清代大黄の販路について
その他のタイトル On the Circulation of the Chinese Rhubarb in the Qing (清) Dynasty
著者 松浦 章
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 23
ページ 43‑56
発行年 1990‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/15999
る ︒
清代
大黄
の販
路に
つい
て
れる薬草と薬根もあります︒大黄がその主なるものであり︑も なかったならば︑ョーロッパには知られないでしまったと思わ
った
︒
古来より中国産の大黄はヨーロッ︒ハヘ輸出されていた生薬の一っ
であった︒長期に渉りョーロッパで渇望されたのはその薬効のため
であり︑現在解明されている薬用内容は︑潟下︑抗菌︑利胆作用が
① あり︑他の生薬との配合によって他方面の効用が知られている︒
清代に中国へ渡来したイエズス会士もこの大黄に関心を示してい
われわれとシナ人との貿易がその存在を知らせてくれることがそこで本稲は︑清代において大黄が原産地からどのような販路を
経て海外に輸出されていたかを明らかにしてみたい︒
一︑ 緒
一
︑ 緒 言
二︑
大黄
の海
外輸
出
三︑
大黄
の国
内販
路 四
︑ 小 結
言
清代大黄の販路について
大黄︑すなわちリュパルブはシナの多くの場所で産します︒
番いいものは四川産のものです︒映西省とティベット王国に生
③ じるものはずっと質の劣るものです︒
と四川産の大黄が最上級品と考えられていた︒
中国産の大黄はヨーロッパのみならず︑江戸時代の長崎へ来航しc た中国商船によって舶載され︑漠方薬の重要な薬剤の︱つであった︒
滸代において世界で大黄が渇望されていたにもかかわらず︑その
原産地が四川省や甘粛省等と知られてはいたが︑中国国内において
どのような経路即ち販路を経て海外に輸出されていたかは不明であ と
あり
︑
また︑その産地について︑ ② っとも有名なものです︒
松
浦
四
章
二︑大黄の海外輸出
浦代において︑大黄の外国輸出が朝議の主題になったのは︑対ロ
シアとのキャフク貿易の停止に起因する︒﹃高宗聖訓﹄巻二八八︑
飾辺彊十二︑乾隆五十四年︵一七八九︶正月辛巳︵二十四日︶の条に︑
上論軍機大臣等︑現在恰克図閉関︑不准輿俄羅斯貿易︑而大黄
一種尤為俄羅斯必需之物︑昨因新彊一帯有可通俄羅斯処所︑恐
致楡漏︒⁝⁝私阪大黄︑党有数千余斤之多︑是奸商惟利是図︑
而俄羅斯俯得収買禁物⁝⁝又思従広東海道︑将大黄︑私阪出洋︑
楡売典俄羅斯︑希図厚利⁝⁝
かったロシャは可能なあらゆる手段で大黄を入手しようとしていた︒
それに対して清朝は北辺からの密輸のみならず海外輸出に関しても
監視の眼を光らせることになったのである︒この清朝の大黄輸出禁
止令にたいして海外諸国は困惑した︒とりわけ清朝の朝貢国であっ
⑤ た琉球国は救済を求めている︒
﹃高
宗実
録﹄
巻ニ
︱一
五一
︑
︵二
十七
日︶
の条
に︑
乾隆五十五年︵一七九
0 )
三月丁未
査大黄一種︑遵旨厳禁出洋︑惟琉球歳勤貢献︑格守藩封︑前経
奏明︑移吝該国王︑酌計毎年准買︱︱‑︑五百斤之数︒
とあ
る︒
琉球
には
毎年
︱︱
1 0 0
斤から五00
斤の中国産の大黄が販出
され
てい
た︒
とある︒キャフタ貿易の停止によって︑中国産の大黄が輸入できな
れて
いた
︒
夷務始末﹄巻四︑道光十八年(‑八三八︶八月庚午(‑日︶福建巡
撫魏元娘の奏摺に︑
外夷之人︑非内地之大黄・茶葉︑無以為生︒
とあるように︑中国産の大黄がョーロッパ諸国の人々にとって生き
る術と解されていた︒同書に︑
向来外夷入口之貨︑
内地
出口
之貨
︑
二十
余種
︑
五十
余種
︑
茶・黄・湖絲為大宗︑毎年出洋︵中略︶大黄自十万至十余万斤
とあり︑大黄は茶や生糸絹織物とならび重要な輸出品であった︒海
外へ輸出されていた大黄は︑
大黄産自川狭︑価値高低︑向倶随時長落︒
とされるように︑主に四川や映西地方より産出すると考えられてい
大黄が対ロシア貿易にとって重要な物資と考えられていた例とし
て趙翼の﹃筋曝雑記﹄巻一︑茶葉大黄に見える︒
とロシアでは大黄が治療用に欠くことのできない薬品として重視さ
そのロシアに対して清朝は乾隆五十四年(‑七八九︶関係悪化に
⑥ よってキャフタ貿易の停止を行なった︒さらに清朝は︑中国国外に
販出される大黄の輸出禁止策を打ち出した︒このため︑大黄の阪路 俄羅斯則又以中国之大黄為上薬︑病者非此不治︒
