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法 解 釈 の 客 観 性 と 科 学

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(1)

法 解 釈 の 客 観 性 と 科 学

  ポスト・モダニズムと法文化  

駒 城 鎮 一

1. 1 法的言明の解釈の必要性と科学 1. 2 法学という秘教的科学

2. 1 ローティのネオ・プラグマティズム 2. 2 ポスト形而上学的文化  詩化される文化 2. 3 詩化される文化における連帯と結合

2. 4 ローティのユートピア=詩化される文化社会と科学 2. 5 法解釈と文芸批評

3. 1 客観性と真理,ニーチェとローティ 3. 2 ポリフォニーとしての生

3. 3 法と宗教

3. 4 法解釈と法哲学の未来

ࠠ࡯ࡢ࡯࠼:ポスト・モダンとネオ・プラグマティズム,メタファー(隠喩)

の動的な一群としての真理 

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 知識においても反省においても全体というものが何ら構成されないのは,前 者にあっては内的なものが,後者にあっては外的なものが欠けているからであ る。われわれが科学に何らかの種類の全体性の期待を寄せる場合には必然的に,

科学を芸術として考えなければならない(ゲーテ『色彩論の歴史のための資料』

1810)。

(2)

 困難は,ギリシアの芸術や叙事詩が特定の社会的発展形態と結び付いている ことを理解する点にあるのではない。困難は,それらが今もなおわれわれの芸 術的鑑賞に足りるものであり,ある点では規範として,到達し難い模範とし て妥当しているということを理解する点にある(マルクス「経済学批判序説」

1857)。

 そしてウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』1918,1922,1933)の科学 論によれば,科学は「記述」をするだけであって,「説明」をするわけではなく,

科学は任意的なものである(『論考』6. 342)。ウィトゲンシュタインによれば,

ニュートン力学による世界記述はニュートン力学という網を通しての世界記述 であり,そのように記述され得るということである。科学についてのウィトゲ ンシュタインの見解は基本的には彼の前後期の哲学でほぼ一貫している。換言 すれば,科学とは現実についての仮言的記述の論理のことであり,観察と実験 によってわれわれが現実に対して与える思考のみちすじのことである。それは 結局のところ,科学というものは厳密な意味では何事をも説明しない,いや説 明できないということを意味している。

 ウィトゲンシュタインの哲学に依拠する黒崎宏は言う(『ウィトゲンシュタ インが見た世界』)。

我々に否応なく与えられているものは,我々が生活しているこの現実世界   生活世界  である。それは,言語と行為が織り成す世界であり,ウィトゲ ンシュタインの言葉を借りれば「言語ゲーム」の世界である。そこは,言語 の生きる場であり,意味と価値の生きる場である。即ち,人間の生きる場で ある。そして,如何に最先端の抽象的・理念的な科学理論の研究といえども,

この「言語ゲーム」の世界において行われているのである。・・・我々の現 実世界における意味4 4や価値4 4そのものは,科学によっては,少しも触れられて はいない。現実の生きている人間,感覚・感情・記憶・思想・意志・信念・・・

を有するこの暖かい生身の人間そのものは,科学によっては,少しも触れら れていないのである。科学は,物44動き4 4を教えてくれるだけなのであるから。

(3)

 「語り得ぬことについては,人は黙さねばならぬ」(『論考』7)。言語で表現 できないことについては沈黙しなければならない。科学の言語は理念的で現実 の論理的みちすじを記述するだけであり,現実そのもの,生活世界そのものを 表現するわけではない。現実そのものを表現するためには科学は可能なかぎり 芸術でなければならない。そして結局,ウィトゲンシュタインの哲学にあって は科学は芸術に近づくことになる。それどころか,エックルスにおいては「科 学は芸術」(『脳と実在』)なのである。

 「詩人,数学者,物理学者,行政官,脚本家,哲学者にして,科学,文化,

人間の解釈者,詩,文学,芸術の批評家,生物学,言語,社会の研究者であり,

その上教師」というレオナルド・ダ・ヴィンチそこのけのマルチ・タレントの 持ち主ジェイコブ・ブロノフスキー(19081974)は,その遺作の一つ『知識 と想像の起源』(1987)で次のように述べている。

われわれの言明から曖昧さを完全に取り除くことは,もしそうしようとすれ ば,記号体系にその能力以上のことを強制することになるであろうから不可 能である。曖昧さの完全な除去が可能でないのは,脳がディジタルな機械で ないため,脳がどれだけの数の反応をなし得るか,明確な区切りがないから である。それゆえ,われわれはいろいろな曖昧さを伴いながらやって行かね ばならない。そして,チューリングの定理に関する議論や詩に関する論議の ほとんどすべてが,いつも曖昧さというこの中心点に戻ってくる。わたしの 数学者仲間の一人,ウィリアム・エンプソンは,一緒にケンブリッジで数学 を勉強した男だが,若くして詩の世界に転向して直ちに,『曖昧の七つの型』

(Seven  Types  of  Ambiguity)という本を出した。英文学の学生ならそれを 知っているだろう。現在もなお一種の小バイブルになっているが,しかし,

数学者によって書かれたバイブルであることを忘れてはならない。曖昧さ

(ambiguity),多義性(multivalence),つまり言語がその述べることがらの 明確で最終的な説明になっているとはとてもみなしえないという事実は,科 学にとっても,もちろん文学にとっても中心的な問題である。

(4)

 エンプソンの挙げる曖昧の七つの型とは次のとおりである。

①一つの語あるいは文法構造が同時に数個の効果をもつ曖昧。たとえば,シェ イクスピアのソネット 73 番。

②二つあるいはそれ以上の可能な意味が一つの意味のなかに集約され解消され る曖昧。シェイクスピアのソネット 16 番。

③たとえば地口や寓意のように,一見結びつきのない二つの意味が同時に与え られている曖昧。

④複数個の意味がそれぞれ他と和解せず,作者の複雑な心理状態を示す曖昧。

シェイクスピアのソネット 83 番。

⑤作者が書くという行為のなかで自分の考えを発見していくとき,あるいは作 者が自分の観念を全体として心に思い浮かべていないときに,偶然に生まれ る曖昧。

⑥述べられていることが矛盾あるいは不適切で,読者が解釈を考え出さなけれ ばならないような曖昧。

⑦語の二つの意味,曖昧の二つの価値が対立したまま,全体的な効果として作 者の心のなかの基本的分裂を表わすような曖昧。

 ブロノフスキーによれば,科学とは既知の世界を,完全な形式的表現を伴う 閉じた体系(システム)として表わそうとする試みである。科学的発見とは,

体系の限界を突破して,体系をふたたび開かれたものとし,それから当面の仕 事をなし終えた後,再度その体系を閉じるということが,たえず独自のやり方 で進められていく過程である。自分の発見が究極的な発見であってほしいと人 が思うのは当然であるが,そうは問屋が卸さない(むしろ科学にとってはもっ けの幸いかも知れない)。記号体系が閉じたままでいられるのは,もっぱらそ の体系を用いて,それまでになされた実験的な仕事のうちにすでに含まれてい ることしか言おうとしないあいだだけであるということは,すべての記号体系 の本性である。

