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「ヨーロッパにおける素描の歴史と技法」⑷【翻訳】

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「ヨーロッパにおける素描の歴史と技法」⑷ 【 翻 訳 】

シャルル・ド・トルナイ 訳  森田義之・上月裕子

(2)

第六章  

.イタリア

 シャルル五世(一三六四─一三八〇)およびシャルル六世(一三八〇

─一四二二)の治世下では、パリの宮廷やブールジュのベリー公、ディジョンのブルゴーニュ公の宮廷において、﹁優美様式(dolce stile)﹂と呼ばれる魅力的な様式が主として写本芸術を得意とするフランドルの画家たちによって生みだされた。それはイタリア的な空間

概念にフランス的な人物像の優雅さとフランドル的な写実主義を結びつけた折衷様式である。そこでは総じて詩的な世界が生みだされてお

り、人間は庭園のような自然のふところで牧歌的な生活をいとなむ子供然とした姿で表されている 。こうした様式の素描(図

224 225)では、 画家たちは十三世紀~十四世紀初頭の線描表現にかわって明 暗法による巧みな肉 付けを用いて彫塑的な立体感を与えている。ここにかすか

に見られる精妙で柔らかなスフマートはレオナルドの芸術を予告するものである。銀尖筆の微細な線は個々においては効果がうすいが、そ

れらが集まれば微妙な明暗の諧調をうみだす。これらの素描は、大部分は羊皮紙に描かれているが、一見すると、同じ画家たちがいくつか

の写本に描いているのと同じグリザイユ画のように見える。 この宮廷様式は十四世紀末から十五世紀初頭にかけてヨーロッパに

おいて大きな流行をしめした。そしてフランスからフランドル(ジャック・ダリーヴ)へ、イギリス(ケンブリッジ、ペピシャン図書館の見 本帖)へ、ライン川の上流と中流地域、ウェストファリア、ボヘミア(ブルンスウィックとベルリンの見本帖)へ、さらにはオーストリ

ア(ウィーンのヴァデメクム見本帖)へと広がった。しかし、やがてそのフランス的な優雅さは失われ、それぞれが地方的特色をおびるよ

うになる。イギリスでは完全にマンネリズムにおちいり、フランドルではこの地方特有の写実的性格をおび、ボヘミアとオーストリアでは

ある種の粗雑さをおびるようになった。とはいえ、この様式の原理は、その明暗法とともに、共通の特徴として存続した。

 一方、トスカーナ地方では、十四世紀初頭にジョットの新しい現実的な感性によって蘇ったモニュメンタルな絵画の伝統が根強く生きて

いた。大型の壁画面は古くからの伝統による閉じられた輪郭をもつ人物像と明瞭かつ簡潔な舞台のような空間によってリズミカルに分節さ

れていた。現存するわずかなトスカーナ派の素描(図

15 描家たちがモニュメンタルなフレスコ画の伝統に忠実に従っていたこ 19)は、素 とを証言している 。 近世的な素描(真の意味での)が誕生した地は地理的にこれら二

つの地域の間、すなわちヴェローナを中心とする北イタリアである。ここでは、フランドルとトスカーナの影響を同じように受けながら

も、素描はその独自の特徴を保ち続けた。﹁優 美様式﹂の枠内で、近世的な意味での素描が初めて盛んに制作されたのはまさに北イタリア においてである。すでにステファノ・ダ・ゼヴィオ(一三七五頃─一四三五以後 )のような画家は線を自由自在にあやつっていた(図

よって表現的価値をおびている。これらの線はときには個々の形態を 23)。彼の長くて幅の広い斜めに走る筆致は、その力動感と旋律に

(3)

越えて、全身の量感や明暗を暗示している。これらの斜線ハッチングは、十 五世紀を通じて北イタリアに多大な影響を及ぼすことにな

るはずである。ヤコポ・ベッリーニ(一四三六年にヴェローナに滞在)、マンテーニャ、マルコ・ゾッポ(図

120 121)、コジモ・トゥーラ、

エルコレ・ロベルティ、コッサ、ジョヴァンニ・ベッリーニ(図

118 119)は、いずれもこうした線描方法を用いており、それはやがてレオ

ナルドにその最大の解釈者を生むことになるのである。 ステファノの弟子、ピサネッロ(本名アントニオ・ピサーノ、

一三九七頃─一四五〇/五五)は、おそらくヨーロッパで最初の偉大な素描家であった。父方の家系はトスカーナ出身だったが、芸術的に

は彼はむしろヴェローナ派を代表する画家である。彼はステファノの﹁優美様式﹂から出発しながらも、このフランスの宮廷様式を新し

い自然観に基づいて解釈している。彼はその衣装習作(例えばオクスフォード、バヨンヌ)において、フランスの様式を魅惑的な植物や動

物のような形態に変えている。ピサネッロは高尚な優雅さを克服して人間を自然の産物として把えようとする。初期の宗教的主題の素描で

は従来どおりの﹁優美様式﹂で表された形態のなかに、新しい、優しい親密さが見られる。しかし、彼の新しい自然観は、動物、植物、樹

木、風景の素描にいっそう直接的に表されている。彼は広大な生きものの世界を新しい視線で見つめ、果汁ゆたかな花や植物(図

29)に動

物的なものを、そして動物たち(図

す。彼は樹木(図 25)のなかに植物的なものを見出 27)をやわらかな大気の中で優しく震える生きもの

として捉える。風景は彼にとってもはや人物の単なる背景ではなく、光と大気に満ちた空間なのである。  ピサネッロは早くから自然界を支配する一体性を感じとっていたようであり、自然の種は彼にとって厳密には分類できるものではなく、

