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翻訳 ヤ ン・デニ ュ セ『ア ン ト ウ ェ ル ペ ン の ア フ リ カ 交易』(1) ─『第6章「ア

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(1)

 Ⅰ はじめに

 どのような研究分野でも、新旧に関わりなく参照されるべき研究文献がある。とりわけ歴史的研 究においてはその感を深くする。筆者が歴史研究に携わるようになって30年以上が経過するが、中 世末から16世紀のアントウェルペン史研究において、忘れられない何人かの歴史家の名前を挙げる ことができる。とくに、1920年代、30年代のいわゆる大戦間期に活躍した歴史家のなかに印象深い 人々がいる。この時代のヨーロッパ世界は、激動の時代であるとともに、文化・学術面においては

「黄金の20年代」とも言われてきた、きら星のような人々の活躍があった。こうした点は、アント ウェルペン都市史、経済史の研究についても当てはまるように思われる。本稿は、こうした筆者の 想いをデニュセJan Denucéの研究を足掛かりにしながら、確認する作業である。

 この時代でいえば、ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌが有名である。彼について佐々木克己氏 の克明な評伝がある。ピレンヌは、ワロン系(フランス語系)の歴史家であり、ヘント(ガン)大学 の学長になりながら、当時のフラマン(オランダ語)運動伸張の中で自らの大学がフラマン系(オラ ンダ語系)大学に変わっていく姿を目にしなければならなかった。

 本稿で取り上げるヤン・デニュセ(Jan Denucé)を初めとして、レイモン・ド・ルーヴァー

(Raymond de Roover)、ファン・ウェルフェーケ(Van Werveke)、フロリス・プリムス(Floris Prims)、J.A.ゴリス(J.A.Goris)、ヴァン・ローゼンブルック(Van Roosebroeck)などアントウェ ルペン史研究にかかわったベルギーの歴史家、クットナー(E.Kuttner(1)のようなオランダの歴 史家はどのような境遇の下でこの厳しい時代を送ったのであろうか。ド・ルーヴァーは会計史、メ ディチ家研究で知られている。彼はベルギーで銀行家として活躍した後、歴史研究の道に入った が、やがて米国に渡りニューヨークで学究生活を送った(彼の妻はこれまた歴史家として知られる フロレンス・エドラー(Florence Edlerde Roover))である。

 

 彼ら大戦間期に活躍した人々の業績は、アントウェルペン史研究には不可欠である。第二次世界 大戦の足音が忍び足でやってくる時代、小国のベルギーやオランダは時代の荒波に翻弄され続け

翻訳 ヤン・デニュセ『アントウェルペンのアフリカ交易』(1)

─『第6章「アカ植民地市場とン」』─

中 澤 勝 三

(2)

た。20世紀の偉大な歴史家ヨハン・ホイジンガはドイツの収容所で生涯を終え、ユダヤ系フランス 人のマルク・ブロックは一人アメリカへ亡命する道を選ばず、ゲシュタポによって銃殺された。ア ンリ・ピレンヌもまた、ワロン人でありながら自らが学長を務めるヘント大学がフラマン語系の大 学に変わって行くのを目にしなければならなかった。(2)

 筆者が本稿で取り上げるのは、アントウェルペンの国際交易史の研究において、最も高く評価す べきと考える、ヤン・デニュセの業績である。彼は、アントウェルペン市の古文書館員としてのポ ジションを維持しつつ、対南欧交易、対アフリカ交易、ハンザ圏との交易について史料を紹介し、

研究を進めている。その白眉は、1937年刊行の『16世紀のアフリカとアントウェルペンの交易』(ア ントウェルペン、1937年)ではないだろうか。対南欧交易史という点では、ゴリスの『南欧商人コロ ニー』(3)が有名である。ア トウェルペン経済史研究の礎石を築いたのがこの二つの研究であろう。(4)

 以下、注は最小限にとどめ、訳文の巻末に収録した。原注は省略した。すべて、訳者による注で ある。また、本書が刊行された1937年という時代的制約もあって、「われらが同朋」などの現代では そぐわない訳語を当てた部分もあるが了とされたい。今回は第6章を邦訳し、次稿では、5章まで の部分を邦訳する。本文読解に必要な注は次稿にまわした。

