【論文】
近現代台湾社会におけるアイデンティティーの変化
王 霜 媚
はじめに
1895年の日清戦争の終結と下関条約の締結により,日本は清王朝に台湾の割譲を要求して,その獲 得に成功した.その後,51年間にわたって,日本の植民地政府(台湾総督府)は行政・法律・教育・
宗教など様々な面で改変を行い,台湾の住民を日本の臣民に育成しようと試みた.日中戦争末期には 皇民化政策が推進され,多くの台湾人が日本人として戦地に赴いた.
やがて,1945年の敗戦で日本が台湾を手放すと,蒋介石の率いる中華民国が台湾を接収し,それ以来,
台湾は中華民国の統治下にある.この間,1949年には国共内戦に敗北した中華民国国民党政府(以下 国民政府と称する)が台湾へ遷移し,最初は台湾を「反攻大陸」の基地として位置づけ,来る大陸奪 還に備えて全島に戒厳令を敷いた.だが,中国本土での共産党政権の確立とともに,「反攻大陸」は ほとんど夢と消え,中国(中華人民共和国)と台湾(中華民国)の対峙の局面は無期限の様相を呈す るようになる.
台湾にある国民政府は,大陸の中華人民共和国政府に対抗するため,伝統的な中華文化の継承者は 中華民国であり,中華文化の道統は中華民国にあること,つまり文化道統の継承者としての立場を全 面的に打ち出すことで,法統の正統性を主張した.中華文化は中華民国という国が存立できる根拠と なったのである.この結果,台湾では蒋介石親子の権威主義体制時代に1,中華文化の振興が強く推 し進められた.行政・教育制度などを通して,台湾住民に中華民族・炎黄(炎帝・黄帝)の子孫であ るとの中華意識を植え付け,中華文化で徹底的に国民を教育した.
かたや,国際政治の上では大陸の中華人民共和国の存在感が年々高まり,やがて1971年10月に台湾 の中華民国の国連での議席は,中華人民共和国に取って代わられた.対外的には中華民国は「中国」
として主張し難くなった.現在では中華民国を国として認める国家はほんの僅かであり,台湾という 名義でも国連に加盟できない状況下にある.多くの国は台湾を一つの地域としてしか見ていない.
振り返れば,台湾社会が大きな変化を遂げたのは,1980年代後半のことであった.1988年,本省 人2の李登輝が政権を掌握すると,彼は国際社会の中での台湾の置かれた現実を認識し,非現実的で 最早不可能な「反攻大陸」という国策に幕引きを行った.あわせて,従来のような中国大陸との敵対 関係も停止した.彼は選挙制度も改革し,住民の声を政治に反映できるように直接総統選挙を実施し
たため,その後の政権交替も実現を見るにいたった.
李登輝の退任とともに2000年に総統選挙が行われると,1945年から56年間にわたって政権を独占し てきた国民党に代わり,新たに民進党が政権党として踊りでた.民進党は党の綱領に台湾の独立を掲 げている政党である.そのため民進党の陳水扁政権の8年間に「去中国化(中国化を消し去る)」政 策が次々と実施され,住民の台湾本土意識が高められた.しかし,2008年に国民党が再度政権の座に 戻ると,馬英九総統は政治面では親中策を取り,教育面では権威主義体制時代に逆戻りして,中華文 化を重視する方針を取っている.
以上のように,台湾は日清戦争から現在に至るまでの120年間,住民は時には植民地政府に「日本 精神」を叩き込まれ,時には中華民国に「中華意識」を植え付けられ,また民主化後には「台湾本土 意識」に目覚めろと急がされるなど政治に翻弄されてきた.この間,様々な文化が当時の統治者の都 合によって台湾に持ち込まれた.一体,これらの文化はそれぞれの時代の台湾住民にどのような影響 を与えたのか.また,彼らのアイデンティティーに如何なる変化を起こしたのか.本論では,さまざ まな角度からこれらの問題について分析を試みてみたい.
Ⅰ 日本植民地時代のアイデンティティーの変化 1.本島人から台湾人へ
1895年,日本の植民地政府(台湾総督府)は台湾を接収した際,住民に対して2年間の国籍選択の 猶予期間を与えた3.だが,台湾住民はすでに何世代にもわたって台湾に根を下ろし,中国本土に戻っ ても自活できない人が多かったため,帰国した人は僅かであった4.大半の者が台湾に残り,彼らは 日本国植民地台湾籍の住民となった.さらに,日本本土からも政治・軍事・商業などの目的で,多く の日本人が台湾にやってきた.1897年,国籍の選択について当時の民政長官水野遵は,台湾住民に対 して次のように呼びかけた.
本年五月八日を定めて台湾民人の去就を決するの期と為す.此の期を一たび過ぎれば,乃ち皆な我 が帝国臣民の籍に入る.而して我が総督府は日台の人を論ずること無く,一視同仁,保愛すること 子の如くし,必ず同ともに太平を享け,共に徳沢を洽あまねくせんと欲す.爾等民人,各おの宜しく斯の旨を 体認し,流言に惑うこと勿かれ5.
台湾に残った住民は5月8日を境に日本の臣民となった.台湾総督府は,日台の住民を「一視同仁」
し,ともに太平の世を享受すると宣言した.
だが実際には,同じ日本臣民である台湾の住民に対して,総督府は法令上において一視同仁に反す る措置を施した.渡台した日本人を「内地人」として特別扱いしたのに対し,台湾の漢民族は「本島 人」,原住民は「蕃人」6と明記して差別化を行ったのである.日本人が台湾の漢民族や原住民とは異 なる身分であることは,法令の上でも規定されたといえる.この3区分の身分規定は,台湾の住民に
種々の影響を与えることになる.
これより以前,清王朝の時代には中国沿岸部から多くの漢民族が台湾に移住した.しかも辺境の台 湾には中央政府の威令が及びにくいため,台湾住民の中では異なる地域の出身者の間で,絶えずに
「械闘」7が起こった.台湾へ移住した人は福建省出身者を除けば広東省出身の客家が多い.福建省の 中でも漳洲・泉州の人が一番多く,漳洲と泉州との械闘は「漳泉械闘」と呼ばれた.また,福建(閩)
と広東(粤)のように異なる省の出身者同士の械闘は,「閩粤械闘」8と呼ばれた.しかし,日本植民 地統治者の前では,漳州人も泉州人も,福建人も客家も同じ漢民族であって何の違いもない.統治者 側からすれば,これらの台湾漢民族はすべて「本島人」として把握された.
本島人である漳州人,泉州人,客家はこの時代になると,自分たちは日本統治者から「同類」とし て規定されていることを知った.と同時に,日本国民になっても,自分たちは,やはり「内地」から やって来た日本人とは,まったく異なる身分だという現実もはっきりと認識させられた.
この結果,同類視された彼ら漳州人,泉州人,客家の間に自然と「同病相憐(同病相憐れむ)」の 感情が生まれ,やがて彼らの関係は従来の抗争から交流へと変化していった.さらに交流を深めてい く内に,今まで別々に使っていた言葉も徐々に融合し,植民地時代を通じて福建系の住民の間には共 通の言語が形成された.それは,かつて漳州人が話していた漳州語でもなく,泉州人の泉州語でもな い新しい福建語であった9.これが後には「台湾語」と呼ばれるようになる.
台湾を接収した中華民国政府は,1945年に台湾に行政長官を送り,台湾長官署を創設して統治を行 わせた.それからほどなく1949年に国共内戦に敗北した国民政府が台湾に遷移し,このとき百数万の 人口が大陸から台湾に流れてくる10.亡命政府である国民政府は台湾を統治するに当たり,法令でこ れらの移民と台湾在来の住民とを区別する方策を取った.つまり,1945年10月25日以前から台湾に住 んでいた漢民族を本省人,大陸からの新しい移民を外省人と規定したのである11.しかし,その後の 歴史の展開の中で,本省人と外省人の称呼には別の意味合いが含まれるようになる.
