• 検索結果がありません。

法と道徳の関係に関する一考察

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "法と道徳の関係に関する一考察"

Copied!
137
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)橋. 秀. 治. 法と道徳の関係に関する一考察. 次. H・L・A・ハートの刑法哲学を中心に. 目. はじめに 刑罰正当化の三段階. 応報理論. 第一節. 第一章刑法における一般理論. 功利主義的正当化理論. 刑罰の一般的な正当化論. 一. 第二節. 二. 第二章免責事由論 第一節メンス・レアとしての自発性. 従来の免責事由の根拠付け. 一 責任能力・意図ないし認識・自発性 一一自発性の内容. 第二節. 法と道徳の関係に関する一考察. 高.

(2) 道徳的非難可能性による根拠付け. 早法六六巻三号︵一九九一︶. 一. 道徳・正義・公正. 道徳的価値に基づく免責事由の根拠付け. 一一功利主義的な根拠付け. 実質的な根拠付け. 第三節 一. 批判と位置付け. 二 第四節. 相互独立の理論構成. 行為功利主義と規則功利主義. ︻ 批判とその検討. 二 法と道徳. 三 第三章. 一. 自然権的な道徳的権利. 免責事由の道徳理論における位置. 第一節道徳理論 二. 法実証主義. 第二節 法と道徳の相互関係. 免責事由の道徳的諸側面. 免責事由における法と道徳. 法批判の場面. 一一法と道徳の関係するさまざまな場面. 一 三. 一. 免責事由における法と道徳の接合. 第三節 二. むすびにかえて. 二.

(3) は じ め に. ︵1︶ 本稿は︑今世紀を代表するイギリスの法哲学者の一人であるH・L・A・ハート︵田﹃冨旨虻・房一︾9一喜拐田3. の刑法哲学を通して︑法と道徳の関係についての問題の一側面に光を当てようとするものである︒法哲学において︑. 法と道徳の関係についての問題が重要であるということは論を侯たない︒そして事実この問題は多くの法哲学者に. よって探究されてきた︒本稿が取り扱うハートもその一人である︒ハートはこの問題に対して法実証主義の立場から. アプローチをするのであるが︑この問題に対しての法実証主義の一つのテーゼはのちに検討するように︑法と道徳の. 関係について両者は分離される関係にあるというものである︒︿法は道徳的な見地から考察することによって法では. なくなることがあるわけではないし︑反対に︑道徳的に是認できる規範であるからといって︑その規範が法になるわ. けではない﹀︑︿法が法であるのは︑社会的な事実に由来するのであって︑そこでは︑法に関しての道徳性が考慮され. てはならない﹀︑というのがその骨子である︒しかし今日︑ハートの直接教えを受けた学者においても︑その者が法. 実証主義に与する与しないにかかわらず︑法と道徳を連関させて理解していこうとする傾向がある︒たとえばイスラ. エル出身でオックスフォード大学において研究を続けているJ・ラズ︵冒器9評N︶は︑自己の立場をはっきりと法 ︵2︶ 実証主義であると規定しているにもかかわらず︑法と道徳との概念的な必然的関係を主張している︒同じようにオッ. 三. クスフォード大学のハートのもとで学び︑現在エジンバラ大学において活躍している法実証主義者N・マコーミック ︵3︶ ︵Z亀ζ809且良︶も︑法と道徳の内的関連性に配慮する議論を展開している︒他方合衆国出身で現在オックスフォー 法と道徳の関係に関する一考察.

(4) 早法六六巻三号︵一九九一︶. 四. ド大学におけるハートの後任者であるR・ドゥオーキン︵幻8巴α∪ぎ詩息は︑自らの立場を反法実証主義として ︵4︶ 位置付け︑法実践における道徳的考慮を重視する視点から︑法と道徳の融合を図っている︒しかし翻ってみて︑本稿. においてその理論の一端を明らかにすることを試みるように︑ハート自身も︑法と道徳とのあいだのある種の重要な. 関連を認めていたと考えられる︒このように法と道徳の関係を検討していくことは︑法哲学の一つの潮流である法実 証主義を理解するために不可欠なことであるといえる︒. 法が道徳と関連する領域にはいろいろなものが考えられるが︑そのなかでも刑法という法領域は逸することができ. ないものである︒本稿がハートの刑法哲学を中心としつつ︑その刑法理論に焦点を合わせるということは︑二重の意. 味をもつ︒まず︑刑法における法実践が法解釈の典型的な一形態としてあるということである︒ハートの批判者とし. て登場した上述のドゥオーキンがそのハート批判の足場の一つにしたのは︑法における解釈ということであった︒彼. は︑法を解釈する際には必然的に︑解釈者のもつ道徳的信念が法の中に取り込まれることになるということを主張し︑. このことを説明するために法命題という概念装置を導入した︒しかもこの概念装置は︑法とはなにかという問題を論 ︵5︶ じる法概念論を法解釈の領域で展開する際の拠り所となるものである︒もちろんこのことは︑法概念論を固有の一般. 性をもつ場面で論じる必要もあるという可能性を閑却することではないし︑またドゥオーキンの想定しているような. 次元の解釈理論が実定法理論のすべてであると考えることでもない︒本稿においても︑法解釈の場面における法と道. 徳の影響関係を重点的に取り上げるというわけでもない︒しかしドゥオーキンのこの法の捉え方は︑そのように限定. されたものとしてであっても︑一般的な法概念論を実定法解釈理論に関連付ける試みが必要であることを明らかにし.

(5) たものであるといえる︒たしかにハートも自己の法概念論において︑方法論的には解釈という要素を︑たとえば法に ︵6︶ 対する﹁内的視点︵夢巴暮Φ簿巴冒葺9≦零︶﹂という側面から導入しているといえる︒しかしこの視点それ自体は︑. 実際の法律問題をどのように解決するかに関しては︑その解決への手法を提示したに止まると考えられる︒これに対. して︑ハートの刑法理論の中において法と道徳の関係についてのハートの考え方を考察するということは︑ハートが ︵7︶ 法と道徳の関係に関しての理論を︑法についての抽象的な一般理論の場面ではなく︑実定法の分野において︑どのよ. うに展開しているのかという観点から考察するということになる︒そしてそれは︑一般理論としての法概念論が具体. 的な場面においてどのように生かされているかということを︑検討するという含みを有しているのである︒. またハートの刑法哲学の理論は︑そのほとんどが一九五〇年代末から一九六〇年代後半にかけて著されたものであ. るとはいえ︑今日でも英語圏での刑法哲学に関する文献において依然として中心的に取り上げられ︑かつ論じられる. 理論の一つになっている︒ハートの刑法哲学は︑英米での刑法哲学の理論水準を大いに高めたという意味で︑一時代. を画したといえるのである︒しかしこのようなハートの刑法哲学の刑法の領域への貢献とは裏腹に︑刑法哲学の法哲. 学一般への関連性はほとんど顧慮されていない︒刑法哲学を論じる際に取り上げられるハートの考え方と︑法哲学一 ︵8︶. 般の領域での古典的な地位を確立したとされるハートの考え方とを統合的に理解するという試みは︑まだ十分とは言. ︵10︶. えないのである︒しかもハートの刑法哲学は︑刑法の理論水準向上に与かって力があったというばかりでなく︑その ︵9︶ 根本には自由主義的な思想が存在しているといわれている上に︑ハートは一九七〇年代以降︑この思想を精緻化する. 五. 方向での政治哲学の分野への発言をかなり精力的に行っている︒しかしすでに触れた法実証主義というハートの立場 法と道徳の関係 に 関 す る 一 考 察.

(6) 早法六六巻三号︵一九九一︶. 六. から推測されるように︑このような思想を法概念論と並置するということは︑かなり微妙な問題を孕むようにみえる︒. その意味からも︑ハートにおける刑法哲学と一般理論としての法哲学との関係を探るということは︑ハートの法哲学. の全体像を理解する上で欠かせないことであると思われるのである︒それにもかかわらずこの側面からのハート理論. の統合性を探るということはまだほとんどなされていない︒本稿は︑ハートにおけるこのような統合の可能性を︑彼. の刑法哲学の次元において︑法と道徳の関係という側面から模索しようとする試みである︒そしてこのような試みは︑. 分析法哲学者としてのハートもまた︑法批判という形で表されるような法の道徳性という問題に関心を有しているの. だということの単なる確認を越えて︑この関心がどのように︑ハート自身の理論の内部で分析法理学的な法概念論と 整合しているのかということを問うことに通じる︒. ︵11︶. ︵12︶. ︵13︶. ハートが主題として取り上げて︑刑法理論に対してその独自の貢献を行った領域には︑刑法哲学の論文集である﹃刑. ︵14 ︶. ︵15︶. ︵16︶. 罰と責任﹄において論じられる刑罰正当化論︑行為論︑意図論︑未遂・不能論︑免責事由論︑量刑論︑死刑論が含ま ︵17︶. れ︑その他に因果関係論︑性風俗犯罪論︑堕胎論などがあるが︑このなかで本稿におけるハートの刑法哲学の検討に. おいては︑﹃刑罰と責任﹄の中心課題である免責事由︵Φ蓉霧琶を軸にして︑ハートの刑法哲学の理論に接近してい. きたい︒免責事由の内容やその根拠についてのハートの見解は第二章で論じるが︑免責事由は英米法において︑﹁心. レアを要件として成立するのであり︑逆に犯罪について. 的条件が犯罪的ではない場合には︑行為は犯罪的ではない﹂という法諺のなかに現れている犯罪的な心的条件︑すな わちメンス レア︵§§箕ミ︶に関係する︒犯罪はメンス. の責めを問われないのは︑メンス レアが欠如しているという免責事由の抗弁が認められるからである︒そして本稿.

