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大田哲夫

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Academic year: 2021

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シラーの近代様式理論

≫その意義と限界についての,

ルカーチの方法に基く試論≪

大田哲夫

シラーに於ける理想と現実との対比は,換言すれば,近代的市民意識の生産 的意欲と勃興期に於ける資本主義社会が蘭した,或る矛盾によって特徴づけら れている.フランス革命を軸として展開した近代市民社会の時期の前半を,当 時の市民的思想家達の或る者は,完く或る新しい,凍ては彼等自身の歴史的カ テゴリーの形成に通じるいわば主体的な展望を以て把握しようとするのである が,シラ‑もその一人として,当時の社会的課題の独自な精神的反映を提示し ている.シラーに於て我々は一方でへ‑ゲルの先行者としての思想史的特質を みると共に,他面ではゲ‑テの独創的な解釈者としての精神史的意義を認めな ければならないが,まさにその点で十八世紀後半より十九世紀にかけての,重 要な或る面に於ける,新しい市民精神の形態と方向がおのずからシラーの思想 的努力から提示されて来なければならない.

シラ‑は,へ‑ゲルと遊んで,特殊な美学的カテゴリーを近代市民社会の現 実的経過とその精神的本質の中から抽出する事によって,逆に近代市民生活の 社会的規定を試み,就中,市民的社会生活の芸術的反映をその様な美学的カテ ゴリ‑を通して,即ち彼自身による一種の普遍的尺度を通して,承認しようと した.シラーの斯の様な基潜に基く近代様式理論が,若し何らかの限界を意味 するとすれば,それはシラーに於ける基本的な歴史的対立概念としての「古 代」と「近代」の対比が,近代という一つの時代の中で,その時代を形成する 人間の精神と社会の問の必然的発展の複雑な関聯にどの様に投影される,或は されるべきであるかという,彼の歴史的認識それ自体の中に探り出されなけれ ばならない.抑々,社会の必然的発展を未来に展望するというその事自体が,

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シラーに於てどの程度の現実的可能性と歴史的社会的な意義を持っていたかと いう事が一応は問われなければならない.

云う迄もなく,シラーには‑‑ゲルとの方法論的イデオロギイ的な類似にも 不拘,例えば‑‑ゲルがギリシャ精神への関心の中で英国古典経済学に没頭し たという様な,純粋に社会学的な経験も洞察も持つ事はなかった.彼の社会的 展望は要するに歴史哲学の課題を踏まえ,その社会的理想はカント的認識論の 側から思惟せられたものであり,そこからして,シラーの思考に於ては,歴史 哲学的課題のいわばイデオロギィ的な公式化を否定する事が出来ないが,尤も その事は,彼の精神活動或は業蹟の或る客観的に定式化された部分についての み言い得る事であって,後に言及する様に,彼の天才的な精神の拡大をすべて 覆い尽すものではない.彼の歴史的把握は,ヘーゲルの所謂「ミネルヴァの 梟」と相通じたものを窺わせる.例えば,シラーの「美的教育書翰」が告げて

いる様に,古代ギリシャ人が示した人間性が,確立された理想形態として把握 される処では,恐らく人間性の発展が歴史から切離され,従ってそれ自体自家 撞著に陥って,人間性の未来像は霧散し去るであろう.砂くとも,シラーが斯 の様な認識論的な観点から人間性の問題を取扱う限り,その実践的帰結は偲む なく或る観念的に閉鎖された道程を辿らざるを得なくなる.観念論的イデオロ ーグとしてのシラーには,それは宴に怨むを得ない自己矛盾であった.

彼のその様な自家撞著が,当時のドイツの精神的思想的風土と密着し,併せ てその社会的政治的な成り行きとも絡んで,寧ろ逆に,それらの外的な条件と

の同一周期に於て,却って,シラーの凡ゆる感受性の能力を圧迫した形で彼自 身の精神及びその精神的業蹟に付着しなければならなかった事は,惟うに,悲 劇作家シラーの最大の悲劇であった.なぜならば,彼の人間に対する天才的な 洞察は,決して人間の類型化を目指すものではなく,例えば,その事は彼の人

間類型の二分化に於けるその一つ,古代的素朴的人間の近代的形姿の分析に当 って,特にここではゲーテが問題となるのであるが,そこに,必須の素朴的概 念をはみ出した,その対局概念としての情感的性格の有機的混在を見遁してい ないという事,又,それを通して,近代的レアリスムスの在り方への確然たる

