うことである。 これ ら演 aljの 形成 に対応す るよ うに、演劇の総合

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的な理論書である『ナーテイヤ 0シ ャース トラ』が成立する。そ こでは舞台演 技 に関す る記述が中心 となつているが、28章 か ら 33章 は楽器、曲調、拍子、歌 な ど音楽 について述べ られている。 ここで特 に重要 となるのは、第 6章 で述べ られ るラサ (rasa)と 呼ばれ る情緒 と音楽組織 との対応か ら曲調 を明 らかにし ていることである。すなわち、曲調はジャーティ Gati)と 呼ばれる旋律の「型」

に対応 しているが、ジャーティをさらにグラーマ (grama)と 呼ばれ る音階か ら説明 し、音階の中で中心 に置かれ るラクシャナ と呼ばれる特定音がその曲の ラサを決定すると考 えられている。われわれ はこの書か ら、主観的感情である ラサを中心 とす る演劇的効果が より重要 になってきた こと、そ してそれがイン ド社会 においてバラモン教 の影響力が低下 し、 ヴェーダの祭祀的性格 が衰退 し ていることを見て取 ることができる。また、 この書は楽器分類 として、 リユー ト型弦楽器の Tata横 笛 の Sushiraシ ンバルのような Ghana太 鼓の Avanadha

の四つを挙 げている。既 にヴェーダにおいて も楽器 を使用 した世俗的な喜びの ための音楽はガンダルヴア (Gandharvalと 呼ばれていたが、 『ナーテイヤ・ シャー ス トラ』における楽器 に関す る記述は、器楽が演 pljに おいて重要な役割 をはた していた ことを物語 っている。西洋音楽の場合は、言葉が中心の音楽か ら楽器 が中心の音楽へ と移行す るのはルネサンス期である。 中世の音楽は教会 におけ る ミサ曲な ど言葉を中心 とす るものであったが、ルネサンス期 に入 つて宮廷 に おける世俗音楽が活発化す るよ うになると、音楽は次第 に言葉か ら離れ楽器だ けのものが登場する。すなわち、歌 うこと (cantare)か ら楽器 を演奏すること (SOaFlare)が 独立 し、そ こにソナタ (sonata)が 生まれ る。お よそ1600年頃の ことであ り、それがバ ロック音楽の始ま りで もあつた。

イン ド音楽 とい うと直ちに思い出 され るラーガ (Raaga)で あるが、 ラーガ とい う言葉 自体は既 に古 くか ら使われていた。 ラーガは言 つてみれば心の彩 り のよ うなものであろ うが、 『ナルデイヤ・ シクシャ』 (A.D。 100‑200)で は、そ のラーガを時間の分節 に対応 させてお り、今 日使用 されているような意味での 音楽 と時間の対応の先駆 として興味深い。今 日におけるよ うな意味でのラーガ が楽書の重要な概念 として現われ るのはマタンガによる『 ブ リハ ッ (ド )・ デー シー』 (B五 faddesi、 偉大な一地方楽 )で ある。 『 ブ リハ ッ (ド )・ デーシー』が 成立 した とされる五〜七世紀はササン朝ペルシア期であ り東西交流 も盛んであつ たが、 『 ブ リハ ッ (ド )・ デーシー』は各地 に起源 をもつ さまざまなタイプの音 楽をラーガ として取 り扱 つてお り、 当時芸能の交流がな されていたであろ うこ

とが推測 される。マタンガはデーシーを 「女性、子供、牛飼い、王たちが聖地 で 自発的 に喜びをもつて歌 う歌」 と説明 しているが、 この ような 「デーシー」

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は、その内容か らいつても目的か らいつてもイン ドの伝統的な音楽 とは異なつ ていたるため 「デーシー・ ラーガ」 と呼ばれ、瞑想 し神を讃 える音楽であるも のを 「マールガ (道 )・ ラーガ」か ら区別 されている。

ヒン ドゥー教 には古 くか ら神への絶対的帰依を求めるバクティ信仰があつた が、ラーマーヌジャ (1017‑1137)な どによりこれが運動 として広がつていた。

