第31サ, 19前 年
l文 化 紀 要 町、前大学教養部
津軽弘前藩の武芸
ω
資 料 紹 介
│
│
太
出
充国
寺山家所蔵・武芸関係古文書等間
自
次
支えがき内
容却
紹介
六︑詰記銭等i︑浅利村伊兵衛抜書案
m m 子 本 2
⁝b
脳内 不二 一物 語
L
﹁浅
利伊
兵密
遺書
し 41
鶴 子 本
︑浅利活栽による自筆本心
御 嵩 留
⁝ 龍 子 本 二年三八六五﹀正月より英之助心得
Lとあり︑浅利万之助均致︿ただむね)による自筆本む 大 十 地 誌 被 停 付 一 一 件 い 艶 子 本
3
京都御供丹
4
「文化紀要j第31号,1990 弘前大学教養部
Fl
︒佐藤忠太左議門あての書を浅利万之斡が筆写したものc
42
慶応元年(一八六五)七丹十
﹁ 撰 挙 状 ー 麓 歴 書 い 冊 子 本 浸科万之助均致による自京本
cs︑祝詞集
浅利万之助均致︑が︑晩年︑高照持社︑行本山総パ託に
I J 街こ
7︑投科家代々の命自控 5
あとがき
~ え
方t
き
寺山
出家
一所
歳す
の
ることにし
しての
﹂ 局
︑
(ただよし
料が含まれ
いると患う
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また︑浅利家の家系に関する資料も掲載し十
つ浅利伊丘ハ禽抜書集設に
ー ノ
3 7
﹂+
﹂晶
︑
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︐ は
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て結介したむこ
に叡録されている 受けるに
った経韓が書かれている
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﹁唐
牛竪
次郎
由緒
安一
日﹂
には
︑
の地に一
行h m 目 録
して挙︑汗ておい
つ京都御供付は︑弘前第十
御用留
て開係したときの数々の
し (た だ
等の人間畿の に紹介した
タ﹂ふ品︑
伊兵衛が
"ず を」
る記録ではないが︑武
ζた
っているが︑
そ れ ら を も れたことのない
浅利英之助均致等京都に
, 19901子
「文化紀要j
弘前大学教養部
おける第一銭兵士む勤務状況の一部を伝える資料であるご
﹁騎
兵縁
大小泡縁被持仔一一件一一は
れる一冊であるc
弘語藩の軍事組織編成替えの 之 助 に と っ て
あ っ た
﹁撰
挙状
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るらこれは ての
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L 、
L 、
し た
︒ 第 一 部 は 病 気 平 癒 や 家 内 安 全 等 (})
為るこ設科摂兵衛の父・浅利五郎左禽門の 川
表 紙 に 外 題 の あ る 場 合 は
﹁
﹂ に そ の 題 名 を 記 し た が
︑ の な い 題 名 は 舟 容 そ の 他 か ら 推 し た 仮 称 で あ る の
仙紙質や縦︐撲の大きさ等は︑特別と思われない限り省略したむ
川特定の人物︑字勾等は本文の後に﹁注﹂で示し︑全体じかか
文中に﹁注﹂の必要な場合は︿内に一がしたむ
(})
t,
は
ている︒
内容の紹升
凡 伊j 43
※印のある写真は︑本文の最後に括して掲載したり
し て ま と め て あ る
c
fi
の噴を設けて説明な試みたりまた
「文化紀要」第31号, 1990年 弘前大学教養部
六︑記録等
44
ー︑浅利伊兵衛抜書集
冊子本
ー︑表紙に題名
はな
い
っ﹁浅利伊兵衛
肱
川仰
木一
は仮称である口
2︑句読点︑段落をつけた
c
3︑ 誤字 を訂正し︑脱字を補
ったっ
4
︑読み難い筒所には送り仮名をつけ たJ
f一、
、主ノ 中 一z
k当田流と
申す剣術は神の
古流
にて
祖の師を世上一一知るハ稀也︒
当田清元︑壱万
三千石lニ弟子取扱之為御 扶持三百人扶持ハ此の流義
