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亜細亜学園 五十年 通史編

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Academic year: 2021

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亜細亜学園全景(平成2年)

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(11)

亜細亜学園五十年史に寄せて

理事長 瀬 島 龍 三

本学の前身、興亜専門学校が開設されたのは昭和十六年の四月である。当時の日本は、内外ともに重大な局面 にあり、同年十二月八日にはついに宣戦の御詔勅が下った。開戦後時を経るとともに戦況は日に日に困難を極め、 やがて昭和十八年十月には学徒応召の命が下り、本学の学生も勇躍、祖国の急に赴いたのである。出征する者は 一五〇名、それは在学生数の四分の一以上に及ぶ数であった。 戦局が苛烈の度を加えるに従い、戦線にあるものも銃後にあるものも、共に死を覚悟しなければならない時代 であった。戦死して屍は山野にさらしても塊塊は興亜神社に帰り再会を期そう、というのが当時の学生の合言葉 であったと聞いている。現在、学内の興亜神社には、この大戦で祖国に尊い命を捧げられた九七柱の同窓生の御 霊 が 祭 ら れ て い る 。 その後、関係者の血の港むような苦労を経て、日本経済専門学校、日本経済短期大学となり、昭和三十年に日 本経済短期大学と並んで亜細亜大学が創設された。 亜細亜大学設立後も大学経営は困難を極め、太田耕造先生をはじめ学園関係者の方々は大変なご苦労をなされ た。藁田耕造日記﹄の昭和三十年十二月三十一日﹁九時、藤原君来訪。残り百万、三井不動産ヨリ情人ノ事ニ シテ漸ク、アジア大学越年叶7。大業難渋ヲ極メ、感無量也﹂の一節に太田先生のご苦労と当時の学園の状況の (9)

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一 端 が 窺 わ れ る 。 昭和三十一年には五島育英会との提携なり、五島慶大翁を理事長に迎え、漸く経営の安定を図るに至った。こ の間、今日に至るまで、さらにさまざまな困難があったが、先人はよくこの通を乗り越えて、ついにこのたび、 創立五十周年の大きな節目を迎えるに至ったのである。 今日の内外情勢は、大きく変貌しっつあるが、その変化を適確に予想することはまことに困難な時代にある。 このようななかで、本学園が具に国家社会に貢献し得るよう、今後とも着実な歩みを進めてゆくためには、先仇 の辿ってきた跡を顧みることが、いかに大切なことであるかは多言を要しないものと思う。 そうした意味でここに亜細亜学園五十年史を刊行し、先人の足跡を辿ることは、まことに意義探いものがある。 本書の刊行にあたられた編纂委員各位に対し、心から敬意を表する次第である。 (10)

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亜細亜学園五十年史刊行に寄せて

学   長   街   藤   藩   吉 幾山河よくも釆つるものかな。亜細亜学園五十年の歴史を願みて、一入その感を深くする。 この文集を読むと、文字の上では、何げない名前の変化一つにも、劇的な葛藤がその背最にあったことを知る のである。例えば、戦後、興亜専門学校から日本経済専門学校に校名が変わった。それは、敗戦、占領軍の駐留 という未曾有の歴史的経験に、日本中が揺れ動いたことと、決して無関係ではなかった。遍細亜学園四十年史﹄ は、当時の理事会の模様について、﹁興亜尊門学校は、既にその時代的使命を終えた﹂とする解散意見と、﹁教育 とは永久に続けられるべきものであり、日本復興の鍵もまた教育にある﹂とする存続意見とがあり、それが激し く衝突したことを記録している。 結果は、存続論の大義名分が過ったが、藤原繁先生は、この間の事情について、解散論が大勢を占めた時期、 それを改したのは、時子山先生等の﹁学校を解散すれば、卒業生の母校がなくなる。母校は、卒業生の故郷であ る﹂との主張であったことを、﹁本学園生い立ちの記Lの中で書き残しておられる。﹁母校は、卒業生の故郷であ る﹂との発言が、危うく解散になりかけた本学の、命運を決めた二言であったことをわれわれは、ゆめ忘れるべ き で は な い だ ろ う 。 日本の大学は、今、新制大学発足以米の大きな転換期にある。一つは、大学設置基準の大綱化による四年一貫 (11)

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有効なカリキュラムへの改革であり、一般教育と専門教育の別は廃止されてしまった。もう一つは大学、ことに 教員自体の自己点検・評価制皮の確立が義務づけられたことである。設置規準の大綱化は、それぞれの大学が、 自助努力によって独自性を主張できる時代になった、ということをも意味する。しかし、自己点検、評価の義務 づけは、切磋琢磨して大学の質を高めよとの警鐘でもある。さらに、大学をめぐる社会的な環境としては、一八 歳人口の激減という問題もある。平成四年の二〇五万人をピークに、紀元二千年には、四分の一以上受験人口が 減ることになる。学園挙げて協力、もって改革に努めれば発展し、夜郎自大、独善、もって改革を怠れば倒産す ることになる。企業の競l 争原則から見れば当たり前ではあるが、大学にもいよいよ淘汰の時代がきた。 学校は何よりも学生のためにある。この自明の、それでいて忘れられがちな学校の原点を、どのように活かし ていくか。それがわれわれの大きな課題である。われわれは、本学の長い歴史の一部分を担うものとして、学園 の将米に対する貢務を、今、それぞれの分野で果たさなければならないのである。 創立五十周年は、先人の労苦に感謝し、当面する大学改革の決意を新たにする意義深い節目でもある。 最後に、本書の刊行に際してご尽力された、編集委員および五十周年事業事務室の皆様のご労苦に対して深甚 なる敬意と感謝を致すものであります。 (12)

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亜細亜学園は、平成三年十一月四日、創立五十周年を迎えた。これを記念していろいろな事業が計画された。 その中の一つにr亜細亜学園五十年史Lの刊行および五十年の歴史と現況を盛り込んだビデオとアルバムを制作 するという仕事があった。これを担当するため﹁年史編纂・ビデオ制作小委員会﹂が発足した。委員会は事の性 格上、下名のとおり各学部・部・事務局の古参の人々によって構成され、平成元年十二月十一日、第一回会合が もたれた。この会合において基本方針が確認され、それに基づき、まず五十周年創立記念日までに、ビデオとア ルバムを制作することとなり、会議を重ね予定どおり完成をみた。 ﹁五十年史﹄に関しては次のとおり基本方針が決められた。 1、¶五十年史Lには五十周年記念式典の模様なども記録する。 2、そのために刊行は一年後の平成四年十一月四日とする。 3、r五十年史Lは﹁資料編﹂と﹁通史霜﹂とに分けて刊行する。 4、﹁資料編﹂はすでに刊行されている﹁亜細亜学園四十年史﹄に十年分を追加するのではなく新しく編纂す る。 5、﹁通史霜﹂は読み物的要素をもったものとする。 6、担当の事務局は五十周年記念事業事務室とする。 しかし基本方針は決まったものの、﹁資料編﹂は千数百ページ、﹁通史編﹂は五〇〇ページを超すと予想される (13)

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大部なものを制作するのに、独立した﹁年史編纂室﹂も専従者もなく、全員が本務の傍らにしなければならない ことなので先行きの危惧を感ぜざるを得なかった。 そこで年史編茄を手掛けている印刷会社に全面的に協力をしてもらうことを期待し、数社による相見頼りの結 果、凸版印刷㈱に担当していただくこととなった。こうして態勢は整ったものの、最大のポイントは原稿の作成 である。原稿は誰かが書いてくれるというものではなく、どうしても大学側が作成しなければならないものであ っ た 。 委員会は合宿の会議を開き、﹁資料編﹂﹁通史編﹂ともに、あらましの目次を定め、それに伴う諸項目を選定し、 それぞれの担当を決めた。ここまでが両編に共通することがらであった。 ﹁通史編﹂に関しては、﹁読み物的要宗をもったもの﹂という方針が決められたが、ただ読み物的に書けばよ いというだけでなく、歴史である以上、誰でも納得するような正確さが要求される。これは願望としてはわかっ ても、実際には不可能に近いことである。 今から十年前、﹃亜細亜学園四十年史Lが編窮されたとき、あることを調べていくうちに、﹁それは私がやった ことだ﹂というような人が何人も出てきて、整理に困ったという話を開いた。みんなそれなりに思い入れが強か ったので、心底そう思っていらっしゃるのであろうが、整理する方は容易ではない。一般的にいっても、歴史を 書くことほどむずかしいことはない。記憶に新しい昨日のことでも、書く人によって大変な違いが出てくる。ま してこれが何十年も昔のことともなれば、﹁薮の中﹂とはいわないまでも、諸説紛々として帰趨に惑う。それも かえって何百年か何千年か昔のことにでもなれば、時の経過が雑音を淘汰し、それなりに国定されるのであろう が、当事者がまだ活躍している頃の歴史ともなるとそうはいかない。 (14)

