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李紳における韋応物の文学について  「和韋応物登北楼」詩の考察

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89

李紳における韋応物の文学について

一  緒  言   晩唐の李紳

((

(その人について、中国文学史の記述においては白居易・元稹の唱導した新楽府運動の先鋒をなす人

((

(とされている。遠くは詩経や漢楽府、さらに杜甫の流れを汲み、近くは顧況、元結、あるいは張籍および王建

の所謂「張王楽府」の後に続く人物として、その「古風」詩二首(「憫農」詩(は彼の代表作とされ、また彼

の新題楽府は元白の新楽府運動の端緒を開いたなど、中唐における社会派詩人の側面が強調されている。他方、

王旋伯『李紳詩注

((

(』は、白居易の「長恨歌」「琵琶行」、 元稹の「連昌宮詞」といった所謂「長慶体」に連なるものとして李紳の「悲善才」詩を挙げるなど、抒情の方面においてもまた優れた作を残したことを指摘する。李紳は牛李党争では山東貴族の李党(李徳裕(に連なる人物

であり、党派間の政争のもと終生流転絶えざる足跡をたどった。自編詩集である『追昔遊詩』(三巻・一〇六

首。『追昔遊集』『追昔遊篇』とも(はその序に「逝に嘆じ時に感じ、悽恨に発して作りしなり」「其の辞を一に

せざるは、乃ち思を牽きて属 つづりし所に由るのみ

((

(」と述べられており、胡震亨『唐音癸籤』は「李公垂紳が追昔遊

詩、大いに是れ宦夢の醒め難きなり。然れども其の筆を

李紳における韋応物の文学について

   「和韋応物登北楼」詩の考察

土    谷    彰    男

(2)

李紳における韋応物の文学について

りて興を写すこと、曲 つぶさに一生窮泰の感を備えり。亦た巻を披 らく者をして代わりて憮然たらしめん

((

(」と、李紳

の文学に「一生窮泰の感」、すなわち生涯に亘り繰り返された危難と顕達の感情を見て取った。盧燕平「李紳新

((

(」は李紳の作品には主情的な傾向が示されているとして、彼の文学を新楽府運動のものとして一概にそれと同

等に位置付けるのは著しく妥当性を欠くと述べている

((

(。

  もっとも、彼の伝世作品から元白新楽府運動の先鞭をつけたとされる「楽府新題二十首」はすでに佚して窺い

得ず、さらには晩年の「呉湘獄

((

(」について彼の詩業からそれを探ろうとするのは難しい。李紳の一方の代表作と

して鳴る「鶯鶯歌」についても、その作品の全容は金・董解元『西廂記諸宮調』に求めるほかはなく、したがっ

て彼の史伝とその詩業との乖離は甚だしいと言わねばならない。あまつさえその彼を、自編詩集を幾度も手掛け

た白居易と同日に談ずるには困難といわねばならぬ。

  李紳の文学を検討するに際して如上の事態を認めつつ

も、なお彼自身の手によって編まれたとされる『追昔遊 詩』一〇六首に耳を傾けるならば、ここからこの時代の文学営為の一端を垣間見ることはできまいか。そもそも中晩唐の文学における規範意識と実作との関係は多岐多端にわたるものであるが、それでは李紳の詩業からこの時代の如何なる様相が読み取れるのか。全唐詩本は『追昔遊詩』三巻に雑纂一巻を加えた四巻

((

(を収めるが、この

本を閲するとこの時代の文学の傾向を示す唱和応酬の作

が見い出される。すなわち白居易に対しては唱酬一篇ならびに題集一篇が見えるほか、次のとおり韋応物(七三

五  七九〇ごろ(に対しては和詩一篇が残句ながら収められている。

   君詠風月夕   君が詠む

風月の夕    余当童稚年   余が童稚の年に当れり    閑窓読書罷   閑窓

読書

   偷詠左司篇   偷 ひそかに詠ず

左司の篇

(『全唐詩』巻四八三「句」(

(3)