(7) において明らかにすることを試みるように︑この免責事由は︑法と道徳の関連性にとって鍵となる議論をもたらすよ ︵18︶. うに思われるのである︒またこの免責事由についてのハートの理論は︑その根拠付けが独自の貢献としてとくに高く 評価されており︑この点からもハートの免責事由理論を検討する価値がある︒. そこで本稿では︑まず第一章において︑ハートの刑法理論の枠組みを理解するために︑ハートが刑罰制度を一般的. にどのようにして正当化しているのかについての考え方を検討する︒つづいて第二章では︑第一章での議論を踏まえ. て︑免責事由論がハートの刑法理論の全体においていかなる位置付けを有しているのかという問題に触れながら︑免. 責事由がその根拠付けにおいて道徳的要素を付帯しているとハートが指摘している点を取り上げる︒そして第三章に. おいて︑第二章で見られたような免責事由についての考え方が︑ハート自身の法哲学一般に対してどのような含意を. 持っているかということに関して︑とくに法と道徳との関係のなかでのハートの免責事由理論の位置付けを探ること. o一y5客ζ零Oo吋目一畠卿○≦の目σΦ薦①﹃曽毎ミ﹄虜欝ミ訂§ミ↓ぎo建亀卜9ミリ≧鳴s詠誉も§ぎ防む Oい客竃鴛Oo﹃日一〇Fビ帥毒一ζo轟ご受昏O℃oω旨≦ω日︑︵一⑩O. R﹂園雷︑↓謹>ミ︾ミ画骨黛卜9ミリh器e⇔§卜aミ象ミ載ミミ匙賊愚︵Ω畦臼αo口℃さ一㊤刈O︶. いては参照し︑註においても挙げさせていただくが︑訳語を含めて必ずしも従っていない︒. 本稿ではハートの著作にかぎり著者名を省略して表示させていただく︒またハートおよびその他の著者の著述について︑邦訳のあるものにつ. によって︑明らかにしていくこととする︒. ︵1︶. ︵4︶. o㎝y卜黛ミ︑砺噛§慧ミ︵頃貧く帥こ¢巳くマ ﹂㊤o 鷺喰黛︑喰§らせ融︵頃胃<ρこq日<℃2一りO. 法と道徳の関係に関する一考察七. o9. 9即O蓼きpぎぎ轟孕鎖ミ恥の§§魯︵頃貰βこ¢巳くもさ6ミ︶︵木下毅・小林公・野坂泰司訳﹃権利論﹄︵抄訳︶︵木鐸社︑一九八六︶︶琶. 一一七七頁︒. 窓鷺ミ︒箋§§︵P評一傷9お○︒①︶も℃一鴇−=野ただし参照︑大塚滋﹁﹁制度主義的法実証主義﹂評注﹂﹃東海法学﹄一号︵一九八七︶二二九−. 32 ミミ.

(8) 早法六六巻三号︵一九九一︶. =霧ざき︒=㊤詳.ω翠一一〇の8ξo臣欝矩.︸旨℃ζの頃p︒一︷霧飽一評N︵︒匹の︶ぷ象§墨ミ§億るミ象ミ墨%騨¢塁肋§歳§§喰蝋垂卜>・嵐ミ鱈. ︒は︑概念分析が政治や道徳の価値問題ないし実践的問題に取り組むための 客置霧09昌葺矯卜卜鳶ミ又臣毛曽益≧葛年むo︒ご噂薯旨﹂G︒o. らである︒. 本稿では︑実定法と表現する場合もコモンローを含むものとする︒本稿の考察においては両者を区別して論じる必要があるとは思われないか. ︵Ω帥﹃︒呂自零 一⑩ミ︶も唱﹂㌣一c︒﹃. R℃ζの. 9即∪き蒔一p︑冒ぎ身38︑−旨§︵①e馬ミ︑ミ8§ξ皇卜§︵○臥︒益⊂ヨく空﹂㊤ミ﹀層℃℃﹂津8℃罠ト§.恥肉§葺逼9ω﹂気. 八. 参照︑森際康友 ﹁ 法 ・ 言 語 ・ 行 為 ㈲. H・﹂・A・ハートの法概念論の一分析. 同書は本稿を通じて︑婁︑と略す︒R器︒冥竃貫ぼP↓書. ﹂﹃法学協会雑誌﹄九九巻︵一九八二︶=二四頁一2︒. ︵一⑩①一︶もpる?嵩メ︑評臣9旨9貫&浮Φ望目目き99評ε︒房量詳曳.︵一㊤①鐸慧. と略記して該当頁を附す︒本書の邦語の紹介としては︑芝原邦爾﹁著書紹介. H・﹂・A・ハ!ト﹃刑罰と責任﹄﹂ロ翰O山︺﹃アメリカ法﹄二. ︒−88同書からの引用は本稿を通じて註において︑謁 σ葺蔓︑︵一〇9﹀ も ワ 田 ○ − 拐 9 ︑ 3 ω 諺 馨 鷲 勇 ① 三 σ 言 o ロ ︑ ︵ 一 ま o ︒︶もマ器?器8︑208ω︑もマ8Q. 一㎝㌣一〇 ︒区評ヨ鴇需昌肯.︵一霧δも℃二㌣冨㎝︸︑℃o総鼠讐勇①︒︒甥o虜学 ︒黛︑9き臓畠Oo舅︒呂o霧oh窄呂o屋一巨身︑︵一り①㎝︶も℃﹂Oo①−8り︸︑同導の註8p. ㊤︒山嵩⁝︑Zの閃甚窪βミ§物響9る賞9ぎ旨9︒一謬呂︒琶E一受. ︒︶も℃No ︒−器一.℃邑濃o幕8昌89Φ汐一⇒︒も一①ωo︷評ヨ筈幕導.︵一㊤$−①︒︶もマ一−NS︑ぎ諺︒囲≦三昏α響ω8霧一匿ξ.︵お9︶もマ 窪ωΦω︑︵一〇㎝o. を記しておきたい︒︑ζξ匹Rきα浮Φギ旨2巳80︷℃暮一鴇幕旨・穿笹9ρ且雪位け訂⊂巳けaの茸8.︵一り竃︶もや竃−oo9︑﹇罐巴襯εo霧量一一蔓曽巳穿−. 編纂段階で付け加えられた詳細な註とから成り立っているので︑おのおのの論文について︑その初出年の順に︑表題︑初出年︑同書での該当頁. ︒γ同書は相互に独立した機会に執筆された九編の論文と︑ ︑§琶ぎ§§妹§駄ミ魯§怠貸ξり肉訟趣肋きミ帖︑ミ誉魯ξ駄卜§︵Ω貰①呂8空﹂30. Oい①堕曼坤冨旨郵. ︒も﹂ ζ鷺Oo毒8ぎ釜㌣98竃o︒も﹂9蜜竃帥言p簑醤黛8竃o. ︵9︶. ρOおy薯㎝零6000. て懐疑的なものとして︑︒囲≦↓三ヨ眞︑︾8号自︒ぴ署毯O零讐一℃﹃一一809ざ↓琴望讐臣︒睾89国の吾①旨評諄︑ト§9ミミ骨肉ミ <鼻3. ︒刈︶もるなおハートの法哲学をこのような仕方で捉えることについ 卜愚ミ︑§誉愚ξ県鋭いトまミ黛>9§8執奪黛§⇔ミ︵↓弩豆①⊂ヨく甲﹂りo. 光囹訳﹁序説﹂矢崎光囲他訳﹃法学・哲学論集﹄︵みすず書房︑一九九〇︶一頁y. 方が統合可能であると考えているものと思われる︒9︑算8身38︑層三吋鵠ミ物§誉§肋醤ミ§亀§織︑ミ湧愚ξ︵Ω弩Φ巳8聖レQG︒G︒︶も﹂︵矢崎. 野号昌①ぎ霞︑一q§e黛勺§s雌ミ§言卜§詣塁謁︒一δ望お零︶もマ⑩㎝G︒−⑩謡なお方法論の面では︑ハートは︑自己のこれら一一つの分野での考え. われわれの法理解を増進させるための準備作業として捉えている︒R︑︾9一旨8二震お寓呂聲8旨旨黛幕言︒野OΦ暮=曙一︾寄巳馨o零︒諺ω震. 不可欠の準備作業であるという形での結びつきを述べている︒ハート自身は︑必ずしも実践問題に言及せずに︑分析法理学としての法哲学を︑. ︵8︶. ︵7︶. 65 1110.

