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大田哲夫 Uber das Bild der Liebe bei ≫ Philosophischen Briefen ≪

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「哲学書簡」に現われた愛の相

‑シラー研究の内‑

大田哲夫

Uber das Bild der Liebe bei ≫ Philosophischen Briefen ≪

von Schiller

1964. 9. 30

「哲学書簡」 (1786)には,青年シラ‑の内的体験である二元論的傾向の調 和が,試みとして示されている.此の断章は,彼の≫Anthologie auf das Jahr 1782≪ C1782)を初め,学生時代の医学論文その他に迄及ぶ,総べての 若き労作の精神を纏めて織り込んだものとして注目されている.成立の仕方は 友人ケルナ‑との交筒によるが,実際にケルナ‑が書き下したのは終末の一章 のみと考えられている.又,此の書簡の中心を成す「神智論Theosophie」

の部分は,更に遡った彼の学生時代に既に最初の形を整えていたと思われ, 勿論,書簡成立当時の視角からして可成りの加筆は余儀なくされているであろ

うが,一先ずは認識を目ざした若きシラーの思想的立場をその債に保存したド クメントと云えるであろう.

愛の形而上学的規定

此処では,愛は先ず本質的存在者の現象に於ける分化に対する,理性の神的

作用として把握されている.青年シラーの哲学史的な関心は,学生時代の教師

アrベルを通じて導入されたものが多く,その思想の骨降もア‑ベルに負う所

が大きいと云われるが,思想面でシラー自身の関心を特に磨いたものと云え

ば,形而上学の上ではライプニッツ,実践論の面では主としてシャフツベリで

あったらしい. 「哲学書簡」に至る迄の文献には此の傾向が明瞭に表れてお

り,無論誓えば彼の生臭的なヒポコンデリに強い共感を与えたと云えるルソー

の如き,或は経験主義の諸派の如きが見出されない訳ではないが,歴史研究を

(2)

経て,後にカントを体験するに至る迄力強く彼を影響の下に置いた人物は恐ら くは此の二者であった. 「哲学書簡」にあっては特に是が濃密であった.それ 故此処では神を考える場合にライプニッツの単子論的段階説が援用される一 方,愛を考える場合にはシャフツベリの≫morol grace≪に基く実践主義が援 用されるのである.

さて,此処に於ける愛の理念は,後年のそれの如く,カント的畏敬と自然的 欲求の一致の表象として把えられたものとは可成りの距りを感じさせる.那 ち,此処では愛は宇宙の根源の,つまり本質的存在者の現象に於ける反映であ って,未だ認識する主体の理性に対する働きかけではあり得ない.このこと は,原理的把握に於て汎神論的絶対者※を受容する限り当然帰結されて来る解 釈であろう.更に此処で,愛は直接徳性と関わり合うものであって,未だ明瞭 には徳性と幸福との調和的媒介者ではない.それ故シラー自身が示す様に愛は 現象の問に見られる引力Anziehungであり,現象の本質的存在への復帰を 予想せしめる可能性である.

此処でシラ‑はニュ‑トンの重力説を導入して来るのであるが,シラ‑は単 に愛と引力との比較論に留るのではなく,愛を引力そのものとして把える1).

即ち,愛は引力の類比ではなく,物質的現象に於ける引力が精神的現象に於け る愛に外ならぬものとして,同一次元的な観察から愛と引力を根源的本質の一 つの力の二様の現象であると解釈するのである.

此の引力が本質に於て愛と同一の力であり,根源的存在より精神と自然に同 時に放射された一個の力の夫々半面2)であると云う命題が是認されるならば, おのずから愛の力の無限性も容認されるであろう.何となれば,愛の及ぶ範域 はもはや極限された理性のうちに留るのではなく,此の時無限の現象的分化に 或る種の力を添えてその本源的統一3)を助ける可能性が開けるからである.

※初期の≫Philosophie der Physiologie≪ (1779)等に見られるし,噴かにスピノ ザの物心一体論的な同一哲学の与えた影響は可成り大きい様である.然し,全体として 青年シラーの宇宙観を眺める限り,美と完全を表した予定調和論の影響が大きい様に思 われる.スピノザに於ける個体の独立性の拒否はライプニッツによって救護されている

し,併せてシラーのoptimistischな傾向を観ると,一層その事が考えられる.結局 シラーは種々の大陸合理論を体系的に受け入れたのでほなく,自己の傾向に合せて摂取 消化したと云って良いのではないか.