1947年に起こった2.28事件12では,推定18,000人~ 28,000人の本省人が犠牲になったといわれる.多 くの台湾社会のリーダーたちが,この事件に巻き込まれて命を落とした.そのため当時から,国民政 府がその後の台湾統治のことを考え,意図的に彼らを標的にしたのではないかとの推測もあった13. 国民政府に対する疑いの目は,当然国民政府とともに渡台した「外省人」にも向けられた.実際その 後,政府の運営に係わる「軍・公・教」14の重要なポストは,殆ど外省人に占められた.本来,省籍 を区別するだけの本省人・外省人という呼称は,時代の事情により社会的身分の意味合いを持つよう になったのである15.
日本植民地時代と同様,台湾の住民は再び政治から排除され,さまざまな面において差別を受けた.
故司馬遼太郎の『台湾紀行』の中には,当時の台湾総統李登輝が国民政府のことを外来政権と明言し たことが記されている.この発言は台湾では大きな波紋を呼んだが,おそらく2.28事件の経験者でも ある李氏の身に沁み付いた感覚からする,真情の吐露であったに違いない.
本省人,外省人というこの二分法は,本省人だけでなく外省人にも影響を与えた.外省人は本来中
国大陸の各地から来台した人々であり,彼らにはそれぞれ自分たちの故郷の言葉がある.だが,台湾 在住の本省人に比べて人口的に遥かに少ない彼らの中に,ともに大陸から来た者としての一体感が生 まれたとしても不思議ではない.本省人から外来者とみられた彼らは,国民政府が国語として定めた 北京語を,自分たちの共通の言葉として使用したのである.
一方,本省人は本省人で,自分たちこそこの島の住民だという強烈な同類意識を持っていた.彼ら は自分たちのことを台湾人と自称し,国民政府を外来政権と見なして,公用語である北京語を外国語 のように感じた.当時,台湾人(本省人)の間で一般に使われたのは,日本時代にできたあの新しい 福建語である.彼らはこれを「台湾語」と呼んだ.この台湾語は福建系の住民だけではなく,原住民 や客家の間でも普通に使われた.李登輝は客家の出身だが客家語は殆ど話せず,普段の生活用語は台 湾語だとされる.
以上のように,日本植民地時代には「本島人」,国民政府の権威主義体制時代には「本省人」とし て抑圧されたこれら台湾住民の中には,台湾人としての一体感が自然と生まれた.「台湾人」と「台 湾語」という言葉が世に出る背景には,彼らの台湾人としての強いアイデンティティーの形成があっ たことを見逃してはならない.
2.国語教育
先述したように,台湾人アイデンティティーの形成にとっての1つの画期は,日本の植民地となっ たときであった.
もともと日本政府は台湾を領有したあと,初めての植民地である台湾をどのようにして統治すべき かで相当苦慮したようだ.植民地から利益を吸い上げるだけの統治方法とは違う方式が模索された.
最初に台湾の教育に携わったのは,台湾総督府民政局学務部長の伊沢修二である.彼は台湾で同化教 育を行うべきだと考えた.教育を通して台湾人を真の日本臣民にする.その方法は,まず台湾人に「智 育」を施して近代文明の知識を教え,文明へと導き,その後「徳育」を施して「大和民族」へ同化さ せるというシナリオである16.これは教育者伊沢の政治理念であった.
しかし,1898年に着任した民政長官の後藤新平は,生物学の観点から「ヒラメの目をタイの目にす ることはできない」と言い,教育政策に関しても日台分離の方針を取った.日本人児童と台湾人児童 とでは教育目的を異にし,日本人児童は「小学校」,台湾人児童は「公学校」へという隔離教育を行っ たのである.後藤新平には台湾人と日本人に同じ教育を施し,台湾人を日本人に同化させるという発 想は全くなかった.日台の隔離教育を堅持し,これに違反すれば即刻退学させることにしたのもその ためである17.だが,伊沢が理念として描いた同化教育は,彼が学務部長を去った後,在任中に育っ た学務官たちのその後の国語教育の中で,紆余曲折はあったものの最後は実現されていく.
伊沢が退職したあと,台湾植民地政府は住民からの要請もあり,台湾各地で公学校の数を増やした ため,1904年にはついに伝統的な「書房」と公学校の生徒数が逆転するにいたった18.書房で教えら れる儒学教育よりも,近代教育をおこなう公学校の教育内容の方が,生徒とその保護者にとって魅力 的なものであったからである.伊沢が提唱した台湾人に対する近代文明への「智育」は,台湾の人々
に受容されたわけだ.
だが,初等教育を担う公学校の増設には協力的であった植民地政府も,中等教育になると消極的な ものに転じた.社会秩序の維持と優秀な労働人材を確保するには初等教育が必要であるが,それ以上 の教育は植民地においては必ずしも必要ではないと考えたのである.
台湾人のためには,中学校が必要だと考えた台湾の名士林献堂は,中学校の創設に奔走し,私財を 投じて基金を作り,民間にも募金を呼び掛けた.248,000円の資金を集め,「私立台中中学校」の名義 で総督府に申請した.1914年に板垣退助が来台すると,林献堂らの懇願で12月20日に台湾の縉紳とと もに「台湾同化会」を結成し,板垣が総裁になった.台湾人に対する平等無差別の待遇を訴えたが,
総督府の命令によって「台湾同化会」は1915年1月26日に解散させられた19.だが,同年2月に総督 府は「中学校官制」を公布し,林献堂らの中学校の申請を認め,名称も「公立台中中学校」に改称し た.その一方で,日台隔離教育は依然として維持され,日本人が通う中学校として「台中二中」を別 に創設したのである.
転機が訪れたのは,1919年に日本で平民宰相原敬が登場した時である.植民地政策にも変化が生じ ることになり,台湾総督は軍人出身の明石元二郎が病死した後,文人官僚の田健治郎が任命された.
田健治郎は台湾に着任すると再び「一視同仁」を標榜し,「内地延長主義」の政策を次々と打ち出し た20.
教育方面に関しては,大正11年(1922)に新「台湾教育令」下で21,日台共学の方針が採用された.
また,中等教育以上の学校はすべて日本内地の学制にならって教育改革が行われた.この徹底した同 化政策は,20世紀の1920年代前後に生まれた台湾人に,多大な影響を与えることになる.2009年に上 映されたドキュメンタリー映画『台湾人生』からも,その影響の大きさをうかがうことができる.
3.『台湾人生』に見える台湾人のアイデンティティー
元北海道新聞の記者である酒井充子が訪台した時に,「日本語世代」22と出会って強い関心を抱き,
台湾について色々と調べている中で,映像化を思い立って製作したのがこの『台湾人生』である.台 湾の日本語世代5人を7年間にわたって取材し,インタビューを行って彼らの思想・信条を聞き取る ことで完成させた.選ばれた5人は社会階層も教育レベルも異なり,また日本に対する思いにも差が ある.出演者の中には,漢民族だけでなく原住民も含まれている.
1人目は客家の楊足妹(1928年生).正規の教育は小学校1年ぐらいまでで,彼女は15歳から働い ている.日本の植民地時代には,コーヒー農場で労働に従事し,酒井が取材をし始めた2002年頃にも コーヒー農場から変わった茶畑で働いていた.彼女は日本人のインタビューに,日本語で対応してい たが,周りにいる茶畑の仲間とは台湾語で話す.正月に帰省してきた家族に対し,息子と娘には客家語,
孫には国語を使い分けしている.1920年代生まれのマイノリティーである客家系の女性は,様々な試 練に耐え抜き,時代と環境に必死に適応しようとしてきた.母語である客家語のほか,台湾語,日本 語,それに北京語も喋れるのは,台湾庶民の逞しさの表れでもある.