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このようなことから、会議の結果、 一、五十年の歴史の中の主な事項を拾い出し、その事項にいちばん関わった方に署名原稿で書いていただき、 それらをとりまとめて編纂し、それを読んでいくうちにおのずから亜細亜学園五十年の歴史がわかるように 進 め て い く 。 二、各原稿ともおそらく自分史になるであろうが、署名原稿であれば理解してもらえるであろう。 三、書き下ろしの原稿だけでなく、すでに故人になられた方々についてはもちろんのこと、現存の方々につい ても旧柄を多く使用させてもらう。 四、五十年の歴史の区分、主な事項の選択、担当者の選定は、このこと自体、歴史を記録するという点からい えば、大きな問題であろうが、そこまで厳密に考えると作業が進捗しなくなるので、これは委員会にお任せ 願 う 。 五、これらの諸原稿をつなぐ地の文は﹃亜細亜学閲の歩み﹄ による。この小冊子は、すでに創立者をはじめ多 くの関係者の校閲を経てきているので、それなりに確定した歩みとなっていると思えるからである。引用部 分はその都度明示することとする。 というようなことが決められ、これに基づいて作業が進められた。なお表記については左記の原則によった。 1、資料・記録などは、そのまま用いていく。 2、回顧的な文章が多くなるので、できるかぎり執筆年時を明らかにしておく。 3、表記はなるべく原文のままにし、肩書きなども執筆者の原文どおりにする。 委員のうち事務局代表の鯵坂芳文事務局長が平成三年十月九日逝去された。学園の生き字引的存在であっただ (15)

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けに本委員会にとっても痛恨に耐えないことであった。後任に佐脇考二常務理事が就任された。また、法学部委 員の清瀬信次郎教授は平成四年度サバティカル・イヤーをとられたため佐藤司教授に替わられた。 本書が成るについては、現存の方々はいうまでもなく、すでに故人になられた方々にも一方ならぬお世話にな った。一々お名前を挙げて感謝の意を表すべきであるが、紙幅の関係もあり失礼をさせていただき、誌上をもっ (16) 亜細亜学園 年史編纂・ビデオ制作小委員会

委     員 委     員 委     員 委     員 委     員 て表心よりお礼を申し上げる次第である。 平成四年ユハ月六日

梶村  昇︵理事・国際関係学部教授︶ 山 口   年 一 ︵ 理 事 ・ 経 営 学 部 教 授 ︶ 開 口 甲 子 男   ︵ 経 済 学 部 教 授 ︶ 清 瀬 信 次 郎 ︵ 法 学 部 教 授 ︶ 佐藤 神津

委  員故鯵坂

委  員 編集離間 佐協 夜久 司   ︵ 法 学 部 教 授 ︶ 有 三   ︵ 教 養 部 教 授 ︶ 芳 文   ︵ 理 事 ・ 事 務 局 長 ︶ 考 二   ︵ 常 務 理 事 ︶ 正 雄 ︵ 理 事 ・ 名 誉 教 授 ︶

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グラビア (1)

亜細亜学園五十年史に寄せて 理事長 瀬 島 龍 三⋮⋮㈱ 亜細亜学園五十年史刊行に寄せて 長 街 藤 藩 吉⋮⋮㈱ はじめに (1劫 序   説   亜 細 亜 学 園 五 十 年 史 ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ 夜   久   正   雄 ⋮ ⋮ 1

第一章 興亜専門学校時代

興亜専門学校前史 創 立 以 前 ・ そ の 生 活 明光塾のこと 興亜専門学校設立趣意 草創期の風景 校長としての覚悟と方針 海軍﹁花﹂機関に参加して 藤 原 中 原 梶   村 ︵資 柏 原 菊 池 小 林 繁 ⋮ ⋮ 3 0 稔 ⋮ ⋮ 4 2 昇 ⋮ ⋮ 4 5 料 ︶ ・ ⋮ ︰ 5 0 事 ⋮ ⋮ 5 6 武   夫 ⋮ ⋮ 7 2 賢   三 ⋮ ⋮ 7 6 (17)

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南十字星は見ていた − 鎌倉丸遭難記 アンボン行き学生の最期 回教徒としてインドネシアへ 興亜専門学校と西北学塾︵大学︶ 学徒勤労動員の諸君 三菱深川工場学徒動員の思い出 興亜神社について 日本再興の偉大なる使徒を憶う 海陸特別攻撃隊の二君 遺   書 国民よ勇気と誇りを持て 浜 池 粟 申 jT 藤 高 根 太 藤 高 大 田 田 城 澤 原 橋 村 田 原 橋 田 英   雄 ⋮ ⋮ 8 0 諒 ⋮ ⋮ 8 3 剋 ⋮ ⋮ 9 6 有   三 ⋮ ⋮ 1 0 6 q ′ H l 繁 ⋮ ⋮ 1 1 平 太 郎 ⋮ ⋮ 1 1 4 昇 ⋮ ⋮ 1 1 9 耕   造 ⋮ ⋮ 1 2 2 5 繁 ⋮ ⋮ 1 2 政   義 ⋮ ⋮ 1 3 1 耕   造 ⋮ ⋮ 1 2 6 (18)

第二章 日本経済専門学校時代

終戦後の本学 戦後の学生生活 戦後の想い出 ﹁ 第 二 部 ﹂ 開 設 の こ ろ 日本経済専門学校の末ごろ 藤 財 平 関 夜 原 部 田 口 久 繁 ⋮ ⋮ 1 5 9 正   人 ⋮ ⋮ 1 6 1 四   郎 ⋮ ⋮ 1 6 8 甲 子 男 ⋮ ⋮ 1 7 1 正   雄 ⋮ ⋮ 1 7 7

(21)

第三章 日本経済短期大学

日経短大草創期のころ 国際柔道学校を開設 突発した留学生問題 山   崎   三 藤   原 藤   原 郎 ⋮ ⋮ 1 8 3 繁 ⋮ ⋮ 1 8 6 繁 ⋮ ⋮ 1 9 0 (19)

第四章 亜細亜大学の創立

亜細亜学園設立趣意書 本学の建学精神について 亜細亜大学創立準備の思い出

五島育英会との提携 青々会員に与う 大 田 太 田 夜   久 ︵資 藤 原 菊   池 武 菊池武夫初代校長を偲ぶ 東 京 経 済 大 学 の 教 授 ・ 学 生 、 本 学 へ αグループのこと ﹁ バ ッ ジ ﹂ の 制 定 梶 藤 稲 山 村 原 東 口 造 ⋮ ⋮ 1 9 9 造 ⋮ ⋮ 2 0 0 雄 ⋮ ⋮ 2 0 2 料 ︶ ⋮ ⋮ m 繁 ⋮ ⋮ 2 1 1 夫 ⋮ ⋮ 2 1 1 昇 ⋮ ⋮ 2 1 6 繁 ⋮ ⋮ 2 2 7 次 ⋮ ⋮ 2 3 1 一 ⋮ ⋮ 2 3 5

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第五章 亜細亜学園の発展

新亜書院︵香港中文大学︶との交換留学生制度 五島慶大氏の処世観 官製教育いらんヨ アジア察 亜大野球部今昔・生原監督のこと 優勝の軌跡 無 名 軍 団 の 栄 光   ︵ 詩 ︶ アジア・ハイウエー学術調査隊・思い出すことども 白雪のカブールから灼熱の砂漠へ