(9) ︵12︶. 二八ー二三二頁︑庭山英雄・田中嘉之﹁︵紹介︶H・﹂・A・ハート著﹁刑罰と責任﹂﹂﹃中京法学﹄五巻︵一九七一︶六一ー七二頁︑また. ︒一︶・5曼︑もマω零6響︵武田誠訳﹁不能未遂に関する貴 以外のものとしては︑9.臼ぎぎ房①98a︒92︾算Φ目言凝9Φ宮℃8ω巨①.︵一㊤o. .O①巳ω一〇PH筥撃 目 g 帥 区 O ① 旨 鋤 目 昌 . 堕 ミ § 罫 < o 一 ● ① 刈 ︵ 一 ㊤ ㎝ o o︶もP一−一boゆ. 遮以外では︑ハ!トがS・ハンプシャi︵望轟昌岳暑ω耳εとともに研究した文献に着目すべきである︒9の=弩冨耳Φ俸鵠.い︒︾=曽芦. 一〇9︶の紹介として︑大谷実﹁H・﹂・A・ハート著﹁刑法の道徳性﹂﹂﹃判例タイムズ﹄二五三号︵一九七〇︶四七−四九頁がある︒. 五四ー一六四頁に紹介がある他︑︑↓冨穿8零Φ幕筥9竃o轟一一蔓.と併せて︑↓ぎミミ蕊§魚ミ鳴9§◎§執卜§︵ζ品器器マ\○ほ︒巳¢昌峯勺♪. .9器嬉轟○・琴8ぎ霧︒h評呂︒邑匿芽.については︑大谷實﹁ハート・﹁責任概念の変更﹂について﹂﹃同志社法学﹄一〇〇号︵一九六七︶一. へ14︶. ⑩o G レ09. 第一章. 刑法における一般理論. R刃>甲薯器の①﹃ω賃oβ.=び︾︐浮﹃欝且浮①uo含〇二器ωohミ§︒︒肉塁曽α9旨5巴勾8℃o房一σ閂一量.︑q§e皇Oミミ鷺卜§葡ミ. 註︵11︶二二八頁一言竃賃二P簑㌣98SO︒もマリ占9. <o一●ω㎝︵一㊤零︶もマ. この点を指摘するものとして︑︒いワξ︒量.一ω浮嘗.ω寄言幕h自い畠巴野︒=ω8薯o蒔暮一無︑も§茜§モ阜o︒︵お$︶もゆお9芝原邦爾.前掲. −亀一︒ O o︒ ︑>げo旨gい署即臥o毒浮①国話房げ国巻窪g8.一ミ鳴&§§鳴q§蛙ト§寒錯<o一︒oo︵一㊤認︶堕署﹃ωo. ミミト&ミ§§織ミミミξ︵○臥o&⊂謹く零こち①Goy. 八○号︵一九五八︶四三−五五頁yO§⇔ミ・§§ミ恥卜§︵Ω畦の&8℃♪6$︶為§恥ミ画§きミ鳴卜§る区a戸︵Ω霞Φ区8ギ﹂㊤○︒㎝Y. る因果関係ω1㈲﹂﹃判例タイムズ﹄七七号︵一九五八︶八−一九頁︑七八号︵一九五八︶二九i三九頁︑七九号︵一九五八︶三五−四九頁︑. ︒ムミ︵西村克彦訳﹁法におけ =・﹇>浮詳伽↓=085︑95豊・1三ぎい署︑ト§9ミ辱骨尋ド<︒一・認︵這器︶も唱ぴo︒もO﹄8山○︒一る㊤o. ︵一九八九︶七七−八二頁︒. 族院﹂﹃法学・哲学論集﹄四一五−四三九頁︶邦語の紹介として︑前田朗﹁H・﹂・A・ハート﹁上院判決の不能未遂論﹂﹂﹃警察研究﹄六〇巻. ︵13︶. 遮. 法と道徳の関係に関する一考察. 九. でのハートの免責事由理論の検討との関連でもっとも重要であると思われる刑罰の正当化についてのハートの考え方. 本章では︑ハートが刑法理論をいかなる枠組みで考察しようとしているのかについての見通しを得るために︑次章. ︵18︶. 171615.

(10) 早法六六巻三号︵一九九一︶. 一〇. を検討する︒ハートの刑罰正当化理論の検討は︑免責事由論との関係では︑関連する二重の意味で重要である︒まず︑. 免責事由は通常︑功利主義的な刑罰の正当化理論からは理論上容認不可能であると考えられているということがある︒. その結果︑もしハートが功利主義的な刑罰正当化理論に与しているのだとすると︑そのことは︑いかにして功利主義. 的正当化理論と免責事由理論とが両立可能であるのかという問題を惹起する︒第二に︑免責事由理論は︑刑罰正当化. 理論としての功利主義と両立可能であるとしても︑その帰結としては捉えられないとすると︑免責事由をそのものと. していかに根拠付けるかということが問題となる︒ハートにおいてはこの両者の問題は密接に連関しているが︑本稿. では暫定的に両者をこのように区別して︑前者の問題に取り組んでいくなかで後者の問題に接近することとしたい︒. そこで︑免貢事由自体の根拠付けという後者の問題は第二章において検討することとし︑本章においては前者の問題. に解答することを目指しながら︑まず第一節では︑ハートが刑罰を正当化するという営みについて行っている分析を. 確認する︒続く第二節ではこの分析を踏まえて︑ハートの論述を辿りながら︑刑罰を正当化するものとして唱えられ. てきた応報理論と功利主義理論という二つの理論について検討を加えていくことにする︒そしてこの問題についての. ハートの功利主義的な立場をできるだけ明らかにしながら︑それと両立するとハートが主張する免責事由理論への導 入を図る︒. 第一節 刑罰正当化の三段階. ハートは︑刑罰が正当化されるのはなぜかという問いがひとつの問いなのではなく︑①なにが刑罰の一般的実践を.

(11) 正当化するか︑②だれに対して刑罰は適用してかまわないのか︑③どの程度厳しく処罰することができるか︑という. 三つの問題に区別することができると考える︒そして刑罰の正当化問題といっても︑刑罰制度についての﹁道徳的に. 受容可能な︵目o邑ぐ霧8喜ぎ芭﹂説明においては︑この正当化問題に対して︑ひとつの原理ではなく︑それぞれの ︵1︶ 段階に応じておのおの正当化に関係している異なった原理が︑解答を与えるとしている︒ ︵2︶ 以上の三つの次元のうち︑本稿にとって問題となる前二者の区別についてここでは検討したい︒いま刑罰の正当化. 問題を正当化の対象となるものについての側面からみると︑一つは処罰制度一般について︑それがなぜ正当化される. のかと問うという問題が考えられる︒この問いが明らかにすることは︑ハートの用語法では︑犯罪者の処罰を一般的. ︵3︶. に正当化する目標︑つまり﹁処罰という実践の一般的正当化目標︵爵Φαq窪Φ邑甘呂身一お㊤欝︒搾箒冥m改ω・な目一畢. 馨導︶﹂である︒この側面の正当化のことを本稿では︑︿一般的﹀という言葉を用いて表現することにする︒また他方︑. ある行為をした者に刑罰を加えることが正当化されるのは︑当該行為が犯罪であるからであるという側面から応答す. ることも可能であり︑これは個々の行為を犯罪として認識することに係わるので︑この次元の正当化を本稿では︿個. ︵4︶. 別的﹀という用語で表すことにする︒ハートはこれを刑罰が配分されることであるという観点から︑﹁配分︵9ω鼠診 ︵3︶. 3⇒とという用語を用い︑そしてこのように刑罰が犯罪についてだけ科されることを﹁配分原理︵9Φ冥一目堂Φ9 ︵3︶. ︵5︶. 象鋒♂急8︶﹂と称する︒さらにこの配分原理は︑犯罪を犯したのだから処罰はその当然の報いなのだということに. も関係しているとの考えから︑この事態は﹁配分における応報︵邑ユげ&8言象ω三び急8︶﹂としても捉えられている︒. 一一. このように︑刑罰の一般的正当化と個別的正当化の二つの次元が独立して両立することについて︑ハートは︑いか 法と道徳の関係に関する一考察.