2人目は原住民パイワン族出身のタリグ・プジャスヤン(1928 ~ 2008).彼は戦後,士官学校を卒 業し,1972年には台湾の国会議員にもなった.息子は開業医であり,エリートコースを歩んだ家系と いえる.自分でも原住民の中でこのような暮らしができるのは,少数だと述べている.だが,彼は戦 後30年ぶりにインドネシアから帰ってきた中村輝夫(李光輝)23の話しになると,急に表情がこわばっ た.
戦後台湾に戻ってきた原住民日本兵は,国民政府にとっては,もとは敵側についた人々であるため,
当然その対応も冷たかった.これらの元日本兵の話になると,それまで極めて冷静であったタリグ・
プジャスヤンが,声を震わせて次のように発言した.
「原住民をそういうふうに扱ってよいでしょうか」
「もともと台湾の主は,原住民だ」
彼は,また「名前は日本名になっても中国名になっても,原住民は原住民だ」と言い切った.そこ に彼の原住民としてのアイデンティティーの強さを,感じとることができよう.だが,2008年に亡く なった際,タリグ・プジャスヤンが最後に話した言葉は日本語であった.パイワン語,台湾語,北京 語,日本語の話せる彼にとり,もっとも身に付いた言葉は日本語であった.日本語教育の徹底振りに 驚嘆するしかない.
3人目は「天皇陛下万歳を叫んで死ぬ」「男なら特攻隊に行った」と豪語した陳清香(1926年生).
彼女は女学校にまで進学した進歩的な女性であり,小泉純一郎総理の靖国神社参拝も擁護する.中国 に対して,どのような印象を持っているかと聞くと,祖国に返還されたことに一時的に希望を持った が,上陸した兵士の教育レベルの低さ,接収しに来た官員たちの汚職,台湾人に対する差別などで絶 望したという.談話の中で,彼女は日本の植民地時代と同じように中国人のことを「支那人」と呼ん だ.2008年,彼女は台湾独立を党の綱領に掲げる民進党候補者を応援に行った.台湾の独立を支持す ると表明した.そこに彼女の台湾に対するアイデンティティーの一端をうかがうことができる.
4人目は蕭錦文(1926年生)である.彼は太平洋戦争時,志願兵としてビルマ(現在のミャンマー)
に行った.志願の原因は本人に言わせると2つある.1つは当時の徹底した愛国教育であり,ほぼ無 条件に体中に叩き込まれたという.いま1つは,それまで台湾人がいろんな面で差別を受けてきたこ とに起因する.もし,兵隊になれば,日本人と肩を並べることができると彼は期待したのである.し かし,一生懸命日本人になろうとした彼は,軍隊で上司に「チャンコロ」と罵られた.蕭氏はこう抗 弁した.
「私たちは,血統が違うかもしれないが,文化的には日本人だ」
「同じように国を愛している」
彼は2.28事件で拷問を受けた.弟は白色テロ24で死んだ.国民政府の権威主義体制時代に酷い目に あった彼は,蒋介石・蒋経国親子を良く思っていない.
5人目は宋定国(1925生)である.彼は夜間中学校を卒業した後,日本の海軍工場で働いた.夜間 中学校在学中に,日本人の小松原先生から学資を援助してもらった.その小松原先生に憧れ,教員に なったこともある.戦後,小松原先生を台湾に呼んだり,病気の小松原先生の最期を看取ったりした.
今でも毎年必ず千葉に墓参りに行っている.宋氏と恩師の小松原先生の間に見られる厚い「人情」と「義 理」は,一体何に由来するのだろうか.宋氏に言わせると,自分は日本精神にたっぷり浸かっている 男だという.
4.血統と文化の葛藤
この映画に感動した日本人は,少なくないようである.しかし,台湾の終戦前後に生まれた第一世 代は,この映画をどのように見ているのか.違和感はないのだろうか.
台湾の戦後第一世代は,本省人も外省人も蒋介石親子の権威主義体制時代に中華意識を植え付けら れ,中国人として教育された.彼らが厳しい眼差しでこの映画を見ていることは,想像に難くない.
特に「国」「愛国」「文化」などのタブーの領域に関しては,一層敏感であるはずである.
陳清香が「靖国神社参拝」を擁護し,「国のために死んだ人を参拝することのどこが悪い」と発言 したことに対し,戦後第一世代は「いったいこの人の「国」とは何処なのだろうか」と疑問を抱くで あろう.また,蕭錦文が軍隊で上司から「チャンコロ」と罵られた時に,「確かに日本人と異なる血 統ではあるが,文化の面では同じではないでしょうか.「国」を愛する心は一緒だ」と発言したこと に対しても,第一世代は多分不思議な感想を抱くはずである.つまり,中華意識を植え付けられた彼 らからすれば,「なぜ,そこまでして日本人になろうとしているのか」が理解できないに違いない.
20世紀1920年代生まれの日本語世代に見られるこの徹底した日本化は,何に起因するのだろうか.
戦前の日本語教育の不幸は,日本語を学ぶことが日本精神を学ぶことに繋がる言霊思想にあるとは よく言われることである.これは一体どういうことだろうか.
台湾で日本語教育を始めた伊沢修二は,対訳法による日本語教育を推進し,教科書には日本語とそ の訳の台湾語を併記した.台湾語を通して日本語を学習する方法を採用したのである.この対訳法の 教授方法は,母語の台湾語を基礎とし,その上で日本語を学ぶ方法であった.
だが,その後の台湾の国語教育方法は,1897年~ 1911年までに台湾に在職した山口喜一郎によっ て変更が加えられた.国語教育の教授法は伊沢の提唱した対訳法からグアンの直接法25に変えられた のである.直接法とは,簡単に言えば,台湾語という母語を介さずに日本語を教え込む教育法である.
漢民族の台湾人に,まったく別言語の日本語を直接教えるために,様々な工夫が施された.
まず,公学校では国語である日本語の習得に学習時間の半分を費やし,その他の教科も日本語で教 えることにした26.公学校の中では,生徒に日本語を日常生活用語のように実践させる.日本語を生 徒のコミュニケションーのツールとする.自分の言いたいことを日本語で言い,相手の言う日本語も 理解する.この方法で日本語は人間の感受性の層にまで入り込んだ.また,個人の独自の日本語体験 ができ,精神と感情の面でその日本語の意味を深めさせた.おそらく蕭錦文の無条件の日本に対する
「愛国心」は,そのような日本語教育の下で育ったものだと解される.
日本文化に同化した日本語世代は,自分の漢民族の「血統」と幼い時から受けた日本文化との葛藤 に悩まされ,そこから抜け出すことは容易なことではない.彼らには自分の父祖の世代と自分の「子」,
「孫」の世代との間に,見えない文化の溝がある.日本語世代の徹底した日本化の背景には,以上の
ような事情がある.
Ⅱ.中華民国統治下の台湾住民のアイデンティティー 1.本省人郭松棻のアイデンティティー
1971年4月,当時のアメリカ大統領ニクソンと日本首相佐藤栄作は,沖縄を日本に返還することを 決定した.さらに6月17日には,尖閣諸島(中国名「釣魚台列嶼」)も沖縄に含まれることが発表された.
日米両国間で行われたこの決定は,台湾人,中国人の民族意識を刺激した.しかし,1970年代は冷戦 体制であることに加え,中国本土では文化大革命の嵐が吹き荒れていた.台湾の国民政府にとっても,
日米両国は反共の同盟国である.中台両政府ともに素早い対応ができなかった.