(1) 筆者は、1981年にベルギーに滞在した折、ブリュッセル自由大学のモーリス・A・アルヌール教授の指導 を受けた。アルヒーフ所蔵の古文書読解の基本的事項を教えて頂き、現代フランス語への読解の教授を終 了して、「あとは自分でアルヒーフに行きなさい。不明な点は館員に尋ねるように。」と指示されたあと、教 授は大学図書館の地下に筆者を連れて行き、壁面に書かれた戦死者の名簿を指さして、「この大学の第一次 大戦での死者の名前です。」と戦争の惨禍は歴史的文書にまで及んでいることを指摘されたことが強く印象 に焼き付いて離れない。

(2) クットナーには、『飢饉の年、1566年』という著書がある。1949年刊行。クットナーは、デニュセとほぼ同 世代であるが、1942年10月、「逃亡」のかどで殺害された。彼はマルクス史家であったが、ドイツからアム ステルダムに移り、16世紀の経済・社会的状況を踏まえて革命的情況の展開を研究した。これは同時にア ントウェルペン史を画す「聖像破壊運動」の研究ともなっている。Erich Kuttner,Hethongerjaar1566, Amsterdam,1949,1979.研 究 の 概 要 に つ い て は、ヤ ン・ロ メ イ ン の 解 説 に よ る。Jan Romein“Erich Kuttner”,ibid.

(3) J.A.Goris,Etudesurlescoloniesmarchandesméridionales(Portugais,Espagnols,Italiens)à Anvers de1488 à 1567.Contribution à l’ histoire desdebutdu capitalism modern,Louvain 1925.

(4) スタンダードな研究では、本書刊行後30年近くが経ってもなお本書への参照が求められている。

   Ⅱ

 ヤン・デニュセは1878年3月に生まれ、1944年11月に没している。彼はアントウェルペン市の古 文書館員で、同時にプランタン・ミュージアムの館員であった。

 彼には主要な研究として下記の業績が知られている。

(3)

InventairedesAffaitadi,banquiersitaliensa Anvers,delannee1568,Anvers,1934,264p.

(Collection de documentspourservera l’ histoire du commerce,PublieesparJ.Denuce,sous le patronage de la Chambre de commerce d’ Anvers.I).『アファイターディ家目録。1568年のア ンヴェルスのイタリア銀行家』

Italiaanschekoopmansgeslachten teAntwerpen in deXVIe-XVIIeeeuw,Amsterdam,1934.

181p.(De wetenschappelijke bibliotheek.Rubriek:Algemeene geschiedenis.Onderleiding van J.-A.Goris).『16〜17世紀アントウェルペンのイタリア商家』

LAfriqueau XVIeetlecommerceanversois,avecreproduction dela cartemuraledeBlaeu- Verbistde1644,Anvers,1937.120p.(Collection de documentspourl’ histoire du commerce. II)(筆者未見)筆者の利用したのはオランダ語版、マイクロフィルム。『16世紀のアフリカとアン. ヴェルスの交易』Afrika in de XVIe eeuw en de handelvan Antwerpen,Antwerpen,1937.『16 世紀のアフリカとアントウェルペンの交易』(以下このオランダ語版を『アフリカ交易』と略記)

Le Hanse et les companies commerciales anversoises aux Pays Baltiques (Collection de DocumentspourL’ histoire du Commerce 3),De Sikkel,Anvers,1938.XXXII-160p.『ハンザと バルト海地方諸地域とのアンヴェルス通商企業』 

Koopmansleerboeken van de XVIe en XVIIe Eeuwen in Handschrift, Brussel, Paleis der Academien,1941,213pp.『16・17世紀の手書き商人指南書』

 これら5点の著作のほかにも相当多数のフランドル絵画に関する著作、マガリャンイシュ(マ ジェラン)に関する研究が知られているが、上記5点についていえば、①、④、⑤は史料集として 見る事が出来、いずれにも解説が付されている。①はデニュセのものとしては比較的著名なもの。

アファイターディ家の財産目録。④は、アントウェルペンのナルヴァ会社会計簿、バルト諸地方会 社の会計簿、ストックホルム・リガ遠征日誌などの史料を収録している。⑤は、当時の商人指南帳 などを収録したもの。

 また、②はデニュセの他の著作と異なり、注記もなく、また史料も付しておらず、概説書的な体 裁を取っている。ここで取り上げられたイタリア商家は、グアルテロッティ、フレスコバルディ、

ドゥッチ、ルッカの商家(ボンヴィシ、アルノルフィニ、バルバニなど)、アファイターディ、スピ ノラ、グリマルディ、パラヴィチニ、イヌレア、プローリ)である。アファイターディについて最 多のページが割かれている。