(3)

若しシラーの見方を採って自然は本質的存在者の模写das Abbild der Substanz4"であり,自然の中にその本質的存在者の統一的性格が無限の度合 と量と段階に於て分化して顕されていると考えれば,本質的存在者の力の放下 は即ち自然の現象を意味し,随って,自然は引力の具体的発現形式を意味する であろう.換言すれば,宇宙の本質的存在の力即ち引力は世界の具体化を蘭す のである.所が,物質的個体の相互に於ける分化と偶然化は,精神的個体の中 に移入する時,その活動の窮極に於ては遂に分化の止場5)に到達せざるを得な い.シラーはその過程をプリズムを透過する光の比境によって説明している.

即ちプリズムを透過する白光が7色に分光して目に映ずる如く6),根源的存在 の自我も自然というプリズムを通す時現象として無限の個体に分化して感受さ れ得る.然し乍ら若しも全能者の自我が余りにも強大となる時にはプリズムは もはや用をなさず,自然は解消されて,個体と全体とは一致するであろう.そ の時には模写は撒回され,個々の精神は全体的精神に統合され,宇宙は調和す るであろう. 7)

此の最終的調和を予想せしめる力が愛であり,且つ又引力の具体化作用に対 して,白と他との分化を偶然化し,個と全の境界を解消せしめる力が愛と見放 されるのである.

随って,愛はシラーの比境を籍れば個体的存在が全体的存在としての神に到 達する為の梯子8)であり,現象の存在に対する,偶然性の必然性に対する回帰 を,要するに二元性の絶対的統一を促す媒介者とも云えるのである.

愛の実践的価値

以上の様に,芋首的自我はライプニッツ的な意味に於て,多様且つ無限に実 体の中に分化され乍ら,夫々の実体の中に本来全体的に統一されるべき契機を 内蔵せしめるものであるとするならば,一方個体は現象の中に在って本来如何 に実践すべきであるかと云う問題は,既に問題そのものに於て解決されてい

る.

シラーがその方法をどの様に規定したかを論じなければならない.

既に述べた如く,シラーは愛の実践の方法をシャフッベリの美的心理学的傾

(4)

向に負う所が多かった.先に挙げた引力と愛の理論に於て,シラーが本来同一 の力であるべき両者のうち,愛には最大の創造的意味を与え乍ら,前者の物質 性に対してはそれを許容していない点も9),梢々此の事に通じるものがある様 に思われる節がある.元来シャフツベリはハチスン等と共にイギリス・ヒュー

マニズムの古き系譜に立ち,人間を思考の.中心に置いて,人間に於ける運動 actionの美を強調した思想家であったらしい.美学的には既にドイツ観念論 に於ける優美Anmutに当るものと,同じく美das Schoneに当るものを区 別して指摘している.是は必ずしも厳密な概念的区分ではなかった様に思われ

るが,一応は是を以て精神に於ける美と,肉体に於ける美を規定した.即ち, 彼によれば人間には精神の運動の優美が存在する一方,肉体の運動に於ても段

階に応じて優美が附随される.前者を≫moral grace≪,後者を≫outward grace≪と称する.肝要な事は,個体の形式的側面としての精神と,その感性 的側面としての肉体の両者共に優美が附与されると云う事であり,両者に於け る運動actionが優美graceと結合するその仕方によって,個体そのものの 人間的価値が評価されると云う事である.更にmoral graceはoutward graceにも影響を与えるが故に,形式に於ける純化は感性にとっても有効と なる.一般にactionとgraceの結合は個体の資質に負うと同時に,教育 や就中芸術の対象的表象によって完全なものになるとされるのである.此処に は,徳と美を一体のものとして考えた所謂≫Kαλ0㍍&γαOlα≪の理想が根底 にある事が明かである.随って,シャフツベリにあっては,人間よりも低い形 式としての≫dead forms≪は,その美を認めさせるべき精神を持たぬものと

して優美の範域より除外されるのである.