f こ ︒
不等
︒
大黄はヨーロッパ諸国でも渇望されていた物品であった︒
四四
以
﹃癖
弁
清代
大黄
の阪
路に
つい
て
って海外にもたらされていたこと︑特にオランダやフランス︑
スウ
大黄が広東貿易によって海外に輸出されていた状況は︑乾隆五十
四年︵一七八九︶十月二十五日付の戸部の移文に見える︒
査大黄出産川、映二省、商人運販到堪、於省城•仏山両処、筈
売︑毎年約二十余万斤︑其売輿洋行各国夷人約十余万斤︑内地
⑦ 亦約錯十余万斤︒
とあり︑大黄は四川・狭西二省より産出し︑商人が広東に輸送して︑
広東省城や仏山鎮で売却していた︒それは毎年約二十万斤に達し︑
この内十万斤が広州の洋行商人を通じて外国商人に売却され︑また
十万斤が中国国内用として取引されていたことが知られる︒
広東貿易によって大黄が海外のどのような国々に輸出されていた
かについてほ乾隆五十四年︵一七八九︶二月二十一日付︑広東巡撫
図薩布︑瘍海関監督仏寧の奏摺によって知られる︒
拠各行商通事等稟︑称大黄素非毒産︑係由川映等処︑販運来葛︑
因番夷散処炎方︑向来筈運︑内噴噛.沸噛晒.畷.睫等国︑
買用較多︑咲皓刷・味刷哩.呂宋等国︑買用較少︑常年約錯筈R 六︑七万斤︑多至十余万斤不等︒
とある︒広東行商や外国商人に接する通事等から大黄が広東で産出
するので無く︑四川や狭西省二方面より広東に運ばれ外国商人によ
ェーデン︑デンマーク等の国が多く購入し︑イギリス・アメリカ・
スペイン等国は比較的少なく︑広州より輸出された大黄の数量は一 に関する諸事情が詳細に明らかになったのである︒
表1 1792年広東輸出大黄数量
I 船 数 1 単価 I
船 籍 数量: 輸 出 額
イギリス東インド会社船 20隻 339 Ps @ 50 16, 950 taels フランス船 2隻 192 // 9,600 スウェーデン船 1隻 54
2,700
デソマーク船 1隻 222
11,100
大黄輸出 数量・額 合計 I 807 peculs I 40, 350 tales
(出典:H. B. Morse; The Chronicles of EAST INDIA COMP ANY trading to CHINA 1635‑1834, Vol. II pp. 203‑204.)
般に年六・七万斤と見積られ︑多い年で十万斤に達していたことが
知ら
れる
︒
四五
っては︑毎回大黄五百斤の購入 かしただシャム国の朝貢時に当 ついては輸出禁止とされた︒し 東と貿易関係にあるが︑大黄に とあり︑シャム国は古くから広 肛回国時︑毎次准其買帯五
⑨ 百斤︑倖資療治︒ この他︑海外諸国の内︑朝貢
国に対する大黄輸出の処置が先
の移会に見られる︒
至逼羅一国︑輿毒東向通貿
易︑大黄一項︑嗣後応行禁
止︑惟遇該国進貢之年︑貢 たことが知られる︒ 一隻当の輸入率は極めて高かっ 一七九二年︵乾隆五十七︶に広東貿易のために来航した欧米船が︑
広東より各国が輸入した大黄の数量が知られる︒購入したのは次の
船︵表1参照︶であった︒
貿易船の数から見ると︑先の奏摺に記されたようにデンマーク︑
フラ
ンス
︑
スウェーデン各国の
また安南国に対する対応についても同書に︑
該国︵安南︶向来貢使回国例︑准購帯薬材︑嗣後毎次准其購帯R
大黄
五百
斤゜
とある︒清朝は安南国に対しても大黄五百斤の購入を許可した︒
琉球に対しても同書に︑
琉球貢使回国︑購買薬材時︑所需大黄︑毎歳不得過五百斤之数︑
⑪ 無許官伴人等灰帯︒
とある︒清朝は琉球に対しても五百斤の購入を許したが︑貢使個人
の購入は認めなかった︒以上のことから大黄が中国外で渇望された
薬材であったことは明らかであろう︒
︱︱
‑︑ 大黄 の国 内販 路
四川省や映西省が大黄の産出地として古くから著名であるが︑そ
の原産地から中国国内へはどのように販出されていたのであろうか︒
この問題に関して︑戸部の移会に述ぺられている︒乾隆五十四年
︵一七八九︶七月四日付のもので︑浙江巡撫の覺羅瑣汗が杭州省城
にもたらされた大黄について調査し次のように記している︒
臣即通行各府︑査斉各処実在情形︑並子杭州省︵城︶︑伝到薬
行・薬舗・経紀人等︑詳細詢問明白︑査浙省所用大黄︑倶係産
自四川︑毎年経江広客商︑由漢口販運来浙゜亦有浙省商人︑前
往川省購買︑其経由地方︑或由鎮江︑過蘇州而来︑或由江西︑ を許された︒それはシャム国での治療用とするためのものであった︒
とある︒杭州省城の薬店︑販売人︑牙行等からの調査より知られた
実情は︑浙江省で用いられる大黄は四川省産のもので︑毎年江西商
