奈良教育大学学術リポジトリNEAR
韋莊詩における「抒情性」−詩語<愁>を中心に−
著者 広瀬 智
雑誌名 奈良教育大学国文 : 研究と教育
巻 23
ページ 13‑24
発行年 2000‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10105/10722
血呈肚詩における﹁拝情性﹂
i詩語︿愁﹀を中心にー
広瀬智
卑荘の生きた晩唐期(八三ハ〜九〇きは︑概ね唐詩衰退期と評され︑
杜甫・白居易などの生きた盛・中唐期に比べて注目されることが少
なかった︒
例えば前野直彬氏の﹃中国文学史﹄(注一)では﹁晩唐は︑中唐
期の韓愈・白居易らの質実剛健な詩風が一変し︑李賀の流れをくむ
艶麗の風が詩壇全体をおおうことになった﹂とし︑また村上哲見氏
は﹃唐詩﹄(注二)の中で﹁晩唐においてもきわだった詩人たちが
つぎつぎに登場するが︑全体の傾向としては没落の時代にふさわし
く︑頽廃的・唯美的で︑繊細な感覚を主とするところに特色があ
る﹂と指摘して︑杜牧・李商隠︑次いで温庭箔・章荘を列挙し︑彼 ら晩唐詩人が単に頽廃・唯美(耽美)の詩を詠うのみならず︑歴史
に目を向けた︿詠史詩﹀(注三Vをも多く詠んでいる事を指摘して
いる︒
杜牧の﹁泊秦潅﹂に於ける﹁商女は知らず亡国の恨み︑江を隔て
て猶お唱ふ後庭の花⁝﹂の句や︑李商隠の﹁錦蘇﹂の﹁荘生の曉夢
胡蝶に迷い︑望帝の春心杜鴫に託す⁝﹂の句︑或いは︑次に挙げる
温庭均が玄宗に仕えた楽人を詠った﹁蘇武廟﹂の﹁蘇武魂錆漢使の
前︑古祠高樹雨つながら荘然﹂などは︑それぞれ清代︑蕎塘退士に
編纂された﹃唐詩三百首﹄にも収録され︑晩唐に於ける︿詠史詩﹀
を代表するものと言える︒
村上氏は特に温庭均の︿詠史詩﹀を﹁多くは享楽の果てに破滅を
招いた人物で︑しかもそれを批判するのではなく︑むしろ華麗な生
活にあこがれ︑それがはかなく頽れ去ったことを哀惜する﹂もので 13
あり︑この傾向こそ︑宋代に隆盛を極める︿詞﹀(注四)の世界へ
と続くものと評価している︒換言すれば温庭均の︿詩詞﹀は﹁滅び
への哀歌﹂とも言うべきものであり︑それは晩唐詩全般の特徴とも
言えるのである︒
しかし︑章荘の代表作﹁秦婦吟﹂を始めとする一連の︿社会詩﹀
(注五)に目を向けた時に︑上述の﹁批判するのではなく︑むしろ華
麗な生活にあこがれ︑それがはかなく頽れ去ったことを哀惜する﹂
あるいは﹁耽美的︑享楽的な性格を一面の特色とする晩唐の詩風﹂
と必ずしも一致するものではないと私には感じられるのである︒
二
章荘もしばしば︿詠史詩﹀を作っており︑
代表的なものであると言えよう︒
59 成 通
威通時代物情奢
歎殺金張許史家
破産競留天上樂 以下に挙げる詩はその
威通時代物情奢り
歓殺す金張許史の家
産を破りて競ひて留む天上の樂 鋳山争買洞中花
諸郎宴罷銀燈合
偲子遊逼壁月斜
人意似知今日事
急催絃管送年華 鋳山し争ひて買ふ洞中の花
諸郎宴罷りて銀燈合し
傷子遊 すれば壁月斜めなり
人意今日の事を知るが似く
急ぎて絃管を催し年華を送る
この詩は成通時代(八六〇〜八七三)の貴族達の贅を極めた様を描いて