ニ附たる古来AOの 縁知之由
︒
此の 人ハ中古之開基たり
︒
此の嫡停を阿部 豊後守 様御側御用人知行千三百石松田仁兵衛 と申す仁の子にて松田甚五兵衛︑此の流の嫡 停を得︑当日を苗字とす
︒其
の後当田半兵衛
と相改め︑天下之逆心油井正雪御念頃に相会
7c
「浅利伊兵衛抜書集」の書き出しのー頁c
写 真1)
第31り, 1990年
「文化紀要 弘前大学教養部
せ
薄奏一一被召出鐸尋おの持︑数年懇ニ語合いの段無相違候︒
夫J下ιり暫く能ムロにあち︑夫より御縁にや御家へ被召出︒
LF
ぷI︑
の罪組
J一表中極外接︑と申す其の機其の業の勝れた
も不被選︑御自身の御信仰なき如く成り行きし事は
ハ天
れとも︑比の答にて難許も有り︑俗の不審は硲の答にて申すに︑
大綱師役の雑談げいて此の流儀︑
かけまくも賢き天煎大神の
流犠元祖の神号ハ︑今時詐取の面一一ても容易
し今琵轄の蔀葛沼
に満ると申すっ
当田流
流の
︑ け
Hリしノログふ4
御当地
然 る
諸十誌の太刀高官}之語︑半兵衛門弟辻合被仰付候節︑当旧流には同門と
し
仰付次第︑︑弟子
げい
ての
議辻
不良出者研め一一可仕候︒当田流には
上侯へ之︑主
は不設志呂︑何とも事あらき申し様成り候故︑御合点可被為遊様なしむ
45
も︑万人に不通事ハ大人之毎用ハ無き筈なれば︑申す通りにて仕合無之流議ならば無弔
の
とに
て︑
f文化紀要J第31号.1990年 弘前大学教養部
につ
れ︑
の後も諸流一流に高覧被遊侯へ共︑仕合之接試不被仰付候由︒
46
嫡子長之助家督 無相違被下盤候へ共︑折々
半兵
荷若
年︐
d度
々辻切り
罷出候
μ
信政公於倒桁他流と
起る基二川候へハ︑全く不接持付︒
是れ直の仕合也︒其の上
表を遣ふにも一生懸命の心に或ち切りて仕り候へと教へ
i一死合之外なし二他流と成れば︑木刀︑籍︑前ニ討もする定め
、
扱て︑初岡田流に同門の仕合無之と市中す事法
必之議誌真鯨
イ ヶ 様 常の稽古之節太刀持し取ち︑平や師とも相弟子共無見分程に忠入れて遺ふを以て︑
五本にても二本にて 本
lと
ちば︑許を可出旨定め置く事二侠
c
げい或る程ならば︑死逢ふ時は還川稽
‑:J
の凝りたる処にて
,阪!
(定a.
の場にてハ真鰯の上と心
J奥稽古にて 故に此の方仕合は無之
c故
d心
貴人ぺ物を申上げる筈にてはなし
c
右之通りの立派一一f
侠詩
︑ 同流門弟之試合にては常に不仕義
J ¥
々︑地
流之仕合
AO
知事之格に打合ひを任せ︑可奉入高覧
ー申上︑げ候ハパ︑流義の本意も相違し︑
の身の首尾
m罷
「文化紀要」第31号, 1990年 弘前大学教養部
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成り︑益々御流義一一も被遊︑繁昌無双流儀ニ可有之候へ
共︑最前之通り不届成る言上故其の理不立︑御意
ニ反し
諸人耳へも通ぜじ︑独り其の身︑時を失い侯事︑前々の悪業障りの曇︑今更夫れ
となく上下の聞を立塞ぎ︑子孫 も絶へ︑其の人起たずば流儀も不盛︑︑道を説くも態
術が
一慶
む
るも︑道法之善悪よりは唯一人之縁業の吉凶を引く 処ニ 有るなれば︑身不立ハ道不立︑己れ
ヰせんと欲せば先づ人宏遠せしめよと有るをや︒
其の場其の時に至
川 一
顧恐する事は拙き也=
未見
未来不知人は猶の事
︑我すら不知処を慎む︒是れ誠
K
人の天命 可成︒中庸一︑其の不見処を慎ミ︑不聞処をおち恐ると有︒
我が方手之内独り有る処︑儒書ハ閣けれども斯く通
被伺也︒
儒之説も浅々敷事多く見ゆ︒是れ全く自力
ニあずるは神学の力︑神理を寄せて聖一連聞を思へば
意味 深一
長
らず︒神教之妙なる明光を少し学べばなりc平生
は閣門死合無しと立る流儀なれば︑右之通り時に当ては仕
合す
るにも是を名付け︑同門之打合を入高覧︑段々御信用之上如
何程も常理委敷申上げ︑有
二創
無一銅の誠之至極を 顕さば︑流儀之本意も相立ち︑上之為万世之
宝
と可成を︑右之仕合甚だ御遺念之至り︑義正に時
K随ふと申すは
{衆﹂
今も昔も末の世とても違ふまじき道理︑誰とても我が行ふ理の侭
ニなる迄時を不慎ハ小賢固植の場︑名人に後指