それらの間に慣習的なヒエラルキーが存在すると考えていたわけでもない。それらはすべて同じ根源的な力から生まれたものなのである。

花は動物になり、動物と花はともども人間になる。これらの存在の諸形態のメタモルフォーシスのうえに新鮮でみずみずしい姿を与える永

遠の春がただよい、その魅力が今日なおも見る者を魅了するのである。 ピサネッロはゴシックの自然主義とルネサンスの新しい写実主義の

両方に関わっている。彼の主題への関心や表層的な写実主義は北方のゴシックの伝統を継承しているが、人間や動物の人相学的特徴への心

理的な洞察(とりわけ晩年の黒チョーク素描(図

動物の敏捷な動きを追求したペンによる速描きのスケッチ(図 34)に見られる)や、

31)は、

次の時代を予告している。約一世紀後にピサネッロの芸術的遺産を再発見し発展させたのが、北イタリアに長く滞在したトスカーナの芸術

家であったことは単なる偶然ではない。その自然観や関心の幅広さからいって、ピサネッロこそレオナルドの真の先駆者なのである。レオ

ナルドがこのことを自覚していたらしいことは、おそらくヴァラルディ画帖(現在ルーヴル美術館所蔵)と呼ばれるピサネッロのスケッ

チ・ブックを所有していたことからもわかる。イタリア・ルネサンスの偉大な達成が﹁世界と人間の発見﹂(ミシュレ)にあるとするならば、

ピサネッロこそその最初の偉大な代表的画家の一人と見なされるべきだろう。

 十五世紀のイタリアでは多くの地方流派がほぼ同時に繁栄し、そのそれぞれが独自な素描様式を示している。その二つの主たる地域は、

(4)

フィレンツェ、シエナ、ウンブリア地方を中心とする中部イタリアと、ロンバルディア地方(ミラノ、ベルガモ)、エミリア地方(フェッラー

ラ、パルマ、ボローニャ)、ヴェネト地方(ヴェローナ、ヴェネツィア、パドヴァ、ヴィチェンツァ)を含む北部イタリアである。近年の研究

によって明らかにされたように 、これらの異なる流派は、制作者や年代の相違を越えてほぼ共通した線の特徴を示している。

 十五世紀フィレンツェの画家たちは、形態に豊かな量感を与える、明瞭でとぎれのない輪郭線を好んだ。フィレンツェ人たちは線の美し

さには関心を払わなかった。彼らにとって線は彫塑的な構造をきわだたせるためのものであった。形態の把握の明瞭さ、線描表現の簡潔さ

と意味深長さが彼らの主眼であった。このことは省略に富んだ速描きのスケッチにも、完成度の高い実物習作──そこではペンや銀尖筆に

加えてしばしば淡彩や白のハイライトが施された──のいずれにも言える(図

52 47)。

 一方、ウンブリア地方とシエナでは、ゴシック的伝統が根強く残っていたため、線は優雅で、旋律ゆたかな生動感を保持していた(図

61 よりも全体に丸みを与えている。 62)。ハッチングは規則的な網目をなして人体をおおい、個々の形態

 北イタリアのヴェネツィアでは、線は事物を特徴づけるものではなく、視覚的な価値をおびている。輪郭はふつう小さな破線や点に分断

され(図

ふつう線が強く引かれると、それらは陰影の効果をおび、それがコン 126)、肉付けは淡彩か小さな微かな班点によってなされる。

トラストの効果によって紙の白地に陽光のような明るさをもたらす。ペンやチョーク、ラピス、あるいは画筆で描かれたにせよ、白い紙や 着色紙に描かれたにせよ、ヴェネツィアの素描の効果はつねに色彩感にあふれている。こうした見方をすれば、ヤコポ・ベッリーニ、ジョ

ヴァンニ・ベッリーニ(図

118)、カルパッチョ(図

ネ(図 126)、ジョルジョー 128)、ティツィアーノ(図

131)、ティントレット(図

133)、ヴェ

ロネーゼ(図

134)、パルマ・イル・ジョーヴァネ(図

してティエポロ(図 135)、ロンギ、そ 137)はひとつの発展の流れを代表している。ヴェ

ネツィアでは素描は単に下図として役立てられたのではなく、しばしばそれ自体が価値あるものと見なされた。他の北イタリア派、ロンバ

ルディア派やエミリア派もヴェネツィア派と同じように絵画的な性格をもっている。にもかかわらずそれぞれの流派の素描はその独自の様

式を保持しているのである。 十五世紀の北イタリア派は中部イタリア派よりも回顧的である。新

しい美術のすべての偉大な発見は合理的なトスカーナ人によって成し遂げられ、彼らは根本的に異質なその精神的態度にもかかわらず、北

イタリアの画家たちに多大な影響を与えた。たとえば、ドナテッロは、一時期パドヴァで活動し、十五世紀後半の北イタリアの画家たち(図

117  北イタリアで最も重要なヴェネツィア派が生んだ、地元出身の最初 121)に強烈な影響を及ぼした。

の偉大な画家は、ウンブリアのジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの弟子、ヤコポ・ベッリーニ(一四〇〇頃─一四七〇)である。彼の

主要作品であるヴェローナやパドヴァ、ヴェネツィアにおける壁画はすべて失われてしまったが、幸いなことに一四四〇年頃の二冊の素描

帖がロンドンとパリに残っており、彼の芸術的努力 を知ることができる。同時代のヴェローナのピサネッロとは対照的に、ヤコポの画帖に

(5)

はゴシック的な叙述的自然主義による実物習作は含まれておらず、ほとんどが絵画作品や彫刻作品のための下図(図

114)である。これらの

素描帖においてとりわけ彼が関心を向けているのは、遠近法的に構築された空間や風景空間の問題である。この点で彼はルネサンスの先駆

者として現れており、また明らかにウンブリアトスカーナ派の影響を受けている。しかし、とりわけロンドンの素描帖においては、彼のヴェ

ネツィア人的な気質が、その柔らかく優しい筆致に表れている。たしかに、輪郭線は閉じられているが(これは中世の伝統である)何度も

線を重ねることによって柔らかく緩やかな効果が生みだされている。 ジェンティーレ・ベッリーニ(一四二九頃─一五〇七)は父ヤコポ

の伝統を継承している。ロンドンに所蔵されるトルコ人の男性とトルコ人の女性の実物習作では、その巧みな叙述的な自然主義と入念で軽

快な線に、彼のヴェローナ派との繋がりが示されている。ベルリンに所蔵される二点の晩年の肖像素描(図

123)には絵画的なとらえ方が初

めて表れている。 ヤコポの次男、ジョヴァンニ・ベッリーニ(一四三五頃─一五一六)

は、パドヴァで活動していた義兄マンテーニャの影響を受けている。しかし注目すべき点は、彼が均一な斜線ハッチングを用いたマンテー

ニャの線描システムを典型的に絵画的な効果に変えていることである(図

118 118 124)。彼は輪郭線を二回、三回と反復することによって、

その閉じられた性格を取り去っている。彼はハッチングを金属的ともいえる硬質な実体感を形づくるためではなく、かすかに煌めく柔らか

い光の効果を生みだすために用いているのである(図

 ジョヴァンニ・ベッリーニと同世代の画家、アントネッロ・ダ・メッ 119)。 た人物である。彼以前には、北イタリアの画家たちは、肖像を真横か シーナ(一四三〇─一四七九)は、ヴェネツィアの肖像素描を確立し

