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清代大運河の航運について

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清代大運河の航運について

その他のタイトル The Transportation of the Great Canal in the Qing Dynasty

著者 松浦 章

雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要

巻 34

ページ 23‑37

発行年 2001‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/16195

(2)

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ず︒句や︒00︐口Dqb巳■8国?9TdB●OB︲I▲■■F1..0●△■︲心・郷い嘘奴附沖唾刈鰄哩嘩斯叫︐蓋騨恥聯循に岬僻み那沸嗽撫・が鍜髄i恥鵬 清代中国の国内流通を考える際︑北京から湘江省の杭州を結ぶ水運の要である大運河を利用した水運を無視することは出来ない︒このような清代の大運河の機能を端的に述べているのが︑乾隆三十二年︵一七六七︶五月二十一日付けの両江総督高晋︑江蘇巡撫明徳の奏摺である︒同奏摺に︑

凡京城所需南貨︑全頼江南漕船帯運︑而江南所需北貨︑亦頼漕

︵1︶船帯回︑若漕船全停︑不惟南北貨物︑不能流通︒

とあるように︑北京で消費される南方の産品は全て江南からの漕船

によって輸送されており︑他方北方の産品も全て漕船が北から南に

四三二一

緒言

大運河航行の漕船

大運河航行の帆船

小結

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▲1■0■■9も

清代大運河の航運について

清代大運河の航運について

1b■才︐︒

ら65凸■P日ずい58日︒0︒■甲︲DPqも

緒 言

1吋︒︲jnj▽①虹 lh 11

I

eLD●lも9凡刷ⅣI 持ち帰られるものであるとされていた︒漕船が停止すれば︑南北の物資が流通しないとまで見られていたのである︒

大運河は南北間の流通の重要な幹線水路であったことは︑二十世

紀の前半においても同様であった︒そのことは︑一九二一年︵大正

一○年︶七月の東亜同文書院の調査による大運河に関する報告の中

にも見られる︒

大運河ハ直隷省ノ通州ヨリ始マリ︑東二向カヒテ天津ヲ過ギ南

下シテ山東省二入り︑臨清︑東昌ノ諸縣ヲ過ギテ黄河ヲ横断シ︑

東南二向カヒテ江蘇省二入り︑再ピ東南二向カヒ宿遷︑泗陽ノ

諸縣ヲ過ギテ清江浦二至り︑此ノ地ヨリ南二直下シテ揚州ヲ経︑

揚子江ヲ横断シテ鎮江二至ル︒是ヨリハ江南運河トナリ蘇州︑

杭州ヲ経テ東行シ寧波二至ル︒全長三︑六○○支里︒哩ニテハ

ー︑二○○哩︒古来︑南北支那ヲ連結スル重要ナル交通路ニシ

テ︑支那ノ政治上︑又︑文化上︑経済上二至大ノ価値ト関連ヲ

︵2︶有シオルモノナリ︒

松浦

一一一一一

(3)