差さるべき片見︑先師なれとも無類の流儀に対しては不足の器也
︒理の不因所を不施︑誠なれどもその詞を尽し︑
事を不得とや︒然れとも(流儀の)名誉ハ明君故御知り抜き被遊二点︒永く御国民止むる如く被遊し也︒
上方にて 数年有りし内︑数多之弟子共と云へども停を不遊に於て︑御固に浅利均禄兵法を尽し皆済せしとなり
︒
②
(古往高徳集)
当田半兵衛由緒を申すに︑親は阿部豊後守様御側用人︑知行千三百石松田甚兵衛と申す仁︑其の嫡子ニ
町松
田 甚五兵衛と申せしが︑首田流唯受一人の印可をうけ︑道流嫡停を受け候故︑首田を苗字とし松田を名乗らず︒奥
州へ下りたる子細は︑油井正雪K
懇意成りしより起れり︒正雪天下一の叛逆顕れ︑ゆかりの枝葉或は枝流︑余商
「文化紀要J第31号.1990年 弘 前 大 学 教 養 部
48
知己一近付きの末広一も御詮議故奥州へ詮下り語れ居ちたるを︑
iま
に云︑撃は身世助けるとかや
c
所 用
L
れしごとく御家へ被忍出骸は右之過ち也︒
て廿五代昌之嫡侍相継ぎ換ハ︑宮田清掠︿キ 別ち神代民初まり段々
いの毎扶持として三百人扶持︑
の縁
'知
に付たる高︑
のよしひ加に硝前の一伯様よりお之通わノ被附置所乱︒
子孫末葉と一広へたるは︑大名にもこへ
し
其の子締法︑
只ならず間へても︑例へば
つの鎮
下品
物︒
替り
ハ
又武道
の矯持
将軍ハ捷梁なれバ を 継
の鰐道の壱人なれバ︑其の徳ハ
人にして将軍脇也︒
た る 門 弟 有 こ 皆 北 方 門 弟 松
言ふ名をしりて︑武義︑越中の
の筋心得よと じと自分の
Lしり︑浅利均諒一一至っ
百石ハ の気象
先祖之禄をも目下に見る逸哲︑
おるてハ中し度きま斗意地に成りかたちたるは︑呼々
の持め
らは茶代にて
ハ/
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たるハ磨くべし︒言葉之失
っすとかや︒
南客
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しと
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の語にせられたるとかや︒我と我が非をしるつ
勝 れ た る
の外にして心に其の通りを知れノ改むるものは少し︒
ハ同流にては仕合と云
地流
︑と
違い
ハ仕合之一以ふ心ハ︑間流ハ有べき様な
理
一舗
より
無一
¥て︑却しのたたへに極まるむ
無一朗と至ち
Jコ
し︑
立(
「文化紀要l第31号, 1990年 弘前大学教養部
高の仕合二たがひなけれパ︑是
済む事成る故︑許までは此の外なしと誰ともしるほどの事なれども︑其の上 に三百条之仕合之秘停︑印可の停に込め置く流義也︒然れば同流と常の稽古仕合ハなき筈︑此の訳をは不申上︑
理不尽成る御構ハ気質のあやまりよりなす処なり︒愛にことワざに不顧︑大節成る流義を人形風のものに御たと へ被遊ハ︑御主人ならずパ又々申し分もあれども︑君臣之礼有る故︑右之通りの御挨拶たりと御噺
ても申し募
るハ︑弥身の非を不知也︒
花な
り︒
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に ・ ぶ
︑子供
扱 ︑
正
小 ー
に一味なき証拠ハ︑其の頃
正J44K
徒党 一味の骸御穿繋有
て︑ 毎日御成政人数
μ人有之閥︑半兵衛正雪 と前々念頃成候・事かく‑h叫
き故︑侍奏へ被召出御尋ねの時︑数年念頃
語り合ひ候段相違和賞⁝御座︑乍然正雪の逆
心のほどは露ほ
ども不
存供
三正‑雪めが心根を只々合点仕り候条ハ︑
日本に剣術ハ壱人の嫡者にて侠ヘパ︑名人の
類ひ徒黛致し度き底意一
随分心を尽し︑念頃一致し候と相見へ申し候︒あわれ逆心の企て語句申せし致︑脇
J
にても耳ニ入り候ハパ即座に彼の首を打ちおとし言上可仕に︑神ならずして数年其の事不存知
c
但し︑彼が伎倫
致し候へ共︑逆心の催しらしき事共は二一一一口も語り不中︑筆にをかんしん申す事こそ御座候へ
さばかり念頃 も香にも知らせ不申ハ︑私器量を見知り居り候故︑底意顕しなば己か首大事なりと存じたる也と︑今こそ存じ当 り候︒よくも