91

李紳における韋応物の文学について

  全唐詩はこれに注を附して

北楼に登る詩有り。紳 「 韋応物滁州刺使為りて、   後  刺史と為り継和す。存句は此

に止まる。『方輿勝覧』を見よ

((1

(」と記す。これを要するに、韋応物は滁州刺史にあって「登北楼」詩を残し、の

ち李紳が当地の刺史となって韋応物の作に継和したが、現存する句はここにとどまるという。『方輿勝覧』巻四

七「淮東路・滁州」は「題詠」項に「偷詠左司篇」のも

と右の四句を採る

(((

(からである(以下、『方輿勝覧』と呼ぶ(。年譜によると韋応物は建中三年(七八二(夏から

貞元元年(七八五(にかけて滁州に留まり、この間に彼の代表作である七絶「滁州西澗」詩をはじめ一百二十七

篇もの作を残した

(((

(。かたや李紳は大和二年(八二八(秋から翌三年末ごろの間、当地の刺史にあってこの韋応物

の作に継和する右の詩句(以下、「和韋応物登北楼」詩と呼ぶ(を残している。前出「悲善才」詩もこの間に著

されたという。

  本稿では中唐の文学動向を探るにあたって、李紳のこ

の「和韋応物登北楼」詩について検討を進めるものであ る。何となれば、韋応物の文学が読書を通じて如何に受容され、またそれが創作を通じて如何に継承されたの

か、李紳のこの作はその一端を如実に示すものであると考えるからである。李紳における韋応物の影響を検討す

るとともに、この時期における韋応物の文学について考察したい。

二  韋応物の文学の受容と伝播   年譜によると李紳が滁州刺史の任にあったのは、大和

二年(八二八(から同三年(八二九(末ごろの間、彼が五十七〜八歳のときである。これよりさき彼が五十三歳

のとき、牛李党争では牛党(牛僧孺(に連なる宰相・李逢吉の排斥を被って貶謫の憂き目に遭い、端州司馬から

江州長史を経て滁州刺史に着任したのであった。「和韋応物登北楼」詩はこの滁州刺史のときの作であり、かつ

て当地の刺史であった韋応物の「登北楼」詩に和したものとされる(『方輿勝覧』(。ここでは、まず李紳のこの

作の解釈を示し、継いでこの一篇の作を通じて韋応物の

(4)

李紳における韋応物の文学について

文学が如何に受容されたのか検討したい。

  「   のめたの験受挙科はべる閑述と」む罷書読窓読

書に励んでいたころを言うのであり、この作は全篇に亘ってその当時を追憶したものである。李紳は元和元

年(八〇六(三十五歳のとき進士科に登った

(((

(が、これよりさき貞元十八年(八〇二(は落第、この間はまた元稹

や白居易と親交を結ぶようになり、「鶯鶯伝」(元稹(や

「鶯鶯歌」(李紳(が生まれた。科挙及第まで斯様に歳月を重ねたが、その上限は「余が童稚の年に当たる」とあ

るように、年譜では彼が十五歳のとき郷里の無錫で寺院に入り読書を始めたころにあたる。滁州刺史着任から遡

ること四十年余り前のことである。「偷かに詠ず左司の篇」と述べる「左司」は韋応物のことを指す。韋応物は

かつて左司郎中の職にあった。李紳は読書に励むかたわら、ときには書を閉じ静かに窓傍に倚りつつ韋応物の詩

を詠じることもあったというのである。その詩は「君が詠む風月の夕」句に示される。「君」と親しく呼ぶその

人は、あるいは残句であるこの作より漏れて知られぬ第 三の人の寄越した作を指すものかも知れないが、ここでは韋応物その人を指すとみてよい。「風月の夕」は風月

竹林を共に賞 でる相識の人を思い待つことを言ったものである。初唐・王勃「贈李十四」四首其一は次のように

詠ずる。

   野客思茅宇   野客

  茅宇を思い    山人愛竹林   山人

  竹林を愛す    琴尊唯待処   琴尊(琴と酒杯(唯だ待つ処    風月自相尋   風月

  自ら相い尋ぬ

(『全唐詩』巻五七「贈李十四」其一(

  初唐では盧照鄰「還京贈別」詩に「風月清江の夜、山

水白雲の朝」(『全唐詩』巻四二(とあり、「風月の夕」の謂はまた山水日夕の対比を際立たせた表現であろう。

この李紳の「和韋応物登北楼」詩は、科挙受験に備える日々ながら韋応物の詩に接することによって、勉学のた

めの読書とはまた異なる、会心の読書をなしえた喜びが

(5)

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李紳における韋応物の文学について

述べられている。滁州の地に身を置いたことによる自身の昔年の追憶の叙述のなかに、かつての滁州刺史・韋応

物に対する敬慕を表したのである。その敬慕というのも「君が詠む風月の夕」句を通じて明らかなように、彼は

韋応物の文学のうちにその自然詠の詩を認めそれに親炙していたのであった。

  李紳がこの当時にあって韋応物の文学に対してその自

然詠を認めていたことは、後代「王孟韋柳」(王維・孟浩然・韋応物・柳宗元(と併称され韋応物が自然詩に優

れた詩人の一人として評されたことを想起すれば、李紳はそれを比較的早い時代に見出していたこととして特筆

されねばならない。これと併せて着目すべきは、この当時において韋応物の詩が如何に伝播していたのかという

ことである。李紳のもとには現行十巻本ともまた北宋・嘉祐本(一〇五六  一〇六三(とも異なる、さらに初期

に属する版本があったのではなかろうか。

  かく述べるのも、韋応物の伝記資料では新出史料であ

る、丘丹の筆になる韋応物墓誌銘並序に「所著詩・賦・ 議・論・銘・頌・記・序、凡六百余篇、行於当時」と記されており、現行十巻本には見えない議・論・銘・頌・記・序といった文を含めた六百余篇が収められていたことが判明したからである。墓誌銘にはこの記述に続いて貞元七年(七九一(十一月に埋葬した旨の記述があることから、この当時においては韋応物の如上の文集が通行していたということになる。現行十巻本には巻七に「登眺」十五首ならびに「遊覧」五十八首が見え、そこには滁州滞在中の作を数多く収めるが、あるいは現在では失われた記や序の作からその辺の消息を知りうることもあったのだろう。今となってはもはや窺い知る術もないが、元和元年(八〇六年(進士及第の李紳にあっては韋応物の逝去から時を隔つことおよそ十五年、あるいは

