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津軽藩士貴田惟邦の蝦夷警備

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Academic year: 2022

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(1)

津 軽 藩 士 貴 田 惟 邦 の 蝦 夷 警 備

一 ビノ

エツ

露 ト 目

が ︑

思想 的 各に 国 情を す

斗り

でな

く ︑

今 政は 治 的 軍 ︒ 事 的 経 ・ 済 的 大に 謄 組な 紀織 各を 国 領の 上 投に 懸 け 居て

る ︒

官 ては 某随

手を

警戒 宋し つた 華中 民 囲す

ら ︑

黒た 毒も 皿的 公に 然 彼 握と

手し

其て 援

助を

受く

る 至に つた の

で ︑

却 唇て 酋輛 翼 位の 置 にあ

る ︑

我 本日 に 対

し はて 共 ︑ 友 誼 波を 滞り 束に 洋 のキ 和 瑠を 飢 せん すと る 至に

つた

︒ 我等 屋は 近 頑率 的

に日

前 事の 賓 に のみ

思を

致 易し く

︑ 深 呂く 過を 去 たに すら こと が 少 のい

であ

る ︒

併 暫 し 迪く 去 育四 五 年十 来以 のほ 露 の委 去と 行 動 よに

ます

事る は

︑ 時局 柄尤 肝も 要 であ ると す信

る c

予 偶は 然 片勤

では

るあ

( 5T )

( 56 )