 ブロノフスキーによれば,言語の記号体系は人が思っていたよりも内容豊富

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であることがわかる。新しい連関が発見されると,記号体系は拡張されねばな らなくなる。その意味では「記号体系」,「言語」,「科学の定式」は同一である。

体系を開かれたものにするのは,ディジタル・コンピューターの機能とはまっ たく異なる人の脳の機能である。体系を開いて新しい連関を示させるのは,似 ていないとこれまで思われていた二つの事物のあいだに類似性を見出す人の想 像力の働きであり,あえて言うならば,それはポエジーの一種である。詩作の 目的は「新しい関係」を発見することであると西脇順三郎は次のように述べて いる(『詩學』)。

ポエジイというものは想像の世界であって,その形態は二つの相反するもの の緊張した関係である。ポエジイは想像することであるということは新しい 関係を発見することになる。「新しい」ということは自然や現実と異なった 関係という意味である。「牛が床屋の中で坐ってよだれをたらしている」と いう思考は自然や現実と違った一つの新しい関係を表明している。牛と牧場 との関係は現実の関係であるが,牛と床屋との関係は新しい関係である。す べての新しい関係の中で人に神秘的な意識や美の意識を感じさせるものばか り在来の鑑賞ではポエジイと言った。けれどもボードレールからシュールレ アリスムに進展するうちに醜悪やグロテスクや諧謔を感じさせるものをポエ ジイの美というようになった。

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 経済主体の行動における「制度」(社会的承認を受けた慣習的な思考ならび に行動様式)の役割を重視する制度派経済学と相通じる社会観をもつアーノル ド(Thurman  W.  Arnold)は,統治,経済,法などの社会制度に共通する四 つの客観的要素をあげる(Folklor  of  Capitalism,  1937)。その一は信条,その 二は意識的態度,その三は制度的な無意識的習慣,その四は神話ないし伝説。

たとえば統治について言えば,信条を具体的に示すものが憲法であり,これを 中核にして一連の態度と習慣が成立し,これによって信条が民衆を一つの意識 のもとに結合させ,彼らに支配力を及ぼす。これら四つの要素の主体として登

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場するのが通常人(common man)ないし市井人(man on the street)である。

彼らはその信条の下に意識的・無意識的に行動することによって制度を維持し ていく。そして信条は,つまるところ真理ないし自然法的なものと受け取られ ることになる。

 アーノルドは法と経済学を真理の収集としてではなく,集団としての人の行 動を条件づけるシンボリックな,すなわち象徴記号的な思考と行為の集合とみ なす(The  Symbols  of  Government,  1935,  1962)。そこにあるのはさまざまな 関係の合成であって,実体的なものは存在しない。しかし,法学における科学 的な,すなわち客観的なアプローチの妥当性については口先だけの敬意が払わ れつづけるので,その結果は法の専門家ですら理解不可能な,信じられないほ ど複雑になった法哲学が登場することになるが,それは,統治の象徴記号の情 動的重要性に影響を与えることはなかった。

 法学という科学(the  science  of  jurisprudence)は経済的なもの,また倫理 的なもののすべてにおいて,われわれの社会内部の重要な競合する集団の諸意 見に,それがいかにばらばらな意見であってもしかるべき場所を与えなければ ならない。法学は,それぞれ異なる部門の技法に対して承認の身振りをしなけ ればならない。そして,そのような仕事は儀式によってこそ達成され得るので あって,それゆえ法学の著述は科学的観察としてよりも儀式的観察として考察 されるべきである。このことは,法学の文献は,それを読むのではなく激励し 称賛する人々のためにもっとも効果的にその社会的仕事を遂行する,という事 実によって示されている。今日,法学の文献を読む人々にとっては,その文献 は相争う考えの煩わしい集合にすぎないのである。それは一般的に読まれてい るわけではないから,その煩わしさはそれ以上のものを著作する目的でそれを 読む少数の人々に知られるだけである。法を崇敬する人々のほとんどにとって は,論理的諸原理を求めて恒常的な探求が作動していることを知ることで十分 なのである。

 法学という秘教的科学(the mystical science of jurisprudence)の機能と効

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果に関しては,現今の法的諸制度を超える応用性がある。相争う諸理想を最終 的に和解させるために文献の難解で抽象的な文脈を判断の根拠とするのが合理 的思考方式とされるが,その推論手続はきわめて限定的なものである。推論手 続が取り得るのは少数の道筋にすぎず,しかもそれらは驚くほど類似している。

人が合理的手段によって地上に道徳的統治を設定しようと努めるとき,その企 てにおいて彼が積み上げる文献は,それが教会的,形而上的,倫理的なもので あるか,法的なものであるかを問わず,つねに同一のパターンに,そして同一 の概念に由来している。そのような文献には慰めはあるが,しかし進歩も発見 もない,とプラグマティズムの延長線上にあるリアリズム法学の学者にして裁 判官であったアーノルドは言うのである。

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 ローティのネオ・プラグマティズムは,これまでの伝統的哲学の解体を主張 する,いわば反哲学説である。その核心を一口に言えば,「<真理とは実在へ の対応である>という考え方・・・に支配されてきた哲学的伝統から抜け出そ うと企てる」反表象主義である(『哲学の脱構築  プラグマティズムの帰結』)。

ローティの反哲学説は,次のように要約されるであろう。

「認識論を構成するとは,他者との最大限の共通の地盤を見いだすことである。

認識論が構成されうるという仮定は,そうした共通の地盤が存在すると仮定す ることにほかならない。時としてこの共通の地盤は,われわれの外部に  例 えば,<生成>と対置される<存在>の領域に,あるいは探求の指標を示すと 同時にその目標でもある<形相>のなかに  あると想定された。しかしまた,

