﹁ヨーロッパにおける素描の歴史と技法﹂⑴
︻翻訳︼シャルル・ド・トルナイ訳 森田義之・上月裕子
第一章 素描理論の概観
最初の真の芸術理論はルネサンスの美術家から生まれた︒かれらは ギルドの精神からみずからを解放し︑もはや自身を職人ではなく自由な創造的天才――社会的に見れば精神的エリート――と考えていた︒
かれらはその著作のなかで︑自然やかれら自身の創作の状況を説明しようとし︑社会的序列におけるかれらの新しい地位に哲学的で歴史的
な正当性を与えようと試みた ︵
1︶ ︒しかし︑ひとたび職人仕事からの解放が達成されると︑自発的な創造の衰退があらわれた︒この衰退が美術
の理論化を推進したのである︒純真な創造の時代には美術家はふつうその行動についての説明にあまり関心をはらわない︒作品こそがその
精神の本質的な産物だからである︒
というわけで︑真の素描理論は十六世紀半ばになって︑職人を軽蔑
し︑ミケランジェロによって美術は頂点に達したと考えていたフィレンツェのマニエリスム画家によって発展させられることになった︒不
可避な衰退の自覚の兆候であるマニエリスムの理論は︑栄光ある過去の美術を知的に綜合する理論と現在の美術を正当化する理論を含んで
いた︒
素描に関する初期の著述は︑工房のなかで素描と見なされていたも
のに関する︑実践的で技法的な助言の断片や短く控え目な定義づけに限られている︒十七〜十八世紀のマニエリスムとアカデミーの著述家
の最も重要な著作は︑もはや美術家自身によってではなく︑美術愛好家や批評家︑素描をとりわけ心理的記録として評価した学者たちに よって書かれた︒かれらはすばやく描かれた素描に独自の価値を見出したが︑それは素描が美術家の内奥の個性や秘められた思考と情動へ
の洞察を与えてくれたからである︒かれらにとって︑素描は﹁画家の秘密﹂であった︒なぜなら素描は︑完成作品よりも直接的に画家の内
密な個性を表現していたからである︒完成作品は依頼者によって注文をつけられ︑画家は概して人びとの趣味に譲歩しなければならなかっ
た︒﹁素描を見れば︑聴罪司祭のように︑人間の肉体と心をとらえることができ︑魂の底まで見抜くことができる ︵
2︶
︒﹂こうした近代的な見
方は︑ルネサンス以降の素描の研究︑とりわけ近代的な主観主義が始まる十七世紀以降の素描の研究にとっては非常に有益である︒しかし
ながら︑それを中世の素描の研究に適用することはできない︒
初期中世においては︑素描は美術家の内的な個性の表出とは考えられていなかった︒この時代の素描は︑美術一般と同じように︑修道院
のなかで聖職者によって制作され︑教会の教義に完全に従属していた︒自然の個別的な観察や個性的な研究は表現するに値しないと考えられ
ていたのである︒僧侶たちは――美術の分野では素人であったが――古代エジプトや古代ギリシアにさかのぼる方法によって素描を学ん だ︒かれらはそれ自体が先行する作品の模写に過ぎない手本︵exempla︶を写した ︵
3︶ ︒これらの手本は古代にまでさかのぼるものであったが︑し
だいに単純化され︑同時にそれらの当初のイリュージョニスティックな性格を失って︑ますます図式的なものになっていた︒はじめは教会
の戒律に従った感覚的な美の拒絶にすぎなかった︒のちには︑とりわけ十一〜十二世紀には︑美術家はこの図式的で抽象的な線的表現を積
極的な価値へと転換した︒かれらはこのカリグラフィーによって︑あらゆる偶然性から自由な事物に内在する原理を表現し︑また事物を支
配する内的な調和を表象しようとしたのである︒
おそらく現存する最も古い素描見本帖︵パターン・ブック︶は︑
十一世紀初頭にさかのぼる︑レイデンに保存されているそれである︒これはアデマール・ド・シャバンネー・ダングレームによって制作さ
れたもので︑荒いペン素描でプルデンティウスの﹃プシコマキア﹄を図解している ︵
4︶
︵図1︶︒作者はおそらく︑のちに実際の写本にするため
の準備スケッチとして︑自分自身のためにこれらの素描を描いたものと思われるが︑その描線の自発性の欠如は︑この構図が彼の創作では
なく模写されたものであることを示唆している︒さらに︑全ページにわたって︑何の美的な目的もなしにスケッチを配列しているのを見る
と︑彼は芸術的な効果を生みだす意志をもっていなかったことがわかる︒
その後︑中世盛期のスコラ哲学の時代になると︑素描見本帖は百科全書的な性格を強めた︒美術家たちは見本帖に︑総目録のように︑建
築︑人物︑動物︑装飾モティーフの素描を収め︑彼の工房や彼自身の作品のためのモデルとしてこれらのレパートリーを利用した︒これら
の見本帖は修道院から修道院へ︑工房から工房へと旅をし︑全ヨーロッパを通じてある種の様式の均一性をもたらすことになる︒
フランスの美術家ヴィラール・ド・オヌクールは︑おそらくノワイヨンの人で︑一二三五年以前に素描模写本︵コピー・ブック︶︵パリ︑ 国立図書館 ︵
5︶
︶を制作し︑そこに次のようなおそらく中世において最初の素描の定義づけを書きとめている―― ﹁素描術への良き指針がこの 本から得られよう︒幾何学が教示してくれるように ︵
