学 校 統 合 紛 争 の 研 究 一栃木県 田沼町の事例一
対 馬 達 雄
A StudyontheConAictoftheSchoolConsolidation
‑ACaseofLowerSecondarySchool inTanumaCity,Tochigi Prefecture‑
TatsuoTsushima
は じめに ‑ 目的 と分析視角
近年,義務教育諸学校 の統合 にまつわ る紛争が農山村を中心に全国各地 に頻発 している。周知のよ うに,町村合併促進法の制定 ( 昭和
28年)を契機 とする戦後の学校統合は,新市町村建設促進法 ( 同
31年)を経て さらに統合 に財政上の優遇措置を与 えた過疎地域対策緊急措置法の制定
(45年) によっ て活発化 した。 この場合,統合策が教育行政か ら導出され る固有の教育 上の問題 とい うよ り,地方一
●●● ■●●
般行政の合理化 と地方財政の効率化の見地か ら演鐸 された‑施策であること,また昭和40年以降のい わゆる過疎化段階 においてそれが 「 広域生活 ・行政圏構想」 (自治省 ・経企庁)に基づ く過疎町村の 地域再編策 の一環 をな していることは,すでによ く指摘 されている
otliこうした地域再編の方向はそれ 自体伝統的な村落の解体 に連 なってい る。そt 7 J は,住民のムラ意識 に抵触せ ざるをえず, この意識 を支え る経済的 ・物的基盤 ( 入会林野 その他の共同体的所有関係)の 有無 と相挨 って紛争発生の基底要因た りうる。通学区域 ・設置区域 と しての学区は公権力意志の浸透 と村落維持の防衛機能 とい う二面的な性格を内包 してい る。すなわち学校統合 による学区の解体 とそ れの広域化 は,公権力による教育掌握 のための基盤の再編であるとともに旧学区村落の凝集性と統一性 の否定 に通 じている∠ 2 )したが って,学校統合 の紛争は,本質的に,既存村落社会の崩壊過程 において
●●●●●●●●
統合の もつその村落社会の解体促進作用 と学校 を媒体 と して住民 に内在す るいわば観念 としてのム ラ 維持志向 との相魁 と して捉え ることがで きる。本稿 は, こうした理解 に基づいて統合紛争過程 に焦点
をあて, その発生 と展開のメカニズムを検討 しようとす るものである。 この こと自体,地域住民 に と って学校が歴史的社会的 にいかなる役割 ・意味を もつかを問 う上での基礎的作業 とな りうるであろう。
ところで学校統合問題 に関 して これ まで少 なか らぬ研究報告が上梓 されて きている。その際,近年
この問題 に対 して特 に学習権保障の観点 に基づ く教育運動論や住民運動論 と しての検証等が認め られ
るが,統合紛争 自体 に関す る事例 の実証的研究 は,管見 によれば僅か二′ 三試み られているにすぎな
い
。(3)本稿ではこうした研究状況に対応 して, さしあた り栃木県田沼町立西中学校 の統合紛争過程 に
ついて実態分析 を行 な うことに したい。 ここで紛争 における反対運動展開の主要 な 「 場」 いかんの問
題 に関わ って,仮説的に, 1)市町村議会 を中心 に条例改廃 による統合阻止 を図る 「議会闘争型」,
2)反対住民の当局 を相手 どっての行政訴訟 に依拠す る 「 裁判闘争型
」 川, さらに
3)両者の 「折衷型」 とい う類型
5)を設定す るとすれば,田沼町の紛争 事例 は 「 議会闘争型」の事例 として,その規模 と期間および統合促進政策 に対す る抑止的影響力の点で全国的 に も類例 をみない。
なお, このよ うな統合紛争 自体 を考察対象 とす る場合,単 に統合政策決定 をめ ぐる公権力 と村落 の 対抗関係すなわち地方議会 ・地方教育委員会 を末端機構 とす る国家権力 に対す る村落の反発抵抗 とい う分析視角が措定 され るにとどま らず,複数村落問 (旧学区問)の対立, さ らに当該村落内の支配一 権力構造 とそれにまつわ る内部集団間の対立の有無 とい う三 つの レベルでの分析視角が不可欠 となろ う。 こうした重層的な問題把握 は,統合紛争に内在す る歴史的社会的系譜 を浮 き出す ものだか らであ る。以上の観点か ら次 に田沼町立西中学校統合の事例 について検討 してい く。
< 田沼町西中学校所在略図>
<田沼町地区別人口> ( 昭和
52年
10月
1日現在 )
地 区 削 面 積 世 世 数 人 口 一世帯当り
′ 帯 総 数 男 女 人 員
総 数
186.01k 虚
7,178戸
29,449人
【 14,410人
15,039人
4.10人
田 沼
23.76 4,795 19,053 9,363 9,690 3.97三 好
14.99 638 2,861 1,371 1,490 4.48野 上
54.23 436 1,934 945 989 4.44新 合
35.50 801 3,506 1,710 1,796 4.38飛 駒
57.53 508 2,095 1,021 1,074 4.12I 統合紛争発生の基底要因 ‑ 村諮槻横 と学区 1) 町村合併 の経緯 と村落機構
西中学校の設置区域 ,通学区域である飛駒,新合,野上および三好の
4旧村 は,町村合併促進法 に 基づ いて田沼町 と合併 もしくは編入合併 された ものであ る。
まず,最 初 に 「栃木県 町村合併 促進審 議会」 ( 昭和
28年1 0月
3日発足)による町村合併第 1次議 案 に もとづき,昭和
29年
3月
31日付で,田沼町,三好村,野上村 の 1町
2村が合併 し,田沼町 と して 発足す ることにな った。
この合併 は,三好,野上両村の生活圏が田沼町にあ ったため円滑 に実現 した(
6)。また,新田沼町は 全体 と して佐野生活圏の中に含 まれている。
他方,飛駒,新合 の両村 は足 利生 活圏 に所属 して いる。明治
22年11月,新合須花坂峠 トンネル工 事の竣工 ( 田島茂平翁 による) によって足 利 との距 離 が著 しく短縮 され,飛駒,新合両村は足利の 経済圏の中に包含 され ることにな ったのであ る。今 日において も,高校進学,就職, 日用品の購入等 のほとんどは,足利市 との関係な くしては考え ることはで きない。 このような事情か ら,新合,飛的 両村住民 は足利市への合併 を強 く希望 した。 しか し,足利市 は両村 との合併 を必 らず Lも好まず.合 併 は難航 す ることにな った。前述 の町村合併促進審議会 は,昭和
29年
5月
2日,第
6回の会議 におい て,新田沼町 と飛絢,新合両村 との合併 を勧告 したが,およそ
2年後の昭和
31年
3月