それがわれわれの内部にあると想定されたことも何度かあった。例えばそれ は,われわれ自身の心を理解すれば,真理を発見する正しい方法も理解される はずだとする十七世紀の考え方のなかに認められる。分析哲学の内部では,こ の共通の地盤は言語のなかにあると想定されることが多かった。言語は,あら ゆる可能な内容にとっての普遍的な図式を提供するものと見なされているから である。そうした共通の地盤などない」(『哲学と自然の鏡』)。啓発的哲学(ロー

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ティはその反哲学説=形而上学批判をそのように名付ける)は,「大文字の<

真理>や<実在>や<善>というプラトン主義的概念を放棄することであろう し,さらには,『真なる』や『実在的』や『善い』に関する唯一の有効な概念は,

現在の実践や信念から外挿されたものだけだと考える相対主義に改心する」で あろう。しかも「啓発的哲学は,変則的であるばかりではなく,反抗的でもあ る。というのも,普遍的共約性の提案者が,一連の特権的記述の実体化をたて に会話を打ち切らせようとするとき,それに異議申し立てをするところにこそ,

この哲学の意味がある」。

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 ローティのネオ・プラグマティズムは,ポスト・モダンの法哲学における解 釈学的転回の原動力となった。ポスト・モダンの法的批判は,法と政治と文化 の関係をめぐる新しい問題提起のための局地的な,小規模の問題解決の戦略を 用いる。ポスト・モダンの法的批判は,法解釈という実践を再度概念化するた めの一つの新しい解釈学的美学の可能性をさぐる。ローティによれば,われわ れがこれから築いていかなければならない文化は「ポスト形而上学的文化」で あるが,それは,あらゆる価値判断の統合を可能にするような普遍的座標軸を もたない文化のことである。そのためには,文化は「詩化される文化(poeticized  culture)」とならなければならないとローティは言うが,それは次のような「理 想的に自由な政治体(polity)」である。それは,「その文化の英雄が戦士,聖 職者,賢人,あるいは真理を探求する<理論的>な,<客観的>な科学者よりも,

ブルームの言う<強い詩人>であるような政治体である。そのような文化[詩 化される文化]では・・・<相対主義>や<非合理主義>と呼ばれた亡霊はも はや出没することはないであろう。・・・そのような文化には,哲学的基礎づ けという観念が抜け落ちている」(Contingency, irony, and solidarity)。

 ローティによれば,文化を詩化することによって自由な共同体を文化的に強 めることに貢献できる。自由な共同体は,今日では形而上学的意味での哲学的 基礎づけを必要としないし,また超越論的に最終的基礎づけを行なうことも不

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必要である。むしろわれわれは,言葉の偶然性とともに共同体の偶然性を理 解しなければならない。人間は自分たちの生活を描写するのに暫定的な語彙

(vocabulary)しか持っていない。ローティは言う。「すべての人間存在は,そ の諸々の活動,信念,生活を正当化するために用いる一組の言葉を持ち歩いて いる。これらの活動,信念,生活は,われわれがわれわれの友人の称賛やわれ われの敵に対する軽蔑,われわれの長期にわたるプロジェクト,われわれの極 度の自信喪失,そしてわれわれの最高の希望を定式化する言葉である。すべて の人間存在は,われわれが時には展望的に,時には回顧的にわれわれの生活の 物語を語る諸々の言葉である。わたしはこれらの言葉をひとの<究極の語彙>

(final  vocabulary)と呼ぶ」。そしてローティによれば,文化の詩化を推進す るのはこれらの<究極の語彙>を操る「アイロニスト」(ironist) である。

 ローティによれば,アイロニストとは次の三条件を満たす者のことである。

(1) <究極の語彙>となるものは存在しないことを認めること。なぜなら<究 極の語彙>と一旦みなされてもそれに対抗する<語彙>が絶えず出現して<究 極の語彙>への懐疑が生まれるからである。(2) 自分の現在の<語彙>におい て言葉で表わされた議論は,これらの懐疑を引き受けもできなければ解消もで きないことを十分に理解すること。(3) 自分の状況について哲学的に説明する かぎりでは,自分の<語彙>がその他の語彙より実在により密接しており,自 分自身のではない[普遍的]知力に一致しているとは思わないこと。なぜなら,

<語彙>のあいだの争いを調停し得る超越的審廷は存在しないからである。繰 り返しになるが,なぜ「究極」が問題になるのか。それは,その先にはいかな る言葉的可能性も残されていない,という意味で「究極」であるからである。

 ローティによれば,自由な共同体の基礎づけは不可能であるが,しかし共同 体の存立を可能にするものとして連帯(solidarity)は必要である。共生をこ ころざす人々を信頼してその言い分に耳をかたむけつつ,何が最善であるかを 考えようとする態度が連帯である。この点でローティはレッシングの側に立つ。

「啓発的哲学者は,『一切の<真理>』を一挙に所有してしまうことよりも,真

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理を目指していこうとするレッシングの選択に同意する」(『哲学と自然の鏡』)。

ローティは言う。「理想的な自由社会を結合させる社会的な接着剤は,次のよ うな合意にあるにすぎない。すなわち,社会的組織の要諦は,すべての人にそ の能力の及ぶかぎりで自己創造する機会を持たせること,この目標は平和と富 のほかに<ブルジョア的自由>という基準を必要とすること,という合意であ る。この信念は,普遍的に共有された人間の諸々の権利,合理性という本質,[大 文字で書かれた]人間のための善,等々についての見解に基づいているわけで はない」(Contingency, irony, and solidarity)。

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 ローティの反哲学説(形而上学批判)によれば,われわれが正しいと考える 自由な共同体と真理とは無関係であるという主張が導かれる。真理とは,たか だか特殊な職業共同体あるいは社会環境の単なる信念構造でしかないとすれ ば,真理概念を共同体の正当性根拠として呼び出すことも,なんらかの普遍的 根拠に拠って共同体の基礎づけをすることも必要ではなくなる。