「童稚の年」から数えれば二十年、その間一介の読書子であった彼は、おそらく如上の文集を通じて韋応物の滁

州における自然詠の詩に接し、一読三嘆忘れえぬものとなった。このことはまた、この当時の韋応物文集の流通

伝播に伴って彼に関する評価が早い時期に定まっていた

(6)

李紳における韋応物の文学について

あまり重視してはいなかったと述べるのであり、没後となってから人々にも尊ばれるようになるものだと言い添

えている。そもそも右の引用文を含むこの一段は、「愛(重(」の語が主語を換え肯・否定を替えて繰り返し現れ

ており、自身の諷諭詩や閑適詩が如何に受け入れられているのかその実態についての観測を、一世代を遡る韋応

物を引き合いに出して陳述しているところではある。た

だより実態に即して見てみれば、韋応物が晩年、蘇州刺史としてまた文会の領袖にあった際、顧況、劉太真、孟

郊、秦系、皎然などといった文人らがこれに参与し、当の白居易もまた若かりしころ蘇州にあってその盛名に接

していた。したがって、白居易がここにおいて、韋応物の在世中は「人も亦た未だ甚しくは愛重せず」であった

と述べるのは、その晩年についていえば必ずしも当を得た謂であるとは言い難い。それを認めたうえでもなおこ

の一文については、当時の韋応物の評価の状況を指し示していることが確かめられよう。何となれば、韋応物の

逝去に前後して彼の作品がおよそ六百余篇に整理され当 ことを示すものである。  白居易(七七二  八四六(は元和十年(八一五

(((

((、江

州司馬にあって「与元九書」を著し、そのなかで韋応物の文学について所謂「諷諭詩」および「閑適詩」を善く

した詩人であるとしてその名を掲げ、自身はここから範をとったことを明らかにしている。白居易もまた韋応

物の文学を早い時期に評価した人物であるが、「与元九

書」のこの一段

(((

(には韋応物の評価に関して次の通り貴重な消息を伝えている。

   然当蘇州(韋蘇州   筆者注、以下同じ(在時、人

亦未甚愛重。必待身後、然人貴之。

   然るに蘇州(韋蘇州、すなわち韋応物(が在りし時に当たりては、人も亦た未だ甚しくは愛重せず。必

ず身後を待ちて、然らば人

  之を貴ばん。

  これを要するに、韋応物の在世中、人々は彼の文学を

(7)

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李紳における韋応物の文学について

時に通行していたこと、それから間もなく李紳が韋応物の詩に接して彼の作品から「風月の夕」を読み取ったこ

とを、我々はすでに見てきたからである。

  白居易はその後、宝暦元年(八二五(に蘇州刺史に着

任すると「呉郡詩石記」を作り韋応物の詩を「雅韻」の語のもとに賞賛した

(((

(。ここに至る一連の評価は白居易の

韋応物に対する敬慕と私淑の念に発するものではあった

が、このことはあるいは白居易という一点から起こったというより、この間において韋応物評価の幅員をなす空

間的・時間的な広がりが着実に形成され、それを背景として白居易の件の謂があったということではなかろう

か。かく述べるのも、白居易は蘇州刺史に着任し「雅韻」を唱ったが、李紳はその三年後の大和二年(八二

八(に滁州刺史に着任し「和韋応物登北楼」詩を残したのである。のち大和五年(八三一(にこんどは劉禹

錫(七七二  八四二

(((

((が蘇州刺史に着任したが、その劉禹錫も韋応物の「雅韻」を享受したことが分かっている

(なお、離任は同八年=八三四年(。白居易の蘇州刺史着 任から李紳を経て劉禹錫に至るまで十年に垂んとする間に、蘇州と滁州の江淮両地において韋応物という詩人が

その作品とともに顧みられていたという事実は注意されて然るべきであろう。いまその辺の消息を次の通り時系

列にまとめる。

   ◯建中三年(七八二(     韋応物  滁州刺史に着任    ◯貞元元年(七八五(     韋応物  滁州刺史から江州刺史へ    ◯同  四年(七八八(     韋応物  左司郎中から蘇州刺史に着任    ◯同  七年(七九一(     丘丹「所著詩賦、議論、銘頌、記序、凡六百餘篇、行於当時」(墓誌銘(