津旺落士貴﹃=丸あ蚊糞キ姉 A木村定三︶

力・

カ チム

ヤツ

牛カ 島 共に 八

オを

伸 し

て ︑

征 服束 住 の極

︑ 端

なく

も 本日

と 衝の 突 見を るに 王

つた

ので

ある

c 人多

く に囲 攻 輝に く 係日 戦後 大の 利勝 誇を

つて

も 幕末 時 代 の蝦 夜 地 残に たし 敗辱 の並 思を ふて 薪は 革 略 勇の 安を 舞 す る も のが な

い ︑

石是 知を 人る が少 かい ら 赤 ︑ 露に 性

が多

年 本日 梅を ま せ 原る 因す ら 悟も なら か たつ の

であ

る ︒

エ 録 園 我が 千島 方 面 に出 漠 し た

こと 戒に て外 励 の 詰口

︑ 実 他 文の 書 には 見 め がる

︑ 本日 文の

献的

料は

極 めて 迂 し のい で

あろ

彼 c がな 一然 なと 前

孫を

一通じ

て一遠

商を

乞 ふ た

のは

安 ︑ 永七

生 ︲鑑

人ケ

レト

ゼフ

一﹂あ

つた

が ︑

首 は一向 之 許を

とな か つた

︒ 併 此し 時

から

幕 府 北も 邊 等を 閑 附に し 得

なく

な つて 途 ︑ 天に 明 年バ 勘 ︑ 定 奉行 本一松

秀持

命に じ て貯 夷

地千

島 でま 逃

耐十 せ

め ︑

や がて 蚊 地一央 調査 畜を

一 要

祠す

る とこ と

なり

近 ︑ 藤重 蔵 最︒ 上継 内 伊 ・ 能 敬= 等

︑ 幾 社 か 探の 除見 派を す る 至に つた

︒ 幕夜 官 保山 郎十

が 一一天

長地 久大 本日

辱島

﹂の

標本

千を 島 得 来 の イカ イ

▼タ ラ 延に たて がの 享

和元

年 紀︵ 元 二四 六 洋車

キ士

主1 ︲ 1

性邦

のL 夷警 備

︵木

村定

三︶

年一

であ

つた

︒ 寛 政九

年円

七月 千 ︑ 島

ニド

フロ 島 よに 惟 五般 着 削と え て同 年

九︐

幕 府 は用 希 な 千伊 守豆 下に 命 し

て ︑

汁 に 越 中 守

近末打絞き私前へ ︑異劇般束津致し ︑眼一央地など兎

角手寄を求め枕趣に ︑相聞え如何に候 c依之箱宙ヘ

番頭差越に ︑高一亦ぞろ異囲推水候節の ︑田め心得

等諮事入念たるべきの旨中付差越さるべく候 ︒充も

祐いにて人致差置に場合等の儀は ︑松前若狭守に相

談せらるべくい ︒

とあつたので ︑早速津睡落店派遣兵人数五百除人を

︱ ! ︱ ⁚ i

た c両して同十一月四日先設として士大将出日剛太則以

下役長柄奉行葛西千之助 ︑貴田日獅︵後十邸石待円昨邦

と称す︶等 ︑掃年二百九十五■渡たして ︑年年七月 ︑棟

方作右術門を交代するまで ︑本岬を内■汗玄千に世いた︵今の元町束別院也

︶ ︒

同十一年十二月 ︑蝦英地警備ンサフラ︵に原

︶ ︑

クスリ

︵倒路︶まで延長して ︑高部落と共にとが警備に営つた弔四

本寸

一疋

が ︑告時の開係日記及地岡共他若千の根本資料を■出した ︒共中に貴田唯邦に開するものがあつた ︒先に貴田元親体に記した ︑十鄭衛門な卸ち彼である ︒津睡祝年に仕へて山鹿流兵寧の師範であつたが ︑所講見葺上に軍撃を識くのみでなく ︑文化年間露園が唐大︒千島を使した時幕命を奉じて津蛭藤暇夷除長として出征じ其才命を年かしめなかつたことを知つたのである︒

出来日本は地形上束進北拓の費展央を有しつよ︑鼻囲二千六百年の間には我領土は北海千島に到り又北蝦英とれせる府太に及んだのである︒之に反して隣邦露園は建阿日浅くして住々数百年に今日の大を致し︑特にアラス

(2)

( 5 8 ) ( 59 )