一・ ‐ ・ ・ 一一一一一一一一一一

と︑北京近郊の通州より天津︑山東省︑江蘇省︑漸江省に至る大運

河の河道の概略を記し︑しかも大運河の機能が単に輸送機能︑流通

機能︑交通機能に止まらず政治文化の面においても多大の影響を及

ぼしているとされた︒

この大運河たる原義に関しては︑一九一六年︵大正五年︶の報告

において︑

運河トハ普通︑運輸ヲ通ズル水道ノ義ニシテ︑通州︑天津ョリ

江蘇二至ル水道ヲ特二大運河ト称ス︒元・明・清ノ間︑南方ノ

米ヲ北京二輸送スルニ用ヒシタメ運糧河或ヒハ漕運河卜名ヅヶ︑

︵3︶コレヲ略シテ運河卜云フナリ︒

と明確に定義されている︒

︵4︶従来大運河に関する研究は漕運の制度的面から考察されてきたが︑

本稿では桜案資料に依拠して清代の漕運がどのように行われてきた

かを特に航運史の視点から実態的状況を中心に考察したい︒

大運河を航行する漕船には様々な規制があったことは雍正年間ま

︵5︶︵6︶

での記述による﹃漕運全書﹄や嘉慶年間編纂の﹃欽定漕運全書﹄な

どからも知られる︒

﹃漕運全書﹄巻十一︑沿途催運には︑

︵7︶各省漕船重運北上︑自准安至天津沿途︑原有定限︒︵下略︶

とあり︑また﹃欽定漕運全書﹄巻十三︑准通例限にも︑

二大運河航行の漕船

漕糧抵通定限︑山東・河南限三月初一日︑至通江北限四月初

︵8︶一日︒

などと基本的規定を記すのみで︑各運河における具体的航行日数に

関しては記述していない︒しかし︑大運河における漕船の航行に関

して具体的日数が記された資料が知られる︒それは漸江省図書館古

︵9︶︵皿︶

籍部に所蔵される清代の抄本である﹃運河紀略﹄である︒同書には

江蘇省の准安より北京に近い通州に至るまでの大運河の航行の運航

期限が記されている︒そこで同書に見える記述を以下引用してみた

い︒

漕船程途限期

江南山陽縣境内運河一百一里限八日

清河縣黄運河四十八里限五日

桃源縣運河九十五里限五日

宿遷縣運河一百五十里限八日

郡州運河一百二十里限四日

以上江南河道共五一百十八里限三十日

山東鐸縣運河一百一十里限四日

滕縣運河五十里限二日

浦縣運河四十八里限一日

魚台縣運河八十五里限二日

済寧州運河七十五里限三日半

済寧衛運河十八里限一日 糊調伺削刈側刈・叫淵︐刈刈州1判i刈州叫測側︲︲測舩︲鮴.!H!山991口︒︒●▼FJ6lIf︒︲P︲守joI4■P曲■︲990腫翻ぃ〆獣︑郷侭献蝉納鼠朧守隆譲馴砿〃臓曝撫職r騨隣職慰艤鞠彫壕燃脚關牒群.箇静獅詐#厚丸

§

α

(4)
(5)

銀野縣運河二十五里限一日

嘉祥縣運河十六里限一日

汝上縣運河五十六里半限二日

東平州運河六十里限二日

壽張縣運河二十里限一日

東河縣運河十三里十三里限一日

陽穀縣運河六十里限二日

卿城縣運河六十三里半限二日半

唐邑縣運河十七里半限半日

博平縣運河十七里半限半日

清平縣運河三十九里限一日

臨清州運河四十里限三日

清河縣運河二十里限半日

夏津縣運河二十里限半日

武城縣運河一百五十里限二日

恩縣運河七十里限一日半

徳州衛運河二百三十里限四日

以上東省河道共一千三百零二里限四十里

直隷安陵汎河程六十四里限一日六刻

連鎮汎河程三十里限五時

夏口汎河程五十六里限七時六刻

酵河湾河程六十二里限一日四刻

2画■■画■pB■BBB肢Ⅸ四冊面■■■■且因邸匪田■■■B隅■酢I 薦家口河程十七里限二時三刻碑河汎河程三十七里限五時一刻槍州汎河程五十里限四時七刻興済汎河程三十里限四時一刻青縣河程三十八里限五時二刻馬廠汎河程二十七里限三時六刻唐家屯汎河程二十八里限三時七刻陳家屯汎河程二十八里限三時七刻存城汎河程二十九里限四時濱流汎河程二十八里限三時七刻楊楊青汎河程二十八里限三時七刻北斜汎河程二十八里限三時七刻北斜汎至天津関二十里二時六刻

以上直隷河道共五百七十八里限十日

天津関至河西務一百六十里限五日

河西務至木廠二十二里限一日

木廠至梗子上三十里限一日

梗子至板會口三十里限一日限一日期

板會口至和合姑三十里限一日

和合姑至供給店三十里限一日

供給店至長店三十里限一日

長店至通州三十里限一日

座9日酢且■■医圃■配■■一■■日u且邸回日圏圃田酔師圃殴酎固B〃し2町別圃鴎瞬醜別巴ロロロ■回口1日■口日DBH日日BBD︐﹄針昏B■EBU昼耐■口膨映睡■吐臥BEW山口帥2051仏4腰酎圃剛鴎田圃圃邸画Ⅸ圃鴎醐酎園田世酔齢国璽酎畷酎畷郵皿昨酔唖 一一一ハ

(6)