 以上、いずれも16・17世紀のアントウェルペンの対外貿易の実態を知る上で貴重な情報を提供し

(4)

てくれるものであるが、本稿ではこのうち、③のオランダ語版の第6章を翻訳した。というのは、

この著作こそ、アントウェルペン交易史研究の今日につながる出発点と筆者が評価するものだから である。その一つの証左として本書刊行後約20年後に出版されたデ・プラダのルイス家文書の史料 解説において、デニュセ(①〜④)とゴリスの研究が頻繁に取り上げられている。(5)

(5) de Prada,Vazquez,Lettresmarchandesd'Anvers,I,passim.Paris,s.d.

   Ⅲ

 以下、デニュセの『アフリカ交易』を取り上げ、その研究内容の概要を紹介する。

 『アフリカ交易』の内容を章別構成で示すと、下記のようである。

  序

 第1章 北アフリカ   第2章 アフリカ諸島

 第3章 黒アフリカとギニア湾  第4章 コンゴとアンゴラ  第5章 南 及び東アフリカ

 第6章 アントウェルペン、アフリカ植民地市場  第7章 1644年の壁かけ地図Wandkaartとその製作者   付録

となっている。第2章「アフリカ諸島」とは、マデイラ島、カナリア諸島、カポ・ヴェルデ諸島、及 びそれらの島々との交易が取り上げられている。砂糖産業が奴隷交易を起こしたことも論じられて いる。

 筆者の関心では、第3章で取り上げられる「ブラック西アフリカでの銅、象牙交易」、「スヘッツ 家とアフリカ交易」、第4章での「熱帯アフリカの経済ファクターとしての銅、奴隷交易」が重要で あるが、最大の関心は第6章「アフリカ植民地市場としてのアントウェルペン」である。

 以下、本書第6章を訳出する。(注( )表記は原書での節題に相当するもの。)

 Ⅳ

第6章 アフリカ植民地市場、アントウェルペン

(16世紀の2つの植民地帝国)

 16世紀が進むにつれて、ヨーロッパの経済的重心は東から西へ、内陸部から海洋へと移って行く。

(5)

広大な東方への陸路はいまだイスラムによって閉ざされていた。とはいえ若い西洋の諸国にとっ て、新たな世界が切り開かれた。ローマの軍団がそうであったように、ポルトガルとスペインの騎 馬団は新しい植民地帝国を建設していく。一つの帝国は、皇帝カールの下で、クリストフォロ・コ ロンブスが発見した地域を、もう一つには、国王マヌエルの下で、ほぼアフリカのすべてと、ブラ ジル、極東が属した。両国のうちでどちらがより強力であったかは確言しがたい。1494年のトルデ シリャス条約によってこれら二つの勢力圏を定めている。そこではアフリカの分割をも規定してい た。モロッコのフェレスから東への地中海岸はスペインに属した。フェレスから東の地域はポルト ガルに属する。

(アントウェルペンの交易の国際的性格)

 リスボンとセヴィーリャは二つの植民地帝国の物産をヨーロッパに入れる門であった。とはい え、ヨーロッパ政治の発火点はそれより北側にあった。われらが17州から成るネーデルランドはス ペインとポルトガルを併せて有する一つの王朝の統一体を形成していた。これら3つの国ぐには ヨーロッパ諸国の結びつきにとって一つの理想的な核であった。通商と統治が結びつき、経済全体 が政治的判断を決着させる時代が到来したのである。金融・及び通商分野での「事業」が大きな力 となってきた。16世紀の国際的取引所としてのアントウェルペン市場を研究することは、新たな時 代の精神を映し出すということなのである。スヘルデの都市においては、ポルトガルとスペインの 商人は数の上では、イングランド、ドイツ、イタリア、それにわれらが同朋に匹敵するものである。

このような状態はこれまで生じたことはなかった。アムステルダムでは、のちのロンドンでも、実 業の世界では国民的要因が重要なものとなっていた。アントウェルペンでは、外国の商人の民族団 が市場を支配した。そこではポルトガル商人は商館を有し、イングランド商人は彼らの取引所を、

ハンザは記念碑的な東方館を持っていた。また、ヘッセン館は、中部ヨーロッパとの間の陸上交易 に使用されていた。そして、こうした諸制度を越えて、1531年の国際的な商業取引所が「すべての 諸国民に仕え、すべての言語で使われる」という性格を第一に掲げて建設された。グイッチャル ディーニは、外国人は世界のどの地におけるよりもアントウェルペンにおけるより自由を享受でき るところはない、と言っている。

