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ω 津軽弘前藩の武芸

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(1)

津 軽 弘 前 藩 の 武 芸 ω

尚 充 万徳集い∞

(1) 

叫古

往万

語集

bが武芸専門書ではなく︑弘龍第四代藩主・津軽信政(正保三年

i

一六

四六

J

に関する多くの言行録の中の一冊であることは前回ハ本紀要第二十一号)で述べた︒右に云う多くの

七 一

Oi

宝永

七年

は部を

挙げれば次の書である︒

(1) 

K

;

Giai3 

i Q M

i8i4

fe

K

ij沿

G 2 i  

出imis

法政

公一

御青

山之

一筋

閉山

詩集

imi7苦肉堅講社御意書h

(2) 

(3)  (4)  41 

(5) 

(2)

(6) 

K1mmi 

G 2 i  

ki

m‑

‑斜叫信政公得意書

出lm12﹃高照宮御選警

kimi

円引

当局

鰐官

御遺

鑑﹄

j

i m

吋高照宮御遺鑑b

h立吋貞享規範録1mi日 ・

kim!

組制

吋貞

一学

規範

b

kim‑‑ωE

享規

範録

(7)  (8)  (9) 

立1)

(12) 

(13) 

右はすべて弘前市立弘前図書館の所載︒

Nm

‑K

‑平

‑ m

及び葬用数字は所議記号・所蔵番号である︒

右の中

m w ‑

捌・闘は︑享保︿一七三一一一﹀渡辺的利容の著作で叶古住万議集﹄より早い成立と思われる︒採録が

okh

q H叫・引説み点︑

dd

φ

u.

u

.

U

︑ か

︿一

O

六﹀森内繁高の著作で沼口往耳穂集﹄よい成立であ

る︒以上の間J桜花ついては次回にゆずり︑今回は山

t m

すなわち

との関わり

を述べ︑解題の播足としたい︒

山J

mm

につ

いて

は︑

に﹃

昭和

一一

弘前市立弘前閣議館編﹁弘前密書館郷土資料百録・

‑岩

見文

態郷土資料昌録・そのご﹄と略称する﹀が書名を挙げ︑それぞれ苦干の﹁注﹂いる︒これら

(以

の﹁注﹂を総括的にみると︑出J矧の各書は︑異なる議名もあるが同らの筆写であり︑内容もほど同じであ

(3)

き︑簡単な解説を試みる︒ ること︑当然のことながら原著者は同一人物であることが推察される︒間についても同様である︒以下各書をひも解 (1) 

筆写本

¥ }

Ulm‑3

注 ロ

前記﹃目録﹄の﹁注﹂には﹁津軽信政の言行録︑享保二年(一七一七)の著︑著者伊東祐明通称衛門八︑近習小姓︑

後の勘定奉行﹂とある︒

写(l)GK ‑289‑3 [f'高照霊社御意書』

(弘前市立弘前図書館蔵)の序文書き 出しの部分。

記述の形式は︑序文と本文の二本立て

x

︑序文

にはこの書を記す目的︑その末尾に﹁干時享保丁

酉歳弥生日﹂(享保二年

l

一七一七

l

一 一 一 月

)

日を記載している︒本文は四九ケ条の箇条書きで

ある︒たどし一五番目の箇条がかなりの長文で︑

他の書ではこの箇条を二ケ条に分けて記述してい

るところから︑原本は五

O

ケ条であったのではな

いかと推察される︒

43 

きょう︒左にこの箇条の関係部分を挙げておく︒ 五条と﹃古往万徳集﹄中巻第一四条及び﹃奥富士物語﹄巻二の関係部分を検討すれば︑著者の氏名はおのずと推察で 著者名は記載していない︒しかし︑本書の第四

(4)

m

im

‑!

3

﹃高照霊社御意曹第四五条

一︑或年江戸御発驚蔀日御鹿候問︑題り御道具等例之通御土蔵

ι

恥試

¥御

締除

七ツ

過日

一梧

済た

り︒

西ノ御物

置にて御意被遊技ハ︑今日ハ髄分侍れも能仕舞たち︒座敷も襲く成たり︒我も接関たり︒然ハちと鍬術を可遣と

(B被仰︑回寵氏桜鹿氏某一一一人被停材︒随分遠惑なしに仕候得との

(以

下略

I z ‑ ‑

m i 9

昔往万議集﹄中巻第

︑或時江戸御発都府前日︑御座の関頭り御遊具等調之通御土蔵江取賦り︑御掃除七ツ時仕組たり︒其時︑何れもに

も随分出嬉太義也︒臨敷も麓く成たり︒我も際なれパちと錆衝を仕ふへしと被停︑田浦西部左横門︑伊藤衛門八︑

桜庭浜之丞一一一人被仰付︒伊藤︑桜躍御相手に成︑随分禁違憲仕へ候へとの御意とかや︒

︿以

下略

叫輿

欝・

・十

一物

語﹄

巻二

一︑

或人

一匹

︑御

意書

に御

発都

府前

晩︑

西ノ

御物

量に

て︑

御銅

街相

手に

罷出

候者

宙滞四郎お議内︑静藤衛門八︑

浜之

丞也

誤之丞は御普代之長ハ禽門子にして御史小姓に被召震鐸近習小姓后学兵喬正

を被賞人口問也︒津軽一一統悲撰者色︒当時兵助正農大一塁吉一祖父意︒お一統志全部十四務事保十六亥年五月撲︒

後約百石

四郎右横目件︑寛永十七長年九月五日公義より御搬入相良語兵衛村一けい

(偶開)仕御近習小姓︑此人敏達博職にて︑其頃野元道元に合捧被命結坐杯取立た 欝烏廻組頭迄樟動︑世に名

家来田浦主水子也︒後に御側に

当時

里諮

問郎

・右

衛門

れ訪

問円

父也

(5)