さて,新の様なプラトン的理想主義が,シャフツベリ等を通じて青年シラー の実践的方向を規定するのであるが,此の際明確にして置きたい事は,此の期の シラ‑が一面では認識価値の是認をなし乍らも,その情緒生活に於ては依然と して内部の矛盾的対立に苦慮していたと云う事実であり,而もその感情的二元 性を彼はその儀のものとして,彼岸的にではなく現世的に解消する方法を模索 していたと云う事であった.此の事は彼自身の性格に潜んだ二つの対立的なも のV?一方である,或る種の楽天的な現実主義から出て来る当然の事柄であっ

(5)

た. 「哲学書簡」成立に至る迄の彼の情緒的体験を此処で大雑把に概観して見 ると,それは三つの層に分つ事が出来よう.罪‑は,静諾な市民生活の中に在 って,凍ては聖職をさえ志ざさしめた平和と信仰の少年生活であり,第二は, 支配者の圧制の体験と,第三にはそれと平行しての啓蒙主義的な教養体験と基 督教的信仰の動揺がこれである.最初の期に於ける素朴な敬虞主義が,18世紀の

時代的微候であるフマニテートの空気の中で,政治的自由の憧憶と現世を支配 するものへの嫌忌から,強い現実疎外の心情えと移行した過程は, ≫R云uber≪

(1781)に強調されている様なヒポコンデリを蘭して,彼の感情生活を規制し た.然し乍ら,一方では,最初の期に形成された絶対者への素朴な傾向が,学 生生活を通じて獲得せられた啓蒙主義的教養と結合して,此処には理念による 世界把握の志向が産み出される事となった.云わばガニュメード的帰順とも云

い得べき此の傾向が,多元的宇雷観とプラトン的フマニスムスの骨降を得て, 聴て≫Don Corlos≪ (1787)の理想主義に迄肉附けされて行く.

さて, 「哲学書簡」は此の道程に横わるものであるからして,当然理念の形 成よりもその実践の方に重きが置かれるべきである.それ故,此処では,思考 そのものではなく,思考する存在の任務10)が強調されるのである.思考する 存在の任務とは,彼が≫Freundschaft≪ (1782)の中で象徴的に謡っている 様に, 「偉大な精神の太陽に向って喜ばしく完成の歩を進める11)」事に外な らないが,ではその歩みVollendungsgangの始動をなすものは何か.是が 愛である.

それでは,愛はどの様にして個体を全体に一致せしめるか.

シラーにあっては,世界は神の模写で12)あり,象徴であり13)理想的精神 の現実的投影であって,すべての個体は一つの全体の多様な現象的分化である が故に,全体的精神の理想は自己を含めた総べての自然的対象の中に顕れる.然 しその顕現は部分として無限に細分化されているが故に,それらの間には結合 すべき紐帯がなく,その為に自然は永遠の空虚の中に漂う単なる原子Atom14) であるに留っている.精神的個体としての人間も例外ではない.本来ならば,

(スピノザ的な表現をとれば)絶対者の鏡であるべき個々の現象も,それを

鏡15)として観想する主体を欠けば,それは単なる独立した記号に留り,主

(6)

体を媒介として連続した意味を伝える事は出来ないであろう.

そこで,若しも個体が他の個体を自己に類似したものとして表象し得るとす れば,そしてその事は個体がすべて一つのものの象微であることから可能な事 柄であると思惟せられるのであるが,若しそうであるとすれば,個体と個体は 相互に充足し合い,更にそれらが他の個体を表象する事によって自己を更に拡 大すれば,充足は一層完全なものとなる.一般に,新の様にして各個体は内容 を獲得して次第に類似性を富まし,嬢て一個のものとして相互の境界を消去す るであろう.実に,個体がそれ自体の表象によって全体の中に解消し得るとい う根拠は,個体白身の中にある.青年シラーはそれを信じることによって,彼 自身の楽天主義的な側面である現実主義を回癒せしめると共に,一面過大な理 想の追求に根ざす所の憂彰症的傾向をも慰撫し,併せて,シャフツベリ的な意 味に於て,自己に向う執着と社会的対象に向う情熱との調和を図ろうとする のである.

何となれば,斯の様な表象の価値は,シラーにあっては,単に神智論的な認 識による興奮にではなく,表象の連続が遂には表象する主体,言い換えれば, 自己自身を客体化すると云う,云わば一種の自己放下,シャフツベリ的な言い 方をすれば,精神の社会えの調和的作用に基く喜びの感情に息づくからであ る.

