慶応四年の長崎鎮定と副島種臣
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(2) 慶応四年の長崎鎮定と副島種臣 遠館)の舎長を勤めた(1)致遠館の外国人教師 は,米国より来日したフルベッキであった。. こ. 161. 韻事も亦承諾をした。 彼等は実は早く知つとる。 其れから長崎も静まって,各国領事も王命に服す ると云ふことを京都に告げねばならぬ。 そこで衆 が私と薩摩の沖と云ふ両人早迫で行が宜からうと. こで,副島は長崎在留の佐賀藩士へ,和漢を教 授する傍ら洋学に励む。. 云ふて勧めたに依って,そこで早迫で京都に行っ た。 一番に西郷南洲なる者に会ふた。 さうした所. 慶応3年3月,副島,大隈両人は,徳川麗喜. が委細三傑岩倉にも告げて,神戸に於て仏蘭西公 ‑大政の奉還を建白する為,長崎から脱藩す. 使が一人矢張り承諾をせずして居らる、から直ぐ. 土佐藩の藩船で上京し,幕閣の原市之進へ る。 建白するも,失敗。 その後,佐賀で謹慎生活を. に神戸に行ったならば宜からう。 そこで神戸に行 って仏蘭西公使に会ふた。 さうして一通りの長崎. 送る。 翌年の慶応4年1月,再び正式に長崎へ. の話をし,最早参った時は,仏蘭西公使も折れて. 渡ってきたのであった(2). 居ったか祈れるべき時に会ふたか直ぐに承諾され た。 そこで一応長崎の連中にも復命しなけりやあ. 副島自身が回顧した「経歴偶談」には,慶応. なるまいかと恩ふて,其れから長崎に帰った。. 4年1月の様子が簡潔に述べられている。. この. 回顧談は,本論で最も参考となる為,長文に渡 るものの引用する[島2004:407‑4091c. 処 が明治元年二月の末か三月の初めに亦朝廷より徴 命ありて乃ち参与と云ふものを命ぜられた。 副島の視点では,長崎鎮定の流れが上述のよ うであった。著名な副島の伝記である『副島種. 長崎に着して三日目に伏見の変動を聞いた。 之を 聞くの日が長崎でも騒ぎで有った。走れより先き,. 臣伯』において,筆者の丸山は「つまり先生は. 長崎に日本の有志者が集まったものが頗る多く有. 自ら,無政府状態の長崎で,日本の国権を保持. りたるが,第一佐々木三四郎なんど云ふ男であっ. したのだ。一介の書生が,自治的に税関長とな. て,諸藩の士楠本正隆とか何とか云ふ者が其処に 集まった。 私も末座に列った。 然るに此時,長崎. ったのだ。こ,に初めて伯は光輝かしい外交的. に在る各国額事が日本帝国の御維新と云ふことを. 初舞台を踏んだのだ。 (中略)斯の如くして,. まだ知らない。 而かも其時,旧幕府の長崎奉行な る河津伊豆守なる者は脱走して仕舞ふて居る。 故. 先生は極めて自然に,寧ろその逆運が福となっ. に維新の事を各国嶺事に報告するには私よりする が宜しからうと云ふことを衆の勧めに依って,私 が始めて外国人と談判をした。 即ち私は王政の維 新の行はるべき所以を述べて徳川は自ら逆臣に陥 られて,即ち長崎港も亦其奉行の職を棄て,逃げ. た形で,明治新政府の人となったのである」と, 長崎の混乱鎮定との関係を記し,副島が新政府 へ出社したきっかけを,外交交渉の成果におい ている[丸山1936:96]cただし,管見の限り. た。就ては今,明治新政府の官吏が上国より長崎. では新政府の主要人物から,副島抜擢について. に下るまでは,我々が此港の政治を保管して其政. 触れた証言や文書を確認していない。. 治をするから,各国の関税も滞りなく納めらる、 やうにと言ふた。 所が各国嶺事の内に仏蘭西の韻. 以上が,鳥羽伏見の変直後の副島種臣の動静. 事が柳か何とか彼とかと述べられた0 本国公使か. 副島は,「維新の事を各国韻事に報告」 である。. ら達せらる、までは敢て命を奉ずることはならぬ. した事と,「長崎も静まって,各国領事も王命. と云ふ意味である。そこで私日く,本国公使から. に服すると云ふことを京都に告げ」る役割を. 達せらる、まで敢て命を奉ぜぬと云ふならば,本 国公使から達せらる、までは商法をせぬと云ふ決 心か。商法をする積りならば必ず命を奉ぜらるべ きであると云ふ様な意味で談判したが,詰り仏国. 担ったのであった。.
(3) 162. 1‑2.. 土佐藩. 得共,同藩ハ,佐幕ノ風有之候事ニテ,胸襟. 土佐藩土佐佐木高行が,長崎会議所の中心人. ハ開カズ,能キ程二談話ス」と記す[佐佐木. 物の1人であった事は前述した。 佐佐木が長崎. 副島や大隈ら佐賀藩士は,まだ 1972a:457]。. ‑渡ったのは,慶応3年8月15日である。立場. 「佐幕ノ風」と見なされていたのである。. 佐 は後藤象二郎の後を継レ、、で大監察であった。 佐木の第一任務は,英国水夫殺害事件の真相を. 1‑3.. 大村藩. 確かめる事であった。 殺害の嫌疑が土佐藩士に. 大村藩の藩論は,慶応4年1月時点で勤王に. 当 かかっており,佐佐木は奉行所を往復する。. まとまっていた. 同年2月,藩主大村純源は長. 時の様子ついて,「幕府の方も権力が堕ちて来. 崎取締として,揮宣嘉に随行し,長崎へ渡った。. 殊に才谷な たから,モウどうする事も出来ぬ。. 藩士の渡辺昇は,早くから勤王派として有名で. どは藩の脱走人であり,また伏見一件なども. あった。 元治元年,藩論は,この渡辺主導によ. あって,当然逮捕すべきものであるが,夫が公. る三十七士同盟を以て,勤王となったのである. 然奉行所に出入しても手を付ける事が出来ぬ」. [外山1993:89‑90]c慶応年間には,伊藤博文,. 