 ローティによれば,文化の詩化とは個人的に自己創造をすることであり,自 己認識や真理の発見ではない。そして文化の詩化を推進するのはいわゆるアイ ロニストであったが,アイロニストたちを相互に結合させて共同体へと促すも のは何か。それは残酷(cruelty)を回避ないし廃止することであるとローティ は次のように言う。「アイロニストが考えるに,自分をその他の同胞たちと接 合させるものは共通の言語ではなく,まさに苦痛に対する感受性そのものであ り,わけても野獣が人間と共有していない特殊な種類の苦痛である屈辱に対す る感受性である。アイロニストの構想するところによれば,人間的連帯とは共 通の真理あるいは共通の目標を共有するという問題ではなく,共通の自分本位 の希望,つまり自分の世界  人が自分の究極の語彙に織り上げた小さな諸々 のことがら  を破壊されたくはないという希望を共有するという問題であ る」。あくまでもローティが重視するのは,基礎づけではなく残酷や屈辱に対 する感受性を高めることである。

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 分子生物学者のステントは言う(『進歩の終焉  来るべき黄金時代』)。来 るべき黄金時代においては,「人類は技術のおかげで,なんの心の悲しみもなく,

苦労も悩みもなく,しかも萎えることを知らない手と足をもって,一切の悪の 手の届かぬところで,神々のごとくに生きるであろう」。しかし,ヘシオドス がかつて描いたような黄金時代が到来すれば,もはや,宗教も芸術も,またい かなる種類の知的活動も栄えることはないであろうとステントは,『進歩の終 焉』の最終段落を次のように書いた。

文化に関する限り,黄金時代は全体的停止の時代であって,これはメイヤー が芸術について考えたものに似ていなくはない。形式的に芸術や科学に類似 した活動はつづけられるであろうが,進歩は大いに速度を減じてしまってい ることであろう。鉄の時代のファウスト的人間が,かれの豊かな後継者たち が,ふんだんにあるレジャーを感覚的快楽に献げたり,さらに忌わしいこと には,幻覚剤から私的な合成的幸福を得たりしている有様を見たら,大きな 嫌悪を覚えるであろうことは明らかである。しかしながら,ファウスト的人 間は,自分らの狂おしいまでの一切の努力の当然の結果こそがこの黄金時代 を導いたのであり,別のことを願ってもどうにもなりはしないのだという事 実を直視するがよい。芸術や科学における何千年もの営為が,ついに人生の 悲喜劇を一つのハプニングに変換してしまうことになるのであろう。

 ステントは人間について,あまりにも知りすぎたのである。ところで,知り すぎた人間について次のように言われることがある。「俺は楽観主義者だ。人 間に関する知識をもちすぎた厭世主義者のことを,楽観主義者ということを御 存知か」(堀田善衞)。そして,ローティの言うユートピアとは次のような文化 である。

わたしがこれまでしばしば述べてきたように,わたしのユートピアとは,科 学者たちや聖職者たち,宗教的預言者たちよりも,むしろ詩人たちが文明の 編集勢力だと考えられ,文化のヒーローでありヒロインであるようなユート

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ピアのことである。そのような文化が理想的であるとわたしが考える理由は,

その文化は,カルナップやハーツホーンに共通する仮定  われわれがなす すべてのものは永遠の,変化することのない枠組のなかで起こるのであり,

この枠組を洞察することが重要な人間的任務であるという仮定と手を切るで あろうということにある。そのような詩化される文化では,「あらゆる意識 は言語的事象である」ということ,実在を本来の姿で描出する理想言語の ようなものはあり得ないということがセラーズ[Wilfrid Sellars, 19121989]

とともに当たり前だと思われるであろう。したがって,そのような文化の住 人たちは,科学的で形而上学的意見を単一の一連の命題へ収束させるよりも,

もろもろの言語や仕事や生活様式の分裂・拡散のほうにより関心をもつであ ろう(Rorty & Pragmatism)。

 いまや哲学者たちは真理の召使いではなく,デモクラシーの召使いでなけれ ばならない。ローティにあっては,デモクラシーは必ずしも間主観的に決定さ れた意味の可能性を前提としない。デモクラシーにおける連帯を創造するのは 理論ではなくて言語と文学であり,デモクラシーのヒーローは政治家ではなく て詩人である。ローティによれば,人生とはニーチェ的な自己超克の過程にお けるドラマティックな物語である。ローティは言う(Contingency,  irony,  and  solidarity)。

リベラルな社会とはそのもろもろの理想が,力よりもむしろ説得によって,

革命よりもむしろ改革によって,現在の言語的およびその他のもろもろの実 践と新しい実践のための提案との自由かつオープンな遭遇によって,満たさ れ得るような社会である。ところでこれは,理想的なリベラルな社会は,自 由のほかに目的をもたず,そのような遭遇がどのように進展するかをみてと り,その結果を甘受することをみずから進んで行なうことのほかには目標を もたない社会だということである。それは,詩人たちや革命家たちにより楽 な思いさせてやるということ,そうしてやることで彼らがその他の者たちに より辛い思いをさせるのは行為ではなくて言葉によってのみ,ということの

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ほかの目標をもたない。それは,そのヒーローが強い詩人で革命家であるよ うな社会である。というのは,それはあるがままにあることを承認するから であり,道徳性をそれが持ち,言葉をそれが交わすとすれば,それが神の意 思ないし人間の本性に近づくからではなくて,過去の若干の詩人たちと革命 家たちが彼らが話したように話したからである。

 ローティのオプティミズムにはどうかするとペシミストの影がさすようであ るが,その歴史観にはステントに似たところがある。それは次のとおりである。

人間の歴史の道程は,長々しくて,声が高まって,増強していく多声音楽的 な詩(polyphonic  poem)  それ自体は何の救いになることもない詩かな,

とわたしは思う。種が絶滅する時,「人間性の全メッセージ」は一連の命題 ではなくて,だんだんとより多様になり良くなる一連の語彙であるだろう。

誰もこのメッセージを手に入れられないのではないかとわたしは思うのだ が,そのわけは,「最良のものはより永遠なるものである」ということにつ いて,ジェイムズとハーツホーンに同意すべき理由がみつからないからであ る。永遠,あるいは無限の宇宙の沈黙がなぜ問題になるのかがわたしにはわ からないのである(Rorty & Pragmatism)。

 『<帝国>』の共著者の一人アントニオ・ネグリ(他の一人はマイケル・ハー ト)によれば,われわれが置かれている状況はポスト・モダニズムの思想家た ちによっても明快に記述されており,その一人にローティの名が挙げられてい る。ネグリによれば,ポスト・モダニズムは「マルクス主義の偉大な異端派」(『ア ントニオ・ネグリ講演集』[下])であるが,内在性の哲学について大略次のよ うに述べられる(『<帝国>』)。