反対の声を最初に上げたのは,アメリカに留学している台湾と香港の留学生たちである.すでに前 年の1970年11月17日,プリンストン大学で左翼・右翼・中間派を問わず,台湾留学生が一丸となって
「保衛釣魚台委員会(尖閣諸島を守る委員会)」を立ち上げた.さらに,彼らは1971年1月29日に国連 ビルの周辺でデモを敢行した.
しかし,この運動はその後,意外な方向に転換する.民族意識に刺激され,展開されたこの「保釣 運動」は,確かに民族に対するアイデンティティーを強めることにはなった.だが,2つの中国,す なわち台湾の「中華民国」と大陸の「中華人民共和国」とでは,どちらが中華民族の本当の代表なの かという問題にぶつかったのである.蒋介石親子の権威主義体制下に育った戦後第一世代の台湾留学 生は,中華民国こそ正統な政権だと教え込まれてきた.中華民国と中華人共和国は「漢賊,両立せず」
という立場にあり,彼らにとって毛沢東は「毛匪」,中国共産党は「共匪」であった.その教えを守っ ていさえすれば,アイデンティティーに混乱が生じて来るはずもない.
だが,1960年代はちょうどアメリカ社会も自国の文化への反省の時期に入り,学生運動・民権運動 が活発化していた.1960年代,70年代にアメリカに留学した台湾学生は,当然これらの運動を目にし,
影響を受けざるを得ない.加えて1971年10月に,国連での中国代表権は中華民国ではなく中華人共和 国だと議決され,国民政府の威信は揺らいでいた.このため「保釣運動」の参加者の中でも,民族に 対するアイデンティティーに分岐が生じた.留学生の中には国民政府の中華民国に強いアイデンティ ティーを持つ留学生もいれば,そうでない学生もいる.「保釣」デモの列の中で,中華人民共和国の 五星紅旗を揚げて行進する台湾留学生も存在したのである.
なぜ,台湾の戦後第一世代の中で,中華人民共和国にアイデンティティーを持つ者がいるのか.当 時のアメリカの学生運動・民権運動・自由思想の影響は,もちろんある.だが,元を尋ねると,日本 の植民地時代から「中国大陸」を祖国として憧れる思潮がすでにあり,その流れは戦後に至るまで脈々 と受け継がれてきた.保釣運動の発起人の1人であるカリフォルニア大学バークレー校の郭松棻(1938
~ 2005)も,その流れの継承者の1人である.
1971年34歳の時,彼は保衛釣魚台運動に従事するため,博士号の取得をあきらめた.1974年の37歳 の時には,中華人民共和国に招かれて大陸を訪問した.国民政府は彼のことを「保釣叛徒」「郭匪松棻」
と呼んで,党報の『中央日報』上で糾弾した.1989年までの十数年にわたり,彼は故里台湾に帰るこ
とを許されなかった.なぜ,台湾出身の彼は,人生を狂わせるこのような行動を取ったのか.実は彼 個人の生い立ちと思想が関係している.
郭松棻は台北市出身,実家は2.28事件の現場に近い.少年時の記憶は,おそらく彼の思想に影響を 与えたことだろう.彼はマルクス主義などの左翼思想に心酔し,その論客となった.だが,彼は1974 年に実際に中国を訪問したあと,理念の中の祖国と実際の中国とのあまりの落差に幻滅し,大きな打 撃を受けたらしい.また「保釣運動」に参加したり中国への訪問などの影響で,国民政府の制裁を受 けた他,多くの台湾の友人も彼と距離を置くようになった.
1983年以後,失意した彼は再び小説の創作を始めた27.1983年に発表した短編小説「 姑グーマー媽(伯母 さん)」28の中で,大陸を訪問した甥の目を通して大陸の現実を描いた.共産党幹部の監視の下,訪 問しにきた甥と姑媽は本音で語ることができなかった.幹部が帰った後,夜になると姑媽が甥に対し,
中国に帰ってくるなと忠告した.短い文章の中で,民主も自由もない中国の現状を巧みに描いた.そ こには彼自身の祖国に対する幻滅が端的に表現されている.
1984年には「奔跑的母親(走る母親)」29を発表した.この小説は精神科医と主人公である患者の 2人の物語で,2人は幼い友人であり,精神科医の廖さんは2歳上である.また「奔跑的母親」とは,
主人公の母親のことである.
廖さんの父親は台湾光復の2年後,1947年の2.28事件当時に嘉義駅で銃殺された.まだ小学生であっ た彼は祖母と二人で父親の遺体を回収しに行った.事件後,母親は祖父によって家から追い出され,
孤児となった彼は2番目の叔父を頼って台北にやって来た.そして主人公がいる小学校に入学する.
その頼りの叔父も,彼が小学校を卒業する前に自殺してしまう.時間から推測すれば,自殺の時期は,
国民政府の白色テロの時期ではないかと思われる.
2歳下の主人公も幼い時に父が家を出て行ったことを記憶している.しかし,その後の父の記憶は まったくない.祖父と母の会話から推測すると,海外で戦死か病死をしたようである.廖さんと主人 公の経験は,多くの台湾人の戦前・戦後の歴史体験でもある.
小説の中で孤児になった廖さんはよく主人公の家に遊びにくる.主人公の母親も廖さんのことを案 じてよく家に泊まらせた.廖さんにとって主人公の母親は,親のかわりのような存在でもある.廖さ んは主人公と一緒に主人公の夢によく出てくる「奔跑的母親」の謎を探る.夢に出てくる「母親」は,
主人公の幼い時の母親の姿である.夢の中でその若い母親はよく走る.だが,走って消えるでもなく,
時々また,いたずらをするかのようにどこからか顔を出す.幼い息子が後ろから追っかけると,また 走り出す.何故,夢に出てくる母親はいつも若いのか.なぜ,いつも走っているのか.
精神科医の廖さんと患者の主人公の2人は昔話をしながら,その問題を考えた.主人公は植民地時 代,田舎に疎開した時に父親が不在のこともあり,女学校卒で令嬢風であった母親が一変し,脇下に 小麦粉を抱えて走り,中華稲蝗(イナゴ)のようにトラックに飛び乗っては闇米を買い出しに行く姿 を思い出した.落差の大きいこの変身ぶりが印象として残ったのではないかと,主人公は自分で推測 した.だが,精神科医の廖さんは,そんな単純なものではないと考える.主人公の青年期・結婚後の 母親との関わりをさらに詳細に聞いた上で,最後に「走っているのは,母親ではない.あなた自身が
走っているのだ」と結論した.
この小説が発表された1984年当時,台湾はまだ権威主義体制下の戒厳令が敷かれていた.もちろん 自由に表現できる時代ではない.時代の制限下,郭松棻の小説の表現も曖昧なままである.彼が本当 に言いたいことは何なのか.読者がそれぞれ推測するしかない.
「走る母親」の「母親」の実体とは,いったい何だろう.この「走る母親」の「母親」は,小説中 の廖さんと主人公にとり,実母であるか否かという違いがあるものの,2人にとって母親そのもので ある.そうであれば,廖さんと主人公は2人ではなく,実は同一人物だと考えても問題はないであろ う.2人の問答は,作者郭松棻の自問自答ではないかという推測もできる.作者は自分自身が抱える 問題を,医者の廖さんと患者である主人公の2人の口を借りて,語っているのではないかと考えられ ないこともない.
2005年に郭松棻はニューヨクで客死した.植民地時代に生まれ,祖国に対する情熱が彼を保釣運動 に駆り立てた.その祖国と思う中国大陸を訪問し,民主も自由もない現実を目にしたが,夢の中では 祖国は依然として美しい姿のまま,ただ,ひたすら走って自分からどんどん離れていく.この小説か ら,植民地時代に生まれ,蒋介石親子の権威主義体制時代に教育を受け,アメリカに留学,民主と自 由に憧れた当代の知識人郭松棻氏の,祖国に対するアイデンティティーと屈折した心理を覗うことも 不可能ではない.