才谷とは坂 と,回顧する[津田1915:461‑2]。. 高杉晋作,西郷隆盛,木戸孝允と会談するなど,. 本龍馬のことである。 更に坂本から奉行が,金. 頻繁に長崎や大事府を訪れ,勤王の諸藩士と連. を貯蔵している事を聞き,奉行所の占領も想定. 携を強めた。. していたようだ[平尾1941:302]c. 渡辺は,慶応4年1月の藩主東上に先立ち,. このように佐佐木は,幕府権力の衰退を洞察. 前年の12月22日大村を発する。 その後,神戸事. していたため,慶応4年1月,長崎奉行の出奔. 件に伴った豊瑞丸事件を解決し,藩主と共に海. 後,海援隊士らと共に長崎を最も早く手中に収. 路上阪する。 しかしまもなく,病を得たため大. めたのであった。. 村に帰郷した。 慶応4年1月15日に長崎出張を. ところで奉行出奔直後,長崎の中心的人物と. 命ぜられ,4月には長崎裁判所から「諸郡取調. なった佐佐木は,在留諸藩士とどのような関係. 掛」を拝命する[松井1981b:24‑25]c. 土佐藩は,薩摩藩と王政復古の にあったのか。. しかし渡辺は,奉行退帆直後の長崎にはおら. 盟約を慶応3年に結んでおり,長崎において. ず,長崎会議所には,稲垣治部左衛門や楠本. ま も,佐佐木と桧方は非常に懇意であった.. 楠本は,渡辺と同志であり, 正隆が参加した。. 面会の た,同地で木戸孝允とも面会している。. 佐々木が枚方正義と共に頼みとする人物でも. 斡旋を坂本龍馬が行った。 佐佐木は木戸と,勤. あった[津田1915:585]。 また稲垣も藩論を勤. 王の志を語り合った後,長州の汽船修繕費用の. 王に導いた一人であり,藩校五教館において,. 副島と大 補填を承諾する[津田1915:475‑6]。. 藤田東湖の『回天詩史』を紹介するなど,渡辺. 隈重信には,慶応3年8月25日に面会する。 た. と近しい関係にあった[松井1978a:7][外山. だ佐佐木は「夕刻ヨリ,肥前藩士,副島次郎二. 1993:901c. 藤屋二会ス,此頃,肥前人ニハ副島次郎・大隈. 付言すると,九州鎮撫総督の津宣嘉と,大. 八太郎両人,尤モ人物ト間ケリ,時勢談致シ候. 村藩主大村純灘を大阪から長崎まで運んだ汽.
(4) 慶応四年の長崎鎮定と副島種臣. 163. 船が,佐賀の藩船,甲之丸である[外山幹夫. どのような経緯で考えたのであろうか。. 1993:181]。. 慶応4年1月10日,筑前藩聞役栗田貢は,英 国船より,京都の3日から6日の情報を手に入. 1‑4.. 薩摩藩. そこで,栗田は通常と同様,奉行所‑報 れた。. 薩摩藩主島津斉彬と,佐賀藩主鍋島閑里は,. 告に赴いた。. 母親が姉妹の為,従兄弟関係にあたった。. また 奉行河津伊豆守出会有之候テ,去ル九日,上棟大. 両公は,江戸での会合を通じて,親しい関係を. 坂御立退二相成大坂城焼失候段,追々外国人共ヨ. 築いていたといわれる[中野1920:15ト152]。 長崎会議所へは,桧方正義が参加する.. リ申出,就中仏蘭西「コンシェル」ハ,上棟御立. は,慶応2年に海軍御船奉行となる。. 松・方 藩内での. 洋式教練は歩兵のみであったため,藩老の桂久 武へ海軍研究を申し込む。. 退之処へ罷出候テ御逢申上候旨ヲモ申出,実正二 相違無之 すでに奉行は,京都,大阪の情勢を把握して. これが受理される. また,仏国領事と将軍の会合にも言及し いた。. と,沖直次郎と共に期鳳丸で長崎へ渡った(3). ている[長崎警衛記]。. 当初,松方は海軍関連の勉学に励むが,慶応. 奉行は,更に栗田‑,. 3年以降,薩長雨藩の接近にあわせ,軍艦の購 当所之儀,江戸役方滞留相成候テハ万一擾乱ニモ. 入を試みる。おもな交渉相手はグラバーであっ. 可及申約ル処,場所柄之儀ニテ持コタへ出来候儀. た。 しかし購入した汽船,春日丸の軍装問題で. ニテ無之候処,無用之長居ニテ戦争等想起候テハ,. 上役と衝突し,御船奉行を辞する。. 何様下々迄モ不一方難儀ニテ全無詮事故,‑先奉. その後,兵. 行初,支配向等,不残引払候心得二付,跡之処御. 器購入の任を帯びて,再び長崎へ渡ってきたの. 国許ニテ御引受被下問敷哉之段,強テ頼談こ である[公爵島津家1918:ll‑15]c奉行出奔後 の長崎では,長崎会議所設立,運営に尽力し,. と,出帆後の長崎行政を,筑前藩が預かるよう,. 佐佐木高行の最大の協力者となった。. 強く要請した[長崎警衛記]。. しかし1月10日. 以前から,奉行は長崎出奔を考えていたようで 2.長崎奉行出奔と諸藩士集議. 奉行は出奔の理由を,民衆の苦難と戦争 ある。. 前節において,薩摩,土佐,両藩藩士の動向. の不利に置いているが,戦争の不利に関してい. を確認したが,その活動は,長崎奉行に対立し. えば,1月8日,洋式軍隊の撤兵隊を手放して. たものであった。この状況が,鳥羽伏見の変以. いた。. 降,非常に悪化し,奉行は出奔を決意する。. 本. 当時,長崎には,西役所と立山役所が存在し,. 節では,奉行出奔までの状況,長崎会議所設立. 地役人も多く勤めていた。 西役所に在勤した地. までの経過,そして佐佐木高行と副島種臣の関. 役人の日記,「長崎日記」をみていくと,1月. 係について,考察を加える。. 12日の段に,. 2‑1.. 長崎奉行の出奔準備. 長崎奉行河津伊豆守は,長崎出奔をいつ頃,. 例刻早夕,西御役所出勤致候処,京坂不容易形勢 二付,普地之義も夫々手首等不致御坐候節は急場 之義も有之候二付,昨十一日夜より,組頭,調役.