人︑湖広商人によって漢口から運ばれて来る場合と︑他方浙江商人
が四川省に赴いて購入し本省に持ち帰る場合があった︒この際の大
黄搬出の販路は︑鎮江から蘇州を経てもたらされた場合は︑おそら
く四川より長江の水運を利用して鎮江まで輸送され︑鎮江から蘇州
を経て杭州までは江南河︑運河を利用していたと考えられる︒康熙
﹃蘇州府志﹄巻二十一︑風俗によれば﹁南濠之魚・塩・薬材﹂と蘇
州の南濠が薬剤の集荷地として知られていた︒
他方︑江西省を経由して常山・玉山を経過する販路があった︒先の
⑬ 移文に︑﹁由江西︑過常・玉山而来︒﹂とあるように︑また︑同書に︑
⑭ ﹁至闘省需用大黄︑如有経由浙省運往者︑大都多従常・玉山行走︒﹂
とあるように︑浙江省や福建省で使用される大黄の販路には江西省
の玉山県と浙江省の常山県を経由して輸送されるルートがあった︒
玉山・常山の交通路としての機能は各地方志に見える︒
同治﹃玉山県志﹄巻三下︑食貨志︑城郷修路建亭附に︑
などとあるように︑ 県治東門外駅路省
通衝
゜
とあり︑同書︑同項に清人梁之儒﹁序略﹂に︑
玉邑接壌常山︑当江浙両省之衝︑仕宦商旅︑絡繹不絶︒
玉山と常山は省は異なるが相接し︑官吏や商人 凡八十里︑邑興浙之常山県︑各轄其半︑為八 ⑫ 過常・玉山而来︑隋時倶有販到︒
四六
会に
︑
清代
大黄
の販
路に
つい
て
とあるように︑浙江省の常山県は江西︑安徽・福建方面から浙江省 邑拠浙上滸、豫章·院•閲入浙、多取道子此。重岡複障、中山勢自闘門戸︑洵浙之要津也︒
ヘ陸路によって入る交通路の要衝であった︒
以上のことから︑江西省の玉山︑浙江省の常山県を経由して大黄
が搬出されていたとするならば︑甘粛省の産出地より漠口を経てさ
らに水運によって長江を下り九江から都陽湖・績江によって後述の
清江県の樟樹鎮へ︑そして樟樹鎮から籟江・信江等を通って玉山県
へ︑同県から陸路で︑浙江省の常山県︑同県から衝江・富春江によ
って杭州へと運ばれたと考えられる︒
以上のような販路が使われ︑時によっては両者が併用されていた
時もあったことが知られる︒
このようにして︑浙江省に搬入された大黄の量であるが︑先の移
毎次所到︑約有一二︑四百斤︑至三︑四千斤不等︒浙省十一府︑府
城均有開設薬行︑各薬舗︑随時転向薬行︑折買毎次均計数目︑不
⑮ 過二︑三十斤︑及四︑五十斤不等︑合共毎年約共舘売六︑七万斤゜
とあるように︑商人によって浙江省にもたらされた大黄は毎回三・四百斤から一―-•四千斤であって、浙江省内全十一府の各府城の各薬
店等で売却される量が二︱︱︱十斤から四︑五十斤で︑一年にすれば の往来が絶えなかった︒
光緒﹃常山県志﹄巻四︑形勝に︑
四七
とあるように︑大黄は薬材として関中地方では一般的に容易に入取 江西省に到着するまでの大黄は中国国内のどこを流通してきたので
あろ
うか
︒
﹃高宗実録﹄巻ニ︱︱八二︑乾隆五十六年(‑七九一︶
七月乙亥︵二日︶条の次の記事が問題解決の手掛りを与えてくれる︒
大黄一項︑拠承買薬材行戸等供称︑各様薬材︑倶由江西樟樹鎮︑
販運来闘錯管︑但江西亦不産大黄︑聞得映西沌陽県為大黄雁集
之所︑転発漠ロ・樟樹等処行銅︒
とある︒福建で販売される大黄に関して︑薬剤をあっかう行戸等の
供述によると︑各種の薬材はみな江西の樟樹鎮からもたらされ︑福
建に運はれ取引されている︒江西省では大黄を産出しない︒調査の
結果︑映西省の痙陽県が大黄の集荷地であり︑そこから膜口や樟樹
鎮等へ販売されている事実が判明した︒
この記事から︑大黄の原産地から各地へ販出される中継地として︑
狭西省の泄陽県や江西省の樟樹鎖︑湖北省の漢口鎮等が重要な取引
地であったことが知られる︒
痙陽県の大黄集荷に関しては宜統﹃泄陽県志﹄巻二︑物産の按語に︑
薬有車前・大黄・薄荷・紫蘇・荊芥之属︵中略︶皆関中常産︑
隋在相同︑故不備録︒
できる物産の︱つであった︒
一九一三年の日本人の調査によれば樫陽県の商況に関して︑
⑯ 甘粛地方との薬材の取引あり︑ 約六︑七万斤ほどになった︒
こ ︑
︑U
̀ 大黄が泄陽県から各地へ阪出されていた経路については︑同奏摺
至映省大黄運往各処︑陸路由滝関税口︑係滝商道経管︒水路由
龍駒楽税口︑係商州経管︒又洸銀一帯間︑有従漢江運赴南省鎗
⑱ 筈者︑則由漢中府経過︒
とある︒映西省に運ばれた大黄が各地に販出される方法に︑陸路で
は滝関を経過して行った︒水路は商州の管轄の龍駒楽の税口を経て
各地に赴き︑漢江の水系で南に運ばれるものは漢口府の管轄を経過
していたことが知られる︒即ち逆陽県に集荷された廿粛省産の大黄
ほ︑水路によって漢中府管轄の漠口鎮に販出していたのである︒ ていたことが知られる︒