山   本 大   田 五   島 千 々 和 藤 原 志   賀 古   川 筑 紫 飯   島 ︵資 (20) 経済学部の発足 教養部の特色と夢 法学部のできる頃 図書館学講座開設当時の思い出 戦役同窓生の慰霊祭挙行にあたりて 戦 役 校 友 慰 霊 祭 ﹁ 祭 文 ﹂ ・甲 jT 夜 活 菅 夜 太 澤 久 瀬 原 久 田 忠   士 ⋮ ⋮ 2 4 1 耕   造 ⋮ ⋮ 2 5 1 昇 ⋮ ⋮ 2 5 5 純   ﹁ ⋮ = m 繁 ⋮ ⋮ 2 6 7 雅   二 ⋮ ⋮ 2 6 9 哲   史 ⋮ ⋮ 2 7 3 平   蔵 ⋮ ⋮ 2 7 5 正 ⋮ ⋮ 2 7 9 料 ︶ ⋮ ⋮ ㍑ 有   三 ⋮ ⋮ 2 8 4 正   雄 ⋮ ⋮ 2 8 7 信 次 郎 ⋮ ⋮ 2 8 9 春   雄 ⋮ ⋮ 緋 正   雄 ⋮ ⋮ 3 0 1 耕   造 ⋮ ⋮ 3 0 7

(23)

ある遺族の記 昔々会の歩み 山   口 千 々 和 三 ⋮ ⋮ 3 0 8 一 ・ ⋮ ︰ 3 1 0 明治百年記念特別連続講座 歴史の其実を見究めよ 三代に生きて ﹁ 復 原 即 維 新 ﹂ ﹁大学問題﹂に関する基本方針 最近のアジ・ビラを分析する 太   田 中   山 井   上 太   田 夜   久 耕 学友会との連結協議会 FOCから出会いの広場へ 洋上大学あれこれ rTHE ASIAL創刊より一五〇号まで ﹃THE ASIALから﹁広報アジアL へ 経営学部設立まで 経営学部申請時の苦労 アジア研究所 大学院三研究科の開設 教職員会親睦旅行 中 中 中 梶 岡 杉 n H H 力 鯉 山 n H H ・刀 村 村 村 村 部 本 藤 渕 口 藤 字 耕 正 義 義 義 篤 龍 信 年 伸 造 ⋮ ⋮ 3 1 8 優 ⋮ ⋮ 3 2 0 麿 ⋮ ⋮ 3 2 3 造 ⋮ ⋮ 3 2 7 雄 ⋮ ⋮ 3 2 8 彦 ・ ⋮ ︰ 3 3 4 彦 ⋮ ・ = 3 3 9 彦 ⋮ ⋮ 3 4 8 昇 ⋮ ⋮ 3 5 3 厚 ⋮ ⋮ 3 5 6 常 ⋮ ⋮ 3 6 1 ﹁ ⋮ = 3 6 4 ﹁ ⋮ ︰ 3 6 8 ﹁ ⋮ ・ ・ 3 7 4 吾 ⋮ ⋮ 3 7 9 (21)

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藤原繁さん、さようなら 学長大田耕造君を悼む 中   原 岸 稔 ⋮ ⋮ 3 8 7 信   介 ⋮ ⋮ 3 9 0 (22)

アジアの国々に役立つ人づくりを ︵対談︶ 五   島 早   川 学長早川崇先生を悼む 弔   辞 太田耕造先生と本学の使命 学園四十年史編纂の思い出 五   島 武   部 昇 ⋮ ⋮ 3 9 5 崇 康   弘 ⋮ ⋮ 4 0 3 昇 ⋮ ⋮ 4 0 5 啓 ⋮ ⋮ 4 0 7 政変後のパイプ作り 日本の進路と諸君に対する期 給与改善の前史的検討の歩み 亜細亜学園の歩みと給与 給与問題検討委員会の経緯 さわやかな学園を目ざして アメリカ派遣留学プログラム ︵AUAP︶ 五島会長をしのぶ 申 まり 五 瀬 本 艮 月 山 街 小 橋 澤   有 島 島   龍 多   壮 部   正 口   年 藤   洛 林 田   二 三 ⋮ ⋮ 4 2 0 昇 ⋮ ⋮ 4 2 3 三 ⋮ ⋮ 4 2 6 ﹁ ⋮ = 4 4 4 中 ⋮ ⋮ 4 4 9 一 ⋮ ⋮ 4 5 8 吉 ⋮ ⋮ 4 6 7 明 ⋮ ⋮ 4 7 4 郎 ⋮ ⋮ 4 8 2

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昇さんを思う 英語教育研究所設立とその背景−人のつながりー 国際関係学部設立の経緯 国際関係学部ができるまで 入試改革あれこれ 再びさわやかな学園を 亜細亜学園創立五十周年を視す 祝   辞 八 竹 艮 月 飯 今 街 L L I . コ ノ 橘 木   勇 前   文 部   正 島 井一 藤   洛 上 高   盛 平 ・ ⋮ ︰ 4 8 4 夫 ⋮ ⋮ 4 8 7 中 ⋮ ⋮ 4 9 4 正 ⋮ ⋮ 5 0 2 見 ⋮ ⋮ 5 0 9 吉 ⋮ ⋮ 5 1 4 裕 ⋮ ⋮ 5 2 2 義 ⋮ ⋮ 甜 (23) 年     表

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序 説 亜細亜学園五十年史

名替教授 理  事

夜久 正雄

O ﹁ 五 十 年 ﹂ と は ○興亜専門学校へ昭和十六年∼二十年︶ ○日本経済専門学校︵昭和二十年∼二十五年︶ ○日本経済短期大学︵昭和二十五年∼現在︶ ○学校法人・亜細亜学園︵昭和二十九年∼現在︶ ○亜細亜大学設立︵昭和三十年V O亜細亜学園の発展︵昭和三十一年∼五十六年︶ ︵ Ⅲ 教 学 関 係 、 佃 施 設 の 拡 大 、 ㈱ 創 立 四 十 周 年 並 び に 太 田 学 長 逝 去 ︶ ○躍進の十年︵昭和五十七年∼平成三年︶ ○創立五十周年記念行事︵平成三年︶

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亜細亜学園は、亜細亜大学と日本経済短期大学︵平成五年四月から亜細亜大学短期大学部に名称変更の予定︶とを 併設する学校法人の名称であるが、その前身である興亜専門学校の設立、昭和十六年二九四一︶から数えると 平成三年︵一九九こ で五十年になる。 ﹁五十年﹂は、大学の歴史として長い歴史ではない。しかしこの間、大東亜戦争の勃発︵昭和十六年︶、敗戦︵昭 和二十年=一九四五年︶、連合国占領軍の支配︵昭和二十年∼二十七年︶、新患法︵日本国窓法︶ の制定︵昭和二十二 年︶、学制の変革︵昭和二十二年︶、敗戦後の荒廃、その後の独立回復︵昭和二十七年=一九五二年︶、復興、最近の 国際化というような国家社会の未曾有の出来事に遭遇した。 大学教育事態としても、学制の変革、教育思想の変化から左翼運動の激化、戦後の混乱、大学紛争︵六〇年安 保反対闘争、七〇年安保反対闘争︶、学園の荒廃を経験する等、明治・大正・昭和戦前の時代の大学の思い及ばな かった異常の事態を経験することになったのである。 そして経済的復興のようやく成った今日、大学は改めて教育思想の確立・充実が求められ、二十一世紀を前に 技術改新ならびに国際化の要望に迫られている。 こうした国家社会の期待に応えて大学教育を実践するのは決して容易な遺ではなかった。 この五十年を顧みれば幾多不満な点もあるが、すべて関係者の精一杯の努力であったと思うのは、理事者なら びに教職員一同の誇りであろう。