(5) 164. 定役,泊番致侯義,相決候趣二付,当夜同番相当 留スル者,唯,足軽門番,畑平助一人二過サルニ り候二付,其侭居締り候事 とある(4)。 11日は地役人へも,京都の状況が伝. 至レリ(中略)邸内,既二藩士ノ隻影ナシ,侯嵯 嘆シテ以為ク,何ソ怯憶狼狽ノ甚シキコト斯ノ如 ク,其醜状玄二至ルヤ,若シ藩邸ノ焼打二道フニ. えられ,変乱に対する処置を命ぜられた。. 当り,‑士ノ留マル者ナカラン平,是レ実二我藩. このように,奉行は1月10日以前に,3日の. ノ恥辱ナリト,乃チ泰然自若トシテ,唯独り邸内. 鳥羽伏見における敗戦,更には,将軍の東帰ま. 二留マリ居ル. そこで,役所でも緊 でも知っていたのである。. と,薩摩藩邸に留まっていた。 そして,同僚の. 急に備え,宿直が命ぜられた。 ただし,栗田に. 不甲斐無さを嘆き,佐々木高行だけが頼りで. は出奔の意志を伝えたものの,地役人には,10. あったと,回顧している[松方1979:1381c. 日以降もこれを伝えなかったのである。. また,肥前有田出身の谷口藍田は,薩摩藩邸 焼き討ちや,長崎市中の様子を「十二日(中略). 2‑2. 長崎の緊張激化. 此夜有薩邸自火之批言,人心淘々,終夜移家具」. 佐賀藩士が,京都の情報に接したのはいつ頃. と記している[藍田先生日暦]。. 「長崎贈答」にある「正月十二日 だったのか。. 佐賀藩聞役,重松善左衛門が佐賀藩庁へ出し. 長崎より来着」の中で,江戸の薩摩藩邸や鳥羽 た,12日付の報告書に この点から筑前藩同 伏見の変を報告している。 当地薩州屋敷今夜為自火,彼方出崎之人数引払候 様,1月10日には,上方の情報に接していたで. 哉之由内密相聞侯,右屋敷最寄西演町同坐跡辺,. あろう。. 昼三字比より,俄二家々家財取片付ケ候由にて混. 1月9日深夜,国内情勢の急変に動揺する長. 雑之儀御坐候,. 崎を,更に混乱‑落とし入れる事件が発生し. と記している[長崎贈答]。 重松の確認した薩. た。 午前2時頃,本古川町を火元に火災が発. 摩屋敷の様子は,松方の言う「薩士四方二離散」. 生,海岸に向かって,榎津町,万屋町,潰町,. 桧方は,「焼打 していた時にあたるであろう。. 築地あたり迄を焼き,土佐藩士の拠点であった チ」と,また重松は「自火」と,情報に違いが 土佐商会までも焼き尽くした[藍田先生日暦]。 生じており,この点から,市中の混乱振りも伺 この火事騒ぎは,多くの流言飛語を生み,奉. える。. 行や在留諸藩の緊張は一気に高まる11,12日,. 一方で長崎奉行は,西役所の警備を厳重にし. 薩摩藩邸が長崎奉行によって焼き討ちに合う, た。 重松善左衛門が12日付けの報告書で, と噂される。 この時,桧方正義は 正月十一日,夜来奉行所ヨリシテ,薩邸焼打ノ暴. 方今之形勢二付,御奉行河津伊豆守殿余程心配之 (判読不能) 御様子にて,近此俄二西御役所式台前,口はば之. 挙ヲ敢テセントスルノ風聞アリ,何時如何ナル場所,左右こ野戦銃二挺充御備付相成外こ,モルチ 合こ,不慮ノ災厄二遭遇シ,椿事ノ突発スルナキ ルー挺被御取寄,右筒懸之儀,麦元遊撃隊より数 ヲ保スヘカラス,而カモ頼ムヘキノ同志ハ,当時 十人,毎夜御役所式台内相詰不寝番二両,御役所 僅二佐々木三四郎アルノミ,而カモ何ソヤ風聾鶴内不絶廻り方有之居申候 嘆二脅カサレタル薩士四方二離散シ,或ハ長崎市 外ノ山中二穏伏シ,遂ニハ国二帰リテ,藩邸二残 と,記した[長崎贈答]。.
(6) 慶応四年の長崎鎮定と副島種臣. 165. 奉行は,討幕志士の襲撃を危供し,兵を不寝. 先江戸表へ罷越候,右は土地人民之為にも有之候. 番に立たせた。これを受け,佐賀藩側も,「昨. 間,留主中之儀は諸懸リ之是迄之通り相心札美 濃守月巴前守家来申談相勤候様可致候事. 夜より御役所泊番相始り居候」と,交代で不寝 番に勤めることとなった[長崎贈答]。. と記されていた。長崎奉行は,自分が不在の時 は,留主を任せてある肥前,筑前両藩に従い,. 2‑3.. 奉行河津伊豆守の長崎出奔. 何かあれば両藩の藩士に相談せよ,と指示を与. 1月13日,佐佐木高行と,桧方正義が今後に. えたのであった。 「左之書付」は「長崎日記」. ついて協議を行った。 そこで奉行と会談を持つ. において,支配向き‑の書状の他,各藩聞役,. 事に決まり,佐佐木が西役所を訪れた。. 地下役人,市中年寄,町方掛宛が掲載されてい. 会談で. は,長崎が国際関係にとって重要な土地であ. 各々書状の内容が,類似したものであるか る。. り,なるべく戦いを避けたいということ,また. ら,特に聞役宛の書状を引用した。. 戦いが避けられないならば,互いに宣戦を布 当今不容易趣相聞候二付,支配向召連,‑ト先ツ 告して正々堂々戦うことが確認される[平尾. 両家御預り所二相渡候間,土地取締方,地下之者 ママ 共取扱方は勿論,御成固筋井,外国商法,税銀取. 1941:294‑5]c. 立方等之義,都而取計候様可被致候,且地役之者. 13日の西役所は,地役人へ御用始めの祝品が. は其侭相残候間,是又申談侯棟可被致侯,尤製鉄 振舞われるなど,まだ平静を保っていたようで. 所取扱方之儀之支配定役格,本木昌道より申付置. ある[長崎日記]。. 候臥此段も可被心得候,右は兼而小笠原壱岐守. 1月14日,長崎奉行は,西役所から立山役所. 殿御差図之趣も有之,当番年之義二付,差向美濃. へ行政機構の移転を決定する。. 「長崎日記」に. 守殿方二而御取扱可有之候事. よれば,地役人は「‑例刻,西御役所‑出勤致. 長崎奉行は,外国貿易や行政実務の責任を,. 候処,今日立山御役所へ御引移之旨二両,諸道. 当番年にあたる筑前藩へ任せたのであった[長. 具等,迫々違ひ方致候」との命令を受ける。. 普. 崎日記(5). 段通りに出勤したら,引越しを命ぜられたの. 奉行は同日,各国嶺事にも手紙を差し出して. その後,地役人は,「然こ,夕刻二到り候 だ。. いる。. 両も,奉行衆引移之模様無之」を不審に思う。 肥筑両家ノ内へ土地相預ケ,‑ト先在勤ノ者引上. そして「夜二人,何となく働揺いたし,市中も. 候様可致旨兼テ命令モ有之候間,諸事右差図二随. 働揺之体二有之侯処,夜五ケ時頃より,いよい よ市中働揺致し候」という状況に至った。. ヒ致帰府,就テハ,以来貴国人民談判ノ義ハ,当 「夜. 番年二付筑前家二於テ差向候約ノ通取引且是迄取 扱候. 五つ時」とは,現在の夜8時頃である。 この1時間前に,支配向きへ「左之書付,奉. とあり,地役人と同様に,諸外国韻事へも,筑. 行衆被相渡候」という事があった。. 前藩の起用が伝えられた[枚方1979:141]。. この「左之. 書付」には. このように長崎奉行は,市中の各行政担当者. 当今不容易趣相聞侯二付,別紙之通,桧平美濃守,. や,外国韻事‑,奉行不在後に関する指示を下. 松平肥前守方へ相達し,在勤之支配向召連,‑I. しかし,この指示には,奉行がいつ長崎 した。.