そ うした中、ジャヤデーヴァ (12世 紀 )に よる『 ギータ・ ゴーヴィンダ』 (光 の 守護神の歌 )が 生まれた。バクティ運動 は神 を擬人化することを通 して神への 信仰 を親 しみのあるものへ と変 えたが、 『 ギータ・ ゴーヴィンダ』はク リシュナ 神 とラーダ との美 しい愛 を歌 ったものである。 『 ギータ・ ゴーヴィンダ』は 24の 曲か らなつているが、それ らはラーガ とター ラ (拍 子 )力 指定 されている初期 のものであるといわれている。その音楽様式はプラバ ンダ (Prabhandha)と 呼 ばれ、作曲 されたものに基づ く音楽である。 プラバ ンダは文字通 りには 「結び つ き」を意味 しているが、音楽では作曲 (com― position)と い う意味になる。

イ ン ド音楽 には、言葉の音韻 によって規定 された拍子 をもった音楽 と、拍子を もたない 自由な音楽 との二種類あ り、それぞれニバ ッダ (Nibhadda、 規定 され た)と アニバ ッダ (Anibhadda、 規定 されない )と 呼ばれ るが、 『 ギータ・ ゴー ヴィンダ』の場合は原則的に拍子が明確な音楽であ リニバ ッダである。

イスラームの影響は徐々にイン ドに及んでいたが、1207年 に起 こったムス リ ムのイン ド北西部侵入 により、イン ドにおけるイスラームの影響は決定的なも のになつた。以降、 19世 紀 中盤 にイギ リス統治下 に置かれ るまで、イン ドはイ スラーム政権のもとに置かれ ることになる。北イン ドにおいてはイスラーム と イン ド文化の融合が進 んだため、伝統的なイン ド文化は北イン ドと南イン ドで は異なつたものへ と分岐 し、北イン ドは ヒン ドゥースターニー、南イン ドはカ ルナータカ と呼ばれる文化を形成す ることになる。北イン ドの音楽の中心的場 は寺院か ら宮廷へ と移行 し、音楽家たちは宮廷 に帰属するか南イン ドに移 つた といわれ るが、以降 ヒン ドゥースターニー音楽 とカルナータカ音楽では使用す るラーガや ターラ、あるいは楽器な どが異なっている。

プラバンダは通常、①開始部 udagaha、 ②展開部 melapaka、 ③固定部 dhnlvapada、 ④終結部 abhogの 四つの部分からなつている。北イン ドではこ のプラバンダの特に第二部分を発展 させて「永遠の言葉」 とい う意味の ドゥル パ ド (Dhrllpad)様 式が生まれた。 ドゥルパ ド様式はムガール帝国期において 宮廷音楽 として発達 し、特 に宮廷音楽家 であ った ター ンセ ー ン (Tansen、 1506‑

1595)た ち に よつて今 日見 られ る ドゥルパ ド様式 は確立 され た。 ター ンセ ー ン

は、それ までのイ ン ドのガマカ (Gamaka)と 呼 ばれ る装飾技法 とペ ル シア音

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楽の装飾技法を融合 させ、新 しい ラーガを作 り、現代 にいたるまでの北イン ド 伝統的な古典音楽の基盤 となつた。 この意味で、 ターンセーンによつて新 しく 作 りなお された ドゥルパ ドは、 ヴェーダ以来の古いイン ド音楽 を継承すると共

に、現代 にも残 されているイン ドの古典音楽の最 も古いもの として、古代 と現 代 とを結ぶ要の位置 にあると考 えることができる。

イスラームは原則的 に宗教 と音楽 を結び付 けることを禁 じたが、音楽 を重視 するスーフィーの影響は強 く北イン ドに及んだ。中でもア ミール・フスロー(1253‑