見透し,などに仇って著しく明白であるにも不拘,未発達の段階にあったと

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はいえ,市民社会に於ける資本主義的な分業よりしておのずから派生して来る 市民的な分裂した意識,及び又徐々に社会に蘭された個人の全体に対する所謂 疎外の意識が,その意識の社会形態化を通じて,猶シラーという一つの纏った 精神にも必然的に或る影響を与えずにはおかなかったであろうからである.夫 故,シラ‑の持った矛盾は,それ自体近代市民社会の宿命的な矛盾であり,そ こに明確にシラ‑の近代性が像を結ぶのである.夫故に亦,シラーがその分裂 を意識して,分裂の廃棄を,綜合への人間的意志を峨ならしめればならしめる 程,一層その分裂は瞭然たるものとなって,そこに益々みずからの近代性の意 識が露出されざるを得なくなるのである.

然し乍ら,シラ‑にあっては,斯の様な近代悲観主義的な傾向が直接彼の精 神的創造的行為に影響を与える事はなかった.ここで彼の現実主義的楽天主義 的な一面を窺う事は敢てしないが,砂くとも彼が,仮令十八世紀末期の思想的 微湊であり,且つ亦その社会的通念でもあったあの古代讃仰の中で,明確に近 代的なものの,古代的なものに対する同等価値を創造する事に偽って,自己の 近代的市民的価値を主張した事は著しく重要である.而も,それは必ずしもフ ランス革命に於けるストア的ジャコバン的なものから生じた或る種の政治的文 化的なもの‑の対向からではなく,いわば新しい価値の創造‑ここでは新し い価値態としての自然の認識から,必然的に昂まって来る主体性把握の仕方で あった.即ち,近代的情感的な人間類型が,初めて古代的素朴的な人間類型と の等価に於て提起されるのである.

若しも,理想としての素朴的存在のみが自然の完全性と結合するのみで,分裂 され疎外された情感的近代的人間が,永久的固定的に自然から切り離されたに 留るならば,シラーによる人間の二つの分類‑素朴的と情感的‑は,単に心 理学的なものに成り終り,到底歴史的な価値を荷う訳にはゆかない.シラーは 周知の通り,一方にそれ自体充足しそれ自体完結された総体像を古代ギリシャ の精神の中に探り,是を素朴的精神と呼んでその行為のすべてを自然に重ね合 わせると共に,他方では文明の進展につれて人間生活の現実が及ぼす複綜した 影響から孤立して立つ事の出来ない近代的性格を観察し,複雑化した生活の中 で規範を索めて動揺する心情の故に是を情感的性格として,前者に対置させて

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いるが,その対置はここでは分極ではなく,或る原理によって統一されるべき 一つの精神の,近代という時代の制約に基く二面化を示すものにはかならなか った.自然の対象とは,シラーの構想によれば, 「それらは我々が嘗ってあっ た所のもので在る.それらは我々が将来成るであろう所のものである.我々は それらと同様に自然であった,そして,我々の文化は,理性と自由の道程で自

2>

然‑と我々を立ち戻らせるべきものである.」そこで, ・ほかならぬ此の「理性 と自由」の観念の中に,シラーに於ける重要な歴史哲学的なモメントが認められ なければならない.自然の完成が理想であるとして,一方それに向って立って いる情感的人間が再びその自然に統一的調和的に包含され得る為には,彼はそ の理念の働きに期待しなければならない.素朴的人間は単に「現実の出来る丈

3

完全な模倣」によってのみその行為を完成する事が出来るのに反して,情感 的人間は,その理念による現実的対象への深化と,その現実の自己への反映を 通してしか,その対象を把握する事は出来ない.シラーの弁明を葬れば, 「情 感的人間は,対象が彼に与える印象を反省し,そして彼自身が感じ我々にも感 じさせるこの感動は,その反省に基礎を置いている.対象はここでは理念に関 係づけられ,そして文学の力はその理念にのみ基くのである.随って,情感的 詩人は常に二つの相争う表象と感受,有限としての現実と無限としての理念に

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関わりを持つのである.」ここに,情感的原理が単に自然と切断されて置かれ たものではなく,却って近代的人間を再び自然‑統一的原理に結びつける為 の, 「歴史的移行の原理」にはかならない,という認識が可能となる.