(7) 166. を発つのか,全く言及されていなかった。 おそ. そして,自らは玉川楼で善後策を講ずる。. 深夜12時頃,高松が長崎奉行の脱走準備を知 らく,14日における奉行側の意図は引越しをカ モフラージュに,荷造りを行い,佐佐木らに気らせると,佐佐木は集められるだけの人間を率 乗り込んだ藩士は, いて西役所へ乗り込んだ。 づかれないよう,長崎を出奔する事にあったと 7時頃に「左之書付」を受け取った 思われる。. 佐佐木は,地役 水夫を合わせ30人程度である。. 人へ奉行衆の行方を質問したのだが,彼等は不 地役人も,同夜に出奔するとは考えていなかっ たようだ。. 在としか答えられなかった。 そこで,佐々木ら は地役人へ. 2‑4. 佐佐木高行の焦嘩. 夫は残念之儀二有之,引払後二侯ハヾ致方も無之 長崎奉行出奔直後の,西役所について「長崎 義,是迄は幕府之領地二有之候得共,最早此上は 日記」は. 朝廷之御領二候得は,皇国之御為当地鎮撫第一之. 義,此上は当地語合之諸藩申談,土地鎮静之儀片 一迫々,西御役所内及動揺奥表,在勤之組頭調時も速了鞍引行不申而は,朝延二不相済候 役其外役々何事も不手付様相見へ候処,九ツ時頃, と言い渡した。 つまり,長崎を朝廷が預かり, 奥向殊之外静二相成,何之間二欺,奉行衆始役々, 当地引私有之侯. その行政は,在留の各藩士と相談の上,執行す. 探夜12時頃,いつの間にか長崎奉行が と記す。. るとしたのである[長崎日記]。. 奉行は役所の退去時 いなくなったのである。. ここで,諸藩士を招集する事に決するが,地. その後, に,地役人へ何の連絡もしなかった。. 役人は「早々今晩中,談決致度旨,申聞候こ付,. 日記は,「詰合一同,奥向見廻り罷在候処,御 何分こも今晩中こは連も,引届兼不申旨相答 広間詰合之者共申間候者」とあり,奉行の去っ 候」と答え,協力を断った。 しかし,14日深夜 た役所を見廻る中,深夜にも拘らず誰かが訪ね から15日にかけて,続々と諸藩の藩士が集まっ 「只今,土佐之藩之趣二而,面会致度 て来た。. てきた。. 旨申間候」とあって,佐佐木高行に率いられた 八ツ時過頃,追々,肥筑西御役所へ,出動有之二 海援隊やその同志達が,西役所に現れた[長崎 付,夫々,火鉢等差出置,夫より,引続薩州大村 日記(6) 等出動,七ツ半時頃,筑前栗田貢より相談有之候 14日,佐佐木らは,奉行との臨戦態勢にあっ そこで, たため,街中の情報を収集していた。. は,当地詰合之聞役西役所出動有之候様,申達呉 候棟話二付,御当所詰同心,諸家蔵屋敷へ,只今. 御出動有之侯様申達ス,明方迄こ,懸ヲ追々向二 「下女が宿元から帰って来て,今朝以来奉行所 出動有之,夜中諸藩数人,西御役所へ相談,何れ も兵器携罷在候事 は立山役所の方へ移転すると云うて,諸道具を 運搬したが,長持の如きは,殊に軽く,丁度空 深夜2時過ぎにまず,佐賀,筑前両藩の藩士, 荷物のやうであると,人夫共が話して居るのを 続いて薩摩,大村などの藩士が西役所‑現れた 途中で闘いたといふ」という情報が入ってくる 藩士達の中には武装した者もお [津田1915:5711cこれを不審に思った佐佐木 [長崎日記]。 は,奉行所‑高松精一を内情探索に派遣した。り,役所内は,物々しい状況にあった。.
(8) 慶応四年の長崎鎮定と副島種臣. 167. 早朝5時頃,筑前藩士栗田貢が,各藩聞役の. 切る心積もりであろうと考えていた。. 招集を地役人へ命ずる。 これに地役人は従った. め,積極的に参加しない両藩へ,「尤モ怠惰ナ. ようだ。つまり,はじめに各藩邸へ連絡に廻っ. リ」と,佐佐木は不満を洩らす。. たのは,土佐藩士か同志であったのだろう。. 地. このた. しかし,この. 不満は,肥筑両藩を集議に参加させたい焦りで. 役人の多くは,当初奉行の指示に従っていた。. もあったようである。. 指示を出した栗田も,積極的に長崎行政を運営. 15日,佐佐木たちとは別に,筑前,佐賀,肥. しようとした模様である。. 後,平戸,唐津藩は会合を開いた。. 1月10日,奉行と面会した栗田は,奉行出奔. 藩は,長崎に強い影響力を持ち,また佐佐木ら. 後に関する評議を,直ぐに上役と行っていた。. から,旧幕府勢力の一員に見られていた。. 不容易事柄二付,一応国許伺之上可答儀二候得. 集まった諸. この. 会合では今後の方針が話し合われ,西役所に集 共,其内,時宜二依,奉行引払二相成他之手ヨリ,. 合した諸藩と協力し,長崎行政を執り行う事に. 場所講取候テハ,累年之請持場所,殊当番年二有. 決まる[長崎警衛記]。. 之候間,国雄こ相成候ト申合,貢ヨリ奉行出立二. 15日早朝にかけて,肥筑両藩は,西役所におい. つまり,14日深夜から. 相成候後ハ,引受可申旨申出候 て佐佐木へ明確な答えを示していなかった。 栗田は本藩の方針を考慮しつつも,長崎行政. 佐木は,絶大な兵力を要する2藩に大きな不安. を引き受ける事に積極的であった[長崎警衛. を抱いていたであろう(7). 佐. 記]。 