笛門八祐明は︑下ノ野場辺か前田沢の領主兵器菜子係研藤六部右衛門舎弟︑則御中小姓に被呂出御近習小姓︑

(

信勘定奉行相勤︑旦御意書の作者意︒当時主税祐従出掛留守続祖父也︒右御意書︑世に尊徳録企ハ一話︒ト人枚持

一 五 々 ︒

すなわち右のら推して著者時伊藤禽門八義明というこ

lmI4吋明智被括近士口縛集h

虫喰い (2) 

ほど同じである︒条より成り︑特設は次の

を加えていることである︒

信政公御意筋此書の題号御名を

MM

て題号とせん

信政公縄意筋と有御名を以て題号とせん事多けれは明君夜話と題するもの也

信政公得意筋と有御名

また︑この書を最初に筆写した期日・人物として﹁寛政了己季冬(寛政九年

1

一七九七﹀中野口撰L

との

号︑これをさらに筆写した本書については﹁明治十九年︿

斎藤家﹂との記載がある︒

(3) 

部imi5

吋借

政公

御意

之一

筋開

縛集

(6)

(2lGK‑289‑6rr信政公御之筋聞書集.Jl (弘前市立弘前図書館蔵)の書体。本 文の終りの部分と、 「干時賓永六己丑年正月廿一日.JIの書き出しの部分。

=:;. 

色 =

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守ゆ Jd

‑F JJ受

λn uh K3幸 も z d J I

‑ A

4・ af

4

‑V He企

今見 え・ 昏お

7

品会

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‑ M E F 2 4 i

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養 母 λ

1 ︑ u

n 5 4 4 主 . 古 島

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44

岨刊号

A E

L

4 1

A A

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7

川 崎

? : 岩 も 舎 ゐ

H

4 s

t 余

人 a T U Z

崎 ・

3‑4

リ 合

41 右の書名は前記の﹃目録﹄に従ったが︑これはいわば内題であって︑表紙の題名︑いわゆる外題とし

ては﹃尊聴録全﹄と記している︒

O

ケ条から成り︑内容は山とほ

HA

同じである︒

筆写の期日は記載していないが︑末尾に﹁横嶋安恒

主﹂と︑かつての所有者の記載がある︒

(4) 

日ー日

6

﹃信政公御意之筋聞書集﹄

筆写本

右の書名も前記の﹃目録﹄に従ったが︑これも実

は内題なのであって︑表紙の題名は﹃高岡公明訓録・

信政の言行録の筆写本中最も丁寧な写本で︑書家

の手によるものと思われる︒

O

ケ条から成り︑内容は

ω

とほど同じであるが︑

﹁宝永六己丑年正月廿一日﹂と﹁宝永七庚寅六月﹂

の二編を加えているのが特徴である︒信政は宝永七

(

O )

O

月一八日六五歳で亡くなってい

(7)

るので︑その震前の一百行に関する記述ということになるcおそらく原本に書き加えたものであろう︒

筆写の期日と人物については﹁嘉永五年壬子︿

¥ J  

山本脊龍﹂との

ある

はlml7

議燕

盤一

社御

意童

書名は山と詞乙で︑同

出}

の筆写と思われるが︑巻頭と巻末が切れているcすなわち出の第一条の経りから

第四十三条の中段までが載っている︒そのため末患に﹁御意書前後本紙大破

一五

﹂と

があ

る︒

撃事の期日と人物については﹁文久一

八六

一ニ

﹀十

月日謹而写之Lとの記載がある︒

(6) 

1

m i a

轟照霊註玉話記

h筆写本

構名は異るが山と同らの筆写と恕われる︒たどし︑序文を巻末に書いたり︑誤字も多い︒これらは数回に

及ぶ筆写の結果誤謬が重なり︑このようになったのではないかと推察されるc

}の

室田

には

として次の期日の記述がある︒期昌のみ挙げておく︒

宝謄七丑年︿正月十六日

安永

(一

七七

三﹀

安永九子年ハ

七八

O

﹀六月廿日

一年

(

十 月

天明

四年

(一

七八

四)

一一

右は何れも﹁弘前第七代藩主・

の時

代で

より後代の﹁調高築亨ι

写 ﹂

わねばならないだろ

(8)

(7) 

K

ー 制1 4

明信

融合

御意

h

この書名は表紙にある題名であるが︑

てい

る︒

カミ

写と思われるが︑筒条書きの形式をとっていない︒しかし山i

附の

改めて書き始めている︒丁寧な写本とは云い難く︑山の第ニ四・

五 ・

いる

筆写の期日は記載がなく︑筆写の人物について記載はあるが判読し難い︒

以上山

l m

までの各書一の記述形式について解説を簡単に試みたが︑次に空間関熊霊社御意書﹄と﹃古往万徳集恥との

関わりについて述べようと患う︒

唱も と唱 もと

が成立した経緯を考察すると︑概ね二つ考えられる︒ひとつは︑信政の言行に関して古老

から

もう

ひと

つ法

一密

政の

に関

かれた古書を参考としての或立である︒

ったのではないかという件拡ついては前田すでに述べた︒すなわち基本的には著

者桜蹴兵助正臨腕の祖父や父からの

4

P

・ 品 ︑ ︑

.3MF

一 ︑

t φ /

μ

為る︒組父半兵衛正識は︑の﹁御

児小姓いから﹁御近習小姓﹂でさらに

へと

いう

よう

に︑

側近広あってその

れる立場にあったし︑の校正を務めた博識の士でもあった︒

﹁御小姓組﹂であったから︑家系の上から推察すれば︑著者兵助正慶が生前の語教

ι

接する機会がなかったにしても︑

信政の言行に嬰しての開き講えや資料に不足はなかったものと思われる︒

(9)