岸叫 林土

女川

郭= Lの 夷警 備

︵ 木村 定三

︶ 時 予の 備 除 越は 年 設の 備

なさ

こと と

て ︑

年 内 はに 鮮藤 し

た■じ

の工

■一 印

ほる

享和三年 ︑れ響一 古一の溝頭互千等十静人 ︑一 時煩に漂着した

が ︑一■Tは使罰レサーノフに命じて ︑従年の中より左卒

年四人を支一情に護途せしめ ︑罰音を呈して再び交易を乞

ふたにも採らす ︑率■ほ又是を拒絶したのである ︒レザーメフに心中大た! 不流で長崎をよつたが ︑共婦途垣嘘菜

と共見して ︑とにすガレン惟 ︻取の野心材︸抱くに一つた ︒

元末 ︑店大文千島詰島にな前領とは稚するものヽ ︑住民としては十一 人以外にた住者少く夏期の漁槍には奥紹oな

前り出次民を用ゐ ︑共産物も一切商人の市負業であり ︑

とが番人としては強多非人土︵他の無頼漢が少くなかつ

た cけもシベリア地方の係民に逐放囚徒の類が多いと同

様で ︑僕に其猟告に役人又は守備際の在性を見たが ︑而

かも一車多くは越牛ぜなかつた ︒故に此告時の店太には■

二人足軽二人其任に営て居つたのである 3此手荘な佃土

が斯くも有望なよ備地たるを知つた際劇が野心に然ゆる

に王つた心事法謄測に難くない c

に是に賛成した

依ツてサ五i cは陰か蔦ォフにルヅルーー

を投じて米聴を賄ひ ︑ュノナ挽と命名した ︒文化三年九

月 ︑アホシ一掟を光竣をしめたが ︑レザーノフは中途にし

て病死したなら ︑ホウストアはュブナ院に一爽て ︑ほ太オ

フイトマリに現れて ︑アイメ一人と捉へ ︑翌日久春古丹

に者し ︑手兵三十名を奪て■陸した ︒

け一左の守衛所には付だ七名の呑人のみであつたから ︑

彼等に抵抗し得る者もなく ︑運上小Eの手兵衛等四人は

捨中にな致された c彼等ほ→庁を破て ︑米︻百依︒酒共

他と掠李し ︑大を波て ︑十一戸及漁粘を焼弗ひ ︑非天亡

つ巾盤をも逗rり ︑とに代ろに銅版に搭語で占領の撃明

とtじ去つた し其師ろ途中に機襲を損傷したので ︑明本

の再卑を企てょ肝ゴし︑★に日本枚土伎いの意見苦を海

軍省に提出し4 ︺

四 是

より

享 ︑

年三

幕 ︑

府 は

北違

警の

術 上

︑ 小 孫 の 松 前 の み で は 餘 り

放に

力 な り

痛と

たし

で ︑

松 前 章 度 に 束

蝦友

を 土 地 せ し め

新て

函に

営 奉 行

に戸

川 安 倫 と 材 田 正

洋軽

珠士

貴田

性邦

娯の

警備

︵木

村定

︶三

此降 幕

府も

亦 我沿 お 警備 に

心を

用 ゐ 蝦て 英 統 御代 樹を 立 し て揮 囲 備に

ふる

の急 痛を 感 し

て ︑

先づ 法 三係 強を し

た 一 ︺

い 邪求 門 外 ︑ 国 人 親に をし も

の ︑

罪王

かる

べし

9 仰 人を 設 たし

るも

死の 罪

たる

べし

︒ 0 人 減を 付 け 玲 ︑ 篤を せ 者る 東 ︑ 程 はに じ て告 あ る べ 一方 キ ︑ 前 役 山 鯉田 兵術 開に 拓 命と じ 高 ︑ 嘉田 兵衛 年 は 事 心航 貿海 易