ー人を目利の上手にて天晴天下を心置き候ほども悪しからず︑彼ハ器量志と其の深意をば今こそ 合点仕り侯と伴りなく中上げ候はば︑扱ハ一味之者二は無之なと有りて︑其の時の御詮議相済み候由
c
其の後も江戸
Jに住居すといへども︑何分老母之許
AO江戸一一居り候ハハ七生迄の勘当せんと永居を恐れ︑奥州へ 49
下り︑仙量にも一年余り留り候︒そして此の仁︑勇猛の生れ付︑事に望み腹立つ事あれば正面眉毛之聞に一寸四 方ほどの丸き層あり
c
此の癌より光り出て見へし故︑上方に居り候内より皆人仮名を付けて御光甚兵衛と申した
「文化紀要J第31号.1990年 弘前大学教養器
50
りし
由也
︒
ベし︒其の一政を見丹け時節を何ひ︑
ハはかられまじき者に舟ってはかるなち︒ 心気を邪を会る
和し︑前も誌し諮りたる案の深き只者ならずと是にても知るべし︒
なふ︒はかるべきに謀り︑
l土
をはからざるをと手名人と申す由︒
宮に錫荷之時
Jb勢ひを発し
る人多し︒加費越前︑にて此の事かくれなき事事︒ ハ必ずまみの光りあらわれて︑均禄はじめ其の外門弟も見た
ら
にも
三百
人︑
でなし︒是ほど
る斗
由︒
其の器日当りたる故︑浅利
m r 兵籍均禄ニ噌受人の柑持を講ず︒
斗ま
れり
︒ 寄合役相勤むc親ハ設科五郎左衛門︑子故受け継ぎ候也︒
高
御
宮
議け り
子供
二花
なり
︒
なんにもわからなレものに︑美しいもの︑ねうちのあるものを与えても意味がないとのたとい︒
i③
の節ハ知行
遺 尤調域下H
何万或り共詳細勝手次第の旨被舟付︒但し︑去年九月廿
E
J慎み被仰付罷在ち︑ J年十月十五日︑浅利伊兵第義昨部九月廿日当番不信之義不員一一被思召︑擬定法を以て永之御暇被下山
︿藩
主江
ハノ)街下向後︑御目付都谷森甚之車︑其の後棟方角主語門を以
自分自暗に偽り申上ぐ義恐入り侠と有之︑両震とも有り体に失
λ忠
之段
一ハ
在り
間敷との御尋ね被仰付侯へ共︑
御審へK及しと也︒同人浪人後鞘師町一一出︑筋範之名人之名を四方翌未年正月
I文 化 紀 要j第31号, 1990年 弘前大学教養部
鞘師町勘兵議共上下コ一入車心
ト改
め︑
竹森欝太夫と申す浪人 浅利伊兵衛均禄ハ其之父五時左衛門と云ふ
QH寄合相勤むつ
正吉ぷ山出回侍を受く︒誌の流儀外
︑印可ハ弐人と
の 極
治る弟子無之持ハ︑
の奥旨嫡持組援く也︒其之詑ハへしのみ
ニョ
父を
失ひ
︑
後年棒授といへども印可ハ未得也︒至ちて
老
注 川 川
身晴
れ︒
身に韓り掛った罪の疑いが晴れること︒
浅利均禄 ④
五
〉
O
代
小笠累金十郎忠重︒
小笠原伊賀ハ︑為詰公秋田比内の設利沙弥殿一一間添ひ来りしに︑
信政公御代村市へ
い 仰 に h γし
い仁
川町
ガ
し
の器
一之
坊宗
明︑
の樽を不持︑
i童 諜 田
代
一拾
右を
被下
重候
︒ して松野大学磁越し候節︑与之右衛門間 51
一 一
打向ひ城主を討取り申候︒L F
乱出入之第︑依忠勤加増百石賜り︑菌学浅利と相改め事
月廿四
又々
乳井英作
「文化紀要」第31号.1990年 弘前大学教養部
52
五 代
寛t
文じ 十 年
設利伊丘ハ禽均禄︑信政公御代寛文十年八月父之家を家督相機︑天和二年八月廿八詰寄合被待付︑
正徳一死年八月廿八日被話出装︒十丹十五
浅利万之助
白 緒 潜
﹁為
⁝付 加去 調代 議女 姓名 大概
L
をま
円程川小護服伊費︒
しているcω二代灘︑蕊津軽常牧時代の可制御搬騒動﹂のときのこと︒部ち初宍津軽為信の続課・熊千代ハ当時九議)と為れおの
J二男信牧の相続争いのときのこと心この件辻︑為信が三男信牧を跡目相続にすべく幕府に申請し︑ぞれが裁可となったが︑
逆に熊千代を推した津軽在馬佐は追放の身と立ったcこの結着に不講をもっ左高佐のトサカ・士山!兵庫介等は1H
市の 館い にたて龍って反抗した慶長一四年三六
O九)の事件の時のことである︒
この時︑⁝抑制牧の命を受けた松野大学信安が人数を引き連れて︑やっとのことで一戸兵庫八八を討ちとったが︑その人数の
