耳 鼻 臨 床 90: 8; 925∼930, 1997 925
視 器 障 害 を 呈 した 蝶 形 骨 洞 炎 例
井 口 芳 明 ・小川
克二 ・山本
一博
加藤
幸子 ・中村
要＊
Sphenoid
Sinusitis
with Ophthalmological
Complications;
Case Report
Yoshiaki Iguchi, Yoshitsugu Ogawa, Kazuhiro Yamamoto and Yukiko Katoh
(Yokosuka-Shimin Hospital)
Yoh Nakamura
(Fujisawa Shimin Hospital)
A 73-year-old man visited our hospital complaining of a headache, mild visual disturbance in the left eye, left oculomotor palsy and abducens palsy. X-ray, CT and MRI examinations suggested posterior paranasal sinusitis or a tumor, probably in the sphenoid sinusitis. Either a cystic change or bone defect was detected. We opened the left sphenoid sinus through the maxillary and ethmoid sinuses. No tumor was found. In the sphenoid sinus, there was mucosal thickening with pus. All ocular complications except for abducens palsy disappeared within a few day after the operation. It was concluded that sphenoid sinusitis without mucocele caused the ophthalmological complications. Key words: sphenoid sinus, ophthalmological complication, sphenoid sinusitis without mucocele
は じめ に 副鼻 腔 の炎 症 や 嚢 胞 に と も な う視 器 障 害 の存 在 は軽 視 で きな い. そ の多 くは 副 鼻 腔 を 開 放 す る手 術 に よ り視 器 障 害 を改 善 す る こ とが で き るか らで あ る. 後 部 節 骨 洞, 蝶 形 骨 洞 周 辺 に は 視 器 に 関 す る重要 な神 経 が走 行 して お り, そ の場 で の 腫 瘍 や 嚢 胞 性疾 患, 炎症 に よ り視 器 障 害 が お こ りや す い. 今 回 わ れ わ れ は一 側 の視 力 低 下, 動 眼 神 経 麻 痺, 外 転 神 経麻 痺 を合 併 した後 部 副 鼻 腔 炎 を 手 術 し, 視 器 障 害 の 改善 を認 め た症 例 を経 験 した の で報 告 す る. 症 例 症 例 は73歳 男性 で あ る. 主 訴 は 頭 痛 で あ る. 平 成6年 1月6日 夕 方 よ り頭 痛, 左 顔 面 の しび れ 感 が あ り1月7 日近 医 を 受 診 し薬 を服 用 して いた. 10日 朝 よ り左 眼 瞼下 垂 が 出 現 した た め 同 日当院 脳 神 経 外 科 を 受 診 した. 頭 部 単 純CTで は異 常 は認 め られ な か った. 1月13日 に 当院 眼 科 を 受診 し, 頭 部 造 影CT, MRIを 施 行 した と ころ左 後部 副鼻 腔 の異 常 陰 影 が 認 め られ, 副 鼻腔 病 変 に よる視 器 障害 が疑 わ れ て1月18日 に 当 科 へ 紹 介 され 受 診 した. 受 診 時 現 症 では, 頭 痛, 左 顔 面 の しびれ 感, 複 視 を 訴 え, 左 眼 の 眼 瞼 下 垂, 左 瞳 孔 散 大, 左 眼球 運 動 障 害(内 転, 外 転 障 害), 視 力 障害(Vd=0.15, Vs=0.05)が 認 め られ た(図1). 視 野 狭 窄 は な か った. 左 鼻 腔 の所 見 では 明 ら か な 中鼻 道 か らの 分 泌物 は認 め られ ず, 軽 度 の粘 膜 の 発 赤 のみ で あ った. 単純X線 写 真, MRI, CTで は 左 上顎 洞, 左 後 部 節 骨 洞, 蝶 形 骨 洞 に陰 影 を認 め, 腫 瘍 あ るい は 炎 症 を 強 く疑 った(図2∼4). そ の他 の耳 鼻 咽喉 頭 所 横須賀市立市民病院耳鼻咽喉科 ＊藤沢市立市民病院耳鼻咽喉科
図1 初診時眼所見 aは 上方視, bは 下方視, cは 右方視, dは 左方視を示す. 左の眼瞼下垂, 左内転 障害, 左外転障害 を認め る. a b c d 図2 初診時断層X線 所 見 左上顎洞, 鯖骨洞, 蝶形骨洞に陰影を認 め る.