2.外省人侯健德のアイデンティティー
1971年,中華民国が国連を脱退した時,蒋介石は「荘敬自強 処変不驚(恭しく自らを強め,状況 の変化に驚くことなかれ)」というスローガンを掲げて台湾の人々を激励した.その後,国策は「反 攻大陸」から,島内のインフラ整備に力を注ぐことに変わった30.民衆の目を政治から経済にそらそ うとしたわけだ.1978年12月,アメリカが中国との国交締結を台湾に通告したことで,国民政府は更 なる追い打ちをかけられ,台湾は国際社会から一層孤立することとなった.
その当時,若者の憤慨した気持ちを代弁するかのような1つの学園歌(キャンパス・ソング)が流 行した.その歌とは侯健德(1958 ~)が作曲・作詞した「龍的伝人(龍の伝人)」である.この歌は その後,台湾だけに止まらず,香港,中国,海外の華人社会にまで広がった.歌自身の良さにもよる が,国民政府の後ろ押しも大きかった.この歌の歌詞には強い民族意識が表されている.作者侯健德 自身も作詞をする時に,義和団事件当時の「八カ国連合軍(八国聯軍)」のことが脳裏に浮かんだと 述べている.
ナショナリズムを高めることに役立つと考えた国民政府は,一部の歌詞を改めさせた後,この歌を 広げることに力を貸した.歌詞は,まず中国大地に流れている長江・黄河を讃える.中国を代表する 動物「龍」を取り上げ,さらに自分たちは「龍」の「伝人(後裔)」であることを強調する.そこか ら一転して,百年前から受け続けた中国の屈辱を提起し,今こそ目覚めよと「龍の伝人」に呼びかけ る.この歌の歌詞は,中国人の悲哀,誇りを代弁するかのようである.歌うと気分が昂揚し,鬱憤を 晴らす効果もある.歌詞は次の通りである.
遙遠的東方有一條河,它的名字就叫長江.
(はるかな東方に流れている河がある.長江という)
遙遠的東方有一條河,它的名字就叫黃河.
(はるかな東方に流れている河がある.黄河という)
雖不曾看見長江美,夢裡常遊長江水.
(長江の美しさを一度も目にしたことがないが,夢に長江のほとりに遊ぶ)
雖不曾聽見黃河壯,澎湃洶湧在夢裡.
(黄河の壮大なる波の音を一度も聞いたことがないが,夢に黄河の轟きを聴く)
古老的東方有一條龍,她的名字就叫中國.
(いにしえの東方に龍がいた.彼女の名は中国と呼ばれる)
古老的東方有一群人,他們全都是龍的傳人.
(いにしえの東方に人々がいた.彼らはみな龍の後裔)
巨龍腳下我成長,長成以後是龍的傳人.
(巨龍の足元に私が成長し,龍の後裔となり)
黑眼睛黑頭髮黃皮膚,永永遠遠是龍的傳人.
(黒眼,黒髪,黄色い肌であり,永遠に龍の後裔である.)
百年前寧靜的一個夜,巨變前夕的深夜裡.
(百年前のあの静かな夜,巨大な変化のその前夜)
槍炮聲敲碎了寧靜夜,四面楚歌是姑息的劍.
(銃砲の響きが夜のしじまを破り,四面の楚歌は姑息の剣)
多少炮聲仍隆隆,多少年又是多少年.
(銃砲の響きはその後も果てしなく,何年も何年も続く)
巨龍巨龍你擦亮眼,永永遠遠的擦亮眼.
(巨龍よ!目を覚ませ,永遠に目を覚ませ)
歌詞は何回も修正された.「四面楚歌是姑息的劍」の部分は,本来は「四面楚歌是洋人的劍」とい う歌詞であった.国民政府によって「洋人(西洋人)」を「姑息」に改めさせられたのである.その後,
時局の変化とともに侯健徳本人も歌詞を2か所修正した31.
作者の侯健徳は1958年に台湾で生まれた.1938年生まれの郭松棻より20歳下である.祖籍は四川省.
台北市出身の郭氏と違って親は四川省からやってきているため,長江,黄河は郭氏よりも身近な存在 のはずである.歌詞からも彼の中華文化・中国大地に対する憧れの強さが感じられる.1983年に侯健 德は妻を台湾に残して中国に入った.1989年の天安門事件にも参加し,天安門広場でこの歌を熱唱し た.
侯健德の民族意識のアイデンティティーの向う先は,台湾の「中華民国」ではなく,長江と黄河が 流れる中国大陸の「中華人民共和国」である.
戦後台湾住民の中に多くの外省人が参入し32,住民の国に対するアイデンティティーは一層複雑と なった.国に対するアイデンティティーは,必ずしも中華民国ではないということは,郭松棻と侯健 德の例からも明らかである.
3 民主化後の学生運動
政局に敏感に反応したのは,いつも「初生之犢不怕虎(生まれたばかりの子牛は虎を恐れない)」
の学生たち,「保釣運動」に身を投じた郭松棻と「龍的伝人」の作者侯健德は,いずれも大学院生,
大学生だった.台湾の権威主義体制下で起こった彼らの活動は,当局に鎮圧,歪曲された.郭松棻は 異国で客死,侯健德は大陸に亡命するかのように去った.
だが,1988年1月に絶対権力を持つ蒋経国総統が亡くなった後,民主化が「脫韁野馬(手綱を振り 切った野馬)」のように誰も制止できないほどの猛スピートで進んだ.学生が民主化を求める運動は 台湾の政局を大きく左右した.台湾で起こった有名な学生運動が幾つかある.1つは1990年3月の「野 百合学運(三月学運)」,いま1つは2014年3月の「太陽花学運(ひまわり運動)」である.
1990年3月16日~ 22日の間に起こった「野百合学運」では,全国の大学から学生が中正紀念堂前 に集まり,そこにある広場で座り込みを行った.最初は数百名だけだったが,日が経つと増加し,最 も多い時には6,000名に達した.学生たちは政府に「解散国民大会(国民大会を解散)」「廃除臨時條款(臨 時條款を廃止)」33,「召開国是会議(国是会議を開催)」「政経改革時間表(政治経済改革のタイム・テー ブル)」を要求した.当時の国民党李登輝総統は3月21日に53名の学生代表と会談,学生の要求に耳 を傾け,22日に学生は中正紀念堂前の広場から撤退した.
この学生運動が,李登輝総統のその後の政治改革を後押ししたことは間違いない.また,学生運動 によって政治が動いた事実は,学生の政治に対する関心を今まで以上に高めることになった.彼らは 日常生活においても,台湾の前途・国のありかたを盛んに論じた.その熱気は当時台湾を訪ねた日本 人にも強く感じられたほどである.学生運動のリーダーたちはその後,大学,社会運動,メディアな どの分野で活躍し,社会に影響を与え続け,実際に国政に打って出た人も少なくない34.
24年後の2014年3月18日,数百名の学生が日本の国会にあたる立法院に突入し,4月10日まで占領 した.この学生運動は台湾では「太陽花学運(ひまわり運動)」と呼ばれる.立法院の中で籠城する 学生を応援しようと,立法院の周囲を数千,数万の市民が取り囲んではエールを送った.このため民 意の流れを察した野党民進党も,彼らを支援する姿勢を表明した.運動の起こった原因は「反服貿(サー ビス貿易協定に反対)」35である.この学生運動のリーダーは台湾大学大学院生の林飛帆と台湾清華 大学大学院生の陳為廷で,林飛帆は1988年生まれ,陳為廷は1990年生まれ.ともに侯健德より30歳下 の世代で,台湾戦後の第三世代に相当する.