以上河程三百六十二里限十二日

自准起至通州二千七百六十里限一百日

とあり︑漕船の航行日数が以上のように規定されていた︒

﹃運河紀略﹄が江南河道とする江蘇省准安府治下の山陽縣下より江

蘇省北部の徐州府治下の郵州までの運河が五一八里で三○日︑山東

省内の運河が一三○二里で四○日︑直隷省内の運河が五七八里で一

○日︑天津から通州までが三六二里で一二日となる︒江南の准安府

治下の山陽縣から通州まで二七六○里を一○○日の日数で航行する

必要があった︒平均すれば一日二七・六里の行程となるが︑江南河

道が五一八里を三○日で航行すると平均一七・三里︑山東省運河が

一三○二里を四○日で航行すると平均三二・六里︑直隷省内が五七

八里を一○日であると︑五七・八里︒天津から通州は三六二里を一

二日であると三○・二里と各運河の状況によって航行日数に差があ

ったことが判る︒

他方︑漕米を荷卸しして帰帆するに要する日数については︑﹃運河

紀略﹄には︑

回空限期自石填至天津限七日天津至徳州限十二日

徳州至嵯縣限三十日七時嵯縣至准安府限十四日六時

以上回空定限六十四日一時

とある︒漕船が南方より通州まで漕米を輸送し︑その後空船で通州

より准安まで南下帰帆する際は同じ行程を六十四日で航行すること

清代大運河の航運について になっていた︒二七六○里を六四日で航行するとすると平均一日四三里の航行距離となる︒漕米を積載した場合の平均一日二七・六里に対して約一・六倍ほどのスピードアップとなる︒積載貨物がある場合と無い場合の差が如実に判る︒

﹃運河紀略﹄には准安府以南の漕運日数に関しては記していない︒

しかし﹁漸江省至北京通州水程﹂の項があり︑杭州から北京までの

水程が逐次記録されているが︑その内︑杭州より准安までの主要地

間の水程のみを列記してみることにする︒

斯江杭州府仁和縣武林駅至石門縣一四○里︒

石門縣至嘉興府九十九里

嘉興府嘉興縣西水駅至平鎮六十里

平望鎮至呉江縣五十里

呉江縣松陵駅至蘇州府五十里

蘇州府姑蘇駅至無錫縣九十里

無錫縣錫山駅至常州府九十里

常州府武進縣昆陵駅至丹陽縣一百里

丹陽縣雲陽駅至鎮江府九十里

鎮江府丹徒縣京口駅至瓜洲口十六里

江都縣瓜洲口至甘泉縣五台山五十二里

甘泉縣廣陵駅五台山至部伯鎮四十里

那伯鎮至高郵州通湖七十一里

高郵州孟城駅至界首鎮六十里

(7)

ー−

111

清代漕運船隻数表(表一)

勾閣題本、 (『中国古代社会 径済史資料』、第一輯、

雇建人民出版社、1985年9 月) 194頁。

督漕疏草巻一、九丁(『四葺 全書存目叢書』史部68慨

IR百̲)

3471 111自治4 J70

3891厨煕28年4梶 4{)9Z

隻(進 酒・激 姶)

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26

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宥四省 7119隻 重漕沿 7600#

ラ700弁

雍正朝漢文殊批奏摺彙編 31‑521〜522頁

雍正漢文朱繍1−59頭 宮中桧雍正朝奏摺第2輯 593頁

宮中桧雍正朝奏摺第4輯 405頁

宮中桧雍正朝奏摺第5輯 782頁

雍正朝漢文殊批奏摺彙編 15‑539〜450頁 9‑0086 9‑0168 9‑0195 9‑0337 9−0391 9‑0615 9‑0751 9‑0894 9‑1026

明清臘案A113‑10 9‑1433

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明清桧案A121‑58 9‑1738

9‑1905 9‑2024 )60余隻(過南田

26

5 1雍正4年3月20E 100#

II|︲ 隻隻隻篭 90801020 1614

堆止 26

乾陸

誇隙 ヨ20日

弓22日 弓24日 弓初4日 弓21日 弓17日 弓24日 弓22日 日初1E 38

38 39 40 41 42 42 43 43 43 44 45 46

3456778 隆隆隆隆隆隆降 乾乾乾乾乾乾鉄

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﹃﹄向同U4川

5856貝

4550隻 4212隻 3673隻 3687隻 3610隻 4752隻 5648隻

匡000住

固巳日 4ヨ36

乾隆 乾隆 乾階

誇醗

4︽弓Fb4年俸︑﹄1

西暦 中国暦 漕船数 出典

(8)
(9)
(10)
(11)