1325)は ペルシアーイスラーム音楽の影響を最 も強 く与えた人物の一人であ り、

宮廷詩人でもあった彼は ドゥルパ ド様式 とペルシア音楽 とを融合 させてカ ッワー リー とい う様式を生んだ。ほかにも ドゥルパ ド様式 をもとに、ペルシア語で「想 像」 とい う意味をもつカヤール様式が作 られた。その由来は定かではないが、

主 としてサンスク リッ ト語 による正統な ドゥルパ ドに比べ、カヤールは生活言 語 を用いて内容的にも生活 に近 く、また即興性 も高 く自由なものだったため、

次第 に ドゥルパ ドにとつてかわるよ うになつた。

南イン ドのカルナータカ音楽は特 にヴィジャヤナガール帝国時代 (1336‑1565) に発展 したが、 ここでは北イン ドの ドゥルパ ドを中心 に、イン ドの伝統音楽の 演奏の実際 とそ こに見 られ る「呼吸す る身体」 について考 えてゆきたい。

3  演奏の実際 と「呼吸する身体」

まずイ ン ド古典音楽 の基本 とな った ドゥルパ ドで あ るが、   ドゥルパ ドは ラー ガ を正確 に丁寧 に表現 しよ うとす る音楽形式 とい うこ とがで きる。   ドゥルパ ド の定 め られ た歌詞 が歌われ る前 には、 アー ラープ と呼 ばれ る前奏部分 がつ き、

この部分 は一般的 にかな り長 く続 く。 また、   ドゥルパ ドの後 にダーマル と呼 ば れ る比較 的 内容が軽 い部 分 が付 け加 え られ て終わ る こ とも しば しばあ る。

アー ラー プは、   ドウル パ ドの ラーガ の もつ特徴や雰 囲気 を、即興 に よつて は じめ はゆ っ くりと拍子 をもたず開始 し、次第 にテ ンポ を速 めなが ら示 し、や が て太鼓 に よつて リズムが示 され る。 ラーガ は一般 に旋法 として説 明 され るが、

しか しそれ は近代音楽 にお ける調性や音 階 とは異 な つてい る。英語 の modeは

旋 法 とい う意 味 ももつ が、 同時 に状 況や雰 囲気 とい う意 味 ももってい る。 同様 に、 ラーガで もそれ ぞれ にラーガ は単 な る音 の配 列で はな く、その ラーガ にふ さわ しい 固有 の雰 囲気や情感 があ り、 それ に応 じたテ ンポがあ る。 た とえば、

ラーガ・ デ シ ュカ ール は生 き生 き とした ラーガで あ り、音型 は上行が ドレ ミソ ラ ド、下行 が ドラ ソ ミレ ドで あ るが、 それ がゆ つ く りと演 奏 され た り、音 と音

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呼吸す る身体か ら考 えるイ ン ドの音楽 (上 利博規

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がスラーでつながれてはな らず、ス ピー ド感をもってスタカー ト気味 に演奏 さ れなければな らない。また、 ヒン ドゥスターニー音楽ではラーガは季節や時間 と大 き く関わつてお り、 中で も春のラーガ、雨季のラーガ、あるいは曙のラー ガ、愛を表わす夜のラーガや性 を暗示す る「ぶ らんこ」のラーガな ど、 自然 と 生命の力を感 じさせ るものが多い。つ ま り、 ラーガ とは音楽内部の問題である のではな く、 ラーガが求める表現性 は音楽外の生活や 自然の リズムを取 り込ん だものでなければな らないのである。

とはいえ、雨を音楽 において表わす ことは、決 して雨音 を音 として模倣す る ことではない。大切な ことは、それ を演奏 として示す ことにある。雨音 を音 と して模倣す るのであれば、それは技術的なもの として伝承す ることが可能であ ろ うが、演奏者 に求め られ るのはラーガを正確 に演奏することであって も、そ れ は定め られたものを定め られた通 りに正確 に演奏することではない。つま り、

