• 検索結果がありません。

大田哲夫

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "大田哲夫"

Copied!
9
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

144

≫Don Carlos≪の非歴史性に就いて

‑シラー研究の内‑

大田哲夫

I

≫Don Carlos≪に於て最も問題となるのは,シラーの歴史的意識の発展段 階のうちで此の作品が如何に位置づけられるべきであるかという点であろう.

その課題の中心が歴史劇を成立せしめる動機の何であるかを問う事であるのは 論をまたないが,これに関する限り, ≫Don Carlos≪は凍て完成されるべき 歴史劇の原型に過ぎないと言い得るであろう.

なぜならば,ここでは憶に歴史的に対立するものが描かれ,それが一定の目 的をもった意識によって統一される傾向があるとはいえ,それらの対立する形 姿は完全に典型化された性格を与えられておらず,随って筋と性格のすべてに 歴史的な理念の惨透がなされてほいないからである.題材的に歴史的であると いう事は必ずしもそれが真の歴史劇に結びつくとは言えない.仮に或る戯曲の 題材が歴史より採られ,その歴史的な背景が正確であり,叉人物の関係も歴史的 対立的に把えられたとしても,その作品の全体が厳密に意識された一つの理念 と,その創造的表現である一定の様式に基礎づけられていないならば「その作 品はプルターク的乃至年代記者坤なものに畢らねばならなし,、.基本的には,檀 々の歴史的事実に関連を与えるという歴史家的なも甲に, Fantasieという詩 人的なものが結合するとき,そこに歴史劇が創られるのではあるが,然しなが

らそれが生との完全な関連を示す価値的な歴史の像を示す為には,以上の事の ほかに,主観的な価値の基準が支えとして導入されていなければならない.

歴史そのものが既に生との連関に於て把握される事を要求している.単なる 現実は素材に過ぎない.それに潜む所の発展の契機は,tそれが生の立場に立ウ

(2)

て把握される時,初めてそれは可動性を与えられ,事実の集積は歴史となる.

史観的には如何様であろうとも,生と無関係の歴史的把握は前提的に存し得な い.シラ‑の場合は,最後まで十八世紀的なHumanismusの立場から歴史 が捉えられる.随ってその歴史の像は自然学的であり先験論的である.勿論こ

の意識が彼の創作と一体のものとなり,独得の様式の完成と共に彼の心情に定 着するのは,彼の後期の作品によってのみ証しされる.然しながら,その意識 の傾向は,妙くともその中期,即ち≫Don Carlos≪の時期に於ても既に明瞭 に現れている.

後に述べる事であるが,此の意味に於てシラーはカントから独立した存在で あった.シラーに於ける先験的なものは彼の本性によるもので,それは彼の生 来の思弁的傾向が時代の自然学的Humanismusの徴候の中から極めて直観 的に把握したものである.なぜならば,六年に亘る≫Don Carlos≪の時代は 彼の青年晩期に当り,未だ修史と批判哲学研究に着手する以前であったからで ある.

とすれば,彼の歴史に於ける理念の予感も必然的なものであったと言えよ ラ.然しながら,この戯曲に於ける実際はどうであったか.シラーは≫Don Carlos≪によって,十八世紀に於ける最も理想的なものを芸術に形象化しよ うとした.それは政治的にも全意識の上でも自由な人間性‑の努力を意味す る.随ってこれは後の美背的な人間完成論と一つの線の上におかれた心的態度 ではあるが,然しここではまだ緻密に観念化された明噺さは見られない.寧ろ ここでは理論の関連というよりは情緒の関連によって把えられた生の意識が問 題であり,それ放生による積極的な世界の把握よりも,共同体を通しての人間 の完成の方が,一層多くの期待を寄せられている. ≫Don Carlos≪に表され た中核的なものはほかならぬ此の人類共同体の意識であって,当然個々の形姿 に於ける歴史的な理念は一層現象的生活的なものによって覆われざるを得なか

SEi

Ⅱ '

時代が青年期のシラーに与えた最も強烈な印象は,歴史的な貧困とルソー的 なPessimismusであった.啓蒙主義による意識の自由性の確認は,因襲と

(3)

146

大田哲夫

偽善と無知の障壁に閉塞されて,≫Rえuber≪に於けるルソー的な「森の自由」,

≫Mullerin≪に於ける市民的諦観, ≫Fiesko≪に於けるド‑リア的威武とい った様なものを蘭した.その気分は≫Don Carlos≪に迄引継がれる.それは ポーザの精神的萎縮となり,叉カルプ夫人との失恋体験はカルロスの感情にそ の跡を残す.フィリ,ツプの動揺も,シラ‑のルソ‑的憂愁によって描き出され たとさえ言えるであろう.