︑ 漁横 従に 事 たし ので あ る 併 長し 一切は 不 格 的 武な 備 設は

けら

れす

に ︑

単 准に 済 のに み出 俊 たし 事

が ︑

やが

て日

本 圧の 災 小に 汚 鞘 残と たし ので あ

る ︒

量 度一 は 本所 政 晴 拒の 絶 受を たけ も

のの

内 ︑ 心期 す 虎る

のあ

つた 彼 ︑ ザレ ノー はフ 警 備

なき

地を

峰取 し

て ︑

此 な腹 鳥を んさ 考と へた

︒ 手 孫に 政

一竹よ

り の 三係

の内

命 中 はに 先 ︑

つサ

ガ レ とン 攻取

し て以

て日

本 政府 道に る

べL

と か つた

から

此 ︑ 針方 友を 人 ホラ

スト

及フ

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イド

フに 謀 つた 此 じ 雨 人 官は て海 軍

士官

あり

︑ 今 係は

大南

台 の機 長

であ

つた

ので

人 養

を 任命

せし

が 今 ︑ や唐 太 の愛 あ る に及 ん

で ︑

文化 四年 更 に西

暇夷

を 牧も め

て ︑

徒末 函の 密 奉行 の名 稀 松を 奉前 行 改と い

て ︑

河尻 貞略 村 ・ た垣 行 を 任命 し

た ︒

同四

月 老 ︑ 牧中 備野 両守 津は 軽 藤

■に 通の 達 強を たし

︒ 松前 西 暇夷 上地 仰付

けら

候れ 付に

︑ 彼 勤地 呑 に仰 人 数 差を 渡 れさ 候 様 充 ︑ も 南部 大肘 夫太

へも

共 段 相進 候 付に 指億 奉行

へ中

談ら

れ候

様 c

あと たつ

から

汁 ︑ 軽林 其は 命 従に 警て 国 数人 を 彼地 たに 事る

とし

た c

同時 なに 前藩 移対 詰に

き ︑

城 地一 生 取 に 勘な

走奉

吉洋

に 大 夫 校 ︑ 使 野 上又

一以

下卒 八十

二人

を 奪 て 渡 海

せし

ため

︒ 是 前と 後 てし

エト

フロ 警備 除 は出 立 たし

が ︑

不 幸

にも

悲惨 犠な 牲 者 を出 たし

︒ 夫 約店 定 頭小 崎山 牛 成 杏の ゆ ろ 交 代 部除 が 青森 帆出 後 航海 不案 内 の馬 箱 港欲 外 営 別 で■ 離難 破 し

て ︑

死 千

三名

生を たじ 卒 ︒

六十

四人 故は れは た 武が 呉 兵器 鳩 ︒ 食共 他甦 架 ホ料 全 部 流を

失 し

た c

折 し 解も 婚 ウホ

スト

はフ 北海 解の 期水 待を て 四 ︑ 四日 再日 び

ユノ

境ナ に

ては

人 で の布 孝 四 人を 件 てふ

︑ 丁 ホ シ 五九

(3)

( 60 ) ( 6 1 )