49 

もうひとつの︑信政の言行に関する古書を参

考として成立したのではないかという件につい

て考察すると︑こ斗に﹃高照霊社御意書﹄

下﹃御意書﹄と略称する)が登場することにな

﹃御意書﹄は︑享保二年(一七一七)伊藤衛

門八による信政の言行に関する聞き書きである

1L

﹃古往万徳集﹄より数年前にすでに成立し

ていた書である︒いわゆる古書という程ではな

かったとしても︑大いに参考にしたことは疑う

余地はない︒すなわち﹃御意書﹄五

O

ケ条の中

から︑実に四一ケ条が﹃古往万徳集﹄に引用さ

れているという事実がある︒もっとも引用の仕

いわゆる丸写しではなく︑例えば﹃御意

書﹄の一ケ条が﹃古往万徳集﹄では二ケ条に分

けられたり︑さらに敷桁した記述が多い︒また︑

ときにおいては逆に﹃御意書﹄の数ケ条が﹃古

往万徳集﹄では一ケ条にまとめられている場合

(10)

をベースとして書かれたという印象を強く与える︒出

g i m ‑

‑ 9

﹃古設万徳集﹄は﹁巻上

︒盟ケ条より成っているが︑この中

吋主主万徳集﹄は

三ケ条﹂の

このような﹃御意書hと吋古往万徳集恥との関わり合いの事実は︑円古往万徳集いの著者桜嘉兵助正援が︑

加の著者伊藤衛門八結明に対して︑かつて祖父接藍半兵衛正盈と﹁御近習小姓いの同役として︑また直接信政に近

司古往万徳集﹄出の解説執筆に当り︑

を述べ︑解題の諮問沌とする次第である︒ 円御意書﹄とのりから

の成立に関する経緯の一端 在出荷賦憲社の呼呑について︒津軽信政の神号︒話教は四

O

歳を過ぎてから古川推足(初代・従時﹀一一代惟足ハ従長﹀に(

O

出伊藤衛門八拡明拡ついて︒︒﹃青森県人名大事典﹄(東奥日報社︑昭四回)では次のように記している︒

(

O

(

O

事保三年(一七一八﹀鯵ケ沢奉行から勘定奉行となった︒事保九年三七一一四﹀新知百五

︿

O

)

享保一八年(一七三三﹀没

︿

L

WM

欝き残した︒︿津軽史閥︑実富士物語﹀

O

L

明津軽史・︿みちのく叢著︑青森県文化財保護協会︑昭五

)

(11)

昔一日改侯弘前調家中分限帳覚﹂があり︑﹁御近期間小姓﹂一一一人の氏名が載っているが︑その中に﹁百五十俵伊東衛門

八﹂﹁一一一百石桜庭誤之悉﹂とある︒すなわち︑伊東語門入拡明は充様八年にはすでに﹁鱒近習や姓﹂であったことを示

してレる︒﹁元議一五年﹂拡は疑問がある︒

︒伊藤構内入が﹁御近欝小姓﹂広なった経緯について︒

吋奥富士物一誌で巻五﹄︿﹁新編青森県叢著二

C

歴史図議社︑昭四八︑五一l五二頁)に詳しい︒

︑公︿津軽信政)之御代拐の頃かとよ︑諮問沢兵器といひし人の室家︑其頃年おひ後家にて在しを被召出︑御広敷総河御年寄に傷頼有しと也︒此女中数年唯一上方勤られしかば︑内義北撃の式を議覚ヘ︑立和歌連句の道にも立さわり︑女工

み之業は設に不及︑心様優に艶かたにして︑黙も僻まきるかゆへに︑一入御意にも叶ひ︑其頃若女中に万事導き︑諸法

支離して被勤しと云︒伊藤祖母と被召しとかや︒樽給分は金壱枚に御四季摘御扶持等︒

()

之時八苦の和歌を読みて準りしかば︑郷骨骨銅感在て絹の御衣一量一井生涯星黛被免しと也︒御広敷も轡年数相動︑八十六

歳にして病死之・問︒旦右入首の歌の下欝は如何しけん︒黒石弥右衛門か家に伝へて有由︒研東八右禽門祐制約か護法陥

亦彼女中議世帯藩にや︑其時昼匝ツ時より夜中海︑小袖十一一一裁縫錦迄入仕舞︑体感之処明の烏にて有之とや︒詰田沢兵 意 ︒

部は実州安積部前田択に居住︑一一万石領ス︒后佐竹館本にて常剤にて二万お給ふ︒鹿長之頃生竹殿羽搾牧田に所替以後

救出立退︑仙台韓奥様にて二万石給り︑鉄地衆話人預り︑其話混入に成︑甲郊にて寛永十近年三月死︒

嫡子伊藤六右衛門拡秀と品一一口︑於秩田伯父須田美濃家督之養子に成候得共︑実父丘ハ部秋部立退験日後︑高源腕様(弘前

二代務主・津軽信枚)に被話出禄四百石被下︑御馬題相動︑且兵器戦功之義高麓院江委織に申上︑尚又相伝之旗印等家

伝侯由︑持又祐秀男子無之︑足立療左額門弟聾養子す︒家督之処無調法有て家断絶と一国︒旦祐秀養子後実子出生︑伊藤

六郎左禽門祐経と云︑桂光院様(弘前三代藩主・津軽信義)揖児小姓に被召出︑承応一一一年(一六正問)街中小姓被召

抱︑金弐枚御結扶持世人分被下︑揚近習相勤︑天和二年(一六八二)に御手廻被仰付︑其子孫八相祐当時御謡番結光︑

組父伝に云︑成時伊藤祖母之御意に何か望有やと持に村︑乍恐二男一一一男如何共被召遺被下盤度旨申上候処︑民両人共に

備陣中小設に被召出︑ニ男衛門人祐明と去︑后御近習小姓︑其賠勘定奉行物頭格迄格動︒当時主税誌従︿御自見以上御留

守尉支配十人技持)祖父也︒三男入者衛門祐清と云︑当時御中小姓彦太蕗曽祖父︒

hの﹁聴﹂の判読について

(12)

hで時﹁噂簿鰻﹂︑?弘訴事史藩政編﹄︿部門別史料・一一一員﹀では﹁尊麓録﹂としている︒これは﹁徳﹂か﹁聴いかの﹁4﹂と﹁耳いの崩し学め判読の仕方にかLっていると患われる︒この最高では明確に﹁聴﹂と読むことが