一方,ケルナーとの交友によって暖められた彼の精神の安定と宥和の感情 は.此の作品にパウロ的なものの印象を与える.その主軸は,ポーザとカルロ スの友情と,.7ィリップの肉身的な愛情である. Sturm und Drangの未決 算は,斯ういう心理的生活的なものの導入によって劇の歴史的形姿を弱めてい る.例えば,歴史的には非近代的なものの具現である筈のフィリップの性格 は,歴史的には絶対的に対立するものを心情のうちで宥和させようとする努力 の中に示されるし,又カルロスの政治的理想もポーザに対する友愛的関心を通 してのそれである.

これらのものは, ≫An die Freude≪や≫Die Kiinstler≪に示された像と 同一のものである.例えば,前の詩に於ける≫Eines Freundes Freund≪の 讃美は此の戯曲の第一幕第二場に於ける,ポーザとカルロスの間の敬友と信頼 のやりとりに,又第五幕第九場に於ける彼らの友情に対するフィリップの羨望 に示されたものと同じ雰囲気によっている.そして,その敬友を支える心情は 一般的な人間の偉大さに対する認識であり,人間が大きな人類共同体に関与し 得る可能性の是認の上に立っている.ポーザとカルロスの友情も,互の性格に その様なものを認め合うという意識の上に成り立ったものである.ポーザのカ ルロスに対する期待もそこから生れる.

Denn jetzt steh'ich als Roderich nicht hier,

Nicht als des Knaben Karlos Spielgeselle‥.

Ein Abgeordneter der ganzen Menschheit

Umarm′ ich Sie‥. es sind die Flandrischen

Provinzen, die an Ihrem Halse weinen

(4)

Und feierlich um Rettung Sie bestiirmen.(1' それは亦,

Wie schon, o Mensch, mitt deinem Palmenzweige Stehst du an des Jahrhunderts Neige,(2)

という人間の讃歌とも一致している.

即ち,人間の相互の関係が普遍的な共同体の意識で把えられている点で,此 の三つの作品は同一の基礎の上にあると言える.ポーザの像は此の普遍的な人 類共同体の体現である.それは亦真実を求める若者の代表でもある.若者の傷 つき易い心情は,随ってポーザの心情である.ポーザの心情に支配されるカル ロスとフィリップの像は,それ故一つの共同体の中で浄福を得ようとする人間 的努力の像である.人類の共同体は与えられるものではなくして作り出される べきものである.

Die Welt, verwandelt durch den FleiB,(3)

だからして人類は,此処ではより良き世界の為に,協働して現実の重みに耐え なければならない.

Duldet mutig, Millionen !

Duldet fur die bess′re Welt !<*>

此処では, ≫R云uber≪や≫Fiesko≪に於ける情熱の突進が,先験的な倫理 観に近づいて,別の何物かに置き換えられようとしている.それは個人の力の 確認という啓蒙的な悟性が,個人の全体への参与という普遍的認識‑と移行す

(1) Don Carlos, 1. Akt. 2‑ Auftr.

(2) Die Kiinstler.

(3) ebda

(4) An die Freude.

(5)

148

大田哲夫

る過程である.それは≫Don Carlos≪以後になされた批判哲学と歴史の研究 の成果の,早くも現れた心的萌芽である.未だ,明確にシラーの悟性に反映し ていない.まして心情への定着など凡そ達せられてはいないながらも,人間の 内在的法則による世界の把握は既に直観的にシラーの心的傾向を規定してい る.此のカントの先取は,厳粛な倫理のうたとなって遮り出る.

Ausgesohnt die ganze Welt !

Brdder‥. iiberm Sternenzelt !

