• 検索結果がありません。

大田哲夫

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "大田哲夫"

Copied!
10
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

後期の作品に於ける

「歴史的様式」の動機に就いて

‑シラー研究の内‑

大田哲夫

先験的な認識は,歴史を単にそれのもつ自然としての性格を通してではな く,それが時として自然的現象的なものを超えて,理念的なものに結びつくと いう動きの中に,歴史の価値観的な洞察を求めようとするが,シラーの場合,

この洞察は彼の詩的体験により一層内面化されて,叙事詩的な象徴性を帯び る.十八世紀的なHumanismusと一致したこの歴史観は後期に於けるシラ ーの思想的特徴となって,彼の完成された歴史劇の基礎を成すと同時に,クラ

イストを初めとして,彼以後のドイツの文学に於ける歴史劇の性格に影響を与 えて行く(1).シラーの歴史劇は単に環境の歴史的整理に留まる事はなく,人物 の意識と行動の中に歴史そのものの意味を表現しようとする点に主要な特徴を もつ.それは人物と歴史との極度に緊密化された統一の印象であり,相互に対 置された諸人物の行動を通して, dynamischな歴史の可変的諸契機を具象的 に把握させるものである.言い換えれば,シラーの歴史劇は人物の意識と行動 及びそれによって展開される劇の筋が,一つの理念との完全な一致の上におか れるのである.そこには一切の偶然的なものを排除しようとする潔癖な意図が あり,唯一の目的をそれのもつ必然性に沿って表現しようとする統一された精 神の典型が存在する.それ故,思想としてのシラーの歴史観は端的にみて目的 論的なものであり,単に精神の外部にあって,人間とその運命を規定する自然 的なものの認識ではない.

一般にシラ‑の戯曲に観られる運命の展開も,それ故,人間の精神の構造に起 因する必然的なものとして,人間の生き々々とした生活の内容を充すものであ

(2)

る.即ち,シラーの精神は運命を神話的に受け入れるのではなく,常に運命に 目覚めてあろうとする.シラーによれば,環境としての運命を秘密の債に留め ずそれを明確に意識に結びつける事こそ人間と環境,自己と世界の内的な一致

を蘭すものでなければならない.それが個健の拡大の要求であり∴叉先験的な 自意識の是認でもあった.シラ‑の悲劇の本質も亦この点に認められなければ ならない.

世界の創造は先験的認識によって或る典型的な精神の自己創造から成される が,限定された人間の行動は無限のものとして創造されたこの世界との間に必 然的な破綻を招かざるを得ない.シラーにあっては,彼の描く典型化された人 物の意識に斯の様な連関が明白であるだけに,悲劇は一層悲劇的であり,運命 は一層運命的となる.それ故≫Wallenstein≪に窺える様に,運命は意志の選 択に関わるものとして描き出される.

Nicht meines Hasses Trieb‥. Ich hebe

Den Herzog nicht und hab′ dazu nicht Ursach‥.

Doch nicht mein HaB macht zu seinem MOrder.

Sein boses Schicksal ist′ s. Das Ungliick treibt mich

Die feindliche Zusammenkunft der Dinge.

Es denkt der Mensch die freie Tat zu tun, Umsonst! Er ist das Spielwerk nur der blinden Gewalt, die aus der eignen Wahl ihm schnell Die furchtbare Notwendigkeit erschafft.(2)

斯の様な運命の観方は,基本的には意志の自由を承認したもので,そこに初 めて運命を生の関連に於て把握する現実的な可能性も生れて来る.シラーが描 く人物の性格が,活殺な意識の自由な動きの中に,その全生活を完成しようと する特徴をもつのも,要するにシラーの思考の中心を成す先験的な認識に基く

(1) z. B. Kleist, Der Prinz von Homburg.

(2) Schiller, Wallensteins Tod. IV. Aufz. 8‑ Auftr.