ヨーロッパの近代性の起源は,たいていの場合,現世の事柄に対する神の超 越的な権威を否定する世俗化の過程に由来するものとみなされる。たしかに,

そうした過程は重要なものであるが,私たちのみるところでは,じつはそれ は,近代性の最初に生じた主要な出来事のひとつの徴候にすぎないものだっ たのだ。その出来事とは,この世界にみなぎる力を肯定すること,言いかえ

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れば,内在性の平面を発見することであった。・・・ヨーロッパの近代性の 誕生場面において,人間存在はこの世界におけるみずからの力を発見したの であり,・・・近代性のこれらの起源において,知は超越的な平面から内在 的な平面へと移され,その結果,人間の知識はひとつの実行,すなわち,自 然を変容させる実践となった。

 内在性とは,或る領域,場,次元の全体性の内部に存在が在るということで ある。いまやこの世界は外部を持たず,世界の構築と世界の必然性はすべてわ れわれの経験のうちにある。人間学と存在論とはこの世界の構造において融合 している。17 世紀後半のヨーロッパ思想を席捲したスピノザの内在性の哲学 は,神の位置に人間的諸個体と自然を置き,世界を実践の領域に変容させ,マ ルチチュード(multitude)によるデモクラシーを絶対的な政治形態であると 位置づけることによって,画期的な人文主義を誕生させることになった。

 ネグリ&ハートによれば(『マルチチュード』[上]),マルチチュードとは多 なるものであり,単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差異から なっている。その差異は,異なる文化・人種・民族性・ジェンダー・性的指向性,

異なる労働形態,異なる生活様式,異なる世界観,異なる欲望などさまざまで ある。マルチチュードは,それぞれが特異性を維持しつつなおも共有するもの に基づいて行動する,能動的な社会的主体である。マルチチュードは,指令を 下す一者とそれに従うその他大勢からなる政治的身体ではなく,自己を統治で きるポスト・モダン的主体であり,ポリフォニーと近縁的関係にある(後述

「ポリフォニーとしての生」を参照)。ネグリ&ハートによれば,マルチチュー ドこそが,民主主義,すなわち全員による全員の支配を実現できる唯一の社会 的主体なのである。

 ローティの言う「ポスト形而上学的文化  詩化される文化」においては,

それぞれの人がそれぞれの暫定的な語彙しか持たず,いわゆる究極の語彙を操 る人がアイロニストと呼ばれるが,しかし,語彙のあいだの争いを調停できる 超越的審廷といったものは存在しない。そうだとすれば,このような文化にお

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いては伝統的意味での科学はあり得ず,サイエンティフィック・アメリカン誌 の専属ライターであるジョン・ホーガンは,現代においてはもはやこれ以上の 研究を続けても収穫逓減の原則に従い,わずかの成果の積み重ねにはなって も,偉大な新事実や革命に遭遇することはないだろうと言う(『科学の終焉』

1997)。それは,少なくとも興味が持てる主張や意見を提供し,論議に火をつ ける点では文芸批評に似ているが,それ自体は真理に到達することはない,ホー ガン言うところの「皮肉の科学」があるのみ,ということである。

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 ポスト・モダンの法理論は,古典的法理論の基礎づけ主義的諸概念,たとえ ば自律的な法的主体,合意,自然法,神などの批判とともに始まった。法的構 成物の基礎づけが震撼せられたかにみえた。法理論の土台となるいかなる基盤 もないということになれば,理論における真空(極端な相対主義あるいはニヒ リズム)を避けるために,近代の古典的法理論とともに廃絶された基礎づけに 代わる基礎づけが必要になる(基礎づけ一般をローティが否定したのはすでに みたとおりである)。そこで登場したのが,ニーチェ流の力への意思,デリダ 流の他者への呼びかけとしての正義の観念,リオタールの言説の異質性ないし 不均一性,フーコーの自我ないし実存(生存)の美学である。しかし,いずれ も結局はある種の形而上学的主張ないしは普遍化をめざす主張へと逸脱した。

唯一の例外はローティであるとリトウィッツは次のように述べる(Postmodern  Philosophy & Law)。

 わたしが思うに,ローティは,われわれの現存する諸制度と諸実践が,倫理 政治的法理論に基盤を与えるのにわれわれが必要とする基礎づけのすべて を供給するのだ,ということを是認するただ一人のポスト・モダンの思想家で ある。ローティは,われわれの偶然的な諸制度と諸実践以外には基礎づけはあ り得ず,そして,それらが基礎づけをしなければならないのだということを正 しくわかっている唯一のポスト・モダニストだと思われる。すなわち,ローティ だけが,われわれの社会の偶然的な諸伝統と諸実践が肯定的法理学を打ち立て

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るのに十分な基礎づけであるということを理解している。

 法理論の基礎づけは,われわれの社会の構成メンバーの熱望と重なり合う諸 価値  それらの支持は偶然的である  によって供給されるだけのことであ れば,「法理論は客観的な,永遠の,岩のように堅い基礎づけを要求しない」

のは当然である。そうであれば,法解釈もまた客観的である必要はないことに なる。

 民法学者の来栖三郎はかつて立法者意思説に関連して,「制定法の法文の意 味の解釈は文芸の解釈と同じである」と言ったが(法学協会雑誌 73 巻 2 号,

1956),脱構築派からすれば,それは「意図偏重の誤謬」をおかすことになろう。

ホーガンは,「皮肉な社会科学」は,われわれに何かをもたらすわけではないが,

少なくとも,われわれが望みさえすれば,いつまでもやるべきことを与え続け てくれるだろうと言うが,これはまさしく皮肉であろう。

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 リベラルな社会にあっては,人生とはニーチェ的な自己超克の過程における ドラマティックな物語であるとローティが言ったのは先にみたが,これは次の ように敷衍される(Contingency, irony, and solidarity)。

実在と現われという区別を捨てたニーチェ的見方によれば,われわれの語り 方を変えるということは,われわれ自身の在りようを,自分自身の目的のた めに変えるということである。ニーチェのように神は死んだと語ることは,