Richtet Gott, wie wir gerichtet.(5)

人類の共同体の実現である高貴な政治が,斯うして要請される.若き啓蒙的 叛逆者である≫R云uber≪のシラーは現実の政治を否認して逃避し,≫Fiesko≪

のシラーは積極的にこれを破壊しようと企てる.然しながら≫Don Carlos≪

のシラーは,政治に理念を与えてこれを興そうと意欲する.フィリップに対す るポーザの働きかけは,シラーの政治的要請の明確な表現である.

Der Burger

Sei wiederum, was er zuvor gewesen,

Der Krone Zweck‥. ihn binde keine Pflicht

Aus seiner Briider gleich ehrwiird′ge Richte.

Wenn nun der Mensch, sich selbst zuriickgegeben, Zu seines Werts Ge紬hi erwacht,... Der Freiheit

Erhabne, stolze Tugenden gedeihen. ‥

Dann, Sire, wenn Sie zum glticklichsten der Welt

Ihr eignes KOnigreich gemacht‥. dann ist

Es Ihre Pflicht, die Welt zu unterwerfen.(6)

(5) ebda

Don Carlos, BL Akt. 10. Auftr.

(6)

自由・崇高・徳性という普遍的な価値を人類に要F.する事は,必然的に個人 の性格の深化を要請する事にもなって来る. ≫der heilgen Zirkel≪である 偉大な共同体‑の志向は,定言的な道徳律が真に正しく方向づけられた処に成

り立つ.

Der Pflichten und Instinkte Zwang Stellt lhr mit prdfendem Gefiihle,

Mit strengem Richtscheit nach dem Ziele.o

定言的な道徳律の是認,頭上なる星展への,自然の均衡と調和‑の畏敬の念 は,心情の深化と性格の拡大‑と展ってゆく.集壊された知識と思想は知性の 限界を打ち壊し,人間を偶然性の束縛から解放する.調和と崇高‑向かっての 努力は精神に自由を粛し,心情は裏理と階調して,現実は美となる‑

Wenn seine Wissenschaft, der Sch凸nheit zugereifet,

Zum Kunstwerk wird geadelt sein‥.

Wenn er auf einen Hugel mit euch steiget, Und seinem Auge sich, in mildem Abendschein, Das malensche Tal... auf einraal zeiget.(8)

≫Die Kiinstler≪がうたいあげた,個性の自然‑の拡大の希望は,普遍的 な人類共同体と個人との内的な連関を象徴的に表現したものであり,それは凡 ゆる思想的経験を芸術に迄昂めようとした≫Don Carlos≪に関するシラーの 意図と完く同一の心的基盤を示している.

これらの作品に形象化されたものは憶に歴史哲学的なものである. ≫Don

(7) Die Kiinstler

(8) ebda

(7)

150

大田哲夫

Carlos≪に於ける歴史的な話力の葛藤,二つの詩に於ける人類共同体の完成 への熱望と個性の調和と拡大への意志,それらを貫く行為としての意欲は,す べて生を取囲む現実に対する常に積極的な意識である. ≫Don Carlos≪に於 ても,歴史的な条件は人物の現実的な立場の対立の中に明確に描き出されてい る.それにも不拘この劇の非歴史性は余りにも明白である.歴史的な関心は必 ずしも歴史を洞察するとは限らない.歴史の真の洞察は,個々の具体的な現実

を一つの理念との連関に於て全的に把握する時にのみ達し得られる.その為に は,個々の外的なものを,凡ゆる生活的なものから分離して,それ自体を典型 として際立たせる事が必要である.

歴史劇は,厳密に言えば,人物の心理や感情という偶然的生活的な関連の描 写ではなく,歴史的現実を全体的に規定するものの形象化であり,随って個人 を夫々独立した性格として描出するものではない.そこには,その描写を支配 する所の様式が必要であり,全体に亘って或る普遍的なものの印象が与えられ ていなければならない. ≫Don Carlos≪に於ては,未だルソ‑的な感情の過 剰が顕著であって,個々の性格を偶然の情緒より独立させるには至っていな い.そこでは,人物の性格は彼らの心理によって束縛を受け,彼らの歴史的な 相互に対立する立場を形姿として表すに至っていない.場合々々の外的状況に よって蘭らされる心理はそれ自体外的なものであって,歴史的理念的なものの 性格‑の渉透を妨げない訳にはゆかない.