6︶ ︒﹂――つまり美術家の素描を導くのは︑自然でも彼の想像力でもなく︑むしろ幾何学
的な抽象なのである︒
もし中世の考え方にのっとって︵トマス・アクィナスが言うよう
に︶﹁この世の被造物は︑それ自身の内ではなく︑その魂のうちにいっそう高次なかたちで存在している﹂と考えるならば︑近代的な意味に
おける自然の模倣がこの時代の美術家にとって全くの関心外であったことが理解できる︒聖トマスによれば︑魂は﹁画像を形づくるために
それ自身の実体を与え︑この魂が与えるものが精神あるいは知性と呼ばれるのである ︵
7︶
﹂︒
中世の言葉遣いにおいては︑ヴィラールが存在物の形象に含めた﹁幾何学﹂は﹁本質的な形体﹂と呼ばれ︑一方︑外面的な形象を模倣した
ものはそれらの﹁偶然的な形体﹂と言われた︒これら二つの形体︑つまり魂によって捉えられた本質的な形体と外面的な形象を写した非本
質的な形体とのあいだにはつねに︑創作の不完全さに起因する︑完全な一致の欠如が存在したのである︒
ヴィラールはその素描において物質的な形象を精神的な形象に従属させている︒彼はあらゆる事物を幾何学的パターンによって解釈して
いるが︑この幾何学的パターンが不完全な物質的形象と一致することはないため︑彼の素描には調和の欠如が見られる︒たとえば︑子羊の
素描には長方形と三角形が含まれているが︑頭︑脚︑腹部︑首と背中の毛並みは幾何学的なパターンからはみ出している︵図2︶︒幾何学
形態と自然の形態のあいだの不一致は鷲の素描ではいっそう明白である︒おそらくヴィラールは描きおわった鷲の素描の上に三角形を重ね
合わせたのだろう︒それとは反対に︑幾何学的なパターンから作り出されたように見える形象もある︒たとえば︑円に少し手を加えたよう
な人の頭部や︑ページ中央の五つの三角形から構成された犬がそれである︒しかし︑鼻︑腹部︑尻尾を描く余裕がないため︑画家はそれら
を幾何学図形につけ足さざるをえなかった︒
それゆえ︑ヴィラールにとって幾何学とは︑一般に推測されている ように︑形象の動きや大きさを形成するための単なる手段なのではなく ︵
8︶
︑事物の精神的特性の顕現なのである︒こうした幾何学的パター
ンが描き込まれてない素描においてさえ︑幾何学的規則性の原理が見られる︒たとえば︑彼の裸体図には現実の人体構造を研究したあとは
見られない︵図3︶︒胸や腹部の素描は幾何学文様のような曲線から成っている︒たとえば︑彼が﹁勝利する教会﹂を擬人化した彫像を写
した素描︵図4︶では︑衣紋の規則的な線には装飾的な原理が見られ︑実物から描いた場合の衣襞の不規則性はすべて排除されている︒彼は
実物から描くときでさえ︑実際に見ているものを﹁幾何学的な原理﹂にしたがって変形させてしまう︒たとえば︑ライオンの素描︵図5︶は︑
﹁実物を前に描かれた︵il fut contrefais al vif︶﹂という彼の説明書きが示すように︑実物から描かれたものだが︑他の素描と類似した幾何学
的方法によって描かれている︒ライオンの頭部は円に包摂され︑たてがみは︑中心軸の左右に対称的に配された巻き毛によって表されてい
る︒左右対称性を崩さないように︑ヴィラールは後脚を省いているのである︒
近代の素描ではその筆致に表れる画家の気質の生命的な力動感は︑中世の美術家にとっては何の価値もなかったらしい︒ヴィラールのペ ンの筆致は規則的で︑静的で︑非個性的である︒これらの筆致の下には不確かな手探りの尖筆の線が見出されることがよくあるが︑ヴィ
ラールは︑完成素描では非個性的なペンの描線で最初のスケッチを覆い︑それらの下書きの線を隠してしまっている︒
ヴィラールが自分の視覚的経験や主観的想像を従属させている幾何学的なパターンは︑彼の創意ではなくその当時の約束事なのである︒
もし新しい問題を解決しなければならないとしても︑美術家はほとんど何も新しく創り出さずに︑類似したものを反復していればよかった︒
彼が自分の手本につけ加えるものは︑当時の美の理想である慣習的な装飾パターンを注意ぶかく変形させたものに過ぎなかった︒
このように︑要するに︑中世の見 パターン・ブック本帖の素描は﹁手本exemplum﹂であり︑芸術的というよりも教育的な価値をもつ原型なのである︒そ
れは常に集団的な趣味の統制の下に置かれてきたもので︑ルネサンス以降のように︑美術家が自分自身のために描いた私的なノートなので
はない︒
ダンテは︑中世のこの方法について︑それが芸術作品を生み出す唯
一の手段であるかのように述べている︒﹁教会﹂の幻影を見た夢から目をさましながら︑彼は言う︵﹃煉獄編﹄第三十二歌︑
64−
―con ﹁⁝⁝眠り込んださまをもし私が描けるのなら︑手本によって︵ 68― 節︶ esemplo ︶︶描く画家のように︑私は自分が眠りこんださまを描いて
お見せしましょう︒﹂その約一世紀後︑ジョットの伝統の擁護者チェンニーニは︑﹃絵画術の書﹄︵第八章︶において弟子たちに次のように
忠告している――﹁それから手本を用いて︵con essenpro︶できるだけ易しいものを写すことから始め給え︒手慣らしのためにできるだけ