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本学園の前身は興亜専門学校と称し、昭和十六年一月三十一日付で設立認可を申請した。申請者は岩田愛之肋 氏、松尾忠二郎氏、太田耕造氏の三名で、岩田氏は愛国運動の第一人者であり、松尾氏は播磨造船所社長であり、 太田氏は元内閣書記官長・貴族院議員であった。そして設立認可となったのは昭和十六年四月八日であり、発足 当時、藤原繁氏は学監に就任した。 これより先二年、すなわち昭和十四年九月、二〇名ほどの学生諸君が転々と居所を変え、ついに、現在われわ れのいる武蔵野多摩の一角で山林を切り開いて教育の場をもった。これは今も寮歌に残っている﹁朝に霜をふみ、 夕に星をいただく﹂という文字どおりの﹁自助協力﹂の生活であった。塾生活による苦学力行の自炊生活を送り ながら、一心不乱に勉学に努めたことは、まさに後世に残すに足る特筆事に価すべきものがあった。そして、こ の開拓精神は、まさに亜細亜学園の建学精神に通ずること明らかであった。 興亜専門学校は、満蒙支科、南洋科、内地科の三科に分かれ、全寮制皮による総合教育を行った。ここで育っ た学生の撹しい友情と強い精神力とたくましい健康力とは独自の校風を作った。今、ここに興亜専門学校の設立 趣意の一節を紹介する。すなわちこう記している。 ﹁従来の学生生活の弊風を一掃し、日本精神を根幹とし、あくまで厳格なる規律統制下に ﹃塊﹄ の鍛錬生 活をなさしめ、更に勤労敢行の美風を滴養し、あらゆる較苦に遭遇するも平然克服し得る確固たる信念を体 得せしめ、且徹底的に勉学せしめたる学識により東亜経論の真髄を把捉確認し、しこうして公私の諸事業に 粉骨砕身すべき人材即ち共に興亜聖業の礎石たる国士的人物を輩出せしめんとするものなり﹂。

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そして訓育の重点を数項目に亘り記述しているが、その中の一つに次のことが記されている。 ﹁本校生徒は母校を中心として強固なる家族制度の美風に則り生涯深交をなし相互扶助の醇風を実現せんと す。更に権威ある指導研究補助機関を設け、卒業後各自の職場において研究を要する不解の問題あらば、母 校研究室において質疑応答し職分の完遂を期せしむ。なお卒業後物故せる校友の遺族にして生活に困窮せる 者あらは、学校に特別補助機関を設置し相互扶助の実を挙げ、校友をして後顧の憂いなからしめ、以て各自 の全能力を傾倒せしむ。﹂ とあり、全生徒は塾生活をして、身を以て設立精神の実現を期した。 ここに、本学の意図する日本精神による教育の本旨である人物育成の実現を期せんとする遠大なる志望を想う べきである。その一例であるが、南方語学は多彩で馬米語、インドネシア語、タイ語、ビルマ語、支那語︵北京 お よ び 福 建 ︶ 、 安 南 語 な ど 多 く あ っ た 。 当時の初代校長は陸軍中将男爵菊池武夫氏であるが、氏は頼山陽作﹁筑後河を下る﹂でも有名な南朝の忠臣武 光公の後裔である。入学式は五月五日、塩午節句を遊んで開校式を挙げたが、入学生は二〇七名であった。 菊池校長の訓示に次いで来賓として出席された陸軍大将荒木貞夫氏︵犬養、斎藤内閣陸軍大臣、近衛、平沼内閣 文部大臣︶が祝辞を述べられたが、その一節にこういう語があった。 ﹁日本の学校はその堂々たる校合に比較して内容は案外貧弱である。本校は門もない桑畑の中に校合らしい ものが二つ建っているのみである。併しその精神的内容は充実していて他校とは反対である。この学校は必 ず大いに発展する﹂と。 この激励の辞に応えるため本学関係者の払った有形、無形の努力は特筆事であったと思う。しかも当時わが内

(31)

外情勢は極めて重大化し、ついに十二月八日の大東亜戦争の開始となったので、本学よりも総勢一五五名が出陣 したが、いずれも武蔵野に帰って母校の興亜神社で会おうと出陣したのである。 本学においてはこの時局を前にして十二月二十七日第一回卒業式を挙げ、本学学生および卒業生は勇躍して第 一線に出陣したが、あるいは特別攻撃隊として、あるいは各地の戦場において壮烈の戦死を遂げ、あるいは南方 航路の途中敵水雷艇の出撃の犠牲となって海底に消え去った同志は多数で、その壮心を偲び感慨に堪えぬものが ある。かくてわれらの母校は多大の犠牲を払い、もって全学を挙げて善戦敢闘したが、時利あらず、ついに二十 年八月十五日の終戦の詔勅を拝するに至った。 当時を回顧すれば、感無量で涙なくして語り得ない。かくて学生諸君は先生を中心に勉学鍛錬巳むことなくそ の貴重な体験をもって戦陣に出たもので、その功絹は実に偉大であった。この一騎当千の戦役卒業生の総数は九 十有余であった。今日、学内の興亜神社にまつられている。 当時、本学がいかに邦家のため献身的努力を払ったかは知る人ぞ知るである。すなわち戦時中の日本、インド ネシア合同大学建設の構想、本学のセレベス校地一万町歩取得交渉、二三万部を売り尽くしたインドネシア日本 語辞典発刊の件など思い出は尽きない。かくてまた当時の雑誌r蛍雪時代﹄に﹁日本における特異な校風をもつ 二つの学校﹂と題し、一つは羽仁もと子女史設立の自由学園、他の一つは興亜専門学校が取りあげられたこと周 知 の と お り で あ っ た ︵ 以 上 、 本 章 は 亜 細 亜 大 学 初 代 学 長 太 田 耕 造 先 生 の 文 章 に よ る ︶ 。

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敗戦によって興亜専門学校はその存続が認められなくなった。そこで、第一部︵大陸科︶、第二部︵南洋科︶を 廃止し、第三部︵経済部・商科︶を拡充して、経済専門の専門学校として新しく発足することとなった。昭和二 十年十一月、日本経済専門学校と校名を変更したのである。 日本経済専門学校は、当初、興亜専門学校設立申請者の一人であった大田耕造先生︵終戦内閣の文部大臣・貴族 院議員︶を新校長に予定したが、A級戦犯容疑者に指定されたため実現せず、須藤斉治教授︵元三菱商事シンガポ ール支店長︶が、昭和二十一年一月校長事務取扱となり、二十二年二月校長となった。 当時、連合国占領軍司令部GHQは、日本の教育制度と教育思想に大変革を加えた。その結果、いわゆる六・ 三二二・四制︵小学校﹂ハ年・中学三年・高校三年・大学四年︶ の新制度が強行された。さらに、公職追放令、教職 追放令を施行して、国家主義的教育者を教育界から追放した。そのため日本の教育界は左翼思想の横行する世界 となってしまったのである。加えて前述の学制改革が行われたため教育界は大混乱になって、多くの人材が失わ れ た 。 日本経済専門学校でも、藤原学監が追放令に該当したため、須藤校長が陣頭に立って戦後処理ならびに再建の 基礎づくりに努力したのである。二十三年一月には経済科・商科にそれぞれ第二部︵夜間部︶を設置した。しか し、学制改革は専門学校としての存続を許さなかったので、昭和二十三年日本経済大学の設置を計画し、申請し た。教職員学生の必死の努力に拘らずこの申粥は不認可に終わって学園は一層の困難に陥ったのである。 昭和二十四年二月、須藤校長は退任され、相馬堅次教授が校長代理となった。後年、太田先生は次のように語

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っ て い る 。 ﹁ここで本学の学んで来た苦難の退、終戦後における日本経済専門学校時代の一端を語ってみよう。前述の事 情によって推察いただけると思うが、本学の経営は終戦時よりさらに深刻化し、先生の給料遅配、減俸が続出 し、ついに学校解散論も続出したほどであった。しかも各先生方はじめ内外同志諸氏の協力の下で、徐々に学 校内外を整備したのである。﹂

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昭和二十五年五月、日本経済短期大学が、笹森順造学長︵元国務大臣︶と鍬壕巌理事長との就任を得て発足し た。経営科、貿易科・第一部・第二部である。 昭和二十七年︵一九五二︶五月、太田耕造、松尾忠二郎の二理事と藤原繁常務理事が帰任した。公職追放解除 によるもので、独立回復とともに占領軍政下の苦難の迫の行方にようやく曙光が見えはじめてきたのである ︵岩 田 愛 之 助 理 事 は 昭 和 二 十 五 年 三 月 逝 去 し て こ の 口 を 迎 え る こ と が で き な か っ た ︶ 。 国際柔道学校︵昭和二十七年創立︶ 昭和二十七年二九五二︶藤原繁理事の力により国際柔道学校が創立されて学園に活気を与えた。 附属中国留学生部︵昭和二十九年二九五四︶∼現在︶ 同年九月、中国留学生間題が起こってきた。これは香港地区の華僑の子弟九六名を私乎留学生として来日させ、 本学園に入学させたいという話であった。この間題は幾多の論議を尽くしたうえ、受け入れが決定され、昭和二