佐佐木の回顧談では,外国勢力の脅威のみを. 2‑5.. 強調しているのだが,それ以前に諸藩を統合す. 翌1月15日,昨夜から引き続き,佐佐木高行. る必要があった。 少なからず,土佐藩と,筑前. と桧方正義が中心になって,諸藩士との間に連. 藩の間に衝突の可能性が内在しており,状況は. 絡が取られる。そして16日,西役所に諸藩士は. 非常に不透明であったといえる。. 集合し,今後の方針を話し合うこととなった。. 佐佐木は薩. 長崎行政の移行. 摩,土佐,大村,芸州などの,勤王討幕諸藩を. 当時,長崎在留の諸藩は,大体14,15藩あって,. 中心に,長崎行政を運営したかったであろう。. 佐賀藩からも,副島が重松善左衛門とともに集. 催促木は14日深夜からの状況について,. 議へ参加した。この時の内容は「手覚」に. 十四日の夜半頃ヨリ,各藩出崎ノ向々馳集,翌. 一,鎮台之儀勅令下迄之処,当今何方より無定,. 十五日中ニハ,悉皆集会セリ,当港ノ事ハ一番二 尽力スベキ月巴筑二藩ハ,尤モ怠惰ナリ,是ハ未ダ. 各藩より一人凡日々出動有之万端之計有之,尤 (判読不能) 大事件者,各藩集議之上□出相成候事之由,惣而. 両端ヲ持シテノ故ナラント,人々申合ヘリ,月巴前,. 麦元之振合,朝廷へ懸奏間候半不叶由二面各藩. 筑前両藩ノ公用人ハ,堀内慶助二答へテ云フ,本. 之内より誰ソ両三人惣代として罷登上候様相決候. 藩へ申達シ置キ候間,指図無之テヘ取締等ノ義相. 由,就而者,西洋各国へ関係いたし候付,長崎表. 調不申云々. 心得候人二候半而用向井兼候哉二両,尤佐々木 三四郎議進出,次郎殿罷登被呉庭中聞候由二而,. と記す[佐佐木1972b:52]c佐佐木は,肥前筑 前両藩が,「両端ヲ持シテ」いる,つまり,裏. 各藩より御談之筋二侯得共,何角,辞退仕様も無 之哉二而,承諾被致,将又,大村芸州よりも一人 ヅ、罷出候由二両,明十七日夏許出達相成等之由.
(9) 168. 集議の内容を, と記されている[長崎贈答]。. 変更されたのである[長崎日記]。. 下記に要約すると,. なぜ佐佐木は最初から,信頼を置く大村藩に. 預けなかったのか。 これは,16日の会議で佐佐 ・臨時的に長崎の業務は各藩から一人ずつ出し て行う。 ・大事は合議を必要とする。. 木が,主導権を積極的に行使できなかった事を 表している。 当初,佐賀藩や筑前藩の出方を. ・朝廷‑現状を奏間し,今後の方針を承る。 窺っていたためか,副島を推薦し,筑前藩の登 といったものであった。. 用を許容した。しかし17日には,長崎会議所の. 佐佐木は,朝廷‑奏上する藩士に,副島(次. 体制も在留の諸藩士に認定され,さらに会議所. 郎殿とは副島種臣の事)を「就両者,西洋各国 の印鑑,市中への会議所設置の発布も行われ ここで,佐佐木は,肥筑両藩の協力を確認 る。 へ関係いたし候付,長崎表心得候人二候半而, 佐佐 してはじめて主導権を発揮したのであった。 用向」に相応しい人物として,推薦した。 佐佐木は後年,長崎会議所の性格について, 木は,佐賀藩の態度に不満であったが,集議で 「翌日西役所を会議所と改称した。 これを問責し,排斥するという事はなかったよ. 表面合議と. 佐佐木が,早くから奉行所の動向を注視いうて,各藩士が交代して出勤の筈になって居 うだ。 し,奉行出奔後,西役所を手中に収めたのは前 るが,事実は決してさうでない。. さうして万事. 次に佐佐木は,長崎を勤王諸藩の下に 枚方と相談して極めて了へば,夫で善いのだ。 述した。 扮陽,楠本,揚井謙蔵,石津,井関拓は同志で 収めるため,影響力の大きい佐賀藩を取り込も 副島の推薦はこの一環であったといあるから相談もするが,他の者には別に相談し うとする。 えよう。. なくて済むのだ。 さうして自分が欠勤の日など. 事が起った場合は,皆下宿にやって来る。 さらに佐佐木の思惑を示す一つには,立山役 云はゞ盟主の様な塩梅だ」と語っている(8)r津 所の管理が,筑前藩から大村藩へ移行した点を あげられよう。. 田1915:5851c. 合議というのは,16日の初会合までの建前で 昼頃,立山御役所之儀,筑前家預りこ諸藩申談之 あって,17日以降は,佐佐木とその知己の諸藩 上欄決候旨,栗田貢より談二付,左侯ハヾ御引渡 可申旨返答致候. 士が行政を取り仕切ったのである。. 3. 長崎在留外国人との交渉 立山役所が諸藩士の合意で筑前藩預かりに 翌17日 なった。. 副島種臣は「経歴偶談」で「故に維新の事を. 各国嶺事に報告するには私よりするが宜しから 立山御役所,筑前家預り相成居候処,今日より大 うと云ふことを衆の勧めに依って,私が始めて 村家二両預り相成候,皆土佐藩佐々木三四郎より 外国人と談判をした」と回顧している。 申談二付,久左衛門昼後立山御役所江津出,筑前 家より講取,大村家‑引渡ス. 副島は,合議した上京日時を延期し,1月 17,18日,在留の各国韻事と談判(外交交渉). と記されている。 佐佐木の独断で大村預かりに. に臨んだ。この章では,特に英国と仏国との交. マア.