(3)

ものであって,シラーの悲劇に於ける上述のシラr的な運命も依然そこに主要 な動機をもっものとみなければならない.ドイツに於ける十八世紀の後半は精 神史的には言う迄もなく数学的自然科学的な分析と結びついた先験的な認識主 義の時代であり,それがルソーの素朴自然主義と結合して特徴的なKlassikを 生み出そうとした時代であった.ケプラ‑とルソ‑とカントの影響は,時代に 対して,美と崇高と理念への畏敬という微侯を与えていた.人間に対しては認 識論的な検討が要求され,詩的な観念に於て生の関連が強調された.斯の様な 意味に於けるHumanismusの精緻な科学的表現としての先験哲学は,それ 故生と自意識の哲学であって,文学の意図する所と同一の普遍的な生の観念と 当然結びつく可能性をもっていた.生の歴史性も此の認識のもとにおかれ,坐 の普遍的な関連が認識論的な歴史観によって統一的に把握される可能性も亦準 備されていた.

シラー自身が此の時代の典型的な像であり,叉彼の性格が此の詩的思想的時 代の具現であっが故に,彼の創造した文学的形姿も亦時代の上述の観念の典型 的体現となった. ≫Wallenstein≪以後の諸戯曲が膚した諸人物像は,すべて 対立する歴史的条件の中で性格づけられ,その条件と完全に融合し合って行動

するが故に,その行為によって導かれる戯曲の筋は全歴史的世界の表現とな る.すべてが典型的である.そこから生み出される歴史的法則としての運命 も,全世界の運命であり,随って生を全体的に規定する必然的な法則となる.

歴史の中に人間の生の関連を描出し尽した所に真の歴史劇の可能性が実現化さ れる.歴史劇の創造には作者の主観に基く歴史の理念の明確な把握と自己の Fantasieによる歴史の肉付けが要求されるが,その際,理念の理解が明確 であればある程そこに描かれた形姿は典型的とならざるを得ない.何となれ ば,純粋な理念の体現は様式の完成を必要とし,描写にあたっては一切の偶 然性は廃棄されて唯必然的なもののみが残らねばならないからである.既に

≫Wallenstein≪及び≫Maria Stuart≪に於て歴史的性格を創造し得たシラ ーが,続く≫Messina≪に置いた課題が此の事であった.

シラーは此処で芸術の任務を次の様に明白に規定している.

≫Unter der Decke der Erscheinungen liegt sie(Natur), aber sie

(4)

selbst kommt niemals zur Ersch早inung. BloB der Kunst des Ideals

ist es verliehen, oder vielmehr, es ist ihr aufgegeben, diesen Geist

des Alls zu ergreifen und in einer k凸rperlichen Form zu binden.≪(汚)

即ち,現実としての自然が精神め理念の表現であるY以上,現実を放棄して芸術 が成り立つ事はあり得ないが,その現実(歴史)を単に記述的に描く事が芸術 の真の任務であるのではなく,問題となるのほ現実の中のGeistの把握であ る.即ち,芸術家は,現実の中の諸要素を分離した形の債で用いる事は許され ない.

I ≫Es ergibt sich daraus von selbst, daI3 der Kiinstler kein einziges Element aus der Wirklichkeit brauchen kann, wie er es findet, daB sein werk in alien seinen Teilen ideel sein mu8, wenn es als ein Ganzes Realitえt haben und mit der Natur iibereinstimmen soil.敬(4) 此処からして,必然的に芸術に於ける様式の確立が要請されて来る.