 南欧の、北欧の、それに国家的な要素がきわめて大きなものになってきているとはいえ、物質的 な財貨をめぐる闘いが繰り広げられた。共同事業において、独占で、原料の購入において、植民地 産物の販売において、あらゆる要素が作用していた。ここでは、航海、造船、保健制度などの実践 的な学問が評価されている。産業は大きく輸出へ向けられていた。ここではアントウェルペンでの 多様で強力な産業について精査することはできないが、それはまさしく新しいカルタゴとも呼ばれ るものであった。16世紀のスヘルデの都市は、最も重要なヨーロッパの市場へ成長し、そして第一 の植民地市場となったことが確認されるのである。われわれがさらに追及するのはこの第二の点で

(6)

ある。

(第一級のアフリカ植民地市場、アントウェルペン)

 現代語でいえば、16世紀のアントウェルペンを輸出入同時の植民地市場と呼べるだろう。アフリ カの産物は諸島と北アフリカからその地に直接持ち込まれる。間接的には、リスボンを経由してブ ラック西アフリカから産物がもたらされるが、それは黒い地域(アフリカ大陸のこと)に向けて最 も重要な交換手段を得るためであった。このようにしてこの都市はその市壁内に二つの大陸の原料 を受け入れたのである。一部はそこで消費するために。そして大部分は外国の市場へ向けて売り出 すために。アントウェルペンは、植民地産物の再配分、あるいは分配の中心地であった。その有利 な地政学的位置は十分な価値を持つこととなった。(つまり)完全に自由といえる港、内陸部から離 れていて、イングランド、ドイツ、フランスの港、バルト海岸から等距離にあること、それに様々 な需要を有する稠密で、活発で、文明化した人口を有する後背地を持つことである。この後背地と の交流は活発で規則的な植民地物産の供給、多数の航路との結合、河川・陸路の容易なシステムを 促した。供給側の間の交渉は迅速になされる必要があり、また利用可能な資本がなければならな い。良好な取引所と銀行制度、要するに商業上の伝統が必要であった。リスボンもセヴィーリャも これらの条件を整えることは出来なかった。アントウェルペンはその全てに応えたのであった。こ れらの諸要素の存在とその支配者の広汎な知見のお陰で、スヘルデの都市は原材料の第一級の市場 になり原材料の主要取引地に成長したのであった。そしてまた、それは、16世紀においてもっとも 主要なアフリカ植民地産物の市場となったのである。

(アフリカの原材料)

 これまでの章でわれわれは黒い大陸(アフリカのこと─注)から輸入される商品を知り得た。(こ の記述については次稿を参照されたい)第一の、そして最も重要な商品は砂糖であり糖蜜であっ た。それらは、大西洋の諸島から、北アフリカから、ギニアから、とりわけサン・トメからもたら された。アントウェルペンではいちはやく砂糖精製工場が建てられていた。港に沿ったところにあ る旧市街の砂糖通り、砂糖街といった街路の名称はこの商品の人気の高さを表している。これに対 して、バルバニ家やアファイターディ家の砂糖館はこの産業の大きかったことを想起させるもので ある。アフリカの産物と分類される、17世紀全体において、アントウェルペンの砂糖精製工場は、

アムステルダムやハンブルクのそれよりもずっと早くから存在しているが、これら二つの市場はア ントウェルペンの衰退から最大の部分を引き出した市場であった。われわれの古くからの商人の指 南書は次のような説明をしている。つまりハンブルクではアムステルダムでよりもその水が塩分を 含んでいないが、アントウェルペンの水は砂糖を精製するのにはアントウェルペンの水の方がハン ブルクのそれよりも甘い、と。

(7)

 要するに、アフリカの砂糖は、植民地物産の交易全般において、極東の貴重な香辛料に次いで第 一の地位に立つものである。それに次ぐのがギニアの胡椒とも言われるマラゲッタである。たしか に、インド産胡椒の輸入を妨げられないようにポルトガル政府の禁止措置があったにも関わらず、