既に述べた様に,愛は一種の引力であって,引力は又世界の構成の原理であ

るが故に現象に個有のものであった.随って個体はすべて愛によって統一され

るべき可能性を内具する.然し,物質的個体に於ける引力は,絶対者の下降的

力であって唯現象の分裂を蘭すに過ぎないが,精神的個体に於ける愛は上昇的

力であイて,現象の本質化を蘭すものであった.所が愛は主体者による行為が

伴わぬ限り,依然として単なる力に留るしかない.そこで,愛をして主動的な

力となす為の作用が主体者によって与えられねばならないが,此処では表象の

作用こそそれであると見倣されるのである16)シラーはその動機を以下の様

に説明する.即ち, ①主体が対象を表象すると云う事は,主体が主体自身を表

象する事に等しい. (何となれば,主体も対象も個体として絶対者の同一の性

格の現象であるから.) ④若し主体が完全性について表象すれば,その完全性

(7)

は主体のものとなる. (下降による現象化は,下降の途上に於て既に上昇を予 想せしめる.何となれば,永遠は一個の円周を現すが故に17).) ④主体は, 自己を愛するが故に,対象の幸福を求める. (対象は表象を通して主体と一致 するが故に.) ④それ故,主体は自己の幸福を対象に与えなければならない.

㊥更に,主体は対象を幸福にする為に,自己自身幸福であらねばならない.

(何となれば,主体自身が既に表象された客体であるから.〕

以上の記述の中に,シラーに於ける愛の倫理的価値のすべてが言い尽される が,就中強調されるべき事は,愛そのものが決して単なる現象ではないと云う 事である.現象は飽く迄も愛を行為する主体者の事で,愛そのものは絶対者の 力であり,絶対者のその作用を主体者が受け入れて(即ち精神的な意味に於て 行為して),主体者がこれを表象に於ける契機となすのである.又,愛は一見 すれば利己心と似るが,シラーにあっては此の両者は本質的に相異する.その 事も①の説を仔細に検討すればおのずから明瞭であろう.成程,自己は引力に よって自己自身と結合しようとはする.然し,その結合は飽く迄も個体として の自己自身の裡に於ける結合であって,その結合の後にも,個体は依然として 個体に留るのである.数式的に述べれば, A+A‑Aと云う関係しか成立たず, 結局自我の貧困die hochste Armut eines Wesensを示すに終るしかな い.云わば,物質の静かな凝集にも似て,それ自体発展せず,永久に部分とし て静止するのみである.シラーが,暗黒に芝ぶ原子18)と呼んだ状態が是であ

り,それ故に利己心は物質的なものと云えるのである.

愛に基く心情とは,シラーが明示する様に,幸福を自己の周囲に伝え,享受 を自己の外部に産み出す事が,その儀自己の内部に産み出す様な心情であり,

I

それ故愛による個体相互の関係は,個体の単なる増加又は産出ではなく,個体 と個体の調和した統一に外ならない.そこでその関係は,個体相互の結合が無 限大となる様な関係であり,即ちAn ‑‑ (n‑…)と云った様な数式で表わ

さるべきものである.

愛の反対概念としての憎悪については,シラーは是を引き延ばされた自殺 ein verl云ngerter Selbstmordと観た19)何となれば,個体が他の個体を 排除すると云う事は,排除と云う結合とは逆の力によって,個体そのものを吏

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に細分化する事であり,その意味に於て,排除とは寧ろ物質的引力と見撤され るからである.即ち心情に於て他を排除する事は,結局自己より何ものかを奪 い取る事になり,自我の逓減を惹起し,愛が徳性を志向するに対して是は不徳 に向うのである.

さて,犠牲としての愛が問題となる.シラ‑は一面では憎悪と利己心が如何 に全体性の調和を妨げるかを観,他面,此の愛とは逆のものに基いた,フラン

スの唯物論的諸体系に強い嫌忌を感じながら,此等が人間の理想主義的精神に 及ぼす致命的な傷害todliche Wur〕deを憂慮する時,是等に打ち勝つだけの 社会的実践力を持った愛の相を別に考えなければならなかった.勿論,是を実 践的愛と称して前の理念的愛と区別する事は,愛の本性上不可能であるが,仮 に何らかの区別を立てるとすれば,此の愛は愛の窮極の相を表すものとして, 人間の生と死と凡ゆる歴史的体験を規定する,最も具体的な負荷を担ったもの