津延語士貴□推邦の唄夷警備 ︵ 木村定三︶

披 共と 南に

下し

て ︑

と 千に 祥島 提 保内 上に 陸 たし

︵弾 捉 の呑 所 五 所ケ 漁 ︑ 場 十二 一ケ 所

あり

ヽ 兵録 細勢 百七 人 押が 寄 せた 内 ︑ 住 なに 呑 性人 六に 人 と 夫人 数 名

のみ

で ︑

士ら

し 警い 備 培は ら な か つた か

ら ︑

先 つと 性

阪四

■十 上が すに やる 番 年人 は直 瑞に

へら

れ 在 ︑ 庫 全占 部 なは す

せら

た ︒

敵 大は 故を 紗て 那 に向

つた

︒ 異機 張 蔚 歌? 得を た

エト

フロ 津の 昨語

等備

際 は 其 ︑ 手 兵 の 部一 を 割 て急 救と んほ と たし c 途 我中 守が 術除

長関

谷 支 部八 の職 遭に ふ 紗て 警邦 備 命の 受を けた c 紗

那は

守備 駐 在官 所の 在 地

で ︑

吏戸

目 又太 夫 紹が 指打 なを

し ︑

開 谷 茂 郎八 之 長が

とし

汁て 拝 南 ・ 部 車 と溶 者が 備 の任

であ

つ力 四 れ 月 二十 九

日 ︑

ウホ

スト

等フ 紗は 邦 近に つた

︒ 隆 戦除 二十 名 野 ︑ 砲 携を 上て 接陸 砲 たし

︑ 我 守兵 百四 十 人 と に は

戦力

用 し 電た 談に

庄多

く の死 傷 者 を出 てし 途 本に 機 ヘ

遁師

つた が 夜 ︑

陰一 蜃

天じ

再て 岸び 近に

づき

本 ︑ 脂 協と 力 し て 盛 ︑ 成に 強 ・妨 砲 常を す

ので

キ ︑ 兵 中 には

恐を

なし

て 遁洋 せ

んと

す 者る が多 数 生 じ

て ︑

遂 我に 軍 内の 部

に ︑

六〇

守勝備 ︑ 一時■却の二派を生じたので戸町はは死し︑開

谷は夜牛に一里後のアリムイに根新

南十 した止戦部杯に ︒

砲術師大村治干は負傷の角姉けとなつた B

翌朝言兵守止陸したが守工の歩豆

一 も

ないのを見十両ろ

に勤呑所を焼き意の倍に焼長を■め取り ︑進んで園後島

に赴いたが ︑

︲ l L

左では我年の守備巌■なることを知つて

之と逃けてサガレンに避いた︵関存いには台所ニケ所 ︑漁

場七ケ所︶ ︒

露艦は千島をまてナガレンに向つた ︒昨秋掠でを悲にした久本古丹を経て ︑ルラタカ→ィカタカ︶の守行地を使して倉所を焼功ふた ︒守好松前左附︵卒百三十二人︶は衆

寡出せざるを知り ︑戦はすして宗谷に退いた ︒是を知つ

た露艦は仕かに我を侮て西婿英とPぎんとして ︑利尻鳥

に近づき■帖西本丸を始め宜幸丸・耐肝丸︒一誠乱丸を掠

めて英船を廃いた ︑︼此中に元も階むべきは官稚萬春丸で

あつた ︒指億詰軍寧者村上金吾︒大砲役森重左伸等が多

数の宜裕弾葉等を有しながら一戦をも変へすして上睦後

退し去つた島に ︑記念一的な介姉砲︵朝鮮征伐時代︶すら敵

の奪取に委なたことである︵此砲に就て投土牲内の見取

田があろ

︶ c是ま辱抑はい対で何告時頼にの士気のし敗 ︑

せるか予一打ろべしだ ︹ ︶

課一慌去るに臨んで ︑姉困大村治五十等八人を郎馬職に

て竹一遅し︑ 王一 氏を表してな前本行にとつた ︒此時も姉 ︐︐

政遅の理由と而回の和板を求るのが口まであつたが ︑幕

府L途に之に答へなかつた ︒掠季を悲にし意気揚々とし

て軒図せる ︑露格ホウストフ等は共長官ブハーリン大佐

の鼻息を窺はなかつた鳥に ︑ヤクーッ州知事の命と稚し

て退柿幽因せられ ︑■つ剰奪行局なりとの理由で ︑雨艦

の私有品とも洩牧これた c新かる内的在開の毎 ︑可時ロ

本傾■反人運動は中止されたのである ︒

千島店太に於ける岳慌の采浜は ︑如何に無人無警備と

は中しながら地閣から領土便喜を被つた事であるから ︑

徳川幕府も源えたろ北遊の注進に ︑驚き且つなつて ︑途

に任艦訂功の令を変した ︒併し夫れも何となく緩慢な布

津軽

士貴

性回

蝦の

警備

 ︵

木村

三︶

達 であ

つた

津 理 越 中 寺 此蔀 城技 地 茶︿ 候具 阿粘

■ ︑ 方択 分 向も 寄 付に 海 ︑ 岸 近 末へ 候 は

ゞ︑

日 心め 得職 重 に相 術

へ ︑

手 い 取に 斗候 岐 論勿

︐に 一 ︒  贈

何故

の事 情 てに 宋 候哉 共 ︑ 伎 相 許佐 桟 専 一の 事 候に

︒ 彼才 共

より

何 れ

にも

不法

の 手

向 に及 狭び 落 決に 候し は

ゞ ︑

時 宝 次第 陸 へ 

・ 1 .

候 て 打潰

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十 ︑ 分 可に 取 候斗 立 ︒ 初

より

上 陸 鳥致 聞敦 存く 込 み 速 ︑ 此に す

より

手 差 始を 候め て 打 弗候 儀 不筑 事 候に   c      

→キ 延 記日

︶ 是 汁底 軽

のみ

でな

く ︑

高 部 よ ・ 円 庄o 内 の各 謀 の臨

時出

兵 促と たし も の

で ︑

共 兵 数

二千

百一八

十人

であ

つた

︒ 拍 共

皆備

地配 置 止に ては

松前

本行

あ ・命

■を く 事る

であ

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七 昨汁 落

は ︑

竹内

源 太夫 大を 格 話に 手斉 頭蝦

名彦

有術

開 o 貴 四 郎十 石衛 円 目︒ け

日中

太 郎 二郎 娯に 一 央地 張出 を命 じ た ので

四月

三十 四 日 三際 博

士は

登 ︑ 戎 し

て家

老汁

延頼

一 ︿

(4)

( 62 ) t63)

津軽落士貴口性邦の蚊夷警備 ︵木村定三︺

母に面台の上 ︑欧長等の熟議ヤ一なし ︑落の重臣は各組一 颯を指て ︑諸除の高一に備へしむることとした c

対くして二月二十五日 ︑竹内源大夫以下五百人武装童々と青森浩を出帆したが ︑夫は和確丈けで者の補巷物を

展廻する様であつた o斯く汁旺落が奥蝦魂警備の開係上函密の障圧を引沸て江妻詰となり ︑特に北地宗谷はな太に備ふる重要地ゆゑ三百五十人を派遣して ︑諸手頭貴日

十郎石衛門︒円中太郎五郎之を姿ひイ ︑出張することを命ぜられた c夫は貴目欧長は先年山田士大将の部下として屋 .痕夷地を往復し親しく奥地を踏波して地理共他の智識が望官であつたからだ ︒予算計らすも彼自ら描局せる