ら描いた(ピサネッロを参照)。アントネッロは、ファン・エイクの作品の影響を受けて、四分の三観面という形式を導入し、また両手を

省略することによって北方型の肖像画にいっそう大きな統一感を与えた。彼の唯一の真作とされているのはアルベルティーナ美術館に所蔵

される少年の頭部の素描(図

現と明暗描写が見られる。 122)であるが、そこにはみごとな感情表

 次の世代の代表的画家は、ジェンティーレ・ベッリーニの弟子のヴィットリオ・カルパッチョ(一四五五頃─一五二七)である。彼が

直接描いた、自由ですばやいスケッチ(図

斑点で暗示されているだけで、内側の肉付けは省略されている。彼は 126)には、輪郭はしばしば

絵を制作するさい、漠然とした、暗示的な下描きを用意しただけで、カンヴァスに向かって初めて木炭で構図を定めたと言われている(図

を作っている(図 127)。しかし頭部や個々の人物像に対してはいっそう綿密な実物習作

125)。それらは筆で着彩された紙の地に描かれており、

明暗を際立たせるために白色でハイライトが施されている。 十五世紀の後半では、ヴェネツィア派と並んで、パドヴァとフェッ

ラーラの画家たちが傑出していた。パドヴァの主導的な画家がアンドレア・マンテーニャ(一四三一─一一五六)であり、彼は北イタリア

で最初の偉大なルネサンス画家であった。マンテーニャは、中部イタリアの同時代の画家たちとは対照的に、イタリア・ルネサンスの創

始者たちの、荒々しく、彫塑的で、モニュメンタルな素描観を堅持した。彼の素描(図

117)と絵画は彫刻か浮彫のようであり、ドナテッロ

(6)

の影響をはっきりと示す様式で描かれている。しかしそのかたわら、彼は長い斜線のハッチングを特色とする線描システムを発展させてお

り、その方法は、先述したように、明らかにステファノ・ダ・ゼヴィオにまでさかのぼる。パドヴァでマンテーニャと同年代に活動したマ

ルコ・ゾッポ(一四三三頃─一四九八)(図

は劣るが、パドヴァの彫刻的様式の伝統をフェッラーラ派の影響と結 121)が、重要度において

びつけている。 エステ家の宮廷があったフェッラーラでは、コジモ・トゥーラ

(一四三〇─一四九五)、フランチェスコ・コッサ(一四三八頃─一四七七)、エルコレ・デ・ロベルティ(一四五五頃─一四九六)が

活躍した(図

ながらも、それを絵画においてはウンブリアのピエロ・デッラ・フラ 120)。彼らはマンテーニャの彫塑的な様式の影響を受け

ンチェスカの美しく深みのある色彩と結びつけた。彼らの作品に見られる粗削りな性格は、しかめ面の表情や誇張された動作によっていっ

そう強められている。その人物表現は写実的でありながら表出性に富んでいる。

 フィレンツェ・ルネサンス美術 の写実主義はある種の直截さと素朴さを欠いている。またそれは、経験的な観察の上に築かれたピサネッ

ロの写実主義がもつ普遍的な幅広さをも欠いている。フィレンツェの写実主義は自然に関する科学的で数学的な知識に基づいている。実

際、十五世紀のフィレンツェ人にとって美術は科学の手段であった。視覚的印象は数学的な諸法則に還元されねばならなかった。アルベ

ルティは﹁まず最初に幾何学を学びたい(In prima desidero sappi la geometria )﹂と述べ、レオナルドは絵画を   科学﹂と見なしている。 こうして空間はユークリッド光学に基づく線遠近法によって数学的に図式化され(図

75)、人物像や動物像は確固たる人体比例システムの

把握を通じて数学的に表現される。すでにギルベルティは述べている──﹁芸術は、光学、比例理論、そして遠近法に基づくものでなけれ

ばならない。﹂こうした新しい傾向は現存する数少ないパウロ・ウッチェッロ(一三九七頃─一四七五 )の素描に見ることができる。傭兵

隊長ジョン・ホークウッドの騎馬像のための素描(図

着色された紙に緑土で描かれているが、台座の機能をなす石棺は数 39)は、紫色に 学的に正確なやり方で﹁下から見上げた(dal sotto in su)﹂仰視的遠近法で表されている。馬は比例のための研究となっている。正確な輪郭

によってシルエットに絶対的な明瞭性を与えることがウッチェッロの主要な目的のひとつであった。彼がここで実現しようとしているのは

規範的な彫塑的形態なのである。もしマザッチョやドナテッロ、アンドレア・デル・カスターニョの素描が現存していたならば、十五世紀

初頭のフィレンツェ美術の科学的な傾向はいっそう明白になったことだろう。

 十五世紀後半においてこうした流れを汲む最後の画家はアントニオ・ポッライウォーロ(一四三三─一四九八)である。彼の裸体人物の素

描(図

した地に人体が単純明快なシルエットとして描かれている。リズミカ 43)ではあらゆる空間的効果が排除されており、ビスタで着彩

ルに動く輪郭が、人体の生命感にあふれる緊張を表している。しかしここでは、この抽象的で科学的な傾向は装飾的なものに変化している。

 こうした大胆な革新者グループと同じ時期に、フィレンツェでは多くの保守的な画家たちが活動していた。そのうちの何人か、ロレン

(7)