大量のマラゲッタがアントウェルペンの取引所で取引されたのである。ポルトガルの代理人の帳簿 はこのような事例を明瞭に示している。ギニア、あるいは南アフリカの金は、われわれが知る限り 大きな事業にはならなかった。アントウェルペンは、奴隷交易の枠外にもあった。グイッチァル ディーニによれば、バーバリ(北アフリカ)は砂糖の他に次のものをもたらした。「アズール、ゴム、

coloquinten皮革、皮、それに美しく多様なplumaginプルマギン、などなど」と。同じ史料によれ ば、交 易 に お い て フ ラ ン ド ル と ポ ル ト ガ ル の 船 舶 は「多 量 の 銀、水 銀、vermilion朱、銅、

clockspyse(brons)それに真鍮、錫、鉛、武器、他の武器、糸状の金と銀」を積載していた。われ われはこれらの商品の最も重要な提供者を知っている。つまり武器と軍需品についてのリエージュ であり、加工された金と銀ではイタリア、銅と他の金属製品ではドイツがそれである。

 アフリカでスペイン領植民地へ向けて送付される商品も同じような性質をもつものであった。

「グイッチャルディーニは、要するにスペインの最大のものはここへ陸路で運ばれた。」)人びとは、

アフリカから戻される商品を販売するのを恐れなかった。当初、そうした様々なものをもたらし た。例えば1508年の最初のカナリアの砂糖の到着である。とはいえ、一般的には原材料がアント ウェルペンにある商社の手で輸出業者によってもたらされた。商品は、カサ・デ・ポルトガルで、

イングランド取引所で、国際取引所で生産者の代理人によって販売された。これら原材料はアント ウェルペンの産業によって使用されたのではなかった。それらはこの都市には一時滞在しただけ で、積み込まれるわけではなかった。そうした事情があるから、商人、あるいは領事の、あるいは 市当局によって新市区に建設された、周辺にある多くの倉庫や原料置場─1567年のハンザ館、

1567年のまだ現存しているヘッセン館があり、イングランド館はヴィーナス通りにあった─があ るのである。ほとんどの商社は自身の物置場と倉庫を有していた。

(ポルトガル商館(カサ・デ・ポルトガル)の役割)

 アフリカ市場にとって、アントウェルペンのポルトガル館は、最初の交易協定・金融協定に基づ いての場所であった。植民地物産がそこに受け入れられ、計量され、保管され、原産地の記号N.P.

(ポルトガル民族団)を付けられる場所であった。価格は、リスボンのカサ・ダ・インディア、ギ ニア・エ・ミナとの協定で定められた。われわれのアファイターディ家の研究によって、ポルトガ ル商館が用いた独占体制と販売の方法を詳細に追跡することができる。ルシタニアの国民がスヘル デの都市で享受した内容は明らかなように、アントウェルペンの慣習法に彼らの裁判権が挿入され た。この例外的な特権は多数の特権の一つであり、それによってポルトガルとフランドルの国民団 は相互に寄付行為ができ、また最も主要なものは、われらが商人がある条件を満たせばアフリカ事

(8)

業に参画できるというものであった。

 アントウェルペンの植民地市場はあらゆる変動をこうむってきた。その命運はポルトガル商館の 命運と結びついていた。最初のものは、1545年から1564年までのカサの閉鎖によって置かれること になる。これは、アントウェルペンの衰退が惹き起こされる大変な政治的変動の前夜のことであっ た。第二の打撃は、イスラムによる緩慢なる地中海の占領がアントウェルペン市場に与えたもので あった。皇帝カールによるトルコへの敵対と政策が勝利を得たとしても、経済的状況はわれらの国 にとって全く他にないようなものとなったのである。

 

(独占、植民地交易の特徴)

 われわれは、アフリカの天然産物の経営が独占によって生じたことを見てきた。すでに言及した ヒメネスの事例がこの点で典型的なものである。とはいえ、16世紀のカルテルと独占をもっぱら商 人による際限のない利潤獲得欲に帰するのも誤ったものとなろう。常に資金の欠乏にあえいでいた 政府と君主は交易のこうした組織を励ましてきたが、その理由は、価格を安定させ、彼らにとって の信用の源泉をそれに見出していたからである。ポルトガル国王と皇帝カールはワレランパ不利化 の独占・請負人を保護してきた。それは、ドイツ諸侯が南ドイツの銀行家に、銅、錫、水銀─そ の大部分のものはアントウェルペンの港を経由してアフリカへ運ばれていく─についての独占権 を提供してきたのと同様である。カルテルや独占価格に対する教会の申し立ては一般に政府によっ て冷たく扱われていた。

