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博士論文の要旨および 博士論文審査結果の要旨

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博士論文の要旨および 博士論文審査結果の要旨

氏 名 17D3102 久 井 孝 則 学 位 の 種 類 博士(経営学)

学 位 記 番 号 経営博甲第16号 学位授与の日付 2020年3月17日

学位授与の要件 学位規則第4条第1項該当 博 士 論 文 題 目 明治初期における公会計研究

─複式簿記の揺籃─

Public Accounts Study in Early Years of Meiji Era: The Cradle of Double-Entry Bookkeeping 論 文 審 査 委 員 主査 中村 恒彦 教授

副査 山本 順一 教授 副査 金光 明雄 准教授

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【研究の背景と目的】

明治元(1868)年に樹立された明治新政府は,討幕のための莫大な軍費を 三井などの豪商からの莫大な借財で賄っており,極度の財政難の状態でス タートせざるを得なかった。したがって明治新政府にとって,経済の安定は その存続に係わる重大案件であり,「明治維新」と呼ばれる近代化のための 政策を推し進めることによって,その経済的基盤の確立を図った。それが殖 産興業であり,その結果今までにない資本規模の企業が誕生し,同時に明治 政府の財政も徳川幕府時代とは比べものにならないほど規模が拡大していっ た。当然,そこには資本規模,財政規模に対応する新しい会計システム構築 の必要性が生じた。そのような時代背景のもと,文明開化の一環として登場 したのが西洋で行われていた複式簿記である。

公会計では,従来の和式帳合よりも優れた記帳法として,大蔵省を中心に 法整備を行って複式簿記化が進められていった。そして,明治14(1881)

年会計法の制定によって,全省庁で採用されていた複式簿記の公会計システ ムが完成する。ところが,同年に勃発した「明治14年の政変」を契機に国 体の方向がドイツプロイセンを範とすることに決まり,明治22(1889)年 大日本帝国憲法(明治憲法)及び付属会計法の公布を境にして10年間続い た複式簿記が単式簿記に逆戻りしてしまう。明治初期から私企業に導入され た複式簿記がその後も絶えることなく普及していくのと比べて,この違いは 何なのだろうかという素朴な疑問が湧いた。公会計の複式簿記は一旦定着し

<博士論文の要旨>

明治初期における公会計研究

複式簿記の揺籃

久 井 孝 則

2 桃山学院大学経済経営論集 第62巻第1号

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たのに,なぜ突然消えてしまったのだろうか。まさに複式簿記は,導入から 廃止へと「揺籃」のような変遷を経験したのである。このような明治初期公 会計における複式簿記の波乱に富んだ導入史に強く興味関心を抱くに至った ことが研究の背景である。一旦公会計に採用された複式簿記が,なぜ突然消 えてしまったのかを明らかにするために,以下のような課題を設定した。

(1)明治初期公会計において,複式簿記は何のために,そしてどのように 導入されていったのか。

(2)明治政府の公会計ツールとして定着し,制度としての完成をみた複式 簿記が,なぜ明治22(1889)年会計法公布を契機として単式簿記に逆 戻りしてしまったのか。

明治初期公会計における複式簿記の導入史をたどり,この二つの課題を明 らかにすることが本研究の目的である。

【論文の構成】

本論文は,2部構成である。第Ⅰ部は「明治政府公会計の複式簿記導入」

と題して,本研究の目的の一つである「明治初期公会計において,複式簿記 は何のために,そしてどのように導入されていったのか。」について考察す る。また第Ⅱ部は,もう一つの課題である「明治政府の公会計ツールとして 定着し,制度としての完成をみた複式簿記が,なぜ明治22(1889)年会計 法公布を契機として単式簿記に逆戻りしてしまったのか。」について考察す る。論文は第1章から第7章に分かれ,最後に結章で総括を行う。

【各章の内容】

〔第 1 章 明治以前のわが国の会計〕

明治政府の簿記の考察の前提として,明治政府樹立以前のわが国の帳簿の 歴史について,特に和式帳合と呼ばれる江戸時代のわが国の伝統的な会計に ついて触れた。中井家・三井家などの豪商で行われていた和式帳合には,西 洋の複式簿記に劣らない会計もあったが,各商家の帳合は門外不出の各家の 博士論文の要旨および博士論文審査結果の要旨 3