シラ‑によって確立された芸術の様式(Stil)の特徴は,飽く迄もそれが現 実(das Wirkliche)即ち歴史(das Historische)の関連の中から見出され た点にある.現実とは,シラ‑によれば,先験的秩序の場であり,理想主義的 な道徳的理念を覆う所のものである.それは精神の理念を意味するものではあ るが,その理念そのものは現実の現象的なものにdeckenされていて,その 健では決して人間によって感受はされ得ない.芸術家の真の任務は,現実のこ

のChaosを人間(此の場合は芸術の享受者)に明白な意味あるものとして 感受せしめることである.この場合に,ディルタイが強調した芸術に於ける Phantasiesの意味と,シラーの所謂詩的自由(poetische Freiheit)の意蔑 が了解されなければならない.なぜならば,今述べた磯に,現実の錯綜した状 態の重では個々のものは単なる素材であるに過ぎず,それらが理念の真の表現 である為には先ずそれらが一個の全(All)として把握される事が必要となる からである.個は現実に於ける素材(Stoff)であってそれ自体偶然的である.

(3) S. W. Meyer, uber den Gebrauch des Chors in der Tragodie. S.344f.

(4) a. a.O.S.345

(5) Vgl. Dilthey, Beitrえge zum Studium der Individualitat.

(5)

必然性としての理念は偶然性としての素材に於て直接に表現されるものではな く,素材が一定の連関の中に,即ち個が全の体系の中に組み込まれる時,現実 は初めて真の現実性(wahre Realitえt)を有するに至る.言う迄もなく,こ

の様にして把握された現実は,一般的現象的な現実ではなく,一定の必然性に よって統一された或る観念に於ける現実である.所で,批判哲学を通して認識 された此の連関を,直接感受の対象として人間に与える為には,それを単に理性 の領域に留めず芸術の域に迄昂める事が詩人にとっては当然の責務となる(6)

かくして,現実には決して存在し得ぬ世界を価値的に存在せしめる動機が Fantasieである.現実の中に存在しながら,而も現象を超越した理念の世界, シラ‑の言を籍れば,(7)経験よりも現実的,現実よりも一層真実な世界,内在 的な範噂に基く,カント的な必然的法則の支配する独得の新しい世界が,此の Fantasieと批判的認識の結合の中から産み出される.その結合こそ,シラ‑

の「様式」の動機にはかならない.

シラーによれば,現実をただ記述するのみはRealismusではなくて卑俗な 態度に過ぎない. ≫Messina≪の序文にある様に,芸術を疋しめるものはその 享受者ではなくて芸術家自身である(8)彼の「卑俗と低劣」に関する論文に於 ける卑俗なもの(das Gemeine)もその取扱い(Behandlung)によって高 貴なものと(veredeln)なされ得る(9)という,所謂,素材と形式の問題も,当 然此の観方に関連するが,とりわけて此処では更に基本的な芸術家の意識が問 題になっている.シラーは,此処で芸術の享受と芸術による単なる娯楽とを完 全に区別して,最高の享受(der hochste GenuB)を与える真の芸術(die rechte Kunst)の可能性を主張する(10)即ち最高の芸術享受は単に剃邪の遊び (ein vor凸bergehendes Spiel)を意味するものでもなく,又人間を単に 一瞬の自由の夢(ein augenblicklicher Traum von Freiheit)の中に

Vgl. Schiller, Die Kvinstler

(7) S. W. Meyer, Bd. 5, Uber d. Gebr. d. Chors in d. Tragodie. S. 345 a. a. O. S.341

(9) S. G. W. Mohn Vrlg. Bd. 5サGedanken iiber den Gebrauch des Gemei‑

nen u. Niedrigen in der Kunst. S. 43 wie (7) S. 342

(6)

versetzenするものでもなくして,それは人間を真に実際に自由にするもので ある(wirklich und in der Tat frei zu macheタi).シテ‑はこれを詳述し てこう表わしている.

≫und dieses dadurch, dafi sie eine Kraft in ihm erweckt, iibt und

ausbildet, die sinnliche We一t, die sonst nur als ein roher Stoff auf

uns lastet, als eine feinde Macht auf uns driickt, in eine objektive Feme zu riicken, in ein freies Werk unsers Geistes zu verwandeln und das Materielle durch Ideen zu beherrschen.≪(u)

これは明確に先験的な意識の表現であり,芸術創造の主観的な方向づけであ ると共に,亦人間の美的教育の可能性の確信の表現とも繁るものと言えるであ ろう.