おり︑かつての繁栄の様子を︑誇張過多とも言える描写や︑張り詰
めんばかりの美しさで表現しており︑上述の村上氏の指摘する晩唐
詩の﹁頽廃性・唯美性﹂と符合するように思われ︑温庭均の﹁滅び
への哀歌﹂たる︑後ろ向きな晩唐の詩風にも一脈通じる面が有るよ
うに思われる︒
更に︑卑荘もまた︿詞﹀を善くし︑その先駆者として温庭箔と並
び称され︑それらは後蜀の趙崇柞の編纂した詞集﹃花間集﹄に多数
収められている︒(資料年表参照)
清平楽
春愁南阻
故國音書隔 春の愁南の阻
故國の音書隔つ
細雨罪罪梨花白細雨罪罪とし梨花白く
燕携豊簾金額燕壷簾金額を払ふ
蓋日相望王孫
塵満衣上涙痕
誰向橋邊吹笛
駐馬西望錆魂 蓋日王孫を相望し
塵滞つ衣上涙の痕
誰か橋邊に向かひて笛を吹く
馬を駐めて西を望めば魂錆ゆ
村上氏は章荘の︿詞﹀に関して﹁章端己は︑その悲傷をかなり直
接的に表現する︒⁝長安洛陽を離れて漂泊するおもいを詠じている
ことは確かである︒⁝士大夫としての境遇︑もしくはその中におけ
る士大夫的な心情が︑かなり濃厚に︑あるいは直接的に表されて﹂
(注六)いると指摘している︒
また青山宏氏は﹁⁝歓楽追求は︑唐末五代の乱離の世相を反映す
るものである︒⁝これは︑より耽美的︑享楽的な性格を一面の特色
と す る 晩 唐 の 詩 風 と 軌 を 一 に す る も の で あ る ﹂ ( 注 七 ) と し ︑ 山 本
敏雄氏は﹁⁝自己の個人的な事件を主観的にうたうということで詞
の好情の一面を広げたが︑そこに表現されるのは殆ど︑愁い︑悲し
みという特定の情の集中的な表現である﹂(注八)とそれぞれ村上氏
の論に近い意見を述べている︒(以上傍線筆者) しかし︑これら各氏の定義する卑荘の︿詩詞﹀評には︑若干の違
和感を覚える︒
これは﹁己の個人的な事件を主観的にうたう﹂いわば拝情(注
九)詞人としての卑荘像と︑﹁秦婦吟﹂を始めとする︿社会詩﹀を
詠じた叙事詩人としての卑荘像との相違に起因するものであると思
われる︒
このことから︑本稿においては︑﹁何が私に違和感を覚えさせる
のか﹂をより深く解明するため︑好情表現に多く用いられる詩語
く愁Vを一例として取り上げ再検討を試みたい︒
三
村上氏・山本氏に﹁その悲傷をかなり直接的に表現する﹂﹁愁い︑
悲しみという特定の情の集中的な表現である﹂と指摘されるように︑
章荘は悲哀に満ちた詩詞を多く詠んでおり︑特に︿愁﹀語の多用が
顕著である︒現存する三一〇首余りの中で︑章荘が実に三六首中に
︿愁﹀の語を詠み込んでいるのは甚だ特徴的といえよう︒
﹃全唐詩索引章荘巻﹄(注+)によると︑﹃全唐詩﹄中(外編
・詞・句を含む)の卑荘の詩の総字数︑二万三千百十五字の中で 15
︿愁﹀語は五十二字使用され︑全体のおよそO﹄卜︒毅に上り︑︿寂﹀
三十六字︑︿恨﹀三十一字などに比べても非常に多い︒
またこの数値は他の詩人と比べても使用頻度は高い部類に入る︒
(表1参照)
表1﹃全唐詩索引﹄における詩人たちの︿愁﹀の使用頻度
詩人(生没年は西歴)使用数
頻 度 ( 尽)
全首数総字数李白(七〇一〜七六二)
1 6 0 O﹂ 罐 曽 ㊤
⑩↓αo◎o◎杜甫(七≡〜七七〇v188O◆一罐