立 自 往 万 徳 集 い ( 2 )  

一︑原文にはないが︑句点︿︒﹀︿︑﹀をつけ︑段落を作った︒

一︑漢字はできるだけ当男漢字を患いたが︑原文を生かしてそのま込の

一︑変体仮名・異字は︑一部を除いて復名または漢字に改めた︒

一︑原文の文体を損わないように︑送り仮名・接尾語を付したが︑一般的に読めると思われる箇所はそのま斗にし

た ︒

︑各項目の文頭にある洋数字は︑保

i s ‑ ‑ s e m ‑

‑ 9

﹃古往万徳集﹄の項目の顕淳を示している︒

︑は

l a m ‑

‑ 9

には︑古文書としては珍しく︑現代の頁数とも云うべき数字が枚数毎に記されてい

る︒

︑︑もしくは判説不能の文字︑

/叫、

﹀内は解読者の注で為る︒

︑佑政公︑於錦街地流と

ノ、

恥入りも深く︑

起る

基ニ

て候

へば

︑全

く一

小被

侍付

( ) 沿

︑ 当 田 流 に 同 門 り 註 合 無 之 と 申 す 事 ハ

︑ 心 に 成 り 切 て 仕 り 候 ヘ

十六れ直の仕合也︒其の上にての義は真鰯にて仕合の外なし︒他流となれバ︑木刀︑しなひ︑例れにてもする定めにて

候︒ケ様に常々稽古の語︑太万押取り︑はや師とも弟子とも見分け無き裂に患入れて遺ふを以て︑

にも

にても二本

(13)

(ゆるし)にでも乃至一本遺へても︑患をする歪ならパ許を出すべしと定め置く事に候︒

稽古の時に︑真の持の集に或りて︑廻り廻りて其の凝りたる所にて形自在に成る程ならパ︑

同前也︒是れにて自墳の謹吉︑掃に立つ︒皆是れ誠を教る也c壁の上にては畳の

(ひだてわけ)気隔別すれずつ日頃の種主ハあだ事也と教を立つる︑況んや外扱い

t

切り組も定りを遣う様には侯へども︑りも絡別烈しき勝負にて候間此の

して入の心に不済を差斗る事までも有之故に︑此方に仕合ハ

なく

ては

なし

︒ の の

に調産設へども︑御好みに御座候問︑同流の

々︑他流の仕合と恕ひ申すの格に打合ひを投らせ︑

に入れ奉るべしと申上げ侯ぐっ流義の本意も相達し︑

其の身の首尾にも罷成り︑々制御流義にも被遊繁日目︒双つなき名流義に有之ベく侯へども︑最龍の通り︑片届なる

言上故に其の理不立︑御意に反し︑藷入の耳にも不通︑独り其の身︑時を失ひし事︑蔀々の悪業の障の晶昔︑今更犬

十七れとなく上下の聞を寒ぎ︑子孫も絶え︑其の人不起ハ流義も不盛︑道を説くも塞第を襲むるも︑道法の善悪よリハ

唯一人の縁業の吉凶を引く所に脊る'なれパ︑身不立してハ道不立︑己れ達せんと欲すれパ先づ入を立たせと有るに

おい

てお

や︒

其の場其の時に至りて顧恐するは抱き也︒未見未来︑査らざる人は猶

( 怖

天命なるべし︒中庸に︑其の不晃一併を禁じ慎み︑不開処をおぢ恐る斗 我すら不知怨を模台c

は︑唯我が方寸

53 

は聞けれども斯く通ずるハ神学の力︑

見ゆ︒是れ全く自力広非ず︑神鏡の関なる光を少し学ベパ枇︒

/、

てたる流義なれパ︑

(14)

通り︑時に当てハ仕合はだにも是れを名付け︑同門の打合ひを高覧に入れ︑段々毎信用の上に知何程も道理委細・申

上げ︑有ニ剣無一銅の誠の至極を顕さパ︑流義の本意も相立つ︒上の為万世の宝なるべきを︑

遺念の査畿︑正に時に髄ふと申すハ︑背も今も末の世とても選ふまじき道理︑

(

( )

時を不棋は︑小賢悶離の場にして︑衆人に後指差きるべき片見︑いと口惜し︒ の仕合︑甚だ以て

ても我が行ふ理のまtA

なれ

ソと

先師なれども︑無類の涜義に対して誌不足の器色︒理の不因裁断を絶たず︑誠士心無きハ其の認を尽す事を不得と

()や︒然れども︑涜義の名誉ハ︑明君故御知抜被遊AO︑氷く御闘に止る知く被遊しと世︒上方にて数年脊りし内︑議多

注出の弟子有りといへども侍を不継に︑於御国浅利悌穣兵法に心然を尽し︑皆済せり︒

d在山本条でいう当回流とは︑可文北紀要﹄第一一十一号で紹介した﹁当記半兵籍吉正﹂師範の指導する津軽弘前藩の当匝琉

0

2肉設方徳集﹄の著者桜庭共助正歯震は︑当回流の輿儀の深さに敬意を揚いながらも︑藩主の得前での同流仕合

を拒否する饗勢に鋭く批判しているむこの条は︑前条に続いて﹁者一回半兵衛官正﹂に対する論評である︒この議評の是

非む

つい

ては

︑摘

を改

めて

論議

する

必要

があ

る︒

h (

筆写本︑用人二一一矯左十部様︑文北年問︑弘前盟書館蔵﹀の﹁師役の部いによれば﹁鷲宝一一一年(一六

七五﹀七月二十正日︑当岡龍錫術当部甘四五兵衛グ皆博仕︑其節申立之上指南佐龍有挟﹂とある口浅利伊兵衛は明欝一一年

三六五六﹀生れハ東輿日報社吋青森県人名事典﹄一一頁﹀と一四われているので一九践の時である︒﹃浅利摂兵衛遺

書匂ハ次の条の﹁注﹂参照のこと)に﹁当司涜鰐前の嫡縛一兆祖当罰清源より六代﹂とある︒

︿ )