既存の社会的素材的なものの中に生の最高の価値,随って歴史的なものの普 遍妥当的な理念を見透すという此の作業は,必然的に劇に理想を支える一定の 形式を要求する.それは,詩的自由による劇の独立性である.シラーによれ ば,その先験的主観的な連関の把握からして,芸術は或る絶対的なものの象徴 となる.現象的世界には存在し得ぬ純粋に理想的な世界である劇の舞台は,抽 出された生の連関の必然性の表現であり,人間の内的な緊張と外的な緊迫,檀 々の情熱と威嚇的な運命などを,一つの厳格な形式を通して崇高なものに昂め る,最も非散文的な最も象徴的な世界でなければならないJ2)それ故, ≫alles ist nur ein Symbol des Wirklichen.≪os)という主張の上に立って,その象 徴性を完成せしめる動機が求められなければならないのである.

仮に舞台の上の日時を人為的なものとなし,筋の空間,背景の建築を理想的 となし,又韻律的な言語が理想的なものであるとしても,それらが行動の連続 と一致したものでなければ,部分は全体に統一される事はあり得ない.先に引 用した様に,劇が全体としての真の現実性を保持する為には,劇のすべての部 分が理念的であらねばならないが,その事はつまりは劇に一切の経験性を排除

a. a. O. S.343 (12) a. a. O. S. 345

ebda

(7)

する事を意味するのである.劇をこの様にして通俗的経験的なものから解放す る事が,即ちシラーの所謂詩的自由である.それ故,この詩的自由はすべての 詩的作品の本質(das Wesen aller Poesie)と見倣され得る.(14)人間は芸術に 接する時,限定された生活より解放される事を期待する.その芸術が人間を再

び現実の生活に引き腔す様なものであれば,芸術に接する真の目的は完全には 達し得られない.芸術が単に感性に働きかけるに留るならば,享受する人間は 畑むなく現象の手前に仔立して性格の高貴なものを体験する事は出来ない.同 様に亦,理性が要求するすべてのものも芸術にあっては単にその素材であるに 過ぎず,依然として,それのみでは限定された理知の動機にしか過ぎない.部 分が全体より分離した斯の様な状態は芸術的には未形象の状態であって詩作品 の真の成立は期待され得ない.詩が詩として存続し得る為には,人間の本性が 要求する此の二つ,即ち感性的衝動と理性的衝動(15)が詩作品に於て均衡を保持 していなければならない.それは現象の樫にある人間の本能と,それを貫透し て自己の拡大を図ろうとする自己形成の理念的欲求の両者を,同時に且つ完全 に充足せしめるものでなければならない.

シラー的な美的教養主義に基く理想の芸術は新の様なものであるべきである が,絶対的な芸術は本来存し得ぬものであり,芸術は唯素材の選択と綜合を通 して現実の無限の関連の中から芸術的関連を具現せしめるに過ぎない.それ 故,その選択綜合の過程に芸術家の個性に基く限界の動機があると同時に,そ

こからして,選択されるべき素材の均衡の危機も生じて来る.この点をシラー は賢明にも次の様に洞察している. ≫Wenn die Wage nicht vollkommen innesteht, da kann das Gleichgewicht nur durch eine Schwankung der beiden Schalen (des Ideale u. Sinnhche) hergestellt werden.<(16)

此処に挙げられたschwankenという具体的な表現は理念的に言表すれば spielenであり,これが,芸術のSpielとしての性格を規定する洞察へと繁 って行く.そして此の点に,現実の生活と芸術の世界を劃する基本的な観念の

a. a. O. S. 346

Ugl. Schiller, Briefe dber die Asthetische Erziehung der Menschen.

wie (7) S. 349

(8)

壁が構築されなくてはならない.それがFantasieと詩的自由である.