此の,いわばシラー独自の人間学的弁証法が, ‑‑ゲル美学の体系と相違す る主要な点は, ‑ーゲルの場合,その哲学体系はシラーの場合よりも一層進展 した社会的経済的構造の思想的反映と見倣され,シラ‑の場合よりも,資本主

5;

義社会の凡ゆる必然性に関する洞察がはるかに深かった事に帰着する.シラ

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‑の場合は,彼の強い反ジャコバン的意識にも不拘,そのジャコバン的幻想 を産み落した市民社会の最も本質的なものを把えてきて,是を純粋な形式に迄 概念化し,是を以て市民社会それ自体の矛盾廃棄を図ろうとするのであって, 必然的な自家撞著が‑ーゲルの場合よりも尖鋭化した姿で現れざるを得ない.

シラーの場合の一見して明朗な思想的把握は,政治史的にも思想史的にもテル

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ミドール革命の段階から為されたものであって,必然的に,進展しつつある 市民社会の前途に対する希望的幻想がシラーによって持たれたとしても少しも 不思議ではないであろう.一方,ヘーゲルの思考はボナパルト反動体制の段階 に立ったもので,そこには,市民的英雄時代を既に神話的過去のものと見徹さ ざるを得ない現実的動機が含まれていた.歴史の未来に対するベルスペクティ ーフほ既に崩壊し,代って相対的な無幻想性が歴史の原理として登上する.シ ラーに於ける,へ‑ゲル的な近代的な学としての歴史学の鉄除は,然し乍ら他 面その幻想的歴史哲学的な構想の故に,却って近代的人間像の内面的把握を明 確にする事が出来た.さきに触れた,自然への移入と一致の契機としての理念

も,シラーの場合には,市民的フマニスムスの道徳的要請に基く実践的原理を 意味し,物自体という非合理的なものをも衝き通して是を人間的なものに結び つけようとする,一種の可能性の原理とも言えるであろう.

その事と関聯して,シラーの社会に対する市民的期待は,いきおい精神の閉 域に限定されざるを得なくなる.社会的行動を伴わぬ社会意識,政治的集団行 動を伴わぬ革命への期待‑それが現実の中で完成された何らかの理想像と接 触した時に現れて来るものは,通俗的現実からの一層の脊離であろう.その時 には現実上の未来期待は現在又は過去に逆転され,更に逆にそれを未来に期待 する結果に終るであろう.もともとシラーも含めて一般にドイツ古典主義は, 時代の微快である市民革命的な要求と成果を,封建的前近代的なものの温存の 中で達成しようとするもので,それ自体が既に矛盾した原理を抱き込んでい た.ドイツ古典主義という一つの傾向の主体者は市民であり乍ら,猶その階級 の本質的要求は現実の基盤に迄は達し得ず,結局理念の中に槌色し終る.それ は徐々に複雑化してゆく社会的経済的な現実の,言い換えれば資本主義的な分 業化の進展の精神的反映にはかならなかった.現実に於ける分業が主体的市民 的精神を全体的生活意識から切離すのである.そこからして,近代市民的イデ オロギィとしてのドイツ古典主義が分裂の危険の上に築かれた,単なる観念 的な調和の原理に過ぎぬという事も,ここで認められなければならず,随っ て,極言すれば,ドイツ古典主義の理想の虚像性が論議されざるを得なくな る.

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ルカ‑チによる社会主義的なシラー論の結語を侯つ迄もなく,シラーを含 めてドイツ古典主義の原理は,憶かに観念的な袋小路に帰着せざるを得なかっ た.シラーの場合,あの正当な,あの透徹した現実把握‑精神史的にも思想 史的にもあれ程卓越した独創的且つ影響力豊かな様式の分析が拠って立ってい る,あの現実把握‑にも不拘,彼はそれを社会的実践的な根元に立ち返って 考察する事は出来なかった.寧ろ,彼とその思想的知友達は,抑々の出発点か

らしてその様な社会的根元からは離れて立っていた.さきに触れた,シラーに 於ける可能性の原理云々という問題も,純粋に精神の問題に限定されて言い得 る事であって,勿論現実の社会的政治的な可能性に直ちに結びつく筋合のもの ではない.シラーは,その現実把握から正当にも抽出し得た人間存在の二つの 在り方を,直接社会生活に,即ち無意識的に発展する「現在」の歴史に重ね合 せて考察する代りに,これらを純粋に精神的な傾向‑と主観化する事によっ て,様式的生活の現実的生活‑の優位を主張しようとするのである.彼の所謂

「美的国家」という仮象理念こそ,ほかならぬシラーの様式衝動から押し出さ れる窮極の幻想的な社会意識であった.