では,彼ら第三世代のアイデンティティーとは,一体どのようなものだろうか.
Ⅲ.台湾新文化と新台湾人
1.台湾人アイデンティティーの変化
台湾人アイデンティティーの 変化は1970年代末と1980年代初頭の一連の不幸な事件と深く関わっ ている.1979年12月10日の世界人権デーに,台湾南部の都市高雄で警察と民衆の大規模な衝突が起こっ た.多くの党外人士36が逮捕され,軍事法廷にかけられた.その後,逮捕された1人林義雄の母と3 人の幼い娘たちが自宅で何者かに刃物で刺された.母親と2人の娘は,即死であった.長女は辛うじ て一命を取り留めた.林義雄の自宅は国民政府の監視下にあったにも拘らず,このような惨案が起こっ たのである.当然,民衆の疑いの目は政府に向けられた.
また1981年5月,アメリカのカーネギーメロン大で教鞭を取っていた陳文成が台湾に帰省した時,
台湾の警備総司令部に呼ばれた後,翌日台湾大学の図書館の敷地で遺体となって発見された.さらに 1984年10月には,『蒋経国伝』の作者江南が,サンフランシスコで台湾からのヤクザに刺殺された.
この事件は台湾の官僚と蒋経国の息子が関わっていると噂された.これら一連の事件で国民政府の威 信は地に落ちたため,蒋経国は蒋家から次期の総統候補を出さないと表明した.さらに自分は何十年 も台湾に住んで台湾の米を食べているだから,自分も台湾人であると主張し,台湾民衆との一体感を 強調して民心の挽回に努めた.
1986年9月に党外人士が台北の圓山飯店に集結した時,急遽結党を宣言して,党名を「民進党」と 名付けた.当時は戒厳令がいまだ開除されておらず,結党は違法である.だが,「人心向背」を察し た蒋経国は懲罰的な措置を取らなかった.彼も台湾の中で,すでにある流れが蠢動していることを感 じ取っていたに違いない.1988年1月に蒋経国が急死.李登輝の時代に入ると,民主化の動きはもう 誰にも止められない大きな潮流となった.
李登輝総統の任期が終る直前の1999年,彼は中国と台湾との関係を「特殊な国と国の関係」と定義 した.2002年に民進党の陳水扁総統は,両国の関係を「一辺一国(台湾と中国とはそれぞれ一つの国)」
という言葉で表現した.この2つの発言に関して,街でインタビューされた一般市民は特に驚いた表 情も見せなかった.中には「総統は本当のことを言っているだけだ」とあっさり答えた市民もいた.
2014年11月末,筆者は32年ぶりに台湾を訪問した.現地の有識者と話した時,ある大学の教授は,
35歳以下の若者の中で,自分を「中国人」だと思う者はいないだろうとはっきりと言った.なぜ,そ うなったのか.中国大陸ではこれは李登輝の12年間,民進党陳水扁の8年間の政権の下,台湾本土化 を進めた結果ではないかと解釈する.しかし果たしてそうだろうか.1992年以来,台湾住民のアイデ ンティティーを調査している台湾国立政治大学選挙研究中心が,2014年7月に発表した1992年から 2014年6月までの住民のアイデンティティーの変化は,次の表1の通りである37.
54 3 57.1
60.4 60.0
70.0
41.1 45.0
44.2 43 7 48.4
51.6 52.7 52.254.3 57.1
60.4
46.4 44.6 47.0 49.3 41.4 39.6
42.5 44.1 43.1 43.7 43.3 47.7
43 4
44.9 44.7 43.1
39.8 39.8 40.338 5 50.0
60.0
34.0 36.2 39.6
36.9 41.6 41.2 42.5
41.1 44.2 43.7 44.6
41.4 39.6
42.5 44.1 43.1 43.7 43.3
43.4
44.9 44.7 43.1
39.8 39.8 40.338.5 35.8
32.7
25 5 26 2 30.0
40.0
17.6 20.2 25.0 24.1 25.5 26.2
20.717.6 19.2 16.3 12.1 12.5
10 6 20.0
30.0
16.3 12.1 12.5
10.6 9.2 8.3
6.2 7.2 6.3 5.9
4.1 4.4 3.8 3.9 3.6 3.8 3.4 10.5 8.9
7.3 9.0 5.3 7.8
5.8 6.5 4.7 5.8 4.7 5.0 4.4 4.6 5.4 4.1 4.4 3 8 3 9 3.6 3.3 3.5 0 0
10.0
3.6 3.4
8.9 7.3 9.0 5.3 7.8
5.8 6.5 4.7 5.8 4.7 5.0 4.4 4.6 5.4 4.1 4.4 3.8 3.9 3.6 3.3 3.5 0.0
台湾人Taiwanese 都是Both Taiwanese and Chinese 中国人Chinese 無反応Non Response 台湾国立政治大学選挙研究中心
この表の数字を見ると,1992年~ 2000年の李登輝の任期中に,自分は台湾人だと思う住民は17.6%
から36.9%までに高まっている.2000年~ 2008年の陳水扁の任期中には,36.9%から48.4%まで高まっ た.この2つの数字だけを見ると,確かに大陸側の解釈は的中しているかに見える.だが,その後,
親中路線を取った国民党馬英九の2008年~ 2014年の数字を見ると,48.4% から60.4%まで増加してい る.つまり,国民党の馬英九の6年間の任期中でも自分は台湾人だと思う増加率は12% なのである.
この数字は民進党陳水扁8年間の増加率11.5% よりも高い.年数で平均すれば,年間2% の増長率で ある.陳水扁任期中の年間平均増長率1.4% より,遥かに高いものである.要するに,与党・総統は 国民党であろうと民進党であろうと一切関係なく,住民の台湾人意識は年々増加しているのである.
2014年6月現在の数字を見ると,自分は台湾人であって中国人ではないという比率が60.4%であり,
6割を超えた.だが,自分は台湾人であり,中国人でもあるという比率も32.7%であり,3割を超え ている.一方,自分は中国人であり,台湾人ではないという比率は僅か3.5%にすぎない.ただ,無 回答の比率も3.4%あった.
こうした台湾住民のアイデンティティーは,いったいどのような内実を反映したものなのか.
表1 台湾民衆台湾人/中国人認同趨勢分佈(1992 ~ 2014.06)
Changes in the Taiwanese/Chinese Identity of Taiwanese as Tracked in Surveys by the Election Study Center,NCCU(1992 ~ 2014.06)
2.中華文化の受容とその変化
台湾は戦後,一時的に文化の断絶が生じた.1945年10月25日,台湾人はこの日を境に日本人から中 国人に変えられたことによる.もともと,多くの台湾人は家族と台湾語で話すことはあっても,教育 は日本語で受けたため,台湾語よりも日本語に慣れ親しんでいた.国民政府は,最初台湾住民の日本 語使用に対して寛容であった.また,台湾省国語推進委員会の提案では,方言の台湾語を媒介として 徐々に国語(北京語)に慣らせるという案であった38.それまでは,日本語・台湾語ともに使用を禁 止しない方針だったのである.しかし,1950年代に入ると,政府は日本語を排除する政策を先行させ た.日本語の新聞・書籍の発行を禁止し,学校では国語(北京語)による直接教授法を命じた.公の 場でも国語を使用するのが,原則となった.
強行的に日本語を排除しようとする国民政府は,国語(北京語)のできない台湾住民に対して国語 教育を積極的に行わなかった.1920年代に生まれた日本語世代は,国のこのような政策によって社会 で辺縁化されて行く.彼らは上の台湾語世代と下の国語(北京語)世代の狭間に置かれ,両者との間 に文化の断層ができた.北京語ができない彼らは,同じ世代の中では依然として日本語を共通語とし た.つまり,彼らは国民政府によって過去に閉じ込められた世代だといってよい.そんな彼らが,今 でも自分たちと言葉や意志の通じやすい日本人・日本社会に対して,懐かしさを感じても至極当然で あろう39.