耳 鼻 臨 床 90: 8 視 器 障 害 合 併 蝶 形 骨 洞 炎 927 見に 異 常 は な か った. ま た受 診 時, 発 熱, 白血 球 数 の 増 加, CRPの 増 大 な ど の 炎 症 反 応 は 認 め られ な か っ た. 既 往歴 に特 記 す べ きこ とは なか った. 鼻 手 術 の既 往 もな い. このた め後 部 筋 骨 洞, 蝶 形 骨 洞 副 鼻 腔 病 変 に よる視 器 障害 と考 え1月19日 に 入 院 した. 1月20日 に 局所 麻 酔 下 で左 上 顎 洞 経 由で 箭 骨 洞 蝶形 骨 洞 開放 術 を行 った. 上 顎 洞 粘 膜 は ポ リー プ状 で あ り, 多 量 の膿 汁 の貯 留 が認 め られ た. 飾 骨 洞 も同様 の所 見 で あ り, 粘 膜 を一 部 迅 速 病 理 検 査 に 提 出 した と ころ 炎症 性 所 見 で あ っ た. 蝶 形 骨 洞 の 自然 孔 は ポ リー プ状 の粘 膜 で閉 鎖 して いた. 蝶 形 骨 洞 の 発 育 は 良好 で あ った. これ を開 放 した と こ ろや や 粘 調 な膿 汁 が認 め られ た。 蝶 形 骨 洞 粘 膜 を除 去 し鼻 腔 内 へ 広 く交 通 路 を つ け, デ カ ドロ ソPを4mg注 入 した. 上 顎 洞 に も対 孔 を作 り手 術 を終 えた. 上 顎 洞 内 の膿 汁 の培 養 で は, 嫌 気 性 菌 で あ るStreptococcus constellatus が 検 出 され た. 蝶 形 骨 洞 内の 膿 汁 の 細 菌培 養 で は陰 性 で あ っ た. 術 後2日 目に 眼 瞼 下垂, 瞳 孔 の左 右差 は 消失 した、 術 後 4日 目に 視 力 障 害, 動 眼神 経 麻 痺 は完 全 に 回復 した. 術 後左 外 転 神経 麻痺 は 入 院 中 に 改善 は認 め られ なか った. 退 院 時 の 眼球 の所 見を 図5に 示 した. 2月4日 に 退 院 し た. 外転 神経 麻 痺 は2ヵ 月後 の4月 に完 全 に な くな り眼 球 運 動 に異 常 は な くな った. 現 在 外 来 で 経過 観 察 中 で あ るが 異 常 は認 め られ な い. 考 案 本 例 は軽 度 の副 鼻 腔 炎 が あ った と ころ へ上 気道 感 染 な どの何 らか の原 因 に よ り蝶形 骨 洞 を 中心 と した強 い炎 症 が お こ った と考 え られ る. そ して そ の炎 症 が 視 器 障 害 を 発 現 させ た とい え る. 後 部 節 骨 洞 嚢 胞 や 蝶 形 骨 嚢 胞(ピ オ ッエ ー レ, ム コツ エ ー レ)を 原 因 とす る視 器 障 害 の 報 告 は 多 数 認 め られ る が, 本 例 の よ うに単 な る急 性 炎 症 を 原 因 とす る報 告 例 は比 較 的 少 な い. 一 般 に 副鼻 腔 の嚢 胞 は 自然 孔 の狭 窄 や 閉 塞 に よ って 副 鼻腔 内 に 分泌 物 が充 満 し, 副 鼻 腔 が 拡 大 して 骨壁 の圧 迫 や破 壊 の あ る もの と定 義 され て い る1).本例では, 手術 所 見 上 蝶 形 骨 洞 の 自然 孔 は 粘 膜 の腫 脹 に よ り閉鎖 して い た. しか し画 像 上 明 らか な嚢 胞 状 変 化 や 副 鼻 腔 の拡 大 や 破 壊 は な く, 手 術 所 見 で も同様 で あ った. また, 嚢 胞 で は 経 過 が きわ め て緩 慢 か つ潜 伏 的 と され て い る こ とに 対 して, 本 例 で は 比較 的急 速 に視 器 症 状 を 呈 した こ とか ら 感 染 が 原 因 の 副 鼻腔 炎 と考 え た. しか も手 術 で蝶 形 骨 洞 の 病 的粘 膜 を 除去 し広 く排 泄 口を つ け る こ とに よ り劇 的 に 改 善 した こ とか らお そ ら く炎 症 に よる粘膜 の腫 脹 が 自 然 孔 を閉 塞 あ る い は狭 窄 し, さ らに 種 々の経 路 で 周 囲 の 神 経 に影 響 を及 ぼ し視 器 症 状 を 呈 した と考 え られ る. 