道光﹃蘭州府志﹄巻五︑田賦志︑物産に︑ 乾隆﹃廿州府志﹄巻六︑物産︑薬之属に︑
味廿寒︑一名黄良︑出山丹︑有錦紋者最佳︑回夷極切︑
日用若無人畜︑受暑熱之災︒
とあるように︑甘州府では山丹県が大黄の主要産地であり︑錦紋大
黄が最も良質であり︑西北地方では人間も動物もともに重要な薬剤
であったことが知られる︒ 大黄 には各種の記事が見られるので次に列記してみたい︒ ところで甘粛省内における大黄の産出地に関して︑同省の地方志 ていたことが知られる︒ 成しており︑痙陽から水路による大黄の漠口方面への経由地となっ とある︒泄陽県では清代以来︑廿粛方面から販入される大黄の取引が行なわれていたことを示唆している︒
痙陽県が大黄の集荷地であったことは︑
乾隆五十四年(‑七八
九︶六月初六日付の映西巡撫覚羅巴延一︱一の奏摺に見える︒
査映省逆陽県薬行為甘省大黄泄集之所︑各省客商多︑由該処阪
還随吊各行賑簿︑逐加査核︑毎年運赴直隷等省︑及本省行錯
大黄︑自︱︱‑︑四十万触︑至六︑七十万触不等︑而河南一省︑毎
⑰ 年行錆十四︑五万︑至二十六︑七万肋不等為数較多︒
とあり︑泄陽県の薬行が甘粛省産大黄の集荷地であったため各地の
商人が集まって来ていた︒各薬行の帳簿を調べたところ︑毎年直隷
省や映西省等で販売される大黄の量は一︱︱十万触から七十万触に達し 陸路は滝関を経て河南地域に通じた︒これらの経路のうち水路による経過地であった龍駒塞は商州府の管轄に属し︑漠水の支流丹江に隣接する地であった︒
此地は陸路商県及び武関︑商南等に通じ得可く︑又漠水の一支
流洪水︵丹江︶の舟行終点に位するを以て︑陸路秦省に出入す
る貨物は概ね此地に集散し諸種の問屋業を営む店舗大なるもの
十数家あり︑春秋の増水期には民船の出入繁く︑殊に土人の多
くは商業に従事し他事を顧みる者なく︑依に農業に従へるを見
⑲ るも微々として振はず︒
とある︒この報告からも明らかなように︑映西省商州府治下の龍駒
塞は民船によってもたらされる物品の取引による商業の一市鎮を形 一九一五年の日本人の調査によれば︑
四八
清代
大黄
の販
路に
つい
て
民国﹃滓県志﹄巻四︑田賦志︑物産附︑薬類に︑
大黄︑治澄血精︑漿宴結熱水腫゜
とあ
る︒
民国﹃崇信県志﹄巻一︑輿地志︑物産︑薬類に︑
大黄︑一名黄良︑一名将軍︑陶宏量曰︑大黄具色也︒将軍言其
駿快也︒李皐曰推陳致新如裁定禍乱以致太平︑故有将軍之号︒
とあり︑大黄は別名将軍とも呼ばれていた︒
民国﹃永登県志﹄巻一︑地理志︑物産︑薬類に︑
大黄︑秋日採゜
と︑その収獲の時期が秋であったことを伝えている︒
宣統﹃固原州志﹄貢賦志︑物産︑薬類に︑
大黄:⁝・山中野薬甚多︑毎年蜀人採獲゜
とあり︑国原州地域産の大黄は四川人により採集されていたことが
知ら
れる
︒
康熙﹃臨洸府志﹄巻八︑食貨孜下︑物産︑薬品に﹁大黄﹂が記さ
れて
いる
︒
光緒﹃階州匝隷州続志﹄巻十四︑物産にも﹁大黄﹂が見える︒
康熙﹃寧州志﹄巻一︑地理第一︑物産に﹁大黄﹂が見られる︒
康熙﹃眠州志﹄巻二︑輿地上︑物産に﹁大黄﹂が見える︒
道光﹃山丹県志﹄巻九︑食貨︑物産︑薬之属によれば︑ 薬︑則甘草⁝⁝大黄
とあ
る︒
四九
の国内各地で珍重されていたことを記している︒ 味甘寒︑一名黄良︑出山丹︑有錦紋者最佳︑回夷極切︑
日用若無人畜︑受暑熱之災︒
とあり︑先述の﹃甘州府志﹄の記載とほぽ一記している︒
乾隆﹃荘浪県志﹄巻十一︑物産︑薬属に︑﹁大黄﹂が見える︒
乾隆﹃正寧県志﹄巻四︑地理志︑物産︑薬属に﹁大黄﹂が見える︒
嘉慶﹃華亭県志﹄田賦志︑物産に︑
蒟丸
一百
五十
一︳
一種
︑貴
者鹿
葺⁝
⁝次
則龍
骨⁝
・・
・大
黄⁝
⁝
とあり︑華亭県で産出する薬剤二竺︱一種の︱つに大黄もあった︒
以上のように︑甘粛省の各地で大黄が収獲されていたと考えて良
いであろう︒これらの大黄は地理的関係から映西省の泄陽県に集荷
されたか︑﹃固原州志﹄に見られるように︑四川人によって収獲さ
れ四川方面にもたらされていたと考えられる︒
四川産の大黄についてほ嘉慶重修﹃四川通志﹄巻七五︑食貨︑物
産には次のようにある︒
大黄︑蜀大山中多有之︑尤為東方所貴︑苗根皆長盈二尺︑本草
言之尤詳︑薬市所見︑大者治之為枕︑紫地錦文︑唐人以為産
蜀者︑性和厚沈深︑可以治病︑形似牛舌堅緻者善︑蜀生薬尚
多︑如巴之豆峡之椒梓之厚朴︑尚数十輩︑贅曰葉大茎青根︑
若巨皿︑治疾則多方家所賂゜
とあ
り︑
四川産出の大黄の特色と中国西部に位置する四川より東部
四川省内の大黄の産地について﹃四川通志﹄巻七十四︑食貨︑物 大黄