(12) 早法六六巻三号︵一九九一︶. ︵6︶. 一二. なる社会目標でもその追求に対しての限定因子は存在するのであって︑社会制度は相互に相容れない諸原理のあいだ. の妥協としてしか理解できない特徴をもっているということを指摘する︒ハートがこのような構成を採用することの. 眼目は︑一般的正当化の次元において︑有益な帰結をもたらすことによって刑罰を正当化するという功利主義に与し. たとしても︑その正当化理論がただちに個別的な刑罰正当化の側面での正当化理論とはならず︑免責事由の否認や無. 事の者の不処罰の否定に繋がらないし︑また逆に︑個別的正当化において応報に価値を置いた配分の原理が当てはま ︵7︶ るとしても︑それが一般的正当化の次元で応報概念に与することにはならないのだということを示すことにある︒他 ︵8︶ 方︑一般的正当化目標が応報である場合には︑個別的正当化も応報原理が認められることになるが︑両者にこのよう ︵9︶. な連関を認めることは︑一般的正当化において︑刑罰を︑道徳的邪悪に対しての応報だと考えることの帰結として説. 明することではないとされる︒したがって本章から次章にわたっての課題は︑ハートのこのような段階的な刑罰正当 ︵10︶. 化理論が︑免責事由ということを軸にして︑どのように具体化されているかということを検討することにあると表現 することもできる︒. 三番目の量刑の正当化問題においては︑一般的な正当化理論が一定程度影響するが︑それでもやはり一般的な正当化の問題と量刑の正当化の. ︵1︶ Oh︑瀬℃oo.. ︵2︶. o︒. 問題も区別可能であると考えられている︒ハートの量刑についての理論については︑鼻賠も℃﹄や旨︒9巴ω︒卜§ト§§層§亀ミ§﹄ξもP ω?ooo ︑謁も轟. ︵3︶賠も︒9. ︵5︶ ハートの文言に正確であるならば︑ハート自身は︑配分には︑ここで述べた科刑の客体の問題と量刑の問題とがあると考えている︒R︑拍. ︵4︶.

(13) ℃一一. しかし実質的な相違は生じないと思われるので︑本文では配分の問題を前者に限定している︒. ︒O点o︒︒ ︒ る一9 ら ﹂○ ︵7︶9賠も℃P曽﹄り譜心︒︒響趨−o︒︒. ︵6︶R賠も﹂9. ︵9︶R賠も一P. ︵8︶9賠も 9. ミ︵ぎ暴葺一8℃さ一〇〇︒Oy︒﹃9旨ζ︒霧︒p︑国践︑ω穿︒房のギ︒σ一昏ω且9曽○§℃8聲︒︒①98曼︒︷汐巳︒︒ぎ①暮.り5霧. ハートのこのような刑罰正当化理論は︑中道︵巨ます名塁︶だとか妥協︵8ヨ胃︒巨旦の理論だと称されることがある︒〇二竜﹃旨︒3箪誉争. 飾昌§隣卜轟ミ︑§δミ. ︵10︶. 対立する原理や価値がひとつの理論のなかに雑多に混入されているという意味で中道ないし妥協なのではない︒ハートの理論が中道的であり︑. o ︶もP一ミー=O︒しかしそれは︑ 写穿卿即一贔惹目︵巴ωシ↓ぎ鳶着博ミ鳴§鳴駄O課ぎ§違り98篭⇔qミo霧ξ肉鴇還ω§顛い>歳ミ又寄亀Φ凝ρ一⑩o︒︒. 妥協的であるのは︑ハートが刑罰正当化を複数の段階に分解して︑それぞれにおいて異なる刑罰正当化原理が機能するからだとした点にある︒ なお参照︑本稿第二章第四節註︵34︶︒. 第二節刑罰の一般的な正当化論. 本節では︑ハートの論述によりながら︑通常刑罰を正当化する理論として主張される応報理論︑および抑止理論に ︵1︶. 代表される功利主義的正当化理論という二つの相対立する正当化理論を取り出し︑これらの理論の内容を明らかにし. た上で︑いかなる点がその問題として指摘されているかを検討する︒そしてそれによって︑ハートの与する功利主義. ︵2︶. 二二. 的な刑罰正当化理論がどのように︑免責事由を保持するような理論を構成していくのかという︑次章での課題への準. 応報理論︵器巳び&お98蔓︶. 備としたい︒. 一. 法と道徳の関 係 に 関 す る 一 考 察.

(14) 早法六六巻三号︵一九九一︶. 一四. ω さまざまな形態の応報理論 ︵3︶ 古典的なものとしてはカントが引き合いに出される応報理論は︑応報的︵お鼠び昇ぞΦ︶という文言を厳格に捉えた. 場合︑ハートによると︑つぎの三つの事柄を主張するとされる︒﹁第一に︑ある者を処罰することが許されるのはそ. の者が道徳的に悪いあることを自発的になした場合であり︑その場合に限るということ︒第二に︑その者の処罰はあ. る点で︑その者の違反の邪悪さに相応しているか等価でなければならないということ︒そして第三に︑かかる条件下. でひとを処罰することの正当化は︑自発的になされた道徳的邪悪に対しての被害の報復が︑それ自体正義であるか︑ ︵4︶. 道徳的に善いということであるということ﹂である︒刑罰の一般的正当化理論としての応報理論としては︑この主張. のうちの第三の部分が関係する︒ハートは︑応報理論が﹁なされた道徳的邪悪に対する苦痛の返答というものに正義. または内在的善があるとすることから︑違反に含まれる道徳的邪悪さについての道徳的な非難︵馨声言o区弩器ぎp︶ ︵5︶. の︑刑罰という形態での権威的な表明へと︑強調点を移動させている﹂と述べる︒応報理論というよりも叱責. ︵お冥9畳8︶の理論と称されることもあるこの理論は︑ハートによれば︑功利主義とは対照的な二つの点を他の応. 報理論と共有しているとされる︒つまり処罰される挙動は︑自発的な道徳的悪行のものでなければならないとするこ. 道徳的非難理論とその批判. フィッツ. とと︑刑罰の厳しさは︑違反の邪悪さと比例していなければならないとすることである︒そしてこの形態の応報理論 ︵6︶ では︑刑罰という形態での違反の公的な非難表明がそれ自体価値があると考えられているとされる︒ 図. 以上のような公然非難︵号き︒§︒員︶を応報の中核に据える公然非難理論は︑歴史的にはジェームズ.

(15) ジェームズ目スティーヴン︵宣日8霊旦昏8の器9窪︶の理論にまで遡ることができるとされ︑今日でもデニング卿. をはじめ︑イギリスの裁判官に広く受け入れられているとされる︒というのも︑判決言渡時点に存在する巨大な裁量. について︑判事がそれを恣意的なものとも︑自分のほとんど知らない科学理論を適用しているともしないようにする. のであれば︑この裁量を正当化する途は︑裁判官である自分が﹁社会の道徳的心情の代弁者︵9①目︒暮9一①︒Φ︒P冨 ︵7︶ 目︒邑器導目窪房・房︒畠け図︶﹂であると主張することだからである︒しかしハートによると︑この非難理論には︑す ︵8︶ くなくとも三つの怪しい点がある︒. 第一に︑共同体の道徳的慨嘆表現︵夢Φ8白目信巳昌︑ω馨声=呂お昌答8︶が刑罰の究極的正当化であるとすることは︑. 裁判官にとっては︑自らのしていることの効果について考察を加えるという努力の阻害要因となると同時に︑共同体 ︵9︶. ︵10︶. みずからのなす道徳的評価としての刑罰が究極のものだと考えることになり︑それは共同体自体の進歩を妨げること となるとされる︒. 第二にハートが指摘するのは︑たしかに主要な社会道徳︵ω・︒芭馨邑一身︶にはつねに一定の評価が当てはまるこ. とがあるが︑﹁しかしイギリスにおいてさえ︑単︸の等質的な社会道徳が存在しており︑判決を言い渡す際に︑そし ︵11︶. て緩和因子としてある事柄を賞揚し悪化因子として別の事柄を放棄する際に︑裁判官がその代弁者になれるとするこ. とは︑社会学的にきわめて純朴である﹂ということである︒この指摘に対して裁判官は︑自分たちが﹁通常の一般人. ︵・三一き蔓お霧・き亘Φ目き︶﹂の判断のことを語っており︑そのような一般人が考えることなら自分たちが発見できる. 一五. と主張するであろうが︑これに対してもハートは︑﹁用いられる手法は通常︑内省であり︑その一般人の判断という 法と道徳の関係 に 関 す る 一 考 察.

(16) 早法六六巻三号︵一九九一︶. 2︶. ︵13︶. 一六. ものはきわめてしばしば︑単なる投影された影でしかないので︑この内省は︑裁判官自身の道徳的見解または自身の ︵1 属する社会階級の見解によって映し出されたものである﹂と批判する︒. 第三の点は︑正義の要請としての﹁類似の事例は同様に扱え﹂と関係がある︒ハートはこの要請を︑道徳的非難理. 論と同一のものとして考えるべきではないと論じる︒もちろんこの要請を無視すべきではなく︑尊重すべきであり︑. 法がこの相対的邪悪さのごく普通の評価から逸脱する場合には︑いかなる道徳的目標がその逸脱を求めているのか. はっきりさせる必要がある︒しかしハートによれば︑この正義の要請には︑物真似のように反感や道徳的憤慨という. 特殊な感情を的確に表現する厳しさでもって報復しようとすることは︑含まれていないのである︒感情の的確な表現. ︵M︶. を刑罰の究極的正当化と考えることは︑第一義的なことを副次的なことに従属させることである︒﹁われわれは非難. をするために生きているわけではない︒生きるために非難をすることがあるにしてもである﹂︒そして正義の要請と. その論理的帰結である﹁異なった事例は異なる仕方で取り扱え﹂とは︑﹁違反者のあいだの公正という一応の原理と ︵14︶. しては位置を占めているけれども︑道徳的感情のある的確な表現を見出すために︑抑止や予防︑改善という前向きの. 目標の要請を越え出ていくことを保証するものとしての位置は占めていない﹂︒ハートは︑違反者問の公正それ自体. が目標なのではなく︑この公正は︑われわれに注目するよう道徳的に要求する他の目標追求のための手段なのであり︑. 刑罰の主要目標の追求を阻害しない場合に効力を認められるにすぎないと考え︑またイギリスの判例もそのように解. しているとする︒たとえばある犯罪が例外的にまたは危険なほど頻繁である場合︑ある違反者を以前の違反者より厳. しく処罰することがあるが︑その根拠にされるのは︑この処罰措置が︑大きな害悪を抑制するのに必要だからだとい.