と観られ得るであろう.一般に,個体としての人間が実践規定としての愛を体 験する場合,世界の目的としての全体的統一は,歴史的個体としての生に限定 されて,常に永遠の彼岸に悼む外はない.人間に許される所のものは飽く迄も 可能性であって,必ずしも実現性ではあり得ない.随って,若しも其処に,坐 の歴史的把握が欠除するならば,人間には絶対者の凡ゆる性格,即ち永遠性も調 和的完成もすべては疎隔された断絶の彼方の事柄に過ぎなくなる.シラーの言 を籍れば,愛を信ずる事を放棄すれば,人間にはもはや希望に価するものの証明 は留保されないのである20)そして世界の調和と云う幸福は人間の死後,永遠 の彼岸に於て達成されるであろう.此のペシミスムスを克服する方法は一つし かなく,そしてシラーの現実主義はそれを見出そうとした.死を人間の享受の 対象となし,然し乍ら死をして世界に充満する凡ゆる享受の総額を今少し増加 せしめるものとなし,そうして生存の中止を本質の富有化に一致せしめる21) 行為‑犠牲がそれである.

創造の初めにあって,絶対者によるその目的は一つのものであったが故に,

永遠は一つの円周22)の上の下降と上昇の中に顕示される.時間に規定された

歴史的な生命も,死を介して時間の規定の外に置かれるならば,それはその儀

に永遠の円周にのせられて,絶対者の発刺とした活動と一致して永遠の生命を

(9)

生きるであろう.青年シラーは,その象徴を自然界の死と生の現象の中に読み 取っている.急流の如き時間23)は生を勿ち死へと追いやるが,死は実は不死 の前提であって,滅亡を意味するものではない.かくて,シラーに取ってはす べてが霊妙merkwiirdigなものと見え,周囲は絶対者の活動によって腰板 bevolkertを極めたものの様に見え初める.かくてシラ‑は不死に於て愛の保 証を得るのである.

それ故,犠牲とは死によって生命を購う所の幸福である.個体の幸福である が故に,犠掛ま享受の総額を増加せしめる確実な手段である.然し乍ら,犠牲 は死の一つの意味ではあるが死の同義語ではない.死は肉体的のみならず精神 的にも作用すると考えられるが故に,或る場合には個体の逓減をも招く.誓え ば,利己心に支えられた死がそれである.不死が信仰の対象であるに留り,回 帰する運動の一つの形成であると云う認識を欠く場合には,是は来世の至福の 根拠となり,此の事の為にのみ死を享受する前提となるであろう.時間的生命 の幸福を永遠の生命のそれと交換するのは,シラーが観た様に,憶かに利己心 の最も高貴な段階ではあるが24)荷も利己心であるからには決して愛と相容 れるものではない.何となれば,愛が個体の増大であるに反して利己心は個体 の逓減であり,又,愛が世界の調和えの参割を目指すに対して,利己心は個体 の孤立25)を目指すからである.

そこで,シラーはその現実主義的観点よりして,不死の信仰が無い場合にも 達成される徳性,破滅の危険を冒してでもその犠牲を触発せしめる徳性が,荏 在しなければならぬと考えた26)それは,愛による絶対的帰一の確信であ

り,宏大な宇宙的聯関の把握,歴史の中に在って歴史を超越した認識である.

此の上に立って犠牲が表れるならば,主体は自己を滅しながら実は自己を生か

し,対象を幸福になしその拡大を図りながら,実は主体自身が拡大され強化さ

れるのである.斯うして与えられた個体としての対象のもつ特性の総和は,紘

局主体自身の特性となり,それが更に他の個体に継承されるならば,主体の死

は完全に取消され,全体的聯関の調和の中に解消されて行くであろう.シラー

の表現を籍れば,此の時人類は主体(彼)自身であり,人類は,その中に主体

(披)の生命が血液の一滴の様にだぶ所の一個の肉体となるのである27)是

(10)

は云う迄もなく,もはや個体に投下された絶対的存在の性格の単なる形而上学 的省察ではなく,個体に於ける価値の云わば再生産であり,遍在的価値の主体 的把握として,個体に内在する客観的価値の高次化されたものと観る事が出来 よう.随って,此処ではもはや愛による生の神智論的解釈は影を潜め,却って 生の積極的な創造的意欲が観られるのである.