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十八年十二月附属中国留学生部の設置が認可され、昭和二十九年一月二十五日、留学生第一陣が到着した。これ は戦後留学生の最初の来日で各紙とも大々的に報道した。留学生部主任であった柳内滋氏は歓迎の歌をつくった がその内にこういう一節がある。﹁やがて亮々と鳴る、勇壮な進軍のラッパにがっしり手を握り、肩をならべて 祖国の再建、アジアの大同、世界一邦の理想のために、ここ武蔵野の学舎から高らかに進軍の歌を歌いつつ共に 行こう、共に進もう。一九五四年八月七日、於武蔵野学舎﹂。 こうして中国留学生教育は、戦後はじめて本学閲によって開始されたのである。これが現在の亜細亜大学留学 生別科の始まりである。

学校法人・亜細亜学園︿昭和二十九年二九五四丁現奪

昭和二十九年五月、笹森学長ならびに鍬塚理事長が退任し、大田耕造理事が学長兼理事長となり、学校法人猶 興学園は亜細亜学園と改称された。そして亜細亜大学設置の決議が行われたのである。

昭和三十年四月一日、亜細亜大学商学部が開設された。 太田耕造学長兼亜細亜学園理事長は、亜細亜大学建学の精神を﹁自助・協力﹂と明示し、学則第一条に、大学 設立の日的ならびに使命を明示した。

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亜細亜大学学則第一条 本学は、学校教育法の定めるところにより、広く一般教育に関する知識を授けるとともに、深く専門の学術 を研究教授するをもって目的とし、特に、日本および亜細亜の文化社会の研究と建設的実践に重点を置き、 もって亜細亜融合に新機軸を打ち出す人材を育成するを、その使命とする。 右大学学則の前半は、大学設置基準の法文に拠るものであり、後半は特記して亜細亜大学教育の重点ならびに 使命を述べたものである。 五島慶大東急会長の理事長就任︵昭和三十一年二九五六︶八月︶ かくして亜細亜大学商学部は遠大な理想を掲げ、当代一流の学者教授を擁する教授陣をもって発足したのであ るが、日本経済の復興もようやく緒についたばかりで、経済界の支援を得られないまま、たちまち経営面に行き 詰まりをきたした。これに支援の手をのべたのが五島慶大東京急行電鉄株式会社会長であった。 昭和三十一年八月十一日、五島会長が亜細亜学園理事長に就任、経営面の不安が一掃されることとなった。 以後、五島理事長・大田学長のもとに亜細亜学園は堅実な歩みをすすめることになった。 昭和三十二年日本経済短期大学第一部を再開。 五島慶大理事長は昭和三十四年八月長逝され、五島昇理事長が後を継がれたので、五島理事長・太田学長の体 制は昭和五十六年太田学長の逝去まで不動のものであった。この間二十五年になるので、亜細亜学園の経営・教 学の基礎はほぼこの間に確立したのである。

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亜細亜学園の発展−五島理事長、太田学長体制の二十五年︵昭和三十一年二九五六丁五十六

年二九七こ︶ 川   教 学 関 係 人 昭 和 三 十 年 二 九 五 五 ︶ か ら ︶ 昭和三十年四月開設の亜細亜大学商学部商学科は、昭和三十七年四月、商学科・経済学科の二学科別となり、 日本経済短期大学の二部経営科の学生募集を停止した。したがって日本経済短期大学は以後昼間部のみとなって、 今 日 に 至 っ て い る 。 昭和三十九年一月経済学部経済学科が新設され、亜細亜大学は二学部別となった。九月、一、二年生を対象と する教養部が新設された。初代商学部長は粟屋義純教授、初代経済学部長は半澤耕賞教授、初代教養部長は夜久 正雄教授、日本経済短期大学部長は伊部政一教授が就任した。つづいて昭和四十一年四月法学部法律学科が設置 され、初代学部長に中根不馬雄教授が就任した。 これで本学閑は亜細亜大学三学部三学科、教養部、日本経済短期大学を擁するまでになった。 学園全体の教学事項については、学長の主催する学部長会議 ︵三学部長、教養部長、短大部長、総務部長、経 理部長、教務部長、学生部長︶ の合議によって行われた。 この間、太田学長の台湾ならびにアジア各国の歴訪︵昭和三十三年、三十五年︶ の際、香港新亜書院の銭穆院長 との提携によって、新亜書院との間に交換留学生制度を発足せしめられた。これが後に各国大学との間に交わさ れることになる交換留学制度の始まりである。 10

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アジア祭、アジア文化研究会、アジア・ハイウエー学術調査隊、硬式野球部等 昭和三十四年には学友会主催の学園祭を﹁アジア察﹂と命名することになった。三十六年秋、教養部教員有志 の﹁アジア文化研究会﹂が発足した。学生のアジア研究に対すqQ軌⋮意も高まって昭和三十七年南西アジア学術調 査隊の派遣となった。四十三年、四十五年には第一次、第二次アジア・ハイウエー学術調査隊の派遣となり、三 十九年にはボルネオ学術調査隊が出発した。これらは亜大学生のアジア各地現地調査隊派遣の始まりであった。 昭和四十年秋には硬式野球部︵矢野祐弘監督︶が待望の一部優勝をかちとり、亜大の名声を大いに高めた。 戦 妓 同 窓 生 慰 霊 祭 ︵ 昭 和 四 十 年 ︶ ・ 興 亜 神 社 同年十一月、大学と青々会︵同窓会︶との共催によって本学開戦毀同窓生九六名︵のち一名追加︶ の慰霊祭が遺 族・教職員・卒業生および在学生出席のもと厳粛に挙行され、新装成った興亜神社に御霊をお祀りした。今日ま で毎年例祭が行われている。 明 治 百 年 記 念 特 別 連 続 講 座 ︵ 昭 和 四 十 二 年 ︵ 一 九 ⊥ ハ 七 ︶ ∼ 四 十 三 年 二 九 一 ハ 八 ︶ ︶ 昭和四十二年、五島昇理事長の提案にもとづき、明治百年記念特別連続講座が二年間にわたって行われた。一 五名の請師は、林房雄氏にはじまり、海音寺潮五郎、福田憧存、高坂正夷、今村均、山岡荘八、小林秀雄、永野 重雄、江藤淳、林健太郎、竹山道雄、街藤藩吉、出光佐三、岡潔の諸氏、最後に太田学長という当代第一流の講 師陣であった。本学の学生はじめ学内外に多大の影響を与えた。 大 学 紛 争 ︵ 昭 和 四 十 年 代 ︶ 一方、この頃、亜細亜学園の自助・協力の学風とは全く異質の過激な学生運動が全国に起こり、大学紛争の嵐 が日本中の大学を席捲し、遂には過激な学生の大学占拠、例えば東京大学の安田講堂占拠事件までとなった。こ 11

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れは、現面した学生が階級闘争の先兵となって、労働者、市民を扇動した体制変革の政治活動であった。彼らは、 話し合いによる解決を否定し、バリケード封鎖・大学占拠・ストライキ・大衆団交と称する教員つきあげ等、暴 力的な学生運動を日本革命の引き金にしようとしたものであった。 本学園においても一部学生がその影響を受けて不法行為を計画し、一般学生を扇動しょうとするに至った。太 田学長は、この狂乱無道の学生運動を憂慮され、四十四年五月、﹁大学問題に関する基本方針﹂と題する所信を 明示され、全学教職員ならびに学友会一体となって過激学生の無法行為と対決したのである。学生全体の常識的 対応とも相まって、紛争のために授業を取りやめることが一日もなく、教育の本旨を貫いたのである。 大学学友会連絡協議会︵昭和三十七、三十八年∼︶ 大学はまた、学生の要求に対しては、学友会役員と学長以下大学執行部の全員との合同会議を連絡協議会とし て恒例化し、教員と学生との信頼関係の維持には全力を尽くしたのである。 THE AS−A︵昭和四十四年二九六九︶﹁、昭和六十二年﹁アジア﹂に改称︶ また新たに学内に広報室を設け広報紙rTHE ASIALを創刊して、教育方針ならびに学内事情の周知徹 底を図った。学友会の亜細亜大学新開と相まって学園内の交流が図られたことは、過激派学生から学園の教育環 境を守るうえに大きな力があったのである。 F O C   ︵ フ レ ッ シ ュ マ ン ・ オ リ エ ン テ ー シ ョ ン ・ キ ャ ン プ ︶   ︵ 昭 和 四 十 四 年 ∼ ︶ 学友会の要望にもとづき四十四年五月第一回FOC ︵フレッシュマン・オリエンテーション・キャンプ︶ が、 千葉娼岩井海岸ならびに多摩御岳山で行われ、以後、毎年の行事として多くは山中湖畔の民宿で行われた。これ は新入生にとって大学に親しみを持たせるうえに非常に大きなはたらきをすることが評価され、他大学でも同様 12