(17) うことだというのである︒この場合には︑公正原理を犠牲にすることは︑躊躇をもって︑そして十分な説明がなされ. て︑行われる︒というのもそのようにしないと社会不安の際や︑または大きな害悪を阻止するという信頼に足る証拠. 異なった違反者の. 解釈された応分の観念は︑刑罰理論が承認すべきである価値の説明において︑. なしに︑この犠牲が絶えず行われるという危険性が存在するからである︒﹁このような仕方で あいだの公正の原理の尊重として. 依然として位置を占めている︒しかしこれは穏健な位置であり︑入手できる証拠から判断すると︑それは︑大半の現 ︵15︶ 在の司法実務や理論における応分の観念︹非難理論︺に帰せしめられるものとは︑異なっているのである﹂︒ ︵16︶. 以上のように︑刑罰の正当化を非難可能性から基礎付ける応報理論に対しては︑その非難可能性の根底にある道徳 観についての批判が可能である︒. 一一功利主義的正当化理論. ω 抑止刑論と改善刑論. 応報理論と対立して唱えられるのが︑抑止︵号憂冨胃Φ︶を処罰の正当化目標に据える理論である︒処罰が正当化. されるのは︑処罰には︑一般人についても︑当該行為者についても︑犯罪を将来に向かって抑止する効果があるから. ︒欝Uる巽>出︶などですでに展開されて だという考えに立つものであり︑これは︑プラトンの﹃法律﹄︵○︒望∪−炉○. いるが︑英米では通常︑功利主義との繋がりで理解されてきた︒ただ用語の問題として抑止刑論と称する場合︑個別 ︵17︶. 予防の側面での犯罪者に対する威嚇という側面は含まれるが︑再犯を防止するための教育ないし改善︵お8§︶の観. 一七. 点が欠落しているとも考えられる︒そこでここで考察の対象とする刑罰正当化理論は︑広く刑罰を科すことが︑その. 法と道徳の関係に関する一考察.

(18) 早法六六巻三号︵一九九一︶. 一八. 帰結として︑一般的抑止︑個別的抑止︑改善といった効果を持つというように︑刑罰が社会全体にとっての善を増進. すると主張する功利主義的な正当化根拠を採る理論として捉えたい︒それはおおよそ︑日本の刑法学にいわゆる目的. 刑論に相当する︒功利主義的刑罰正当化理論では︑これらの効果が認められない場合には刑罰は否定され︑反対に︑. 刑罰が正当化されるのは︑刑罰を科すことによってこれらの効果を達成できると考えられる場合だけであるとされる︒. 図 ハートの立場 ︵18︶. 本稿で取り上げるハートは︑自己の立場を功利主義的な正当化の立場に位置付け︑その立場からの根拠付けのため. の理論を展開するということは︑あまりしていない︒しかし全体的には︑応報理論が裁判実務上逸しえない影響力を. 有しており︑また応報観念のもつ道徳的な訴えかける力というものは大切にしなければならないとしつつも︑刑罰を ︵19V. 科すことを将来指向的な観点から正当化し︑その処遇がいかなる効果を持ちうるかという視点から刑罰を決定するべ ︵20︶. ︵班︶. きであると述べたり︑また功利主義は︑のちにみるような難点を有してはいるが︑刑罰の正当化理論として逸するこ. とはできないと論じていることからも推測されるように︑功利主義的な正当化理論に与しているといえる︒もっと具・. 体的には︑刑法と威嚇を背景にした命令との類似性を考察している文脈において︑刑法の目的のなかには法違反ない. し侵害に対して科される刑罰ないし﹁制裁︵ω目&8︶﹂が︑その法違反の行動を差し控える動機の一つを提供する. ︵22︶. ということが含まれていると明言している箇所もあり︑そこでは抑止理論の立場が採られていることが窺わ れる︒. 以上のようなくだりの他に︑ハートが自己の立場を積極的に基礎付けているその稀な箇所として︑次のような功利.

(19) 主義的刑罰正当化理論を提出している部分がある︒まずハートは︑事実として刑罰が正当視されているという状態と︑. 刑罰が正当なものとして許容されるということとを区別する︒そして事実として正当視されている場合でも︑事実を. そのままでは正当化として見倣さない立場に与するならば︑刑罰の正当化の根拠を問うことにはやはり意義があるの. だという枠組みを設定する︒その上でハートはこの枠組みに沿って︑刑罰の正当化根拠を︑刑罰が応報的に︑犯罪と. いう悪行を刑罰のもつ苦痛と釣り合わせるという点に求める立場を採用するにしても︑﹁かかる理由から事実として ︑︑. ・. ︵23︶. 刑罰が科されているという事実の言明に対しては︑その事実の言明とは別の︑かかる理由から処罰をすることが善い. ことであるとか︑すくなくとも道徳的に許容可能であるのだとかという道徳的主張を︑付け加えなければならない﹂ ︵24︶. と論じる︒すなわち刑罰を執行することによってなされた邪悪以上の善が産出されるのでなければ︑刑罰を科すこと. が正当化されないという道徳的主張である︒そしてそのように考えられるとすると︑ハートによれば︑功利主義に反. 対する者であっても︑このような道徳的主張として︑刑罰が正当化されるのは刑罰が一般人の要求を充足するからで. あって︑しかもその要求が復讐という要求であってもよいと論じるだろうとされる︒そしてそのような反対者は︑. ﹁処罰がこの要求を満たすということがよいことであるというのは︑もしそれが満たされないとすると︑社会に無秩 ︵25︶ 序や法に対しての不尊重︑あるいはリンチさえ現れることとなるであろうからである﹂と説明するであろうとされる︒. この論法は︑応報的に刑罰を科すという功利主義に反対の立場から出発したとしても︑刑罰を科さないことから発生. 一九. する害悪よりも刑罰を科すことから生じる善の方を選好するという形で︑功利主義的な刑罰正当化へと到るはずだと ︵26︶ 考えるものである︒こうしてハートの考えでは︑刑罰の正当化にとって功利主義的な考慮は不可欠のものとされる︒. 法と道徳の関係に関する一考察.

(20) 早法六六巻三号︵一九九一︶. ︵27︶. 二〇. ただハートも示唆していることであるが︑このハートの論法において注意すべきことは︑刑罰を正当化する際にこ. こで用いられる功利計算が︑通常功利主義として擁護されている立場の主張する功利計算とはかなり異なったもので. ある︑ということである︒通常主張される功利主義においては︑目的刑論の主張に典型的にみられるように︑刑罰を. 科すということが︑改善および個別予防の効果として犯罪者の再犯を防止し︑また一般予防の効果として他の者の犯. 罪者化を抑止することに資するということを根拠にして刑罰が正当化される︒しかしこの論法においては︑かりに刑. 罰を科さないことにしたとしたら社会に惹起するであろう害悪の考慮という特殊な要素が入っているのである︒けれ. どもこのようにやや特殊な要素を取り入れた正当化理論をもってハートの功利主義的刑罰正当化理論の全貌だと捉え. ることは︑ハートが功利主義的正当化に与すると示唆している先に触れたようないくつかの箇所との均衡を考えると︑. 穏当を欠くようにも思われる︒さらにこの特殊な要素は︑いま言及したような︑通常の功利主義的正当化論で取り上. げられる諸効果と独立的なものと考えられるとはいえ︑それらと両立しうる︒ハート自身も︑すでに述べたように︑. 典型的な功利主義的正当化を自己の立場だと表明はしていないにしても︑随所でそれに留意した議論を展開しており︑. 功利主義的正当化理論全般を対象として︑それへの批判を検討していくことは許されるものと考える︒そこで以下で ︵28︶. は︑特殊ハート的な形態のこの正当化理論も踏まえはするが︑すでにみた功利主義的正当化理論全般を念頭に置いて︑. 功利主義的刑罰正当化理論の問題点. 議論を進めていくこととしたい︒. ⑥. 功利主義的な観点から刑罰正当化において︑とくに刑罰の抑止力を重視する場合︑この考え方に対しては︑まず︑.