本来の意味でのラーガは、常にそのつ どの状況 においてそのつ どの演奏 によつ て作 られてゆ くものであ り、演奏 によって完成 させ られ るものであるともいえ る。ち ょうど言葉 において も文法 と単語 を知 つていれば生 きた言葉が話せると い うものではな く、そのつ どの状況内での発話 において言葉は生 きたもの とし て発せ られ るのに似ているといえよ う。 したがって、演奏 を教 えるとい うこと は、西洋音楽のよ うにある決め られた曲の演奏の仕方 を教 えるのではな く、一 つのラーガをいかにして「今」「ここで」で生 きたもの として演奏するか とい う

ことを教 えることである。アーラープが静かにゆっ くりと始まるのはそのため であ り、一つ一つの音 を確かめるよ うにして、 自然や宇宙の流れや生命的な力 を感 じ取 ることか ら始めるのである。

では、具体的 には どのよ うな演奏 によつて、 ラーガを生 きた もの としてする のであろう力、ラーガは単なる音列ではな く、「王」 Ⅳ aadi)と 「王妃」 GamvaadD

と呼ばれ る主要な音があ り、その二つの音の関係 を際立たせ るために Pakadと 呼ばれ る特徴的なフレーズが用い られ る。 このフレーズによつてラーガのもつ 色合いが伝えられることになる。た とえば先のラーガ 0デ シュカールの場合、「ミ

ソラソラ」「ラ ド」といつた短いフレーズである。さらに、このフレーズはなお 音列であ り、その音列 を彩 るためにガマカ とい う独特の装飾技法が用い られる

ことになる。

ガマカ についてた とえばデーヴァは『 ィン ド音楽序説』で次のように述べて いる。「習いたての言語の ように、平板 に、た どた どしく演奏 される音列では、

限 られた表現 しかできない。音楽 に血 肉を与 え飾 つてい くためには、感情を伴

いアクセ ン トをつ けた り、抑揚 に変化をもたせなければな らない。それ には さ

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まざまな方法がある。音 を伸ばす、短 く止める、ゆ らす、ある音か らある音ヘ 滑 らせ るな どな ど。 こうした変化が音楽 に大 きな美 を加 えるのである。そ うで なければ、音楽は単調なものになつて しま う。この旋律 に変化を与える技法が、

ガマカ と呼ばれるものである」 (p.107)。 単音 を単調 に機械的に仲ばす ことをや め、音を常 に揺れ動 く (Gamanam)生 きた ものにす るのがガマカである。ガ マカのような装飾法については既に 『サーマ・ ヴェーダ』においても Vikarshana Prenkhanaな どとして言及があ り、以降の楽書 にも現われてお り、 『 シャクタ ンタラー』を著 した400年 頃のカー リダーサはゆつ くりとした動 きのガマカを、

夕方のそ よ風 にゆれるネ ックレスの優雅な動 きになぞ らえた とい う。ガマカの 中にはハ ミングの ように口を閉 じる技法 も合 まれている。演奏者は リズムやテ ンポを通 しても音楽 を生 きたものにしなければな らないが、 ラーガを基本 にす るイン ド音楽はこ うした音 と音 とを滑 らかに結んでフレーズを作 つてい くガマ カの技法を重視 し、 音を揺 らしスライ ドさせ る技法 を用いるがゆえに shrllthiと 呼ばれ る細分化 された音律 をもつ。アーラープの よ うに拍子 をもたずゆつ くり

と「呼吸する」 よ うに演奏する場合、音の揺れは重要である。

以上の ドゥルパ ドは声楽ではあるが、器楽 において も事情は さほ どかわ らな い。イン ドの伝統音楽において重要な楽器は、タブラな どの打楽器 と基本 とな る音 (ド ローン )を 示す タンブーラを除けば、ヴィーナ、シタール、バンス リ、