   ◯元和元年(八〇六(     李紳  進士及第    *  *  *

(8)

李紳における韋応物の文学について

   ◯元和十年(八一五(     白居易  江州司馬「与元九書」を著す    ◯宝暦元年(八二五(     白居易  蘇州刺史に着任    ◯同  二年(八二六(     白居易  蘇州刺史から洛陽へ    ◯大和二年(八二八(     李紳  滁州刺史に着任       在任中、「和韋応物登北楼」詩を著す    ◯同  三年(八二九(末〜同四年初     李紳  滁州刺史から寿州刺史へ    ◯同  五年(八三一(     劉禹錫  蘇州刺史に着任    ◯同  八年(八三四(     劉禹錫  蘇州刺史から汝州刺史へ 三  創作を通じた韋応物の文学の継承

  李紳の「和韋応物登北楼」詩は韋応物の「登北楼」詩 に和したとされるものであるが、しかしながら現行の韋応物集に同題の作は見られない。したがって、これまで先行研究では様々な比定

(((

(が行われてきた。

  北楼は『方輿勝覧』に李徳裕(七八七  八五〇(のも

のとして掲げるが、これよりさき韋応物の作中においてすでに見える楼閣の名である。滁州城の北側に位置し城

内外一帯を南面するものであったのだろう。滁州城(古

名は滁陽(はその西南に瑯琊山、西に豊山を臨み、群峰に囲まれていたため、北宋の欧陽脩は「滁を環 めぐるは皆な

山なり」(「酔翁亭記」(と述べた。城内には西楼、北楼といった楼閣、ならびに東園、南園といった園圃があ

り、また城中には河道が西東に貫き城外北東を流れる清渓(清流河(に注いだため、城南には池塘があったよう

である。瑯琊山には大暦年間に建立された宝応寺(瑯琊寺、西山寺(があった。韋応物は建中三年(七八二(夏

から貞元元年(七八五(にここ滁州に留まり、この間に彼の代表作である七絶「滁州西澗」詩

(((

(をはじめ数多くの

作を残した。この西澗についてはさきの欧陽脩が当地の

(9)

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李紳における韋応物の文学について

刺史であったとき、すでに探し当てられぬものとなっていたという(「書韋応物西澗詩後」『欧陽文忠公文集』巻

七三、四部叢刊(。韋応物の作にはほかにも「西澗即事示盧陟」詩(巻三・寄贈(などがある。彼はこの滁州に

おいて楼閣に登り、園林に遊び、池泉に舟を浮かべ、山林幽谷に僧を尋ねた。この地を概観して「風物

  京国

と殊なり、邑里

  但だ荒榛たり」(巻五・酬答「答王郎

中」(「郡中

  山水多く、日夕

郡園山「」(嘱遊卿王陪南「   幽禽覧遊七・巻」(く聴を   暇日多く、社時

  放吏帰る」

(巻三・寄贈「社日寄崔都水及諸弟群属」(「山郡

  風雨多

く、西楼

  更送な」(弟中送別「四・に巻」(りた条蕭ど

と述べている。

  韋応物の作品全般に見られる傾向として、その作には

郡斎、楼閣、堂宇、園亭、池台、僧舎などといった居所を示す表現が数多く見られることが挙げられる。韋応物

はこういった居所を表現のトポスとして捉え、視界の広がりのうちに起こる変化を追い、日常の時間の流れに留

まる感情を描き出そうとした。このことは他方におい て、その土地の歴史風土を典故とする表現や、民歌や土地歌といった在地性の強い作例が彼の作品には希薄であり、さらに中唐の文学に多く見られる題壁詩が彼の作品には一首も見られないという点にも表れていよう。律令官制を基盤とする官署、あるいは宗門戒律を根拠とする寺院といった場は地域差を減殺し均質な空間を生み出

す。そういった場を捉えて彼は詩を作り出そうとしたの

である。滁州における彼の詩業についても、このような傾向が認められる。ここではその作例の一に、李紳「君

が詠む風月の夕」句に関わるものとして「楼中月夜」詩を挙げたい。晩夏から初秋にかけて月夜に高楼に登った

際の作である。

   端令倚懸檻   端令

  懸檻に倚り    長望抱沉憂   長望  沉憂を抱く    寧知故園月   寧ぞ知る

  故園の月    今夕在茲楼   今夕

  茲の楼に在る    衰蓮送余馥   衰蓮

  余馥を送り

  

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李紳における韋応物の文学について

   華露湛新秋   華露

  新秋に湛う    坐見蒼林変   坐 そぞろに見る

  蒼林の変ずるを    清輝愴已休   清輝

  愴たりて已に

まん(巻七・登眺(    容を正して高楼の欄干に倚り

   いつまでも眺め遣るまま、深い憂いの気持ちを抱い

ていた

   どうして知ろうか、故郷で見る満月が    今宵この高楼に差し掛かかろうとは    季節を過ぎた蓮の花はその残り香を風に乗せ    月光に照り輝く露のしずくは秋の訪れとともに満ち溢れる    やがて青々と生茂る林はその色を変えつつあるのを見てとった