副 鼻 腔 炎 の 合 併 症 の 進 展 経 路 は 教 科 書 に よれ ぼ1)直 接 に組 織 を 伝 わ って, 2)骨 孔 や 骨 間 隙 を 経 て, 3)神 経 周 囲 間 隙 を 経 て, 4)諸 血 管, リンパ 管 を 経 て, と され てい る1). これ に従 えぼ, 本 例 で は 蝶形 骨洞 の炎 症 が2, 3ま た は4の いず れ か の経 路 で視 器 障 害 が お こ った と考 え られ る. そ の解 剖 学 的 位 置 関 係 か ら蝶 形 骨 洞, 鯖 骨洞 嚢 胞 で は 視 力 障 害 が 多 い との報 告2)3)や蝶 形 骨 洞 病 変 で は視 力 障 害 を 主 訴 とす る こ とが 多 い4)な ど の報 告 が あ る. しか し馬場5)は 副 鼻 腔 と視 器 の隣 接 性 だ け で視 器 障 害 の 要 因 を求 め得 な い症 例 もあ る と して い る. 鼻性 視神 経 炎 の発 生 機 序 と して は, 炎 症波 及説, 圧 迫 説, 浮 腫 説, 血 管 攣 縮 説, 自律 神 経 緊 張 異 常 説, 病 巣感 染 ・ア レル ギ ー 説 な どが 挙 げ られ て い る5)6). 本 例 に お い て は, 視 力 障 害 は 軽 度 で あ り蝶形 骨洞 炎 の視 神 経 へ の影 響 は 少 なか っ た と考 え られ る. しか し他 の脳 神 経 障 害 は これ ら の説 の い ず れ か に よ り発生 した こ とは容 易 に考 え られ る. 本 例 で は 画像 や手 術所 見上 骨 破 壊 は なか った が 急 速 に 症 状 が発 現 して お り, 炎 症 が 視 器 に 与 え る影 響 は 大 きか った と考 え られ る. そ の要 因 の1つ と して, 後 部 副 鼻腔 の発 育 が 良好 な とき副 鼻 腔 の 骨 壁 が 非 薄 で あ る こ とが多 く5)7), 骨 壁 に 微 細 な間 隙 が あ る こ と も知 られ て い る7). 図3 初診 時CT所 見 左 後部 箭 骨 洞, 蝶 形 骨 洞 に陰 影 を 認 め る.
図4 初 診 時MRI所 見
上 段 に 矢 状 断T1強 調 画 縁, 下2段 左 に 水平 断T1強 調 画 像, 下2段 右 に水 平 断T2強 調 画 像 を 示 す. 蝶 形 骨 洞 はT1強 調 画 像 で 高 信 号, T2強 調 画 像 で 低 信 号 であ る. 蝶 形 骨 洞 内 容 液 中 の蛋 白質 濃 度 が 高 い こ とが 疑 わ れ る.
耳鼻 臨床 90: 8 視 器 障 害 合 併 蝶 形 骨 洞 炎 929 そ して そ の 微 細 な 間 隙 を通 じて粘 膜 の炎 症 が 視 器 に 波 及 す る とい わ れ て い る7). 本 例 に お い て も蝶 形 骨 洞 の 発 育 は 良 く, この機 序 が 周 囲 の神 経 を 障 害 した こ との 一 因 と も考 え られ る. 外転 神 経 麻 痺 は完 全 な 治 癒 に 至 る まで約 2ヵ 月 を要 した. 外 転 神 経 に は炎 症 の強 い 波 及 が 関 与 し た よ うに思 え る. また, 上 顎 洞 内 の細 菌 培 養 の結 果, 嫌 気 性 レンサ球 菌 が検 出 され た. 杉 田 ら8)は, 嫌 気 性 菌 も急 性 上 顎 洞 炎 で 重 要 な一 次 性 病 原 菌 に な り うる と述べ て い る. そ の理 由 と して, 分 泌 物 が 化 膿 性 の場 合酸 素 分 圧 が低 下 し, 中鼻 道 の閉 塞 も加 わ り嫌 気 性 菌 が 生育 しや す い条 件 が 整 うと して い る. 本症 例 も手 術 所 見 か ら上 顎 洞 に膿 性 分 泌 物 が 多: 量に あ った こ とか らあ て は まる. 蝶 形 骨 洞 病 変 に お い て は頭 痛 は初 期 症 状 と して 必 発 で あ る といわ れ, 副鼻 腔 炎 症 の程 度 に比 例 す る と もい わ れ て い る9). 本 例 も頭 痛 を 主 訴 と して 来 院 して お り, 見逃 す こ との で きな い重 要 な情 報 であ る と いえ る. 