31日付で,漸 く 2 村の田沼町への吸収合併 が実現 している
。(7)以上のよ うな町村合併 の経緯か らも理解されるように,
4旧村 を通学区域,設置区域 とす る西中学校 の創設には,すでに潜在的 に紛争 の萌芽があった といえ る。
次 に,統合策推進のための媒体 となる村落を, これ ら4 旧村 についてみることに しよ う。
4
つの旧村 は,明治
22年,町村制の 施 行 を契 機 に藩政村 が合併 した ものであ る。 いま,旧田沼町 の場合を含めて,田沼町の合併の変遷 を図示す ると次のよ うである。
<図
1>田沼町の合併変遷
田 小 吉 新 栃 多 山 戸 戸 岩 船 細 長 自 作 山 梅 閑 下 宿 村 村 村 村 宿 村 村
水 良 沼 見 水 本
田越 吉 奈
三∴
村 村 村 村 村 村 村 村
楽 場 間 岩 原 形 園 馬 神 谷 彦
上 彦 問 村
l ノ
田 γ 召 町 ( 明治
22年)
三 好 村 ( 明治
22年)
野 上 村 (明治
22年)
折 合 村 (明治 2 4 年) 飛 駒 村
( 明治 2 4 年)
田 沼 町 ( 昭和
29年)
田 沼 町
( 昭和
31年)
い うまで もな く, 明治 22 年以前 の旧村 がそのまま今 日の大字で あ る。 それ故,旧田沼町 は 8 つの大 字, 旧三好村 は
3, 旧野上村 は
4,旧新合村は
4, 旧飛駒村 は
1の大字 によ って構成 されて いる。 そ して今 日,原則 と して, この大字 を単位 に して区制 が しかれて いる
。(8)もっと も,明治前期 に至 る藩 政村 ( 大字)がそのまま区 とな っているわけで はない。それぞれの地域 における戸数,人 口の変動 に 応 じて,下表 のよ うにな って い る。
く 義1 > 田沼町 ・地区および区 ( 田沼町区等設置条例別表)
地 区 区
(
旧
)
田 沼 〔 \ 町
\J
田 沼 下町,角町,仲町,本町,上町東,上町西,下田沼,瓦町,原町 南 部 小見,吉水,吉水新田,新吉水
栃 本 栃本
北 部 下多田,上多田,山越 戸 奈 良 戸奈良魚 戸奈良西
(旧 三好 ( 村) 戸室,岩崎,船越南,船越北
(
旧 野上 ( 村) 御神楽,長谷場,白岩,下作原,上作原
( 旧)新合 ( 村) 山形,梅園,閑馬下,閑居上,下彦問下,下彦問上
<表
1二
>によ ってみ ると,旧田沼町 においては明治 22 年以前 の旧村が著 しく崩壊 して いるのに対し, 三好,野 上,新合,飛的 の 4 地 区において は,藩政村 ‑大字 ‑区 とい った形態 を依然 と して とどめて い る。 また, それぞれの区は 「 行政区規約」を制 定 して 区の運 営 に当 って い る。この規約 によって, 区 の機構 を示す と, <図
2>の よ うになる。
<図
2>田沼町 ・区機構 図
一 一一一 一一一一 一町行政機関 との相互連絡
この図か らもわか るよ うに,区は原則 と して藩政村の延長線上 にあ り,区民 の自治組織 と町行政の 下請 け機構 とい う二面的 な性格 を帯 びて い る。 さ らに,三好,野上,新合,飛駒 の旧村 は,それぞれ 区長連絡 協議会 ( 各 区長, 区長代理,会計で構成)を組織 してお り,旧村が依然 と して生 き続 けて い る といえ よう。 したが って, 今 日の 田沼 町 は, 区(ムラ‑藩政村), 区長連絡協議会 (旧村), 田沼町 と い う垂層構造 をにな って いると考え られ る。
2)
学区 とム ラ
上述 の行政上 の垂層構造 は,小学校, 中学校 の学区の設定 と不可分の関係 にあ る。す なわち小学校 について み ると,<表
2>のよ うに,原則 と して,学 制 以 降 ム ラ単位 に小 学 校 が 設 置 されて,今 日 に至 って いるo もちろん,学制期,教育令期 においては, い くつかの学校 が統合 した り,分離 した り して い る し, また複数 のム ラが ひ とつの学校 を設置 してい る事例 も見受 け られ るが,大勢 と しては ム ラを通学 区域,設置区域 として, ひ とつの小学校が設置 され ている といえよ う。
<表
2>小学校の変遷 ( 田沼町)
(9)藩 政 村 学 ( 明治
5‑制 1 1 年) 期 教 ( 明治 育
12‑1令
7年) 期 教育令 改正公布 (明 治
18年 ) (昭 和 ・ 現
54年 ) 在
田 田 沼 宿 田 沼 学 校 l田 沼 学 校 田 沼 小 学 校 田 沼 小 学 校 吉 水 村
小 見 村 吉 水 学 校 小 見 学 校 水 見 学 校 吉 水 小 学 校 吉 水 小 学 校
沼 新吉水村 館 良 学 校 館 良 学 校 栃 本 小 学 校 多 田 ′ ト学 校 栃 本 小 学 校 多 田 小 学 校 栃 本 村 栃 本 学 校 栃 本 学 校
町 山 越 村 山 越 学 校 山 越 学 校 多 田 宿 多 田 学 舎 多 田 学 校
戸奈良村 明 達 館 戸 奈 良 学 校 戸奈 良 小 学校 戸奈 良 小学 校
船 越 村 船 越 学 舎 船 越 学 校 三 好 小 学 校 好 岩 崎 村 岩 崎 学 舎 岩 崎 学 校
村 戸 室 村 戸 室 学 舎 戸 室 学 校
上 野 村 作 原 村 長谷場村 御神楽村 白 岩 村 白 岩 学 校 ( 長谷場学校( 御神楽学校( 田沼学舎分舎) 同上 同上 ) 白 岩 学 校 楽 学 校 作 原 小 学 校 長谷 場 小 学 校 作 原 小 学 校 長谷 場 小 学 校 節 下彦間村 親 民 学 舎 下 彦 問 学 校 下彦馬 小学校 下彦 間小学 校 A 閑 馬 村 師 導 館 ‑ 閑 馬 学 校 閑 馬 小 学 校 閑 馬 小 学 校
⊂
コ村 梅 園 村 山 形 村 龍 摺 師 山 園 学 校 山 園 小 学 校 山 形 小 学 校
中学校 の場合 ,原 則 と して 旧町 村 単位 に‑ 中学校 が設置 されている。 もちろん,通学距離 の関係 上, 飛 駒村 にお いて は飛 駒 中学 校 と入飛駒中学校 ( 昭和
41年桐生市へ編入),野上村 においては作 原 中学校 と長谷場中学校 の
2校が新設 され ている。 しか し,その他 の田沼町 には田沼中学校 が,三好 村 には三好 中学校,新台村 には新合 中学校が新設 されて い る。 これを整理す ると,次 の ようにな る。
‑ 5‑
旧 田 沼 町 校 校 校 校 校
学 学 学 学 i,+ ヽ ヽ ヽ ヽ / l l T T 良 沼 本 水 田 奈 田 栃 吉 多 二戸
田 沼 中 学 校
新 合 中 学 校
校 校 学 / 学 / / 越 崎 / 船
′ 岩 l I 三
旧好 村 ;
I .