中に十笠原与之主語門忠重も入っていたと思われるおしかし﹁誠主命討取いった本人であったかについては定かではないc
いわゆる﹁鶴橋騒動﹂
出 寛 永 十 一 年 二 六 三 回
﹀ 八 丹
︑ 津 軽 家 中 が ニ 涼 に 対 立 し て 遂 に 幕 府 の 裁 断 告 悔 ぐ と い う
︑ 的叩
wと ︒
こと の記 りな
︑一 一一 代藩 主津 軽信 義が 寛︑ 水⁝
C年(一六一一一一一一﹀城友として江戸から弘前じ入部(初めての国入り︑き時十
五議)の時︑換をしてきた江戸展敷議守屑役・長矯半左犠行設真と︑弘前在住の議代の老臣・兼平伊立信秋︑乳井美作建
定等との確執にあったり兼平伊豆は二代薄主信牧の妹・梅姫を妻とし︑乳井美作は三代藩主⁝信義の姉・富症を安として︑ともに津軽の姓を許さ
れている憲一阻であった︒これに対し船橋半左衛門は︑二代藩主詰牧亡き後信義のお守り設をし︑江戸毘敷の留守詰役も欝
め︑⁝公犠向調底(いろいろと探く知っていること﹀事し︑御老中にも御存知存之につき︑於当家欝覚え宜しく或勢専らの由一なる人物であった︒もともと江戸で採用された船構半左衛門と議代の巴との間にはおそらく政治向︑卦どのこと誌もち
ろん︑いろいろな点で意見の相違があったι違いない︒しかし︑江戸で永く生活していた告義は︑兼一千
m r 立や乳井美作等
「文化紀要j第31号,1990年 弘前大学教養部
重症の意見よりも︑伺かと公義に明るかった能議半左者門を頼︑る方が強かったようである︒
寛永十一年七月︑徳別家光が捷一位左大臣を受けるという名誌で京都に上洛するが︑津軽信義も兼平伊一足や乳井英作等
の家臣団を連れてこれに供奉する︒人丹京都より江戸に州知って間もなく︑伊立や美作その詑人数・申し合わせ︑浅草の民家
に引き託って1永く傷患の願状いを蒸し出し︑また一方では﹁目安状んを暮府に提出することによって事件は具体化して しまうのであるc
以後レろトドろた絞料があって一一年後の寛永十三年正月︑幕抗出は裁断
‑ K 下す結果は信義にお構えなく︑船橋半左帯内ちc
は伊予ハ愛媛課)の松平隠岐守ヘ︑兼平伊豆と乳井美作は⁝長門(山山口県)萩の主判的甲斐守へお預けという両成敗の彰に絞れ
つ九 一﹂ つへ
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‑
川4
づ 有 明J s r fゆE︐e
H 9 t p u
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この後もば船橋涯の藩七の多くが弘前議を辞職浪人し︑事件の収拾に信義は労苦を議おることになるが︑この事件に当
って小︑笠訟与之右露間けがどのような形で寸忠勤しげい励んだのかは未詳である︒しかし二代信牧︑三代信義に仕え︑氏も
ぷ同和しに改めたとレうことは︑それなりの功労と精神的な転機があったのかも知れなレっ
同浅利五踏ま謝門︒家曹を継レだ正保二年︿二ハ四五)はコ一代信義のときで島り︑日間死一した寛文十年ハ一六七
O )
は間代信政のときであるむしかし門的義公制御氏より調奉公中上接語々﹂(ぺ化︑けら
LN
H)
に注この名は掲載されてい
れはいむ吋津軽史・第八巻﹂ではこの後にゴ信政公揚代a点卒二年(一六八五﹀二月諜鐸家中分限帳いを載せているが︑当
焦のことながらこの時じはすでに二浅利所兵衛⁝が掲載されている︒結母︑一随一津軽史﹂の寸分限帳いの類には︑浅利混郎
左 鑑 門 の 名 ほ 出 て こ な い と い う こ と で あ る む 争 の
﹁ 古 老 遺 書 に 拾 っ 禄 弐 百 石 寄 合 相 勤 む
﹂ と 為 る が そ の 通
りで怠ったのかも知れなト円︑
(~ ¥とシ
の達人なりひ幼・6
入 木 之 道 日 深 く 心 を 染 し 也
り
め
居合
を︑
日 軍 兵 需 と 申 す 浪 人 の 弟 子 と 相 成 り 投 怒
︑ 軍 兵 衛
段︑
じ
53
ニ入 り︑
の高弟と成る︒
当一人の
一 一 戸 一
一 依之其
の門人
f文化紀要J第31号,時間年 弘前大学教養部
入 木 之 道
︒ 高 照 宮 御 選 鑑