これらの最も技巧的典型的な具体化が≫Messina≪に於ける単数的Chorで ある. Chorは,シラーの言明に随えば具体的個人の集合ではなく或る一般的 な概念であり,時空を超越し局限きれた個人的なものを類に迄拡大する力を持 つ. Chorは劇の言葉に瀞刺さを与えると同時に行動には沈静さを与える事に よって,劇そのものに対しては盗意と情熱を抑制し,観衆に対しては,印象の 中断という技巧によって感受に抑制を与えて理性の復活を蘭す.こうする事に よってそれは観衆を受動的激情から解放し,劇の人物の行動には壮重な印象を 付与する. ≫Messina≪はシラーによっていわば古代宗教的な雰囲気を以て描 き出されたが,象徴的擬人としての此のChorの印象が,その雰囲気を強化 している. Chorはそれ自体一つの統一体で,理想主義的な劇を動機づける所 の≫ideale Person≪的である.此処では,人間の力への情熱,自由‑の欲求, 精神の形式を求めようとする努九調和‑の意志といったあらゆるhumanis‑

tischなものが対象に向って働きかける.対象は一方これによって普遍的なも のに処理されて心情のうちに渉透する.現実に於ける現象的なものは此処に漣 過され廃棄されて,詩劇は無擬の独立性を与えられる.要するにChorは斯 の様な意味に於て劇を理念的に統一する契機である.それ故, Chorはシラー の比境を用いれば,詩を現実より防護する一個の生気ある防壁なる.≫so sollte

er uns eine lebendige Mauer seinテdie die TragGdie um sich herum‑

zieht, um sich von der wirklichen Welt rein abzuschlieBen und sich mren idealen Boden, ihre poetische Freiheit zu bewahren<.<ia)

斯うして,描かれた世界のすべては現実の象徴となる.即ち,現実的歴史的 なものに含まれた必然的なものの完全な反映がそこに現れる.そこではシラー の最も主要な関心が要求する所の,理念の対象全体への渉透が達成される.こ こに,言語・形姿‑と象徴的に昂められた歴史的現実が産み出されたのであ る.勿論Chorはその為の,極めて密度の高いものではあるとしても,単な る技巧上の形式であって,シラーは他の劇に於てほおのづから別のそれを独自

a. a. O. S. 351 (18) wie (15)

(9)

の様式の関連の上に採用している.例えば≫Tell≪に於けるホーマー的な描 写, ≫Wallenstein≪に於ける歴史的イロニー等々.

所で,ゲーテの様に広く自然の中に自己を拡大し,自然の裡におのずから理 念の芽生えるのを取ってそれを自己と同化させようとする心術とは逆に,シラ ーの心的態度は飽く迄も意志の努力であって,その情熱は主観に内在する必然 的な法則を以て世界を構成しようとするものである.シラーの芸術家としての 意識は此の「努力」という近代的な観念を以て,歴史的現実に於ける普遍妥当 的な核心を生の内的な連関の中に持ち込もうとしている.それは認識論的な思 惟を心情の中に融和させる努力である.認識に於ける自由な存在としての自己 の自覚が,材質(Materie)としての自己の意識と融合した時,美青的な人間 の完成が蘭らされる.それを準備する唯一の機関である芸術も,随って古典主 義的な美的形姿を保持していなければならない.然し乍ら,同一論的には或る 絶対的な状態である此の美的状態は,シラーにあっては人間の意識の発展の契 機に過ぎない.シラーの劇が発展の劇としての性格を持つのも此の事に基いて いる.シラーの凡ゆる思考の中核は,歴史的理念(とりもなおさず人間の内在 的理念)の心情への定着という一点に認められる.随って彼のFantasieは専 ら対象を必然性に関して把握する方法と結びつく.彼の強力なFantasieは此 の歴史的理念を悟性と結びついた啓蒙主義的な概念に留める事なく,心情を通 して生の連関に結びつける結果,その理念は常に人物の形姿によって表現され なければならない.即ち,そこには人物の個別的性格よりも,普遍的発展的な 人物の形姿が要求されなければならない.