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秘伝であり,複式簿記が入り込む余地はなかった。

そのような状況のもと,慶應元(1865)年に建設された徳川幕府の横須賀 製鉄所で,フランス人のメルシェーによって複式簿記が使用されたという記 録が残っている。しかし,本研究のテーマは明治政府の公会計なので,横須 賀製鉄所での複式簿記は対象外とした。したがって,明治以前のわが国には 複式簿記を必要とした組織も公会計と呼ばれるもの自体も存在していなかっ たことが明らかとなった。

〔第 2 章 明治政府の樹立と複式簿記〕

この章では明治政府の樹立と複式簿記の関わりについて考察した。

明治新政府は,明治4(1871)年から約1年10ヶ月にわたり欧米諸国の 視察を行った。いわゆる岩倉使節団である。使節団一行は欧米の国家制度や 産業技術,文化などに直接触れて,わが国の進むべき方向性を実感した。帰 朝後は,「欧米列強に追いつけ追い越せ」のスローガンの元,富国強兵をめ ざした「殖産興業」で近代産業の育成を図るとともに,「文明開化」と呼ば れる諸制度の西洋化を推進した。この「殖産興業」と「文明開化」という明 治政府の二大政策の双方に関連するのが複式簿記である。「殖産興業」に よって巨大化していく企業の会計ツールとして,また「文明開化」によって 新たに移入された会計システムとして,複式簿記は国営企業及び民間企業で 積極的に導入されていった。同時に,「明治6年の政変」以後に大蔵卿に就 任した大隈重信が,税収の流れを正確に把握でき,明瞭性の高い会計ツール として,公会計の複式簿記化を進めていく。

〔第 3 章 造幣寮の複式簿記〕

大蔵省の一部局であった造幣寮で複式簿記が導入されるようになった経過 及びその影響を考察し,造幣寮の簿記が公会計における最初の複式簿記では ないかという検証を試みた。

明治初期は貨幣制度の混乱で大量の小判(金)が海外に流出する事態とな 4 桃山学院大学経済経営論集 第62巻第1号

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り,政府は幣制を確立し経済を立て直す目的で,大阪に世界最大規模の造幣 局を建設した。しかし,当初は最新の造幣機械の操作など造幣局の運営はお 雇い外国人に頼らざるを得なかった。それらのお雇い外国人の中の一人に会 計のスペシャリストであるブラガがいた。このブラガと同時期に,紙幣寮に 雇用されて銀行簿記システムを確立させたシャンドの二人は,わが国の複式 簿記導入に大きな功績をあげたお雇い外国人である。

ブラガが行った複式簿記は,大蔵省の一部局である造幣寮の中だけで行わ れた。また金銀銅の重量を記帳する物品会計であったことなどから評価が低 い。また造幣寮でブラガに直接師事した計算課長の三島為嗣が,邦人職員の ための教習本として著した『造幣簿記之法』は,おそらくわが国で最初の簿 記書であるが,これも全く評価されていない。しかし,大蔵省造幣局編

〔1921〕『造幣局五十年史』には「神速にして正確なる複式簿記法を採用し貸 借の区別を明確にし証拠書日計表等に依て勘定を査定せるか如き亦皆始めて 本局に於て行へる所なり」とあり,造幣寮が複式簿記を最初に行ったとあ る。

ただ,大蔵省は明治11年の「計算簿記条例」により全省庁で複式簿記が 実施された時をもって,公会計の複式簿記の始まりとしている。しかし,た とえ物品会計で一部局内のみの複式簿記であっても,造幣寮は明治政府の組 織であるので,造幣寮の簿記を公会計の複式簿記の嚆矢と考えた。

ブラガは,後に大蔵本省に転属し大蔵省,及び全省庁での複式簿記導入に 貢献した。また,ブラガの簿記は多くの人に伝承され,その影響は計り知れ ない。

〔第 4 章 明治初期公会計と複式簿記〕

造幣寮で行われた複式簿記が拡大発展し,大蔵省,次いで全省庁での導入 に至る公会計の複式簿記化とその法整備の歴史的経過をたどり,一応の完成 形として制定された「明治14年会計法」について考察する。