・ 巻 六 は 間 代 藩 主 津 軽 信 政 の 書 道 を 次 の よ う に 述 べ て い る
︒
﹁葉遊の事入本流殿御家より入木道と山中して此の道を御開き被遊長曲︒入木の涜と申すハ︑弘法大師の筆勢木に入
る事
三寸
と一
夜ふ
より
事程
り︑
其の
流犠
乃名
とず
とか
ゃに
ペバ
パ移
乙一
川町
一丸
山一
一バ
一日
山政三木造u p
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また︑山間鉄太郎ハ鉄舟)は一弘法大師入木道第五十三世﹂を継ぐ書家でもあったと訟われるよヰ一同τぷ
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六 守 し ただし︑漫利伊丘(禽のぺ入木之道いの蔀範が議であったかについては未詳c
親方︒礼法のことむ弘前藩の礼法の師範は小笠産流・横山嘉右衛門武慕で︑浅利伊兵衛はその門弟であった︒横山嘉
在籍門は︑四代藩主津軽信政の弟・津軽大議為貞の推挙で祝︿二ハ七九﹀江戸で採用され︑貞享一一一年こ六八六﹀
弘前に引轄し︑藩内に七OO
名 の 弟 子 を も っ た と い わ れ る
︒ 一 横 山 嘉 右 衛 門
が浅科伊兵蜜に授与したで許状﹂数巻が残っている︒
54
弓も本間氏部左荷門の高弟と成り︑門弟取立て 十文字鑓にも殊の外心を尽し
に師範仕り段︒
鋸 術
は︑滝川森次部︑
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へ出様人数之記録なりむ
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(2) 守
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御換地御用半ば病知県故一五々中上げ︑譲治願差上げ骸へ共︑右櫛用中不被
仰 付 侯 付︑右相撲み申し候関云々 九月十八日一一表へ罷り出張F
川即日一町田権之進殿へ参り︑御検地御用栢済み較に付き︑持合へ申し合せ︑御番御
捧も妙得たり︒
櫛引伊右毎門︑千葉専太郎︑渡辺
ニ郎などなりむ
の 奥
一 語 不
物
「文化紀要j第31号, 1990年 弘前大学教養部
勤め可申候︒右之段為可申上参上仕り候旨申置き︑
即刻湯治願之書付家来へ相渡し︑夫
AO
山中次郎九
郎へ罷り越し︑御検地御用仕舞申候上御番相勤め 可申候︑御番刻被成候様
ニと申合せ候
判罷帰り申
し候
へ パ︑
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治願之通り被仰付候
ω勝手次第湯治 仕り候様f敬
仰下︒夫
AO
湯治支度罷在り候
︒
同十九日昼時分︑下切之下役人参り候
日彼れ是 れ御用之事談じ候内
山中次郎九郎
AO番刻之廻 状参り候肌
被見申し候へパ︑同廿日拙者当番と申 し仕り候ω
参り候
一一
付︑拙者湯治願之通り︑昨日 一両日中一一
湯治仕り候段罷り出申し 被仰付候
川︑
間敷とうたハせ仕り候へパ︑相済み申す事
御座一 一
一日も相勤め申し候へパ仲間のくつろぎ
にも相成る事ニ
候︒殊
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八ツ迄の勤めハ安
候へ
共︑
き事‑一 候︒其の上共廿一日
ニ湯治可佐旨奉存候故︑
55
可罷出旨を告げ越し申し候︒
いつも拙者持病げんうん仕り︑物忘れ仕り候故 何れの廻状も女共詳細承り候ヘパ︑其の時分ハ追
写真2)最後の2行目から「浅和j伊兵衛遺書Jの文で「身上召 し上げ」に至る経緯が詳しく書かれている口
f文化紀要」第31号, 1990年 弘能大学教養部
々湯治之支度仕打ノ侯ω女共居間 56
不罷荘内︑廻状坐り産へ家来持参れソ仕り挟故︑気分悪敷く入物忘れ設︒
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ヘバ︑街番不罷出候︒
甘
時之議治可仕旨と存じ馬
い出し︑次郎九部へ人伝
ち候節︑昨日は調番
出
勝て?