以上観て来た様に,シラーは,先ず,形而上学的本質論に基く愛の理念的基 礎づけから出発して,遂に愛の実践的価値の把握に到達したわけであるが,愛 による犠牲の考え方は,次の≫Don Carlos≪に一層形象化されて表れたの ち, ≫Kallias Brief e≪ (1792‑3)の中で,所謂美魂Schone Seeleとの関 係に於て具体的な倫理として取り上げられるのである.

次に,ドイツ古典主義の中心的理念とも云うべき美魂の表象が,既に「哲学 書簡」の中に原型として現わされる.

此処には特にシャフツベリの影響が濃密である.彼にあっては,前にも触れ た様にギリシャ的な考え方が支配的であって,徳と美の一致に基く美的規定が 中心的な問題となる.現象の多様性を統一する, actionに於けるgraceは, 是を美的訓練によって達成する事を得るが,天才として此のgraceを生具す る人間は少いので,勢い一般には,芸術か又は美に於て完成された徳性への絶 えざる接触によって与えられなければならない.

青年シラーも,シャフツベリのmoralgrace28)の優位に共感して,是を して一層高貴な喜びえの感情Gefuhl fur edlere Freudeを産み,行動を低 俗なものから引離す道徳性Moralitatの基礎と見倣している29)彼はシャ

フツベリ的な見方を,愛による表象に迄受け入れようとするのである.

既に述べて来た様に,愛は個体と個体とを単に結合せしめるのではなく,個 体の夫々に於ける増加と二つの個体の本質的統一であった.随って,主体が対 象の真・美・善を表象するならば,その主体の性格も真・美・善となるであろ う.若しも,表象の対象が真・美・善の調和したもの,即ちギリシャ的な意味 に於ける完成した徳性であるならば,表象する主体は同時に対象と一致して徳 性となるであろう30)

完全な芸術作品は世界に似る31)芸術の創作品が偉大であり完壁であれ

(11)

ば,その創作者の凡ゆる行為は作品の蔭に埋没されて,享受者の感受には現れ ない.絶対者による世界の創造に於ても,是が余りにも完全である為に,創造 者の姿は感知できない.それ故,完全性と云う共通の性格によって,絶対者の 世界に通じる,卓越した芸術作品を享受する事は,人間の性格を絶対者のそれ に近づける最も有効な手段となり得るであろう.何となれば,調和は人間に現 れるよりも,より多く芸術作品に現れるからである.

是は既に美的教育の思想であるが,美と徳性を愛によって結合せしめると云 う事は,一種の社会的傾向であり,後年カントの道徳的要請論を修正して,盟 想主義的な美的国家の思想を展開したシラ‑の姿勢は,既に此の頃に現れてい たと見倣されるのである.

勿論, 「哲学書簡」に於ける思想の構造は末だ啓蒙主義の微候の下に立って はいるが,カント学徒ケルナーとの友好を通じて,僅か乍ら先験的認識への関 心も覗かせている点,又,情緒的にも思想的にも理想主義と現実主義,精神生 活と物質生活の二元論的分裂を内的に体験しているさ中にあって,極力これを 止揚すべく模索している点,漸くにして一種の多元論的な体系を設けて事象の 説明と自己の内的統一を図るに至り乍らも,概念的訓練に対する自信の欠乏32) から,計画は未決であると感じている点,等からして,一応は此処で彼の青年 期の思想的清算が成されたと共に,他面では,来たるべき古典主義えの豊富な 準備が為されていると云う事が看過出来ないのである.

附. 「哲学書簡」に現れた愛の表象を,単にそれのみとして観る事は,憶かに 青年シラ‑の観想を窺う上では有効な方法であるに違いない.然しその事のみ では18世紀の特微的微候が如何にして彼の未成の人格に反映したかを観るにし か過ぎない.云う迄もなく,世紀末より19世紀初頭に跨るドイツ精神史は,そ の質と密度に於て,ドイツの近代を決定する多大の要因を荷うのであるが,そ の時代を受けとめ,却って働きかけてその時代の発展に力与らしめるには,シ ラーにあっても成年の精神が必要であった.誓えば,シュトクルム・ウント・

(12)