・ii円
三 好 中 学 校
作 原 小 学 校 ‑ 作 原 中 学 校 長 谷 場 小 学 校 ‑ 長 谷 場 中 学 校 飛 駒 小 学 校 ‑ 飛 拘 中 学 校 入 飛 駒 小 学 校 ‑ 入 飛 駒 中 学 校
( 昭和
41年 桐生市へ編入)
以上 の小,中学校 の通学区域,設置区域 を一般化 してみると, 田沼 町 において は ム ラ (藩政村) を範囲 に して小学校が設置 され,中学校 は旧町村 ( 明治22年町村制施行 による行政町村) を範囲に し て設置 されていた といえ る。 このように, 田沼町における義務教育諸学校 は,行政上の重層構造 ( 港 政村一旧町村一田沼町) に対応 して設置 され,旧村の中学校 を統 合 して あ らた に西 中学校 を創 設 す ることは, この伝統的な重層構造の崩壊 を もた らす ことにもな るのである。
3)
統合推進策 とその媒体機構
さて, 5校統合の発端 は,昭和39年 1 月2 8日,野上地区で開催 された町政懇談会の席上,作原,長 谷場両 中学校 を統合 して野上中学校 を創設す るとい う話題 に始 まる。前述のよ うに,旧
5町村 の うち 旧野上村だけが 2つの中学校 を もち,生徒数 も全体で 1 0 0名余 にすぎない小規模校であ った ことと, 更 に戦 後間 もない木造建 築 のた め に老朽化が著 しい ことか ら,野上中学校 の新設が地域住民か ら強
く要望 されたのであ る。 この要望 に もとづ く陳情書 は,同年
2月
7日の町議会で受理 されている。
ついで,同年
9月2 8日,三好,野上両地区において も町政懇談会が開催 されて,作原,長谷場両中 学 校 に加 えて三 好 中学校 を も統合 していこうという気運が高ま り, この三校統合 についての請願書 が, 同年1 2月1 7日の町議会で受理 されている。三好,野上両地区は,旧田沼町 とともに佐野生活圏に 属 していることか ら,三校統合案は自然の成 り行 きであ ったとみ られ る。
この三校統合案 は, その後町議会で も数回論議 され,さらに 「 教育問題 ア ンケー ト調査」の実施 ( 昭 和43年 5 月20日),町広報での PR ( 昭和43年 6 月 1 5 日,同年 8 月 1 日)を経て, 「田沼町立小中学 校統廃合特別審議委員会」 ( 以下,審議委員会 と略称) (昭和43年
8月2 0日)が設置 され た。 この審 議会の構成 は,町長,助役,教育委員,町議会正副議長,町議会教育民生委員および学識経験者 か ら な り,新合地区か らは,学識経験者の中に元新合村長 も加わ って いた。
第‑回審議委員会 は昭和43年 8月27日, 田沼町中央公民館 において開催 され,教育委員会か ら二つ
の統合案が提案 された。一つは田沼中学校の他上記の三中学校 の統合,さらに新合, 飛駒両校の統合 に
よって田沼町に三中学校 を設置す るとい う三校案,他 の一 つは旧村
5校 の統合 によって全町で中学校
を二校 にす るとい う二校案であ る。その場合, 「田沼町立中学校統廃合に関す る試案」 ( 教委案)で
は,今後 における山間地 の学校 の一層の小規模化 と統合 による相対的な規模拡大即教育条件の向上 と
い う発想か らの 「 適正規模論」に基づ き,両案が比較 され ( 表
3参照 ) ,後者の二校案が適切な教育
形態 として提示 されて いる。審議委員会 は結局 この二校案 を決定 しその実現に努 力す ることとな った
ので ある。
<表
3>三校案、二校案における生徒数 ・学級数
第 1案 中学三校を仮定 した場合
第
2案 中学二校を仮定 した場合
⊇扇 口45 年度推定 !昭和4 8年度推定 i昭和 5 0 年度推定 E昭和 52 年度推定 !
町側 は審 議委員会 の決定 の線 にそ って
,44年
1月以降,中学 校 統 合 の た め の 地 区懇 談 会 を そ れ ぞ れの旧町村 レベルで開催 して いる。 この場合 ,統合推進策 の媒体 が各 地 区の 区長で あ った ことが, 塞 本 的 な問題 をは らむ ことにな ったので あ る。各地 区の公民館や 中学校 におけ る懇談会 に集 ま った地域 住民 は, せ いぜ い区長 を含 めて
2,30名 にす ぎず,そ こで は通 学 費 や 通 学 バ スの運 行 が 話 題 に な る 程度 で あ った。 その後 ,各地 区か ら統合 中学校 通学全額 町負担の請願書が 町 議会 に提 出され る。
地域 住民が二校案 に対 して賛成で あ る と判断 した町当局 は, 昭和
45年
3月
6日の町議会定例会 にお いて
, 5中学校 統合 によ る西 中学校 新設 の ため の改正 を提案 したが, ここで も専 ら通学 問題 の解決 い かんの論議 に終始 し統 合条例案 は全会一致 で議決 され た
。 (10) その後 ,懸案 とな って いた通学問題
(11度 解 決す るため に, 「西 中学校生徒 通学対策審 議委員会」 (昭和
45年
12月
19日) を発足 させ る ことにな
った. この委員会 の構成 メ ンバ ーは‥町長,助役 ,収入役 ,教育 長,教育委員, 町議会正副議長,教 育民生 常任委員長,西 中学校 長 をは じめ, 旧
4ケ村 の全 区長,各 小学校
PTA会長 を網羅 す る もので
あ った。
以上 の説 明か らも理解 され るよ うに,統合推進 の媒体 は区 (ム ラ‑藩政村) を中心 とす る もので あ
っ た。 町 は村 落 の組 織 を 内部 行 政 機 構 と して積極 的 に利用 して い くことにな る。区長 は区 にお け る
公 選 , ま た は推 薦 に も とづ い て 町長 が任命 す る。 この よ うな天下 り的任命 を避 けた区長 ‑行 政協 力
員 は,地域住 民 の諸要 求 を部分的 に組織 す ると同時 に,他 方,地方権 力に よる村 落支配 を間接的 に可
能 にす る もので あ った。 そ して,区長 ‑行 政協 力員 は, 町 の公権 力‑ の従属者 と して の性格 を強 め,
町権 力の中 に包括 されて い くことにな るので あ った。 この よ うな事情 か ら, 区長 を媒体 とす る統合推
進 にお いて は,統合 に対す る ラジカルな反 対 は考 え られず,せ いぜ い地域住民 に とって切 実 な通学 問
題 だ けが前面 に出 るにす ぎな い。
Ⅱ 統合紛争の発生 と展開過穂
1) 反対運動の発生 と展開過程