明治新政府の公会計の整備は,「明治6年の政変」後に大蔵卿となった大 博士論文の要旨および博士論文審査結果の要旨 5

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隈重信によって進められることとなり,手始めとしてわが国で最初の統一的 な税の出納手続である「金穀出納順序(明治6年)」が制定された。さらに,

大隈は記帳法として複式簿記の導入を目論んで造幣寮のブラガを明治8年に 大蔵本省に転属させ,複式簿記の講習を行わせた。そして,明治9年「出納 条例」で大蔵本省で正式に複式簿記を採用し,明治11年「計算条例」で全 省庁での複式簿記採用を定めた。大隈の大蔵省改革は,公会計の複式簿記化 とその轍を一つにする。大隈の複式簿記推進には大雑把であいまいな会計シ ステムが原因で頻発していた政府高官の汚職などの乱脈会計を正したいとい う意図があった。そして,明治13年には公会計の監査を行う組織として会 計検査院も設置している。こうしてついに,翌14年4月「太政官達会計法」

が制定される。この法例は,わが国で初めて「会計」という言葉が使用され たもので,一般に「明治14年会計法」と呼ばれる。この法例の第21条は,

「凡ソ出納ノ記簿ハ複記式ヲ用フヘシ其様式ヲ変更セントスルトキハ會計検 査院ノ承認ヲ請クヘシ」と複式簿記を使用することを明言している。ここ に,明治初年から始まった公会計の複式簿記導入は,「明治14年会計法」を もってほぼ完成したのである。

〔第 5 章 「明治 14 年の政変」〕

前章で述べたとおり,明治14年会計法で公会計に定着した複式簿記は,

「明治14年の政変」によるドイツプロイセンの単式簿記会計法の採用によっ て,後にその姿を消すことになる。この章では,「明治14年の政変」を詳し く検証し,政変が後に公会計の複式簿記に大きな影響を与えたことを述べ る。

「明治14年の政変」の歴史的背景は,明治政府最高の実力者大久保利通 亡き後,政府を二分していた大隈重信派と伊藤博文派の政権闘争であった。

両者は国体のあり方について,真っ向から対立した。大隈派がイギリス流の 議員内閣制を主張するのに対し,伊藤派はドイツプロイセンの立憲君主制を 主張し,それぞれが憲法案を公表し対立していた。そのような対立の火種が

6 桃山学院大学経済経営論集 第62巻第1号

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燻っている時に,薩摩藩出身北海道開拓史庁長官黒田清隆が,同じく薩摩藩 出身の政商五代友厚の関連する会社に,破格の条件で北海道開拓史庁を払い 下げようとしたことが発覚したのである。この事件は藩閥政治の悪弊による ものだという世論を喚起し,また自由民権運動の追い風となり政府は窮地に 立たされた。そしていつしか,この事態は大隈重信の藩閥政治打倒の陰謀で あるという風評が広まった。ここに至って伊藤博文を中心とする政府の幹部 達は,大隈不在の御前会議で大隈重信をこの世論の動きと関係ありとして罷 免し,払下げは中止,10年後に国会を開設することを公約することで決着 をつけた。これが「明治14年の政変」である。しかし,最近の政治史の研 究では,政変の黒幕は井上毅であったとする説も多い。

ともかくこの政変によって,大隈以外にも多くの大隈派若手官僚達が辞職 した。これは,当時の政府にあって複式簿記の推進者及び理解者が一掃され たということであり,8年後の大日本帝国憲法発布の際に,公会計システム が複式簿記から単式簿記に逆戻りすることに対して政府内で異論,抵抗がな かったことに繋がったように思われ,公会計の複式簿記にとっては,大きな 意味を持つ政変であった。

〔第 6 章 「明治 14 年の政変」以後の公会計制度〕

この章では,「明治14年の政変」以降,国の方向性がドイツプロイセン流 の憲法作成に定まったことと一切関係なく,というよりほとんど無視して大 蔵省による複式簿記化の法整備が着々と進められたことと,同時進行的に統 一国庫制度の確立に向けての法整備も行われたことを論じる。