(21) ︵29︶. 刑罰の抑止力が想定できない事例が存在するとの批判がなされることがある︒抑止理論によれば︑刑罰を発動するこ. との﹁道徳的許し︵目・轟=陣8霧①︶﹂が出るのは︑刑罰を発動することによって犯罪が抑止できる場合に限られるの. であり︑犯罪抑止が期待できない場合には︑刑罰を科すことは正当化されえない︒しかし現実には抑止力が機能して. いないと考えられるにもかかわらず刑罰が行使されている事例が存在しており︑この理論では︑このことの説明が不. 0︶. 可能だというのである︒ここで批判者が範例としているのは戦争犯罪人についての事例であるが︑戦争犯罪人にかぎ ︵3 らず︑ごく普通の犯罪についても︑抑止力が存在しないという形で批判を構成することが可能であろう︒しかしこの. ような構成は︑批判者も示唆しているように︑刑罰の正当化として︑なされた害悪に対しての非難︵亘聾Φ︶という. 形で︑直接的な応報を提示するものであるから︑これについては︑すでにみられたように︑応報の基礎になる邪悪さ の基盤を巡っての問題が存すると考えられる︒. 功利主義的な刑罰正当化理論に対しての第二の批判としては︑個別予防としては犯罪者の改善を追求することから︑. 犯罪者本人のためには︑効果が生じるまで処罰を継続すべきであるということになりうるし︑一般予防としては︑重. い刑を科せば科すほど予防効果が増大すると考えられやすい上︑社会の秩序の維持にも資するのではないかと考えら. れるという二つの理由から︑刑の上限を画する機能が弱い︑という点が挙げられる︒そしてこの問題点を回避するた. めに︑日本の刑法学では︑相対的応報刑論が有力に主張されている︒これは目的刑論を採用して刑罰を正当化する立. 場に立ち︑その上で応報的に刑の上限を限界付ける立場である︒この批判︵およびその批判を受け入れた相対的応報. 二一. 刑論︶に対してハートは︑功利主義的な目的刑論の立場から刑罰を正当化する場合であっても︑理論的には︑その科 法と道徳の関係に関する一考察.

(22) 早法六六巻三号︵一九九一︶. ︵訂︶. 二二. されるであろう刑罰が︑応報的に妥当であるとされる刑罰よりも上限が高いということになるとは限らないというこ. 2︶. とに注意を喚起している︒応報刑論︵ないし相対的応報刑論︶にあっては︑死を惹起した行為者は︑死という刑罰に ︵3 値すると考えられ︑また死刑という刑罰でなければならないのだと考えることさえできるのに対して︑功利主義的な. 目的刑の見地からは︑行為者を死刑に処する必要はないし︑さらには功利主義とは独立に︑残虐な刑罰に反対する立. 場に立って死刑は廃止するべきだとされることも充分に考えられるからである︒功利主義に反対する者でも﹁自己の. ヤ. ヤ. ︹功利主義を完全に退ける︺絶対的な立場に依拠して︑功利主義者が処罰という手段によって認めるであろうことの. ︵33︶. 限度を越え出ていくことを正当化し︑そして功利主義原理にのっとって要求されるであろう以上に厳しい刑罰を科そ. うとする﹂ということは︑理論的にはありえないわけではないのである︒そしてこの理論的可能性を重視するのであ. れば︑目的刑として科されるであろう刑罰に対して応報刑的発想により上限を画すことは︑意味がないこととなる︒. もちろんこの反批判によって︑功利主義的にみて妥当だとされる刑罰が︑応報性の見地からは過酷なものとなるとい. う理論上の可能性が排除されることにはならない︒応報刑論に対しての以上の批判は︑理論的には︑応報刑論と功利 ︵34︶. 主義的正当化理論のいずれの立場に与するにしても︑つねに刑罰の上限が他方の考え方よりも抑制的に画定されると いうことにはならない︑ということを示していると思われる点で重要なのである︒. また目的刑論に関しては︵目的刑論によって刑罰を正当化する相対的応報刑論を含めて︶︑この刑罰の限界付けの. 問題にも増して論じられるべき問題が存在している︒すなわち目的刑論が︑個別予防の観点からも一般予防の観点か. らも︑犯罪者とはいえないような者であっても︑その行為者を処罰することを是認する可能性を秘めていることであ.

(23) ︵35︶. る︒そしてこの問題は︑目的刑論において問題になるに止まらず︑功利主義を基盤にして刑罰の正当化を図る理論に. 共通する問題であるといえる︒違反を行った者について︑その者をその違反行為について処罰することによって︑そ. の者の将来の行為における反社会性を払拭できると考慮されたり︑また他者がその者の処罰を目の当たりにして︑犯. 罪を犯すことを思い止まるということがありうる以上︑その者が自らなそうとしてなしたのでない違反についても︑. すなわち違反を犯したが︑それについての免責事由を有している場合であっても︑その者を処罰することが︑許容な. いし義務とされる可能性があるのである︒そこでつぎに︑一般的には功利主義的刑罰正当化理論に与しつつも︑免責. 事由の根拠付けの他の独立的な理論構成を自ら提示していると主張するハートの見解を検討することが︑重要になっ. 功利主義的正当化と応報理論とは対立的に捉えられるのが通常であるが︑そうではなく︑相補的なものとして考えることも可能である︒本文. てくる︒ ︵1︶. 刑罰がなぜ正当化されるのかという問題は︑刑法学に限らず︑法哲学の分野においても︑たとえば法と強制の問題領域や︑︵のちに多少触れ. でのちに述べる相対的応報刑論もその一例である︒なおのちにみるハート自身の立場もその変形と受け取れる︒. ることとなるが︑とくに功利主義において問題とされてきた︶全体と個人との関係︑さらには正義の分析といった局面において︑対象とされる. ︵2︶. ング︵上原行雄・小谷野勝巳訳︶﹃法の哲学﹄︵培風館︑一九八五yUξ9の﹄ミ§§Rミ鴨肉ミ鳴蝋卜§︵O弩葺畠Φ⊂三く勺﹃し⑩○︒轟︶こρζ貫−. べき問題である︒最近の法哲学の概説書でも︑そのような観点から︑刑罰の問題を取り上げるものがある︒たとえば参照︑M・P・ゴールディ. ︒ヨ磐軍口紹9しかしここでは︑問題のこのような広が 喜﹃俸一 いるo一Φ澤P︑ミ﹄8愚ξ黛言§﹄ミ︑ミ唖ミ§計§ご鳶§肋㌣ミ鳴§魯おくる9︵≦Φし 参照︑カント︵加藤新平・三島淑臣訳︶﹁人倫の形而上学. 法論の形而上学的基礎論﹂﹃中公バックス世界の名著三九 カント﹄︵中. ハートは︑カントの有名な︿違反者の違反した法が属している社会の崩壊する前夜であっても︑その者を処罰することは許可さ. 第一部. りを意識しつつ︑ハ!トの刑法学に論題を集中するという問題関心から︑刑罰正当化論一般を取り扱うことは断念されている︒ ︵3︶. も︐8一. 央公論社︑︸九七九︶四七二i四八一頁︒. 法と道徳の関係に関する一考察. 二三. れるだけでなく︑義務的ですらあるのだ﹀という考え方が︑これらの主張とは独立したものだと考えているようである︒R賠も﹄ωP. ︵4︶. 賠.