われわれは高次の目的には仕えないと述べることに等しい。発見の代わりに 自己創造を置くというニーチェ的な置き換えは,人類が光に向かってぐんぐ ん近づいていくという描写を,権力に飢えた人々が幾世代にもわたってお互 いを踏みにじるという描写に置き換えたのである。ニーチェ的メタファー[メ タファーの動的な一群としての真理]が字義どおりにとられるような文化が あるとすれば,それは,哲学の問題は詩の問題と同様に一時的なものである こと,「人類」と呼ばれる単一の自然種に何世代もの人々を団結させるよう な問題などは存在しないことを当然視するような文化であろう。次々と取っ

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て代わられるメタファーの歴史として人間の歴史を考えてみれば,われわれ は詩人を,新しい言葉を作る人,新しい言語を形成する人の総称という意味 で,人間という種の前衛とみなすことができる。

 ローティは言う。二十世紀の重要な哲学者はプラトンと袂を分かち,自由を 偶然性の承認とみることによって,ロマン主義の詩人が行なった事柄を貫徹し ようとした人たちである。つまり,ヘーゲルによる歴史性の主張をその汎神論 的観念論から切り離そうとする哲学者たちである。人類のヒーローは伝統的に 発見者として描かれてきた科学者ではなく,むしろ強い詩人,つまり創造者で ある,というニーチェの主張を彼らは受け入れている。もっと一般的に言えば,

哲学を観想,つまり生を固定的に見据えてその全体を観る企て,と思わせるも のをすべて拒絶することによって,個人の存在がまったくの偶然だということ を主張しようとしてきたのが彼らである。

 端的に言えば,「真理を知る」という観念をかなぐり捨てるべきだというあ からさまな提案を最初に行なったのがニーチェである。彼は真理を「メタファー の動的な一群」と定義したが,それはとりもなおさず「言語による実在の再現」

という観念を放棄することである。ニーチェはみずからの偶然性を直視し,新 しいメタファーに拠って,自己認識を自己創造とみなしたのである。それでは,

真理とは何なのであろうか。

それは,隠喩,換喩,擬人観などの動的な一群であり,要するに人間的諸関 係の総体であって,それが,詩的,修辞的に高揚され,転用され,飾られ,

そして永い間の使用の後に,一民族にとって,確固たる,規準的な,拘束力 のあるものと思われるに到ったところのものである。真理とは,錯覚なので あって,ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚なの である,それは,使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩 なのである。それは,肖像が消えてしまってもはや貨幣としてでなく今や金 属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである(ニー チェ「道徳外の意味における真理と虚偽について」)。

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 人が生まれるのは偶然であるが,死ぬのは必然である(生者必滅)。この偶 然と必然の連鎖が,家族,私有財産,国家の起源となり,ついにはグローバル な世界の形成に至る。そのプロセスは陳腐な言い方をすれば「百家争鳴」であ る。これらのプロセスは「ニーチェのやや誤解を生みやすい用語を使うならば,

真理への意思と自己克服への意思との対照を反映している」とローティが言い,

「知の歴史を以上のように説明することは,ニーチェが<真理>を<メタファー の動的な一群>と定義したことと調和する」と言うのは理解できる。それゆえ,

「最良のものはより永遠なるものである」ということについて,ジェイムズと ハーツホーンに同意すべき理由がみつからず,「永遠あるいは無限の宇宙の沈 黙がなぜ問題になるのかがわたしにはわからない」というローティの述懐も理 解できる。

 われわれは考えるよりも話して暮らしている(ベルクソン)。人間,すなわ ちメタファー(ノヴァーリス)。生はポリフォニー(polyphony;多声音楽)

である。「われわれの生のあらゆる側面を単一のヴィジョンのもとに包括しよ うとする,すなわち単一の語彙によって記述しようとする企てを断念してしま う」というローティの考え方は,ドストエフスキーの詩学におけるポリフォニー としての人間の生と大きく通底する。ミハイル・バフチンは言う。「それぞれ に独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識,それぞれがれっきと した価値を持つ者たちによる真のポリフォニーこそが,ドストエフスキーの小 説の本質的な特徴なのである」(『ドストエフスキーの詩学』)。ノヴァーリスも 次のように言う。「宇宙万有の生は無数の声で交わされる永遠の対話である」

(『サイスの弟子たち』)。バフチンについては詳しくはその浩瀚な著作を繙くし かないが,ここではそのエッセンスを次に掲げるにとどめる。

ドストエフスキーは,ゲーテのプロメテウスとおなじく,(ゼウスがしたよ うに)声なき奴隷たちを創作したのではなく,自らを創った者と肩を並べ,

創造者の言うことを聞かないどころか,彼に反旗を翻す能力を持つような,

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自由な人間たちを創造したのである。・・・彼の作品の中で起こっているこ とは,複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的 な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて,ここ ではまさに,それぞれの世界を持った複数の対等な意識が,各自の独立性を 保ったまま,何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。

実際ドストエフスキーの主要人物たちは,すでに創作の構想において,単な る作者の言葉の客体であるばかりではなく,直接の意味作用をもった自らの 言葉の主体でもあるのだ。

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 ドストエフスキーはカトリック教会に対して好意的ではなかったが,ロシア 正教に対しても距離をとっていた作家であり知識人である。人間は宗教的動物 だと言われるが,ドストエフスキーもその例外ではない。しかしドストエフス キーにおける「神の存在」は,ヨーロッパの神学者や哲学者のそれとは異なり,

「わたしが生涯にわたって意識的・無意識的に苦しんできた問題,すなわち神 の存在」(1870 年 3 月 25 日,A. マイコフ宛の手紙)は,感覚的な次元で深刻 な問題となる非論証的な存在であった。無神論者ではないドストエフスキーの 神は,彼の作品世界におけるポリフォニーの下支えとなる,汎神論的宇宙観に よる自然の霊性とでも呼べる存在であった。人間は,断固たる無神論者でない かぎり,何らかの宗教なしには生きていけない存在である。法学は,法社会学 的レベルでは科学と言えようが,解釈法学ないし法教義学のレベルでは必ずし も科学とは言えないであろう。その限りにおいて,法と宗教との関係はなおも 論じる余地があるであろう。

 ローティが言うに(Religion  As  Conversation-Stopper,  1994),今日このご ろでは知識人たちは,「ポスト・モダン」と呼ばれる新しくて重要ななにもの かが生じつつあると考える人々と,啓蒙によってわれわれのためにしつらえら れ,慣れ親しまれた任務をなおもこつこつと果たしている(あるいは果たすべ きである)と考えるハーバーマスのような人々とに分かれている。わたしのよ