一 般 に 後 部 副鼻 腔 のみ に限 局 した 炎 症 や 嚢 胞 で は 鼻鏡 所 見 で理 学 的 所 見 が乏 しい とい わ れ てい る10)11). 本例も明らかな鼻 症 状 を 欠 き, 鼻 腔 所 見で も鼻 腔 粘 膜 の 発 赤 が 認 め られ た のみ で あ り眼 症 状 の み が 前 面 に で て い た た め脳 神 経 科, 眼 科 を 経 て 当 科 を 受 診 す る まで に 時 間 を 要 した こ とは容 易 に考 え られ る し納 得 が い く. 早期 の 治療 が予 後 を左 右 す る こ とは い うまで もな く, 遅 くと も3週 間 以 内 に手 術 す べ き との報 告 もあ る12). 本例では当科受診から2日で, 発 症 か ら2週 間 で手 術 を 行 い 良 好 な 結果 を得 る こ とが で きた. ま と め 1. 視 器 障 害 を 呈 した蝶 形 骨 洞 を 中心 と した 副 鼻腔 炎 の1症 例 を報 告 した. 2. 副 鼻 腔 根 治 術 に よ り視 器 症 状 は 改 善 した. 本論 文の要 旨は 日本耳鼻 咽喉科学会神奈川県地方部会, 第88 回耳鼻咽喉科 ・頭頸部外科学術講演会で 口演 した. 図5退 院 時 眼 所 見 aは 上 方 視, bは 下 方 視, cは 右 方 視, dは 左 方 視 を示 す. 左 外 転 障 害 が わ ず か に あ る. a b c d 参 考 文 献 1) 廣 瀬 肇, 飯 沼 寿 孝, 切 替 一 郎, 他: 副 鼻 腔 粘 液嚢 胞(ム コ ツエ ー レ), 膿 嚢 胞(ピ オ ツ エ ー レ), 術 後 性 上 顎 嚢 胞. 新 耳 鼻 咽 喉 科 学(切 替 一 郎, 野 村 恭 也 編). 306∼309頁, 南 山堂, 東 京, 1987. 2) 市 野 幸 側, 宮 村 健 一 郎, 田中 憲 雄, 他: 失 明 を 来 た した 副 鼻 腔 ム コ ツ エ ー レの3症 例. 耳 鼻 臨床74: 1409∼1415, 1981. 3) 白岩 恒 男, 武 本 欣 也, 高 橋 廣 臣: 眼 症 状 を 伴 った 副 鼻腔 嚢 腫 の 検 討. 耳喉48: 375∼379, 1976. 4) 大 野 政 一, 大 野 郁 夫, 山 本 誠, 他: 副鼻 腔 嚢 胞 の 臨床 的 問 題 点 に つ い て. 耳鼻25補5: 738∼745, 1979. 5) 馬 場 駿 吉: 視 神 経 炎, 翼 口蓋 窩, 頭 蓋 内 合 併 症(鼻). 耳喉 52: 747∼750, 1980.
6) 吉 村 史郎, 森 裕 司, 小 笠 原 寛, 他: 視 覚 障 害 を 呈 した 副 鼻腔 炎. 耳 鼻 臨 床 補4: 166∼170, 1986. 7) 藤 田 洋 右, 北村 武, 戸 川 清, 他: 視 覚 障 害 を 伴 った 後 部 副鼻 腔 炎 につ い て. 日耳 鼻74: 1449∼1455, 1971. 8) 杉 田麟 也, 小 酒井 望, 小栗 豊 子, 他: 片側 上 顎 洞 炎 の検 出 菌. 嫌 気 性 菌 感 染 症 研 究16: 14∼17, 1996. 9) 原 田康 夫, 屋 敷 建 夫, 木 原 泰 幸, 他: 眼症 状 を呈 した後 部 副 鼻 腔 炎3症 例. 耳 喉47: 475∼479, 1975. 10) 久 保 武, 梅 本 匡 則, 川 嵜 良 明, 他: 多 彩 な眼 症 状 を呈 し た 蝶 形 骨 洞 炎 例. 耳 鼻 臨 床84: 953∼958, 1991. 11) 森 山 寛, 島 田和 哉, 斎 藤 建, 他: 後 部 副 鼻 腔 嚢 腫. 耳 展24: 465∼480, 1981. 12) 上 田晋 介, 渡 辺 行 雄, 吉 田行 夫, 他: 副 鼻 腔 炎, 副 鼻 腔 嚢 胞 に 合 併 した 視 力 障 害症 例 の検 討. 耳 鼻 臨 床 補36: 203∼ 207, 1989. 原 稿 受 付: 平 成8年12月24日 原 稿 採 択: 平 成9年2月26日 別 刷 請 求 先: 井 口芳 明 〒240-01横 須 賀 市長 坂1-3-2 横 須 賀 市 立市 民病 院 耳 鼻 咽 喉 科