戦後,国語(北京語)教育を受けた第一世代は,本省人・外省人を問わず,直接教授法を受けたこ とで彼らの母語は中国語となった.この世代は,政府の「国語」を尊ぶ方針もあり,努めて純粋な北 京語を喋ろうとした.台湾語は方言として一段低く見られ,訛りのある国語は「台湾国語」と嘲笑さ れたりした.
だが,訛りがあってもこの世代は直接法で国語(北京語)を教えられ,教育された.彼らは日常生 活の中でも国語を普通のように話している.国語は母語のようになった.その子と孫の世代もそうで ある.権威主義体制時代に台湾で推し進めた国語(北京語)と中華文化は,台湾では根を下ろしたの である.もっとも,台湾と中国大陸は数十年にわたって隔離されたため,台湾で根を下ろした国語・
中華文化は独自の変化を遂げたことも事実ではあるが.
もともと台湾は多文化社会である.様々な文化が台湾には齎されてきた.それらの文化は,言葉と して残るものも多い.台湾語の中には原住民の言葉,スペイン語,オランダ語,日本語或いは英語な どが入り混じっている.民主化後,表現が自由になると,台湾語に残っていたこれらの言葉も国語化 された.現在台湾の国語の中で中国大陸の「普通話(共通語)」にない,或いは意味が異なる漢字語 彙は3,000語を越えると推測される.
中国大陸と異なる語彙が増えただけではなく,構文にも変化が現れた.台湾で喋る国語をよく聞く と,「啦」「喔」などで終わる音が多い.実はこれらの語尾用語は,もとは台湾語である.現在の台湾 ではそれが国語の一部となった.例えば「早くしろ」という時,台湾人は「快点啦」というが,中国 大陸ではただ「快点」と言うだけである.「快点啦」の「啦」は,台湾語である.つまり,国語(北京語)
は台湾で使えば使うほど,その発音・構成も台湾化されたのである.このような表現は,蒋介石親子
の権威主義体制時代であれば,「台湾国語」として笑われ,日本植民地時代なら処罰の対象となった はずである.
『台湾人生』の中で宋定国は,子供の時,「はやくら」と言うと,校長に呼ばれ,「もう一回言ってみろ」
と言われて頬っぺたを捻られたそうだ.「はやくら」の「ら」は,先述した台湾語の語尾でよく使わ れる言葉「啦l a」である.その「ら」は,日本語としては余分なものであり,日本語の純粋さと正しさ を壊したため,宋定国は仕置きを受けたのである.今日,台湾語の「ら」は「啦l a」という漢字で国語 の中で市民権を得て,普通に使われている.笑われたり,処罰されたりすることは現在ではあり得ない.
1980年代末,民主化後に生まれた第三世代は,生まれた時,すでに台湾社会は中華文化の影響を受 けながらも,台湾独自の文化を構築していた.彼らは,多文化を吸収して形成されたこの新しい文化 に価値を置いたため,中華文化は相対化された.確かに中華文化は伝来した文化の中でもっとも影響 が大きいが,台湾文化のすべてではない.第三世代にとって中国は郭松棻或いは侯健德のように「夢」
に出てくる祖国ではなく,実在している大国である.
1980年代以降,大陸の中国は急激な経済発展を遂げ,政治面だけではなく,経済面においても大国 となった.台湾は中国に対して常に政治的・軍事的には劣勢の立場にあった.かつて1996年に総統の 直接選挙が実施された当時,中国は台湾海峡にミサイルを発射し,威嚇し,阻止しょうとした.また,
中華人民共和国が台湾は中国の一省だと主張することで,台湾の「中華民国」の名義,或いは「台湾」
名義での国連再加盟申請は,叶えられないままにある.中国は台湾住民を「台胞」と呼びながら,台 湾を国際的な組織から追い出し,孤立させた.これらのことを幼い時から目にした林飛帆らの第三世 代は,中国に対してアイデンティティーを持とうとしても,不可能なことが分かるだろう.
先の台湾の有識者が35歳以下の台湾人に,自分を中国人と思う人はいないだろうと発言した根拠は ここにある.
おわりに
筆者は1990年代にアメリカのカリフォルニア州を訪問したことがある.ここは国民政府の高官たち が退職後,よく移住するところでもある.彼らは中華民国政府の総統に,本省人の李登輝が就任した ことに違和感を持ったようだ.元高官たちが,李登輝の総統就任演説にけちを付けたとの話を現地で 聞いた.
李登輝は1920年代生まれの日本語世代である.彼は戦後に台湾大学に入学し,中国語教育も受けた 人ではあるが,日本語の方が得意だといわれる.蒋介石親子の権威主義体制下で政権運営を独占して きた外省人高官からすれば,日本語・台湾語訛りの国語は耳障りに聞こえるらしい.政治大学選挙研 究中心の調査で,「自分は中国人であり,台湾人ではない」とする3.5%の住民は,これに類した背景 を持つ人が多い.
2000年に中華民国の総統に就任したのは,1950年生の台南市出身の陳水扁である.彼は戦後生まれ の世代である.陳水扁の就任演説は,日本語の訛りこそがなかったものの,台湾語訛りの強い国語で
あった.権威主義体制の時代であれば,彼の国語は間違いなく「台湾国語」と嘲笑されたはずだ.こ れに対して,2008年に中華民国の総統に就任したのは,同じく1950年生まれの馬英九である.馬英九 は外省人であり,家でも国語を話しているため,彼には台湾訛りはまったくない.
日本語世代の李登輝,戦後生まれの本省人陳水扁,外省人馬英九が,相前後して住民の直接選挙に よって総統の地位についた.これは台湾社会が,すでに異なる文化背景の日本語世代・外省人・本省 人のすべてを受け入れる,多文化社会にまで成長したことを象徴的に物語る.
馬英九は選挙の時に,民心を得ようとたくみに台湾語を使って演説を行った.本省人は,政府の教 育政策で国語を覚えたが,外省人の台湾語は自ら習得したものであり,彼らの台湾社会に溶け込もう とする意志の表れでもある.1998年の台北市長選で,馬英九を応援しに来た李登輝は,彼の手を挙げ て「数百年前であろうと,数十年前であろうと,台湾に来た者はみんな台湾人だ」と叫んだ.この新 台湾人の定義は,多くの台湾人の心を掴んだ.1990年代以後,台湾人としてのアイデンティティー は,この本省人・外省人などのすべてを含む新台湾人ではないだろうか.そうでなければ,1992年か ら2014年まで僅か23年間に,自分は台湾人だとする比率が17.6%から60.4%まで劇的に増加すること は不可能だろう.
台湾人としてのアイデンティティーが高まる一方で,権威主義体制時代に台湾で行った中華文化の 復興運動と国語教育は,蒋介石親子の時代だけではなく,現在にいたっても継続中である.ただし,
その中華文化は今や本土化し,台湾文化に内在化した.政治大学選挙研究中心の調査で,3割以上の 住民が自分は台湾人であり,中国人でもあると主張するのは,自分たちの生活文化に入り込んだ中華 文化にアイデンティティーを感じるからである.決して「中華人民共和国」に対するアイデンティ ティーではない.
また,太陽花学運(ひまわり運動)の時,学生たちが台湾語で熱唱した「島嶼天光」は,高雄バンド「滅 火器楽団」40の楊大正が作詞・作曲したものである.運動に参加した学生たちは「島嶼天光」を歌う前に,
現場のリーダーによって何度も何度も台湾語の歌詞を繰り返して練習させられた.学生たちが,台湾 語に不慣れなことが原因の一つのようだ.台湾人アイデンティティーの強い世代にあっても,台湾語 よりは国語の方に慣れ親しんでいるからである.