一一

界首至寶應北門六十里

寶應縣安平駅至准安府西門七十里

とあり︑﹃運河紀略﹄はさらに准安府より北京まで記しているが︑先

に触れたので省略する︒以上の記述から判る杭州府から准安府まで

の運河里程は合計二三八里となる︒先の﹁漕船程途限期﹂には准

安府から北京までの里程が二七六○里とあるので︑その行程を加え

れば総計三八九八里となる︒約二二四五キロとなる︒現在の通称で

は四○○○里︑約二○○○キロである︒

漕船の出発地によって︑遠近の差があったことは言うまでもない

が︑乾隆四年︵一七三九︶四月十五日付けの巡視南漕駐笥准安監察

御史鍾衡の奏摺には︑

査各省糧船︑江北准揚各落︑限十二月以裏過准︒安・池等属與

江寧蘇・松・常・鎮等府州属各靜︑限正月以裏過准︒漸江・江

︵︑︶西・湖廣︑限二月以裏過准︑此向來定例也︒

とあるように︑税糧を輸送する漕船は長江以北の准安・揚州府附近

から北京に輸送する漕船は年内十二月末以前に准安を通過し北上し

ていた︒安徽省の池州や江蘇省の蘇州・松江・常州・鎮江などの漕

船は翌年の正月以内に准安を通過し北上していた︒湘江省や江西省

や湖北省︑湖南省からの漕船は二月以内に准安を通過して北上し通

州に向かうことが定例となっていたのである︒

ところが︑運道等の状況で定例による漕運が困難とされた︒その

理由を同奏摺には︑ 臣査得各省糧船︑倶係冬免冬開︑祗因程途遠近不同︑所以過准遅早︑限期不同︑如江南之江寧常・鎮・蘇・太等属籍船︑至江路近︑到准亦近︑即安慶各蕃︑路錐較遠但由長江東下︑再遇西南順風︑日可行二三百里︑不至有違限期︒惟松江府属地︑虚蘇州之東隅︑有黄浦江汚澱諸湖之間隔︑籍船經行末易裡渡︒且査漸省各籍︑水次倶在杭・嘉?湖三府開行︑至蘇近者一百七八十里︑遠者二三百里︒皆由官塘大路︑可以人力挽捜而行︒而松属之華・奉・婁・金・青・福︑至蘇近二百里︑遠者二百七八十里︒上海一縣︑計程三百六十里︑南應一縣計程三百八十里︑非由黄浦・大江則由汚澱諸湖︑勢必守候風潮︑潮小而風順︑潮大而風長頂︑倶不能飛渡︑錐有人力︑無懸緯挽︑造到蘇已届准限︑而

︵翅︶漸江糧船又已先︑不能挽越前進︒

とある︒各省の漕船は一般に旧暦の冬十月から十二月にかけて船団

を形成して在地より北京・通州に向けて出帆するが︑当然各地域に

おいて形成される船団間にも︑在地の地理的状況によって航行距離

に差があった︒江南江寧の常州︑鎮江︑蘇州︑太倉州等属蕃船は長

江水域にも︑准安にも近い︒安徽省の各落は北京・通州までは遠距

離ではあるが︑しかし︑長江水域に近く長江を下れば大運河口に入

ることが容易に出来︑順風を得れば一日に三三百里を進むことが

出来る︒他方安徽省よりは北京に近い松江府の場合︑蘇州の東側に

あり︑しかも黄浦江は水路に土砂が沈殿しており︑また途中には多

くの湖が介在しているため大運河の水路や長江水系に直行して航行

1

11

一一一一一

(12)
(13)