 16世紀からのアントウェルペンの海上保険の帳簿は貸借対照表を作成できるほどのものではない が、アフリカ交易の規模についてある像を描ける程度の貴重な情報をわれわれに与えてくれる。

データはアントウェルペンに係留されるか、あるいはアントウェルペンを目指す船とは必ずしも限 らない。海上保険の仲買人はその活動を全世界にわたって広げているからだ。彼らの保険証書は多 くの場合仲買人の商会によって裏書きされ、それはときには一つの船で百以上に達する場合もあ る。一般的に言って、それは相互保険に関係している。すなわち、各商人、ないし仲買人が同時に 保険業者であり、被保険者である場合である。両人とも、同一の危険にさらされ、また保険料は災 害が生じた場合にのみ支払われるものである。

(アントウェルペンの海上保険、アフリカ交易にとっての要因)

 われわれは、1560年のセント・ヤン号、700トンの重量、船長ブルッケのクラエス・ヤンセン・ベ リンゲンの海難事故調査を有している。この船はアントウェルペンを目指していてゼーラントに やってきた。この船の積み荷は20人の貿易業者に属し、アフリカと他の商品から成っている。積み 荷人の最初の名前は、バルタザールとコンラート・スヘッツであり、彼らは西アフリカへの銅の輸

(9)

出業者として知られている。アフリカの損なわれた商品として、以下の長いリストが挙げられる。

 

カナリア諸島の砂糖8キスト、キスト当たり15ポンド 榎榎榎榎榎 ディーリック・ディン所有  カナリア諸島の砂糖8キスト、キスト当たり15ポンド 榎榎榎榎榎 アントニス・マラパルト所有 ゴム、2カールト、35ポンドと見積もり 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 バルタザール・デ・ロア所有 オリーヴ油、4カールト、15ポンド見積もり 榎榎榎榎榎榎榎榎榎 アルヴァロ・ロイス、及び  榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 フェルナンド・ロイス所有  粉砂糖、1ボート(キスト)、及び 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 クリスト・ガレイス用の       1カールト、20ポンドと見積もり 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 ジェローム・ロペス所有   カナリア砂糖、3キスト、45ポンドと見積り 榎榎榎榎榎榎榎榎榎 ピィーテル・ソルブレーク所有 虫こぶ、6袋 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 ヤン・バプト・スピノラ所有 ゴム、4カールト 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 ピィーテル・オルテガ所有  粉砂糖、3パイプ 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 ロイス・アルヴァレス所有  サン・トメの砂糖、13キスト 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 ロイス・アルヴァレス所有  粉砂糖、3パイプ、1カールト 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 ミシェル・ディアス所有   サン・トメの砂糖、192ポンド10sの77キスト 榎榎榎榎榎榎榎榎 ミシェル・ディアス所有       〃    135ポンドの54キスト 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 アルヴァロ・ロドリゲス及び 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 フェルナンド・ロイス所有      〃    45ポンドの18キスト 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 ドゥアルテ・エンリケ所有      〃    282ポンド10s130キスト 榎榎榎榎榎榎榎榎榎 フェルェルナンド・デ・モントバン所有     〃    132ポンド57キスト 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 ロイ・ゴメス・カルバロス所有     〃    542ポンド10s217キスト 榎榎榎榎榎榎榎榎榎 マルティン・アロンソ所有      〃    192ポンド10s77キスト 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 ベルナルド・ヌネス所有       〃    52ポンド10s13キスト 榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 ヘロニモ・リンド所有    1013の角が104ポンド8シリングに達する。榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 ヤン・ファンデンボールデ所有

 積み荷人としてはもとより保険人においても、すべての民族が(ここに)代表されている。これ から、アントウェルペンの保険の体制は他のどこよりも確固としたものであったと、結論付けるこ とができる。こうした理由からわれわれはこの地を重要なものと見なせるのである。16世紀のアン トウェルペン植民地交易にとって、これまで忘れられていた要素に気づいたのである。

 グイッチャルディーニはアントウェルペンの交易についての叙述で、このメトロポールが最大限 繁栄した時期にその素材を集中した。彼の本が出版されたこの年、1567年に、アルバ公がネーデル ラントに現れた。動乱はその直後から始まった。公爵(アルバ公のこと─注)は、アントウェルペ ンの商業取引所が国王の財政に有する重要性をよくわきまえていた。

(10)