ツォ・モナコ(一三七〇頃─一四二五)(図

コ(一三八七─一四五五)(図 19)やフラ・アンジェリ 46)は、﹁優美様式﹂の継承者で、写

本装飾画のような素描を描き続けた。 また別のグループの画家たち、フラ・フィリッポ・リッピ(一四〇六─一四六九)(図

48)、ベ

ノッツォ・ゴッツォリ(一四二〇─一四九七)(図

44 チェッリ(一四四四─一五一〇)(図 45)、ボッティ 57)、ギルランダイオ(一四四九

─一四九四)(図

50 一五〇四)(図 51)、フィリッピーノ・リッピ(一四五七─ 47)は、その裸体習作や衣裳習作、肖像の素描に表面

的な写実性と明暗の効果を与えている。彼らの素描の様式は革新者たちのそれよりも豊富である。彼らは輪郭線の明瞭さを保ちながらも、

平行ハッチングや交差ハッチングによって(ギルランダイオ)、また白でハイライトを付すことによって、豊かな肉  付けを与えている。彼

らにとって素描は本質的に作品のための下図であり、現実世界への独自の科学的関心を表すものではなかった。

 素描が再び、ピサネッロの場合と同じように、現実世界を認識するための直接の手段となったのは、ようやくレオナルド・ダ・ヴィンチ

(一四五二─一五一九)になってからのことである 10

。レオナルドは、十 五世紀のトスカーナ美術の科学的傾向をあらためて集大成するとと

もに、それらを新しい美の理念のもとに融合した。素描はレオナルドの制作過程において最も重要な意味をもっていた。彼は絵画や彫刻に

よっては完全に表現できなかったもの──宇宙の諸法則に関する観念──を素描によって表わすことができた。彼の素描の大部分は独白で

あり、私的な目的のためのものであった。彼は当時の社会的宗教的な慣習のもとでは許容されなかったもの、実際の芸術作品ではけっして 表現できなかった内的省察をそれらの素描に託した。彼はあまりに多くのものを見、またそのことを自覚していた。そこで彼は己の真実を

界から隠した。同じ理由で手稿は鏡文字で記され(レオナルドは左利きだった)、謎めいたものにされたのである。

 彼が描いた膨大な量の速描きスケッチの背後には、自然の現象の神聖な美は創造的な力に基づいており、それは曲線や螺旋形となって表

れる、という根本的認識が存在する。この力が雲や水、植物、動物、人間の形態と運動を決定づける(図

74 30 69)。彼はそれを﹁渦巻 状の運動(moto revertiginoso)﹂(MS. E. 8or)と呼び、そこに存在の音楽的な調和を見いだした。

 自然の隠された法則への関心はごく若い頃からレオナルドをとらえていたらしい。すでに初期の︽アルノ川の風景︾(図

63)は、単に遠

近法的に構築された空間を表現しようとする試みだけでなく、彼が岩石や樹木の茂みの生成に客観的な関心を抱いていたことを示してい

る。たしかに、彼はここでは自然の表面的な魅力だけを見ており、樹の葉のあいだで震える大気を平行する弧線で表している。彼が、自然

の外的な現象ともども、その内的な形成力を螺旋状の運動としてとらえるのに成功するのは、ようやく晩年の風景素描(図

74)においてで

ある。その最も驚くべき作例が雨の風景素描の連作である。 ところが彼は自分が目的に到達したことにけっして気付かなかった

ようである。人物像の顔や動作、事物の形の絹のように輝くスフマート、大洪水を表す風景には底知れない謎が潜んでいる。

 素描の技法においては、レオナルドは師のヴェロッキオの技法から出発した。若い頃の彼が好んだのはシルバー・ポイントやペンであっ

(8)

た。平行する斜線ハッチングは初期から彼の作品に見られるが、十五世紀末頃になるとそれは絹のような光と影の効果に発展した。十六世

紀を迎える頃には、おそらくミケランジェロの影響を受けて、彼の手法はいっそう彫塑的になった。線は人物形態の丸みに沿って湾曲し、

平行ハッチングと並んで交差ハッチングも用いられるようになる。最後に、フランスで暮らした晩年期には、彼は主として宇宙の解釈に

関心を寄せ、その宇宙的な思想の表現にいっそう適した柔らかい黒チョークを使うことを好んだ。

 レオナルドは北方絵画の自然観察という機能をイタリアの科学としての美術という考え方と統合した。彼はピサネッロの問題提起にある

種の解答を与えた。すなわち、ピサネッロが直観的に把握していた自然のあらゆる発現形態に見られる統一性を、レオナルドはひとつの力

学の法則に還元しようとした。そして彼は現象の表層から深層へと堀り進んだのである。

 十六世紀初めの四半世紀はイタリアで比類なき一連の大天才たちが同時に活動した時代である。レオナルドと並んで、彼より若い同時代

の美術家であるミケランジェロ、フラ・バルトロメオ、アンドレア・デル・サルト、ラファエッロ、コレッジョ、ジョルジョーネ、ティツィ

アーノが活躍した。これらの天才たちの作品に比べると、それ以前に描かれた作品は粗っぽく、無味乾燥で、生硬であるか、さもなければ

取っていて退廃的に見えるし、それ以降に制作された作品は誇張され、マンネリズムに満ちているか、アカデミックに見える。この﹁大

様式﹂あるいは﹁古典様式﹂と呼ばれた様式は、もはや美術を目に見える現実世界を理解するための単なる手段とは見なさず、完璧な表現 方法を獲得することによって、あるべき姿の自然を再創造する手段と見なすようになった。それ以前の画家たちは同時代の生活に取材した

実物研究で彼らの写生帖や画面を満たした。しかし十六世紀初頭の巨匠たちは、可視的な現実世界においては不完全なかたちでしか現れな

い自然の内的意図にしたがって人間の肉体の完全な形態を創りだした。彼らはもはや﹁いまここに(hic et nunc)﹂の経験的観察に基づ

いて制作するのではなく、精神の目によって制作するようになった。彼らが創り出した第二の現実は、あたかも現実世界が完全な形に開示

されたかのような様相を呈している。彼らの絵画は静穏な超人たちの住む太陽のふりそそぐオリュンポス山のようである。彼らはもっぱら

人物像のみを表すために豊かな現象世界をその画面に描きだすのを断念した。彼らにとって空間や風景は威厳をおびた人物像という存在の

共鳴音に過ぎなかった。大様式の二つの要件である﹁荘厳(Maestà)﹂と﹁威厳(Dignità)﹂は、すでにレオン・バッティスタ・アルベルティ

が表明しているように、それらの導きの星であった。 レオナルドは、単に科学的な探究者、分析者であっただけでなく諸

芸術の組織者、統括者であり、この大様式の真の創始者であった。彼は、宇宙を支配する諸法則を洞察しつくした結果、自然が究極の理想

へと向かっていることを認識するにいたった。次の世代──ラファエッロ、フラ・バルトロメオ、アンドレア・デル・サルト──になる

と、宇宙的な背景は消え去り、高められた人間存在の美と調和の理想像だけが残った。

 ラファエッロ(一四八三─一五二〇 11

)はウンブリア出身で、その地で師ペルジーノ(一四四五頃─一五二三)(図

61 62)から柔らかい

(9)