また,調査の中で無回答の比率は3.4%である.90年代に調査が始まった時は10.5%であったが,
2014年には3分の1の3.4%まで減少した.これらの3.4%の人が無回答を選ぶ原因はいろいろと考え られるが,アイデンティティーの設問に,自分のアイデンティティーと一致する選択肢がないことに も起因するではないかと考えられる.多文化社会の台湾におけるアイデンティティーの複雑さの表れ でもある.
注
1)台湾では蒋介石・蒋経国親子の統治時代を「威権時代」と呼んでいる.独裁や専制の政治体制ではないが,
実質的に政治権力は蒋介石親子と少数のエリートに集中していた点に,この時代の特徴がある.
2)1945年10月25日以前から台湾に住んでいた漢民族.注11参照.
3)『台湾新報』明治30年(1897)2月22日の記事によると,この年の5月8日は国籍選択の最終日とある.
4)この時,台湾,澎湖諸島から出て行った住民は5,460名で,人口の2パーセント弱にすぎない.
5)陳培豊『「同化」の同床異夢 日本統治下台湾の国語教育史再考』三元社:東京,2001年.315.
6)内地人とは戸籍法(明治31年法律第12号)の適用を受ける国民である.本島人・蕃人は日本国民ではあるが,
戸籍法の適用を受けざる者と定義している.
7)械闘とは多くの場合,土地の分配や水利の権利,廟寺の建立に由来する意見の対立から武闘へと発展したも のである.
8)械闘の参加者は出身地で分けるので,「分類械闘」ともいう.
9)漳州も泉州も福建省(閩)の南部にあるため,この新しい福建語は本来「閩南語」と呼ばれるべきだが,台湾で は「台湾語」と呼んでいる.
10)具体的な数字は102万人程度.若林正丈『東アジアの国家と社会2 臺灣分裂国家と民主化』東京大学出版会:
東京,1992年.58.
11)1946年1月の中華民国行政院訓令により,区別された.
12)2.28事件とは,1947年2月28日に台湾台北市で発生した本省人と外省人との抗争.その後,台湾全土に広がっ た.犠牲者の人数は,台湾行政院1992年の『二二八事件研究報告』によれば,18,000 ~ 28,000人である.
13)葛超智(George H. Kerr)『被出賣的台灣(Formosa Betrayed)』前衛:台北,1991年.
14)「軍・公・教」とは,軍人,公務員,教員である.蒋介石とともに台湾に来た人は,軍人・公務員,教員が多 く,台湾でも同じ仕事に従事した.また,国民党政府が台湾で実施する公務員試験も,外省人が合格しやすい ように仕組まれていた.軍人なども退職後に公職に転任する人が多い.台湾出身者は2・28事件以後,政治に対 する強い恐怖感を持ち,政治から遠ざかる人も少なくなかった.
15)統治者側には外省人が多いこともあり,外省人と本省人は統治者と被統治者のような構図となった.また,
外省人の中には国民政府寄りの人が多いことも事実である.
16)陳培豊,前掲書,第二章.
17)当時,日本人児童は小学校,台湾の漢民族の児童は公学校,原住民は蕃人公学校へという隔離教育を行ってい た.小学校に入学した台湾人児童柯文徳を退学させた実例もある.NHKスペシャル・シリーズ JAPAN デビュー
「アジアの一等国」「台湾編」2009年4月.
18)陳培豊,前掲書.354.
19)「台湾同化会」は,台湾人の日本への同化を目標として掲げたが,日本人との平等な待遇を求めたことも事実 である.成立後,総督府による猛烈な弾圧を受け,僅か1ヶ月存在しただけで1915年1月26日に総督府の命令 で解散させられた.
20)呉密察監修・横澤泰夫編訳『増補改訂版台湾史小事典』「内地延長主義」中国書店,福岡,2010年.178.
21)新「台湾教育令」の規定では,中等以上の教育機関(師範学校は除外)は台・日人の差別待遇と隔離教育をなく し,同一の教育法令の規範を遵守する.台湾の中等以上の教育機関は日本国内の制度に照らして設立するとあ る(前掲『増補改訂版台湾史小事典』参照).
22)日本語世代とは,戦前日本語教育を受け,日常生活においても日本語を話す世代.
23)中村輝夫(1919 ~ 1979)台湾原住民アミ族出身.元日本兵.1974年にインドネシアのモロタイ島にて発見さ れた.
24)国民政府は1950年代から1960年代にかけて,共産党員或いはその同情者を検挙することを口実に,多くの知 識人を政治思想犯として逮捕・投獄したり,処刑したりした.その中には無数の冤罪事件が含まれる.
25)グアン直接法とは,フランソワ・グアン(仏人)が行った翻訳を経ずに直接身体で物事を覚えるようにする 言語教授法である.
26)松永典子「「国語」教育から「東亜の日本語」教育への道一植民地・占領地の日本語教育-」九州大学日本語
教育研究会『日本語教育研究』1997年.71-88.
27)郭松棻は21歳の時から小説を書き始めた.処女作「王懷和他的女人」『大學時代』第10期,1958年4月.
28)『台湾作家全集 郭松棻全集』前衛:台湾,1993年.249-255.
29)注27前掲書,3-30.
30)1973年に当時の行政院院長蒋経国の下で,十大建設の計画が建てられた.
31)侯健德は2か所を修正した.1989年に「四面楚歌是姑息的劍」を「四面楚歌是独裁的劍」に,「黑眼睛黑頭髪 黃皮膚,永永遠遠是龍的傳人」を「不管你自己願不願意,永永遠遠是龍的傳人」に改めた.
32)注10若林正丈前掲書58ページを参照.
33)臨時條款の正式名は「動員戡乱臨時條款」で,国民党と共産党との内戦時の1948年に臨時的に憲法に追加さ れた規定である.本来は臨時的,2年期限のものであったが,その後,修正を重ねて1991年に廃止されるまで 43年間存続した.この「臨時條款」の下,世界最長の戒厳令は38年間しかれた.
34)代表的な人物としては,馬永成,范雲,陳裕鑫,陳正然,林佳龍,羅文嘉,郭正亮,林昆澤,段宜康,顔萬進,
鄭文燦などがいる.
35)「服貿」は「海峽兩岸服務貿易協議」の略称である.学生はこの協議に関する審議が与党(国民党)によって 一方的に打ち切られたことに反発し,反「服貿」運動を起こした.
36)党外人士とは,権威主義体制時代に「独裁反対・民主自由化の実現」を目標に活動していた国民党以外の政 治組織,又は個人を意味する用語である.
37)資料来源,台湾国立政治大学選挙研究中心.
38)菅野敦志「台湾における「本土化」言語政策~単一言語主義から郷土言語教育へ~」『アジア太平洋研究』
NO.12,2009年.223-249.
39)前掲『台湾人生』参照.
40)「滅火器楽団」は台湾では数少ない台湾語で流行歌を歌うバンドである.
近現代臺灣居民身份認同的變化
王 霜媚 自1895年以來,臺灣居民在日本51年間的殖民統治下,被嘗試同化為日本人.1949年中 華民國遷移到臺灣以後,為維持住中華民國的法統地位,以復興中華文化,維持中華文化道 統為己任.臺灣居民又開始被改造成中華民國國民.三番兩次的國民改造運動,使得居民間 不但產生文化斷層,也造成了居民對自己身份認同的混亂.本文以1920年代出生的「日本語 世代」,及戰後接受國語教育的三個世代為對象,來分析此一問題.