q O O
一b︒一Φ㎝ω白居易(七七二〜八四六)
3 0 9
O●一ωQ︒Φ 謡
b︒b︒転Oc◎杜牧(八〇三〜八五三)
5 5 9 一 ご B ⑩ ω 器 呂
李商隠(八一二〜八五三)
6 4
ρ一〇Qo①魅 ⊃
QoωOoOωω
温庭笏(八一二?〜八六六)
8 2
ρbO⑩cn心ω㎝卜 σ刈ミ①O
章荘(八三六〜九一〇v
5 2
O●bのト コ
釦ωQo卜QbQω一一㎝
韓僅(八四四〜九二三)42ρ卜o一〇ω劇刈一⑩ミQo
単純に数宇の上だけで比較することには危険を感じるが︑晩唐期
になると︿愁﹀語が多用されるようになった事︑卑荘が頻繁に
︿愁﹀を含む詩を詠んだ事は︑彼の拝情の中心に︿愁﹀があると考
えていいだろう︒ その拝情の質を確かめるために︑次に章荘の詩の中で︿愁﹀がど
のように用いられているかを見てみたい︒︿愁﹀語を含むそれぞれ
の詩を見た上で︑次ぺージ表2では﹁自らの愁い﹂﹁他者の愁い﹂
﹁その他﹂の項に分類してみた︒(なお詩題及び︑その上に記した
番号は﹃卑端己詩校注﹄(江聡平台湾中華書局お①㊤)に拠ったも
のである︒)
表2のように︑章荘は︿愁﹀を﹁他者の︿愁い﹀﹂などを表現す
る時に使用することは少なく︑多くの場合に﹁自らの︿愁い﹀﹂を
表していると言える︒
これは山本氏の指摘するように︑﹁自己の個人的な事件を主観的
にうたう﹂ことの傍証と言えるのであろうか︒
いま少し︑その質を検証するため︑次章では︿愁﹀を含んだ詩を
鑑賞し︑︿愁い﹀の構造に迫っていく︒
表2章州荘の︿愁﹀の種類
愁の種類
自 ら の 愁 い
他者の愁い
その他 使用している詩の題名
36
37
38
62
07 61 16 17
42 23
77 62 30
97
31 25
21
18
1116
023
﹁ 冬 日 長 安 感 志 寄 獣 號 州 崔 郎 中 二 十 韻 ﹂
﹁ 和 醇 先 輩 見 寄 初 秋 寓 懐 即 事 之 作 二 十 韻 ﹂
﹁ 同 苞 韻 ] 39 ﹁ 三 用 韻 ﹂ 40 ﹁ 驚 秋 ﹂ 43 ﹁ 愁 ﹂
﹁宿 泊 孟 津 寄 三 堂 友 人 ﹂ 69 ﹁ 冬 夜 ﹂ 76 ﹁ 清 河 縣 作 ﹂
ヨ ﹁春 愁 ﹂ 5 ﹁ 遣 興 ﹂ 6 ﹁ 江 上 村 居 ﹂ ﹁ 和 鄭 拾 遺 秋 日 感 事 一 百 韻 ﹂ 脳 ﹁ 避 地 越 中 作 ﹂
﹁ 訪 濤 陽 友 人 不 遇 ﹂ 謝 ﹁ 螂 州 留 別 張 員 外 ﹂
り り り ﹁ 成 陽 懐 古 ﹂ 5 ﹁悔 恨 ﹂ ※ 1 7 ﹁ 春 愁 ﹂ り の ﹁ 買 酒 不 得 ﹂ 95 ﹁ 飲 散 呈 主 人 ﹂
﹁ 贈 峨 媚 山 弾 琴 李 虞 士 ﹂ 繊 ﹁ 秦 婦 吟 ﹂ ※ 2 二 十 三 首
﹁ 歳 除 封 秀 才 作 ﹂ 11 ﹁ 寄 湖 洲 舎 弟 ﹂ ﹁ 悔 恨 ﹂ ※ 1 棚 ﹁ 秦 婦 吟 ﹂ ※ 2 49 ﹁ 姫 人 養 諺 ﹂ 2
五 首
﹁ 夏 夜 ﹂ 58 ﹁ 憶 昔 ﹂ 93 ﹁ 和 元 秀 才 別 業 書 事 ﹂
﹁陪 金 陵 府 相 中 堂 夜 宴 ﹂ 必 ﹁ 潤 州 顯 濟 閣 曉 望 ﹂