数種5地同を変見して実人選の告を得たことを悟つた c

同月下旬 ︑弘前よりの使者大津失作が軍用金四千五百

雨を持参して ︑住屯軍に交附した c重は首春よりの藩の

出費は班に三菖而に及んで居るので ︑ 一方領民に令して

諸事佼約し

つ時竹峰め一 芽常とな三年間はきよふしイ ﹂向︑

他方には江戸表にて盛に兵器武臭の調達に勉めたのであ

る屯比際幕府も亦是を生薩するに忍びないで ︑同十二月

一 ︵二 下 旬 老 中 列

5庄

上 ︑

牧 野 備 前 守 よ 沖 り 蛭 越 中 守

甘夏蝦夷地島々へ ︑異園人渡宋の怯に付 ︑彼分往末繁く ︑億騨難儀に及び候旨相聞かれ ︑物入多き事にも有之べく候 ︒依之金五千西奔借仰付られ候 c上純の儀は ︑木反年より十ケ年賠メ十 るべく候 G御勘定奉行に談せられべく候 G

との特別の中渡があつた ︒

六月に幕府は若年寄堀門親汁守等を派して ︑な前筈備除を慰問せしめた .

性邦が手記せる北海地固には全然紋像圃が少くない c

併し西蛇一 央ほ海岸通りのみを重てあるが ︑比較的詳納であつて ︑陸際底交通道路の開撃がなかつたので記入がな

い ︒併し全島的里程致は完成してあつた ︒されば貴円際

の衣行は ︑海路航行の外はなかつた c面かも数個所の難

岬が時つてあつた o

同年八月 ︑貴田像は西娘英宗谷にといた ぃ ︶束海岸は濃

好 略に ま きる がよ 貝 ︑ 本海 無は 事 共に 航海 経と

つた

併 ︒ 其し 庭 に底 濃務

にも

劣ら

ぬ敵

は ︑

風 土 石 であ つた c 先 年

ニト

フF 越島 年 守の 備兵 足も 確 三

十人

い ︑

浮肛 死で 亡 せ

るも

あ 十 一人

︑ 存と

者も

れも

慶成 同 様 と なつ れた

に ︑

止 得を す 急 交に

代人

一 を邑

増 遣

せる

こル

一 も

つた

算 . ﹀ 五年

の日

記 には

︑ 蝦 地一 央 抗 ん 数人

の中

︑ 大勢 死 亡

せる

あり

て ︑

不使

云 か でま も なき

車エ

■妻 子共

︐に く 手首 遊 ば れさ

︑ 実

上 ︑

越 年致 候 も の共 小は 屋

牛 ャと

へ ︑

i t 場と 所 と 桜

み ︑

竹 等本 渋 潔り 気 深 地き

など

伐は 抑

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又は

他 町 へ引 移 候り てな り と

も ︐

年 事 芭年 候様 心懸 候桟 専 要 可に 技

致音

︑ 市差 行

へも

御 営手 の伎 夜 反御 走 候 旨 無 .