   月のさやけき輝きは悲しみのうちにすでに消えようとしている   高楼を照らす月、それを取り巻く季節の変化や時間の推移が彼の「沉憂」のもとに描き出される。「楼中」を

表現のトポスとして捉え、眼前に広がる変化を憂悶のうちに描き出そうとしたのである。この時の彼の「沉憂」

というのも、故郷長安から官を移されここ滁州に身を置くまま時ばかりが過ぎゆくその憂いでもあり、また建中

四年(七八三(の朱泚・涇原の乱に際して徳宗蒙塵

((1

(後の

長安に思いを遣るその憂いでもあったのだろう。後者については、彼の作中より「京師反乱寄諸弟」詩(巻

三・寄贈下

(((

((によってその詳細が知られ、この作にもまた「憂い来りて北楼に上る、左右但だ軍営あるのみ」と

述べられていた。いずれにしても、この韋応物の「楼中月夜」詩は「今夜鄜州の月」と詠み起こす杜甫の代表作

「月夜」詩一篇を想起すれば明らかなように、例えば杜甫のその作における鄜州(地名(といった具体性、ある

いは妻子といった関係性など、韋応物の右の作においては作者と関わる個別性や具体性は捨象されている。この

ことはとりもなおさず韋応物の文学に備わる如上の傾向

(11)

99

李紳における韋応物の文学について

が認められるからであって、李紳は韋応物の作品からこのような詩句を思い起こしてはまた自身の境遇と重ね、

ここから創作の糧を得ていたのではなかろうか。かくあれば、彼の作において韋応物のこの種の影響を認めるこ

とはできまいか。

  李紳の滁州刺史着任中の作を『追昔遊詩』三巻より求

めると、次の篇が見出せる。

   ◯「守滁陽深秋憶登郡城望瑯琊」詩    ◯「滁陽春日懐果園閑宴」詩    ◯「悲善才」詩    ◯「聞里謡效古歌」詩   このうち、「悲善才」詩は白居易「琵琶行」(江州司馬・元和十一年=八一六の作(や、劉禹錫「泰娘歌」

(朗州司馬のときの作(に連なる作であり、琵琶の楽師である曹善才を追憶する七言二十二韻の歌行体の作、

「聞里謠效古歌」詩は、あるいは次の寿州刺史着任後ま もなくの作

(((

(であろうが、「里謡」すなわち民歌に取材し「古歌」すなわち古楽府に倣った雑言詩である。ここで

は李紳の創作における韋応物の影響が見出されるものとして、七律「守滁陽深秋憶登郡城望瑯琊」詩を取り上げ

たい。滁州に太守たる李紳が秋深き一日、郡の城壁に登り滁州西南の瑯琊山を望んだ追憶のうたである。

   山城小閣臨青嶂   山城

  小閣   青嶂を臨み    紅樹蓮宮接薜蘿   江樹

  蓮宮   薜蘿に接す    斜日半岩開古殿   斜日

  半岩   古殿を開き    野煙浮水掩軽波   野煙

  浮水   軽波を掩う    菊迎秋節西風急   菊は秋節を迎えて

  西風急なり    雁引砧声北思多   雁は砧聲を引きて

  北思多し    深夜独吟還不寐   深夜

  独り吟じて還た寐ねず    坐看凝露満庭莎   坐ろに看る

  凝露の庭莎に満つる

「を

(『全唐詩』巻四八〇(

(12)

李紳における韋応物の文学について

   山々に囲まれた滁州城の楼閣は瑯琊山の青き峰々を臨み    紅色に染まった樹々のなか寺院は蔓草茂る林に接している

   陽は傾き瑯琊山の中腹には古びた殿舎が開かれ    夕靄は川面に浮かんではさざ波を覆い隠す    菊は秋の季節を迎え折から西よりの冷たい風は急に

強まり

   雁は砧を打つ音を連れて北辺への思いは強くなる    深き闇夜に一人詩を吟じては寝も寝られず    やがて夜露が庭前の莎草に満ちるのを目にするばか

  前半四句は詩題に見える滁州城および瑯琊山、ならびに宝応寺(瑯琊寺(について述べ、後半四句は菊花、西

風、雁行、砧声、秋露といった秋にまつわる景物を点描し、景勝地である滁州・瑯琊山の秋の景色を描いた。城

壁の隅角に設えた楼閣(物見台(を表現のトポスとして 捉え、瑯琊山を見張るかす秋の情景を楚辞九弁に淵源する悲愁の情のもとに描き出したのである。後年、李紳は浙東観察使(越州刺史を兼ねる(の任に充てられると、彼はその治所である浙江紹興に所在する楼閣や寺社などを「新楼詩」七律二十首の連作に著したが、この瑯琊山の七律の作はまさにその先駆けとなるものであった。王維「輞川集」二十首にも比せられるべきこの「新楼詩」