 彼が出発する直前の1570年に、よく承知していた。「この都市にいるすべての外国の民族団は、よ くもてなされ、また敬われるべきだ。そして、それは正しく、彼らがアントウェルペンを現在ある ように作ったからである。国々は流れ、そしてわれわれの富裕さをその商品とともにもたらしてく れる。だから、彼らは尊敬されるに値するのだ。そして、彼らに、とりわけポルトガル団に対して、

彼らがひいきされよく扱われることを言明する。なぜならば、私はスペイン人と同じようにポルト ガル人のことを考えているからだ。」と。

(アルバの到着によるアントウェルペンの経済的衰退)

 ポルトガルの交易を問題にする人は、そのなかにアフリカの交易を考えている。アルバ公はアン トウェルペン─これは普遍的な実業の中心地であり、国王の金庫の主要な源泉であり、とりわけ 保護しなければならない─を高く評価していた。このために、彼は海運と海上保険に関する1570 年の布告を発布した。彼は、これに対して、二つの税金─動産の販売への10%税、不動産に対す る20%税はすべて販売者によって支払われるべき税─を布告したときそれほどの霊感を感じては いなかった。長い熟慮の後で、彼は1571年にそれを実施しようと考えた。それがアントウェルペン の交易にとってとどめの一撃となったのである。多数の商人がこの都市を立ち去って行った。「陽 の下で雪のように白い」。こうしたアルバ公の二つの課税は人々がのちに考えるような宗教的な問 題ではなかったが、それが反乱を喚起したのである。

 アントウェルペンの衰退がはじまった。これに続く年月はわれわれの歴史にとって最も騒がしい 時期となる。この年にアントウェルペンの交易の終わりが始まったのだ。災厄の後で、スペインと フランスの「略奪」で、商人の多数がこの都市から出て行った。ヘントとブリュッセルの事例にな らって、この都市はカルヴァン派の支配を受けた。ピレンヌが指摘したように改革派は労働者・貧 民の中に支配を確立していなかった。アントウェルペンでは多数の商人がカルヴァン派に傾斜して いった。南ヨーロッパの貿易商コロニーだけがこれに関わりを持たなかった。

(1584年のトルコ人のステープルとアントウェルペンのアフリカ交易)

 この時点で、一つの経済的要因がアントウェルペンで生じていた政治的社会的変動に関わりなく 将来を約束するものとして現れていた。スペインの敵であったトルコ人がこの都市のカルヴァン派 政府にスヘルデ都市に彼らのステープルを設置することを考えていた。新たな参事会は内部抗争を カトリックの牧師に知らせなかった。1580年になると、グラマイエによってアントウェルペンに、

アフリカ商人の民族団が言及されるようになる。(この設置に対する)スペイン人とポルトガル人 の抗議はカルヴァン派の教会にあまり大きな影響を及ぼさなくなる。トルコ人の提案も友好的で熱 狂的な歓迎を受けたわけではなかった。ここに留まった商人は、アフリカ、及び東方貿易がアント ウェルペンに集中されるのを見る以外に拍手できることはなかったのだ。それは、ウレム・オラ

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ニエの政策の成果の一つであった。

 これは、トルコ人と北アフリカ人の支持を一度ならず求めることであったが、80年戦争のきわめ て重要な局面でもあった。彼は長いことポルトガルのユダヤ人ドン・ミゲス(ジョセフ・ナシ)

─ナクソス公で太守セリムの顧問であった─と知己であったが、この人物は、トルコのステー プル(「指定市場と訳すことがある)をアントウェルペンに置くよう提案した人物であったろうと思 われる。その地では、重要なユダヤ人、新キリスト教徒の集団が、1564年以降になると、秘密のシナ ゴーグに住むようになっていた。

 とはいえ、アレクサンドル・ファルネーゼは、カロの地点でスヘルデ川に船橋を架け、スペイン 軍がこの都市をあらゆる方向から包囲するようになっていた。アントウェルペンは、孤立したまま の状態で、なお軍事史で有名な包囲戦を戦っていた。この都市が降服したのは8月17日であった。