近に

被 掬

立候

と ︑

牧 野備 前 守様 よ 懇り ダ な

御工迎とがあり︑ 云力 c

店大に近い宗→と千島とは方位こそ起ふが ︑空気強く昨

雪もとた多く︑夏靖も打営に達既蜜雨に悩まきるよので

貴田除も最初其警備地の撰定には大に苦心した程病者校

出したので ︑隊長自らが実キなを一W明に前つたこと底後

世堆諄貴門性邦のよ英警備 ︵ 末村定三︶ の奉告文にも明かである ︒

■年二月 ︑弘前より変代部隊の出・空に先つて ︑長勝寺

にいて牧括死者の角め ︑限隅供一査のは旺祭が盛大に行は

れた ︒年二月 ︑

一 叉︱ ︱ ︱

昨邦は武格鮮陣の報古余才率行した c

祭場座高い紳就か博た束照Fかは不明だが ︑自宅維武堂

ではみる安い ︒前の長勝寺の慰疑禁に劣らなかつたと信

する︒是は士永の治長に甚大なる影響がわるから栞行し

たと信する︒其禁文は︵ 原決■︶ ︑

 言一 口千諦

代して性に ︑卒抜丁卯の夏 ︑オロシヤ赤胡木て ︑蝦

英の話島を使いす ︑去に於て予命を奉じて沓野︵宗

谷︶に距り︑我誌屯成の士卒と指打して ︑仰皆を此

土に壁てゝ護衛を角す ︑然るに止土水海陰暴の地の

設か生軽殆んど店坂多売 ︑若くば亦A土に伏せざる

の故か ︑堵葉を地すと既も■時なく ︑一試に旧帳町涙

兄るに忍ひす ︑唯官命の仁点に任て︐十をして ︑土

ををへ土を移としむ ︑故に全く生を存する者多チ ︑

止辱感肺肝に徹して ︑亦州何たヽするなし ︑沌仰し

一 ︵一 一一

(5)

( 6 4 ) ( 65 )