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な行革が行われるきっかけを作ったのである。今日﹁出会いの広場﹂として行われている行事の始まりである。 洋 上 大 学 ︵ 昭 和 四 十 四 年 ∼ ︶ また四十四年八月、学友会の企画として洋上大学が行われ、タイ、マレーシア、シンガポール、インド、中国、 台湾などアジア各地への海外調査旅行が毎年つづけられることになった。 経 営 学 部 へ 昭 和 四 十 五 年 二 九 七 〇 ︶ ∼ ︶ 昭和四十五年四月、商学部は経営学部に改組された。 野球部全国初優勝︵昭和四十六年二九七一︶︶ 四十六年六月、亜細亜大学野球部が遂に日本一の栄冠をかちとった。 ア ジ ア 研 究 所 ︵ 昭 和 四 十 八 年 二 九 七 三 ︶ ∼ ︶ 四十八年六月、亜細亜大学附属アジア研究所創設、初代所長筑紫平蔵教養部教授。 留 学 生 セ ン タ ー ︵ 昭 和 四 十 九 年 ︵ 一 九 七 四 ︶ ∼ ︶ 四十九年十一月、留学生センターが設けられ、飯島正教授が初代委員長となった。︵今日の国際交流部につづく︶ 交換あるいは派遣留学生制度は、昭和三十三年の新亜書院との提携を皮切りに、韓国の延世大学、シンガポー ルの南洋大学、シンガポール大学、マレーシアのマラヤ大学、台湾の淡江文理学院、米国のワシントン州立西ワ シントン大学と昭和五十四年までに七校に拡大された。 大 学 院 三 研 究 科 ︵ 昭 和 四 十 九 年 二 九 七 四 ︶ ∼ ︶ 昭和四十九年四月、経営学、経済学、法学の三研究科の大学院︵修士課程︶が同時に開設された。三研究科初 代委員長は、経営学研究科古川栄一教授、経済学研究科板垣輿一教授、法学研究科田中誠二教授である。そして 13

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五十一年には三研究科の博士課程が開設された。 経済学部国際関係学科人昭和五十一年二九七六︶︶ さらに、亜細亜大学建学の使命を具体化するため国際関係学部の設置が議せられ、その第一歩として、経済学 部の中に新たに国際関係学科が、昭和五十一年四月、設置された。 昭和五十五年ユハ月五日、ノーベル経済学賞を受賞されたカール・グンナー・ミュルダール博士が釆学され、﹁ア ジアにおける発展とは何か﹂と題して講演された。ついで十一月十三日、チベットの元首十四世ダライ・ラマ祝 下が来学され、﹁未来の世界市民に対する私の期待﹂と題して講演された。いずれも聴衆に深い感銘を与えた。 ∽   施 設 の 拡 大 ︵ 昭 和 三 十 一 年 二 九 五 ⊥ ハ ︶ か ら ︶ 昭和三十一年五島慶大理事長就任によって経営上の支援を得た学園は、放ちかけだった本館鉄筋コンクリート 三階建て︵旧四号館︶が、昭和三十二年二九五七︶二月竣工した。正門も五島理事長愛蔵の一本造りの御影石 の門柱︵現南門門柱︶となった。待望の竣工で教職員の愁眉を開いたのである。 昭和三十三年から三十五年にかけて、近隣の土地、約一万三、〇〇〇平方メートルを買収して、校地の拡張を 図 っ た 。 昭和三十五年︵一九六〇︶、前記本館の増築が行われ、校地内本館北側に、野球場が開設された。 さらに、三十七年二九六二︶十一月旧四号館東側教室、三十八年二九六三︶十月アジア会館︵アジア璧削身︶、 三十九年︵一九六四︶十一月日の出校地只収、四十年二九六五︶五日目の出校地の野球場開設、同月二号館、 四十一年︵一九六六︶三月旧三号館︵現講堂︶、日の出学生寮、四月二号館、四十三年二九六八︶三月体育館、 14

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四十四年二九六九︶四月図舎館、四十五年︵一九七〇︶五月日の出セミナーハウス、四十八年︵一九七三︶一月 五号館、二月学友会館、五十一年︵一九七六︶九月総合体育館、五十三年︵一九七八︶三月図書館別館が竣工し た。亜細亜大学創立当時からすると、無から有を生じたように全く面目を一新してしまったのである。 なお、本学図書館は岡本文庫︵岡本良知教授蔵書︶、大田熊蔵︵太田学長実兄︶文庫、植田捷雄文庫、葛生能久 文庫、篠原雄文庫、別所千賀照文庫、中山優文庫、古川栄一文庫等、稀観雷を含む貴重な文庫を擁している。五 十周年現在蔵書四十万冊である。五十周年記念事業の一環として建てられる太田耕造記念館は、現図書館を包合 して情報科学センターの機能を併せもつ予定である。 五十一年︵一九七六︶九月竣工の総合研究館は地上一〇階自重の研究館で、武蔵野市としては最初の一〇階の 建 物 と な っ た 。 五十五年︵一九八〇二ハ月、第二アジア会館、十二月、長野蝿栂池アジア山荘竣工。 畑 創立四十周年並びに太田学長逝去︵昭和五十六年二九八一︶︶ 昭和五十六年、本学は創立四十周年を迎えた。 これを寿ぐかのように、硬式野球部が東都大学一部リーグ戦で五十五年秋、五十六年春の連続優膠を成し遂げ た。 秋には四十周年記念行事が相次いだ。十月二十一日、田中六助通産大臣︵本学昭和十八年度卒︶が﹁アジアに おける日本の役割﹂と題し、十一月十九日には、駐日オーストラリア大使ジェームス・プリムソル卿が環太平洋 という立場から、それぞれ熱弁をふるわれた。ついで、本学卒業生で海外で活躍している採草基弘︵三十九年度 15

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商学部卒・在バンコク︶君ら五氏を招き、﹁アジアに生きる﹂のテーマでシンポジウムが行われた。 こうしたなかにも悲しい出来事が相次いで起こった。これよりさき昭和五十三年十一月二日、本学園創立者の 一人である藤原繁理事が逝去され、十一月十九日、青山葬儀所において大学葬が行われた︵のち昭和五十八年顕 彰碑が興亜神社境内に建立されr藤原繁先生追悼集Lが刊行された︶。五十五年十一月十日には、粟屋義純理事が亡 くなられた。共に太田学長を助けて、学園の中心的推進力であった。 昭和五十六年十一月二王ハ日、亜細亜大学の創設者太田耕造学長が逝去された。享年九一歳十一カ月。太田学 長は﹁自助・協力﹂を建学の精神とされ、﹁日本およびアジア興隆のために挺身する人材を育成すること﹂を建 学の使命とされ、本学の揺るぎない基礎を築かれたのであった。十二月二十一日、青山葬儀所において多数の会 葬者を得て学閑葬が執り行われた。 先生がお亡くなりになられたあと、ご遺言が披露された。それには、先生が長年お住まいになっておられた四 谷左門町のお宅・宅地・図書のすべてを本学園と同窓会青々会に寄贈するとしたためられていた。 太田先生が亡くなられてのち、全学的組織により大田耕造先生顕彰事業実行委員会が組織され、年を追って、 ﹁胸像﹂の建立、r太田耕造全堅︵四巻︶の刊行、太田奨学基金の設定、迫相のお宅・土地・図書の利用が行わ れた。図書は太田耕造文庫、太田熊蔵文庫として図書館に入り、お宅・土地はのちに数十億円で売却され、五十 周年事業の資金として利用されることになった。 16