連作に至るまで、いわば李紳の詩業において韋応物の自然詠はかく影響を与えていた

(((

(のではなかろうか。後世、

韋応物の滁州時代の作は広く顧みられるものとなるが、李紳はその早い時期にあって韋応物の文学に着目しそれ

を自身の創作の糧としたのであった。

  これに関連して、韋応物の文学がこの時代にあって創

作の規範となっていたことを見ておきたい。この好個の例が次に掲げる、劉禹錫にまつわる話柄である。宋・尤

袤『全唐詩話』巻三、および宋・計有功『唐詩紀事』巻三九はいずれも「劉禹錫」条に見えるものであり、宋・

阮閲『詩話総亀』前集巻五は「評論門」に載せるもので

(13)

101

李紳における韋応物の文学について

ある。

   (劉夢得(嘗言「楽天苦好余「秋水詠」曰「東屯滄海闊、南漾

(((

(洞庭寛」。又「石頭城下作」云「山囲故

国周遭在、潮打空城寂寞回」。自知不及韋蘇州「春潮帯雨晚来急、野渡無人舟自横」」。

(宋・阮閲『詩話総亀』前集巻五「評論門

(((

(」(

   (劉夢得   劉禹錫( 嘗て言えらくは「楽天

  苦 はなは

余が「秋水の詠」を好みて曰く「東屯

漾南 滄海闊く、 ひろ

洞城云に」作の下頭庭石た「又と。」し寛う

「山は故国を囲みて周 しゅうそう(周囲(に在り、潮は空城を打ちて寂寞として回 めぐる」と。自ら知る韋蘇州の

「春潮

雨を帯びて晚来急たり、野渡

自ら横たう」に及ばざるを」と。 人無くして舟   劉禹錫の言として、自身の「秋水詠」詩(『全唐詩』

巻三六五(および「石頭城下作」詩、すなわち「金陵五 題」其一「石頭城」詩(同(の句を白居易はとても好んでいたが、劉禹錫自身はそれらが韋蘇州、すなわち韋応物の「滁州西澗」詩の句には及ばないものであることを理解していたとある。年譜によると「金陵五題」五首連作は劉禹錫が和州刺史にあったときの作、すなわち宝暦元年(八二五(から翌二年の間に著されたものであると

する。右の話柄に見る如く、白居易がこの作を手に取

り「頭を掉 りて苦吟し、嘆賞良 や久しく」(「金陵五題」詩序(したのは当然ながらこの作が著された以降のこと

であって、それはあるいは大和元年(八二七(ごろ、洛陽においてこの二人が邂逅することになった際に生まれ

た佳話であったのかもしれない。年譜によると、すでに蘇州刺史を辞した白居易はこのとき洛陽に滞在してお

り、劉禹錫はこの年、和州刺史から主客郎中としてこの東都・洛陽に分司することになったからである。前節に

おいてすでに見たように、この大和元年の翌年に李紳は滁州刺史に移され当地にて韋応物の作に継和した。中唐

の大和初年の前後において韋応物の文学が斯様に受容さ

(14)

李紳における韋応物の文学について

れていたのみならず、その文学が一定の規範をなして当時の詩歌の創作を先導していたことをここに見るのであ

(((

(。

四  結  語   李紳を通じて韋応物の文学の影響を分析し、これとあ

わせて白居易や劉禹錫による論評をこれに加えて検討を

進めてきた。韋応物が白居易や劉禹錫に影響を与えていたことは別稿においてすでに論じたところではあるが、

本稿では李紳における韋応物の影響について分析を進めたことによってこれまでの間隙を埋めるばかりでなく、

韋応物の文学の受容とその評価について、この当時にあってそれは点綴されたものとしてあったというより、

むしろ一定の重層を保つ広がりのなかにあったことを考察した。

  李紳において認められた韋応物の自然詠の作について、とりわけ彼が韋応物の作を「風月の夕」と捉えてい

たことについては、これが晩唐の司空図(八三七  九〇 八(の所謂『二十四詩品』および彼の詩論に繋がるものであるとする指摘がある

(((

(。すなわち、前者は司空図『詩

品』のうち「纖穠」の一段に見える「碧桃満樹、風日水浜」句

(((

(がそれであり、後者は彼が王維と韋応物を並べて

ともに高く評価していたという点である。前者に関して、郭紹虞はこの「纖穠」一段に対する清・楊廷之『詩

品浅解』の解釈について論評するなか

(((

(で、中唐・李徳裕

の「文章論」に見える「諸 これを日月に譬 たとうるに、終古

常 に見 あらわると雖ども、光景

つね

に新たなり、此れ霊物為 る所

以なり

((1

(」の一文を引用し、『詩品』の一段と李徳裕のこの謂が符合することを示している。

  また後者の、司空図における王維と韋応物に対する評価については、彼の「与李生論詩書」に「王右丞(王 維(と韋蘇州とは、澄澹精緻にして、格は其の中に在り、豈に遒 しゅうきょを妨げんや