町権力が村落 (ムラ)を支配す ることを可能 にする前提 として,区長を中心に した村落の統合性が 確保 されていなければな らない。公権力側 としては, このような村落の統合性を前提 に して,西中学 校統合 に関す る説得,協力要請を行な って きたのである。 しか し, 区長 は前 述の よ うに町公権力へ の従属者 として官僚的人物へ と変質 し,地域住民の諸要求を掘 りおこし,それを組織化す るとい うこ とか らは程遠い ものにな っていた。
他方,町権力側は,各小学校
PTA会長をも介 して中学校統合への説得を精力的に行なっている。
この ことは,区長への説得 を補完するものであった。事実,各 小学校 区 は大字 エム ラと原則 的にオ ーバーラップ し
,PTA会長 は区長 と並 んで村落の リーダー層 と考え られ るか らである。伝統的に 紘,区長
,PTA会長は村落のエ リー ト層 として,町議会議員への登龍門であ った
。 (12)しか し
,PTA会 長 も学校側 を通 じて 町教育委員会 につなが り,本質的には,区長 と同様 に,町公権力への従属
者 としての性格を色濃 く帯びている。
しか し,足利生活圏に包括 されている新合,飛駒両地区か らは,足利市への通勤マイカーが毎日
300台以上を数え,その殆 どは第二種兼業農家 として,月収
40万円か ら
60万円台に達 している。そこでは 職業の多様化 による価値観の相違,志向性の不一致がみ られ,すでに , 「もの言わぬ農民」ではな く な っている。いわば,地域住民 は 「もの言 う住民」 に変質 していると言 ってよい。 したが って,町行 政側が,審議会委員 に旧支配層の頂点に位置 していた旧新台村 々長を入れ,加えて統合推進のパ イプ
として,区長,小学校
PTA会長 といったムラ ・エ リー ト層を活用す ることは,今 日の村落支配 とし てはアナクロニステ ィックな手法であ った。すなわち教育行政執行過程への民意反映の媒体が問題 と な っていた。
以上の諸事実か ら西中学校の創設は,第一 に,野上,三好両地区 と旧田沼町 との連合‑町政派 ( 佐 野経済圏) と,新合,飛駒両地区‑反町政派 ( 足利経済圏) との対立,第二に,新合,飛駒両地区に おける新旧 ( 集団)支配層の対立, とい う紛争 の萌芽を基本的に内包 していたのである。
さて,統合反対運動 は,先述の名目統合 の議決,西中学校建築工事の本格化
(45年
4月以降),過 学問題に関す る公聴会,区長会議,各地区説明会
(45年
10月以降) とい った過程の中で発生 して くる
ことになる。
45
年
11月
13日,閑馬小学校 において, 「 通学 に関す る説明会」が町長,教育長等出席の もとに開催 された ( 閑馬上,閑馬下,両区長主催)。その前 日,元中学校 々長
(S・K),縫製業経営主
(T・Il 畳屋 (F ・Ⅰ)の三人が,統合反対の意志表示をす るために説 明会 に出席す るよ うに,車にスピー
カーをつけて,新合,飛駒両地区を連呼 してまわ った。 この三名は. ,区長や
PTA会長 とは何 ら関係 のない一般の地域住民であ ったO しか し
,S・Kは師範学校
,T ・Ⅰは旧制専門学校出身者であるこ とか ら,村落 におけるインテ リ層 に属す るといえよう。閑馬地区だけで
200名余の地域住民が参集 し たこの説明会 において,地域住民は統合反対の意志を強 く表明 し,町内別の集会を開 くことになった。
こうした事態に,区長は町側 と住民側 との板挟みにおち入 ることになる。同年11 月
20日,住民の要求 によって,区長主催の町政懇談会 ( 於下彦間小学校)が開かれ, これ を機会 に 「新合 中学校 を守 る 会」が結成 され,反対運動 は本格化 してい くことになった。すなわち翌11 月21 日には,閑馬,下彦間 全区民一同の名の もとに,統合反対の 「宣言」が出されていく
。 (13)この宣言では , 『新台村々是』( 大
正 5年 2月制定) において学校基本財産の積立による教育の条件整備が期 されてより
,(14)新合中学校 が代々愛育 してきた旧村有林 による建設であったことを訴え,住民の素朴なムラ意識を喚起 している。
こうしたムラの生活者 と しての利害の共有 ‑一体感の覚醒 は,反対運動の媒体 として機能することに
な った。閉馬,下彦問両区 における統合反対の動 きは,飛駒地区に も拡大 して,同様 に 「 飛駒中学校 を守 る会」が結成 されてい く
(46年
11月
17日)。同年
1月
18日以降には,統合反対の陳情 デモ,各地 区反対集会が矢継 ぎ早 に開かれ,さ らに, これ ら守 る会 の組織化 と軌を一つに して,新合,飛約両中 学校 PTAは,父兄会 と して反対運動の一翼 をにな うことにな ってい く。
ここで,守 る会 は,既存 の町‑町内会長一班長 とい う行 政浸透 ル ー トを奪取 し,それを反対運動 の組織 と して利用 してい くことにな る。 したが って,従来の区長 はボイコッ トされた り,態度 を豹変 させた りす ることになる。そ して, このム ラ機構 は,署名,カ ンパ,デモの動員に フ ル に利用 されて い くことにな る。他方, PTAの組織 も,教育委員会‑学校‑ PTAとい うル ー トを遮断 して,父兄 会 として反対運動の組織へ と脱皮 して い くことになる。
「 新合中学校 を守 る会」 および 「 飛駒 中学校 を守 る会」 は,反対運動が激化 してい くにつれて,共 同歩調を とってい くことになるが,それは前者の新合 によって主導 された。 この ことは両地区の地域 的差異 に起因 している。 つま り,新合 (とりわけ閑馬地区を中心 に して)の場合戦前 における農民運 動の隆盛 と戦後の保革対立の激 しい特有 の土壌( 1 5 ) にあ って,伝統的なムラ秩序 の衰退が著 しか った こ と, しか もそ うした与件 の下で飛駒地 区における反対運動の参加者の多 くが,意識 において地域 に密 着 した住民層 によって担われていたのに対 し,新合の場合,政治解決を意図す る強硬派 によって運動 が リー ドされていたことが挙 げ られ る。以上の事実が,以後の反対運動 の展開に影響を与えてい くこ
とにな る。
2)
直接要求 と条例改廃
守 る会が組織 した度重な るデモを背景 に して,町立学校 の設置に関す る条例改正の直接請求書 ( 署 名者
1,723人) ・が町長宛 に提 出された
(46年
3月
12日付)。 これを機会 に,地元選 出県議 (