(10) 慶応四年の長崎鎮定と副島種臣. 169. 渉を考察したO仏国との交渉過程からは,貴も. 会議所との交渉に応じようとしなかった。. 初期の副島外交を垣間見ることができるだろ. 時期,仏国が旧幕府勢力に友好的であったの. う。. はいうまでもない。 慶応4年は,『ジャパン・. この. ディレクトリー』によると,レオン・デュリー 3‑1英国領事との談判. という人物が,長崎領事に登録されている[立. 英国領事との交渉は,応接書留として残って. 山和夫1996:251]c慶応2年から領事を務め,. おり,「長崎贈答」や,佐佐木[1972b:63‑67]. 慶応3年には,本国フランスの万国博覧会で徳. の参考に掲載されている。 おそらく長崎在留の. 川慶喜将軍の弟,徳川昭武を世話する等,旧幕. 各藩に回覧,複写されたものだろう。. 府方との関係を強めている。. 交渉者. ただ,慶応4年は. は,日本側が筑前栗田貢,肥前副島次郎(種. 賜暇で帰国しており,不在であった。. 臣),薩州枚方助左衛門(正義),土州債佐木. 日,肥筑両藩へ会見を申し込んだ書簡には「傭. 三四郎(高行)で,英国側がおそらく,代行領. 間士ジョーゼフレツク」という名が記されて. 事のMartinsFlowers等,他数名であった(9). いる[佐佐木1972b:67]c肥筑両藩との交渉も. 佐佐木によれば「桧方が同席したので,談判. この人物が行った。 どのような主張したのか. も至極都合よく進行したが,主には自分と枚方. は,後述するように,デュリー同様,旧幕府に. がやった」というもので,佐佐木,枚方が中心. 好意的であり,レオン・ロッシュ公使の意に. になって交渉を進めた[津田1915:602]c交渉. 沿ったもののようであった。. 内容に関して本稿では,番兵の件を言及する。 慶応4年1月の変動以来であろう,長崎の英. 仏国領事は,「肥筑両侯ヨリ,此地へ差越シ. 国商人が,居留地を独自に警備した。. 面会を希望した。 長崎会議所側は,佐賀藩士副. 政情に敏. 1月17. タル代人へ,拙者明日面会致度候」と,18日の. 感な在留藩士は,外国軍の介入を最も危供して. 島種臣,重松善左衛門,筑前藩士栗田貢が交渉. そこで長崎会議所にとっても,自国の治 いた。. に臨んだ(ll)。. 安維持に外国人を介入させる事は,行政上の重 大な欠陥であった。 神戸港のように占嶺状態と. 3‑3.. なる危険性さえあったろう(10)佐佐木は,土. 交渉では,仏国韻事が2つの点を拒否した。. 佐藩御用達であった英国商人オールトから,長. 1つは,長崎会議所の存在。. 崎の混乱収拾の如何に因っては,英米軍艦の介. ある。 関税に関して,肥筑藩藩士側から「税不. 入もあり得る,との忠告も受けていた[佐佐木. 収商法之公法有之や,承度,税納連ハ子細無. 1972b:55]cこのような事から,交渉では会議. 之,」と質問があって,仏回額事が「万国公法. 所側が,番兵の撤兵を強く要請し,領事は番兵. は,ヨウロツハノ法と,日本との違ひあるな. を撤収させた。. り,」と答える場面がある[長崎贈答]。. 対仏交渉の検証. もう1つが関税で. また,. 「経歴偶談」で副島は「商法をする積りならば 3‑2.. 仏国領事との談判. 一方,英国と外交方針が異なる仏国は,長崎. 必ず命を奉ぜらるべきである,と云ふ様な意味 で談判した」と回顧している。. このように,交.
(11) 170. 渉では万国公法や商法が言及されたのである。間1999b:4]。 長崎では,揮宣嘉が着任後,通 本節では万国公法を使って,交渉を検証し,両 詞の平井希昌に万国公法の翻訳を命じている 者の主張の正否について考察する。. [安岡1999b:5]c坂本と交流のあった佐佐木. ところで検証の前に,本節では肥筑両藩側の. も,万国公法の存在は知っていたであろう。. 交渉の中心人物が,副島であったと仮定する。 本節で検証に使用する万国法は,恵頓の解 これは,商法や万国公法に関する知識の有無を 釈した万国法である。 副島の回顧にあった丁 基準に推察したものである。 重松や栗田が万国. 違良とは,米国人のウイリアム・マーチン. 公法を学んだのかどうか,確認はでき. なかった. (William. A.P.Martin)の事である。 このマー. が,聞役という役職にあった2人が万国公法を チンの漠訳した万国公法が,米国人のウェ‑ト ま 学び,洋学に励む事ができたのであろうか。. ン(Wheaton,恵頓)が記したもので,当時,. た,佐々木高行は長崎に渡ってから日も浅く, 国際法として非常に有力なものであったようで 特に万国公法を学んだ記録を確認できない(12)ある[松本1994:74]c 副島は,慶応2年頃から,フルベッキの下で洋. この万国公法は,各国が交際する上での,権. 学に打ち込んでいたが. 利や権限,条約規定の一般的解釈等を詳説して. いるが,依っている判例は欧米諸国の事例で 今の洋学者とは大に違ってまだ万国公法と云ふ名 交渉で,仏国嶺事が「万国之公法は, を知ったか知らぬと云ふ位,私は維新前に当り長 あった。 崎に在りて米国人宣教師なるフルベツキ氏と云ふ ヨウロツハノ法と,日本との違ひあるなり」と 者から渡文翻訳の万国公法(北京同文館の教臥 発言したのも,日本をはじめアジア諸国に対し 米国法律博士丁違良民の漠訳せる者也とす)を贈 ては,欧米諸国の判例を適用し得ない,とする られたるが故に,慶応三年頃私は既に此書を概略 しかし万国公 意識が働いていたからであろう。 読で居った。 法は,問題となっていた交易の条項,「商議及 と回顧している[島2004:426]。 万国公法をす. ヒ約定ノ権利」の中で,アジア諸国と欧米諸国. でに読了し,また長崎において,万国公法を. を区別していない[恵頓1882:2651c. 知って居た者が少なかったと語っている。 この. そもそも仏国領事は万国公法に則った主張を. 万国公法第249条 ような事から,交渉を中心的に進めた人物は, 展開していたのであろうか。 万国公法を学び,商法に言及している副島が, の領事の権利に関して 最も有力であろう。 ただし,万国公法について付言すれば,慶応. 額事ハ視テ公使ト為サス,故二地方ノ法律習慣或 ハ盟約二因テ特権ヲ与フルト錐モ公法二於テ均シ 年間は国際公法への関心が,非常に高まってい ク公使ノ権利ヲ与フルモノニ非ス(中略)若シ不 慶応元年に帰国した西周は,『官版万国公 た。. 正不道ノ拳動アルトキハ,其免状(条約に従って. 法』『和蘭畢酒林氏万国公法』を出版し,坂本 本国より発行された駐在の免状筆者注)ヲ奪ヒ 駐ル所ノ国律二照ラシテ処罰シ,或ハ其国ノ便宜 龍馬や中岡慎太郎も,万国公法に言及している 二従テ其本国二送付ス,韻事ハ民事刑事共地方ノ [安岡1999a:46‑49]。 また藩校の科目や教科書 管轄二従ヒ其性質多国暫寓ノ民ト異ナル事ナシ [安 の一つに,万国公法は選ばれていたようだ。.