借て,シラーが斯の様なユートピア的矛盾統一を図る過程で,その観念的統

‑の契機として対立させた原理が,美学的な意味に於ける理想主義と現実主義 とである. 「美学的」なものは,シラーに於ては,他の凡ゆる古典主義的思想 家の場合と同じく,極めて重要な原理である.就中,それが近代的市民的な意 識の中で取扱われる場合には一層顕著である.なぜならば,芸術は,対象の具 体的全体的な像を表現するものであり,現実に付随する凡ゆる偶然性の廃棄を 以て,個別的なものの全体に対する必然性を確保する方法を示し得る領域を拷 つものであり,従って芸術の意識化である美学が,分裂され疎外された市民精 神の再構成に与る意義は殊更に大きいものがあるからである.随って,美学的 方法は,シラーにあっては単に文学及び芸術の領域に限定されるものではな

く,ひろく生活を含めた世界観の全額域に跨って用いられるのである.美学的 な意味に於ける現実主義と理想主義も,ただ単に芸術批評的な段階に留る原理 ではなく,精神の現実に対する対処の仕方に関係する原理にはかならない.夫 故,シラ‑が近代の基盤に立って,レアリスト達とイデアリスト達を論ずる場

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合も,単に文学運動の文学史的考察に終るのではなくて,普遍的な理念の追 求,人間の本質の洞察から観念論的に社会を規定しようとする近代フマニスム スの立場が貫かれるのである.シラ‑に於ける文学的レアリスムスの問題を考 察するに当っても,主要な関心が向けられるのは,対象としての文学そのもの よりも,それが規定する所の人間性と,及びそれが反映されている所の現実で あるという課題が忘れられてはならない.

素朴性と情感性という対立の図式が荷っているものは,先ず近代市民社会の 資本主義的分業の督した矛盾である,という事には既に言及した.然し一方 で,それが含む所の大きな意義は,人間の近代的な存在の仕方と関る大規模な 問題提起に存する.対置された二つの原理は,成程シラーの意識からすれば,

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ルカーチの言う様に観念的に硬直化した対立の中にあるであろう.然し乍 ら,シラ‑ほこの問題にひそむ方法論に於て,本来の彼自身の展望を超えた本 質的な問題となる側面を,此の度理対置の中から抽き出す事が出来たのであ る.即ち,彼は此の二つの原理を単に時代的相違に対応するものとして設定 したのみではなく,夫々相違した時代的なもの‑古代性と近代性‑を如何 に感受するかという課題の,つまり近代人の感受方法という主体的な課題のも とに導入したのであるが,まさに此の事が,彼の構想に多面性と深さとを添え るのである.例えば,素朴な人間の典型と見倣されたゲーテの場合について, 此の感受方法,換言すれば手法の問題が如何に決定的なものであるかが窺はれ

る.即ち,シラーにとっては,いわば素朴詩人の原型であり, 「ヴェルテル」

や「ヴィル‑ルム・マイスタ‑」や「親和力」の詩人であるゲーテが,そのシ ラーとの共同の詩的創造の時期を体験すると,一面ではそのレアリストとして の本質の中に,他面「ヘルマンとドロテーア」に於ける牧歌的詩人, 「ライネ ケ・フックス」に於ける訊刺の詩人といった情感的傾向を盛り込んで来る.鰭 局,手法の問題が,レアリスムスの法則を唯素朴詩人にのみ適用させるという 事を不可能にするという事態が現れて来る.シラーの図式にも不拘,情感的感 受方法がまさに近代レアリスムスの基礎づけを行うという逆説的な境界逸脱が 生じて来るのである.こうしてみると,愈々はっきりして来るのは,シラーに 於ける素朴原理はそれのみでは特に実践的な意義を持つものではなく,それが

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反対命題としての情感原理を媒介として,或る新しい調和の原理を産み出すと いう過程にこそ,近代的な真の意義が見出されようとした事である.それが一 般にドイツ古典主義の理念でもあった訳であるが,シラ‑にあっては,就中, 此の素朴性を明確に既に退去のギリシャ時代に結びつけて,決して是を現代に

OfE

再現しようという自然唱好或は感傷を持たなかった.此の点は明らかに‑I ゲルの歴史萄学と軌を一にしている.シラ‑のジャコバン的古典主義との対立 も明らかに此の線の上にあった.然し乍ら,そのギリシャ古代に於ける「自 然」は,彼にあっては同時に依然として理想であった.而も,近代市民生活が

経済的文化的にはるかに拡大された内容を持っている以上,その理想は,近代 的な情感原理によって超克されればならぬ理想でもあったのである.夫故にこ そ,さきにも触れた様に,此の情感原理は,人間を未来的展望に於ける自然と

ll)

の一致へと押しやる,大きな歴史的移行の原理なのである.