﹁ 旅 中 感 遇 寄 呈 李 秘 書 昆 仲 ﹂ 蹴 ﹁庭 前 桃 ﹂
リ ワ ﹁ 上 春 詞 ﹂ 0 ﹁ 撫 檀 歌 ﹂ 0 ﹁ 下 邦 感 菖 ﹂ 3 3 十首
とも
※ 1 ﹁ 悔 恨 ﹂ は 女 性 と 卑 荘 が ﹁ 同 に 愁 え ﹂ た の で 卑 荘 ・
他 者 双 方 の 愁 い に 分 類 し た ︒
※ 2 ﹁ 秦 婦 吟 ﹂ は ﹁ 女 性 の 嘆 き ﹂ と い う 形 を 取 っ て 真 荘
が 身 の 心 情 を 詠 ん だ 詩 で あ る 為 ︑ 章 荘 ・ 他 者 双 方 の 愁
い に 分 類 し た ︒
四﹁ 童 ・端 己 年 譜 ﹂ ( 注 + 一 )
よ う な 記 述 が あ る ︒
の大順二年⊥旱荘五六歳の項には以下の端己五十以後︑六七年間︑求仕求食︑來往萬里︑至此傍失意節︒
(端己五十以後︑六七年の間︑仕を求め食を求め︑來往すること
万里︑此にいたりて失意して帰る)
この一文に象徴されるように︑卑荘は及第するまでの間に︑洛陽
・江南地方を初めとする︑各地を放浪し︑その中で多くの詩を詠ん
でいる︒彼の詩に次のような異色とも言える作品がある︒(以下︑
第四節・五節の傍線・波線は筆者が施したものとする︒)
馴避愁愁又至
愁至事難忘
夜作心中火
朝爲髪上霜 愁を避くるも愁又至り
愁至りて事忘れ難し
夜に心中の火を作すも
朝に髪上の霜と爲す 17
不経公子夢
偏入旅人腸
借問高軒客
何郷是醇郷 経ず公子の夢
偏に入る旅人の腸
高軒の客に借問す
何れの郷ぞ是れ酔郷かと
﹁卑端己年譜﹂によると︑この﹁愁﹂詩は廣明元年(八八〇)十二月
に黄巣が長安に侵入する以前の作とされている(注+二)︒
この詩では四十代半ばの卑荘が︑仕官の夢が叶わず放浪する︿愁
い﹀多き日々が﹁経ず公子の夢︑偏に入る旅人の腸﹂という句に象
徴的に表れていると言え︑その思いの強さ故に詩中に三度も︿愁﹀
語を詠み込んだと推測できる︒
第三節で﹁自らの︿愁い﹀﹂に分類した詩の多くはこのような放
浪の日々の中で詠まれたものである︒ここに︿愁﹀を含む対句を中
心に挙げ︑その︿愁い﹀の強さを確認することとする︒
方愁丹桂遠
巳怯二毛侵 方に丹桂の遠きを愁い
已に二毛の侵すに怯へる
(38同菖韻
十 一 ・ 十 二 句 )
解績西征未有期椀花又迫桂花時
鴻腫階上蹄耕晩
金馬門前献賦逞
只恐愁苗生両髪
不堪離恨入隻眉
分明昨夜南池夢
還把漁竿詠楚詞
無人爲我磨心劔
割断愁腸一寸苗
荘荘四海本無家
一片愁雲麗秋碧 ともつな縄を解き西征するも未だ期あらず
かいか椀花又た迫る桂花の時
こうろはくじょう鴻膣阻上に蹄耕するに晩く
金馬門前に献賦するに逞し
只だ恐る愁苗の両讐に生ずるを
堪へず離恨の隻眉に入るに
分明なり昨夜の南池の夢
ぎよかん還た漁竿を把りて楚詞を詠ふ
(62宿泊孟津寄三堂友人)
人の我の為に心剣を磨く無ければ
愁腸を割臨す一寸の苗
(69冬夜転句・結句)
忙々たる四海に本より家無く
一片の愁雲秋碧に麗る
(30贈峨媚山弾琴李庭士
五 ・ 六 句 )
彼を苛むのは︑そのような個人的な事件だけではない︒時は正に
﹁黄巣の乱﹂に象徴される戦乱の世である︒章荘は︿戦乱詩﹀(注