中
遣し︑急塔有之侠と御出で被下候へ
別ち次郎九郎被参侯
付︑右之段御用人衆ヘ御侍ひ可被下核︒昨
日調番調態侠処不罷出候︒今はは湯治可仕骸や︑又延引縄番組勤め可申挟やと被抑上援下鉄へと申し
︑磯谷新八段・J被仰下侯ハ︑御番御欝め候へとも混治被成候ヘヨ賓とも御差問不相成被申参候ニ付︑左同僚開き挟ヘ
ハパ︑内々一一てハ荷れ共一則︒仕様無御座鏡︑御奉公遠憲可仕候やの皆次郎九郎を以て中上げ候ヘパ︑其の儀も御差
角御差閣難被或・と被仰下候上ハ︑可上仕様も無御座候に山制御奉公違憲仕ち候よ江
閣不相成侯と被仰器供
付
議御心得可被下旨申上げ畏ヘパ︑其の段ハ最り届山中上げ被仰候問︑次郎九郎被中
封︑九月二十
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得奉公遠慮
仕ち龍ち有之候事︒
御目付中・都谷森甚之丞門をたたき参ち侠て被山中挟ハ︑御自分調番一小参侯と申す侯ハ︑御番 を繰り葬ひ換
御出で無之など被中ニ付︑此方・2
失念仕ち候と中上ぐ候を︑部此繰り違ひ申し侯やと御目指衆さし
出者かくらんにて失本仕打ノ
付て被申技ハ︑繰
hノ違ひ中し侯と中し設ハパ梼気と
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候を偽ち申す快事存念相叶ひ
など中上ぐ候議一小罷成︑其の上
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ハ不被成など被申候て罷れソ帰る︒不罷出と申し候ヘパ︑
又御日付・横方覚右寄門被来侯
J被申候ハ︑
出候など被申侯付て︑拙者存じ候は弥繰ハノ選手中す候と中
︑ 念 ︑ ︑
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一度事上げ候事相
「文化紀要i第31号, 1990年 弘 前 大 学 教 養 部
違を申し侯て首阜能くとて本望ニハ不奉存候︒自然失念仕り間敷事を何と失念仕り候川と御尋ねも御座候ハバ︑病
気故と申し候︒
其の年中ハ正月四日御番相勤め︑其の外ハ御検地方︑其の外いろノ¥相勤め申し候汎御番などと申す事ハ家内の ものも矢頃不存っ彼れ是れ等申す事も御座候へとも︑御尋ねも無之御座候二︑とハず語りハ不被申上︑いや繰り違
不罷出と申し候ヘパ︑繰り違ひハ不仕成候哉と閣返し被申て被罷帰候
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きて卜月十五日︑御会所佐時源左衛門殿被仰渡候︒其の方義無説法仕り候ニ付︑身上被召上候とばかり被仰渡︑
ひハ不仕候︑失念仕
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御番
浪人化り侠事円
浅 利 伊兵衛
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書 注 川 御 手 廻
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寄 合 へ
︒
﹁ 貞 享 二 年 ( 一 六 八 五 ) 二 月 調 御 家 中 分 限 帳 ) に浅利伊兵衛江すでに一寄合・弐百石一となっている︒貞享四年に﹁御手廻組しより﹁寄合Lへ転役中という意味は不詳︒
57
間 御 検 地
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一貞
享
J厄年二月︑津軽郡中御新検地初るc中略c当年より一二ヶ年にして御郡中不残惣御検地済分米水帳相極︑
同三年十二月より新検司り御収納被御付候︒後略
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また︑﹁貞享四年二月十五日︑新検地一一付被御付候条々有之﹂
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とあ る︒ 山 一 町 田 権 之 助
D﹁貞享二年二月調御家中分限帳しで一には﹁御用人・四百石しと出ている︒天和二年(一六八二)
八月二十一日からの用人である乙やがて五代藩主信寿の正徳元年(一七一二四月二十八日には四百石加増となって家老︑