そこからして,≫Messina≪ほ無論の事, ≫Tell≪も≫Maria≪も≫Wallen‑

stem≪でさえも,主要な関心は筋‑人物の行為そのものに集中されて,人物 の性格は典型化される.その「典型的性格」はすべて歴史的なものの表現であ る.典型とは社会的歴史的なものの個人に対する内的な関係を意味している.

そして,人物の歴史的性格とは,一つの歴史的状態に条件づけられ且つこれに よってのみ理解され得る諸特性の結合である(19)人物の此の典型的な形姿が蘭 すものは充足された無限性の印象であり,崇高な沈静の印象であり,盗意と狂 熱とよりの解放の印象である.それは歴史の発展的契機の性格に及ぼされた影

(10)

響であって,シェクスピアに於ける様な性格の心理的発展の印象ではない.

それ故,斯の様に歴史的意識から求められた様式は,シラーの歴史劇に完く 新しい美的情緒を与えると共に,創造の全体的要請という側面から観れば,一 定の目的論的なものによる制約からして,他面ではシラーの戯曲に或る限界を 与えるものでもあった.然し乍ら,性格のdemonischなものを把握する天 才とは完く別種のものがシラ‑には与えられていた.それは対象の連関を歴史 的に把捉し得る意識,即ち自然を生に連関づけ,それを以て具体的な生を規定 しようとする精神,言い換えれば生の理念の意識である.一般的に,カントを 超えた所にシラーを位置づけるのも,要するに,シラーが先験的な理性を単に 批判的認識の対象として留めずに, Fantasieによる創造的行為を通して,理 性を直接生の関連に結びつけたという点に基くのである.

随って認識論的な理性を歴史的生の洞察‑と導いたのがシラーの業績である とすれば,批判的立場に立つとはいえ,この点についてルカーチがシラーに対 する評価を忘れなかったという事も注目に価しよう.即ち,シラーの主観的観 念的限界をあばき批判する事は容易であろうが,それは表面のみを観ての事で あり,シラーの問題解決の背後には,深い真に弁証法的なものの拡大が構って いて,その確認は対象の経済学的な叉イデオロギイ的な真の反映にはかならな いのである,と.榊以上

参照文献

Diltheys Gesammelte Schriften. Bd. V. Teubner, 1924‥ ‥..

Beitr五ge zum Studium der lndividualit云t.

H. Cysarz, Die dichterische Phantasie Friedrich Schillers.

Niemeyer, 1959‑

F. Strich, Goethe und die Weltliteratur,

H. A. Korff, Schillers Helden‑und Tragodienideal in "Geist der Goethezeit II, Leipzig.̀̀

Luk丘cs W. Bd. 6. Luchterhand, Probleme des Reahsmus III,...‥.

Der historische Roman.

LukAcs Werke, Bd. J, Deutsche Literatur in zwei Jahrhunderten.

(昭和42年9月25日受理)

D. G. Schr. Bd. 5, S. 297

L. W. Bd.7, S. 174

参照

関連したドキュメント

健学科の基礎を築いた。医療短大部の4年制 大学への昇格は文部省の方針により,医学部

 彼の語る所によると,この商会に入社する時,経歴

本県は、島しょ県であるがゆえに、その歴史と文化、そして日々の県民生活が、

船舶の航行に伴う生物の越境移動による海洋環境への影響を抑制するための国際的規則に関して

太宰治は誰でも楽しめることを保証すると同時に、自分の文学の追求を放棄していませ

 このようなパヤタスゴミ処分場の歴史について説明を受けた後,パヤタスに 住む人の家庭を訪問した。そこでは 3 畳あるかないかほどの部屋に

を育成することを使命としており、その実現に向けて、すべての学生が卒業時に学部の区別なく共通に

尼崎市にて、初舞台を踏まれました。1992年、大阪の国立文楽劇場にて真打ち昇進となり、ろ