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うにハーバーマスに同意する人は,公的生活の世俗化を啓蒙の中核的達成とみ なしている。ポスト・モダンについての懐疑は,またモダンについての懐疑へ,

もっとはっきり言えば,人間の本性は 1910 年ころに変化したというヴァージ ニア・ウルフのフーコーのような主張についての懐疑へ導きやすい。世俗化の 進行にとって決定的に重要ななにものかがそのころに生じたのである。それは,

知識人たちが人間は身体だけを持っており,魂は持っていないことを信用しは じめたということである。

 世界の世俗化が進行すればするほど宗教の存在理由は薄弱になるが,これに 対して監督教会員(Episcopalian)のスティーヴン・カーターは著書『不信仰 の文化。いかにアメリカの法と政治は宗教的献身を陳腐なものにしているか』

(1993)で,宗教は彼が公的領域と呼ぶものの支配外に置かれればそれは個人 的な「趣味」に還元されると異議を唱え,個人的な趣味としての宗教は「個人 的形而上学」であり,本来の宗教は「集団的礼拝の伝統」であると定義した。カー ターは,宗教を私的生活中心のものにすることは宗教を陳腐化する,と考えた のである。これに対してローティは次のように述べる。

私的生活中心化から陳腐化へ至るカーターの推論は,非政治的なものはつね に陳腐なものであるという前提でもって補われなかったならば論拠薄弱であ る。しかし,この前提は誤りと思われる。われわれの家族すなわち愛情生活 は私的であり非政治的であるが,陳腐ではない。われわれ無神論者が書く詩 は,われわれの宗教的友人たちが唱える祈りのように私的であり非政治的で あるが,陳腐ではない。詩を書くことは多くの人にとっては,彼らの親友を 除いて誰にもこれらの詩を見せない場合でさえ,単なる趣味ではないのであ る。同じことは詩の朗読にも言えるのであり,個別の人生に意味を与えると いう点で,そして成熟した公共心のある成人たちがそれらを政治用の基礎と して利用する企図がないという点で全く正しいのだということは,その他の 多くの私的営みについても言えるのである。有神論者たちや同様に無神論者 たちによって追及される私的な完徳の吟味は陳腐でもなければ,多元的なデ

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モクラシーにおいては公共政策に直接的な関連性があるわけでもない。

 ローティが言いたいのは,私的生活中心化が宗教に必要である主要な理由は,

異なった視点を持つ個々人からなる対話的空間にいるが,それに直接的に関連 する宗教的共同体の部外者である人々と政治的に議論する場合には,宗教は対 話を停止させるものであるということである。カーターが次のように言うとき,

彼は正しいとローティは言う。「対話を終わらせる  あるいは議論をスター トさせる  一つのよい方法は,よい教育を受けた知的職業人たちのグループ に,あなたが理解する神の意思の要請であるがゆえにあなたは一つの政治的立 場(妊娠中絶あるいはポルノグラフィに反対であるというような,好んで議論 の余地のある立場)を支持するのだと告げることである」。しかし,このよう に言うことは議論をスタートさせるどころかまるっきり対話を終わらせかねな いとローティは次のように指摘する。

グループに,「わたしは妊娠中絶を絶対したくない」とか,「ポルノグラフィ を読むのは,このごろはわたしがこの世におさらばする手近の慰みなのさ」

と告げる場合でも同じである。カーターの例におけるように,これらの例に おいて続いて起こる沈黙は,「それがどうだと言うの? われわれはあなた の私的生活をとやかく言ったわけではないんだ。われわれは公共政策を議論 していたんだ。われわれにかかわりのない事でわれわれを困らせないでくれ」

とグループが言う傾向を覆いかくすことになる。

 すべてのリベラルな理論が示さなければならないのは,多元的で民主的な国 家による暴力の独占に基づいて強制され得る道徳的諸決定は,神の,あるいは 理性の,あるいは科学の声であると申し立てる声たちが,その他すべての声と 同等に扱われるという公的議論によって最善のものとなるということである。

公的議論は徹底的に世俗的でなければならず,リベラル・デモクラシーでは宗 教的言説は公的議論のなかに占めるべき場所をもたないというのが宗教の私的 生活中心化である。公的議論の前提として宗教的源泉への言及を禁じるのは,

ローティによれば,宗教的自由が支払うべき妥当な代価なのである。

(22)

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 先にの中程でローティが「人間の歴史の道程は,長々しくて,声が高まっ て,増強していく多声音楽的な詩(polyphonic poem)  それ自体は何の救い になることもない詩かな,とわたしは思う」と述べるのをみたが,それは,複 数の声部を同時にひびかせるポリフォニー的な対位法としての人間の生の表現 は単一ではなく,多元的で相互に独立しており,互いに還元不可能なものであ ることを意味している。イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスは次のよ うに述べている(『遺伝子の川』)。

われわれが観察する世界の特徴は,実際にいかなる設計も目的もなく,善も 悪もなくて,ただ見境のない非情な無関心しかない世界に当然予想される特 徴そのものなのである。かの,不幸な詩人,A.E. ハウスマンはこう書いている。

 なぜなら自然は,無情で,無分別な自然は  何も知らず,何も気にしないからだ。

 DNAは何も知らず,何も気にかけない。DNAはただ存在するのみであり,

われわれはそれが奏でる音楽に合わせて踊っているのである。

 「永遠,あるいは無限の宇宙の沈黙がなぜ問題になるのかがわたしにはわか らない」というローティにとっては,哲学の未来は社会的および文化的な変化 があるあいだは安全である。社会的および文化的な変化が終わるまでは哲学は どうあっても終わりを告げられない。自由な社会にあっては哲学者たちの助力 がたえず必要とされるのは,そのような社会は変化することを決して停止しな いからである。確実性と永遠の遠近法を求める希望を放棄するのならば哲学者 たちは,彼らの直観が偶然の歴史的産物以上のものだという主張をもまた放棄 すべきである。真実性は自由と同じく,世俗的かつ偶然的で脆いものである。

しかし,そのことを受け入れる時にはこれら二つは容認できるのである。哲学 者たちは彼らの役割が歴史的に規定されているとみるべきである。ローティは

(23)