産に
見え
る︒
順 慶 府 大 黄 果 州 産
︒ 龍安府大黄府治及各県倶出︒
濾 州 直 隷 州 大 黄 濾 州 産
︒ 松 潅 直 隷 庁 大 黄 当 州 産
︒
の四府州が知られ︑特に龍安府治下の各県が多量に産出した地であ
っ た
そして四川の中でも濾州附郭の慮県は薬材の一大集散地であった︒ ︒
民国﹃濾県志﹄巻三︑食貨志︑商業に︑次のようにある︒
薬材甘草・麻黄・当帰・黄苓等曰西薬︑自映・甘運来︒貢乖•砂仁・安桂・広皮等曰広薬、自長江運来。光条、棗仁、地
黄︑知母等日淮薬︑自河南運来︒査肉草・果雲・苓穿・山甲等
自雲南運来︒本省所産︑有莞活・赤芍・瀦苓・木香等品類尤繁゜
批発者日薬行︒零筈者日咀片︒薬行惟城内有之︒咀片之店︑到
処皆
是︒
濾県の城内には映西・甘粛方面から︑長江によって運ばれて来る薬
剤や河南方面や雲南出産のもの︑さらに四川産の薬剤が集荷されて
いたため︑それらの薬剤を専門に扱い卸売する問屋たる薬行があっ
た︒そして各地にある小売店は咀片と呼ばれていた︒
濾県の特色は︑同書︑商業に︑
本県︑除農産物及猪毛・羊皮外︑無大宗輸出之商品︑輸入則有
疋頭・花紗・雑貨・薬材・木材等・塩・糖︑皆非本地出産︑但 運輸必由此地︒於商業中︑甚占重要位置也︒
とあるように︑同地の特産品は少ないが︑同地に集荷される物資は
多く︑それも長江や泥江の大河に隣接する水運の便によったもので
あり︑その意味でも少量で商品価値の高い薬剤は重要な取引品であ
ったと言えるであろう︒同書には大黄の記載は無いが︑取引数量の
多い薬剤の︱つであったと考えられる︒
それでは︑先に﹃高宗実録﹄に見えた江西省の樟梅鎮における大
黄の集荷の状況は如何にあったであろうか︒
樟樹鎮は明代後期において各地の薬剤が集荷されていた地として
知られる︒王士性の﹃広志繹﹄巻四︑江南諸省に︑
樟樹鎮在豊城︑清江之間︑姻火数万家︑江︑広百貨往来興南北
薬材所棗︑足称雄鎮゜
とある︒江西︑湖広の諸物が集荷されていただけでなく︑各地の薬
剤が集まる地として知られていた︒
同治﹃清江県志﹄巻二︑市鎮︑樟樹鎮にも︑
在城東北︱︱‑+里︑哀・績二水合流饒鎮︑而北控翼・清江下沸︑
故別称清江鎮︒周遭十里許︑水陸交衝︑商賣雲集︑為南北川広︑
薬物所総瀧︒輿呉城・景徳・河口称江西四大鎮゜
とある︒樟栂鎮は績江をはじめとする水系に隣接する地理的状況に
あって︑上流に清江があることから清江鎮とも別称されている︒こ
の樟樹鎮には四川を初めとする各地の薬剤が集荷され︑江西省内で
も景徳鎮等とともに四大鎮の一つに数えられた巨大鎮であった︒
五〇
清代
大黄
の販
路に
つい
て
以上のことから明らかなように︑江西の樟樹鎮は四川方面から大
黄をはじめとする薬剤が集荷されていた市鎮であったことは歴然で
あろう︒即ち﹃清実録﹄に記されるように︑江西の樟栂鎮は大黄の
浙江︑福建︑広東省等地へ販出される中継地点の役割を担っていた
と言えるであろう︒
乾隆五十四年︵一七八九︶四月初四日付の閻浙総督伍拉納と福建
巡撫徐嗣曽との共同の奏摺によれば︑大黄のロシアヘの輸出禁止に
よって︑福建の薬行即ち薬店等を調査している︒
伝薬行・経紀詢問︑知大黄産於映西︑緊於湖北漢口︑向来多係
⑳ 江西客人︑由楚販来福建省城及流・泉等郡発売錯管︒
とあり︑薬行・経紀等を調査した結果︑大黄ほ映西に産出し︑湖北
省の漢口鎮に集荷されそれを江西商人が湖北より福建省城のある福
州や障州府・泉州府方面へもたらし販売していたことが知られる︒
江西樟樹鎮の名は見られないが︑江西商人が福建方面への大黄販売
の業務を掌握していたと考えられるから︑樟樹鎮も大黄の福建販出
に重要な役割を担っていたと言えるであろう︒
大黄の中継市場として上記の檻案等にもしばしば名の知られる漢
口であるが︑道光二年(‑八二二︶の苑錮の﹃漢口叢談﹄巻二に︑
漢口自明以来久為巨鎮︑坊巷街衝︑紛岐莫絵︒
とあるように︑明代以来の巨大市場であった︒
同書
巻三
にも
︑
漢口鎮在郡城南岸︑西則居仁︑由義︑東則循礼・大智四坊︑屋
五
含櫛比︑民事貨殖︑蓋地当天下之中︑貿遷有無︑互相交易︑故
四方商賣︑輻較子斯︒︵中略︶弘治以後︑汚水子郭師口真沖入
江︑而漢口遂有泊船之所︑及市列漸盛突︒弦漢鎮人姻数十里︑
質戸数千家︑嵯商・典庫︑咸数十処︑千楠万舶之所帰︑貨宝奇
珍之所棗︑洵為九州名鎮゜
とあるように︑漢口鎮は長江︑漢水等の水系によって来航する帆船
で繁栄し︑数十里の間に商家が千家もあると言われるにぎわいを呈
⑳ した巨大市鎮であった︒
漢口が商品流通上における大市鎮であったが︑その中でも取扱い