政変のわずか3ヶ月後の明治15年1月に「明治14年会計法」が改正され る。この会計法は,「明治14年会計法」と区別して「明治15年会計法」と 呼ばれる。この「明治15年会計法」では,予算の編成・審議を会計検査院 の職務からはずし,決算報告の審査のみとしたことが特徴的な改正点であ る。そして,第34条「金銭出納ノ記簿ハ複記式ニ拠リ日記簿原簿現金受拂 簿豫算簿ヲ作リ該廰ノ出納ハ總テ之ヲ記入スルモノトス」で,記帳法は複式 博士論文の要旨および博士論文審査結果の要旨 7

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簿記で行うことが踏襲されていた。

政変で複式簿記推進派は一掃されたと思われたが,その後も大蔵省は引き 続き公会計の複式簿記化のための法整備を行った。明治15年「改正記簿組 織例言」で官庁簿記組織の改正を行い,明治18年「歳入出予算條規」で郡 区を定め,翌19年「各庁計算記簿規程」によって複式簿記は中央官庁だけ でなく,各府県(郡区)にも適用されることになった。

こうした複式簿記に関する法整備と並行して行われたのが,統一国庫制度 確立のための諸制度である。統一国庫制度確立のための法整備は,最終的に 明治22年「金庫規則」まで続くが,「明治会計法」の第31条「政府ハ国庫 金ノ取扱ヲ日本銀行ニ命スルコトヲ得」によって,国庫金の取扱いが日本銀 行に一本化されたことが,その後の複式簿記に大きな影響を与えることと なった。

〔第 7 章 大日本帝国憲法と会計法〕

本章では,「明治14年の政変」以降の憲法と会計法の起草から公布までの 経過をたどり,複式簿記がどのように揺籃したのかを考察する。

政変によって定まったとおりプロイセン憲法を範とした憲法の起草案の作 成が,伊藤博文を長とする憲法制度取調局で明治17年から始まった。しか し,実質的にこの作業の中心となったのは,法制官僚の井上毅であった。井 上毅は,「明治14年の政変」の黒幕説がささやかれる人物であるが,いよい よ表舞台に出てきて大日本帝国憲法の起草を行った。憲法の主たる内容は,

欽定憲法主義,大権内閣制,両院議会制であった。この憲法は明治22年2 月11日に公布されるが,憲法の「第6章会計」として第62条〜第72条ま でが制定されている。

しかし,この憲法上の「会計」はむしろ「財政」と置き換えるべき内容 で,本研究の目的である公会計の複式簿記のことと直接関係はしないので,

憲法と同時に公布された会計法について考察した。この時の会計法は,「明 治会計法」と呼ばれる。

8 桃山学院大学経済経営論集 第62巻第1号

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「明治会計法」の起草は,明治19年から大蔵官僚の阪谷芳郎によって行 われた。阪谷は,イギリス・フランス・イタリア・ベルギーの会計法を参考 にして全8章177条からなる会計原法草案をつくりあげた。したがって,こ の時点ではプロイセンの会計法は全く考慮されていなかったことになる。そ の後,会計原法は幾たびかの修正審査が加えられ,内閣法制局とのすり合わ せが行われて完成するが,その中で特に複式簿記を廃止するような案は机上 に上がってはいない。

最終的に,新会計法は33条に大幅に削減されて大日本帝国憲法の附属法 として明治22年2月10日に公布された。その内容は,基本的に会計の手続 部分が割愛され,「明治14年会計法」にも「明治15年会計法」にも明記さ れていた複式簿記に関する条文が消えてしまった。さらに,第31条「政府 ハ国庫金ノ取扱ヲ日本銀行ニ命スルコトヲ得」によって,国庫金の取扱いが 日本銀行に一本化された。これにより,各省の会計は現金の出納には全く タッチしない「科目整理」の簿記となって,特に複式簿記を使用する必要が なくなってしまった。公会計の複式簿記は,「明治会計法」に明記されず,

各省庁の現金の出納を日本銀行が担うようになったために姿を消したと考え られる。

〔結章〕

第Ⅰ部の目的である,「明治初期公会計において,複式簿記は何のために,

そしてどのように導入されていったのか。」を考察するために,次のような 視点を設定した。

①明治初期の公会計で複式簿記は何のために導入されていったのか。

②明治初期の公会計で複式簿記はどのように導入されていったのか。

まず,①の「複式簿記は何のために導入されていったのか。」については,

明治新政府にとって経済基盤の確立が喫緊の最重要課題であり,新しい政府 にふさわしい近代的な会計システムの必要性が高まっていたこと。そして,

当時の政府会計の混乱に乗じて行われていた多くの不正行為を抑止するため 博士論文の要旨および博士論文審査結果の要旨 9

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にも複式簿記の明瞭公正さが求められたことを述べ,複式簿記は近代化を支 えるためのツールとして明治新政府に導入されたことを明らかにした。