1名), 覗,元,町議会議長等
5名の調停 によって,町長と守 る会 との間に次 のよ うな一時休戦のための協定 が成立す ることにな った
(46年
3月
22日)0
①新合,飛駒両地区生徒の西中学校 への 自主通学を認め る。④設置条例 に当分の間,西中学校 に新 合校舎を置 く規定を盛 りこむ。
この規定 に もとづいて
,46年
3月
26日の町議会 において条例の一部を改正 し,さ らに直接請求 ( 西 中学校 の新合,飛駒両校舎を,新合,飛駒中学校 とす る条例改正)を否決す ることになった。
この一時休戦 協定 には
,46年
4月
25日に実施 され る町議会議員選挙 に対す る両者の思惑が投影 され ている。すなわち,町側 と しては,選挙 の結果,多数決原理で この問題 を一挙 に解決 しようと した こ と,守 る会側 と しては, 自派推 せん 候補 を 当選 させて町 議会 内に反対の橋頭壁を築 き反対派住民の 再組織化を図ろ うと した ことであ る。
選挙 の結果,町議員総定数
26名車守 る会推せんの
4人全員が当選 し ( 飛
約 1,下彦間 1,閑馬
2),前回の議員全員 と交替す ることになる
。 (16)議会 内で彼 らは,統合が新合,飛駒 の住民不在の統合であ
ると町側 を糾弾す る一方,それに呼応 した議会外の反対運動が推進 され,町側 の思惑通 りに事は運ば なか った。 しか し,協定 にい う自主通学 は,結果的には住民間の抗争 に発展 し, ムラ組織 の分断,皮 対運動 の弱体化 につなが ってい く。すなわ ち,新合梅園地区を中心 に して,西中学校への自主通学生 徒 の父兄 を糾合 した全町 レベルの 「田沼町教育 を守 る会」が結成 され,す るど く反対派 と対立 してい くことにな った。 この ことか ら, 自主通学 は,反対派 に対す る町側 の切 り崩 し工作 の一環 として作用 したのである。
こうした状態 にあ って,町側が条例改正中の 「当分の間 は,47 年
3月31 日まで」 と言明 し
(47年
1月1 9日の臨時町議会 における反対派議員 に対す る町長答弁),完全統合への意志 を明確化 したため,
反対派 は臨時議会 (3 月 30日)の議場乱入 による流会等 の‑按的性格を帯 びた運動 を進めて い くこと
にな った。
この混乱の中で,反対派 リーダーの要請で来町 した県議
5名の調停 によって,町側 と守 る会側 とで
「田沼町立西中学校統合問題 に関す る覚書」が とりかわされ ることにな った
(47年
3月
30日)。 その 内容の主 な ものは,① 当分の間西中学校 に新合,飛駒校舎を置 く。④梅園地区を除 き自主通学は廃止 す る。③完全統合 については,田沼町教育委員会 は白紙 の立場か ら充分検討 し,関係地区民を充分啓 発 して,住民の同意を得 て実施す ること, とい うものであ った。
この覚書 は,反対派 に とって有利な ものであ ったが,町側 にとっては致命的な問題を含んでいた。
すなわち,新合,飛約両校舎の未完の統合実施 にまつわ る補助金返還問題であ る。 この時点か ら,町 側 は反対派に対す る積極的な攻勢 に転 じて い くことになる。まず第一 に
,47年
4月
30日,町長 は臨時 議会議場 に乱入 した反対派 リーダーを足利検察庁 に告訴す ることによって,反対運動 その ものの弱体 化 をね らったが, この ことは逆 に反対派住民を硬化 させ ることにな ってい く。次 に
,46年
12月
17日, 紛争 の責任 を とって辞任 した
4名の教育委員の後任 として,反対運動の もっとも強硬な新合中学校 を 守 る会の会長を任命
(47年
5月
1日) して,反対運動 の分断を図 ることにな った。後 に も述べ るよ う に,守 る会会長の教育委員任命 は,反対運動内部 に強硬派 と妥協派の明確 な分裂 を もた らす ことにな ってい く。
48
年
2月
6日の臨時町議会 にふたっの直接請求が提案 された。 ひとつは,反対派 による西中学校統 合反対 ( 新合,飛駒両中学校存続) の直接 請求 ,他 のひ とつ は, 続合 賛成派 による実質統合 の直接 請求である。町議会議長 は佐野警察署か ら警官
170名を要請 して統合賛成案 を可決 し,実質統合 に踏 み切 ることになった。
3)
反対運動 と第一次協定
前述の統合賛成案の可決 によって, 「 覚書」 は白紙還元 され,町側 は実質的な完全統合策を強行 し てい くことになる。自主通学 を廃止 し,スクールバスを運行 して新設の西中学校‑の通学を呼 びかけ てい くことにな った。他方,反対派は,町議会 内における反対行動
(17)とともに生徒 の同盟休校
(48年
3月
17日以降)に突入 して い く。そ して,閑馬,下彦問,飛駒地区の
1年生 は,同年
4年
2日以降, 神社や空工場等で 自主授業を開始 した。東京 ・足利方面か らの
5名 の 大学 生 が応 援教 師 と して 自習 形態 による授業を担当 し,地域住民は応援教師の生活費を負担 し,長期戦 に備え ることになった。教 え る教材 に困 った反対派住民は,その後 , 「 教科書 よこせデモ」 , 「 先生 よこせデモ」を断続的 に行 ってい くことになる。さ らに中学生 は, 応援教師の指導の もとで,独立校の存続 を町側 に陳情,座 り込 みを続 けるとい う状況であ った
。 118)このように,町側の実質統 合 策 と反対 派の独立校 存 続へ の運動 は,全 く平行線のままに,生徒 をまきこんで,妥協の余地 のない ものにな って い く。
他方,反対派内部で も, 自主授業か ら脱落 して, スクールバ スで西中学校‑通学す る生徒 もふえて くる。反対派はこのよ うな状況か ら , 「西中通学拒否 の家」 と書 いたポスターを反対派各家庭の戸 口 に張 りめ ぐらした り, その他 の村八分的な行為 に訴え,さ らにスクールバスの遅行の妨害を行な うこ とになる
。こうした状況に加え,全国 レベルでのマスコ ミの報道 は,紛争 を増幅 させ,問題 を一層複雑な もの に して い ったO
反対運動の強硬派は,県議会,国会,文部省‑ と押 しかけ,政治的に新合,飛駒両校の独立校存続
をかちとろうと奔走す る。その結果
,48年
6月
19日
,「田沼町立西中学校通学 に関す る紛争解決 のた
めの協定書」 ( 第一次協定)が県議団の仲介 によって成立することにな ったのであ る。
Ⅲ 紛争 の再燃 と終蔦
1)分教室の設置 と文部省通達