(12) 慶応四年の長崎鎮定と副島種臣. 171. と記す[恵頓1882:260‑1]c. シテ自ラ慶約二帰スルモノ,或ハ大変アルニ. 当時の日本は,関税を自主的に決定できない. 遇ヒテ約定ノ地位全ク変化シ勢ヒ行フ可カラ. が,万国公法の示す所では,領事も也断で関税. サルニ至テ自ラ慶約二帰スルモノ. の改正交渉はできない。 つまり,仏国債事が主. 副島らは,「大君之政府と申儀二無之大君. 張する納税の拒否は,一時的な関税の改正,更. は猶ミニストル之ものこ而,時二進退あるへ. には撤廃を示す。 国際関係上,常識的な嶺事の. し,長崎政府は則朝廷属之政省二而候得も. 権限を越えているといえよう。. の」と,発言した[長崎贈答]。. また交渉では,仏国領事が,「兵起時も,何. 行出奔によって業務が,諸藩合議の形式となっ. 方へ兵を起し候哉不相分候故,斯談なり,」と. ただけであって,条約が日仏間で変化し,廃的. か「商法を差留候と申事は大事件二候,時宜二. となるものではない,とする主張である。. 寄戦争にも及可申」と,軍事力を以て外交的圧. の4項目には抵触しておらず,長崎会議所も交. 力を加える場面がある[長崎贈答]。. この脅迫. に関して,万国公法第260条は 凡ソ文明国ノ通則二於テ,人民強迫ヲ以テ決スル. これは長崎奉. 渉相手として正当性があるといえよう。. 上記. 特に其. 二では,「国内政体の変革二因テ決約ノ地位全 ク変革シ,勢ヒ行フ可カラサルニ至リテ慶約ト. 所ノ約定ハ其事必ス無効二帰ス,凡テ約定ハ随意. ナルモノ」とあるが,朝廷が転覆し,長崎にお. 二取結フモノニ非サレハ得テ正釣ト為ス可カラス. いて交易が不可能になる程,混乱が生じたわけ. として,脅迫による条約の正当性を否定した. むしろ長崎会議所として諸藩は協力 ではない。 したのであった。. [恵頓1882:2781c. このように,副島ら日本側の主張は,国際法. 万国公法の「商議及ヒ約定ノ権利」の中では,. に照らして正当であった。. 長崎会議所の立場を支持する条項も存在する。. 中,上記引用の万回公法第275条を援用したの. 第275条だが,条文ではまず,有期の約定とし. かどうかは定かでない。 しかし,万国公法の要. て,和約同盟や通商航海を挙げ,これがどんな. 点を理解し,はっきりと意識して交渉に臨んで. 場合も将来必ず廃約すると定義し,その理由を. いた事は間違いないだろう。 その後交渉は,関. 4つ示した[恵頓1882:285‑7]c. 税を納めるか否かで問答を繰り返す。. 其‑約定ノ両国何レ欺亡ヒテ慶約二帰スルモノ. ただ,副島が交渉. しかし,. 肥筑側が「税は如何」と粘って,ついに仏国側. 其二国内政体ノ変革二因テ決約ノ地位全ク変革. が,「今晩出帆する故税納すへし」と主張を曲. シ勢ヒ行フ可カラサルニ至リテ慶約トナルモ. げたのであった。. ノ,然レトモ愛二国約ト君約トノ別アリ,国 約二属スルモノハ国君主宰ノ更易二拘ラス必 ス其国守ル可キノ約定ニシテ,毎二存亡ヲ国. こうして肥前,筑前両藩の代表は,仏国側が 主張した,長崎会議所の否定や関税の拒否を許. 君ト共ニスルモノナリ. さなかったのである。 そして,前掲の「経歴偶. 其三両国和ヲ失シテ戟ヲ起ス時慶約二帰スルモ. 談」で示したように,最終的には,神戸で公使. ノ然レトモ若シ務メ双方約定アリテ(後略) 其四約定ノ期限満チテ再議商定スルニ非サレハ 必ス厳約二帰スルモノ,戎ハ約定ノ事巳成就. と面会し決着した。.
(13) 172. この後,報告書は,仏国債事との交渉や,仏 4.副島種臣の役割と立場. 国と同乗して上京する予定が,領事が先に出発. 前述した仏回額事との外交交渉のほかに,副. してしまった事を記している。. 島はどのような役割を果していたのか。. そして重栓は. 長崎聞役,塞栓善左衛門が肥前佐賀本藩へ差 これは1月16日から18日 出した報告書がある。. 惣前断之次第,其件中越,御差図之上取計侯儀, 当然二御坐候処,当今之儀不依何事,各藩決議之. 以下「長崎贈答」より の状況を概括している。. 上,速二取計候半而不叶場合二付,何分,其件伺. 引用した。. 越候間合無之,無拠愛元限取計為申儀御坐侯,. 一昨十六日,両御役所各藩会議席,毎事,談決之 と,今回の長崎会議所参加並びに,副島種臣の 書取等,其場写取候半而不相叶,且は同所へ日々 出方いたし候通,各藩申合相成候得共,地行御用起用に関して,速やかな判断を要する情勢にあ 多半,何分私一人こて不相任所より,無拠手代一り,止むを得ない事だったと報告した。 人,名前相弘メ置候半両は差支可中二付,副嶋次 長崎において,副島は,致遠館の舎長であり, 郎,右之名目二而同道可致旨(後略) 聞役の手伝いに過ぎなかった。 丸山の言うとお 重松は,副島を聞役の助手として,会議に出. り「一介の書生」であった。 しかし一方で,外. 席させたと報告し,更に. 交交渉を行い,長崎会議所の代表的立場として. 上京した。 副島は佐賀藩の立場を左右する微妙 次郎同道いたし侯処,当地外国人取締向之儀,朝 な問題に関わったわけだが,会議所に協力し, 廷御深案之節も可被為在二付,早速誰力三四人罷 越,現地之振合一刻も申上候方可然談決有之,右上京を決めた点から,討幕諸藩に加わったもの 人柄之儀御両家より一人,今三人は各藩より被差 ともいえよう。 出候方当然之儀と衆評相成候処,筑藩之内人柄無 之旨,彼聞役より被申聞候付,私こも同様中断候終わりに 処,土藩より次郎兼而,外国人之振合案内之儀二 付,差越呉候様私へ相談有之,各藩より同様頼談長崎奉行出奔後,佐佐木高行が佐賀藩や筑前 相成候付,再応相断侯得共,当節之一条,是非御 藩の動向を,非常に注視していた事は前述し 両家より一人被差趨候様,重畳頼談有之候付,不 はたして,薩長土藩の力だけで,諸藩士を た。 得止事其通可取計(後略) まとめ,長崎会議所を設立し得たであろうか。 「御両家」とは,肥筑両藩である。 と,記した。. 長崎会議所に対し,聞役の重桧善左衛門や栗田. 前述したように副島は,上京を推薦されたのだ 貢は非協力的で,慎重な姿勢を崩さなかった。 が,会議上では,肥筑両藩とも当初,藩士派遣. このような中で,土佐,薩摩主導の会議所運営. そこを佐佐木が強いて,副島‑要請 を断った。. を進めるため,佐佐木やその同志達は,副島種. 重桧も,再三辞退するものの,結局, したのだ。. 殊に副 臣を利用し,また頼みとしたのである。. 藩の判断を待たずに,これを承諾する。 なお,. 島は,佐佐木や松方正義では解決し得ないであ. 上京する藩士は,薩摩藩士沖直次郎,芸州藩士 ろう,筑前藩と土佐藩の衝突,外国韻事の専横, 石津蔵六,大村藩士常井邦衛であった。. といった問題を防ぐ上で,非常に大きな役割を.