次に2つめの視点である「複式簿記はどのように導入されていったのか。」

については,まず明治政府の公会計の複式簿記がどこから始まったのかを検 証した。その結果,物品会計でしかも大蔵省の一部局である造幣寮内のみで 行われていたので評価が低いが,ブラガによる造幣寮の複式簿記を公会計の 複式簿記の嚆矢と考えたこと,そして,そのブラガが大蔵省本省に転属して 以降,明治政府の公会計における複式簿記は,大蔵省による法整備に裏付け られて着々と定着していくことを論じた。

第Ⅱ部では,「明治政府の公会計ツールとして定着し,制度としての完成 をみた複式簿記が,なぜ明治22年明治会計法公布を契機として単式簿記に 逆戻りしてしまったのか。」について検証した。

「明治14年会計法」によって,明治政府の会計制度として複式簿記の使 用が完成した時期に「明治14年の政変」が起こり,これまで公会計の複式 簿記化の主導者であった参議大隈重信が失脚する。そしてこの政変の結果と して,10年後の国会開設が約束され,そのためにドイツプロイセンを模範 とした憲法の起草と並行して大蔵省で会計法の起草も開始された。この会計 法の起草は,プロイセンではなく主に複式簿記のフランス会計法を範として いたことが明らかとなり,大蔵省は新会計法で複式簿記を廃止することは考 えていなかったのではないかと推論した。

総括として,明治初期の公会計に一旦採用された複式簿記は法的に廃止さ れたのではなく,統一国庫制度が確立して各省庁が国庫金を直接取り扱うこ とがなくなり,あえて使用する必要性がなくなり消えてしまったという結論 に達した。しかしその理由以外に,複式簿記をあえて単式簿記に戻そうとす る何らかの意図があったのではないかという観点から,次のような管見を論 じた。

明治初期において複式簿記に期待されていたのは,正確で合理的な記帳法 であることは言うまでもないが,それ以外に複式簿記が持つアカウンタビリ

10 桃山学院大学経済経営論集 第62巻第1号

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ティ(説明責任ではなく元来の訳である会計責任)によって,当時の乱脈会 計を正す意図があった。しかしそれは逆に,不正が明るみに出ることを恐れ る人々にとっては都合の悪い記帳法であった。そのため,新会計法公布を契 機に自分たちにとって都合の良い会計システムに逆戻りさせたいという力が 働いたのではないかという疑念が浮かび上がった。

西洋で生まれ育った複式簿記は,西洋社会のアカウンタビリティの考え方 によって裏付けられている。ところがわが国では,民主主義の萌芽さえない 時期にいきなり西欧の文明がなだれ込んできたため,西洋の複式簿記が前提 としているアカウンタビリティの考え方が根付く前に,簿記技術だけが普及 してしまったのである。そのため,会計システムとして複式簿記の本質的な 明瞭性や会計責任が体得できないままであった。そこに忖度や「まぁまぁ」

といった曖昧な意思決定を常とし,丼勘定の単純性を好む国民性がうまく利 用され,「明治会計法」公布を契機に公会計の複式簿記が単式簿記に逆戻り し,結局はすべてのものを明らかにしないファジーな公会計が構築されてし まったのではないかと推論した。

そして最後に,明治初期公会計の複式簿記は小野梓と井上毅の対決の結果 によって揺籃したのではないかということについても触れた。この二人を対 立軸として明治初期の政治史を考察する研究はほとんどなく,しかも「公会 計の簿記」という観点からの研究は見当たらない。今後の研究課題とするこ とで結びとした。

博士論文の要旨および博士論文審査結果の要旨 11

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<博士論文審査結果の要旨>

申 請 者:久 井 孝 則

論 文 題 目:明治初期における公会計研究

──複式簿記の揺籃──

学位申請の種類:甲(課程博士,経営学)