然し乍ら,斯の様な原理の実現としての様式は,屡々言及したシラーに於け る市民的幻想の大きな断面をも露呈せずには置かない.局限された彼の歴史哲 学的な構想からほ,人間存在の典型を精々ゲ‑テ的花態に求めるか,或は社会 的理想形態を,仮象の中に見出そうとするしかない.シラーの理想主義が目指 す所のものは,要するに,人間と自然の分割,理性と感性の分離を強要したも のが,近代市民社会に於ける経済的発展,資本主義的な分業の進展であったに も不拘,その分裂の場に於て分裂に伴う矛盾の廃棄を図る事ではなく,分裂の 結果に負う所の矛盾的要素を取り纏めてその再統一を図ろうとする事であっ た.元来,シラ「のその様な統一原理が依拠している前提は,シラーの自然概 念の持つ新しい性格にひそんでいる.シラ‑に於ける自然は,さきにも触れた 通り,いわば人間の原像であって,一個の価値態として纏った全体概念を意味

し,随って人間の帯びる凡ゆる矛盾,生活の凡ゆる虚構を克服揚菓する,それ 自体現実から解放された本質的存在を意味している.是は,カントの合法則的 なものの総体として把えられた価値的自然概念と荘んで,資本主義的な市民の 世界観の拠り所となる.なぜならば,市民的な意識にあっては,自己は現象の 客体であってはならず,意識化された主体でなければならないからである.

その基本的な矛盾にも不拘,シラ‑の確立した近代的様式の為の理論が持つ

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猶あり余る価値の一つとして,繰り返して言えば,その美学的歴史哲学的なカ テゴリーの発見を通しての近代レアリスムスの可能性とその性格の洞察の示唆 とを挙げる事が出来るであろう.

1)謂わば「ゲーテ的レアリスムス」.

2) Schiller: ≫Uber naive und sentimentalische Dichtung≪s.

(Gesammelte Werke herausg. von R. Netolitzky Bd. 5, 1959) 3) a.a.O.S.512.

4) a.a.O.S.516‑

5) Vgl. LukAcs : ≫Schillers Theorie der modernen Literatur, 1935≪, Georg LukAcs Werke, Bd. 1, Deutsche Literatur in zwei Jahrhun‑

derten. (LUCHTERHAND, 1964) S. 162‑

6)ルカーチほ,当時のドイツに於ては古代の理想の実践的革命的な実現は考えら れぬ事であったとして,ジャコバン主義者G.フォルスタ‑から若きFr.シュ

レ〜ゲルに至る熱狂的な線に対する,シラーの反粒に関する強調的な言及を試 みている.

Vgl. z. B. Luk丘cs a. a. O. IT, S. 139 f.

7)シラ‑の死は一八〇五年五月九日.即ちボナパルトによるイエ‑ナ攻略の前年 に当る.一方‑‑ゲルは一八〇一年のイェ‑ナ大学着任より,一八〇三年に初 まる所謂ナポレオン戦争の期間を通じて.その主著を完成させている.

8) Vgl. Luk丘cs a. a. O.S. 163‑

9) Vgl. LukJcs a. a. O. S. 159.

10)例えば,ルソー的な意味に於ける.

10 Vgl. LukAcs a. a. O. S. 161.

h^3 Lri

Georg Luk&cs Werke, LUCHTERHAND :

Bd. 7 Deutsche Literatur in zwei Jahrhunderten.

Bd. ll Asthetik Teil I, 1. Halbband.

(10)

Bd. 12 Åsthetik Teil I,2‑ Halbband.

Georg LukJcs, Goethe und seine Zeit, Bern, 1947‑

ders. Geschichte und KlassenbewuBtsein, Studien uber Marxistische Dialektik, Berlin, 1923‑

(昭和41年9月30日受理)

参照

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