(((

(」とあり、また「与王駕評詩

書」に「右丞と蘇州とは、趣味澄 ちょうたりて、清 せいえんの貫 かん

するが若し

(((

(」と述べられていることによる。中唐にお

ける五七言並立から晩唐における七言隆盛に向かう流れ

(15)

103

李紳における韋応物の文学について

のなかで、この当時にあっては韋応物が王維と併称されその自然詠の詩に着目しようとする傾向があったことが

ここより確かに認めらるものではある。しかしながら、このことが韋応物の文学の受容においてその自然詠の作

を早い時期に見て取った李紳に淵源するものであるとするには、なおも検討を要しよう。何となれば、彼の「風

月の夕」の謂について前節においてすでに見たように、

これが初唐の作に由来するものであった如く、中唐の韋応物から晩唐の司空図に至るまでの階梯にはなおも検討

を要するべき段があるからである

(((

(。もっとも本稿で論じた李紳がすでにその一を占めていることは言うまでもな

い。

平「(、」( (。」(萱「 は『店、』(    、『  (( (、 紳集校注』中華書局、二〇〇九所収(。

 (( 『唐代文学史・下』「第十章張籍、王建及李紳/第五節

  」(列、社、九九五(。

に解題が見える。社、二〇〇四   要・』( 成((。は『 (( 伯『』(集、社、

(( この序文は次の通り。

    追昔遊詩序

    追昔遊詩、蓋嘆逝感時、発於悽恨而作也。或長句、或五言、或雑言、或歌或吟、或楽府斉梁、不一其辞、乃由牽思所属尔。起梁漢、帰諫垣、升翰苑、感恩遇、歌帝京風物、邪、楚、沅、嶠、陬、要、江、湖、陵、江、陽、寿春、改賓客、留洛陽、歴会稽、過梅里、遭讒者、再為賓客分務、帰東周、擢川守、鎮大梁。詞有所懐、興生於怨。故或隠、或顕、不常其言。冀知者于異時而已。開成戊午歲秋八月日、紳叙。

   明・亨『一、社、二〇〇三(。

    追昔遊詩、蓋し逝に嘆じ時に感じ、悽恨に発して すなり。り、り、

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李紳における韋応物の文学について

り、或いは歌い或いは吟じ、或いは楽府・斉梁ありて、其の辞を一とせざるは、乃ち思を牽きて つづりし所に由るのみ。梁漢に起ち、諫垣に帰し、翰苑に升り、恩遇を感じ、帝京の風物を歌い、讒邪に遭い、荊楚を播歴し、湘沅を涉り、嶺嶠を逾え、荒陬に抵り、高要に止り、九江に移り、五湖に泛び、鍾陵を過り、荊江を さかのぼり、陽に守り、寿春に転じ、賓客に改められ、洛陽に留り、会稽を歴、梅里を過り、讒者に遭い、再び賓客と為りて分務し、東周に帰し、川守に ぬきんでられ、大梁を鎮す。詞に懐う所有り、興は怨に生ず。故に或いは隠にして或いは顕たること其の言を常にせず。知者を異時に のぞむのみ。開成戊午歲秋八月日、紳叙す。

    お、は、曼『録』「追昔遊篇」(中華書局、一九八〇に詳しい。

(。、中華書局、一九五九音癸籤』巻七「評彙三」 感。」(明・亨『 (( 詩、醒。興、

国社会科学院文学研究所(。 (( 盧燕平「李紳新論」(『文学遺産』二〇〇四年第四期、中

(『湖北職業技術学院学報』第十四巻第一期、二〇〇一述」 (、および杭建偉「李紳研究綜(北京出版社、二〇〇一究」    』「 (( お、は、 年三月に詳しい。

経過は次の通り。 に詳しい。その一連の(、一九七一(中華書局(香港分局 局、び『 吏・九「う『伝( (( と。     会昌二年(八四二李紳七十一歳にして中書侍郎、同中書門下平章事を拝し、同四年(八四四には宰相職にあっ使た(』(年、江都県尉の呉湘について、部人より贓物罪(盗品の譲り受ならびに部民である顔悦の女を妻に娶った不貞行為を訴えるものがあり、李紳は監察判官の魏にこれを取り調べさせたところ罪状通りとして呉湘を刑に処すこととなった。日ならずして、もともと呉氏は代々宰相と仲違いし、り、諫言の官より覆奏があったため、朝廷は詔を下して御史の崔元藻を派遣し再び審理させたところ、贓物罪につい罪、た(書』(。時の宰相・李徳裕はこれに不満で、翌年、崔元藻をで、推(ず、ま、た(』(なお、この翌年の会昌六年(八四六に李紳は七十五歳で