一︑浅利鈎禄一向兵法記心然を尽し︑世事の事物に物忘れ多く︑元禄二年の秋の頃AO風方の気味有りて︑一入忘れ多

淡泊かりしと品︒其の噴の御番を忘れ致し︑一小歩/儒ひ相済まざる内︑同年九月廿日AO御奉公遠藤仕る︒

淀川翌年五丹中旬御在国の閥︑縄目付・都谷森甘四之丞を以て昼九ツ時︑門を響かし案内の御用有之に討て鞠様に対談

(

ri¥)には︑海自分儀御番に罷り出でざる儀ハ︑御番繰り替えたるにて者るべし︒失念にハ有るまじ︒聴々・在操に

(15)

ベし︒此の段尋ね承り候様にとの御意にて候由︒

(4)弘前市田町最勝院跡の当田半兵衛吉正の墓(左側)。碑銘中央に 6個の党字の下に「冷山秀政居士不生位」右に「日惟元(禄〉七甲 成年」左に「十一月十五日:孝子敬白」。右側の副碑は、大正十五年 七月建立の「一万流之祖当田半兵衛尉吉正之墓」。経緯について は、中村良之進「富田流正統当田半兵衛吉正の墓石J

W

陸奥史談』

4輯所収に詳しし、。

昭和6065日、中野久一氏のご案内で撮影。

ヵ:

左様に御座候と申し候ハ

HA

︑首尾能く罷り成る べき瑞相なるべきを︑是れも師匠の譲り︑簾潔の

失念に相違無之を︑御主人に対し奉り偽り欺 あれパ︑無勿鉢と存じ詰め︑失念に相違無之段申

上げ候へパ︑甚之丞罷り帰る

其の日︑亦々同役・棟方角左衛門同道ニて来り︑

先の如く案内の上対面し︑御自分御番不参の儀︑

繰り替えにて有之べしと最前の如く申し陳べる

左様に候と答へかしと舌一ツ不被返斗に︑

両人共 に詞を揃え申し達るハ︑誠に御憐懸の尊慮

J

免可遊御結構と見得ながら︑何共自分の身晴とて 偽を上江申上ぐべき段︑無勿肱と斗存じ︑初め

J

(ありて

)

申上ぐ候有鉢を︑全く不変が真実とのミ心得︑と

かく失念にまがひ無之段申切り候由︒

則ち両御目付詮無く立戻り︑夫れ

J間もなく十月十五日︑浪人被仰渡候︒趣は︑其の方儀去年九月廿一日︑御番不

十九

参の儀無調法に付︑遅参不参ハ御免難被遊御定法に候問︑永の御暇被遺候︒俳佃の事御城下何れ方共に御構無之︑

住居勝手次第と有りて知行被召放︒

(16)

夫れAO鞘錦町八助と申す者の家屋敷を求め︑毎度に相替らず弟子も取立て侯蕗︑武者執行を存立つ︒

(あ時てい)憧支度するといへども︑其の壊︑諸牢人の制御園を罷り出候儀無用と有る御法度出で候設︑有仙併に申出てハ一小成︑鞘

師町の八助研勢参富上下一一一人と申断り︑一克禄四辛来三月十六日︑弘前忍て出で立つ︒

御関所にては当間諜左構内梅禄と名乗り︑弟子の内浪人竹森勝太夫︑年若なれども気丈夫に志探き者なれて師

の供を顕ひ︑若党に梼え︑今一入︑間町勘兵衛︑是も大男︑上下三人也︒

弥天下に引当り︑疑ひ無き後︑斯くまでも御用に相立つベく思込みにで道場を張り鋪捺指南を立つるあれパ︑推

して膚を合わせずと云ふ事なく︑於勝負ハ不勝と云ふ事なし︒

或る時ハ︑ニ刀発斎とて中太万・小太万左右に持ち︑上下在右稲妻の如く振立て︑分庫の透関も無きことく︑其

の機き︑修練の功を重一ねし糧に︑常鉢にてハ真似も不可成︑詞にも述べ唯今造多くの修行の者来たるといへ

とも

︑こ

与を

出立

不申

候と

荒一

一一

自の

のし

れソ

勢ひ

懸る

G

胸縁は︑廼器中部何なる者との仕合にも︑木刀ハ 一両年も廻

ハ持たせたりとも︑小太刀をも出さず︑持ちたる扇子

にて是れを小太万の替りに舟ひ︑此の二刀遣ひとも布の通今一崩を以て丁と留めらる︒如雷光振ひ乱したるも︑被押

( )

︿

L)而ハ又出す事不叶︒彼は太刀をからりと捨て︑感︑担平・扶して︑貴方ハ宜敷摩利支尊夫なるべし︒唯今まで数人と仕

而我折られたる事の告︒合︑恕此ハ無之︒寄妙なる成され方とて唯一本

其の後︑常陸の国水一戸宰相様より︑鹿鳴郷の師葛掛藤左簡門︑日本無双の名人なる自問簿へ︑既

事一

り謁

せん

回目

被の神流を重くして修行者如何担割行くといへども︑

(かけはず)も其の格に取捺ひ︑兎角と致し懸外して中々一艶聞に可及挨拶なし︒櫛禄も弟子に逢ひて済むべきとハ患ひも寄らず︒

(ありぞい)意味省婦にハ申せども︑とかく不出曾候︒ の出向を出して試し︑夫れにて済ま.さること故なし︒今度

於愛修行中の心尽し︑

(17)