(14) 慶応四年の長崎鎮定と副島種臣 担ったのである。 〔投稿受理日2007.. 173. (10)明治元年(慶応4年)正月11日,神戸において, ll. 24/掲載決定日2007. ll. 29〕. 注. 岡山藩家老日置帯刀の部隊と外国人部隊が衝突し た。 翌12日外国側が報復として神戸港内の諸藩の 艦船を抑留し,更に居留地を軍事的に占嶺したの. (1)長崎における佐賀藩の英学施設は,後に蕃学稽. である[国史1985:515]a. 古所,致遠館と名称を変える。. (ll)長崎会議所は1月16日に各国額事へ,行政の移 管を通達している。 これを踏まえた上で,肥筑両. 副島は,慶応3年. 初代舎長に就任している。 (2)副島は慶応3年3月以降も長崎へ出ている。. 『保. 藩を指名したのである。. 古飛呂比』には8月に佐佐木と,また鍋島家文庫. 02)交渉の後半に佐佐木高行が加わる。. 「官私票占心録」では同年11月フルベッキとの会談が. 慶応3年,後藤象二郎と共に英国との外交交渉. 確認できる。. にあたった経験を持つ。 しかし,この時はほとん. (3)沖直次郎は後に長崎会議所からの上京団に選出. ど後藤が対応し,佐佐木は参加しなかった[津田. された人物。 慶応4年1月時も長崎に滞在してい. 1915:447]。. 佐佐木は,. た。 (4)日記は後世に筆写されたものである。 原本の所. 参考文献. 在,執筆者,写筆者は不明。. 維新史料編纂事務局1938.. (5)当番年とは,肥筑両藩が1年交代で外国からの. 維新史料編纂事務局640p. 長崎防衛に当っていたことを指す0. 恵頓著大築地蔵訳1882.. 佐賀藩は寛永. 『維新史料綱要』巻8 『万国公法』司法省. 19年(1644)からこの任に就いた。 引用中に「右は兼而小笠原壱岐守殿,御差図之. 669p 黒田長知家記「長崎警衛記」東京大学史料編纂所デー. 趣も有之」という箇所がある。. タベース. 奉行河津伊豆守の. 行動が後年,長崎会議所側から遁走ないし,脱走. 『薩藩海軍史』下巻原書. と言われた。 奉行が,戦争の不利から,出奔を前. 公爵島津家編纂所1918. 房1239p. 提としていた点で確かに過言だろう。. 国史大辞典編集委員会『国史大辞典』巻5吉川弘. ただもし,. 避難が予め決まっており,何らかの緊急処置が,. 文館1018p. 小笠原長行との間で準備してあったなら,「遁走」. 催促木高行著1972a. 『保古飛呂比佐佐木高行日 記』巻2東京大学出版646p. という一言で片付けられない面もある.. しかし,. この判断に関して,河津伊豆守が小笠原と相談し た形跡を,管見の限りでは確認していない。 (6)正月14日深夜西役所に乗り込んだ藩士は以下の 人物であった。 佐佐木三四郎・野崎伝太・深尾春. 蝣1972b. 『保古飛呂比佐佐木高行日記』巻3 東京大学出版合426p 島善高編2004.. 『副島種臣全集』巻2慧文社. 吉・依田小平太・堀内慶助・橋本喜之助,海援隊. 495p 立脇和夫19弧『ジャパン・ディレクトリー幕末. 越前藩大山壮太郎,土佐人菅野覚兵衛・吉井源馬・. 明治在日外国人・機関名鑑』巻1ゆまに書房. 野村辰太郎,越前藩三上三郎,土佐人間雄之助,. 太政官編1930『復古記』第1冊内外書籍802pp. 越前藩山本洪堂長府藩安野某,橡州人佐野高次,. 津田茂麿編1915. 『勤王秘史佐佐木老僕昔日置』. 水夫20人[佐佐木1972:31‑2]. 国光社704p. (7)長崎における薩摩,土佐両藩の兵力は海援隊が. 外山幹夫1993. 『もう一つの維新史一長崎・大村藩. 中心で,総勢で50にも満たなかった。 (8)揚井ではなく,楊井謙蔵. の場合‑』新潮社254p 中野檀四郎1920. 『鍋島直正公停第3編』侯爵鍋島. (9)英国韻事宛の宛名が[佐佐木1972:58‑9]では. 家編纂所600p. 「マルキス7‑ウル」とか「アルキスフロウル」と. 長崎市役所1937. 『長崎市史地誌編名勝旧跡部』長. ある。 『ジャパン・ディレクトリー』に,1867年(慶 応3年)からの代行額事として,その名を確認で. 崎市役所1061p. きる。. 図書館蔵. 鍋島家文庫a谷口藍田著『藍田先生日暦』佐賀県立.
(15) 174. ‑ら「長崎日記」佐賀県立図書館蔵 ‑C「長崎贈答」佐賀県立図書館蔵 平尾道雄著1941. 『海援隊始末記』大道書房371p 松井保男1978a. 「幕末維新期の渡辺昇(そのI) 一渡辺家所蔵『自伝』を中心に‑」『大村史談』 l‑14pp 「新政府就官前後の渡辺昇(‑)神戸事 1981b. 件から浦上四番崩れまで」『大村史談』19‑28pp 枚方峰雄(他)編集1979. 『松方正義関係文書』巻 1東洋研究所486p 松本健一1994. 「日本及び日本人[世界へのまなざ し‑『万国公法』をめぐって‑]」『日本及び日本人』 通巻16195号74‑82p 丸山幹治1936『副島種臣伯』大日社358p 3「日本における万国公法の受容 安岡昭男1999a. と適用」『東アジア近代史』第2号45‑64pp 7「慶応・明治初期の万国公法 安岡昭男1999b. 点描」『日本古書通信』第840号日本古書通信社 4‑5pp.
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