歴史的性格というものは,それ自体規定されたものであって,生活的な凡ゆ るものを超えたものである.そこにあっては,情熱・盗意・偶然の愛・人間の 罪過などは,或る力の関係の中におかれて,その中でほお互は消去項となって 作用する.それ故,歴史的性格に於ては,その様な生活的なものは互に内的な 関係を喪い,単にそれらの内容のみが意味として残るに過ぎない.それ故,磨 史的形姿は必然的に典型的なものとして描かれる.

斯の様に観てくると,この劇の性格は明瞭となる. ≫Die Kiinstler≪にも うたわれている,精神科学の成果を芸術にとり入れるという試み,言い換えれ ば理念を以て美を構成するという企ては,未だ完全には成功していない.此処 では個々の事実が統一を欠き,人物達は自己の偶然性によって明確な目的を欠

(8)

き,それぞれに情念の中で精神の荒廃に陥らざるを得ない.憶に此処でほ普遍 的な人間性の理想は示されている.然しながら歴史的に特殊なものとしての個 々の人物がその人間性との内的な連関の中にはおかれていない.

更に亦,価値態としての歴史の認識も深められていない.例えば,

Wozu Menschen? Menschen sind Fur Sie nur Zahlen, weiter nichts.(9)

と咳くInquisitor Inquisitionの具現‑の把え方である.言う迄もなく 歴史は一つの価値を意味するが,それは歴史が生との関連に於て把握される時 初めて対象としての価値を有するという事である.此処で,此の「宗教裁判」は如 何なる把えられ方を:しているか.それは人間の意識の外にあって人間の運命を 予知し,人間の悲劇に介入するという限り,一見demonischな力として歴史的

な印象を与えはするが,然しながらこれが蘭す悲劇は,例えば≫Wallenstein≪

や≫Tell≪に於ける様に,自律的意志の選択的行動に必然的に内在する所の 運命の悲劇ではない.寧ろこれはジェスイット的なものの像にすぎない.所 が,シラーがこれに与えたものは危険な悟性的なものを超えた或る絶対的なも

のの印象である.砂くとも, Humanismusの立場に立って観れば,歴史は単 に精神を探湖するのみのものではあり得ない.歴史は生の関連に於て把握され る時初めて真の内容をもつものであるとすれば,その価値的内容を人間の意志 の関連に導き入れる事によって心情の深化と拡大を図ろうとする事こそ,真の 歴史的意識でなければならない.

芸術作品に於ける歴史的意識は,然しながら,諸形象と歴史状況及び条件と の或程度の重像がなされる限り,作者の主観としての歴史的意識は一応認めら れなければならない.その意味では, ≫Don Carlos≪にも一応その意識を認 めるとして,ただ,形姿,像としての歴史性,或は創造された歴史的性格とい う点に関する限りは, ≫Wallenstein≪以後の完成された歴史劇の様式をまた ねばならないのである.以上

(9) Don Carlos, V. Akt. 10. Auftr.

(9)

152

大田哲夫 参照文献

Diltheys Gesammelte Schriften. Bd. V, Teubner, 1924. ‥

Beitr護ge zum Studium der Individuals邑t.

H. Cysarz, Die dichterische Phantasie Friedrich Schillers.

Niemeyer, 1959‑

F. Strich, Goethe und die Weltliteratur,

H. A. Korff, Schillers Helden‑und Tragodienideal in "Geist der Goethezeit H, Leipzig,"

Lukacs W. Bd. 6> Luchterhand, Probleme des Realismus H,. ‥

Der historische Roman.

Lukacs Werke, Bd. 7. Deutsche Literatur in zwei Jahrhunderten.

(昭和42年9月25日受理)

参照

関連したドキュメント

問についてだが︑この間いに直接に答える前に確認しなけれ

この見方とは異なり,飯田隆は,「絵とその絵

式目おいて「清十即ついぜん」は伝統的な流れの中にあり、その ㈲

森 狙仙は猿を描かせれば右に出るものが ないといわれ、当時大人気のアーティス トでした。母猿は滝の姿を見ながら、顔に

脱型時期などの違いが強度発現に大きな差を及ぼすと

なお︑本稿では︑これらの立法論について具体的に検討するまでには至らなかった︒

そこで本章では,三つの 成分系 からなる一つの孤立系 を想定し て,その構成分子と同一のものが モルだけ外部から

人は何者なので︑これをみ心にとめられるのですか︒