夫れより社江諮T祈り下向の刻︑誠深切の

に浮くり謀ありて勝太夫 めし上逢ひ兼ぬるつ大方知れたる事ぞやと︑乍影察ずる弊

‑ r

先に響く知く一吉渡りしかパ︑本AO

鹿嶋

しハ︑走れ迄

の指南の藤左衛門門弟ならざるはなく︑社職の者に打交h

ソ︑弟子共大勢有る事なれつ

︿

はを引くAOもいと早く︑心額叶ひ︑即日藤左犠門江草談の訳になる︒

一礼的於て表は平生の鉢なれども︑内心ハ甚だ怒りを含みたる事なれば︑ りもはやく︑

藤左衛門宅へ呼入れ︑産敷立通し封一曲︑

AO全く生きて可帰とハ帯ぜず︑死ずとも事ハ一小残と

思ひ込み切りて居りたる由︒後に語り笑診しと也︒

悔禄ハ本AO少しも心怯ぢず︑一入打和らげ︑息を静かに︑段々懇志を述ぶ︒礼法序冊高之後︑藤左衛門

(zv

/

¥ ) ( )

一一一目︑先ず以て剣術調志感じ入り侯︒当回流執行被或候な︑成る額当田流能︑き流義に候︒弥左様かと問答︑先達面宿

(

)

の主人をはていさゐ申入れ候通り︑議羽一回読博来唯受一人の秘博ハ継ぎ設上︑修行の為護国を廻り︑車員

家の世帯承るに及ぶ︒呂本無双と有之を以て︑此方流義も天下に入︑是れ亦無双︒然れパ神流の実を決定致すべき

(あながち)ため遥々尋ね来たり︑錦封談を顕ひ快特例本望の歪りに候︒強目⁝参謁を譲受侯事︑推参に

るべく侯へども︑剣

術に志す所の深切を患召され︑御詮義を決め頼み入り存ずるとの議︑懇意に述べ尽す︒

藤在密門も尤もと受け︑惣じて末代太刀の流義繁多に起り︑々品々の教式ハ々の品を添ひ︑の論抄汰省

るといへとも︑皆剣術といへば同じ物かと存するハ違ひ︑叡て非なる共修行とて愛許に米たる者説々の様にハ侯へ

と 壱 広 ℃

人として鵡術の本意に叶ふ者と覚しきを不見︑皆枝葉を取て援本の知く心得︑実を失HVたる見出時人存るの

勿斡無き哉︒太吉神流の本糠に対し︑歎かはしき事ながら仮初にも推参︑罪無しとせず︑名開利欲の働き神

ι

悪む成︑歯砕けても捨てんと一五はん斗︒何くれ錫掃の道理を申し乍ら︑七十有余の老身︑歩行も初めハ不自自

(18)

へしが︑其の勢ひ

声も

荒け

て打つ事割る加し︒高になりてすり寄り︑いつ来るともな

く悔

穣が

藤一

五立

必死

と綾

り寄

る︒

ん為にや︑志真実の怒りに警ヘパ噛み摺む様子にて無色を替て見えける

とか

や︒

(

)

陶様︑尋営の入ならハ其の先に熱を含められ返答も間関敷に︑又︑血気の勇に過ぎなパ事官破るか︑兎角危き往

校二

還なるに︑互ひに名人同士のこと故に︑榔と鞠と武ふごとく︑聯かも樫我ハなかりしとぞ︒

悌禄︑修行の饗ひ格別なれずつ誠の践を開てミる

ι

︑設が怒れる如くして我れを御る如くはげしき駄を︑偏に敷

するに非ず︑唯に剣術に思入れの深き誠AO

気の

強ミ

︿)に足らずと拐骨腰居たる心大山の如くなれパ︑少しも動かず︒ に念怒の勢ひ発し︑暴続的の樹を倒し雷鳴の天地を轟か

す如

くな

れど

も︑

(おめづか)思ふハ︑自ら人の心根とパ天地懸縞て︑表柔和にして底に強みを持ち︑柔ハ能く隣を制するの位を取て︑しづめし 其の思入れ合協び

づめて表除広静かいへども︑内陽にし︑︑心暁らかに︑業本AO

利き

たり

藤在議門ハ︑表揚にして勢ヒ発して火の如く燃え被る形なれども︑一畏ハ々として探り難し︒

藤 左 一 禽

門 一 一 一

一 問 ︑

の仕合︑ヶ様ハ関ても後学の手本たるべし︒

(

内も態敷︑木刀もなまぬるし︒真銅ならパ我れとの仕合︑批の真錫

ハ万

むね

もさ

だか

なら

ず︑

にてあらハ知何と︑棋に手を懸る担く指をさし︑度ならず二度迄既込抜き懸けるかと見ゆる如く致せしも︑伊兵

衛か磁力訟を探るなるべし︒夫れ懇間の無き所にでも︑上手名人には弥静になる所有れハに

(ぬきまじさ)から実に︑設き抜関敷も︑

明か

なる

心︑

おの

ずつ

いヘパ抜まじきに︑抜ハ鰭病也︒敢に臆するは言に足らざる其の移

行は

堂の

処広

志之

処︑

心斗

にて

も一

小成

ても本成︑妥ハ太刀のミ執行よりも居合と申すものが徳にて︑

治め能き事とぞ︒実に実に歌の通りにて

(19)