サ ロー ドな どをあげることができよ う。イン ドを代表する古 くか らの弦楽器で あるヴイーナは、もともとは固定弦 を用いて音程 を示 していたが、 やがてギター のようなフレッ トを用いるようになつた。 これにより様々な装飾技法であるガ マカを用いることができるようになつた。ペルシアのセ タールに語源をもつ と いわれるシタール もフレッ トをもち新 しいタイプのヴィーナ と同様 に様々なガ マカを用いることができる。 ヴィーナ にせ よシタールにせ よ、あるいはアフガ ニスタンのラバーブを改良 して作 られた といわれ るギターに似たサ ロー ドにせ よ、弦を左手の指で引つ張れば、その強 さによつて音程は下がる。 日本の字が 弦を押 さえることによつて音程 を揺 らす ことができるの と同様である。またバ ンス リのような管楽器の場合にも、唇を楽器 にどうあてるかによつて音程が揺 れる。 これは尺八 と同様である。フルー トで も歌 口において音程 を調節するこ とは可能あ り、実際の演奏 において もそ うすることが求め られるが、それは他 の楽器 との音程 を合わせ るためである。また、以上の楽器 を用いた伝統音楽の 場合 にも、   ドゥルパ ドと同様 にアー ラープを伴 うラーガを基本 としてお り、器 楽演奏は言葉 による神を讃 える声楽 を模倣す るので、ガマカな どの技法やその 意味づけも ドゥルパ ドと同様である。

12

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呼吸す る身体か ら考 えるイ ン ドの音楽 (上 利博規

)

おわ りに

表現的であることは、機能性への従属 を離れてな にが しかの 自由が与 えられ た とき、その自由の行使の仕方 において現われるものであろ う。その際、何 に 依拠 してその自由を行使す るのか、そ こに表現の多様性が生まれ る。逆 にいえ ば、表現的であることは技術的 にマニ ュアル化できない。一般 にはこれを 「セ ンス」の問題 として片付 ける傾向にある。 しか し、いかにして美 しく表現的で あろ うとす るか とい うことは人か ら人へ と伝 えられてゆ くものでもある。それ は個人的 に伝授 される場合 もあろ うし、教育のような制度的な場面で問題 にさ れることもあろ うし、 さらには本論で取 り扱 つた よ うな広 く文化的な問題で も あろ う。

近代音楽が「表情豊かに」 (espress市

o、

express市 e)と い う場合、その表現 性の原理 は楽譜 と演奏者 との関係 に依拠 されて きた。イン ド音楽 においては、

表現特性の原理はラーガにある とい うことができよ う。繰 り返 しになるが、 こ の場合のラーガは単なる旋律音型 を意味 しているのではない。音楽が訓者はイ ン ドの音楽 を、そ してそのラーガを主 として演奏の立場か らではな く楽理的に 音型 として問題 にしてきた。 しか し、 ラーガは自然や宇宙の空気や リズムを表 す ものであ り、その よ うなラーガにふ さわ しくあろ うとする ところにガマカの よ うな演奏技法が生まれ る。実際の演奏 においてラーガにふ さわ しくあるとい うことは、近代の主観的な音楽 とは異な り、あ りふれた言葉でいえば自然や宇 宙 と調和す ることである。演奏者は 自らの意識 の流れ を演奏行為を通 してコン トロール し自然 と調和す るよ うにしなければな らない。意識 による意識 のコン トロール とい う自己言及的なパ ラ ドクスを回避 させ るのが、音楽であ リラーガ とい う手掛か りである。 ヴェーダが讃歌であるのは、単 に神々を讃 えるとい う 人間の一つの行為なのではな く、讃 えるとい う行為 を通 して神々 とその力や恵 み に感謝す る とい う、いわば自然や宇宙の中にあることへの応答性が含まれて いる。 この点において、娯楽的音楽である 「デーシー・ ラーガ」 と区別 される

「マールガ・ ラーガ」は、意識 をコン トロールする瞑想の一つであ り、演奏者 の 「呼吸する身体」は ヨーガの呼吸や瞑想 に近い とさえいえるだろ う。

イン ド音楽を欧米に普及することに多大な貢献をしたシタール奏者のラヴイ・

シャンカラは、師か ら受 けた 「音楽は娯楽ではない。金を儲 けるための手段で もない。生 きるために仕方ない場合 もあるが、それが本来の 目的ではない。音 楽 は神を讃 えるものだ」とい う教 えにもとづいて さらに次の よ うに述べている。