町当局 と反対派住民 ・父兄 との間に結ばれた上述 の 「協定書」は11 項 目か らな っているo
その要点 は,①両旧中学校跡への西中学校新合分教室 ・同飛駒分教室の設置,④ その設置期間一昭 和48 年
7月
1日〜同51年
3月31 日,③分教室の学級編成‑昭和48 年度
3学級 ( 各学年 1学級) ・同49 年度
2学級 (
3, 2年生各 1学級) ・同50 年度
1学級 (
3年生
1学級),④ 自主通学制度の継続,㊨
分教室の教員配置‑昭和48 年度1
2名 ・同49 年度
8名 ・同5
0年度
6名, とな っている。
これ らの内容 は町教育委員会 によって直 ちに実施に移 され
, 4年間に及ぶ紛争 も漸 く一応の収拾 を み ることにな った。 もとよ りこうした新合,飛駒両校の期限付 き存置 とい う形での収拾 は,旧中学校 の存続 を前提 と していた統合反対派 にとって不本意な ものであ った。現に 「協定書」調印 によって統 合紛争 を終結 させた と判断 し,同年
6月
30日に引責辞職 した町長の後任選挙
(8月
15日)の争点 は, 依然 と して統合問題の是非であ って,統合路線 をめ ぐる賛成,反対両派の問で候補が擁立 され,激 し い選挙戦 の結果,前者 の代表候補が 当選 している。したがって, 反対運動は表面的に鎮静 していたにすぎ なか ったのであ る。同年
9月27 日の文部省 の 「 公立小 ・中学校の統合 について ( 通達
)」 は,この反対 運動 を再燃 させ る直接的契機 となった。
周知 のように, 「通達」は学校規模 ( 適正規模)の過度の重視 に基づいた学校統合 による地域住民 との紛争や通学上の困難を避 けること,通学距離など児童 ,生徒の心身や教育活動への影響,小規模 学校 自体 の教育上の利点 を考慮 し, それの存置 と充実 に も留意す ること, さらに地域住民の理解 と協 力を得 た無理のない統合計画を進め ることを要望 している。 もっとも, この ことは,すで に 『 学校統 合 の手 びき』 (昭和3 2年)の中で述べ られてはいたが,全国的規模 で紛争が発生 していたこの時期 に 改 めてそれが繰 りかえ された ことか らすれば, 「 通達」 は明 らかに従来の学校統合促進政策の一定の 軌道修正 の意味を もっていた。統合促進政策 の実施過程 におけるこのような軌道修正 は,全国的に新 たに反対運動 を勢 いづけ紛争 を惹起す ることにな った。 田沼西中問題 はまさ しくその典型的事例であ る 。 「 通達」は反対運動の展開に援用 され ることになるのであ る。
では, なぜ この時期 に 「通達」が出されたのか。すで に西中統合反対派の頻繁 な文部省陳情 に対 し て,地方 自治法を楯 に地元解決の立場を文部省 は保持 してきたはずである。それに も拘 らず 「通達」
が出されたのは,総 じて,全国的な反対運動 に対す る一定度の譲歩策的意図を含んではいたにせ よ, 西中問題については紛争 が終了 したとい う政策側の認織がその根底 にあ ったか らと解 され る。だが,
「 通達」をめ ぐって,県教委‑町当局 の 「今後の統合計画 に慎重を期せ」 とい う意味での解釈 に対 し て,反対派はそれを西中問題解決のために新たに出された もの とみな し,従来の運動 ・主張の正当性 を保証す る論拠 を認めたのである
。 (19)2)
「 協定書」の破棄 と自主授業
「 通達」は こうして,新合 ・飛駒両地区の反対住民を再 び勢 いづけ,解散寸前にあった両地区の 「 守 る会 」 「 父兄会」の体制立て直 しにきっかけを与 えることになった。新合,飛駒両校の期限付 き存 置 に代 って,両校 の永久存置の運動が開始 され ることにな る。すなわち統合問題 を 「 協定書」調印の時 点で解決 した とす る町当局の立場に 「 通達」の趣 旨に基づ く両分教室の独立校化の要求が対略 し,紛 争が再燃 してい くのである。
この時,統合推進の論拠であ った " 適正規模論〝に対抗 して,新 たに地域生活圏を基盤 とし,地域
に根 ざ した小規模学校の充実を展望す る " 少人数教育論〝 " 地域教育論〝の主張が,従来の統合反対
理 由‑学校 の もつ伝統的な地域文化セ ンター機能の喪失,遠距離通学 による学力低下 と学習意欲 の滅
過,通学上の危険等‑を補完す るものと して,反対指導者 に担われている
。(20)こうした反統合 の教育 的論拠の構築 にあた って , 「人間の序列化,物象化,疎外化 に対す る抵抗」 として統合反対を捉え る 支援教師団の役割が指摘で きよ う
。 (21)反対派の対町行政の行動 目標 は,再 び統合条例の撤廃 に向け られ ることになる。 その一環 と して, 反対派は,新入生の西中学校‑の入学通知書 を一括返還 し
(49年
2月
25日)また 「 協定書」の破棄通 告 を行 なっている ( 同年 3月 2日)。 それ と共 に,独立中学校 の設置を内容 とす る 「田沼町立学校 の 設置に関す る条例 の一部改正」の
4度 目の直接請求が提 出されたのである。 この場合,議会の議員構 成 とその性格が問題 とな る。前述のように
,46年
4月の町議選で新合 ・飛駒の統合反対派が議会 ‑町 政 レベルでの足場造 りと して選 出 し,闘争展開の前衛 た らしめた議員 は
4名であ って,全議員
26名の
1/6に満 たなか った。 また この統合 紛争 自体町公権力 と政党や団体 の支援 を受 けた反対住民 との直 接的対決であるだけに, よ しんば反対派議員の前衛的役割 が強力であったにせ よ,議会 レベルで は両 者の力関係 の問題 ‑多数 決原理 に解消 されてい く。 したが って,直接請求 も従前通 りこうした力学の
下に退 け られ ( 同年
4月
1日),行政意志 は貫徹 してい く。
町政 レベルにおける反対派の敗北は,同盟休校 という形での実力行使 を再度導 いている。すなわち,
<表
4>にみ られるよ うな反対派の
1学年生徒
41名による入学式 (
4月
9日) のボイコッ トと自主授 業の開始がそれである。
<表
4>入学式出欠表
出 身 校 名 1 入 学 予 定 者 出 席 者 欠 席 者
男 女 ≧ 言 十 . 男 1 女 計 男 女 計
戸 奈 良 小
14 18 32 14 18 32 0 0 0三 好 小
19 17 36 ら 19 17 36 0 0 0長 谷 場 ′ ト
16 6 22 16 6 22 0 o i o作 原 小
8 12 20 8 12 20 0 0 0山 形 小