(17)

105

李紳における韋応物の文学について

没し、またこの年、武宗が崩じ宣宗が立つと李徳裕は左遷された。

    年((、納が弟・呉湘の冤罪を訴え「李紳は元宰相であったがためにおのれの都合のいいようにこの地に君臨し(紳以旧宰相   使(、権威を思うままに振るっていたのだ。だいたい罪人を処刑するには秋分のころを待ってこれを行うものであるのに、(『新唐書』(、当時左遷地にあった崔元藻を聴聞するよう求た(』(は「再審は天子がその是非を明らかにするためのものであったはずだが、当時は李徳裕の権力が天下を圧していたため、天子も是非を下せず、罪状も官に付議しないまま、ただ李た(唐書』(。この年の暮、御史台は(無実冤罪を旨として奏したが、それは崔元藻の述べ連ねた呉湘の事案が呉汝納(『』(り、(『資治通鑑』(、故人である李紳は三官を削られその子孫は出仕できなくなった(『新唐書』(。

(( を『

  三(局、(、び『 同、し、明・亨『』((、伯『』((、平『』(を適宜参照した。

(1(

使、詩。和。句止此。見『方輿勝覧』」(『全唐詩』巻四八三「句」(。

(((

宋・穆『輿』(刊、局、(。に「州、詩。史、詩「夕、年。罷、」」る。は「司より州に刺たり」とあるが、韋応物の州刺史着任は比部員外郎を経てからのことであり、左司郎中を経たのち蘇州刺史となった。

    お、宋・之『輿「淮南東路・州」(同、一九九二にもまた「景物」項にる。の「に「二首あったことが記され、また「東園」には李紳の言うそれについて説明が加えられており、後者を根拠として卞孝萱「李紳年譜」は大和三年乙酉条に「東園」の詩が作られたが今は佚して伝わらないとする。

(((

孫望『韋応物詩集繫年校箋』(中華書局、二〇〇二(。なお、韋応物集ならびに墓誌銘についてはその底本を陶敏・勝『』(社、とし、諸本を適宜参照した。また墓誌銘の初出は『文

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李紳における韋応物の文学について

報・期((。については底本所載の「簡譜」を参照した。

(((

清・徐松・孟二冬『登科記考補正』巻一六「元和元年丙戌」(北京燕山出版社、二〇〇三(。

(((

城『』(社、および謝思煒「白居易年譜簡編」(『白居易文集校注』中華書局、二〇一一所収を適宜参照した。

(((

この一段は次の通り。

    微之、夫貴耳賤目、栄古陋今、人之大情也。僕不能遠徴古旧、如近歳韋蘇州歌行、才麗之外、頗近興諷。其五言詩又高雅閑澹、自成一家之体。今之秉筆者、誰能及之。然当蘇州在時、人亦未甚愛重。必待身後、然人貴之。今僕之詩、人所愛者、悉不過雑律詩与長恨歌已下耳。時之所重、僕之所軽。至於諷諭者、意激而言質。閑適者、思澹而詞迂。以質合迂、宜人之不愛也。今所愛者、並世而生、独足下耳。然千百年後、安知復無如足下者出而知愛我詩哉。故自八九年来、与足下小通則以詩相戒、小窮則勉。慰、娛。要、率以詩也。

    (『五「」、社、二〇〇三

    之((、 たか いやし、 は、り。

て、ず。 之に及ばん。然れども蘇州の在りし時、人も亦た未だ甚 して、自ら一家の体を成す。今の筆を秉る者、誰か能く 麗の外、頗る興諷に近し。其の五言詩は又た高雅閑澹に 徴すること能わざれば、近歳の韋蘇州の歌行の如き、才

ん。

しかるも言は質たり。閑適たる者、思は澹なるも詞は うと は、僕の軽ずる所なり。諷諭たる者に至りては、意は激 み。 詩、は、

し。質を以て迂を合す、宜しく人の愛さざるべきなり。

を知るに、率ね詩を以てすればなり。 相い慰め、同処たれば則ち詩を以て相い娛む。吾が最要 なれば則ち詩を以て相い勉む。索居たれば則ち詩を以て より来、足下と小通なれば則ち詩を以て相い戒め、小窮 でて我が詩を愛するを知るもの無からんを。故に八九年 み。然るに千百年の後、安ぞ知らん復た足下の如き者出 は、る、     なおここで指摘しておくべきは、白居易自身の諷諭詩ならびに閑適詩は一世代前の韋応物のそれに範を取ったものと示すのみならず、「愛(重(」の語を通じて自身のそれが如何に受け入れられているのか、それについてもまた韋応物に引き合わせて述べていることである。すなわち、韋応

参照