1 .はじめに

久井孝則氏が提出された「明治初期における公会計研究 ­複式簿記の揺 籃­」は,本文がA4判WORD標準で120頁ほどの労作で,末尾に参考文献 ほか,15頁の登場人物略歴が添えられている。本論文の研究目的,①複式 簿記が明治政府によってどの よ う に 導 入 さ れ た の か,そ し て②明 治22

(1889)年を契機として,なぜ単式簿記に逆戻りしてしまったのか,という 二点にそって,第Ⅰ部と第Ⅱ部が構成されている。そのため,研究論文とし て,スタイリッシュな形式を採用しながらも,研究目的に率直な情熱があふ れた構成となっている。

2 .論文の要旨

[本論文の要旨]

本論文の要旨は以下のとおりである。まず,複式簿記は,大蔵省の一部局 であった造幣寮で導入され,大蔵省,次いで全省庁での導入へと拡大してい き,「明治14年会計法」へと結実する。しかし,「明治14年の政変」は,大 隈重信と大隈派若手官僚達を巻き込み,当時の政府にあって複式簿記の推進 者及び理解者を政府内から一掃してしまった。その後,大蔵省は,ドイツプ ロイセンを模範とした憲法の起草と並行して,引き続き公会計の複式簿記化 のための法整備を進めていく。ところが,国庫金の取扱いが日本銀行に一本 化された影響で,各省庁が国庫金を直接取り扱うことがなくなり,複式簿記 の必要性が低下することになった。このように,久井論文では,明治初期の

12 桃山学院大学経済経営論集 第62巻第1号

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公会計に一旦採用された複式簿記は法的に廃止されたのではなく,統一国庫 制度の確立によって使用する必要性がなくなり消えてしまったという結論に 達した。

【研究対象とその視角】

本論文は明治初期の公会計に対する通史である。会計史研究では一定の組 織内の計算技術や記帳技術を対象とするものが多いが,本論文では一般史・

政治史・財政史なども踏まえたうえでの通史となっている。そのため,一定 の史料研究を行いながらも,複式簿記の導入とその逆戻りを全体として追及 することに主眼がある。この際,限界として生じるのは,精緻な史料研究や その批判,また史実としての厳密性を問うことである。その代わりとして,

物語としての興味深さや事象同士の意外な関係性が発見されることになろ う。

実際のところ,複式簿記という計算技術だけに注目していてはわからない だろうことを指摘している。たとえば,「北海道開拓使官有物払下げ事件」

に端を発する「明治14年政変」は,その後の単式簿記への逆戻りにする際 には大きな意味をもってあらわれる。すなわち,複式簿記の推進者および理 解者たちを一掃したからである。大隈派の若手官僚のなかには福澤諭吉の慶 應義塾出身者も多く,複式簿記についても理解していたと推察される。ま た,小野梓は,会計検査院の検査官を務めたほか,大隈重信のブレーンとし て活躍するとともに,イギリス流の立憲君主制の実現を目指していた。国体 を決定するという政治ゲームなかで,複式簿記が翻弄されたことも垣間見え る。

このように,明治初期の複式簿記の揺籃を明らかにすることで,現代会計 システムの源流が明らかにされるだろう。

【本論文の構成】

この論文は,序章にて問題意識を設定したうえで,①複式簿記が明治政府 博士論文の要旨および博士論文審査結果の要旨 13

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によってどのように導入されたのかを検討する第Ⅰ部(第1章から第4章)

と,②明治22(1889)年を契機として,なぜ単式簿記に逆戻りしてしまっ たのかを検討する第Ⅱ部(第5章から第7章)に分かれている。

第1章では,明治以前のわが国の会計について端的にまとめている。明治 政府樹立以前,和式帳合と呼ばれる帳簿システムが存在していたが,各商家 の帳合は門外不出の各家の秘伝であり,複式簿記が入り込む余地はなかっ た。そのような状況のもと,慶應元(1865)年に建設された徳川幕府の横須 賀製鉄所で,フランス人のメルシェーによって複式簿記が使用されたという 記録が残っている。しかし,本論文のテーマは明治政府の公会計なので,横 須賀製鉄所での複式簿記は対象外とした。