「自らの内面をみつめ、鍛錬を怠 らず、謙虚な気持ちを失わなければ、神々を

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讃 えることができます。 もしうぬぼれをもち、 自分の演奏技術やス ピー ドをみ せび らかせた り、聴衆か らちや ほや されることのために演奏 した りするような ら目的を誤つています。それはただの娯楽 に過 ぎません。大衆 に迎合 している だけです。音楽 とはそ うい うものではあ りません。一演奏 している とき、 自分 が何をしているかな ど意識 しないものです。何 も考 えず、音楽がただ 自然 に湧 きあがってきます。演奏 中の精神状態は、信 じがたいほ どすば らしいものです。

あの焼惚状態は言葉では言い表せません。時 には 自然 と涙が流れ、胸 に美 しい 痛みを感 じます。言 うなれば、大いなる存在 を感 じ、それ に近づ こ うとす るの に、 どんなに手を延ば して も決 して手が届かない とい う痛みです。 とても苦 し くて、心は悲 しみでいつぱいにな ります。 しか し、ただの悲 しみではあ りませ ん。美 しさと幸福感を合わせ もった悲 しみなのです。それ こそが本当の音楽の 心だ と思います。」また、同 じくシタール奏者のシャ ヒー ド0パ ルヴェーズも来 日した際のイ ンタヴューで、「音楽 をじっ くり聞き込む人は、音楽の 高 さ "で はな く 深 さ "を つかむ ことができます。私が 高 さ "と 言 ったのは音楽の持 つエクサイ トメン トです。セ ンセイシ ョナルな音楽が 高い "音 楽です。それ

に対 して、セ ンシティヴな (感 受性のある )音 楽が 深い "音 楽です。そのよ

うな音楽はデヴォーシ ョン (献 身、祈 り )を 持 つています。 高い "音 楽を演奏 すれば聴衆は手拍子 を打 つて楽 しむかもしれない し、踊 ることも、聞きなが ら 食事をすることもできる。 しか し 深い "音 楽 をききなが らその よ うな ことは できません。音楽 について本で読んだ り学校で学んだ りす るだけでは、音楽を 深 く "感 じるようにはなれません。音楽 を実践すること、演奏 した り歌った りする音楽家になることが、音楽をいちばんよく理解す る方法で しょう」 とも 述べている。音楽を演奏することは音 を出す ことではな く「深 く呼吸す ること」

であるし、音楽を聞 くことはその呼吸を「共 に呼吸すること」ではないか と論 者が考えるゆえんである。

イン ド音楽がた とえばアーラープによつて 自然や宇宙の流れを吸い込む とこ ろか ら始まるとすれば、主観的表現 に依拠す る近代音楽は内面性 を吐き出す こ とにあま りにも強調点が置かれすぎたのではないだろ うか。ルネサンス期 にお いて人間は神 にかわつて宇宙の中心 に躍 り出た。そ して、近代芸術は人間性の すば らしさ、偉大 さを歌いあげることに焦点を置いてきた。

本論は、音楽の本質を感覚的な音でも知的な楽理的構成でもな く、音楽のい のちである一つのフレーズ とい うま とま りを「呼吸する身体」がいかに「歌 う」

か とい う点に見るとい う視点か ら、 イン ド音楽 について考 えてきた。 ここでは ドウルパ ドを中心 とするいわゆる正統的な伝統音楽 しか取 り扱 うことができず、

Iイ

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呼吸す る身体 か ら考 えるイ ン ドの音楽 (上 利博規

)

歌 を通 して神 との合一 をはかるベ ンガルのバ ウルや、一般的な民謡な どを扱 う ことができなかった。また、ペルシア音楽やスーフイーな どのイスラーム との 関係、あるいはスィクの音楽や仏教の梵唄・声明な どとの関係 については、重 要な ことが らであるにもかかわ らずほ とん ど何 もふれ ることができなかった こ

とが残念である。

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参照

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