流麗な線が同時に肉体の立体感と独自の旋律を表現しうることを学びとった 12

。彼は一五〇四年にフィレンツェに赴き、そこでレオナルド、

ミケランジェロ、フラ・バルトロメオの作品から人物群像を律動的かつ調和的に構成する新しい方法を学び、また彼らが創造した威厳にと

んだ人物像を再現しようと努めた。彼はフィレンツェで制作した聖母マリアの習作(図

80)や構図素描、またその写生帖の速描きスケッチ

において、おそらくその素描家としての画歴における最高頂に達している。彼の素描はウンブリア派的な輪郭の柔らかさと繊細さを保ちな

がら、その輪郭は形体をくっきり象るというよりむしろ暗示している(図

82)。それは、フィレンツェの画家たちのような、連続的な輪郭で

なく、断続的に、反復された輪郭である。また角張った不安定な輪郭ではなく、総じて円弧状に走るゆるやかな輪郭である。この精妙な輪

郭の内側に、彼は軽やかな手つきで、長くて、幅広い間隔をもつ、多くはかすかに湾曲する平行ハッチングを施している。そのハッチング

は常に輪郭を尊重しているが、またそれは同時に形態の全体的な丸味を暗示し、それをヴェールのように包み込みながら距離感を与えてい

る。全体の形態は、遍満たる光を浴びているかのように等しく明瞭である。それは触知できる物質からではなく透明で非物質的なエーテル

から成っているようであり、幻影のように見える。その人体は地上的な重みから解放されて、白昼の幻影のように漂っている。それらの素

描は、同じ時期の伝統的なやり方で着彩された絵画作品の人物像には見られない独自の精神性をおびた特質をもっている。ローマでのラ

ファエッロはウンブリア派の伝統からますます遠ざかった。輪郭線はいまやいっそう力強く引かれ、連続性をおびるようになった(図

83

そう顕著になり、人物像にいっそう強い立体感を与えるようになった。 84)。ハッチング(彼は交差ハッチングも用いるようになる)はいっ

フィレンツェ時代のエーテル的な特質は人物の彫刻的な着想にとってかわったが、それはモニュメンタルな様式にはいっそう良く呼応して

いたとはいえ、神々のような人間存在という彼のヴィジョンを表現する手段としてはあまり適していなかった。

 フラ・バルトロメオ(一四七二─一五一七 13

)もまたレオナルドから決定的な影響を受けた。壮年期のチョーク素描の技法、ピラミッド型

の構図がそれである。青年期の彼はペンを好み、長い、途切れのない輪郭線と微細な交差ハッチングを用いて描いたが、その自由な手法は

ときにはカリグラフィックに流れる傾向を示した(図

期にはその様式はいっそうダイナミックになり、その線は円弧状ない 77)。次の壮年

し楕円状になった。彼は黒チョークを好み、それを擦ったり白でハイライトを付したりすることによって明暗の効果を生みだした。しか

し依然として人物像は孤立してとらえられている。晩年期(一五一四─一五一七)の黒チョーク素描(図

78)では、性急で神経質な線が用

いられている。空間を満たす薄暗がりから、彼は円弧状の線によって丸みをおびた人物像を浮かびあがらせた。いくつかの人物像は混沌と

した霧のなかから抜け出ようとしているところであり、他の人物像はすでに完全な彫塑的な丸みをおびている。フィレンツェ時代のラファ

エッロと同様、人物の形態は精神性をたたえている。しかしその実体はもはや光輝くエーテルではなく暗く濃い霧である。ここではラファ

エッロの楽天主義は消え去り、未来を予告するように、新しい生真面目さが素描を支配している。

(10)

 アンドレア・デル・サルト(一四八六─一五三〇 14

)は他方、陽性のフィレンツェ人である。彼は黒チョークのかわりに赤チョークを好み、

その明色調の絵画におけると同様、明るく輝く効果を生み出した。確固とした手つきで引かれたいくらか角張ったその輪郭や、神経質で性

急なそのハッチングには、十五世紀フィレンツェの伝統が息づいている。またその伝統は、彼の素描がほとんど人体やその部分の習作のた

めに描かれたもので、構図を練る手段としてのものではないことにも示されている。

 ミケランジェロ(一四七五─一五六四 15

)は、これらの芸術家たちの中でも特別な場所を占めている。並ぶべき者なき卓越した彫刻家とし

て、若い頃の彼は素描を大理石の一種の代用品として扱い、あたかも鑿で制作するように、彫刻的着想を紙に描きとめた。彼もまたペンを

好み(図

チングを用いたが、しかし彫塑的形態をいっそう完璧に描きだすため 86)、師匠のドメニコ・ギルランダイオにしたがって交差ハッ

にそれに新しい彫刻的なひねりを与えた。彼はペンをしっかりと握り、その線は冷めている。彼はその筆致にこめた震えるような情熱を、並

はずれた力によって抑制し、ペンが気まぐれに走ることを許さなかった。彼は白い紙それ自体を一種の物体と見なし、あたかも大理石を彫

り込むように、前から後ろへ線で描き進んでいった。白い地が最も突出した部分となる。短く力強いハッチングの方向と間隔の取り方がく

ぼんだ形を決定する。人物の形態だけが重要であり、人物像は周囲の環境をいっさい無視して、虚空に投げだされているように見える。そ

の速描きのスケッチでは、輪郭が人物の形態を描きだすと同時にその内側の生命の緊張感を表している。それに対して、人物習作では輪郭 は微かに暗示されているだけだが、人物形態の内側の肉付けは交差ハッチングによってしっかりと施されている。

 システィーナ礼拝堂の天井画を制作していた時期の彼は、人物の実物習作にもっぱら赤チョークを用い、ペンの使用は速描きのスケッチ

に限られた(図

87 して力強く強調された輪郭で描かれた人体に内在する生命力の律動が 88)。そこには解剖学的な正確さとともに、主と 表現されている。人体の形態は若いときよりもいっそう大きく力強いものになり、また彼は胴 体ばかりにではなく、以前には粗くスケッチ