己分治、三 心 の と 己

わ:fI

さ か

ぐ(風 村?に 蓋話引 か よ 立 な〉て

此の心を能く不講してハの徳ハ用に此の唱の度にハN紛らず居合の教え有る事をも称談せりと︒

(っくもがみ)なりとも抜身を見する程ならパ︑夫れん︒先に出口を以て九十九髪一つ広右の仕懸により︑もし誤り

せんハいと安けれバ︑かずハ勝ちょと胸諒一通知られしと︒開くも気味能き心地する︒言語にも︑

ハ必

散す

大勇ハ不敵とや︒藤左禽門のミか︑数十人詰懸け︐たる弟子各々其の勢ひに葉じ︑若し躍したらハ捲り出し敵都内に及

(

( ) (

バピ︑読の手

κ

懸る迄もなく落花徴躍に取ひしぎ討ち捨てベし︒猛気翠満たりといへども︑少しも其の鉢にうハL

(

)

れ動く気色無く︑謁今日知らけ︑形義を正敷︑打ち静かにて御一邪教布鰹ハ︑逸々兵法的然たり︒

得老人民苦労を掛け︑御手心持試さんとの不本懐︑初めんO宿の主合以て申入れ候如く︑に無双の神州たれば︑

其の的俸を開会¥其の極みに二ツ有るまじきを詮義致し度ぎの本意︒然れば︑御弟子中と封談にてハ縛の明かざる

犠放に︑達部封面を申入れ候︒神流ハ二ツ有るべからずといへども︑其め時の人により︑教の第形に替りも有るべき

一一ツ有るべからず︒弥大明神の御流議とあれて後世の為に我が唯一の神流と一を境かし捌か

事に

て︑

ん為の大願にて候︒推参の業ハ其の志離に符恕有りて真実の践を承り度く接由︒

又︑調を蒸し候時︑藤在籍門の猛打ノ猶止まずして︑一一一口分初めと替り︑いやさ当回流よ

て見せ宇さんとて︑本太万押取り立上り︑ケ様也︑是れ鱒捺極意に不中︑用に立たざる事といふ︒伊兵衛其の なハ其の涜の

59 

いやとよ夫れは我が流義の

夫れ

問︑

兼牧

富田

と申

して

戸田

ハ戸

田な

れと

文字

の一

マ一

ひ様も選ひ︑我が当田の末流︑其の被或按ハ

の末

一万斎広立派の極意︑世間氏も何れの戸富も同じ物か

(20)

と存すると晃得供一か︑左様思話すも尤も也︒三誌に別ちたるも段々

偏向

望み

なら

しと

云ふ

我が喝一間流の本意夫れにてハなし︒停せらる通りの一戸田なれパ宜しからず忠吾すこそ尤もなれ︑此方の流義の

を鰐昌に懸るベ

ふ ︒

(

)

時に太刀大小中の木万︑符までも夫れに出てあれやっ何にでも御手に合ひ侯を以て成されよと有し持︑流義の木

太刀等北方にでも持参致し候へども︑夫れ結も及ばずとて︑剖の通り持ちたるは真剣にてもあれ木

刀にてもあれ︑我等を討砕かれても御慎みなし︒我等是れ広て参り候と︑の膚ひ︑日頃同門に中間かする拭ま

りの一併を顕し舟ひパ︑藤在籍門忽ち曾得有りて其の経たらくを見る広︑後の流義の極意と同じこと故︑持ちたる太

刀を投信ち︑甚だ惑じ我折る︒藷々御自分ハ骨を折られ候よ︑の御事に挟ものを︑我が鹿嶋明神の御流儀も

夫れをこそれじゃそれじゃと境び感贈して︑此の上ハ侍を隅て申すべからず︑極意相侍互ひに

も案内無用と串す に懸け申すべしとて︑我れを継ぐ一の弟子松岡共分嫡子ばかり︒

付︑間の襲ひしととざし差向ひ︑雨入︑ 外は皆土産を引車り候へ︑急用ハ格別︑向事

れソ印可極揺の縛受唯授一人の相縛まで︑互ひに残

さず

あなたAOケ様の事ハいかんと有れパ︑こなたにハハケ様と互ひ

ι

明弁して︑割符なん日

する

如く

一事一上回一の相違無く持欝を合せたり︒共に感一涙をしたて土悦びあふ事罷りなしと︒

5

も薄暮AO明の卯刻

に至て事終ぬると枇︒半ばに淘樺辞譲して︑兼ねて調内窓大熊難見放しとの仰せらる訳にと候得とも︑理不尽に御

費面申し刻を過ぐるに及ぶ︒残る品ハ現尽し︒御老身御いたっかわし︑々夜更け設問御入り骸へ

と連て申候時︑老人も流石なれついやとよ此の段に畿の神明も照覧あれ︑よるべからずとて︑互ひ

に本

望一

残す

一所

無く

詮義

を尽

し︑

通り二人互ひ撲の影な

起し︑勝太夫ハ安堵の伊兵衛とも帰りの節の初めに誓り︑の礼節に 苦を震ひ驚き︑頻りに渇停の思ひを

まで親厚の弊甚だしきとや︒

(21)

藤左密門も伊兵禽に逢ふ事神明の御引合はせ︑名残り深く申され候得とも︑心に

筏訟

の名

人間

宮一

一一

之助

同流

なれ

神惑に

ひ︑御国江罷嬬るc

其の

住山浅利伊兵衛均禄に関しては﹃津軽藩旧記侍類﹄(青森県文化財保護協会編・国書判刊行会発訂・複刻版・田英i

一七真・昭五七)が﹁浅利万之場由緒書﹂﹁貞享軌範録並工藤家記﹂﹁浅利伊兵衛遺書﹂つ古審議謂﹂﹁一本萩﹂﹁喫

茶雑話﹂から誌粋してまとめているむこの内容は﹃青森県出入部

h (

青森県一縮・塵史罰議社ei

)