商品の最も多いものに薬剤があったことが知られる︒
﹃皇朝経世文編﹄巻四十︑戸政︑倉儲下所収の乾隆十年︵一七四
五︶作の晏斯盛の﹁請設商社疏﹂中に︑
如楚北漢ロ一鎮︑尤通省市価之所視為消長︑而人心之所因為動
静也︒戸口ニ十余万︑五方雑処︑百芸倶全︑人類不一︑日消米
穀︑不下数千︑所幸地当孔道︑雲貴川映毒西湖南︑処処相通︑
本省湖河︑帆楠相属︑糧食之行︑不舎昼夜︒
とあり︑漢口鎮には雲南・貴州・四川・映西・広西・湖南方面から
物資が集荷されていた︒とりわけ重要品が次のものであった︒同書
こ ︑
"
査該︵漠口︶鎮塩・当・米・木・花布・薬材六行最大︑各省会
館亦多︑商有商総︑客有客長︑皆能経理各行各省之事︒
とあるように︑塩・当・米・木・花布・薬材の六行が最大のもので
花布と薬剤の五品を扱う商人が同地の商品流通を掌握する地位にあ
このごどがら︑漠口鎖ば大黄をはじめとする薬剤が扱かわれる商
大黄が陸路によって長城外に阪出されていたことは﹃高宗実録﹄
巻ニ
︱
1
一七︑乾隆五十四年(‑七八九︶四月壬子︵二十六日︶の条1
に見
える
︒
本日閏正祥等奏︑拠古北口防守尉達孟阿等稟報︑到関薬車三輛︑
捜出大黄一百四十九触︑将販売薬料之王礼謙・劉克仁︑委派弁
兵︑押送刑部厳審等語︒大黄一種︑不特内地民人︑用資療疾︑
即口外地方︑如熱河八溝等処︑人煽輻較︑亦典内地無異︑若査
禁過厳︑致商阪裏足不前︑於民問亦多未便︑此次在古北口盤獲
之王礼謙等︑所有販運大黄︑尚在未定章程飾禁之前︑且為数無
多︑著即従寛釈放︑不必解交刑部︒
とある︒窟隷省北部の長城外と関内を結ぶ古北口で薬剤を精載した
車輛が取り調べを受けた︒その積荷中から大黄一四九肋が発見され
たのである︒販売人の王礼謙と劉克仁が刑部に送られ厳しく取り調
ベを受けることになった︒大黄ほ口外の熱河や八溝等の地でも人口
が多いため治療用として必要であるため︑厳禁にすれば中国国内の
人々にも不便となり︑その上阪売人の王と劉とは大黄の禁令が出る
前に取引を扱っていたこともあり︑その数量も少量であることから 業的環境にあったことは明らかであろう︒ っ
たと
言え
る●
;
あった︒金融業としての典当を除き︑漢口鎖では塩・米・木材・棉
黄を売却する前に官憲により挙捕されたのである︒ 釈放されたのであった︒この事件により︑大黄が陸運によって長城以北の地へも販出されていたことが判明する︒
この他︑西北地域へ大黄を販出して捕獲された商人等に関する事
件が乾隆五十四年︵一七八九︶四月二十九日付の映甘総督勒保の奏
⑫
摺に
見え
る︒
映西省西寧県︵現・青海省西寧︶の回民である李生貴は以前より
雑貨を阪売していた︒彼は乾隆五十二年(‑七八七︶十二月間に知
り合いである回民の馬有徳と伴に雑貨を販売し烏噌木斉に赴き︑同
地の哀法宗の店に宿泊した︒同五十三年(‑七八八︶六月︑李生貴
等はもたらした雑貨を完売することは出来たものの利益を生み出す
ことができなかった︒この時︑茶葉・木碗・大黄等の貨物をさらに
西の南路地域に往って販売すれば利益が得られることを聞きつけ︑
哀法宗の紹介で張舒綸の店にいた客民宋世烈から大黄ニニ七五斤を
一斤に付き銀六分で買い取った︒李生貴らはその大黄や茶葉や木碗
等の品をもって阿克藉に行って売却したが完売出来ず︑残りの大黄
等を恰万金等の舵隻を雇い運んで喀什喝爾へ行ったのであるが︑大
さらに玉素普はもともとは安集彦の回子で庫車に永く居住してい
たが︑烏噌木斉等で雑貨を販売していた︒乾隆五十一ー一年︵一七八八︶
玉素普は托胡逹とともに庫車で皮張を購入し烏噌木斉の義
三月
間︑
盛魁号商店に輸送して売却し︑大黄ニ︱六
0
斤と交換した︒一斤につき四分五漿であった︒それを阿克萩に運び︑安集彦の回子伯爾提
五
清代
大黄
の阪
路に
つい
て
木拉特という人物に一斤につき普兒銭十文で売却したのであった︒
この他︑賽里木の回子の邁瑯第敏も大黄を販売していたことなど
が知
られ
る︒
これら大黄販売人はいずれもロシアに大黄を密売転売するとの疑
義をかけられた者達であった︒この一連の事件から︑大黄が西北地
域に阪出されていた経路として次のように考えられる︒
喀什喝爾︵カシガル︶
この間約八百キロに達している︒西寧の李生貴にとって二千キロに
近い距離になる︒
西北地域では新彊省のウルムチが大黄販出の一拠点になっていた
と考えられるであろう︒
大黄の販路に関して︑さらに長江河口の状況が知られる︒乾隆五
十四年︵一七八九︶九月初十日付の両江総督書麟︑江蘇巡撫閃鶉元
の奏
摺に
よれ
ば︑
査崇明一県︑孤懸海渡︑商販往来︑均従鎮洋之濁河鎮対渡︑所