第2章では,明治政府の樹立と複式簿記では明治政府の樹立と複式簿記の 関わりについて考察している。岩倉使節団は欧米の国家制度や産業技術,文 化などに直接触れて,わが国の進むべき方向性を実感し,諸制度の西洋化を 推進した。この「殖産興業」と「文明開化」という明治政府の二大政策の双 方に関連するのが複式簿記である。同時に,「明治6年の政変」以後に大蔵 卿に就任した大隈重信が,税収の流れを正確に把握でき,明瞭性の高い会計 ツールとして,公会計の複式簿記化を進めていく。

第3章では,造幣寮の複式簿記大蔵省の一部局であった造幣寮で複式簿記 が導入されるようになった経過及びその影響を考察した。お雇い外国人ブラ ガは,大蔵省の一部局である造幣寮の複式簿記導入に尽力するとともに,後 に大蔵本省に転属し大蔵省,及び全省庁での複式簿記導入に貢献した。ブラ ガが行った複式簿記やそれらをまとめた三島為嗣の『造幣簿記之法』は,金 銀銅の重量を記帳する物品会計であったことなどから評価が低いが,本論文 では公会計の複式簿記の嚆矢と論じている。

第4章では造幣寮で行われた複式簿記が拡大発展し,大蔵省,次いで全省 庁での導入に至る公会計の複式簿記化とその法整備の歴史的経過をたどっ た。大隈重信は記帳法として複式簿記の導入を目論んで造幣寮のブラガを明 治8年に大蔵本省に転属させ,複式簿記の講習を行わせた。そして,大蔵本

14 桃山学院大学経済経営論集 第62巻第1号

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省で正式に複式簿記を採用し,明治11年「計算条例」で全省庁での複式簿 記採用を定めた。明治13年には公会計の監査を行う組織として会計検査院 も設置している。

第5章では,「明治14年の政変」を詳しく検証し,政変が後に公会計の複 式簿記に大きな影響を与えたことを述べる。「北海道開拓使官有物払下げ事 件」をきっかけに,大隈重信派と伊藤博文派の政権闘争が激化し,大隈重信 および多くの大隈派若手官僚達が辞職した。これは,当時の政府にあって複 式簿記の推進者及び理解者が一掃されたということであり,8年後の大日本 帝国憲法発布の際に,公会計システムが複式簿記から単式簿記に逆戻りする ことに対して政府内で異論,抵抗がなかったことに繋がったように思われ る。

第6章では「明治14年の政変」以後の公会計制度の流れを検討した。こ の章では,「明治14年の政変」以降,国の方向性がドイツプロイセン流の憲 法作成に定まったことと一切関係なく,というよりほとんど無視して大蔵省 による複式簿記化の法整備が着々と進められたことと,同時進行的に統一国 庫制度の確立に向けての法整備も行われたことを論じている。統一国庫制度 確立のための法整備は,最終的に明治22年「金庫規則」まで続くが,「明治 会計法」の第31条「政府ハ国庫金ノ取扱ヲ日本銀行ニ命スルコトヲ得」に よって,国庫金の取扱いが日本銀行に一本化されたことが,その後の複式簿 記に大きな影響を与えることとなった。

第7章では,「明治14年の政変」以降の憲法と会計法の起草から公布まで の経過をたどり,複式簿記がどのように揺籃したのかを考察する。政変に よって定まったとおりプロイセン憲法を範とした憲法の起草案の作成作業の 中心となったのは,法制官僚の井上毅であった。井上毅は,憲法の主たる内 容は,欽定憲法主義,大権内閣制,両院議会制を目指していた。一方で,

「明治会計法」の起草は,明治19年から大蔵官僚の阪谷芳郎によって行われ た。阪谷は,イギリス・フランス・イタリア・ベルギーの会計法を参考にし て全8章177条からなる会計原法草案をつくりあげた。会計原法は幾たびか 博士論文の要旨および博士論文審査結果の要旨 15

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の修正審査が加えられ,内閣法制局とのすり合わせが行われて完成するが,

その中で特に複式簿記を廃止するような案は机上に上がってはいない。とこ ろが,大日本帝国憲法の附属法としての新会計法は33条に大幅に削減され て,複式簿記に関する条文が消えてしまった。このように,公会計の複式簿 記は,「明治会計法」に明記されず,各省庁の現金の出納を日本銀行が担う ようになったために姿を消したと考えられる。