スペインに敵対的な、あるいはプロテスタント勢力は、彼らの事業を整理するか、カトリックに改 宗するか、4年の猶予が与えられた。1584年7月10日にスヘルデ川のリーフケンスフックの協定に おいてすでに60人から70人という多数の商人がホラントに引き寄せられていた。多くの人はアムス テルダムに居を移した。だが、ミデルビュルフに何百人という亡命者がいた。市当局は、亡命者を 受け取るために何隻もの船を送った。そして官吏がブラバントの亡命者を記録するためにゴルス街 門に配置された。最初にやってきたのは、本来の改革派─前年の400人とは別に、1585年改革派教 会のメンバーとして挙げられた1155人がいるが─ルター派とマルテニステンであった。1586年に ミデルビュルフではわずか1100の亡命者が登録されただけであった。ムーシュロン家この数に数え られた。彼らはこの逆境の下で長く意気消沈することはなかった。ミデルビュルフから、フェーレ から、彼らはやがてアフリカの海岸に沿って船団を送り出すことになろう。前例のない意思の力を もって、スペイン人に対する憤りを以て彼らはアフリカ植民地市場へ短い年月のではあったが、わ れらが同朋の利益のためにポルトガル人から奪ったのである。そしてもう一人のアントウェルペン 人ウレム・ユセリンクスがいるが、彼は西インド会社を興し、アメリカに最初の植民地をつくっ た。彼は、ホラントの企業の多くが4つの大陸において設立された要素はすべてベルギー人による ものであると言明することになる。この人物から新しい血液が来て、その結果ホラントは若返り、

1世紀の間に小さな国から第一級のヨーロッパの国力を作り出したのだ。

(アフリカ市場としてのアントウェルペンの閉幕)

 ここまで来て、アントウェルペンのアフリカとの交易の覇権の章を閉じることができる。この黒 い大陸とのわれわれの経済的関係についてのさらなる展開を1648年のミュンスター条約まで簡潔に 要約してみた。他の商人たちは、スペインとポルトガルの王に忠実であったが、これらの強力の旗 の下でアフリカとの事業をイベリアの諸港から続けていた。ミュンスター条約の署名の際、ポルト

(12)

ガル当局は多くの地点に浸食された。暗黒大陸の三つの海岸はネーデルラント領になる怖れがあっ た。リスボンとアントウェルペンに代わって、アフリカの産物は直接アムステルダムに送られた。

もう一つのベルギー人が参加した困難な体験があった。それは1648年以後、北部ネーデルラント諸 州の商人がスペインで南ネーデルラントの同僚─スペインの側にあって宗教を捨てることのな かった人々─よりも大きな自由を得たということであった。

 にも関わらず、スペイン領アメリカの利益と必要を明らかにするために認可されない流れがあっ た。ヤン・バプティスタ・グラマイエは、1622年の彼の特筆すべき本の中で、アフリカをキリスト の名において征服し、スペインの保護の下に確保すべく全ヨーロッパにむけて不安をかきたてる使 命があると言明した。これらアントウェルペンの開拓者が長い忘れられた敬意を抱かれるようにな る。彼にとって、示された解決はアントウェルペンにとって経済的分野、数えきれない帰結、その 植民地アフリカ市場であった。

 16世紀にこれらの人々がもたらした流れがあったにもかかわらず、繁栄はまだ始まったばかりで あった。この世紀の後半に、数多くのスペインとポルトガルの商人が留まっていたし、そしてトル コのステープルが1584年にスヘルデの市門内に定着したとき、大胆な期待が排除されることになっ た。ファルネーゼの言はすべての計画と幻想を無にすることであった。パルマ公(ファルネーゼの こと−注)は、不透明な問題から一つの具体的な像を引き出すには、あまりにも国王に忠実であり すぎたのだ。

榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎 6章 終わり 

 Ⅴ

 以上、訳出したデニュセのアフリカ交易論は、15・16世紀におけるアントウェルペン市場の、今 日の研究状況でいえば、「形成されつつある近代世界システム」の形成過程でのアフリカ交易、及び それと結びついたスペイン・ポルトガルのイベリア両国の交易・商業活動のインパクトが問題にさ れている。当然、地中海交易圏を担っていたイタリア商人、さらにはトルコまで視野を広げ、対南 欧圏のインパクトが強調されている。ナクソス公となったドン・ミゲスは、16世紀前半において、

マラーノ(マラノス)、ユダヤ教から改宗した新キリスト教徒として、ポルトガルからアントウェル ペンに移住し、王侯まで手玉に取ったという強烈な人物であった。彼は、アントウェルペンから ヴェネツィア、そしてオスマン・トルコへと拠点を移動させ、地中海を隔ててキリスト教世界にま で関わりを持った。その彼が、この第6章において、1584年、スペインに攻略される寸前の呻吟す るかつての本拠地にトルコのステープルを置こうとする人物と目されているのは皮肉な巡り合わせ と言えようか。

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