するだけだった四肢にも関心をはらっている。柔らかくおおまかな効果をもつ赤チョークは、力強い人物形態を表現しようとするこうした

傾向に鋭いペンよりも適していたのである。 メディチ家礼拝堂の仕事にたずさわっていた時期(一五二〇─

一五三二)には、彼は赤チョークに加えて黒チョークを用いた。彼は交差ハッチングによって個々の人物に肉付けすることを止め、人物形

態とともに揺れ動き、そこに閉じこめられた生命と共振する、長くて柔らかい平行線や曲線で描くようになる。彼はあらゆる静的な要素を

力強い生命の脈動に従属させた(図

在期の初期に、ミケランジェロはまた、みずから完成した芸術作品と 89)。この時期の末期とローマ滞

見なした何点かの構図素描を描いている。これらの素描において彼は、神話の衣をまとって、友人のトマーゾ・カヴァリエーレへの熱烈な愛

を表明し、それらを贈物として彼に献呈した。黒チョークで描かれたこれらの献呈素描は、その柔らかいスフマートの表現がレオナルドの

最良の素描の数々を想い起こさせる。輪郭は依然として力強さをおびているが、人物の肉付けは繊細になり、皮膚の柔らかさを感じさせる。

(11)

陰影はもはやハッチングではなく指ですりこむことによって生みだされている。非現実的な光が、人物形態の彫塑的性格をそこなうことな

くそれらを和らげている。 最晩年期(一五四二─一五六四)には、ミケランジェロは実物から

の人物習作を描かなくなったようである。人物形態を知りつくしていた彼は、この総合と宗教的回心の時期に、みずからの宗教的思索を描

きとめることに専念した(図

する微光に照らしだされて半透明に見え、その微光は、人物の輪郭を 90)。これらの人物たちは内側から散乱

流動化すると同時にそれらをたがいに孤立させている明るい霧のなかから放たれているように見える。これらの燐光を発する人体は物質的

な実体感を失っている。その輪郭は単純化され、時には直線に近いものになっている。また以前には肉体を膨脹させていた輪郭の力強さ

も消えている(図

のための物理的基底と見なした紙の白地は、いまや人物像を透過して 91)。ミケランジェロがかつては彫塑的な人物形象

輝く超越的な光を象徴するものとなる。またかつては人物形態の丸みに沿いながらハッチングによって表面の起伏を肉付けしていたが、い

まや擦筆によって繊細な半陰影を与えるようになり、それを通して内奥からの光が輝きでている。魂のリアリティである、これらの人物像

は紙のうえに立ちあがり、いかなる限定された空間からも独立している。こうした特性は内的なイメージを創造するメカニズムそのものか

ら発している。つまり、これらの内的イメージを生みだす高度に精神的な試みにおいては、可視的世界を形成する多くの部分を同時に描き

だすことは不可能であるため、中心的な要素だけが強調されることになり、周りのすべてのものは漠然としたものになるのである。  ヴェネツィア派最大の画家、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(一四九〇頃─一五七六 16

)は、多作家のわりには数少ない素描しか残

しておらず(約三五点の素描が現存するにすぎない)、一貫した素描様式を発展させることはなかったようにみえる。初期のペン素描(図

と推測されている緩やかな交差ハッチングが用いられている。のちに 129)では、師のジョルジョーネ(一四七八頃─一五一〇)に由来する

なると彼の描線は大胆で荒々しいものとなった(図

ナの画家たちの教えに束縛されずに、力強い線を反復することによっ 130)。彼はトスカー

て激しい感情を自由にあやつり、またそれによってみずからの幻想をすばやくとらえようとした。この熱情的で自由な描線はパオロ・ヴェ

ロネーゼ(図

134)やパルマ・イル・ジョーヴァネ(図

自在なバロック期のスケッチ(図 135)を経て自由 110)へと引きつがれることになる。

晩年期のティツィアーノ(図

に柔らかな黒チョークで描くのを好んだが、こうすることで彼は視覚 131)は、ヴェネツィア特有の青い着色紙

的な幻想を、すばやく走る、とらえどころのない、大まかな線で巧みに定着させたのである。

 パルマの古典様式の画家、コッレッジョ(一四九四頃─一五三四 17

)はスフマートの大家レオナルドの様式を踏襲している。青年期に彼は

マンテーニャの影響を受け、のちにレオナルドとジョルジョーネから深い影響を受けて自己の様式を発展させた(図

99)。彼が好んだ画材

は赤チョークであった。輪郭線は流れるように長く引かれ、肉付けは平行する描線と擦筆によって施された。彼はこうした単純なやり方に

よって魅力的な明 暗表現を生みだし、それと同時に柔らかな皮膚の質感を生き生きと描きだすことに成功した。コッレッジョは若きパルミ

(12)

ジャニーノ(図

100)や、十六世紀末にカッラッチ一族(図

を与えることになる。 102)に影響

 十六世紀の第二四半世紀から十七世紀初頭にかけての宗教的、社会的、政治的な激変の時代には、美術家たちはこれまで述べてきた盛期

ルネサンスの理想から離反していった。社会的に職人の地位から知的エリートへと昇りつめた彼らは、もはや自然に内在する完全さを芸術に

具現しようとしなくなり、現実に背をむけることによって人が逃避することのできる特殊な芸術世界をつくりあげようとするようになった。

 ヴェネツィア派のティントレットとヴェロネーゼを除くと、イタリアには偉大な天才が生まれなかったことがこの時代の特徴である。美

術家たちは自然に背をむけ、彼ら自身の想像力に頼るか、あるいは十六世紀初頭の巨匠たちの人物形態を多少とも才気にとんだやり方で

結びつけることによって制作した。こうしてラファエッロに追従したのはジュリオ・ロマーノ、ペリーノ・デル・ヴァーガ、F・ペンニで

あり、ミケランジェロを模倣したのはアントニオ・ミーニ、ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラ、パッセロッティ、バッチョ・バンディネッリ

であった。アンドレア・デル・サルトに追従したのは優れた素描家のポントルモ 18

であり、コッレッジョに追従したのはパルミジャニーノ 19

あった。これらの美術家は貴族的で現実逃避的な社会の楽しみのためにユートピア的世界をつくりあげた技 巧家たちである。彼らは、キュ

ビスム的な図形に変形された人間たちの住む世界(ロッソ、ルカ・カンビアーゾ)(図

93)や、生命を与えられた大理石の彫像のような人

間の住む世界(ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラ、ブロンズィーノ、バンディネッリ、サルヴィアーティ、ヴァザーリ)(図