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昭和五十六年十一月二十六日太田学長が逝去されると、それより前、昭和五十五年十一月学長事務取扱に就任 していた式部啓教授が学長を代行した。 早川崇学長 翌、昭和五十七年四月一日、新学長に早川崇先生が就任された。 早川学長は、五島昇理事長と生年月日を同じくするというような奇しき図線もあってのことであったが、年来 の同志で、自治、厚生、労働大臣を経験され、また、日本バングラデシュ協会会長としてアジアへの深い関心を お 持 ち で あ っ た 。 本学の発展と太田精神の継承を誓って力強い就任の挨拶をされた。そして積極的に教職員との会合を重ね、農 林水産学部の設立をはじめ、姉妹大学を韓国に創設する等壮大な計画を立てられたが、八月頃病に罷られ、十二 月七日急逝された。享年六六歳であった。 十二月二十一日青山葬儀所において、自由民主党・亜細亜学園の合同葬が執り行われた。葬儀委員長、総理大 臣中曽根康弘総裁は、年来の友を喪い、﹁今、私は、君の霊前に立って洋陀たる涙を禁じ得ません﹂と異例の弔 辞を述べ、葬儀副委員長五島昇理事長は、﹁自分の分身を失ったような強烈な心の痛みを覚えます﹂とその悲し みを表白した。会葬した二千に及ぶ学生の﹁仰げば尊し﹂ の歌は、ご遺族はじめ全会葬者の胸を打った。 武 部 啓 学 長 ・ 五 島 昇 会 長 ・ 瀬 島 龍 三 理 事 長   ︵ 昭 和 五 十 八 年 ︶ 昭和五十八年二月一日、理事会が開かれ、後任学長として式部啓学長代行が全会一致で学長に推蒋され同日付 17

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で 就 任 さ れ た 。 そして五月三十日、昭和三十四年以来、理事長の重責を担われてきた五島昇先生が、新たに設けられた会長の 職 に 就 か れ た 。 新理事長には瀬島龍三氏が就任された。就任に際して瀬島新理事長は学園経営の根本方針として建学精神の堅 持、時代の変化への対応、経︵経営︶教︵教学〓体の努力の三点を標梯され、学園の前途を明示された。 時あたかもr亜細亜学園四十年史﹄が刊行され、四十年の時の流れというものを感じさせられた。 こうした変化の間にも、教育活動は一瞬の遅蹄もなく活発に動いていった。特に学生のクラブ活動の大型企画 は注目すべきものであった。ワンダーフォーゲル部は、創部二十周年を記念して、二月十三日から四四l日間、ネ パールでトレッキングを行い、また、吹奏楽団は総勢﹂ハ五名、八月十五日から一週間、インドネシアへ親善演奏 会に出かけ、インドネシア独立記念視賀パレード、大統領夫人主催のチャリティー演奏会に参加し、ロイ親善の 大 役 を 果 た し た 。 十一月二日には、第一回から数えて四半世紀を迎えたアジア祭の某が開かれ、延べ三万三、〇〇〇名の人出で キャンパスは大いに賑わった。 十一月三日、青々会員が中心となって建立した ﹁藤原繁先生顕彰碑﹂ の除幕式が、興亜神社で行われた。 そして、十一月二十六日、太田耕造先生のご命日に、﹃太田耕造全集﹄第一巻が刊行された。 昭和五十九年度を迎えて、四月五日、学内広報紙﹃THE ASIALが、創刊三〇〇号を刊行した。教職員、 学生共通の広場として十五年の歳月を経ての三〇〇号は、日本の大学広報紙中の特異な存在といえよう。 五月十四日、チベットの第十四世ダライ・ラマ祝下が再度釆学され、﹁二十一世紀と宗教の使命﹂と題し講演 18

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され、二、五〇〇名の聴衆が三一二番教室を埋めつくした。 五月二十四日、野球部が東都大学春季リーグ戦で六度目の優勝を遂げた。 五月二十九日の理事会で、スタディ・グループから答申があり、昭和五十九年度を初年度とする﹁亜細亜学園 五力年計画﹂が報告された。それは、教育、研究環境の整備拡充、質的充実、国際化の促進等を柱として二三項 目にわたるものであった。 その一環として、十月二十二日、三号館の竣工をみた。これは旧三号館を壊して新築されたもので、地下一階、 地上四階、延べ面積六、五〇〇平方メートル 二、九六六坪︶ の堂々たるもので、特に講堂は、世界地図をあし らった豪華な鍛帳に飾られた約一、﹂ハ○○名収容のすばらしいものである。 そしてまた、﹁国際化の促進﹂の両では、従来の留学生センターが発展的解消を遂げ、十月一日から国際交流 部が発足し、新たにインドネシアのナショナル大学、北京師範大学、新鑑財経学院の三大学と提携を結ぶことに な っ た 。 十二月十七日、かねて届出中であった日本経済短期大学の経営科に経営管理専攻、経営情報処理専攻の二専攻 を設置する件が受理され、同じく二十五日には、亜細亜大学各学部および短大の定員が次のように認可された。 亜細亜大学各学部︵恒常定員︶三〇〇名、︵臨時定員二五〇名、日本経済短期大学︵恒常定員二三五名、︵臨 時 定 員 ︶   七 五 名 。 六十一年四月、コンピュータ教室が完成した。瀬島理事長が就任の際に述べられた時代の変化に対応する教育 事業の実行であった。以後、情報教育は飛躍的に推進された。 六十一年十一月三日、興亜神社の十年に一度の例大祭が行われた。ご遺族、卒業生など約三〇〇名が参列し、 19

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九七柱の戦役校友の霊を祀った。校友銘碑の除幕、r戦役校友の面影﹄の新訂再版、学園の歴史を示す展示室の 開設等の事業が行われ、伝統精神の継承を誓った。 衛藤清吉学長 明けて六十二年二月、任期満了により式部啓学長が退任され、新たに街藤藩吉理事が学長に就任された。就任 に当たって出師表を引用されてのご挨拶は教職員に深い感銘を与えた。 学長は就任以来、〝走れメロス″︵太宰治の短篇・昭和十五年作︶ の掛声のもと、懸案事項の解決に大車輪の努力 を傾注された。学園花いっぱい運動、聴講生制度の制定、広報紙﹃THE ASIAh ︵七月にrアジアLと改称︶ の全父兄への配布、亜細亜学園中・長期計画検討委員会の設置、日常業務の最高意思決定機関としての部長会の 発足、二セメスター制の導入等々、学園は一気に走り始めた。 特に、昭和六十三年からの西ワシントン大学への派遣留学、国際関係学科の留学必修︵昭和六十三年入学生よ り︶、日本経済短大のパシフィック・ルセラン大学への派遣留学は、マスコミに話題を提供し、大きな反響を起 こ し た 。 六十三年三月、これまた留学生教育としては画期的なチューター制による国際女子寮・萌和実が竣工、同時に 男子寮清風寮が新築竣工した。 また、六十三年は、学外へ向けてテレビCMを利用しての本学の知名度、イメージアップの広報活動の展開を はじめ、学内事務機構の一部改変、事務局長制の導入、教員の事務部長兼務の廃止と委員長制の導入などが行わ れ た 。 また、平成三年十一月には、本学園も創立五十周年を迎えるため創立五十周年記念事業事務室が設けられ、各 20

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種記念事業の具体的検討がなされることになった。そして現代社会にマッチした特色ある教育を行うための﹁新 学部設立準備委員会﹂が三月に発足し、情報化社会の要請にこたえる情報教育の充実と事務処理の電算化を図る ため﹁情報科学研究所﹂が四月に開設された。 国際化の一環としては、六月にアメリカの州立東ワシントン大学、州立中央ワシントン大学、オレゴン州立大 学と交流協定を締結し、本学から留学生を派遣することになった。また、昭和三十二年二九五七︶に本学が初 めて外国の大学と交流協定を結んだ香港中文大学新玉書院との交流三十周年記念式典・記念講演会が双方の大学 ︵ 七 月 、 十 二 月 ︶   で 盛 大 に 挙 行 さ れ た 。 昭和六十四年一月七日昭和天皇が崩御された。教職員一同黙両をもって哀悼の意を表した。 平成元年三月二十日、五島昇会長が逝去された。享年七二歳であった。昭和三十四年九月に本学園理事長に就 任、そして昭和五十八年には新たに設けられた会長職に就任。故五島慶大理事長の後、三〇年にわたって本学の 経営に当たってこられた。四月七日旭日大綬章の授与が閣議で決定された︵昭和六十一年十一月勲一等瑞宝章︶。 三月下旬には、第一回亜細亜大学アメリカプログラム=AUAPで五五九名の学生がアメリカの四つの大学に 留学し、現地で本学の卒業単位になる七科目一七単位を履修してきた。 四月からは、この年度から始まった﹁フレッシュマン・イングリッシュ﹂担当のネイティブ・インストラクタ ー二三名を客員教員として採用。週五回のこの授業は、会話中心の英語授業で、これまでの人文・社会科学系の 大学における英語教育のあり方を一新したものとして、注目されている。また、外国人教員を一皮に二三名も採 用したのは、英語を専門としない大学では本学が初めてといえる。AUAPの事前研修と合わせ、学生たちの英 会話力の向上に大変プラスとなっている。 21