(24) ︵17︶. 早法六六巻三号︵一九九一︶ 89. 二四. したがって︑非難表明がそれ自体善であるという考え方とそれほど差異はない︒これに対してハートによれば︑この非難表明が価値あるとさ. ︑謁も. 9賠もレ3この理は︑刑罰を違法行為者自らのなした邪悪に対しての蹟罪と考えて︑刑罰に服することが︑違法行為者が社会において自. その他に︑のちに本稿次章第二節一において︑免責事由の存在根拠との関連でみるように︑道徳的非難可能性を前提にしない刑法違反が存在. 社会道徳という概念については︑参照︑本稿第三章第二節三㈲︒. 一. ︑揖PミけOh卜R斜トさミ§§魁ミミ蕊鐘︵○風〇三⊂昌一くマ;一㊤①ωy唱.①oo一↓ミミミミ㊥愚黛ミ鳴9画§一蓉﹄卜蟄ミ︵寂謬誇ω零\○ほo益¢巨く即﹂㊤①㎝y 署︐GoO−. 正義ないし公正一般についてのハートの議論については︑参照︑本稿第三章第二節三⑥︒. ヤ瀬マ一刈一. 弟もマミ㌣一蕊・︹︺内は引用者︒ハートの以上の正義ないし公正についての所論は︑ハートが刑罰の正当化を三段階に区分して︑刑罰の. ︑謁も一刈ド. ハートの刑罰正当化理論はこのようにして脱道徳化され︑自由主義的なものとして捉えられるものであるが︑本稿ではこの点についてはこれ. 一般的正当化の段階と量刑の段階とで別個の原理が機能するとしている点の敷衛であると受け止めることができる︒. 抑止とくに個別的な抑止と改善とは︑再犯となる可能性のある者が再犯を犯さないことについての動機の点で異なる︒前者は逮捕・処罰を恐. 語巳≧ぎ耳這Q︒一︶も℃一ρ置卜︒は︑これを自由主義とは区別される意味での自由尊重主義︵菩警弩旨一弩︶として捉える︒. 以上言及しない︒刑罰正当化の脱道徳の文脈との関連では︑鼻卜§トさミ量るミ§義ξも℃ひo︒ふρただし2竃蓉O貧裟曾窺い︾嵐§︵窪−. ︵16︶. Rヤ葡もマミO−ミビ. するという指摘も ︑ こ の 考 え 方 に 対 し て の 批 判 と な り う る ︒. ︵8︶. ω8婁9ξ.層q§畑焦Oミミ鷺卜§さド<9霧︵る雪︶も一〇⑩においてみられる考え方にも当てはまるものと思われる︒. 己もその一員だという資格を回復する手段になるのだとする刃︸≦器紹韓8β.頃騨﹇・鋭浮﹃欝且9①∪︒9︒コ器ω9ミ§勉葡ミ曽こ9一巨轟売①−. ︵7︶. 理論のもつ理論上の難点が当てはまるものと思われる︒. 器?認δにしても︑功利主義的な刑罰理論の周縁部分に接しているとされるので︑この考え方に対しては︑のちに功利主義による刑罰正当化. のものでは︑﹁刑罰によって達成される善は︑ベンサムや他の正統的な形態の功利主義ほどには︑狭く捉えられていない﹂︵︑開もマ鴇9. の道徳の維持︑強化︑ないし﹁擁護﹂に役立つからであるにすぎない﹂︵︑開も鵠㎝︶とする応報理論もありうる︒応報理論といってもこの形態. れるのは︑﹁それが特定の価値ある結果︑たとえば違反者の自発的な改善︑自己の道徳的過ちの自己認識︑または処罰された者が違反した社会. 65 9 1110 12 13 14 15.

(25) れることから犯罪を思い止まるという効果を強調するのに対して︑改善はかかる違反が悪であるということを認識した上で再犯に到らないとい. う点を重視するものである︒R︑謁も霧る・い潮P9§鳴O§貴§良︑§傍壽§ミ︑>︑ミ蕊魯ミ器じミ独&§詳§︵Ω巽Φ区8零口りoo刈︶も℃下o︒.刑. 罰の正当化根拠を抑止だというように狭く解した場合には︑すぐに述べるように︑ハート自身の立場の名称としても問題がある︒またハートは︑. 目菊O螢≦ω8︵a︶丸器ミ塁§O§譜§聾ミa建ζ噸琶︑ミごG︒魯ξり↓ぎ﹄蕊ミ§審黛霞い辱歳ミ又Ω畦Φ区自7しΦoo刈yO. 500刈︶もマ. R↓書O§ら魯妹魚卜§︵Ω巽Φ区自マ﹂霧一︶もミ︵矢崎光囲監訳﹃法の概念﹄︵みすず書房︑一九七六︶三〇頁︶またすでにみたように︑ハー. 一㎝N山㎝ω. OhZ蜜毬Oo﹃巨︒ぎ旨醤9ぎ肯o一①も一ω雪ζζp3p↓ミト遷蕊︑ミ﹄8魯ξ黛霞い辱歳ミ蹄>Oミ8ミ>蔓&魯﹄︵↓①目巳のOヨ︿7. ♀︑却℃℃刈ω為企Noo㎝. 0い︑拍℃ロ一㎝O 山 ① O. N卜⊃①員09. R↓﹃ζo冨ミo貫.Ooヨヨ①葺︑. ことについては︑鼻︑却署﹄ε−巽ピ. 言がしばしばみられたのだと考えられる︒しかしハートがその後考えを改め︑改善が刑罰の一般的な正当化根拠の一部を構成すると考えている. 以前は改善を刑罰正当化の根拠とすることに懐疑的であり︑そのためにハートの論文では︑功利主義的刑罰正当化の文脈において抑止という文. ︵18︶. ︵25︶. ︑肉も葦e. 法と道徳の関係に関する一考察. 竃o霧︒P︑評旨.ω穿窪器9写︒幕霧葦けげ帥9旨震︒蒙器ぎ8藁︒h評言亨. 二五. ︒﹀も一Nb︒ 幕鼻︑−旨評︐び①菩卿℃﹂品﹃弩︵aω︒︶逼ミ誉§§ミ鳴§鳴県9ミ&§りOミ§.切§&ミ恥ξ穿養毬§鞘い>議ミニ園︒邑Φ凝ρ一り○︒o. 義的な考慮が働いているとみて差し支えない︒この点につき︑︒こ. べたような形態の応報理論へと︑論理が展開されているが︑邪悪以上の善を刑罰によって産出するということには︑応報理論とは独立に功利主. 象︑謁も﹄9ただしこの箇所では︑刑罰による善の増進ということから︑刑罰をもって道徳的邪悪に対してのものであるとする︑すでに述. ︑謁も・刈命. 9Z竃800﹃邑︒F簑養a88おもにω︒. る︒R↓書O§ら豊鳳卜§も一8︵訳二一五−二一六頁yフェア㌦フレイの原理と功利主義的見解の一貫性に問題があるということに関しては︑. 発的に服従する者が服従しない者の犠牲にならないための保障︵帥讐貧弩羅︶なのだというフェア剥プレイの精神に依拠した議論も存在してい. 鑑みると︑ハートが功利主義的刑罰正当化理論に与しているということの傍証だと考えることができる︒ただしハートには︑制裁とは︑法へ自. を提唱していた︒これは︑ハートも述べているように︑功利主義的な刑罰正当化のもつ問題点を回避する意図を担ったものであるということに. トは刑罰の正当化について︑制度としての刑罰の正当化と犯罪行為者に対する科刑としての刑罰の正当性の問題との二つの側面を区別すること. ︵22︶. 212019 2423.

(26) ︵26︶. ︵27︶. 早法六六巻三号︵一九九一︶. 二六. 復讐心を満足させるということによって刑罰を正当化するという考え方が︑復讐それ自体が好ましいという正当化とは異なったものであると. いうことに鑑みて︑功利主義的な刑罰正当化理論の範疇に入ることについては︑参照︑森村進﹁古代ギリシァの刑罰観ω﹂﹃法学協会雑誌﹄一. ハートも認めているように︑このような功利主義の正当化論法は︑邪悪に対する刑罰はそれ自体で正しいのだと頑強に言い張る絶対的な応報. 〇一巻︵一九八四︶一〇五二−一〇五三頁︒. のもつ︵以下の本文でみるような︶間題を︑のちに免責事由理論としてみる独自の仕方で修正していくことによって対処していくという形態を. 刑論者には通用しない︒またそこでの︑絶対的応報理論に対してのハート自身の議論も︑絶対的応報刑論者の提出する批判に対して︑功利主義. ただしここでは︑直接ハートを念頭に置いてなされた批判を主に取り上げるに止めたい︒またハートが自らの刑罰正当化の立場として︑典型. 採っており︑絶対論者を直接論駁するものとはなっていない︒. 5000︶−℃一畠︒. 的な形態の功利主義理論を展開していないということは︑彼が道徳を法によって強制するということに対して批判的であるということの一側面. ︵28︶. だと考えることも可能であるように思われる︒. 甲>薯器ωR終︒芦釜黛988刈も口O戸直は︑本稿第二章第三節註︵7︶に該当する本文の引用を︑本文で述べた批判と関係したハートの. ○㎞塑>≦鴇ω①あ耳Op旨蟹黛8訂S署一〇9口廿一勺﹃毒o声貫㌔§詳誉§閃卜醤ミ℃ミ§箋§恥ミ︵頃=ヨp日幕ω即. §. ミミミ§もワ8−撃・そしてそう. 参照︑M・P・ゴールディング・前掲註︵2︶一〇四頁︒そこではさらに犯罪者以外の者を処罰することを容認する契機をもっていることが指. 摘される︒すなわち功利主義が強調された場合︑無享の者の処罰について社会の側からみる視点が重要視されるということである︒そこでは︑. ︵35︶. だとするとこのことは︑この文脈ではハートの刑罰正当化理論が︑刑罰が正義だと考える応報理論ではないということを示していることになる︒. ≦器ω霞弩︒β簑ミ§8冨刈も一一一なおハート自身そのように考えていることについては︑9卜§ト§§. く︑必要悪でしかないのだから︑必要最小限度に極小化しなければならないという考え方があるということを指摘するものとして︑亀國︾. 功利主義による刑罰正当化から通常の議論の上限論とは異なった結論を導出したハートの議論の基礎には︑刑罰はそれ自体積極的な善ではな. ︑謁も誤・︹︺内は引用者︒. 参照︑前掲註︵4︶に該当する本文︒. R蛤も○︒Oただしここでは︑量刊段階における刑罰正当化についてのハ!トの考え方との関係は問わないこととする︒. 場合を想定してみると︑この考え方で刑罰を正当化することには無理がある︒. に対して苦痛を科すこと自体︑是認されるべきだという見解への共感を示している︒しかしそこで留保されているように︑被害者が存在しない. またハートは︑ヴァッサーストロームも挙げているい§ト&ミ§§織ミミミξもマ認−8において︑被害者のある害悪の場合には︑その加害者. 応報理論への傾斜と考えられると述べるが︑ハートのこの箇所の力点は︑本稿でみるように︑免責事由の根拠付けにあると考えるべきであろう︒. 3029 31 32 33 34.