10 10 20 10 弓 10 20 0 0 0閑 馬 小
12 9 21 10 l 4 14 2 5 宅 7下 彦 間 中 l l
15 5 26 2 5 27 9 10 ! 19飛 駒 ′ ト
17 ・9 弓 36l l
10 1 6 9 1 15全体の
19%にあたるこれ ら
3小学校 出身生徒 は,町教委 の再三の, 本校通学の要請 に抗 して, それぞ れ節合,飛約両分教室 を利用 し,支援教師団か ら自主授業 を うけることにな った。 こうした方策 は, 学校存続 を求め る文部省‑の陳情 と並行 して とられた反対派の最終的手段 にはかな らない。 しか し町 議会 における統合議決 とい う決定的事実を前 に して,反対運動 自体次第に追 いつめ られてい くことに な る。
3)
反対運動の解体 と 「 第二次協定書」
同盟休校‑ 自主授業 は,学校教育法 に基づ く正規の授業 とは認め られず法的には単なる私塾の教育
とみなされたか ら,それの長期化 とともに,進級問題が現実化 して くる。田沼町の小中学校管理規則
第
12条 には 「 授業 日数の三分の一 を欠 いた場合 は原級 にとどめることがで きる」 とあ り
,7月以降に
は登校 を拒否 した上述 の生徒の原級留置が浮び上 ってきたのである。独立校実現の願望 にも拘 らず,
それは言 うまで もな く父兄を動揺 させ ることになった。町教委 による原級留置回避のための本校での 補習授業実施
(8月
9日〜)の呼 びかけに,飛駒地区の
15名全員が応 じた ことは,その端的な現れで あ る。 と同時 に, この ことは,依然総体的 に強硬姿勢 を とる新合地区 との共闘態勢 にひびが入 った こ
とを意味 している。
元来,統合反対の主導権は新合 にあ って,飛駒 はそれに追随す る形を とって きた。それは既 に指摘 したどとく,新合地区 とりわけ閑馬 と下彦間の両村落の伝統的なム ラ秩序 の解体が飛駒地区のそれ よ りも著 しく,かつそ うした与件の下で反対運動の実質的な リーダーが新合 に集中 してきたことに起因 しているo Lか も飛駒地区内で統合是認の住民層の占める比重 は大 きく,反対住民 にとって彼 らとの 摩擦 の 日常化 とともに運動推進 に対す る閉塞的意織が醸成 されていた。紛争 の長期化がそれに拍車 を かけ,協定破棄撤回の気運が高ま っていたのであ る。
このよ うな新合 ・飛駒 の反対運動 の足並みの乱れは,その運動組織の亀裂 に も連なっている。先 に 述べたよ うに,運動母体 は新合,飛駒の
2つの 「 守 る会」 と同 じくふたっの 「 父兄会」 とい う
4つの 組織 か ら構成 されていた。それは運動の方法 と対応,認識を異 に した混合組織であ った。飛駒地区の
「守 る会
」,「 父兄会」 は,意識 ・行動形態か らみて, いわば地域密着型の妥協派が大勢を占めるに 至 った と言 ってよい。問題は運動を主導 した新合地区の反対組織体であ った。新合 において も飛駒 と 同様 に反対住民 ・父兄層 の間 に動揺が拡大 して いたQすなわち新合
280戸中における統合賛成 ・反対 の比率 は 1対
3か ら3 対 1に逆転 して い く
。(22)それは反対組織の リーダー層の内部的亀裂 を惹起せ ざ るをえない。既 に 「協定」締結以前,町側か らの運動切 り崩 し工作 の一環 とみなされ る反対派 リーダ ーの教育委員への任命
(47年
5月) の過程で,主導権争 いが存在 していた。 しか も昭和44 年段階 まで の町議選 (‑町政への参加)での敗退者が リーダー層の一角を占め るとい う錯綜 した事情があ った。
反対派 リーダー層 に潜在 して いた内部抗争 は,運動を担 う住民層の動揺 という事態の下で顕在化 し, それは妥協派 と強硬派 とに明確 に分解 してい く。 自主授業 の生徒
36名 ( 新合
25名 ・飛駒11 名)の原級 留置が 目前 に迫 った1
2月段階で,統合問題 の政治的解決を唱導す る強硬派 は挫折を余議 な くされ,疏 合是認の立場か らの県議団の仲裁 を受 けることによって反対運動 自体崩壊 してい く。
その場合,反対運動の崩壊 にはその組織体 に内包 された問題だけでな く,長期 に亘 る闘争継続の資 金 の枯渇,さらには,上 にも触れた村落問の賛成 ・反対住民間の対立,同一村落 内部での対立‑それの 児童生徒関係への投影 とい った要因が作用 していたのである。
結局, 田沼町西中統合紛争 は先の 「協定書」の協定内容 を時期的 に昭和
52年度 まで延長 した形を と ってそのまま踏襲 し,かつ原級留置を行 なわないとす る 「第二次協定書」の調印締結 ( 昭和49 年1
2月
28日) を もって終了す るのである。
む す び
以上,時系列的観点か ら田沼町西中学校統合にまつわる紛争 問題 を検討 して きたが,最後にこの紛 争過程 におけ る反対運動の性格 について言及 してむすび と したい。
まず問題 とな るのは,近代以降,公権力が教育 を支配す る上で導入 したいわば公教育組織原理であ る 「 学区」の存在である。田沼町においてそれ は,基本的 には小学校区の場合,ムラ ( 藩政村)を単 位 と し,中学校区の場合,旧町村を単位 に して いる。 この学区の再編成 ‑学校統合は,言 うまで もな くムラ,旧村の新町への拡大 と統合の機能 を担 っている。統合西中学校 はまさにそれであ る。 5 つの 中学校 の統合 は,学校経費の合理化 とい う政策意図の側面 もさることなが ら,旧町村その ものの消滅 ない し,戦後の中学校が担 って きた旧町村 を範域 とす る地域社会学校の消滅で もあ る。 ■●●●●●●
この統合 にまつわ る紛争の発生 は, ムラ意識の覚醒,換言すれば学校を媒介 とす る観念 と しての村
落 の覚醒 を底流 と して いた。 田沼町西中の場合 にそれは異質 の生 活 ・経済圏の合体 とい う要因 と相乗 化 し,強力 に前面 に出 ることにな ったのであ る。 その場合,統合推進 とい う行政意志 の浸透過程 にお いて旧村落支配層一既存 の指導体系‑を媒介 とす る従来 の形態が踏襲 され たことは,支配構造 の変質 す なわ ち伝統的 な村落構造の崩壊過程 のなかで,本来的 に住民意志 を吸収 しえない時代錯誤的手法 に はかな らなか った。 それは経済的 自立 に裏打 ち された地域住民 の権利意識 に抵触 し,彼 らの反発 を惹 起 せ ざるを得 ないのであ る。