翌正徳二年五月六日に更に三百石加増となって都合千百石︑弘前議の大身となった︒同年の五月一九日に西館刑部と改めているつ新田開発に大きな功労のあった人物である︒
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一 川 い す
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川山中次郎九郎ョ(貞享二年二月調御家中分限帳
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に﹁寄合・百五十石しと出ている口
同 四 ツ
AO八ツ迄︒午前一ο時から午後二時まで︒
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D怯量cめまいのこと︒ 川磯谷新八︒珪宝七年(一六七九)︑江戸で四代藩主津軽信政に仕える
Dのち家禄四OO石︑徒頭となる︒貞享三年
「文北紀要j第31匂, 1990年 弘宣言大学教養部
58
こんハ八六﹀用入︒向年月投口年不詳︒山麗議行の門人であった
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川郡白羽甚之叩落合本文にも自付とあるが﹁貞享二年二月調御家中分限帳
Lにも自付と出ているc
石 高 に つ い て は 版
公御代・元禄八乙玄年(一六九五十⁝月廿一日信政侯弘前御家中分限帳党三
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寸刊行)に百石とあるご一一代蓬主津軽語義死後殉死した都谷森甚之進政改砂系累の入物と思われるむ
山間織り替ひむここではか︿替による繰り延べと解釈されるむ
刊 か く ら ん 合 在 乱
︒ 暑 気 あ た り の 諸 病
︒ 川棟方建布灘間け
9本文には日付と為るが一貞享二年二月調鵠家中分限帳Lれ!?⁝民法一諸手足軽頭・棟方角左禽門Lと 出ているc元禄に入って﹁目付﹂となったと思われるc﹁一死語入乙亥年十一丹廿一日信政一公栂代弘前鐸家中分毘張貰い
川コーには﹁弐百石・棟方角左寵門﹂・と為るや
総 佐 藤 譲 左 褐 門 c住藤源太左衛門が正しいc⁝貞享二年二月調御家中分限帳しiに一大弓什・一一一百石いと出ているrJ
延安近年二六七七)号付役︑のち諸手物頭ヮ貞享元年三六人間)一ハ
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石加増で大目付となる︒同一一年勘定奉行ι党
議七年(一六九四﹀近智頭︑向一一年(二ハ九人﹀江戸で没
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川 )
浅科伊兵衛を時び出し︑蕃の処断決定を命ずるのは﹁大日付いであったと患われるむ
身上被沼上告元禄元年一
O丹二丘自の﹁弘前藩庁日記とれ﹁日打︑
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げいは次のように記録されている︒
﹁浅利伊兵衛最先達叩湯治顛之犠‑一付無説法心情ツ鞍依之知行被召上限此段
m v 兵衛一一可申渡趣従江戸被仰下候ニ骨
伊兵衛海会所守召寄加例酉奉行列座十にふ人目付佐藤拓郎太左衛門市中護之
右中渡招済伊兵禽家罷敷被呂トぃ候改議取可申旨屋敷奉行今治十台諾門
( 13)
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申渡之
︒本文の意訳
貞享四年のことで為った︒役職が﹁御手鰻範ふから﹁寄合いへ移る時に藩の験地があったが︑その作業期間のある誌︑病気
のため湯治静養したいとの願い書を提出したが︑検地期間中のためかその時はお許しが出なかった︒
九月一八日ι役所に出向いて御用人a一町田権之進氏にお会いし︑検地の作業が繋ったので勤番に入りますと報告し︑役所
には﹁湯治願﹂を出しておいた︒それから寄合役山中次郎九郎に︑検地が繋ったから勤番割当てをするようにと中し入れて家
に帰った︒そうすると役所からは湯治願の件お許しが出たという報せがあったので︑それではというので湯治の準穏にとりか
かったG
湖北一九尽の昼一頃︑役所の下投入が山中次郎九部からの勤番割当て衰を持って来たのでそれを晃ると︑自分は明一一O呂が割当