94)を創りだし 粉でこねあげたような風景や人物像を生みだした(タッデオおよび た。それに続く十六世紀の第三四半世紀の画家たちは、柔らかい練り

フェデリーコ・ツッカリ、バロッチ、ボスコリ、チゴーリ、カヴァリエーレ・ダルピーノ)(図

96 101)。芸術はもはや現実を解釈するもの

ではなく、芸術によって創りだされた自然がどのように見えるかを示すものとなった。これらの絵画は、ときには人を楽しませ、ときには

かすかな詩情をたたえ、ときには隠された官能性にあふれているが、つねに見るものを日常生活から遠いかなたの人工的な世界へと連れて

ゆくのである。 現存するこの時期の素描の大半は構図素描である。このことは、こ

れらの画家たちが自然に基づく習作を敬遠したことを思えば驚くことではない。彼らにとっては主題が最も重要な関心事であったから、ペ

ンで描いたうえにビスタで淡彩を施し、白でハイライトを付けて、素描に絵画と似かよった様相を与えた。それらの素描の大部分は自発性

に欠け、無味乾燥で、どこかペダンティックである。 最盛期の巨匠たちの影響は、イタリアの国境を越えてヨーロッパ全

土に広まった。ヨーロッパにはひとつの国際的な芸術言語が発展し、そのなかでは地方的な特色は二義的なものに感じられるようになった。

 しかし、マニエリストと呼ばれたこれらの技 巧家たちに対しては二通りの反応があった。一方には、アントウェルペンとブリュッセルで

活動したブリューゲル(図

168 は反対に、自然の秘密を理解しようとするルネサンス的情熱を持ち続 171)のように、流行のマニエリスムと

け、その風景表現に汎神論的な世界図を創造した画家がいた。他方には、ティントレットやエル・グレコのように対抗宗教改革の新しい神

(13)

秘信仰にとりつかれた画家がいた。 ティントレット(一五一八─一五九四)の素描には 20

、この画家がス

クオーラ・ディ・サン・ロッコの幻視的な絵画に表明したような深い信仰心は微塵も見られない。彼の素描は主として個々の人物像の動作

を研究するための習作であり、そこでは着衣像も最初は裸体で描かれることが多かった(図

132 133)。力強い突出感を生み出している、激

しい気性をしめす輪郭は、たびたび途切れている。その輪郭は彫塑的な肉付けと肉体の内的な緊張感を表しているが、同時に紙との対比に

よって明暗を示唆している。これらの素描の大部分は小型の臘人形をモデルにして描かれた。現存する構図素描の数はきわめて少ない。

ティントレットは、素描においてミケランジェロの彫塑的構築的な造 形をティツィアーノの絵画的色彩中心的な着想と調和させよう

と試みた。この試みがいかに注目すべきものであるかは、ちょうどティントレットが創造的な活動を展開していたこの時期に、美術理論

家たちの著作においてトスカーナローマ派のディセーニョとヴェネツィア派の色彩主義のいずれが優れているかをめぐって熱い議論が戦

わされていたことからもわかる。ティントレットの素描はいずれの画派からも文句のつけようのない優越性を証している。

 しかし十六世紀末の技 巧家たちのあいだにおいてでさえ、創造の水準があまりに低下しており刷 新が必要であると感じていた画家た

ちがいた。この刷新は、ローマとフィレンツェの線的彫塑的な様式をヴェネツィアの色彩的絵画的な様式と総合することによって成し

とげられる、と考えられた。この折衷的な美術の復興が行われたのはボローニャのロドヴィーゴ(一五五五─一六一九)とアゴスティーノ (一五五七─一六〇二)、そしてアンニーバレ・カッラッチ(一五六〇─一六〇九)のアカデミー(画塾)においてである 21

。彼らは、一方で

はティツィアーノとコッレッジョの様式を総合しようと試み、他方ではラファエッロとミケランジェロの様式を総合しようとした(図

102 アカデミックなものであった。 103)。彼らは自然の研究に立ち戻った。だがこの試みの結果は純粋に

 それよりずっと重要だったのはロンバルディア出身の画家カラヴァッジョ(一五六〇頃─一六〇九)の影響であり、彼はカッラッチ

の学校で学んだ弟子たちにも影響を与えた。カラヴァッジョは、北イタリアの色彩主義と写実主義を中部イタリアの構築的な構図や素描と

統合し、さらに光と影の新しい概念をつけ加えたが、それは彼の人間化された聖書の諸場面をいっそうなまなましく呈示するための手段と

なった。彼は一種の﹁貧 者の聖書﹂を創造し、聖書の物語を貧しい人々のあいだに起こった出来事として描きだした。カラヴァッジョの素描 は一枚も現存しない 22

。しかしカッラッチ派のいくつかの素描、たとえばグエルチーノの素描(図

107)に見られるような強烈な光と影のコン

トラストは、カラヴァッジョの影響なしに説明することはできないだろう。

 十七世紀は十六世紀の一見和解しがたい諸対立の総合をもたらした。この世紀の偉大な学問体系においては、宗教的教義は科学的知識

と調和させられることになった。芸術においても、以前のヴェネツィアとローマの敵対的傾向は新しいより高度な統一のなかに融合され

た。イタリアでは一六〇〇年以降、ローマが再び優位にたち、ボローニャの美術はローマ美術のヴァリアントにすぎなくなった。三つの大

(14)

きな海港都市、ナポリ、ジェノヴァ、そしてやや遅れてヴェネツィアだけが独自の特色を保ち続けた。

 十七世紀の美術は三つの造形芸術の総合を目指し、建築と絵画、彫刻はシンフォニーを構成する異なる楽音にすぎなくなった。芸術と自

然は、前世紀には完全に分離されていたが、再び統合された。現実の宇宙空間と芸術という幻想空間のあいだのあらゆる障壁は取り除かれ

ることになった。芸術はこのときから自然と直接的に連続することになった。自然それ自体の無限空間が画家の基礎となり、それを画家は

華やかな装飾によって美しく飾りたて、想像力によって創りあげた人物たちで埋めつくした。もはや盛期ルネサンスにおけるように、自然

の中に潜む理想的な完全さを閉じられた世界として呈示することが問題なのではなく、現実世界を直接形づくることで世界を飾ることが問

題となったのである。 十七世紀のイタリアの素描には二つの様式が共存する。ひとつは懐

旧的な様式で、閉じられた、律動的な輪郭線と、表面的な明暗の肉付けをもっている。この種の様式は、カッラッチ一族に見られるもので、

盛期ルネサンス様式の復活であるが、異なる点は肉付けが概して柔らかく、しばしばいっそう豊かな光と影の効果を伴っていることであ

る。こうした様式は、グイド・レーニ(一五七五─一六四二)(図

ドメニキーノ(一五八一─一六四一)(図 105)、

106)、グエルチーノ(一五九一

─一六六六)(図

ローマの新様式の創始者たち、A.サッキ(一五九九─一六六一 23 107)といったカッラッチ派に見られるだけでなく、

)、

ピエトロ・ダ・コルトーナ(一五九六─一六六九)(図

ルニーニ(一五九八─一六八〇)の習作にも見いだすことができる。 108)、そしてベ は新しい種類の素描を見いだすことができる。これらの素描(図  しかしそれと並んで、同じローマの美術家たちの構想スケッチに