結章では,①明治初期の公会計で複式簿記は何のために導入されていった のか。②明治初期の公会計で複式簿記はどのように導入されていったのか。

という点についての答えを端的にまとめている。まず,①は,明治新政府に とって経済基盤の確立が喫緊の最重要課題であり,新しい政府にふさわしい 近代的な会計システムの必要性が高まっていたこと,そして,当時の政府会 計の混乱に乗じて行われていた多くの不正行為を抑止するためにも複式簿記 の明瞭公正さが求められたことであった。そして,明治政府の公会計におけ る複式簿記は,お雇い外国人ブラガの指導もあって,大蔵省の造幣寮内で始 まり,大蔵省や各省庁にも広まってゆくことになった。

②は,「明治14年会計法」によって,明治政府の会計制度として複式簿記 の使用が完成した時期に「明治14年の政変」が起こり,これまで公会計の 複式簿記化の主導者であった参議大隈重信が失脚した。これがすぐに複式簿 記の廃止を意味するものでなかった。その後の大蔵省の法整備も主に複式簿 記のフランス会計法を範としており,複式簿記を廃止することは考えていな かった。ところが,各省庁の現金の出納を日本銀行が担うようになり,各省 庁が国庫金を直接取り扱うことがなくなり,あえて使用する必要性がなくな り消えてしまった。

さいごに,本論文は,複式簿記を単式簿記に戻そうとする意図について,

次のような意見を論じている。明治初期において複式簿記に期待されていた のは,アカウンタビリティ(説明責任ではなく元来の訳である会計責任)に よって,当時の乱脈会計を正す意図があった。しかし,わが国では,民主主 義の萌芽さえない時期にいきなり西欧の文明がなだれ込んできたため,西洋

16 桃山学院大学経済経営論集 第62巻第1号

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の複式簿記が前提としているアカウンタビリティの考え方が根付く前に,簿 記技術だけが普及してしまった。そのため,会計システムとして複式簿記の 本質的な明瞭性や会計責任が体得できないままであった。そこに忖度や

「まぁまぁ」といった曖昧な意思決定を常とし,丼勘定の単純性を好む国民 性がうまく利用され,「明治会計法」公布を契機に公会計の複式簿記が単式 簿記に逆戻りし,結局はすべてのものを明らかにしないファジーな公会計が 構築されてしまったのではないかと推論した。

3 .審査の要旨

【口頭試問における質疑応答】

博士学位申請論文最終試験では,審査委員に加えてフロアから次の4点に ついて質疑応答によって明らかにされた。

1つ目は,既存の会計史研究との位置づけである。これに対して,①史実 に対する見方が多数あること,②一般史・政治史を含めた通史としての会計 史であることが確認された。2つ目は,歴史的事実とその解釈から現代的意 義を見出せるかである。これに対して,久井氏は,本論文によって現在の公 会計の仕組みができあがってきた理由を理解できると指摘した。3つ目は,

アカウンタビリティが,説明責任なのか会計責任なのか,過去に対する責任 なのか未来に対する責任なのか,という論点であった。これに対して,アカ ウンタビリティは,日本には形式的なものとして導入され,文化として定着 しなかったことが指摘された。4つ目は,税源配分について議論がなされ た。複式簿記がドイツ・フランス・イギリスなどをまねるなかで導入された が,結果として税金の使われ方まで監視があまり行き届かなかった。これ は,明治維新によって中央集権化が図られるなか,制度が対処療法的に整備 されていったことも関連しているだろう。

【最終試験結果】

2020年2月6日(木),本学聖トマス館において,審査委員全員が出席 博士論文の要旨および博士論文審査結果の要旨 17

(18)

し,久井孝則氏の博士学位申請論文最終試験が行われた。この論文の著者の プレゼンテーションのあと,提出論文を参照しつつ,質疑応答がなされた。

その後の審議において,審査委員全員一致で合格と判定された。

【結論】

本研究は,資料が限定される中で,一定の水準のオリジナリティを備えた ものであり,博士(経営学)授与に値するものと評価できる。著者は,博士

(経営学)の学位を受けるに十分な資格を有するものと認める。

2020(令和2)年2月19日

審査委員(主査) 中 村 恒 彦 審査委員(副査) 山 本 順 一 審査委員(副査) 金 光 明 雄 18 桃山学院大学経済経営論集 第62巻第1号

参照

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