言う。

もしわれわれが,学問分野の位階制の頂点にその位置を定めて得意になるこ とをやめ,われわれの職業的実践を「理性的な思考」あるいは「明晰な思考」

と同一視することをやめれば,われわれの学問分野は,工学技術あるいは法 学の学問分野以上にそれ自身の討議項目を設定することはもはやできない,

というデューイの主張を是認するのにわれわれはより好都合な位置にいると 言えよう。そのように言うのが承認されるならそれは,以下のように考える 手間を省くのを助けてくれるであろう。すなわち,科学的なあるいは政治的 な発展は「哲学的な基礎」を必要とするという考え方  われわれ哲学者た ちが文化的な新規性を権威をもって合理的であると宣言するまでは,文化的 な新規性の合法性について判断は停止されるという考え方は,無用になると いうことである。

 ローティが依拠するデューイの哲学説のエッセンスを次に抜き出してみよう

(『哲学の改造』)。

◇哲学は仮説しか提供することが出来ず,しかも,その仮説の価値は,人間 の精神を周囲の生活に対して敏感にさせる点だけにある,などとフランクに 言ったら,哲学そのものの否定のように見られるであろう。

◇哲学が,究極的絶対的実在を論ずるという,やや非生産的な独占権を放棄 するならば,その償いは,人類を動かす道徳的な力を明らかにすることによっ て,更に健康で更に知的な幸福を得たいという人間の願望に奉仕することに よって得られるであろう。

◇観念や概念というのは,特定の状況の整理に成功するような或る仕方での 行為を要求し,命令し,計画することである。・・・役に立つ仮説が,真な る仮説である。そして,真理というのは,作用と結果とによって確証を得る ような多くのケース  現実的,予想的,希望的  の集合に用いられる抽 象名詞である。

◇豊かな共感,鋭い感受性,不愉快なことに直面した場合の不屈の態度,分

(24)

析や決定の仕事を知的に行なうだけのバランスのとれた関心,これらは明ら かに道徳的な特性である  徳であり,道徳的な美点である。

 デューイの言う「哲学」を「法哲学」に置き換えて読むことが承認されるな らば,以上の所見は「法解釈と法哲学の未来」にもおそらくそのまま妥当する と思われる。

 バートランド・ラッセル(18721970)は自らの哲学の方向を,その長大な 研究生活を回顧しつつ次のように要約している(『私の哲学の発展』)。

私はいまでも,真理が事実への或る種の関係であり,事実は一般に非人間的 である,と考えている。私はいまでも,人間が宇宙的にはとるに足りないも のであり,いま4 4とここ4 4とによって歪められずに宇宙を公平に見渡すことので きる存在者  そういうものがあるとして  ならば,おそらくは書物の終 り近くにつける脚注以外では,人間のことをほとんど述べぬであろう,と考 える。しかしながら,私はもはや,人間的要素の存在する場所からそれ[人 間のこと]を追い払おうとは望まない。私はもはや,知性が感覚よりすぐれ ていて,プラトンのイデヤの世界のみが「真実の」世界を知らしめる,とは 感じない。以前には,感覚や感覚の上にきずかれた思想を,ひとつの牢獄と 考え,そこからわれわれは,感覚を離れた思考によってのみ脱出しうる,と 常に考えた。いまでは,感覚と,感覚の上にきずかれた思想とを,牢獄の格 子としてでなく,窓として考える。われわれは,いかに不完全にもせよ,ラ イプニッツの単子のように世界を映しうる,と私は考える。そして物を歪め ぬ鏡となることにできるかぎりつとめることが,哲学者の義務である,と考 える。しかしまた,われわれの本性そのもののゆえに避けがたい歪曲をはっ きり認めることもまたかれの義務である。そういう歪曲のうち最も根本的な ものは,われわれが世界をここ4 4といま4 4の見地から見て,有神論者が神に帰す るようなひろい公平さで見るのではない,ということである。そういう公平 な見方に達することはわれわれには不可能であるが,それに向って或る距離 を歩むことはわれわれにもできる。そしてこの目標への道案内をすることこ

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そ哲学者の最高の義務なのである。

 亡き父王の言葉に異常に興奮したハムレットの発狂の誇張を,シェイクスピ アは普遍的人間像と自分とを合致させうるその稀有な能力によって,ハムレッ トがその発狂を誇張するのは自然なことであると「考えた」のではなくて感じ たのだとポーは喝破したが(『マルジナリア』),ラッセルの言う「哲学」を「法 哲学」に置き換えても,ラッセルの所見はデューイの場合と同様に妥当である と筆者も感じるのである。

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Lexikon der Goethe-Zitate, Deutscher Taschenbuch Verlag,1997.

マルクス『経済学批判』(武田・遠藤・大内・加藤訳,岩波文庫,1956)。

黒崎宏『ウィトゲンシュタインが見た世界』,新曜社,2000。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(野矢茂樹訳,岩波文庫,2003)。

ジョン・C・エックルス『脳と実在』(鈴木二郎・宇野昌人訳,紀伊國屋書店,1981)。

ジェイコブ・ブロノフスキー『知識と想像の起源』(野田又夫・土屋盛茂訳,紀伊國屋書店,

1989)(講義調の文体を改めて引用した)。

ウィリアム・エンプソン『曖昧の七つの型』(上)(下)(岩崎宗治訳,岩波文庫,2006)。

西脇順三郎『詩學』,筑摩書房,1968。

Thurman W.Arnold, The Symbols of Government,1935.Harbinger Edition,1962.

リチャード・ローティ『哲学の脱構築  プラグマティズムの帰結』(室井尚他訳,御 茶の水書房,1985),同『哲学と自然の鏡』(野家啓一監訳,産業図書,1993)。

Harold Bloom, The Anxiety of InÁuence, Oxford University, Press,1973,1997.

Richard Rorty, Contingency, irony, and solidarity, Cambridge University Press,1989.

(齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳『偶然性・アイロニー・連帯』,岩波書店,2000 も 参照した)。

ステント『進歩の終焉  来るべき黄金時代』(渡辺格・生松敬三・柳沢桂子訳,みす ず書房,1972)。

堀田善衞『路上の人』,新潮文庫,1995。

Response to Charles Hartshorne by Richard Rorty, in Rorty & Pragmatism:

The Philosopher Responds to His Critics / edited by Herman J.Saatkamp, Jr., Vanderbilt University Press,1995.

アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート『<帝国>  グローバル化の世界秩序とマル チチュードの可能性』(水嶋一憲・酒井隆史・浜邦彦・吉田俊実訳,以文社,2003)。

アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート『マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主

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