110 かもそれらの線はもはや現実の孤立した形態をかたどるのではなく、 113)は、始まりも終わりもない、流れるような線から成っており、し

空間とほどきがたく絡みあった状態でそれを定着しようとしている。 これらの美術家たちのなかで最も重要な素描家はおそらくベルニー

24

である。彼は最初の構想スケッチを描くのにペンを用いた(図

112 113)。その線は激しい気性にあふれている。彼は長く、均質な太い線

を用いて、それを何度も反復し、頭部や四肢はごく簡略に描いた。これらの線は客観的な人物形態を描写するのではなく、人物形態と空間

やその動作との関係を一挙にとらえている。彼の実物習作では、それとは反対に、輪郭は明瞭で、肉付けは一般に淡彩で施されている。彼

の構 想スケッチの様式は十六世紀のヴェネツィア派の素描、とりわけヴェロネーゼの素描(図

134)から着想を得ている。ヴェロネーゼも好

んで線を多く重ねて素描したが、人物形態とそれを包む空間を結びつけることはしなかった。

 十七世紀の末には、バッチッチョ、ポッツォ、マラッタとともに、ローマの美術は衰退におちいった。やがて一七〇〇年頃からヴェネツィ

ア絵画が驚くべき最後の再生を経験し、十八世紀最大のフレスコ画家ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(一六九六─一七七〇 25

)が

ヴェロネーゼの祝祭的な芸術を蘇らせた。彼は赤チョーク、黒チョーク、白チョーク、ペンと淡彩を用いて素描した。その大部分は着彩し

た紙に描かれた。彼の素描のほとんどは絵画作品のための下図であった。とりわけペンと淡彩を併用した技法で描かれた素描(図

137)では、

(15)

彼は比類なき光の詩人である。余白で残された紙面は、太陽の光によって輝くように見え、淡彩を施された部分は清涼な透明の影に覆わ

れているように見える。それは以前のイタリアでは知られていなかった光の絵画である。聖書や神話の場面は画家にとっては口実にすぎず、

彼の素描の真の主役は金色に輝く太陽の光であった。風景画においても、彼は絢爛豪華なバロック的な舞台装置を嫌って簡素な農家を背景

に選び(図

いる。しかしレンブラントにとっては影が重要な要素だったのに対し 136)、レンブラントを想起させる光と影の効果を達成して

て、ティエポロにとって影は光をいっそう眩しく見せるための対比的な要素にすぎなかった。

 フランチェスコ・グァルディ(一七一二─一七九三 26

)──その妹はティエポロに嫁いでいる──はより若い世代に属し、カナレットの弟

子として純然たる都 市景観画の画家として出発した。彼はその都市景観の主題において、バロック的な祝祭の題材にわずらわされることな

く、完全に光の絵画に没頭することができた。そしてヴェネツィアの大気の最も敏感な詩人となった(図

143 144)。彼はペンと淡彩を用い

たが、ペンの描線は途切れており、淡彩は透明感にあふれている。ペンの描線と淡彩はたがいに補完しあい、陽光に満たされた空間の効果

を生みだしている。彼が描いたいくつかの風景素描(図

敏な感性によって中国の山水画を想わせるが、実際に彼は中国趣味に 143)はその鋭

魅かれていたことが知られている。 こうした光の詩人たちと並んで、十八世紀のヴェネツィアにはジョ

ヴァンニ・バッティスタ・ピアツェッタ(一六八二─一七五四)(図

139

140)やロンギ(一七〇二─一七六二)といったいっそう保守的な じた輪郭と入念な肉付けによる客観的な方法で素描した。 画家たちがいたが、彼らは、とりわけ着彩紙の肖像習作において、閉

 以上を要約すると、十六世紀初めの中部イタリアでは、各地の独自の地方様式にかわって、ひとつの普遍妥当的な様式が台頭した(ヴェ

ネツィアだけが短期間その個性的特徴を保持した)。レオナルドはロンバルディアの線の美しさをフィレンツェの構築的な描線と融合させ

た。ラファエッロは故郷ウンブリアの線の旋 律をフィレンツェの彫塑性と結びつけ、そして生粋のフィレンツェ人ミケランジェロでさえ、

二十代以降は、北イタリアの柔らかいスフマートを(明らかにセバスティアーノ・デル・ピオンボを介して)フィレンツェの彫塑的な概念

と調和させた。同様のことはフラ・バルトロメオやアンドレア・デル・サルトの晩年の素描にも当てはまる。

 ヴェネツィアもまたいつまでもこうした動向から逃れられず、その特殊性を破棄して普遍的な動向に身をゆだねたが、絵画的であり彫塑

的でもあるティントレットの素描は、ヴェネツィアにおける二つの伝統の融合の最初の試みを示している。十六世紀のこれらのすべての総

合においては、しかし、地方独自の特徴が根強く残った。最後には、ボローニャの折衷派の画家たちと、少し後のローマのバロック画家た

ちが、北イタリアと中部イタリアの相反する諸要素を統合したことによって、地方的な伝統はもはやほとんど識別できなくなった。ようや

く十八世紀になって、ヴェネツィアとジェノヴァにおいて地方様式が再び隆盛するのである。

 フランスのヴァトーとシャルダンがティエポロと同時代の画家であり、ブーシェとフラゴナールがグァルディと同年代であることを考え

参照

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――――( ) : « Légendes et récits d’Europe du Nord : de Sigfrid à Tristan », présentation et édition par Béatrice TÜRPIN, Saussure, L’Herne,

(1959), Les Rêveries du Promeneur solitaire, Œuvres complètes de Jean-Jacques Rousseau, Bibliothèque de la Pléiade I,

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Z OCCO ─R OSA : Il codice civile dei beni del Montenegro ed il diritto romano, con speciale riguardo al titolo del Digesto de diversis regulis juris.. P RÉUX : La revision du

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