このよ うな地域住民 の反発 を反対運動 に組合 し組織化す る上で,新合地区, と りわけ閑馬,下彦間 を中心 とす る新 たに発生 した リーダー層 の果 た した役割 は大 きか った。だが,その場合 の リーダー シ
ップは, いわば " 呉越 同舟〝の性格 を当初 か ら内在 させて いた と言 って よい。その ことが運動 の 自壊 作用 を促す こと に もな った。
一方,紛争 の拡大 と深化 の過程 で,反対派 の運動推進 に関わ る教育上 のイデオ ロギ ー的補完 が加 わ った ことが指摘 されねばな らない。すなわち,公権力の統合 の理論的根拠 たる適正規模 論 に少人数教 育 論 ・地域教育論が対略 した。 それは,観念 と してのム ラを合理化す る役割 を果 す ことになる。また, 学 区の存 在 も 「 上か ら」 の教育組織原理 と してではな く,む しろ旧村 その ものの維持 のための組織原 理 と して把握 されてい く。 それはム ラの防衛組織 に転化す るのであ る。 その限 りでは保守的側面が包 摂 されて いた. また補完 された イデオ ロギ‑自体 と リーダー ・反対住民の基本的 な意識 とのギ ャップ が あ った。 そ こにも運動崩壊 の一 つの契機 が認 め られ よ う。
結局 ,反対運動 は形式合理主義 の体系 と して機能 した町議会 の存在 を与件 と して,反対組織の分解, 資金枯渇 問題,住 民 間 対立 によ って終 止 符 を うつ こ とにな るのであ る。紛争 の終結 によ って,形式 的 には旧村 の新町への統合 (それに伴 う町民 と しての一体感の育成) が完了す る。
以後 の問題 は小学校 区の再編成で あ って,その ことによ って ムラ組織 自体 の実質的再編成が促 され る ことにな るで あろ う。
<注>
( 1 ) 村中知子 「 学校統合と住民運動一岩手県下閉伊郡岩泉町の事例 」( 『 教育社会学研究』第
28集,東洋館出 版社,昭和
48年)。伊ケ崎暁生編 『 子どもの学習権と学校統廃合』労働旬報払
1973年。その他
( 2) 千葉正士 『 学区制度の研究一国家権力と村落共同体』勤草書房 ,1 9 6 2 年, 3
30頁以下参照。および若林敬 子 「 学校統合と農山村 ・子 ども‑ " 過疎化〝段階と " 新通達〝をめぐって 」( 『 教育社会学研究』第
29集, 昭和4
9年,5
9貞以下)参照。
( 3) 例えば,村中前掲論文および不破和彦 「 学校統合と村落構造一岩手県下閉伊郡岩泉町の事例」 ( 東北大学 教育学部 『 研究年報』第
22集,昭和4
9年)。
(4)
こうした
2類型の設定については,佐藤守,対馬達雄 「 学校統合の研究一秋田県大館市の事例」 ( 本学部 紀要,第
30集,昭和
55年)を参照されたい。
(5)
議会,裁判所両者を通 じて統合阻止を図るというこの第三の形態として,神奈川県津久井郡藤野町立藤野 中学校の紛争事例が挙げられる。
(6)
『 栃木県政史一戦後篇』第一巻, 1 5 3頁以下。
(7)
前掲書, 1
63頁。
( 8) 「 田沼町区等設置条例」昭和 3 5 年 。
(9)
田沼町教育委員会 『田沼町教育百年のあゆみ一学校教育編』昭和
52年
,15頁。
a O ) 昭和
45年第一回田沼町議会定例会会議録 (
3月
6日付)。
u l ) 通学方法についての案は,二転三転 と変 っている。旧飛駒村か らは,遠い地点で西中学校まで
20加余 にも なるため,父兄の立場か らは,通学問題は深刻であった。最初,町教育委員会は,路線バス ( 関東バス) と 交渉の結果,当時,月額生徒一人当 り 1 , 80 0 円の案を出 したが,各地区住民か ら反対 されて,それを撤回す ることになる。次に
,45年
12月
22日,新合地区か ら 「スクールバス利用 に関する請願」が提出され ( 大関政 十郎他 1 ,01 2 名),町の方針 としては,スクールバス無料輸送 という方向を辿 ることにな るO これまでには いくつかの案があって,各地区毎 に 「 通学に関す る説明会」がなされている。また
45年
6月,新合,飛駒両 地区の
7名の区長は,バス無料化の署名簿を町長宛に提出 した。 この ことが,町側か らは,統合賛成の唯一 の根拠 として取 りあげ られてい くことになった。
n2
) 田沼町議会議員名簿 ( 昭和
52年
8月
6日現在)によれば
,25名 (
1名欠員)議員中,小学校
PTA会長経 験者
13名,区長経験者
2名を数え ることができる。
( 1 3 ) 「 新合中学校 を守 る会」には山形小学校区の住民は加入 しなかった。 このことは,西中学校までの距離が 近いこと。住民が旧支配層の元村長の支配下 に所属 していることなどの理由があげ られ る。
n 4 ) 同書1
7‑19頁。
( 1 5 ) 佐藤守,対馬達雄 『 学校統合の研究一栃木県田沼町立西中学校統合問題の面接記録』 昭和
54年
。13頁以下 参照。
u 6 ) 反対派議員
4名中,地域密着派
3名,政治解決派
1名 と目され る。
u n 反対の論点 は,統合策が住民不在 であるということに加え,須花坂峠 トンネルによって新合,飛駒の生活 圏が足利市にあ り,西中学校 に一時的に通学させて も,解決 とな らないこと,スクールバス運行経費が田沼 町財政に堪えきれない額であることなどである。 この点については,例えば,昭和
48年第
2回田沼町議会定 例会 (
3月
4日
〜17日)Y反対派議員の発言があげ られ る。
u 8 ) この反対運動‑の県内現場教師の関与 は全 くなか った。因みに田沼町内教員の 日教組‑の加入者はいない。
安蘇郡内で も一名 にすぎない。
u
9 昭和
48年第
9回田沼町議会定例会
(1
2月
21日)の
Y反対派議員発言o 捌 『 面接記観
89頁以下参照o
C n) この反対運動の理論的指導者 と目される K 氏は, この点 についてその後, 『 思想の科学』紙上で報告を行 なっている。合田新介 「 高度成長時代の犠牲者たち‑統合反対運動のなかで」 (『 思想の科学
』1975年
8月 号所収)。
御
『 面接記録
』88‑89頁Q
<注記
1>本稿は昭和
53,54年度の文部省科学研究費一般研究
C「 学区再編成過程の実証的研究」 ( 代表佐 藤守)の研究成果の一部であ る。
<注記
2>本稿は, 日本教育社会第
31回大会 ( 昭和
54年
9月
21日
〜23日,於 :文教大学)における佐藤守, 対馬達雄,若林敬子の発表を加筆修正 した ものである。
(198