(27) 者に限定される必要はなく︑犯罪を犯していない者に対してであっても︑見せしめ効果を狙って︑いわば生け蟄として︑刑罰という形を装って. 処罰によって一般人の犯罪への傾向が阻止されるとか︑社会不安が収拾されると考えられる場合︑処罰の対象は︑犯罪を実際に犯したその行為. 処刑することが許容されるし︑場合によってはそうしなければならない︑と結論される可能性があるのである︒そして現に︑功利主義的な刑罰. 正当化理論の難点ないし功利主義一般の問題点を検討する素材として︑もっぱら無享の者の処罰という問題に焦点が当てられることがある︒刑. えば珠︸寄三ω−︑↓矩0998δ亀勾巳Φω.︵一り誤y5評閨8又&シ↓ぎ§塁黛騨ミ霧︵○臥oこC曰く甲ギロ⑩雪︶も℃一お−温O︵深田三徳訳コ一つ. 罰正当化については︑たとえば参照︑森村進・前掲註︵26︶一〇五五−一〇六五頁︒また功利主義一般の問題点として捉えているものには︑たと. しかし〇一↓ΦP釜要黛8$嵩も﹃o︒一は︑実際的には︑無睾の者とは︑違反をしていない者のことであるよりも︑むしろ免責事由を有してい. のルール概念﹂田中成明編訳﹃公正としての正義﹄︵木鐸社︑一九七九︶二九六頁y井上達夫﹃共生の作法﹄︵創文社︑一九八六︶二一五頁など︒. る︵のに︑現実に刑罰に晒される︶者のことであるとする︒またハートはこの点について︑功利主義によって︑つぎのように︑無睾の者の処罰. の可能性を排除できるとしている︵℃謁もB︑曽︶︒すなわちハートによると︑無皐の者が社会の必要から捕らえられ処罰される可能性がある のだと知られた場合︑ひろく社会に惹起する不安や混乱・パニックは︑このような処罰措置によって確保される安全や社会福祉をいかなる点で. によって惹起した悲惨さによって相殺される可能性が大きいということに鑑みて︑行政機関や司法機関が︑このような無睾の者への刑罰の適用. も凌駕しうるほどであるということは︑充分考えられるとされる︒そしてまたこのように︑無事の者の処罰によって得られる利益が︑その処罰. を拒むということも考えられるのであって︑そうなるとこのような刑罰制度自体︑廃されることとなるとするのである︒こうして︑ハートによ れば︑功利主義的にみて︑無睾の者の処罰を容認する法体系は存在しえないこととなる︒ただし一方で功利主義の難点のなかには︑無享の者の. レアのない者の不処罰の根拠付けとともに︑結局十全には成し遂げえないと述べる︒このようなハートの議論をみる場合︑功利主義によってあ. 処罰が含まれる可能性も排除しがたい上︑ハート自身︑遮も刈①−記では︑功利主義によっては︑無享の者の不処罰の根拠付けは︑メンス・. る価値を正当化する際に用いられる功利計算は︑いずれの向きにも計算可能であるということになる︒しかしここでは︑ハートの免責事由につ oh鍔≦.︵一⑩雪yヨミ︑もにo︒︵訳二二五頁︶. いての根拠付けの理論を考察するという本稿の問題関心に沿って本文のように問題を限定することとする︒Oh器︒︑零o巨窪ω︒P幕霧ま8喜渚. なお醤ζ︒轟壽貫簑黛98帯一〇︒も℃い︒Nり−8①は︑功利主義的な将来指向的理論が︑その性質上︑共通善に対してのあらゆる効果を考慮に 入れているのだと主張し︑その結果として︑刑罰の正当化理論自体の内部に︑無華の者の不処罰や︑免責事由の承認がすでに組み込まれている. 二七. されるということと︑免責事由があって免責されるということとの相違から︑応報理論に与したとしても︑免責事由の存在根拠を提示すること. と論じている︒この見解に対しては︑本註での考察が当てはまると考えられる︒またOr↓①P釜㌣黛83ミ︑マ霧は︑違反行為が正当だと が依然として重要であるということを示唆する︒. 法と道徳の関係に関する一考察.

(28) 早法六六巻三 号 ︵ 一 九 九 一 ︶. 第二章 免責事由論. 二八. 本章ではハートの免責事由理論を取り扱う︒前章で考察したように︑ハートが与すると思われる功利主義的な刑罰 ︵−︶. 正当化理論においては︑理論上︑免責事由を認めることは困難であった︒その困難を克服するために︑近年において. もさまざまな理論的努力がなされてきており︑その理論の正否を検討することも︑もとより重要ではある︒しかしこ. こでは︑ハートの唱える免責事由理論が︑それを包括するハートの法理論全体との関係においていかなる位置付けを. 有するかという観点から︑ハートの考え方に焦点を合わせることとしたい︒そこで第一節では︑免責事由の内容とし. て︑メンス・レアの諸側面をハートに依りながら区別し︑その中の自発性についての考え方を考察する︒つづく第二. 節での︑従来の免責事由の根拠付けに対するハートの批判を踏まえて︑第三節においては︑ハートが功利主義的な刑. 罰正当化のなかからどのようにして免責事由を救い出すのかという点を検討する︒そして第四節では︑ハートの免責. 本稿の主題であるハートの理論以外には︑本稿ではのちにJ・ロールズの規則功利主義による刑罰正当化理論を取り上げる︒その他しばしば. 讐N弘霧計愚§籟簿噸蕊︑ミ§︒う調§鳴ミ︵=β目簿ヨ自①ω−ぴ一⑩Qo㊤yも唱一N⑩山ω刈. 取り上げられるものとしては︑R・M・ヘア︵零︒9益斎署旨詳並の考え方がある︒その紹介と批判については︑さしあたり︑︒ニギ旨♀. ︶. 事由理論に対して寄せられるいくつかの批判を考察することとする︒ (1.

(29) 一 責任能力と意図ないし認識. 責任能力・意図ないし認識・自発性. 第一節メンス・レアとしての自発性. ω. 免責事由は︑すでに本稿の冒頭において触れたように︑犯罪成立のための主観的な要素としてのいわゆるメンスー ︵1︶. レアと関係がある︒ハートは︑メンス目レアの要素として︑責任能力と意図ないし認識︵巨窪瓜8自言︒琶a鴨︶と. いう二つの側面を考えている︒責任能力に関して︑ハートは︑﹁大半の国の法は︑処罰という責めを問われる人間が︑. その犯罪の時点で︑自分がなにを行いまたは行わないよう法によって要請されているのかを理解し︑なすべきことを ︵2︶. ︵3︶. 思量・決定し︑そしてかかる決定に照らして自己の挙動を制御するという能力︵8冨︒身︶を有していたということ. を要件としている﹂と述べており︑ここでは︑認識的な弁別能力と情動的な制御能力とが確認されていると考えられる︒. そしてハートは︑いわゆるネグリジェンス︵器ひq凝窪8︶もこの責任能力の範疇で捉える︒ハートによればネグリジェ. ︵4︶ ンスは害悪に対する一般的な用心をし損なうことである︒すなわちそこでは﹁われわれは︑どんな通常の一般人でも ︵5︶. 遵守しえたであろうし︑また遵守したことであろう行為標準を︑その行為主体が遵守し損なったという事実に言及し. ているのである﹂︒このことからネグリジェンスという責めを問われる基礎には︑﹁行為主体が当該諸事実を熟知する ︵6︶ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ことをし損なうということ︑そしてそのようにしてその﹁精神状態︵ω§Φ9巨且︶﹂に立ち到っているということ﹂. があると論じられる︒さらにハートは︑このような︑その者が当該行為をなすことができたはずであるのに注意義務. 二九. を怠ったために害悪を発生させてしまったという事態が存在しなければならない︑というネグリジェンスの非難根拠 法と道徳の関 係 に 関 す る 一 考 察.

参照

関連したドキュメント

て当期の損金の額に算入することができるか否かなどが争われた事件におい

あれば、その逸脱に対しては N400 が惹起され、 ELAN や P600 は惹起しないと 考えられる。もし、シカの認可処理に統語的処理と意味的処理の両方が関わっ

関係会社の投融資の評価の際には、会社は業績が悪化

四税関長は公売処分に当って︑製造者ないし輸入業者と同一

夫婦間のこれらの関係の破綻状態とに比例したかたちで分担額

なお,お客さまに特別の事情がある場合,または当該一般送配電事業

不正な投機を助長する等、特定の者(具体的に個人又は法人等が確定していることま

   また、不法投棄等の広域化に対応した自治体間の適正処理促進の ための体制を強化していく必要がある。 「産廃スクラム21」 ※