ドラングが啓蒙主義の単なる反動でなく,又古典主義がシュトウルム・ウント

・ドラングの単なる揚乗でもなく,更にロマン主義もシュトゥルム・ウント・

ドラングと古典主義との単純な意味での綜合ではなく,その間に各精神層の全 体若しくは層の部分の微妙な重なり合いとその積み重ねが介在し,それらの錯 綜が雑多な線を描いて19世紀へ繁って行くのであるが,更に一般にドイツ観念 論として総括される,シュトウルム・ウント・ドラング,古典主義,ロマン主 義の各思潮の全体が,自然把握の形式を規定するフマニスムスの体系であ り,一方フマニスムスそのものの形式的規定が啓蒙主義であるとすれば,啓蒙 主義とドイツ観念論との二元的対立はあり得ても,ドイツ観念論の各段層がそ の範囲内で相互に独自の発展契機となり得ると云う考察は可成り困難になろ

う.

一個のシラーを観る場合にも,彼が世界の紐帯と見倣し,その関心の最も深 奥のものとなした愛が,イデーとしてドイツ観念論の波の中で如何様に息吹き 成育したかを考察する事が問題となるのである.それ故,カント体験以前の彼 のイデーを観るに留めるのは,青年シラーのイデ‑が如何なるものの‑)W芽であ り,本質上如何なる相に成長し,何に働きかけて将来如何なる批判的契機とな り得るのかと云う,謂わば最も重要な側面を看過する事となる.言い換えれ ば,青年シラーのイデーの実相は,後の先験的シラ‑のイデーによって詳細に 検討し直してこそ,確実に把捉出来るのではないであろうか.

それが次の課題とならねばならない. 以上

Anfuhrungen

1) >Liebe ist eine Anziehung des Vortrefflichen,‑

S.146 S.W. Meyer Bd. 15

2) ≫Die Anziehung der Elemente brachte die Korperliche Form der Natur

zustande. Die Anziehung der Geister, ins Unendliche vervielf云Itigt und fortgesetzt, miiβte endlich zur Aufhebung jener Trennung fiihren, oder (darf ich es aussprechen, Raphael?) Gott hervorbringen. Eine

solche Anziehung ist die Liebe. S. 151 w. o.

3) a.a.O.

(13)

4) ≫Die ganze Summe von harmonischer T云tigkeit, die in der gottlichen Substanz zusammen existiert, ist in der Natur, dem Abbilde dieser Substanz, zu unz云hligen Graden und Maβen und Stu fen vereinzelt.

S. 150w. O.

≫‑・‑ der in tausend Kopien anders entstellt, S. 153 w. 0.

5) Vgl.2)

6) ≫Wie sich im prismatischen Glase ein weiβ er Lichtstreif in sieben dunklere Strahlen spaltet, hat sich das gottliche Ich in zahllose empfindende Substanzen gebrochen. S. 150 w. 0.

7) >Gefiel'es der Allmacht dereinst, dieses Prisma zu zerschlagen, so stiirzte der Damm zwischen ihr und der Welt ein, alleGeister wiirden in einem Unendlichen untergehen, alle Akkorde in einer Harmonie ineinander flieβen, alle B云che in einem Ozean aufhoren. S. 150f.w. 0.

8) >Also Liebe, mein Raphael, ist die Leiter,worauf wir emporkhmmen

zur Gottえhnlichkeit. S. 151 w. 0.

9) Vgl.2)

10) ≫ ‑so ist der Beruf aller denkendenWesen,in diesem vorhandenen Ganzen die erste Zeichnung wiederzufinden, S. 141 w. 0.

ll) ≫ Raphael, an deinem Arm o Wonne!‑

Wag'auch ich zur gro;3en Geistersonne Freudigden Vollendu‑ngsgang.

>Freundschaft< S. 146 w. 0.

12) Vgl. 5)

13) ≫Die groβe Zusammensetzung, die wir Welt nennen, bleibt mir jetzt nur merkwiirdig,weil sie vorhanden ist, mir die mannigfaltigen Au‑

βerungen jenes Wesens symbolisch zu bezeichnen. S. 141 w. 0.

14) Vgl. 18)

15) ≫ beides (Naturwissenschaft u. Antike) nur Widerschein eines Geistes, neue Bekanntschaft mit einem mir云hnhchen Wesen.