⑳ 有崇明県応買大黄︑応止准其在潤河鎮︑買廻応用︒
とあり︑長江河口の崇明県︑崇明島における大黄の商販については
対岸の鎮洋県の測河鎮よりもたらされることになったが︑これが崇
明島に物資が渡る主要販路であると伴に︑大黄もそのルートによっ
て崇明島にもたらされていたことが知られる︒
台湾や海南島の場合については︑乾隆五十四年︵一七八九︶十月 烏魯木斉︵ウルムチ︶←庫車︵クチャ︶←阿克蘇︵アコス︶←
湾へもたらすことは厳禁されている︒
五
二十五日付の戸部の移文に︑
⑳ 総督伍拉納奏︑福建台湾一府︑毎年官買大黄五百斤︑酌発各舗︒
とあり︑台湾については一年に大黄五百斤の販売を許可している︒
乾隆五十四年(‑七八九︶四月初四日付浙拉総督伍檄納︑福建巡
撫徐嗣曽の奏摺には︑
臣等酌議︑毎年余興泉道官買五百斤︑帯交台湾鎮道︑公同収存︑
⑮ 配発各舗︑徹価領筈︑其各処赴台船隻︑一概禁止買帯︒
とあるように︑興化・泉州府を管轄する興泉道官が購入し台湾へも
たらし各薬材店に配給販売する方法を取り︑各地の商船が個々に台
海南島の場合は︑先の移文に︑
合計広東通省︑如広・肇・恵・潮・南・紹︑高・廉・雷九府︑
嘉応︑連州︑羅定一=直隷州︑倶係内地︑応聴商民︑照常阪運︑
募庸発給官票︑致滋紛擾︑其瑣州一府︑孤懸海外︑該府所属︑多係緊接外洋、応照台湾之例、准商民等由省城•仏山、毎年阪
⑳ 売五百斤︑前往管売︒
とあり︑広東省の広州・肇州・恵州・潮州・南雄・紹州・高州・廉
州・雷州及び嘉応州・連州・羅定の計十一州は陸続であるため︑商
人の販売が出来るが︑海南島の瑣州府のみが海上にあるため︑台湾
の例にならって商人が広東省城のある広州や仏山鎮で毎年五百斤の
みの販売を許し︑変州にもたらすことを許すとするものであった︒このことから、広東省では広州•仏山が大黄の省内での中継地と
なり、広東省内の各地に阪売されていたことが知られる。甘粛•四
川産の大黄が江西の樟樹鎮を経て広東省の広州・仏山に運ばれ広東
の甘粛省や四川省から︑主に映西省の痙陽県や湖北省の漠口鎮や江
西省の樟街鎮に集荷され︑中国国内各地に販出されていた︒その状
このような図式を証明する一例として︑日本の長崎へ来航した中
国商人の記した﹁書翰﹂の一部を紹介したい︒
⑰
⑳
江戸時代の中後期に長崎へ来航していた宋敬亭が商人仲間の陳某
に記した書状で︑その中で彼は︑
粗貨薬材産干川映各処︑総由広湖而来︒又困湖南・湖北作乱︑
商客難通︑亦属倍増之苦︑此番批価︑仰懇会所掛酌・弁理︑各
⑳ 貨暫行加価︑将来侯平和之日︑偲行旧例也︒
と記している︒薬剤は四川や映西の各地に産し︑すべて湖広方面よ
⑳ りもたらされる︒ところが︑湖南・湖北で反乱が起ったためその販
路が止絶し流通しなくなった︒そして価格が高騰し︑長崎での価格
にも影響を及ぼしていたことが知られる︒宋敬亭は薬剤高騰の状況
を述べ︑長崎会所に理解を求めたのであった︒
この一例からも明らかなように︑甘粛・四川方面で産出した大黄 況を図式すれば下図のようになるであろう︒ 上述のように︑清代において世界に輸出されていた大黄は原産地
清代大黄の阪路概略図
四
︑ 小
結
カシュガル⇔アクス⇔クチャ⇔ウルムチ←甘粛 口外(熱河)
I
1‑0, iJ
↓ 鴫 囀 関 → 河 南 → 直 隷
⇒
古北口四川
‑ 0 ‑
龍駒寒
I
‑ 0 ‑
→ 漠 口
‑ 0 ‑
(九江)
↓ ,/ "' 南安←―---—_一—-一控担塾 鎮江
‑ 0 ‑ ‑ 0 ‑ ‑ 0 ‑
南雄 一玉山 蘇州→劉河鎮⇔崇明
‑ 0 ‑ - 0 - ~
↓仏山・広州 常山
⇒
杭州→乍浦→日本』
⑳海南島」 ノ ャ ム 洋 南 : 1 湾!~球
‑ 0 ‑ :
確認阪路〔注記〕
省内に販出していたと考えて良いであろう︒
↓ :推定販路
ので
ある
︒
↓ :海外阪路
は上述した阪路を経て中国各地のみならず海外諸国に搬出していた
五四
清代大黄の販路について 註①羽田明氏﹁大黄の七レソガ地方原産説について﹂︵﹃和田博士環暦記
念東洋史論叢︑一九五一年︑十一月︑羽田氏﹃中央アジア史研究﹄臨川
書店︑一九八二年六月︶︒羽田明氏﹁大黄劉記﹂︵﹃第十二回杏雨書屋特
別展示会﹄冊紙︑一九八一ー一年十月︶両書については関西大学社会学部宮
下三郎教授一の御教示による︒記して謝意を表したい︒
②矢沢利彦氏編訳﹃中国の医学と技術ーイモスス会士書簡集ー﹄︵平凡
社︑東洋文庫
l O I
︑一九七七年一月︶一八頁︒
③ 同 書
︑ 八
六1
八七
頁︒
④文化十二年︵嘉慶二
0
︑一八一五︶より安政四年︵咸豊七︑一八五七︶に及ぶ近江商人の記録によれば﹁唐船舶来品﹂として輸入された大