八月二十七日付け漕運総督の補煕の奏摺が参考になる︒

奏為請定運河水度以利漕船事︑窃査漕船之迅速︑全籍河水之深︑

通庶得遥征︑無娯早実天庚︑伏査漕運議単内開︑康煕十七年議

定︑漕船載米︑不得過四百石︑入水不得過六捺等因︑遂相沿河

水三尺五寸為度︑原未経部議奉為成規也︒.:嗣於雍正二年題定

江西・湖廣糧船︑遠渉長江︑造船以十丈為率︑短不得過九丈︑

装載正耗米一千石有餘︒較之従前︑已及加倍入水八捺︑非得四

︵画︶尺︑難以済運︒

とあり︑漕運に使用され漕船の速度は運河の水深と多いに関係した︒

康煕十七年︵一六七八︶に漕船が米穀を積載する際には四○○石を

限度として︑喫水が六捺を越えることは出来ず︑また運河の水深も

三尺五寸︑約二二センチメートルが限度であった︒雍正二年︵一

七二四︶には江西や湖南・湖北の糧船は遠距離を航行するため造船

の際に一○丈約三二メートルを基準として︑やや小型でも九丈約

二・八八メートルを限度に造船し︑米穀一○○○石を積載するため

喫水は八捺までで︑約四尺約一二八センチメートルが必要であった︒

一九一六年の東亜同文書院の調査では︑

運河ヲ往来スル民船ハ最大九○○担︑最小五○担トシ︑二○○

︵M︶〜三○○担ノモノ最モ多シ︒

とあり︑運河航行の民船は︑最大のものが九○○担約五三・七トン

であり︑最小は約三トンで一般には二○○担約二トンから三○○

担一七・九トンが積載できる船舶であった︒ 漕船は官物の積載以外に私物を積載することが認められていた︒乾隆四年︵1739︶八月初九日付けの協理山東道事山東道試監察御史宮煥文の奏摺には︑

爽帯私貨之宜査也︑定例漕船起運赴通︵州︶︑毎船准帯土宜一百

︵晦︶二十六石︑違例多帯者照追入官︒

とあり︑漕船が通州に向けて輸送する漕米の他に私的貨物を積載で

きた︒しかし積載できる貨物の量に制限があった︒各船が私的貨物

を積載できる量は各地の物産としての土宜は一二六石であった︒と

ころが︑一般にはその積載量を越えて搭載する漕船が多かったので

乾隆七年︵一七四二︶七月二十三日の巡視南漕駐笥済寧兵科掌印

給事中呉元安の奏摺に︑

査山東一省︑並江南郵州一帯︑均係地内開河︑全頼湖河之水︑

収蓄潅輸︑以通漕運︑但免海運・陸運之銀苦︒考前明河成之日︑

毎船載米︑不過五百石︒今已載至七八百石︑至千餘石美︒載米

既多︑船篭重大︑加以木植・甕器等項︑粗重貨物︑自非雨澤及

時河水充足︑未免有浅渋之虞︑當斯之際︑不能把水以注河︑惟

︵照﹀有減載以軽舟︒

とあり︑山東省及び江蘇省の北部l州地域では大運河に流入する水

量は全て湖水や黄河の水に依拠していた︒かって明代には漕船の積

載量は米穀が五○○石を越えることは無かったのであるが︑清代に

はすでに七○○石から八○○石を越えて一○○○余石も積載してい

勵州似削

●勺P●日︒J69j

殿

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(15)
(16)

The Transportation of the Great Canal in the Qing Dynasty

ft M

l * Akira Matsuura

Q)

ti ,I

i;: There have been a lot of accwnulations of researches on the current Jing Hang Canal,

"?

1,, the Great Canal, originating in Tbngzhou in the suburbs of Beijing, through Tianjin, -r

=

Shandon Province, Jiangsu Province, and reaching Zhejiang Province. Especially the research on the Canal in the Qing Dynasty has been discussed from the viewpoint with the history of transportation systems mainly for the rice as taxes. In this paper, the transportation in the Qing Dynasty is discussed from the viewpoint of water transpor- tation based on the dang'an materials.

The vessels engaged in the transportation in the Great Canal in the Qing Dynasty carried about 500 shi of rice each and sailed at the average of 27.6 li a day. When they returned to the south with no load, they sailed at the average of 43 Ii a day, about 1.

6 times faster than when they had rice on board. The difference between the two conditions is obvious. More than 4000 vessels sailed in the Great Canal a year, from Human, Hubei, Juangi, Zhejiang, Jiangnan, Henan, Shandong Provinces to Tianjin and Tongzhou. It is known that in Yangzhou where the Great Canal crosses the Chang Jiang, more than 50,000 vessels cleared the customs a year in 1757 and 1758, and more than 66,000 vessels in 1790. So it is estimated that the total number of vessels which was used for the transportation of the rice as taxes was equivalent to about 10 % of all the vessels sailed on the Great Canal.

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