記述よりもやよ許しい︒

山本文の諸期日は︑布の注山の吋津軽藩国記樽類同脊蘇悶

上段が本文︑下段がおの両脅から該き出した期日であるむ の期日と必らずしも致しない︒左にその倒を示すむ

AO風方の集味で錦番忘れる︒

@一瓦接二年九月二十日より御奉公違憲c

の一五禄三年五月下旬︑御自付都谷森甚之丞︑諌方角左衛門訪問︒

例正樫元年八晃被召出︒

61 

名の期自に関して﹃弘前藩庁日記(鐸冨自記)﹄(弘前謹書語義・筆記原本)に記録のあるの拭﹁元禄光年十丹十五日﹂のみであり︑舎︑@︑の元課二年の御番忘れの件︑鐸奉公遠慮の件︑のの都谷森之丞榛方角在衛門訪問の件︑の出立の件︑紛の下着の件︑付帯鼓召出しの件等の記録はない︒

(22)

次広一苅禄元年十月十正日︿吋緯欝誌記hでは貞享五年十月十五日となっている︒)の記鋸を紹介する︒

︑浅利伊兵衛儀先達而湯治顕之議ニハ付無調法有之候依之知行被召上長

右伊兵衛曾所江召寄如例践奉行列重一一語大白付佐藤源太左衛門申渡之

右申渡相済伊兵衛家屋敷設召上侯詩改語取可申旨屋敷奉行今治右癌門江申渡之

此段伊丘ハ喬ニ可申渡趣従江戸被仰下候ニ付

ついでに︑右と関連のある次の記録も謡介しておくG

︒同年十月廿巴未目

︑代官成田正八儀浅利伊兵衛従弟迫間致議鴎挟巡桜欝せ月中趣小山搭一右衛門江申渡之

右の記録から︑無調法の犠は豆ん謙一死年十月十五日﹂以前の出来事であって︑窮誌の点では窃@伺れも著者の記憶違

いによる誤りと閉山われる︒また︑無調法の内容も﹁御番蕊れ﹂であったかどうか疑需がないわけではない︒﹃御国昌

記恥の﹁先津市湯治願之儀ニ付無調法者之﹂C記録からは︑﹁御番忘れ﹂は想像し難い出来事である︒

のの元様一一一年五月中旬は︑確かに藩主信設は江戸より弘前に下向はしていたが︑蔀谷森甚之丞︑棟方角左衛門が設利

伊兵俸を訪問した事実はない筈であるcなぜなら﹃御園日記﹄によればその以前︑一克諒一克年十月十五日に既に伊兵衛は

知行召し上げの処分を受けていたからである︒

@の元捷三年十月十五日は︑EM述のように一克諒一克年十月十五日の誤りであるc

@の弘前出立の期日について︑本書では一五議四年三月十六日としているが︑コ浅科伊兵議選諜恥では一苅禄一一一年四月十

六日となっている︒

紛本書では出立の期日については書いているが︑組問の後弘前下着の期日は記していない︒﹁一苅様四年間八月梅日い

というのは︑訪問利伊兵衛遺書恥によっている︒これが真実とすれば︑約正ヶ月にわたる懇掛武者修行で︑当時として

はかなりの期間ではなかったかと思われるや

ω w の援捕の期日﹁正徳一苅年︿一七一一﹀八月いは本櫛憾になく吋浅利万之助副緒議﹄によるが︑元隷一五年︿二ハ八八﹀

G伊兵構は︑この七年後の草加味一一一年︿一七一人﹀︑六二蔵で死亡してい

(23)

(5)浅利伊兵衛均禄の墓(弘前市龍

負山京徳寺)享保三戊成(1718)

十月廿五日無庵凶(幽)生居士

る ︒

之助の誤り︒田宮三之助朝成のこと で︑号は常快(

禄一五年四月二九日死亡)田宮流居会の四代目(紀州田宮流)に当る田宮流初代田宮平兵衛

神夢想林崎流林崎甚助重信の弟子である︒(﹃武芸流派大事典﹄神夢想林崎流及び田宮流の項参照)﹃浅利伊兵衛遺書﹄に﹁林崎新夢想流居合元祖︑林崎甚助より七代﹂と自ら称しているが︑田宮流居会(按万術とも)も︑林崎甚助重信の居合

より発しているために同流と考えたのであろう︒この﹃遺 書﹄によれば︑田宮三之助に会うために︑遠く紀州和歌山ま足を延ばしたとある

廿 (承前)一︑信政公︑居合は関口流御究め被遊候由或る時︑御側廻りの面々と於御武塞に︑御意に︑何事も習覚えたるがよ廿し︑捨るは安し取わけ武義ハ︑用に立たぬ事の程も少しは知りたる方よしと有りて︑御居合万御差し被遊︑扇子

一本板の上に御立て被遊︒其の頭を居合万の柄にて御押へ被遊︑少し御退き成られ候而︑其の扇のころばぬ聞に出

口にて御打ち成られ候事数度︑何十度に及ても一度も逃る斗事なく打たせられ候故︑皆人感じ奉り候時︑御意︑如

此居合は︑業の助ケに少しは可成ものなれども︑強いて好むべからず古来の武士達︑漸く武のせんさく強しと心 得べきは︑是れ居合を武喜に非ずと定め候事ぞ其の子細ハ︑見る通り抜き身の勝負にて出口を肝要とす︒左あれ

パ︑鞘に有る内に勝負を取るを本とし︑既に敵万を抜きたるにも此方ハ思ふ図にてこそ抜き排ハんと思ひ︑抜き持

ちたる敵に向て抜くべき場に抜かぬ所が︑はや負ぞ其の方万一仕損じ討たれ︑抜くも合わせずして打たれたと云 う批判になりてつ負の上に大なる恥也

勝負ハ少しの前後の仕方にて︑打たれても打ちても善悪の批判有り︒敵

は抜き懸るに出口にて致すべきと思ひ︑抜くべき敵に向ひ抜かざる所武士道に叶はずとして︑居合ハ武喜に非すと

云えりされども︑極々至秘に至てハ︑銀術なれバ捨るに非ず併し︑深意に至らず︑極秘を尋ねずしてハ右の沙 63 

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