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また、ユニーク︵〓云一能︶推薦人試合格者の一期生四四名と社会人入試合格者一期生四名が初めて入学した。 この年は、八月にアメリカのポイジー州立大学、モンタナ州立大学と交流協定を締結し、海外協定大学は、九 カ国・地域の一五大学となった。 十一月十六日には、初代学長・太田耕造先生生誕百年記念式典が行われ、後半生のすべてを本学の発展に尽く された太田先生の遺徳を偲ぶとともに、その功績を称えた。続いて、瀬島龍三理事長による記念講演が行われた。 平成二年四月、新設の国際関係学部国際関係学科が幕を開けた。入学志願者も二〇〇名の募集定員に対して、 一般入試A︵国語、英語の二科目試験︶に二、九三五名、一般入試B︵英語のみの試験︶に一、五一七名の合計四、 四五二名と、募集期間が短かったわりに志願者が多かった。 同四月、英語教育の強化、そしてネイティブ・インストラクターが所属するものとして、﹁英語教育研究所﹂ が設けられ、初代所長に教養部の久我雅紹教授が就任した。 一方、学生の課外活動も活発で、硬式野球部が東都大学一部リーグ戦で初めての春秋連覇。六月に行われた全 日本大学野球選手権大会では、二皮目の優勝﹁大学日本一﹂に輝いた。投手の小池秀郎君︵法学部四年︶、高津臣 吾君︵経済四年︶の活躍が光った。テニスやトウーバトン上級の部でも、それぞれ日本一、国際大会優勝の栄誉 に 輝 い た 。 平成三年度入学試験に、本学としては初めて経営学部が、﹁大学入試センター試験﹂を導入︵一月︶、四〇名の 募集に四、三二九名の応募者でl〇八二二倍という高倍率になり、マスコミをはじめ受験界を賑わした。この年 の本学園受験者は、経営学部一万三、七二五名、経済学部九、〇〇〇名、法学部八、三〇六名、国際関係学部五、 四七一名、日本経済短期大学二、四〇八名の合計三万八、九一〇名で本学園史上空前の高志願者数となり、この 22

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数は五年前の約二・五倍を記録した。 国際交流の面では、六月にタイ国のセィナカリンウィロット大学と、八月にはニュージーランドのベイ・オブ ・プレンティー・ポリテクニックと交流協定を締結した。これで本学の海外協定大学は、〓カ国・地域の一七 大 学 と な っ た 。 八月には、吹奏楽団がタイ回で第三回海外親啓演奏会を行った。この演奏会は四年に一回行われるもので、今 回は六月に交流協定を結んだばかりのセィナカリンウィロット大学との交換演奏会を中心にタイ国との交流を深 め て き た 。 創立記念日が近づいた十月九日、事務職員の大黒柱であった鯵坂芳文理事・事務局長が逝去された。学問の生 き字引的存在であっただけに痛恨の極みであった。

創立五十周年記念行事︿平成三年二九九こ︶

十月になるといよいよ、創立五十周年記念の事業が開始された。 十月二十四日、第一回の記念講演会が、作家の司馬遼太郎氏を迎えて、﹁私ども人類﹂のテーマで行われた。 十一月二日には、東京丸の内の東京商工会議所ビルの国際会議場で、﹁アジア・太平洋地域における教育の交 流−その意義と将来への展望−﹂をメインテーマに国際シンポジウムを開催した。このシンポジウムは、衛藤藩 苫学長の基調講演に始まり、本学の海外交流大学の学長、副学長による、教育の国際交流について、その理念や 現状と将来、さらには日本への期待など三つのセッションに分かれて、発表と討論が行われ、日本語と英語の同 23

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時通訳がついた本学としては最大規模のシンポジウムであった。海外からの招待者は、次のとおりである。 ▽ドナルド・L・ギヤリティー学長︵中央ワシントン大学︶ ▽ケネス・P・モーティマー学長︵酉ワシントン大 学︶ ▽マーシャル・E・ドラモント学長︵東ワシントン大学︶ ▽ジョン・Ⅴ・バーン学長︵オレゴン州立大学︶ ▽ ウィリアム・0・リキ学長︵パシフィック・ルーセラン大学︶=以上アメリカ ▽超柴曜学長︵淡江大学=台湾︶▽林聴標院長︵寄港中文大学新亜書院=香港︶ ▽ウイタヤ・ジュデバクル副学長 ︵セィナカリンウィロット大学=タイ︶ ▽ケビン・M・バール学長︵ベイ・オブ・プレンティ・ポリテクニック=ニュ ージーフンド︶ ▽モハメッド・ノール・オスマン副学長︵マラヤ大学=マレーシア︶ ▽スユティ学長︵国立インドネ シ ア 大 学 = イ ン ド ネ シ ア ︶   ▽ 陳 昭 銘 副 院 長   ︵ 新 怒 財 経 学 院 = 中 国 ︶ また、文部省大臣官房審議官の佐藤禎一氏がパネリストとして参加。本学からの出席者は、街藤洛古学長ほか、 藤田至孝教授︵経済学部︶、飯島正教授・佐賀健二教授︵以上国際関係学部︶、竹前文夫教務委員長︵教授︶・中川 隆助教授︵以上教養部︶、山本忠士学長事務室長。 三日には、アジア祭期間中を利用して、卒業生を母校へ招く大学始まって以来の﹁ホームカミング・デイ﹂が 体育館を会場に開かれた。卒業生約一、〇〇〇名が参加し、恩師を囲み、旧交を温め、学生時代の思い出話に花 を 咲 か せ た 。 四日、午前十一時から正午まで、三号館講堂で記念式典を挙行。 式典には、学内関係者、卒業生はもとより、本学が交流協定を結んでいる海外の大学の学長、副学長、そして、 学外からも多くの方々が参列し、参列者一、二〇〇名を数え、五十年の節目にふさわしい盛大な式典となった。 初めに瀬島龍三理事長、街藤洛苫学長が、式辞を述べたあと、井上裕文部大臣︵長谷川正明私学行政課長代読︶、 24

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全私学を代表して橘高重義氏︵日本私立大学団体連合会副会長、東京理科大学理事長︶、横田二郎東京急行電鉄㈱社 長、海外の交流協定大学を代表して、林聴標香港中文大学新亜書院院長、青々会︵同窓会︶会長の依田清一氏︵泉 建 設 ㈱ 代 表 取 締 役 社 長 ︶   が 、 そ れ ぞ れ 祝 辞 を 述 べ た 。 続いて、功労者表彰、創立五十周年記念カレッジソングの入選作が披露されたあと、吹奏楽団の伴奏による第 一 学 生 歌 斉 唱 で 恵 を 閉 じ た 。 午後四時から赤坂のキャピトル東急ホテルにおいて祝賀パーティーが盛大に開かれた。 さらに、十三日には、中国社会科学院院長・胡縄氏による記念講演﹁中国の改革と開放・l兄的展開の観点に立 って﹂が開催された。創立五十周年記念事業の締め括りは、十一月二十六日に行われた、夜久正雄名誉教授に よる﹁太田耕造先生の思想と教育﹂の記念講演であった。 創立記念日の十一月四日には、学園の五十年の歴史と現況を盛り込んだビデオとアルバムが完成、また、記念 学術論文集七冊が各学部、教養部、アジア研究所から刊行され、併せて別巻r太田耕道の思想と教育し一冊が刊 行 さ れ た 。 25

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参照

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