S. 141 w. O.

≫Gott und Natur sind zwei Groβen, die sich vollk0mmen gleich sind.

S. 150w. 0.

16) ≫Welchen Zustand wir wahrnehmen in diesen treten wir selbst. In dem Augenblicke, wo wir sie uns denken, sind wir Eigentiimer einer Tugend, Urheber einer Handlung, Er finder einer Wahrheit, Inhaber einer Gliickseligkeit. Wir selber werden das empfundene Objekt.

S. 143w. O.

(14)

≫Die Gliickseligkeit, die ich mir vorstelle, wird meine Gliickseligkeit;

also liegt mir daran, diese Vorstellungen zu erwecken, zu vervielf云1l

tigンen, zu erhohen‑also liegt mir daran, Gliickligkeit um mich her

zu verbreiten.‑蝣; welchen ich vernachl云ssige, zerstore, zerstore ich

mir, vernachl云ssige ich mir. S. 145 w. 0.

17) ≫‑‑ die Ewigkeit ist ein Zirkel; S.142w.0.

18) ≫Ein Geist, der sich allein liebt, ist ein schwimmender Atom im unermeβlichen leeren Raume. S. 148 w. O.

≫Egoismus erreichtet seinen Mittelpunkt in sich selber, Liebe pflanzt inn auβerhalb lhrer in die Achse des ewigen Ganzen. Liebe zielt nach Emheit, Egoismus ist Einsamkeit.‑ Egoismus sit fur die Dankbar‑

keit, Liebe fur den Undank. Liebe verschenkt, Egoismus leiht.

S. 149 w. 0.

19) ≫Wenn ich hasse, so nehme ich mir etwas;‑‑・‑ Menschenhaβ ein verl云ngerter Selbstmord. a. a. 0.

20) ≫Ich bekemme es freimiitig, ich glaube an die Wirklichkeit einer

uneigennutzigen Liebe. Ich bin verloren, wenn sie nicht ist; ich gebe die Gottheit auf, die Unsterblichkeit und die Tugend. Ich habe keinen Beweis fur die Hoffnungen mehr iibrig, wenn ich aufhore, an die Liebe zu glauben. S. 148 w. o.

21) ≫Wie ist es moglich,daβ wir den Tod fiir ein Mittel halten, die Summe

unser Geniisse zu vermehren? Wie kann das aufhoren meines Daseins sich mit Bereicherung meines Wesens vertragen? S. 149 w. 0.

22) Vgl. 18)

23) ≫Die Zeit ist ein Strom, der reiβend von hinnen rollt; S. 142 w. 0.

24) ≫ ‑es ist die edelste Stufe des Egoismus S. 149w. 0.

25) Vgl. 19)

26) Es muβ eine Tugend geben, die auch ohne den Glauben an Unsterb‑

lichkeit auslangt, die auch auf Gefahr der Vernichtung das nえmliche Opfer wirkt. S. 149 w. 0.

27) Vgl. S.150w.0.

28) ≫‑・・‑, aus unentweihter sittliche Grazie. S. 139 w. 0.

29〕 a.a.0.

30) ≫Schnelles und inniges Kunstgefiihl fiir die Tugend gilt darum all‑

gemein fur ein groβes Talent zu der Tugend, S. 143f. w. 0.

31) Vgl. S. 153

32) ≫Ihre eigne Schranken hat die menschliche Natur, seine eigene jedes

(15)

Individuum. ‑・‑ Ich bin arm an Begriffen, S. 155 w. O.

Nachschlagewerke

Schillers Werke, Meyer, Leipzig; besonders Anmerkungen u. Fui3noten.

H. Cysarz, Die dichterische Phantasie Friedrich Schillers, Tubingen, 1959.

E. Ermatinger, Deutsche Dichter 1750‑1900, Bonn, 1961;

besonders v.S. 350 b. S. 397.

G. Schulz, Furcht, Freude, Enthusiasmus. Zwei unbekannte philosophisch Entwiirfe Schillers. in ≫Jahrbuch der Deutschen

九鬼周造, 大西克礼,

Schillergesell schaft 1. jahrgang 1957, Stuttgart≪,

西洋近世哲学史稿,上巻,1944年刊.特に白157貢至205頁,自277頁至281頁.

美学, 1960年刊.特に下巻自245頁至251頁.

(昭和39年9月30日受理)

参照

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