津荘 落士

貴叫

性弟 の蚊 英警 怖

︵木 村定 三︶

耐に所るべしと ︑数に於て予及び下吏卒軽に至る

まで ︑無病にして︵

一 く一 詮荷角凝所てをんをこことし

更に他事な︲ 者

鳴呼 ﹁W耐願と神発して ︑惑而を作興するか ︑殆ん

ど予及下丈に至て︻者一人もなし之を言に記すべか

らす是故に木く市の恵年を存して ︑証んで叩か報思

の毎め ︑荘前一に代仲して以一荒些心を季するのみ ︒

惟時文化五丈反奉三角

束兵津軽士卒長

貴樹十郎右術門

孫原惟邦護詳之

幸にも惟邦の宗谷等術中には ︑外故の要末はなかつた ︶

霊五年唐太警備の新手に含津一洛士千五百人が加はつた ︒

苦時の様店台津杯唇大詰絡を物として数を現存せるもの

及高津泰の経北錬にて範知せらる c

貴円際の宗傘警備の逸話に谷文兄のま筆に残つて居る ロ

四年末月 ︑幕府ほ若生寄堀田正致等をな前警備軍慰間 六四

使として派遣したが ︑函常より江差地方への巡碗を准り

最後に各落の衛戊除の問兵式が行はれた ︒

九月五日 ︑正使堀田正致は大目付中川飛輝守 ︑使呑小

す猪右術門 ︑日付還山今四郎以下を徒て ︑松前而山批外

笛石野に於て警田・陣立の見分を行五た ︒足延小連より

長柄仰兵士の竹入維て ︑股ヤ頭佐々木太衛門百目筒付に

て相波ち至極の上出来なりしかば ︑正致より

津嘩越中キ求宋此度に臨時に人数差立 ︑特に今日町

立一覧の庭除伍も能く相整行届候 ︒

との褒解があつた . ︶止障立にはヤ頭姥名o貴田の両欧長

が奥地詰として出立後けへ高屋︒キ洋の雨人共代理を務

め経つた ぅ

十月朔日 ︑大拒竹内源太夫年の一際庄弘前に掃我し︑

十二月にな明年度交代部除六百八十人の任命があつたの

を見れば ︑宗谷詰の貴田際も年内に引上て爺幽せりと思

はろ ︒

一〇

雄邦准生の過憶の一は ︑比辛政を学めた宗谷警備の武

勇談であつたことは ︑詩人亀田鵬希が貴田子彦より暇夷

の奇哲董情を雑て之を長詩に賦せるものにも散見する ︒

不以て営時の者峰﹂等の血を湧かしめ ︑亦之によりて孜訓

を受け ︑又時事を試するものすらあつた ︹ ︶併ッ問題が北

地一避境の出来事夜けに ︑浦賀の共購入抗■中 ゝ人々の心

昨を基からしめナ一こではなかつた ︒

推邦ほ此思出を水く手孫に任へんもの材一と ︑垂︹→丈

見に幡しイ・利屁行士の大幅を重かしめて ︑江戸の儒者古

賀精里に是が讃を請ふた ︒一民に其理由ヤ自苦して ︑

文化丁卯の耳一 部疑新の赤胡 ︑暇夷地に末てエドrフ

及び諸島の邊界を使京す c士に於て唯邦を使して ︑

嘘夷地 ︑反兵の長となす ︒而して蒼野倉不谷yに至る ︒

蒼野より十幹呈 .西方の洋に一弧島あり ︑名けてリ

イラ

高島▼云車吾営央語イとををシこよりリリ︲ ︱︑c

常に此出を融十 ろ ︑則ち其高湧千松同廻二十鹸里 ︑速

く望めば則ちおんど官士山に牙完たり ︑共山天外に

幹て雲と技く ︑尖峰自然に直立して天を指すが如し

両も一革を生ぜす ︑実海岸座峻碁にして括壁の如く

津理落士責日惟邦の唄夷警備 ︵ 木村定三︶

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︶邦 文 兄 詩

絶域煙長染肺肝    肝来日夜入宅端

参大合掌俳高座    餃誌一 一日頭鬼上官

東海泡拒怖列島    一絶獄眼飾推諸暫

何労英米禁遂計    形勢分明嶋妻看

精里題気貴円性邦響様瀬貯︑ 加藤満正忽見一

一 ハ一 ュ

(6)

津望訴士貴出性邦の暖夷警備 ︵ 木村定三︶

蓋此山云時彼中最畏清正至呼目鬼上官以蝶小見量

字王伯安倍詩押之基譲 G

一一

営時の幕府は藤人要末を知て ︑多少之が防術に心を用

ゐながらネ措置人選挙に餃くる庭ありし結果 ︑餘りにも

見苦しき敗北をした毎に ︑函住奉行戸川安倫・列田正奏

と免じて松前奉行として河尻貞勝・村垣定行を任命し部

下の責任者は夫々鹿罰せられた c

斯く泥純式筈備ではあつたが更に仙墓台津其他東北の

大落に命じて警備を巌にしたが ︑ 一方訴図の内席にも若軍 六ヤ事情と甲不の警戒に勘付て数年間は事故がなかつ

た 8文化八年露函艦長ゴローニン少佐キが千島にて柿虜

となつて出一四三年の後我高口屋募兵衛等と交換的に畔放

軒回せしめられじ等ほゴロー一ンの日本幽囚記等に護て

一引を ↓手する こ→千二年九日一末︶

一 ︵

日 本 語 害 振 興 一 委 員 含

歴史露ウ曾及び同公開護一ド書の開催

日本諮卑張典委員含は図盤 ︑日本市沖ら大きによき告ど

つ摯的の内本及方法を面究社列し我か凶覚白つ4問 ︑文化

の創造 ︑要実に貢献し延て教育の刷新に技する百的の下に

肝和十一年九月八日附文部省訓今を以て同行に設置せられ

たものであり︑同年十一月上匂第一同事業として教育摯宮

抗同公開講波含を開催し昨年に十月上旬哲掌含抗同公開講

摂含十一月上旬には困語岡文L一含抗問去輝討撮宮を夫々開

性し多大の成共を取ちたのであつたが ︑本年は雁史単及雑

r撃の二単台抗阿公開札浜会を開性する事となつた ︒

合に本年度雁史掌部卒円委員台一空虫L ︑=任 一変Rよ一板

船美ち辻手之晩︒和辻f郎t西口に二郎︒長湾Lおの話氏

モ ︑

十 i ︲ i

時委員は大塚武は︒藤十と太郎・蘇問維千︒今十登

志喜つ和円満︒不景澄・詫捕︒大事

︱ ︲ ⁝ ⁝

︒中山久円郎︐松本

芝次郎︒薪兄吉治・橋本窄キ︒西村質女り話氏モあろ︒

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参照

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