黄は﹁年二参万七千斤﹂︵中川泉三氏﹁長崎貿易品と近江商人︑研究す
べき阿片の売買﹂︵﹃経済史研究﹄十二巻五号通巻六十一号︑一九三四年
十一月︑五三頁︶の多量であった︒
永積洋子氏編﹃唐船輸出入品数量一覧一六一二七l
一八
一︱
︱︱
︱一
年﹄
︵創
文
社︑一九八七年1
一 月 ︶ ︒
日本国内における輸入中国薬剤に関しては今井修平氏﹁江戸中期にお
ける唐薬種の流通構造ー幕藩制的流通構造の一典型としてー﹂︵﹃日本史
研究﹄一六九号︑一九七六年九月︶がある︒
⑤宮田俊彦氏﹁清朝の薬種大黄の露西亜への流出ーニ集歴代宝案に見え
る恰克図条約と清露関係の一面ー﹂︵﹃茨城大学人文科学部文学科論集﹄
第三
号︑
一九
六九
年十
二月
︶︒
宮田氏﹃琉球・清国交易史﹄︵第一書房︑一九八四年四月︶︒
⑥吉田金一氏﹁ロシアと清の貿易について﹂︵﹃東洋学報﹄第四十五巻四
号︑
一九
六三
年三
月︶
︒
吉田氏﹁キャフク条約の北京貿易に関する条項について﹂︵﹃鈴木俊教
授還暦記念東洋史論叢﹄一九六四年十月︶︒
吉田氏﹃近代露清関係史﹄︵近藤出版社︑一九七四年十月︶︒
五五
︵﹃
歴史
椙案
﹄
麗永
慶・
宿豊
林両
氏﹁
乾隆
年間
恰克
図貿
易一
ー一
次閉
関癖
析﹂
一九
八七
年九
三期
︶︒
⑦﹃明清史料﹄庚編第八本︑七四六丁裏゜
⑧﹃宮中楷乾隆朝奏摺﹄第七一輯︵台北︑国立故宮博物院印行︑一九八
八年
三月
︶︑
一︱
‑ 0
四l ‑
︱
1 0
五頁
︒
⑨﹃明清史料﹄庚編第八本︑七四六丁裏i
七四
七丁
表︒
⑩⑪同書︑七四七丁表︒
⑫⑬﹃明清史料﹄庚編第八本︑七四五丁裏゜
⑭同書︑七四六丁表︒
⑮同書︑七四五丁裏゜
⑯﹃支那省別全誌第七巻︑映西省﹄︵東亜同文会︑一九一八年二月︶五
二頁
︒
⑰﹃宮中椙乾隆朝奏摺﹄第七1一輯︵台北︑国立故宮博物院印行︑一九八
八年
四月
︶︑
四一
︳一
八頁
︒
⑱同書︑四三八頁︒
⑲﹃支那省別全誌第七巻︑映西省﹄六九ー七
0
頁 ︒
⑳﹃宮中福乾隆朝奏摺﹄第七一輯︑五九八頁︒
⑳松浦章﹁清代漢口の民船業について﹂︵﹃海事史研究﹄第四十五号︑
一九
八八
年五
月︶
︒
@﹃宮中福乾隆朝奏摺﹄第七一輯︑七七八l
七八
0頁 ︒
この件に関する福案に中国第一歴史樵案館﹁乾隆五十四年中俄貿易史
料選訳﹂︵﹃歴史樅案﹄一九八七年第三期︵八月︶がある︒
⑳﹃宮中福乾隆朝奏摺﹄第七三輯︵台北︑国立故宮博物院印行︑一九八
八年
五月
︶︑
三九
六頁
︒
⑳﹃明清史料﹄庚編第八本︑七四七丁表︒
⑮﹃宮中樅乾隆朝奏摺﹄第七一輯︑五九九頁︒
⑳﹃明清史料﹄庚編第八本︑七四七丁表︒
⑰宋敬亭の長崎来航時期は長崎市立博物館所蔵の﹁販銀額配銅之数﹂文
書によって︑天明七︑八︑寛政四︑六各年︵乾隆五二︑五三︑五七︑五
九︑一七八七︑一七八八︑一七九二︑一七九四︶が知られる︵長崎市立
博物館﹃資料目録﹄(‑九六八年六月︶九四1
九五
頁︶
︒
⑳陳某とほ陳晴山か陳養山かと考えられる︵前掲長崎市立博物館﹃資料
目録﹄九四︑九五頁による︶︒
⑳長崎県立図書館所蔵﹁清人書状﹂︵渡辺文庫ニニー五六四︶所収の文
書による︒﹁清人書状﹂の存在は劉序楓氏︵現在︑西南学院大学講師︶
の教示により知り得た︒記して謝意を表する次第である︒®嘉慶元年から同十年(一七九六ー一八0四)にかけ湖北•四川・映
西・河南・甘粛等省の地域を中心に白蓮教の乱が起こる︵鈴木中正氏
﹃清朝中期史研究﹄愛知大学国際問題研究所︑一九五二年二月︶が︑こ
のことを指しているのか︑宋敬亭の来航時期から考え本稿で触れた乾隆
五十四年︵一七八九︶の清朝の対ロツア大黄輸出禁令の余波が対日輸出
にも及び︑宋敬亭はその理由を明白に出来ず﹁作乱﹂と記したのかは現
在確認できない︒
永積氏前掲書﹃唐船輸出入品数盤一覧﹄によれば︑清朝の対ロツア大黄
輸出禁令の出された乾隆五十四年︵一七八九︶正月前後の長崎来航中国
船の大黄舶載の確認できる船は︑﹁薬種﹂として一括された船が幾船か
あるが︑天明七年︵一七八七︶六番船﹁八五五四斤﹂︵一九五頁︶以降
止絶え︑一七九三年一月十一日に来航した寛政四年度の四番船﹁大黄五
五九一斤﹂︵二0一頁︶まで五年余の空白があることから︑清の政策の
余波が日本にまで波及したと見てよいであろう︒宋敬亭の書状は正にこ
の時期のものと考えられる︒
R十八世紀以降︑浙江省平湖県乍浦鎮が対日貿易の基地となった︵松浦
章﹁乍浦の日本商問屋について1日清貿易における牙行ー﹂︵﹃日本歴
史﹄第三0
五号
︑一
九七
三年
十月
︶︶
︒
五六